ずっと焦がれていたあたたかい場所が、今ここにあって。 「じゃあ、俺はそろそろ帰るな。仕事から抜けて来てんだ」 そう言って朱泱が立ち上がったのは、日暮れが始まり、窓から赤い光が真っ直ぐ差し込むようになってからだった。それまで大人しく三蔵の隣に座っていたゴノウは、ガラスに張り付くようにして夕日をじっと見つめている。食い入るように外を眺めるゴノウを見て苦笑した朱泱は、その頭を大きな手で一度撫でた。すると少し驚いたように小さな頭がくるりと振り返った。 「じゃあな、おっちゃんもう帰るから」 「あ……はい、さようなら」 僅かに淋しそうな表情を見せるゴノウに少しだけ微笑んで、朱泱はゴノウの目の高さまでしゃがみ込んだ。そしてよしよしと頭を撫でる。 「ん、また遊びに来るからな」 「はい」 そしてやっと頬を緩めたゴノウの頭をもう一度撫でて、朱泱は立ち上がった。そして腕組みして二人を見ていた三蔵に視線を流した。 「ほんじゃ、お疲れ様ー」 「ああ」 「何かあったら呼べよ。ああ……光明さんに連絡しとけ、拗ねるから」 彼の言葉に微妙な思いを抱きつつ、それでも頷くと、ソファから上着を持ち上げた朱泱はぱたぱたとゴノウの方へ手を振って玄関の方へ歩いていったが、再び戻ってきた朱泱は、三蔵の耳元に近寄って声を低くして言った。 「ゴノウは日中あんまり家から出すな。もし外出する時は、少しでも目を離すんじゃないぞ」 食事の後、買った服をゴノウの身体に当ててみたりしながら過ごしていると、リビングのチェストの上に据えてある電話が無機質なコール音を奏でた。一瞬表情の固まった三蔵に、ゴノウが少し驚いたような顔をする。その一瞬の内に相手に思い当たった三蔵は、どうしようかと顔を窺ってくるゴノウを座らせたままにして立ち上がった。そして恐る恐る受話器を取る。 「……もしもし」 『あー江流ですか? 私ですよ〜』 相手が全く思い当たらなかったら詐欺か何かを疑うだろう。が、予想が確信に変わった三蔵は、溜息を吐いて相手に呼びかけた。 「……お久しぶりです、父さん」 『こんばんは〜、あ、朱泱にお願いしたもの、届きました? あれ、美味しいって話なんですけどどうなんですか?』 「贈った相手に聞かないで下さいよ」 『あはは、まあ口に合わなかったら料理か何かにでも使って下さい』 相変わらず掴み所のない飄々とした雰囲気に、自然と溜息が漏れる。それを聞いてますます嬉しそうな電話の相手が謎だ。 「……今はどちらですか?」 『今ね、セントラルに向かう客船の中です。明日には着くと思うんですが、いつなら空いてますか?』 「夜なら構いませんが……あの」 『おや、その歯切れの悪さは。さては女の子を連れ込んでますね?いいですよ〜私は構いませんよ』 「違います! ……とにかく、来て驚かないで下さい」 『はいはい。あ〜、お土産持っていきますからね〜』 「……あのワインが土産なんじゃないんですか?」 『え? ああそうか、すっかり忘れてました。まあいいでしょう。あ、そういえば江流』 「……何ですか?」 微かに嫌な予感を覚え、三蔵は顔を顰める。こうやってとぼけたように話を切り出してくる時は碌な話が出ないのだ。 『観世音が呆れてましたよ〜、見合い写真悉く無視してるって』 「結婚の予定はないんです」 『ええ、私からも言っておきました。残念ながら江流はまだ運命の人に出会えてないんですよ〜って』 延々と続くかと思われた会話だったが、電話の向こうで光明が誰かに呼ばれたらしく、あっさりとした挨拶ののちにプツ、と回線は途切れた。暫く受話器を見て呆然としていた三蔵だったが、顔を顰めたかと思うと少々乱暴に受話器を置いた。 「……今のが、さんぞうのお父さんですか?」 