もう少し僕が大人だったら、君を救うことが出来ただろうか。









 雨が強い日だったね。

 君が僕の手を引いて走る顔は必死で、何が何だか解らない僕まで、何かが背後から迫ってくるような気がして怖かったんだ。
 花喃。
 あの頃の僕は、君のその名前さえ漢字で書けないほどに幼くて、身長も君の方が僅かに大きかった。雨が強くて、前が見えなくて、だけど君だけは見えていた。それなのに僕は、君が走ってはいけない身体だということをすっかり記憶の彼方に追いやってしまっていた。どうしてあの時気付いて、止めてあげられなかったんだろう。

『かなん……? どこに』
『逃げるの、早く!』

 僅かしかない服を着込んで、こっそり家の靴箱から靴を盗んで、音が響かないように気を付けてガラスの窓を二人で割って、雨の中を駆け出した。花喃の白いシャツも、僕の黒いシャツも濡れて身体にへばり付いていた。急な雨の中、傘をさして家路を急ぐ人と何度も擦れ違ったけれど、誰も僕たちのことなんて見ようともしなかった。

『かなん、どこにいくの?』
『うちの人が誰もこられないところまで! すれちがった人と目をあわせちゃだめよ!』

 それは、目を見られてしまったら不味いから。僕と君の目はお揃いの、そして家の者から忌み嫌われ、疎まれる翠の眸だった。決して家系に混じり込んではならなかった色。

 異端として迫害されて二人で過ごした日々を、忘れることはない。

 僕は生まれてから、家の外に出た記憶がなかった。だから、花喃に手を引かれて出た外が初めてで、雨に打たれることも初めてだった。走っている途中、荒い息を吐いて時折立ち止まる君に、やっと僕が気付く。だけど、それが遅すぎたんだろう。

『かなん、あんまりはしっちゃだめだよ、ちょっと休もう?』

 そして、走る先に見えた建物を指差して君を促すと、弱々しく笑ったね。そこが自分の最期の場所になると、もう分かっていた?

 そこは教会で、一度も来たことはなかったけれど当時信仰していた宗教の場所だということは知っていた。いつからか二人揃いで持っていた十字架は、誰かに見つかればすぐに捨てられてしまうと無意識の内に知っていたから、二人必死に隠していた。




『一度でいいから、太陽の下であなたの目を見てみたかったの』
『かなん』
『誰に疎まれてもよかった、あなたと生きられるならそんなの、なんでもなかったのよ』

 ぎゅっと握られた手はものすごく熱くて、元々体が弱くて、前日から咳の止まらなかった君が熱を出し始めているのを知ったんだ。そんなの、あの家にある薬を一錠飲めばすぐに治ってしまうものだって知っていたけれど、薬なんて与えてもらえるはずがなかったから、どちらかが風邪を引いたときには一生懸命に身体を温めてあげることしか出来なくて。
 元々、少しの服しか与えられていなかったから、たとえ雨に濡れていなくても寒かっただろう。お古のシャツやスカートは汚かったけれど、君が着ればそれだけであの家の誰よりも綺麗に見えたんだ。
 教会の中の蝋燭が揺れて、その光が大きな君の目に映り込んでいた。僕が君の前髪を退かして目を覗き込むと、少し恥ずかしそうに笑っていた。それは姉でも何でもなく、ただ一人の女の子で、あの時の僕は何も言うことが出来なかった。

 ゆっくり僕に凭れかかって来た身体が熱くて、だけど触れていない部分は雨に濡れて冷たかった。

『今度うまれかわったら、姉弟じゃないといいな』
『え? ……どうして?』
『他人だったら結婚できるでしょ』
『……』
『もしうまれかわったら、お嫁さんにしてくれる?』

 その身体の熱さや表情で、君の命がもう長くないことを無意識の内に解っていたんだ。そんな君がそんな風に嬉しそうに、いつもと同じように言うから、僕は何度も何度も頷くことしか出来なくて。熱でもう朦朧としていたであろう君は、それでも笑っていた。

『……ほんとうは、お嫁さんになれなくてもいいの』
『え?』
『結婚できなくてもね、あの家でいじめられてばっかりでもね、……と一緒なら、どうでもよくて』

 そこまで言って、苦しそうに咽た君の背中を擦ると、そのまま丸くなって君は僕の胸に身体を寄せた。もう長くなかった。

『死んじゃだめだよ、ねえ、かなん、……』
『……死なないよ、ずっといっしょにいるから、心配しなくてもいいの』
『かなん!』
『ずっといっしょだから、泣かないで。笑って。あなたが笑った顔、好きなの』

 その時、どうして嘘でも笑ってあげられなかったんだろう。




 君は、そんなに強い子じゃなかったのに、頼りない僕のために、弱い心を押し殺していつだって“姉”でいてくれた。




 亡骸を抱いて狂ったように泣き叫ぶ僕を見て、神様は笑っていた。




 着ていた上着を脱いで床に敷き、冷たくなっていく身体をそこに寝せた。そして、よろける足で教会の真ん中を歩いていった。ステンドグラスの神様や天使が嘲笑っている。
 祭壇の前に立つと、たおやかに笑うマリアと目が合った。その微笑みに虫唾が走った。ゆっくりと首から提げていたチェーンを取る。その先に付いているのは十字架。それを祭壇に向かって投げ付けると、上に置いてあった燭台がガラン、と音を立ててカーペットに落ち、ぱっと散った火が赤いカーペットに広がった。

 どうして、あいつらは生きていて、いまも暖かい家の中にいるのに、花喃はこんな寒い場所で死ななきゃいけなかったのだろう。

 最期にマリアを睨みつけて、燃え広がって来そうなカーペットを走って花喃の元に走り寄った。すっかり冷たい身体は、もうその格好のまま硬直しつつあった。その身体を膝に抱き上げて、強く抱きしめる。背後ではカーペットから祭壇へと火が燃え移り、大きな炎となって燃え盛り始めていた。これで、花喃も寒くない。
 その彼女の手に握られた十字架。一瞬、投げ捨ててしまいたい衝動に駆られながら、それを手にすると手放すことなど出来なくて、そのままそれを自分の首に掛けた。

 これが自分が、これから一生背負う十字架だ。








 花喃。


 君を失くして、進むことも引き返すことも出来ずにいます。










2006/03/21