緑の記憶に溺れる。漠然とした不安があった。もし、明日にでも雨が降ったら、自分がどんな風に取り乱してしまうのか。 意識が上向いていく。混濁した意識の中、光を求めてゆっくりと開いた目には白い空間が映った。 (ここ……) ゆっくりと上体を起こす。ツキリと痛む頭を押さえながらきょろきょろと周りを見渡す。三蔵の寝室のようだ。無意識に抱き寄せたシーツに三蔵の煙草の匂いを感じて、ほっと肩から力を抜いた。背中は妙にじっとりとしていて気持ちが悪い。 最近、見ないようになっていた夢を見た。悪夢と言っていいのかも解らない。怖い夢ではない。しかし何と言っていいのか分からない。言葉にするとすれば、気持ちの悪い夢。暗くて寒くて、冷たい雨の中で夢の中の自分は後ろを振り返り振り返り必死に逃げ惑う。何から逃げているのかも分からない。足を止めても何の問題もないのかも知れないけれど、しかし夢の中の自分はそんなことも考えられずに一生懸命に何かから逃げていた。どこからか自分を呼ぶ声がして、だけどそれがどこから叫ばれているのか分からない。しかし必死にその声を辿って逃げる。何が自分を追っている? ここはどうしてこんなに平和なのだろう。 ゆっくりと頭に手を伸ばす。その手にふわりとした獣の毛が触れて、思わず驚き手を引いた。そしてそんな自分に笑って、ゆっくりともう一度頭に手を伸ばしてみた。やわらかな耳が、指が触れる度にヒクリと揺れる。自分で触っても少しぞわぞわとする。思いのほか敏感な部位なのだ。三蔵に触れられた時も悟浄に触れられた時も、本当は逃げ出したくなるくらいにむず痒くぞくぞくしてしまったのだけれど、逃げ出したりしたらおかしく思われるだろうと思い、必死に耐えていたのだった。人間にあるはずのない部位が頭に付いていて、それには自分の神経と血管が流れている。どんな猫のものか分かりもしないそれが、自分の頭部に根を張っている。普通ならあるはずの恐怖や不快感もすっかり自分に馴染んでしまっている。ふかふか、とやわらかい感触を自分で味わい、一人ぞわぞわと身体を震わせた。 三蔵の家に迎えられてから、既に一週間が経っていた。 「何かやりたいことはないか」 と、その日の朝食後、三蔵が言った。咄嗟にその意図が読み取れなくて、ゴノウは目を瞬かせるばかりだった。 「やりたいこと……ですか?」 「外にはあまり出してはやれないが、本が読みたいとか、そういうことなら叶えられるだろう。何でも言え」 布巾で口元を拭きながらそう言われ、ゴノウは両手をちょこんとテーブルに載せたまま、仔猫そのもののように小首を傾げて三蔵を見上げた。 「特に、は」 そう言うと、三蔵は少しだけ渋い顔をした。だって仕方がない。三蔵の家には書庫にしてある部屋があり、そこには興味深い本が沢山置いてあった。昔少しだけ文字は教わったし、分からない文字があれば辞書を引けばどうにかなった。そうしてぐんぐん知識を吸収していっているゴノウは、段々とその書庫の本を制覇しようとし始めているのだ。よって、まだ本には困っていない。三蔵もそのことは分かっていたのだろう、「そりゃあそうだろうな」と苦笑した。 「……あの、ごめんなさい」 「謝ることじゃねえ。ただ、お前が暇じゃないかと思っただけだ」 平日の日中と言えば、最近は本ばかり読んでいる。外には出られないので買い物が出来ないゴノウは、買い物のメモを作って三蔵に朝手渡す。そうすると三蔵が仕事帰りにメモ通りの買い物をしてきてくれるのだ。だから、前日に三蔵が買ってきてくれた食材でゆっくりと夕飯の用意をする。基本的に昼食は摂らない。外に出て歩き回ったりしないため、そもそも昼食を摂るほどにエネルギーを消費しないのだ。 三蔵の着替えを手伝い、出掛けるのを見送ってから、コーヒーを飲んで朝のニュース番組を見る。時々しっぽの毛をブラッシングしたりしながら休み、その後家の掃除をする。