「ああ、明日来るらしい。……変な人だが、別に怖くないから心配しなくて良い」 また昨日のように窓辺に膝を抱えて座って、外を眺めていたゴノウがそっと顔を上げる。三蔵は、電話の横に置いてあった小さな袋を持ってその隣に胡坐をかいて座った。不思議そうにゴノウがその袋を見るのを感じながら、袋から中身の箱を取り出した。 「何ですか……?」 目を瞬かせながら箱を見つめるゴノウの前で、そのボール紙の箱の蓋を開けた。中に入っているのは、深いエメラルドグリーンのマグカップだ。脇に入っている緩衝剤を取り出し、カップをゴノウに持たせる。 「え……?」 「ないと困るだろ」 「……僕の?」 カップを持ったまま戸惑ったように三蔵を見上げるゴノウを見て、何だか自分がおかしなことをしたような気分になって居た堪れなくなる。ゴノウと悟浄が買い物にいっている間煙草を吸っていた三蔵が見つけたのは、小さな雑貨店の店先に置かれたカップだった。色とりどりの鮮やかな色の中にある、深い水の底のようなグリーンが目について。 照明の下で輝くイエローやレッド、パープルやブルーの中、一つだけぽつんと、影の外れた場所に置かれていたそれを手に取ると、心許ない様子でぽつんと立ち尽くす少年が脳裏に見え隠れするのだった。 「要らなかったか?」 「そんなことないです! 嬉しいです……」 僅かに頬を赤くして、ぎゅう、と大切そうに両手にカップを包み込むゴノウを見てやっと息を吐く。やはり贈り物などという慣れないことはするものではない。しかしこんな風に喜んでくれるのを見ると、たまになら、するのも悪くないと思うのだった。 微かに潤んだ目で喜びを表すゴノウに、何だか照れ臭くなって彼の髪をくしゃくしゃと掻き回した。そんな三蔵をじっと見ていた一対の翠は、ぱちぱちと瞬いて三蔵の紫暗を映す。 「……さんぞうは、緑、好きですか?」 「あ? ……お前、好きじゃなかったのか?」 「え、いえ、そういうことじゃなくて……さんぞうは、好きですか?」 直接的な回答を避けて、それでもなお問いかけて来るゴノウに内心訝りながらも、小さく首を縦に振った。 「……ああ、好きだな」 「……そっか」 そう三蔵が言うと、彼はどこか嬉しそうに顔を綻ばせた。 「お前は好きなのか?」 「……好きな、緑もあります。けど、嫌いなのも、あります」 再び問うと、そう言ってゴノウは曖昧に笑う。そうして俯き、両手の中にあるマグカップを愛しげに見つめて、大事そうにそれを両手で包みこんだ。取手の華奢なデザインが彼の細い指によく似合っていた。 「だけど……」 「?」 「また少し、好きになれそうです」 それから、早速コーヒーを淹れて来る、と言ってゴノウは立ち上がった。とたとたと小さな足音が遠ざかるのを聞きながら、三蔵は足元に落ちている箱や詰め物を袋に入れて片付けた。ひょっとするとグリーンは鬼門だったのか。嬉しそうでもあり、少し哀しそうでもあった先程の笑顔を思い出して、やりきれない思いになる。ここまで他人に気を揉んだことがないために溜息が止まらない。ただ、本人の前で溜息など吐いたら心配をかけてしまう。と、そう考えることさえも疲れる。 「さんぞう」 外から流れ込む風を頬に受けてこめかみを揉んでいると、台所から戻ってきたゴノウが後ろから声を掛けてきた。振り返ると、先程贈ったグリーンのカップと白い三蔵のカップを両手に持った彼が嬉しそうに歩いてきて、床にコトン、と二つのカップを並べて置いた。香りの良いコーヒーの満たされたカップからは湯気が立ち昇っている。 「……」 二つ並んだカップを嬉しそうに眺めるゴノウが愛らしくて、カップを持ち上げるのを躊躇っていると、彼の方が先にカップを持ち上げた。