この身体に、君へ与えられるだけの愛はないけれど。 一日の過密スケジュールをこなし、三蔵は大きく息を吐いて肩を回した。プレゼンが三回、上層部との定例会議が一回、提出する書類はデスクに山のように積まれている状態。 「俺は死ねと言われてるのか」 「かもな」 ぼそりと恨み言を呟くと、ほぼ三蔵と同じ状態で椅子にだれている紅孩児が返事をした。他のメンバーも殆ど同じようなものである。エリートや有能な者が集められるこの部署は、華々しい正面の他に異常に仕事がハードだという側面がある。辞職を願い出るものも一年に何人かはいた。ただ今残っている面々は三蔵という長を信頼して残ってくれているメンバーだ。余計な邪念を持つ者を振るい落とすことが出来て、却ってよかったのかも知れない。 時計の短針が一番下を通過し、段々と上に戻っていくのを見る度、三蔵は家に残してきた少年のことを思った。来て二、三日で挨拶もせずに置いてきたのは拙かっただろうか。あの広い家にぽつん、と一人立ち尽くして心細そうに俯く姿が容易に想像出来て、その度に三蔵はやきもきする羽目になった。朝はともかく昼食は無事に食べているか。言いつけてはおいたが妙な来客にドアを開けたりしていないだろうか。電話をかけてみればいいのだろうが、もしも寝ていたりしたら起こすのは忍びない。それに電話に出るなと書き置きしてきたのを思い出した。 ふう、と息を吐いて顔を上げれば、だだっ広いフロアはもうがらんとしていた。ぼうっとしている内に殆どの者は仕事を終えて帰ったらしい。しかしすぐ目の前のデスクにはまだ人影があった。どこかうわの空でディスプレイをぼうっと眺めている紅孩児だ。余程疲れているのだろう。それにまだ妹の具合は思わしくないようだから容態が気に掛かっているに違いない。昔幼い従弟の世話を散々焼かされた記憶のある三蔵は、それがよく分かった。時折顔を顰めて目頭を揉む彼に、三蔵はゆっくり声を掛けた。 「……紅孩児、そろそろ上がれ」 「え? いや、しかし……」 「今日の分は終わっただろう。それにそんなツラを晒すくらいならさっさと帰って妹に粥でも作ってろ」 そう言うと、紅孩児は意外そうに瞠目した。今日は彼のそんな顔を何度も見ている気がする。そんなに彼を驚かすことばかりしているだろうか。 「……まさかお前がそんなことを言うとは思わなかったな」 「あ?」 少し三蔵が片眉を上げると、紅孩児は気が変わらないうちに、と席を立ってバッグに物を詰め始めた。 「お前もそろそろ終わりにしたらどうだ」 「……ああ」 どうせこの分では仕事に手がつかない。ゴノウの様子を見ながら家でやった方がよっぽど捗るだろう。ついでにコーヒーを淹れてもらおうなどと考えて、三蔵もまた席を立った。 「十字架の件、なるべく早めに調べておく」 「……頼む」 デスク上の時計が、午後七時半を示した。 ひくり、と黒い毛並みに覆われた耳が震えた。 白く、薄く血管を透かした瞼を震わせると、ゆっくりとそれが押し上げられる。瞼から覗いたエメラルドは、部屋中に溢れる朝の光に一瞬怯んでぎゅっと瞼に隠れてしまう。が、またすぐにそれはそろそろと開かれた。 ゴノウはしん、と静まり返った家の中でソファから起き上がった。ソファといえば研究所内の焔の研究室にある、ボロボロで中綿がはみ出ている、殆ど弾力のないものしか見たことがなかったため、三蔵の家のこのフカフカしたソファはカルチャーショックだった。むしろ、この家にある殆どの物がゴノウにとっては珍しいものばかりだ。離れの物置のような場所くらいしか与えられていなかった頃を思えば、ここは天国だ。 (彼女も、天国へ行ってこんな場所で笑っているだろうか) 太陽の光に照らされる白い壁を見つめながら、ぼんやりとしばらくゴノウは動かなかった。 その後、家中三蔵を探し回った後ダイニングで三蔵の置手紙を見つけ、自分が寝過ごしてしまったのだと気付いてゴノウは一人でしゅんとしてしまった。