ずっと、恋をしていた。




「……何だ、これは」
 夕暮れの一室。夕焼けで真っ赤に染められた、真っ白な壁に囲まれた広い空間には、しんとした空気だけが流れていた。
「辞表です」
「何故だ」
「一身上の都合で」
「認められん」
「何故」
「その“一身上の都合”とやらを聞かせて貰う」
「……普通、話す必要がないから“一身上の都合”って言うんですよ」
 耳に心地良い、鈴を転がすような声に、それでも男は顔を顰める。そして、自分の手に握られた封書を見下ろした。
「日付、一ヶ月後にしてあります」
「……」
「よろしくお願いします」
 自分の頭上で、相手が微笑むのが分かった。目を瞑る。瞼の裏に蘇るのは数年前の彼の姿だ。

『……もう、何もなくなっちゃいました』
 雨の日、自分の家まで訪ねてきた彼は、外の暴雨でずぶ濡れだった。
“ねえ、先輩”
 いつもそうやって自分を呼ぶ、穏やかな笑みを浮かべたその彼の面影はなく、ただひたすらに何もかも諦めてしまったような顔をした彼は、そのまま崩れるように自分に寄り掛かってきた。その肌は滑らかで、白く、冷たくて熱かった。雨の強い日だった。 髪から滴る雨水で顔も濡れ、白い肌を水滴がするすると滑り落ちる。いつもなら人に積極的に触れることのない自分でも、思わず触れてみたくなった。タオルで顔の水を拭ってやると、白い肌は艶を取り戻す。そしてまた水は伝う。拭き取る。流れる。拭く。止め処なく流れる。それが雨以外のものであるとは気付かない振りで、自分は笑った。
『雨が強いな』
 濡れた身体を拭いて、暖房のきいた室内に招き入れて、そして温かいコーヒーの入ったマグカップを手渡した。その時の、ゆっくりとまるで縋るように自分を見上げてきた眸を今でも忘れることはない。
 その目はどんな時も自分を捕らえていた。
 自分の頭上で微笑んでいるであろうその気配が不快で、鼻から息を吐く。ゆっくりと顔を上げると、その目が自分をじっと見つめていた。あの頃とは、大分変わってしまったそれが。
 表情も変えずに見つめ合う。その時間が数秒だったのか、それとも数分だったのかは分からない。紙が激しく破られる音と共に、ひらりひらりと紙片が宙を舞う。破かれた辞表が宙に舞った。驚きに目を見開いた彼の顔にその舞い散る紙片が重なる。まるで天使の羽根か、と思うような光景に、息を呑む。その紙片は窓から射し込む赤い光りで赤く染められ、まるで血に塗れた白い羽根のようだった。
 血塗れの天使。なるほどそれも言い得て妙だ。
「受理出来ん」
「どうして」
 珍しく取り乱した様子の彼が、自分のデスクに両手を突いて食い下がる。そんな彼の顔に自分の顔を近づけて、声を低くした。
「探しに行くつもりだろう」
「……」
 あの日の彼が失くしたものを。
「……そうです、僕は探しに行く。だから余計なものは捨てていくんです」
「私は余計なものか?」
 そう言葉を声に乗せると、それはどこか淋しげな音に響いて室内に消えていく。それを聞いていた彼もまた、少し顔を苦しげに顰めた。
「……あなたに、迷惑を掛けたくないんです」
 そう言って、彼は顔を伏せた。横から差し込む夕日に、白い面の陰影が濃くなり、長い睫毛の影が頬に伸びた。
 美しかった。あの日の濡れた肌も、恥辱と怒りに暗く燃えたあの眸も、今のこの悲しみに濡れている眸も何もかも、美しかった。
「……僕が目的を果たすまで、目を瞑って頂きたい」
「出来んな」
「どうして!」
 いつも冷静な彼の、いっそ可哀想になるほどの苦しげな叫びに眉根を寄せる。しかし己の気持ちは変わることはなかった。それは、雨に濡れた彼の手を、取ったその瞬間から。何があっても自分だけは彼の味方でいられるようにと。
「首を切られる時は、私も一緒だ」
 その言葉を聞くと、彼は信じられないと言うように目を瞠って首を何度も横に振った。子どものような仕草で、幼いと思ってしまう。
「上にばれたら、あなたもただでは済まない。あなたまで僕の勝手に付き合う必要はないんです」
「覚悟は何年も前から出来ている」
「……僕が、嫌なんです!」
「私もお前を一人で行かせるのは嫌だ。……と言えば、どうだ」
 そう言うと、彼の秀麗な顔が歪み、泣く寸前の子どものように唇が噛み締められる。彼にはもう返す言葉はないはずだった。

 彼を二度と傷つけまいと決めた、あの日の誓いを、果たす時が来た。











2006/3/31