やはりそのグリーンのカップがよく似合う。 「……自分の食器なんて初めてです」 「……?」 「食器だけじゃなくて……自分の持ち物も、ほとんどなくて。だからすごくうれしいです」 ありがとうございます、とゴノウはまた頭を下げた。 「……カップも服もお前の物だ」 「……」 そう言うと嬉しそうに控えめに笑うのがいじらしかった。笑って、脚を組み替えようと身体をずらすと、パンツのポケットから金属音がしたのに気付いた。そしてポケットに手を入れてみると、指先に当たった感触でそれが何かを思い出す。 「……そういえば……」 「?」 三蔵がポケットから引っ張り出したのは銀製のチェーンだった。細いもののしなやかで、先に重量感のある十字架が付いている。それを彼の目の前で揺らして見せると、彼の顔が一瞬強張った。 「……ゴノウ?」 「……あ……いえ、これ、どこで……?」 「焔から渡された。必要なものだろう?」 そう言って、ゴノウの手にそれを近づけると、彼は戸惑ったように指先を動かして、躊躇いがちにそれを受け取った。手の中の十字架を見下ろす目は、何とも言えない感情に満たされている。 「……よかった……」 小さな手がぎゅっとその十字架を握り、祈るように組まれる。それが妙に神聖なもののように映って、声を掛けるのも、音を発することさえ躊躇われた。よく見ると、そのチェーンは途中に壊れた部分がある。そっと手を伸ばしてその壊れた部分に触れると、ぴくりとゴノウが顔を上げる。驚いたように三蔵を見上げる彼に、その部分を掲げて見せる。 「壊れてる」 「あ……」 「……直しておいてやろうか?」 もしかしたら他人に触られるのを嫌がるかも知れない、と思い、そう言って軽く窺うように首を傾げると、存外素直にゴノウはそれを手放した。 「でも……いいんですか?」 「ああ、一日もあれば直せる」 そう言うとゴノウは安心したように、おねがいします、と頭を上げた。まじまじと見てみると、なかなか価値のありそうな十字架だ。傷が幾らかあるものの、綺麗なうちだろう。 「これは、お前のものなのか?」 「……え?」 その反応が、悪いところに踏み込んでしまったような気がして、三蔵はふるりと首を振った。 「言いたくないことは言わなくていい」 「……」 「冷めるぞ」 そう言って、彼のカップを押しつけて自らも自分のカップを口に運んだ。大分ぬるくなってしまっているようだ。ゴノウは押し付けられたカップを躊躇いがちに受け取って、そしてゆっくりと口に運んだ。 「……元々は……僕のじゃなくて」 「……」 「だけど今は、僕が背負わなければいけないものなんです」 溜息混じりに呟かれたその言葉は重く、昨日、彼が“失ったもの”について話した時と同じような目の色をしていた。透き通って美しい緑だと言うのに、その奥には見えない何かが潜んでいるようにズン、と暗い。何処を見ていいのか解らなくて、三蔵はコーヒーカップを覗きこむ。情けない顔をした自分がそこにいて、ますます情けなくなってその中身を一気に呷ったのだった。 「今日は何処で寝る?」 すっかり窓から見える街も静まり返り、時計の針が頂点を差した頃。昼間沢山寝てもう眠くないかもしれないゴノウに向かってそう問うと、彼はそっとソファに触れた。 「今日は、平気です」 「……、そうか」 少し元気がなさそうに見えるが、どこまで彼に踏み込んでいいのか解らなくて三蔵は手を引いた。不用意に踏み込んで傷付けてしまいたくない。 「……じゃあ、寝る時は電気を消して寝ろ」 「はい。……おやすみなさい」 「……ああ」 相手を傷つけたくないなんて言って、本当は踏み込む勇気が自分にないだけだと、分かっている。 