きっと三蔵は朝食も食べずに行っただろう。シンクに置かれた食器の水切り籠には彼のコーヒーカップ一つしかない。ここに置いてもらっているのに家事もまともに出来ないなんて。 (最低だ) ぎゅう、と唇を噛んで、綺麗な字の並んだメモをじっと見下ろした。それには、朝と昼のご飯をちゃんと食べること、無闇に来客に対応しないこと、電話は出ないでいることなど、事細かに書かれている。朝食代わりにコーヒーを飲みながらメモを書く姿が想像出来て、何だか胸の辺りがぎゅっと押し込められたような気分になった。 「……さんぞう」 躊躇いつつもその名前を口に出すと、何だかその行為がとても恥ずかしく思えてぶるぶるっと火照ったような顔を振った。 結局何も食べる気になれず、朝食は食べずに、いつものようにテラスへ続くガラス戸を開けて風に身を任せていた。 こんな風に太陽がすぐ近くにある場所でぼんやりと、何の心配もせずにいられるなんて夢のようだ。黴臭くて、天井近くに一つ、格子の付いた小さな窓があるだけだった物置の中で、怯えるようにして生きていた数年前は、一体何だったのだろう。 外の世界を知らないゴノウは、それが普通なのだと思っていた。 無知は罪だ。 今季節は何だろう。春だろうか、それとも秋? どちらにしても穏やかで気持ちのいい陽気に、思わずゴノウはころりと床に転がった。猫の属性があるせいか、暖かい場所で寝転ぶのが癖なのだ。自分の頭に生えた……というより、自分の身体と組み合わされた黒い獣の耳に触れる。これのせいで、自分は人から疎まれるものをまた余計に引っ付けることになってしまった。 ゴノウは自傷癖があった。だけどもうそれはない。もししそうになった時には、一晩中焔が傍にいて抱き締めていてくれたからだ。焔がいない今、もし自分が自身を傷つける欲求に耐え切れなくなったらどうすればいいのだろう。 三蔵。 彼にだけは迷惑を掛けたくなかった。 「さんぞう」 無意識の内にまたそう呟いてしまって、誰も聞く者があるはずないのにきょろきょろと辺りを見回して頬を真っ赤にしたのだった。散々顔を赤くして転げ回ったゴノウは、水が飲みたい、とゆっくり床から起き上がったゴノウは、裸足の足の裏をペタペタさせながらダイニングへ向かった。が、水を出そうと蛇口に触れた瞬間、鳴り響いたチャイムに指先を竦ませた。 (……どうしよう、お客さんだ……) その瞬間頭を過ぎったのは三蔵の残してくれたメモ。来客があっても無闇に対応するなと書かれている。ということはやはり、対応すべきでないのだろうか。帽子を被って上着で尻尾を隠せば出られないこともないが、宅配便や何かだとしてもゴノウはどう対応していいのかが分からない。 やはり彼の言う通り、無闇にインターフォンに出ない方がいいだろう、とゴノウはどきどきと鼓動の速くなった胸を押さえてゆっくりと息を吐いた。そしてきゅっとレバーを捻って水を出し、ガラスのコップに注ぐ。それを半分ほどこくこくと飲むと、それ以上は飲めなくてシンクに流してしまい、そのコップを洗い、籠に並べてリビングに戻ろうとした。 しかし、がちゃり、と。その音にゴノウは身体を硬直させた。その音は、この家のドアの開く音。まさか。このマンションはその家の住人以外は一階ロビーで認証を行い、中から開けてもらわなければ中まで入れない仕組みになっていたはずだ。それにこのドアの鍵だって三蔵以外は持ち得ないはず。 (さんぞう……?) 三蔵がこんな時間に帰るはずがない。八時を過ぎると言っていたのだ。 (誰……?) 無意識に慌ててリビングの奥に隠れる。そしてソファの裏側に座り込み、膝を抱えて小さくなった。 開いていたであろうドアが閉まる音がした。そしてそのドアを開けたであろう人間は、この家の中に入ってきていた。足音がトントンと響き、リビングへと向かってくる。 (……いやだ) 天国が、一瞬にしてあの頃の地獄に戻る。いきなり開かれた物置の戸。