それが終わると本を読み始め、昼が過ぎ始めると料理を始める。そして三蔵が帰ってくるまでまたニュースや教養番組を見て過ごす。そんな一週間を送っていた。 「お前を雇うとは言ったが、これじゃまるで主婦だな」 「……でも、大丈夫です。本も楽しいし……」 そう言い募るゴノウをじっと正面から見ていた三蔵は、少し考えるような仕草を見せた後に、ぽつりと呟いた。 「お前、今幾つだ」 「え? 十五、ですが」 「俺の従兄に弟がいて、十五歳で中学校に通ってる。話し相手が欲しくなったら言え。……あれは多少頭が足らんが」 そう言って三蔵は遠くを見るような目をして、手探りで拾い上げた煙草にライターで火を着けた。従兄の弟、とはつまり従弟ではないのだろうか、と心の中で思ったが、何か色々と問題があるのだろうとその疑問は昇華させて、ゴノウはこくりと頷いた。頷いたものの、実はまだ他の誰かと話をするのは怖かった。ゴノウが話をした相手といえば、焔と三蔵、そしてこの一週間で出会った悟浄や光明だ。この所そうやって今までに会ったことのないほどの人と接しているため、精神的にかなり疲労していた。きっと悪夢もそのせいだろう。元々自分は社交的なタイプではない。人との関わりが好きではない。だから沢山の人と接すると疲れてしまうのだ。この不調もきっとそのせい。 『今日は昼前まで晴れ、午後は所により俄か雨が降る模様です』 つけっ放しだった朝のニュース番組、気象予報士のその言葉が、何だかやけに大きく頭に響いた。 三蔵が着替える横に控え、ネクタイやネクタイピンを手渡したりしながら、時々ゴノウは窓から外を窺っていた。外は綺麗な快晴だ。なのに、午後になれば俄か雨が降るという。恐らくその時自分はこの家に一人。この家には自分を傷付けうる物が幾らでもある。剃刀、包丁、硝子や鏡、その気になれば三蔵のそのネクタイやネクタイピンだって凶器になりうる。否、この部屋に家具の一つもなかったとしても、死ぬことは出来るのだ。死んでどうなる、生きて何になる。自分を苛む二つの言葉に、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。ゴノウの頭を軽く撫でてから家を出ていく三蔵を見送りながらも、意識は別の方へと向いていた。 嫌いなものというのは、無意識に身体が拒否反応を起こすものである。屋内にいるというのに、ゴノウは雨の気配を過敏に感じ取っていた。窓も開けていない。それでも、ひたひたと忍び寄る気配は確実にゴノウの神経を蝕んでいく。 (来る) 三蔵が出掛けてしまってから昼近く、リビングのソファに腰掛けて、窓に背を向けて本を読んでいたゴノウは、ゾクリと背を震わせた。迫るものを感じたのだ。バッと本を取り落としながらも振り返ると、先程まで燦々と差し込んできていた日の光は既になく、抜けんばかりの蒼はすべて灰の雲に覆い隠されてしまっていた。重苦しい空は涙を零し始め、テラスの床を少しずつ濡らしていった。吐き気が襲う。取り落とした本もそのままに、ゴノウは慌ててリビングを出た。縺れる足で何とか三蔵の寝室まで走り、ドアを乱暴に開けて中に入った。そしてベッドの中へと飛び込んで、煙草と香水の混じったような匂いのする布団を頭から被った。雨の日特有の湿り気を帯びた空気と匂いが遮断されて少しだけほっとする。柔らかなシーツに頬を寄せて、鼻を鳴らす。三蔵の匂いが少しだけして、安堵すると共に少しだけどきどきした。何かに……温かい両腕に抱きしめられているようで。 そうだ。抱きしめてくれる腕。ゴノウは目を開いた。細い腕だった。三蔵とは少し違う煙草の匂いのする腕だった。何かに怯えてばかりいる生活だったけれど、その人がこっそり会いに来てくれることだけが自分と彼女の心の支えだった。あまり大きな物は持ってこられなかったけれど、時々飴玉やチョコレートをこっそり渡してくれた。あの人は、一体誰だっただろう。