朝起きると、ゴノウはまだ目覚めていなかった。 きっと日中に寝すぎたせいであの後大分遅くまで起きていたのだろう。落ちかかっている毛布を彼の首元まで引き上げてやり、三蔵は書き置きをしてコーヒーだけを口にして家を出た。何があったわけでもないのに、顔を合わせるのが少し怖かったのもあって、少しだけほっとした。 いつものように地下駐車場に向かいながら考える。帰ってからのこと、これからのこと、そして夜には現れるであろう父のこと。駐車場から入口に向かい、ゲート前で手を翳して認証を取る。赤のランプが緑に切り替わり、目の前のドアが開くのを見て、一度溜息を吐くと社内へと足を踏み込んだ。IDカードを着用していなかったことを思い出して、ポケットに手を入れる。その時、指先にちゃりん、と金属質のものが触れた。 (……ゴノウの十字架か……) 後で時間を見て直しておこう、ととりあえずIDカードホルダーを首から提げ、胸ポケットにクリップで留めた。三蔵の姿に姿勢を正す警備員に軽く目配せして、エントランスホールを真っ直ぐに歩き出した。 「……今日は遅いな」 「ああ、おはよう。すまない、妹が急に熱を出してな」 広いフロアの奥に配置された一際大きく高級そうなデスクで、不機嫌そうに眉根を寄せてキーボードを叩いている三蔵がいた。そこへ赤い髪をした男が歩み寄る。三蔵が取仕切る広域事業課のチームメンバーの紅孩児だ。いつもは三蔵よりも早く出勤してくる男なので、ぽかんと開いたデスクを見て不審に思っていたのだ。彼は少し疲れたような顔をして目を擦っている。とても妹想いの男なのだと聞いているから、きっとほとんど寝ずに看病していたのだろう。白目が少し赤かった。 「構わん。どうせお前は一日に人の倍の仕事をこなすからな」 紅孩児は好青年であると同時に仕事も出来た。慕う部下も多い。そして恋情を抱く女も多いと言う。しかし当の本人は女にはめっきり弱く、迫られたら真っ赤になって逃げ出すというかなり希少なタイプだった。しかしまあ、上司と部下として付き合うのであればこれ以上なく有能で付き合いやすい。 余程疲れているのだろう、こきりと肩を鳴らした彼は、大きく息を吐いた。しかし三蔵の礼を欠いた物言いにも笑って対応してくる。 「……もう平気なのか」 「ああ、熱は大方下がった……近所に住む友人に任せてきたから平気だろう。ありがとう」 そう言ってから、彼は三蔵のデスクに一番近い自分のデスクにつく。そして三蔵が大きく息を吐くと、デスクに置かれたデジタルの時計がカチリと音を立て、始業の時間を示した。 目が痛い。段々と目が痛くなり始めてから、三蔵は眼鏡を家に忘れてきたことを思い出す。ただの眼鏡ならばスペアが引き出しに入っているのだが、家に忘れてきたそれはパソコンのディスプレイを長時間見る時のためのごくごく薄い緑のフィルターのかかったものだ。目の奥が締め付けられるような慢性の頭痛に、三蔵は顔を顰める。こめかみを何度か揉み、書いていた決算書の末尾まで打ち終えると、大きく息を吐いて立ち上がった。 それから大部屋を出て喫煙区域に足を運んだ三蔵は、煙草をポケットから取り出した。が、ライターをデスクに置き忘れたことに気付いて苛立ち、ぽきりと煙草を指で折った。 「よお三蔵」 それに加えて、背後から掛けられた不快な声に顔を盛大に顰める。そしてゆっくりと振り返った。立っているのは、ピタリとした黒のスーツに盛大に胸元の開いたブラウス、そして太腿半分より短いタイトスカートを身に付けた女。スカートからすらりと長い足が流れる様は……他人にはどう見えるか解らないが三蔵には目の保養にもなりはしない。それが幼い頃から自分を弄りまわした性悪の女だと思えば、尚更だ。