差し込む光を背後に、入り込んでくる大人たち。そして振り上げられる腕。 (やだ……!) 足を縮こまらせて頭を両腕で庇って小さくなる。耳は塞がれて聞こえないのに、下からの振動でその人間が近付いてきているのが解ってしまう。ギシギシと、それはほんの僅かな撓みであったけれど、小さな変化にも過敏になっているゴノウには、それがここにはいるはずのない過去のそれを思い出させて、それから少しも動けなくなっていた。息を継ぐのが苦しい。一度に沢山の息が吸い込めず、回数で補おうと何度も吸おうとしても、空気が喉に詰まって気管に入っていかない。 床の撓みが、自分のすぐ傍で止まった。そう思う間もなく、ふわり、と自分の頭に温かいものが載せられたのに気付く。 怖くて顔が上げられない。確かに自分の前に何かがいて、自分の頭の上に何かを載せている。 ぎゅう、と目を瞑ったゴノウは、目の前の誰かが、小さく笑ったのに気付いた。そして思わぬ行動に俯いたまま目を瞠った。 「……大丈夫ですか?」 その、穏やかな声に俯いたままゴノウは何度か瞬きをする。そして、俯いたまま顔を上げようとしないゴノウを不思議に思ったのか、その人は床にうつ伏せに寝そべるようにして、小さくなっているゴノウの高さにまで視線を下げた。すると、膝と膝の間からその人の顔が見えて。 「平気ですか?」 「……」 「あ、怪しい者じゃないですよ〜、三蔵のお父さんです」 その言葉に、ゴノウはゆっくりと身体から力を抜いた。 「……さんぞうの……」 「ごめんなさい、驚かせたみたいですね。はい、ゆっくり息を吸ってー」 そう言われて、ゆっくりと吸い込んでは吐いて、を繰り返していると、段々と肺に空気が入っていくようになった。ゴノウの呼吸が落ち着くのを見て目元を緩めたその人は、その大きな手でゴノウの頭を撫でた。先程頭に載せられたのはその手だったようだ。 「ははぁ、江流が驚くなって言ったのはこのことだったんですね。全く、隠さなくてもいいのに……」 何かよく分からないけれど、面白そうにそう呟いたその人はゴノウの頭を撫でながら顔を覗き込んだ。そしてまじまじとゴノウの外見を監察しながら、一度小さく唸って、呟いた。 「……可愛いにゃんこの耳ですねぇ」 思いもよらぬ反応に、ゴノウが目を見開くと、その人はゴノウの目をじっと覗き込み始めた。自分の顔から五センチほどの距離に他人がいる、というのに恐怖が沸かない自分を不思議に思いながら、ゴノウもまた彼の姿を見返した。 (……きれい、月の色、だ) 背後からの日の光で、彼の髪がきらきらと輝く。しかしそれは目に痛いギラギラした光ではなく、優しく自分を照らしてくれるものだった。それに引き換え、自分の目は疎まれ、迫害される元になるばかりの醜い翠。これがなければ、こんなことにはならなかったのに。その綺麗な月色に、自分の目を見られるのが何となく嫌で、少しだけ目を伏せると、その人はぱっと顔を上げた。 「ああすみません、不躾でしたね。つい、飴玉みたいで綺麗だったので」 「……きれい……?」 「私、緑が好きなんですよ」 「……綺麗なんかじゃ、ないです」 「……? どうしてですか?」 「だって……」 それきり、唇を噛んで口を閉ざしてしまったゴノウに、正面に座りこんだその人はにっこりと笑った。 「私は綺麗だと思いますよ、江流が汚いって言いましたか?」 江流、というのは三蔵のことだろうと思い、ゴノウは首を横に振る。彼はそんな酷いことを言う人ではない。 「あの子綺麗なものが好きですからね。何かしら事情があるんでしょうが彼は自分の気に入らないものを傍に置く子じゃないですよ」 そう言って穏やかに微笑んだ彼は、ゴノウの両脇に手を入れて軽々と抱き上げた。その彼が自分の子供の幼い頃を思い出して懐旧の念を抱いているなどということをゴノウは知る由もない。 「そろそろお昼の時間ですねぇ、もう食べました?」 