優しい笑顔と煙草の匂いと、華奢な長身。昔、自分と彼女にとって唯一安堵出来る存在だったはずのその人の顔が全く思い出せないことに絶望した。そしてその絶望に更に追い討ちが掛かる。 「……かなん……?」 胸の奥が凍り付いたような気分になった。彼女の顔が、靄が掛かったようにぼんやりしたまま晴れないのだ。目は自分と同じ緑で、肌が白くて、髪は蜂蜜色をしていて。特徴は思い出せるのに、はっきりとした映像で思い出せない。片時も忘れたことのなかった彼女の笑顔が、段々と欠けてきているのだ。あの人も、彼女も、自分を大切にしてくれた数少ない人を忘れ始めてきている。まさか、こんなに記憶力がないはずはない。どうしてだ。猫と合成されたことによって、人間としての脳の機能が減退したのだろうか。猫と同じレベルの能力しかなくなってしまっているということなのだろうか。その証拠に、あの人の名前すら思い出せない。ずっと会わずにいればそのうち焔や悟浄、光明のこともさっぱり忘れてしまうのだろう。過去の辛いことを忘れるのと共に、大切な記憶も一緒に消えてしまうのだろうか。 (どうしよう、花喃、どうしたら) 彼女が必死で自分の手を引いて逃げた理由は、研究所に連れて来られて暫くしてから何となく分かってきた。自分はどこかに売られる予定だったのだ。それを知った彼女が、自分を守るためにあんな寒い季節に、自分の命が危うくなることを承知の上で脱走を図った。粗末な倉庫とはいえ、雨曝しでいるより遥かに暖かいことは間違いないのだから。 自分の命を犠牲にしてまで守った相手が自分のことをすっかり忘れてしまっただなんて、彼女が知ったらどう思うだろう。なくしたくない。自分の記憶から消えたら、本当に彼女はこの世に存在しなかったことになってしまう。彼女の生きた証は自分の中にしかないのだ。 焔に訊かなければ。このまま自分の記憶はなくなる一方なのか。これから彼女のことは忘れてしまうのか。もうあの人のことは思い出せないのか。忘れたくない人がいる。写真の一つも残っていない。名前も思い出せない。自分の記憶だけが頼りなのに。 三蔵の匂いだけが自分の周りを囲む布団の中でじっと耳を塞ぎながら目を瞑っていた。 (思い出さないといけない、のに……) 家の人に内緒で渡してくれたレモンの飴。甘いチョコレート。傷薬。そういえばいつも制服を着ていた。自分たちが八、九歳の頃に制服を着ていたのだから二歳以上は年上だったのだろう。頭の中であの人が笑っている。いつも優しく抱きしめてくれた細い腕を思い出したら、どうしようもなく泣きたくなった。そして不意に、あの頃に戻りたくなった。たとえそれが粗末な住まいでも、虐げられたとしても、あの人たちのいたあの頃に。 いつものようにドアを開け、家の中に入った三蔵は妙に家の中が静まり返っていることに気付いた。いつもなら夕食の準備をしているはずの彼の姿は台所にはなく、匂いもしない。時計が指すのはいつもより少し早い時間だ。そのせいだろうか。今日は少し嫌な予感がして早めに会社を出たのだ。ゴノウは無事でいるだろうか。リビングを覗き、トイレ、浴室を覗いて回る。しかし見当らず、最後につい先日で来たばかりのゴノウの部屋をノックした。 「……ゴノウ、いるのか?」 ノックにも呼びかけにも反応はなく、訝しく思った三蔵は、そのままドアノブを捻ってドアを少しだけ開いた。まだ布団一式しか置かれていないゴノウの部屋には誰がいる気配も無かった。布団もきちんと畳まれたまま置かれている。とりあえず一旦部屋に入って誰もいないのを確認してから部屋を出て、ドアを閉めた。あと、残るは三蔵の私室だけだ。しかしゴノウが日中三蔵の私室に入り込むことはない。不審に思いながらも、着替えもしなければならないため私室へと向かった。そしてドアを開けてすぐ、違和感に気付いた。三蔵のベッドの真ん中がぽっこりと膨らんでいる。