名前を観世音というその女……実際女なのか今でもよく解らないが……は、この会社、そしてこの会社が抱える子会社を含めたグループを総轄するオーナーだった。 「……何だ、ババァ」 「お姉さまだろ? 譲ってもおばさまだ」 「……何だ、おばあさま」 慇懃無礼に見えて普通に失礼なことを口にした三蔵は脳天に肘鉄を食らうことになる。 「ってぇなクソババア!」 「ほれ、やるよ。使わねぇからな」 そう言って投げつけられたのは、小洒落たデザインの、どこかの店のマッチだった。 「貰い物だがな……ああ、そういや何か面白い色で燃えるらしい」 どうやらよくある、黄色や青の炎を出して燃えるマッチらしかった。そんなものも気にしない三蔵は、適当な一本を取り出して箱の脇で擦る。すると現れたのは黄色の炎だった。なかなか綺麗だ。 「で、見たか? 昨日の……」 「あのゴキブリが持ってきた写真なら今朝ゴミに出したぞ」 「……ったく、お前も綺麗な盛りを過ぎてしわくちゃのジジイになってから結婚したいと思っても遅いんだぜ?」 「しねえよ。一生な。……それより先に金蝉を結婚させろ、稚児趣味だって妙な噂に俺まで巻き込まれる」 「……ははあ……まあ、確かにアイツはもう手遅れかもしれん」 そう言われて、三蔵は灰皿にマッチを押し付けるのをピタリと止めた。そして恐ろしいものでも見るような目で観世音を見上げる。 「……本気で悟空に手出ししてんのか……?」 「さあな? 俺も早いとこ結婚させてぇけど、なかなか。子連れで女嫌いで愛想もないときたからな、三重苦だ」 からかうように掛けられた言葉に、三蔵はげんなりする。一応、血は繋がっているらしく顔も異様に似ている従兄。仲ははっきり言って悪いものの、身内としてはまっとうな道を歩んで欲しいものだ。しかも相手がそれまた従弟で近親相姦、重ねて未成年……だなんて、考えたくもない。犯罪ではないか。 「お前からも言っとけ、ガキにかまけてないで結婚しろってな。子連れでもいいって女だっているんだ」 「……言ってやってもいいが、説得力はねぇだろうな……」 「違いねぇ」 自身も全く結婚する気のない三蔵がそう言うと、喉を鳴らしておかしそうに観世音は笑った。 「心は他所にあるままで結婚するのはつれぇからな」 「は?」 「“運命の人”に出会えてねぇんだろ?」 「……それはあの人が勝手に言っただけだ!」 余計に苛々を溜め込みながらフロアに戻ると、丁度紅孩児がコーヒーメーカーの前に立っているところだった。 「淹れようか」 「……ああ、頼む」 カップを持ち上げてそう問う紅孩児に、溜息混じりに返答すると自分に充てられた、他の社員より少し柔らかく大きめの椅子に身体を沈めた。 「息抜きに行ったかと思えば、余計に疲れたみたいだな」 「……観世音の奴が来てる」 「今日は上層部の会議だからな」 あの女がそんなのに真面目に出るはずがない。三蔵をおちょくるためだけに来たに決まっているのだ。そう考えて鼻から息を吐くと、その鼻先にコーヒーの入ったカップが突き出される。インスタントの代わり映えない香りが鼻をくすぐる。それを受け取り、一口口に含んで三蔵は顔を顰めた。 「不味い」 「……お前、毎日言ってるぞ……」 今度上に言ってもう少しまともなドリッパーを下ろしてもらおう、と決めて、その水っぽく不味いコーヒーを口に含んで、嚥下した。 (……そう言えば、ゴノウの淹れるコーヒーは美味かったな) 一昨日、昨日と何度か淹れてもらったそれは、何のコツがあるのか自分が淹れたものとは違うような気がした。いっそ毎日淹れてもらって水筒に入れてきた方が楽かもしれない。 