「あ……いえ、何も……」 「じゃあ一緒にお昼にしましょうか、来る途中に美味しそうな焼きたてパンが売ってたんでつい買ってきちゃいました」 「……」 ゴノウをソファに下ろすと、うきうきと彼はテーブルに置かれた幾つもの袋を開封し始める。それを背後からぼんやりと見ていたゴノウに、彼は不思議そうに首を捻った。 「どうかしました?」 「……聞かないん、ですか?」 そう言うと、目を見開いて何度か瞬きをした彼は、とぼけたような表情で何かものを考えるような仕草をした。そしてその後、優しく笑って、また、ゴノウの頭を一度撫でる。 「あなたが話したいなら、聞きますよ。話せないところは話さなくてもいいですし、全部話せないのなら無理をしなくてもいいです」 そう言って頭を撫でてくれるその存在を、何だか苦しいような想いで見上げると、彼はまた、優しく笑った。それは作りものでもなく、嘲笑うようなものでもなくて、ただひたすらにほっとした。彼はゴノウの隣に座って、ゴノウを胸に寄り掛からせて、いつまでも優しく頭を撫でてくれた。 車にキーを差して、暫く三蔵はハンドルに両腕を掛けて凭れていた。 「……疲れた……」 これだけの仕事ならいつもと同じだ。だけど合間合間に今彼が何をしているだろう、無事だろうかと考えながら過ごすのはとても胃に来るものだった。とにかく今度携帯電話でも買い与えて随時連絡を取れるような状態にしないと、三蔵の精神衛生上良くない。そして大きく息を吐いた後、地下駐車場から車で走り出したのだった。 辿り着いたマンションはしんとしたものだった。騒ぐような住人がいるという話は聞かないし、防音設備も万全なこの建物は、いっそ淋しいほどに音がないのだった。地下から乗ったエレベーターは微かなモーター音しか奏でない。そして暫くして目的の最上階に辿り着くと、軽い浮遊感と共に柔らかいチャイムが鳴り、ゆっくりとドアが開いた。 鍵を開けてドアを開けた途端、ふわりと甘いような、くらりと脳の芯が揺れるような匂いがしたのに気付く。その匂いに三蔵は思い当たるものがあって慌てて靴を脱いで家に上がりこんだ。これはワインの匂いだ。ゴノウが勝手に開けるとも思えないが、だとしたら誰が? 急いでリビングへのドアを開けて中に踏み込もうとすると、足が何かを踏んだ気がして慌てて足を引いた。それをよく見てみると、近所のパン屋のビニール袋だ。たまに買いはするものの最近行った覚えはない。 どこから出てきたものか、と考えていると、頭上からほやんとした声が掛けられた。 「あ、江流〜待ってましたよ〜」 顔を上げれば、ソファにちょこん、と二つ仲良く並んだ姿がある。片方は勿論ゴノウ。そしてその隣の大きい方は……。 「……何をやってるんですか父さん……!」 「え? 何って? ゴノウ君と江流について話してたんですよ」 ねぇ? と光明がゴノウの顔を窺う。すると彼は、笑った。それはもう固く閉じていた蕾が綻ぶようなやわらかく綺麗で、華やかなもので、一瞬三蔵は目を奪われた。……が。 「……ゴノウ、お前手に持ってるの何だ」 そう言われて、光明はゴノウが手にしているものに目をやった。三蔵は乱暴に鞄と上着を床に投げ捨て歩み寄る。不思議そうにそれを見ていたゴノウが手にしているのは、ガラスのコップ。中には赤とも紫ともつかない液体が入っている……。 それを奪って少しだけ中身を口に含んだ三蔵は、引き攣った顔を光明に向けた。 「何でゴノウがワインを飲んでるんですか……!」 「あれ? 彼にはグレープのジュースを……あ」 「……何ですか」 「間違って私がそっちを飲んでたみたいですねぇ」 えへへ、とでも言いそうな笑顔で光明が持ち上げたのは、着色料満載と言わんばかりの紫の液体が入ったコップだった。 この食えない父親をどう注意したものか、と三蔵が叫び出したくなるのを堪えて拳を握っていると、下からネクタイがつんつん、と引っ張られているのに気付いた。 「さんぞぅ……」 ソファに膝を突いて、不安げに自分を見上げるゴノウの頭を撫でる。