そして規則的にその膨らみは上下していた。 音で驚かせないように静かにドアを閉め、足音を立てないようにベッドへ歩み寄る。そしてそっと上掛け布団を捲ってみた。そこには黒髪の後頭部に、時折ぴくんと揺れる獣の耳。静かに顔を覗き込んでみると、瞼を伏せて静かに寝息を立てている。ゴノウだった。横向きになって体を丸め、小さくなって眠っている。 今日は雨が降った。天気予報がテレビに映し出された時に彼の表情が曇ったことにも気付いていた。だから不安で、少し早く帰ってきたのだが。そっとゴノウの頭を撫でて、三蔵は上着を脱ぎネクタイを椅子の背凭れに引っ掛けた。そして再び音を立てないようにそっとドアを開けて寝室を出ていった。 リビングに戻ってみると、ゴノウのいつも座っている一人掛けのソファの下に本が一冊落ちているのが見えた。開いたまま引っくり返されたような形になっていて、中の一ページに折れ目が付いてしまっている。その折れ目を軽く直して本を閉じた。やはり、日中とはいえ家に一人ぼっちは淋しいのかもしれない。しかしゴノウにとって付き合い辛い人間であっては彼が精神力をすり減らすだけだ。 三蔵はダイニングテーブルに置いた鞄を開け、中から携帯電話を取り出した。そして電話帳の画面で、滅多に電話をすることのない人物のページを開く。 なるべくなら話をしたくない相手だ。暫く画面を見詰めたままじっとしていた三蔵は、諦めたように目を瞑って携帯電話を閉じ、それを手にしたまま台所へ入った。そして冷蔵庫を覗き込み、中から肉や野菜などを引っ張り出してキッチンに立つ。フライパンをコンロに掛け、火を着けてから思い立ったように再び携帯電話を開いた。そして今度は先ほどとは違う人物のメモリーを開いて、通話ボタンを押した。 夕飯の料理を終えた頃、小さくドアを閉めるような音がしたのに気付いた。布巾で手を拭いてから廊下に出ると、どこか不安げな顔をしたゴノウが寝室から顔を出しているのが見えた。その顔は三蔵を見つけて一瞬綻んだものの、すぐに叱られた子供のようにしゅんとした。慌てて近付いてゴノウの頭を撫でてやると、彼は寝起きの少し掠れた声で「ごめんなさい」と呟いた。 「どうして謝る?」 「あの、勝手に寝室に入っちゃって……それに、ご飯も作れなくて」 ちらりと台所に目を向けたゴノウは、そう言って再び謝り、頭を下げた。 「……飯のことは気にするな。簡単に作った。寝室のことも……今日は雨が降ったから、何かあるんじゃないかとは思ってた」 そう言って再び頭を撫でて、彼の肩に手を回してダイニングテーブルへと促した。そして椅子に座らせてから夕飯の配膳を始める。ゴノウのように毎日メニューを替えて尚且つ凝ったものを作るなんてことはとても出来はしないが、そこそこ食べられるものなら作ることが出来る。今日は手早く作ることの出来るミートソースである。先にサラダとお茶を出し、ゴノウが茶に手をつけているうちにパスタを茹でる。台所から、湯飲みを手にしてじっと俯いているゴノウの様子を窺う。湯飲みを見下ろすその目は暗い色を浮かべ、いつも明るく輝くエメラルドが濁った沼の底のようだった。 「……ほら、出来たぞ」 「あ……ありがとうございます」 パセリと粉チーズを少し散らしてから彼の前に皿を差し出す。湯飲みを置いてフォークとスプーンを手に取ったゴノウの目には先程の濁りはなく、安堵すると共に少しだけがっかりしたような気分にもなった。あの深く濁った瞳を覗き込めば、何か今まで分からなかったことを知ることが出来るのではないかと思っていたのだ。スプーンを片手に、くるくるとフォークにパスタを巻き付けていくゴノウを見つめながら頬杖をついた。顔が僅かに青白い。一日中ベッドの中で何を思っていたのか訊ねてみたかったが、訊いてもいいのか分からない。 「……ゴノウ」 「はい?」 口で咀嚼していたパスタを飲み込んでから、ゴノウは少しだけ首を傾げて三蔵を見つめた。