ここまで来て、生きるという選択肢があるなんて。 「到着ー」 マンションの前に到着した悟浄の車はゆっくりと減速する。完全に停止する瞬間にかくんとゴノウの肩が揺れたが、起きることはなかった。勿論三蔵は彼を揺さ振り起こすことはせずに、背中と膝裏に手を回して抱き上げ、ドアを開けて外に出た。 「お荷物上までお持ちしましょーか?」 「当然だアホ」 「……へーへー」 一瞬こめかみに青筋を立てた悟浄は、言い返そうとしたが三蔵の腕の中で眠る存在を思い出して口を噤んだ。そして大人しくエンジンを切って運転席から降り、後部座席に置かれたいくつもの紙袋を抱え上げた。それを最後まで見ずに三蔵はエントランスに向かって歩き出す。背後で悟浄が大袈裟な溜息を吐いたが全く意に介することなくそのままエントランスの自動ドアをくぐった。ちらりと視線を流して見た腕時計は一時半を指し示している。ゴノウはとりあえず寝せておいて、空いている部屋を軽く掃除して。いつ一人で寝たいと言うか解らないからとりあえずはベッドを搬入しなくてはならない。とにかく今日一日悟浄を扱き使ってやろうと三蔵は悪い笑みを浮かべた。 基本的に三蔵と悟浄は、必要事項がある時しか言葉を交わさないため、一緒に乗ったエレベーターの中でも響いているのはゴノウの小さな寝息だけだ。 「……なあ。もしかして俺、掃除にかり出されんの?」 「手前の無駄に有り余ってる体力を有効活用させてやろうとしてんだろうが」 「……悪ィけどね、俺はこれからオシゴトがあんのよ」 「あ? 女と遊ぶのが仕事か」 「ちげーよ、マジで仕事があんの。これでもあっちこっちから引っ張り凧なんだぜ」 悟浄は美容師をしている。引っ張り凧というのも誇張という訳ではなく、実際彼の美容院は様々な有名人の行きつけになっているらしい。三蔵自身はあんな男に髪を切らせるなんて神経が分からん、と本気で思っているのだが。 「フン……それならお前の代わりを用意してから行くんだな」 「は? 代わり? あー……ということは、俺の代わりに部屋の掃除を手伝う奴を手配していけってことか?」 分かったことを聞くな、と睨みを利かせる三蔵に肩を竦めながら、悟浄はポケットに収まっていた携帯電話を取り出す。そしてアドレス帳を開いて呼び出せそうな人間を探し始めた。呼ぶにしたって三蔵と共通の知り合いでなければならないのだから結構大変だ。三蔵にとって気の置けない知り合いというのも結構少ないのだ。本人に寄ってくる人間は山ほどいるのに不特定多数の人間を辺りに寄せたがらない三蔵は、寄って来る者は男も女も構わずに振り切っているのだった。 「困ったなー……誰を呼べって」 本当に困ったように赤い髪を掻き毟る悟浄を、三蔵は意地悪く笑った。それを見て悟浄はこめかみを引き攣らせたが、今喧嘩したら確実にゴノウを起こしてしまうだろう。それは避けなければなるまい。結局手も足も出なかった悟浄は、再び携帯と睨めっこをするしかなかった。と、その途端、三蔵のジーンズのポケットに入っていた携帯電話が振動しながらオーソドックスなコール音を奏で始めた。 「あ……?」 面倒臭そうにそれを取り出し開いた三蔵は、表示された文面に口角を歪めて、悟浄を見た。 「全く運が強い奴だな」 「……あ?」 とりあえず家に戻り、三蔵は腕の中のゴノウを寝室に運んで、ベッドに寝かせて布団を顎の下まで掛けてやった。少し青ざめたように見えるのは、貧血か何かのせいだろうか。それともやはり人酔いか。どちらにしても静かに寝せる方がいいに違いはない。白い額にかかる濃茶の前髪をさらりと撫でると、強張った表情が少しだけ穏やかになった気がした。 