「……」 ぼんやりと脳裏にその少年を思い浮かべて、コーヒーを飲んでいると急にポケットの中の重みを意識した。カップをデスクに置いてポケットに手を入れる。触れた金属を引っ張り出すと、紅孩児は少し意外そうな顔をした。 「アクセサリーなんて着けるのか」 「アクセサリーじゃねぇよ。十字架だ」 そう言うとますます彼は目を見開いて、窺うようにその十字架を見つめてくる。 「お前、仏教じゃないのか」 「ああ……これは預かり物だ。修理せにゃならん」 「この前事務に返しそびれたペンチがあるかもしれないが……使うか?」 「頼む」 カップを置いて紅孩児がペンチを探しにいくのを見ながら、千切れた継ぎ目となる部分を見る。一つ金具を外して両端を接合させればなんてことはないだろう。……それにしても、正直な感想としてこの凝った十字架にこの地味で弱いチェーンは少し不釣合いに見えた。後で挿げ替えられたものだろう。ロザリオは大抵数珠のように珠が連なっているはずだ。 (……僕が背負わなければならない十字架、ね) 恐らくは……いや、これは考えない方がいいだろう。しかし、嫌な考えほど頭から消えないものはなく、それをきちんと考えるまでもやもやとしたものが頭の中に渦巻くのだ。 「ほら」 そう言って眼前に差し出されたのは小型のペンチだ。目で謝意を伝え、それで金具部分を開き、両側を繋げてもう一度金具を曲げて元に戻す。一連の動きを見ていた紅孩児の視線は、ひたすらその十字架に向かっているようだった。それに気付いた三蔵は、少しだけ怪訝な顔をして顔を上げた。 「何だ?」 「いや……少し、見せてもらっても構わないか?」 「……?」 何が彼の気に掛かったのかは解らないが、三蔵の許しを得ると紅孩児はその十字架に手を伸ばし、まじまじとそれを眺め回した。 「……随分と凝ったディテールだな」 じっくりとそれを眺めた後、ありがとう、と言って紅孩児はそれを三蔵に返す。そしてその後、少し考えるような顔をしてからゆっくりと口を開いた。 「その十字架の持ち主は、西の方の人間か?」 そう、確信を持って訊ねてくる紅孩児に、三蔵は眉根を寄せた。 「何……?」 「昔見せられたことがある。土地によって持つ十字架には特色が出るらしい。これは確か西の国の……」 「思い出せるか」 「……?」 考えに沈み込んでいた紅孩児は、真剣な色を湛えて自分を見上げる三蔵の視線に気付いて訝るような顔をした。 「知り合いなんじゃないのか?」 「……素性を知りたい」 数秒沈黙したのちの答えに、紅孩児は目を瞠る。いらないことは何も話そうとしない男だ。しかし何歩も譲って理由を述べたということはそれほどまでにそのことに真剣だという証。そして自分が話した範囲以上のことは詮索するなという予防線。 「……時間は掛かるかも知れないが、調べよう」 「ああ……頼む」 手を組み、何か思案に耽るような三蔵を見下ろして、珍しいものを見た、と紅孩児は、冷め切ったコーヒーを啜った。 (ゴノウの、元居た国……) 三蔵の家やこの会社のあるセントラルではないことは確かだ。とにかく、あの焔のいる研究所がどこまで手を伸ばして子どもをかき集めているのかを知る必要がある。その範囲内で、基督教の信仰されている国。 ゴノウはそれを思い出したら家に帰りたいと言うだろうか。 “こんな風にされてまで生きたいなんて思わないから、殺して下さい” どんな想いで彼がその言葉を絞り出したのか考えると胃の奥がずんと重くなる。誤魔化すようにコーヒーを流し込むと、胃が焼けるような気分になって、吐き気がした。 十字架に張り付けられた男が、こちらを見ている。 十字架のディテールのくだりは適当ですよ。王子、出張りすぎですか。 2006/3/25 |