前髪をかきあげてやると、普段は不健康なほど白かった彼の肌がほんのりと赤く染まっていることに気付いた。目も微かに潤んだようで、はっきり言って軽く酔っている。 「……どうした?」 「どうして、おこってるんですか……? ぼく、なにか」 今にも泣き出しそうなほどに涙を目一杯に溜めてじっと自分を見上げてくるゴノウは、可哀想なのに可愛くて、どう対応したものか迷ってしまう。その目に浮かんだ涙を、親指で拭ってやっていると、その向こう側の光明がにこにことそれを見つめているのに気付いた。 「いやあ、何だか出歯亀しちゃいましたねぇ」 「父さん……」 別にやましいことではないのに、何だか恥ずかしいような気分になって三蔵は顔を顰める。この人の前では自分はやっぱりいつまでも子どもなのだろう。 「……さんぞ……」 ぎゅう、と腰に柔らかいものを感じる。見下ろすと、ゴノウが少しうとうととした様子で三蔵の腰に抱きついてきていた。光明はやっぱりにこにことそれを愛しそうに見つめている。どうしていいのか戸惑ったのち、三蔵はその腕を一旦外させてゴノウを横抱きにした。 「すみません、一旦寝させて来ます」 「そうですね、じゃあここ、片付けておきます」 そう言って立ち上がった光明はゆっくりと手を伸ばして、夢の世界に半分入り込んでいる様子のゴノウの頭を一度だけ撫でた。ヨッパライ、というのは、嫌いな者は更に鬱陶しく、好意を持っている者は更に可愛く見えたり、する。そして総じて、あしらい難いものである。 「うー……」 家に来てから大人しく縮こまっているか、たまに少し笑うくらいしかなかった彼の変化に、少し酒に感謝してみたりもする。腕の中でむにゃむにゃと何かよく解らないことを呟く彼が、悪い夢をみないようにと願ってしまう。深い眠りに落ちているのだろう、時折ぴくぴくと腕や耳が動いている。ひくひく動いている黒い耳を、落ち着けるように何度か撫でると、ふう、と息を吐いてゴノウは身体から力を抜いた。 それを見計らって、その身体を自分のベッドに寝せる。今日着ているのは、昨日悟浄が選んだチャイナカラーの薄手のシャツと七分丈のパンツだ。パジャマに着替えさせるのはとりあえず諦めて、詰まった襟の部分だけ包みボタンを外して楽にさせてやった。 眠る彼の脇に腕を突いて奥のサイドテーブルに手を伸ばすと、ぎしりとマットのスプリングが軋んだ。 それでも起きない彼を見て、大きく息を吐いた三蔵は自分の首を圧迫するネクタイを引き抜き、ラグに放った。そして穏やかな寝息を立てる彼の顔をもう一度覗き込んだ。冷たい表情をしている彼は少し大人びて見えたものの、やはり彼はまだ十五の子供だ。むしろ寝顔はそれよりもぐっと幼く見える。軽く前髪を撫でてやった後、手を伸ばしてサイドテーブルのライトを消す。そして部屋を静かに出ていった。 「眠りましたか?」 「ええ」 リビングに戻ると、光明がテーブルを片付けながら微笑んでいた。そして手に持っていた何かを振ってみせた。 「おつまみもあるんですけど、一緒にどうです?」 三蔵に断るなどという選択はなく、首を縦に振った。 「……聞かないんですね」 「ふふ、ゴノウ君も同じ風に聞きましたよ」 「……」 「話したい、話せる部分だけ話して下さいって言ったら、ちょっとだけ話してくれました」 ソファに向かい合って座った二人は、光明の持ってきたつまみと酒、そして昨日届けられたワインを前に酒盛りをしていた。三蔵が帰って来る前から飲んでいたであろう光明だが全く顔色を変える気配がない。 「キメラですか。嘆かわしいことです」 「ええ……」 「まだあなたも詳しいことは聞いていないんですか」 「……今訊くのは適切ではないと思って」 「そうかも知れませんね。……ただ、彼が言ってましたよ」 「?」 「いつかちゃんとあなたと焔君には話をしたいと」 そう言って微かに笑ってワイングラスを口に運ぶ彼を見て、三蔵は目を瞠った。