濡れた眸が美しい。翠の鉱石が不思議そうに瞬くのを眺めながら、三蔵は何と表していいのか分からない心を言葉にしようと頭を巡らせた。 「……平気だったか」 結局出て来たのはその一言だけだった。自分の口下手さにがっかりしていると、フォークとスプーンを持った両手をテーブルについてじっと三蔵を見ていたゴノウは、徐々に相好を崩した。そして少しだけくすぐったげに笑って俯いた。 「さんぞうは、優しいですね」 そう言って、嬉しそうにゴノウは顔を上げた。その視線がくすぐったくてつい顔を逸らすと、ゴノウはますます楽しそうに微笑んだ。しかしその表情はすぐに、深く沈み込んだように暗くなる。そしていつか見た、妙に大人びた影が浮かんでいた。 「……怖いんです。忘れちゃならないことを、忘れそうで」 「忘れちゃならないこと?」 「それが、もう今既に……あまり思い出せなくなってきてるんです。忘れちゃいけない人が二人いるのに、片方は顔を思い出せなくて、もう片方は顔も名前も、声も思い出せないんです。……絶対になくしてはいけない記憶だっていうことは分かるのに!」 「分かった、落ち着け!」 切羽詰まった様子で声を荒げるゴノウに不審なものを感じて、三蔵はそれを制止する。その声に動きを止めたゴノウはしゅんとして俯いてしまった。それを見てそっと立ち上がった三蔵は、ゴノウの手からフォークとスプーンを下ろさせて、彼を連れてリビングのソファへと向かった。大人しくついてくるゴノウを先にソファに座らせて、その隣に腰掛ける。 「その、忘れちゃいけない二人、というのは……誰なんだ。話せる範囲でいい、話してくれ」 三蔵の、珍しく歯切れの悪い問い掛けに、ゴノウは少しだけ表情を曇らせて、戸惑うように俯いた。暫く口を開いたり閉じたり、躊躇っている様子だったゴノウは漸く顔を上げ、小さな声で話し始めた。 「……片方は、姉です。もう一人は……顔も名前も、声も、自分とどんな関係があったのかも……思い出せないんです」 「思い出せない?」 「だけど、いつも優しく抱き締めてくれたのを覚えてるんです。たった一人だけ、僕と“かなん”に親切にしてくれて……」 (かなん?) 疑問は残ったが、今問い返しては彼が話す気をなくすかもしれない。そう思い、三蔵は口を噤んだ。そして俯いたまま苦しげに顔を顰めるゴノウの背中をそっと擦る。背を丸めて頭を抱えるゴノウは、苦しげに息を吐いた。そして、ぽつりと思い出したように呟いた。 「二人とも……二人だけが、僕に生きて欲しいと望んでくれた」 そう低い声で呟いたきり、ゴノウは黙り込んでしまった。ひょっとして泣いているだろうかと不安になり、身体を屈めて顔を覗き込む。三蔵は思わず息を呑んだ。その幼い眸は強い執念にぎらつき、じっと壁を睨みつけていた。その白い壁に、彼は何を見ているのだろうか。その憎悪の向かう先は何だろう。勿論彼の幸せを奪ったものにだろうが。 ゴノウの幸せを奪ったものは何だろうか。今も帰らない子供を探そうともしていない親たちだろうか。幾らなんでももう六年経っているのだ。届けが出ていてもおかしくない。……尤も、研究所が警察に手を回してそれを消している可能性もなくはないが。 それとも、研究所だろうか。生身の人間と動物を合成させるという残虐な真似を呆気なくやってのけたのだ。しかしそれには焔も含まれる。ゴノウが焔を嫌うはずがないと思うと同時に、自分をあんな目に遭わせた組織の一員である焔を全く嫌わずにいられるのだろうかという疑念もある。きっとゴノウはその全てを恨んでいて、しかしそれを表に出そうとはしない。心の奥深くで燃え続ける憎悪の火は消えることはないだろう。 その二人はまだ生きているだろうか。その二人がいる場所にならば、ゴノウは帰りたいと願うだろうか。 ここで一章は大体終了です。短くってすみません。 2007/05/13 |