その寝顔をずっと見ていたいのはやまやまだったが、リビングでゴキブリのようにうろうろしているであろう悟浄を放置しておくのは気分が悪いので、仕方なく三蔵は大きく息を吐いて、寝室を後にした。寝室のドアを閉めると、やはり悟浄がうろうろと廊下を歩き回っていた。そして三蔵が出てきたのを見ると、片眉を上げて困ったように肩を竦めた。 「うおーい三蔵ー。で、俺はどうすりゃいいのよ?」 「時間は」 「三時から」 「……それじゃあ雑巾掛けするくらいの時間はあるな」 ふん、と鼻を鳴らした三蔵を見て、徹底的に使いつくす気だと瞬時に理解した悟浄は、その次の瞬間抵抗を諦めた。 「……雑巾、どこよ?」 三蔵の住むマンションは外見のデザイン性、セキュリティも万全で申し分ないものだった。ペントハウスは最上階が丸ごと一部屋になっているもののため、一人で住むにはかなり広過ぎると言っていい。しかも三蔵は殆ど客人を招かない。こんなに広くて、夜になれば夜景が展望出来るラウンジまでついているというのに惜し過ぎる、と悟浄は思う。 雑巾と水入りバケツを両手に提げた悟浄は、“空き部屋”と称された部屋に案内されて中を覗き込み、大きくため息をついた。“空き部屋”、“物置”と言われていたからどんな部屋かと思って見れば、それは悟浄の家のリビングと張る大きさだった。悟浄だってそれなりに金があり、いい家に住んでいると思っているのだが、こういう類を見ない金持ちの家に来るとプライドなんてものは塵と化すのである。その鬱憤をぶつけるように悟浄は、とりあえずとっとと済ませてしまおうと物凄い勢いで雑巾掛けを始めたのだった。自棄になって雑巾掛けをしているうちにコツを掴んで何となく楽しくなってきたのだが、それはもう終わりかけの頃だった。少々残念に思いながら悟浄は立ち上がり、綺麗になったフローリングの床を見下ろした。 と、次の瞬間、家にチャイムが鳴り響いた。 「……あー、ナルホド」 手に雑巾を提げ、ズボンの裾を膝まで捲り上げたままの恰好で玄関に向かった悟浄は、三蔵の向こうに立っている人間を見て大きく頷いた。 「よお、悟浄じゃねぇか」 「あー……ごめんな? 朱泱」 突然悟浄に謝られて、目をぱちぱちと瞬かせたのは、少し長い髪を後ろで結んだ、無精髭の男。図体は大きく迫力があるが、優しげで愛嬌のある表情を持っている。その男、朱泱が事の次第を悟る前にと悟浄は急いで部屋に戻って雑巾を置き、自分のバッグを持って手を洗い、捲り上げたズボンの裾を下ろしながら玄関に戻って、素早く靴を履いた。そしてにこやかに三蔵と朱泱を振り返って手を上げた。 「じゃ、そーゆーことで」 そう言うが早く、悟浄は素早く玄関を出てドアを勢いよく閉めてしまった。取り残された朱泱は不思議そうにドアを眺めている。 「……どうしたんだ、あれ……」 先ほどの奇行の答えを求めるように三蔵に視線を寄越して来た朱泱に、三蔵は軽く鼻で笑って見せた。 「……はあ。面倒事を押し付けられたって訳か」 「まあそういうことだ。悪く思うなよ、恨むなら悟浄を恨むんだな」 しかしソファに深く腰掛けた朱泱の顔に怒ったような様子はない。元から心は広く太っ腹な親分肌の男だ。悟浄に仕事があるのなら仕方がない、と笑った。 「でも急に掃除なんて何かあったのか? そろそろ女を連れ込む気になったか?」 「残念だったな」 「じゃあ何に使うんだ?」 よく分からないというような顔をした朱泱に心の中で溜息を吐きつつも、ゴノウのことは黙っておくほかない。朱泱は頼れるし、幼い頃からの友人で信頼もしている。が、それなら尚更に面倒に巻き込むことはしたくなかった。 