まさかゴノウが一人でそんなことを考えているとは思わなかったのだ。そして、そんな息子の驚きようを楽しそうに眺めていた光明は満足げに笑った。 「あなたは昔から深い人間関係を回避するところがありましたからねぇ」 「何ですか急に……」 光明は昔の話をし出すと止まらなくなるのだ。特に三蔵の小さな頃の話をさせたら、三蔵にとって恥ずかしいことでも何でも自慢として話してしまうところがある。その彼の癖が嫌で、だけどとても愛おしかった。 「他人を家に入れるのだけでも珍しいのに、同居だなんて驚きましたよ」 「すみません、連絡が遅れて」 「ああ責めてるんじゃないですよ、せっかく可愛い子を連れ込んだのなら早く紹介してくれればいいのに〜とは思いましたけど」 「かっ……」 そのまま何も言えずに口をひくひくさせる三蔵に、光明は不思議そうな顔をした。 「どうしました?」 「……かわいい、子、って……」 「え? 可愛いじゃありませんか、ゴノウ君」 「……」 そんなことは自分が一番分かっている、と思わず口にしそうになってその言葉を飲み込んだ。言えるわけがない。さっきだって濡れた目で見上げてくる彼にぐらぐら揺らいでいたことなど。最早従兄の弟の溺愛っぷりを笑うことなど出来ないところまでいきそうだったことなど。 「目もすごく綺麗な緑なんですよね。そういえば、彼は自分の目の色が嫌いみたいでしたけど」 「……というのは?」 「んーと、私が綺麗ですねぇって言ったら、綺麗なんかじゃないですって言って、それきり黙ってしまったんです」 記憶を振り返るような顔をして言った光明に、三蔵は手を組んで考えた。どんなことが彼の過去に繋がるか解らない。とにかく気になったことは全て覚えておこうと思ったのだ。何か考えに沈み込んでいる三蔵を見た光明は、にっこりと笑った。 「おやりなさい、江流」 「……」 「守ると決めたんでしょう? あなたは一度言い出したら聞きませんからね」 ゆったりとソファで脚を組んで座っている彼は、そう言って笑った。 「……俺に、何が出来るか分からない」 決して光明以外の前で漏らされることのない弱音がつい出てしまう。彼のために何が出来るのか分からない。過去を調べることは出来ても、それが実際彼のためになるのか分からないではないか。 「悩むなんてらしくないですよ〜」 そんな三蔵に掛けられた言葉は酷く能天気なもので、思わず肩から力が抜けた。 「守る、というのは外側からの刺激から防護する、というだけじゃないんですよ」 「……」 「さっき、彼があなたにぎゅうっと抱きついたでしょう?お酒が入ると人って正直になるんです。本当は彼は、壊れ物に触れるような接し方じゃなくて、あんな風に抱きしめて欲しいんだと思います」 「……抱きしめて……?」 「昔のあなたによく似てます。欲しいものを欲しいって言えないところ」 「……」 そう言って、光明はワイングラスに残っていたワインを飲み干した。 「……この選択に間違いはないと、思いますか」 「さあ? どうでしょう。そういうのってきっと死んでも分からないんですよ。だったら、どうせならあなたの正しいと思う道を真っ直ぐ進むのが良いと思いませんか?」 人に言われて道を変えるあなたじゃないでしょう? と首を傾げたまま言われて、三蔵は言葉に詰まる。その通りだからだ。 「ねえ、江流。あなたも愛しい人に愛しいと伝えられたら、嬉しくありませんか?」 そう、少しからかうような口調で言われて、いつもなら言い返すところなのに、その言葉を深く考えれば考えるだけ、言葉に詰まってしまうのだった。 「愛されたいって思うのは、誰しも一緒なんですねぇ……」 その言葉が、心の奥深くにふわり、と落ちてきた。 オヤジがやってきた編。とりあえずここ辺りで一部は終了です。 ほぼオールキャスト出すつもりなので、これから怒涛の新キャララッシュです。楽しみ。(自分が) 2006/3/28 |