「……書斎に入れ切れない本を入れる部屋を作ろうと思ってな」 「ふーん」 どう見てもその言葉を信じているようには見えない。しかしそれは朱泱が、三蔵が何かを隠したがっている事に気付いて気を遣ってくれているということなのだ。 「……ま、いいわ。手伝う」 そう言って朱泱は腕を伸ばして、ポンと向かい側に座る三蔵の頭を叩いた。こういうところは小さな頃から変わらない。それに少し苦笑した途端、キィ、と何かが軋むような音がした。そして、目の前で見開かれた朱泱の目に一瞬血の気が引くような思いがした。三蔵はバッと背後を振り返る。 「……さんぞう?」 出てきてしまうという可能性を考えなかった自分に苛立ちが隠せずに、三蔵は自分の顔に右手を当てた。リビングの入り口からじっと伺う翠の瞳は、心配そうに三蔵を見、朱泱を恐々と見つめていた。 「これ……キメラ、だよな?」 朱泱は警察官だ。一年程前、ぽつんと発見された一人のキメラが発端で、警察官内にもキメラの噂は流れているという。が、そのキメラは一週間もしない内に保護していた警察署から姿を消してそれきり、誰の目にも触れていない。それは、彼が元の場所を見つけたということなのか、もしくは、……処分されたということなのか。 だが朱泱も見たのは初めてのはずだ。珍しがるのも仕方がないが、怯えさせては敵わないと三蔵はテーブルの下で朱泱の足を踏んだ。 が、彼はその行為に対して怒ることはなく、恐々とゴノウを指差してゆっくりと口を開いた。 「……何で、お前の家にキメラがいるんだよ……?」 少々頬を引き攣らせながら三蔵に視線を送ってくる朱泱に、諦め混じりの溜息を吐いた三蔵は、苦々しげな顔をして彼を一瞥した。不安そうに二人を窺うゴノウに手招きをすると、彼は少し戸惑ったようだったが、とたとたと三蔵の元に歩み寄った。その手を引いて、自分の隣に座らせる。完全に開き直ってしまうと、緊張したように姿勢を正して顔を強張らせている朱泱が可笑しくて仕方なかった。 「焔を覚えているか」 「焔……? ああ、お前の同級生の……」 「俺も奴に面倒を押し付けられた。コイツを預かるようにと」 「じゃあ、片付ける部屋って……そのための部屋、ってことか?」 三蔵が首肯すると、朱泱はしげしげとゴノウを眺め始めた。三蔵の横で小さくなって座っているゴノウは居心地悪そうにますます身体を縮こまらせる。見たこともない、大きな図体の男に正面からじっと見つめられて、ゴノウは救いを求めるように三蔵を見上げた。見かねた三蔵もまた、小さく息を吐いて朱泱を諫める。 「……朱泱、あんまり困らせるな」 「あ? ああすまん……本物を見たのは初めてでな」 もっと驚き、嫌そうな顔をすると思ったのだが、逆に何だか喜んでいるようなはしゃいでいるような様子の朱泱に、三蔵は呆気に取られた。それをよそに朱泱はまじまじとゴノウの顔を覗き込み、少々怯えさせている。心は優しい奴だが多少強面なのだ。が、彼自身は動物や小さい子どもが大好きだったりする。 「ほーらおいでおいで」 その強面と大きい図体に見合わない小さな仕草で手招きする朱泱に、一瞬戸惑って三蔵に救いの目を向けたが、人の良さそうな笑顔で自分に向かって微笑みかける男に次第に絆されたのか、悟浄の時と同じようにとてとてと、それでも先程よりも少し躊躇いがちな足取りで彼に歩み寄った。その素直な行動に朱泱はますます表情を緩めた。 「かーわいいなぁ、おーよしよし」 いくらゴノウが子どもだからといって体長は百五十はあるだろう。そんな少年を、小動物にするように撫で繰りまわしているのだから妙な光景だ。片手をその白い頬に当ててもう片方の手で優しく、でも強く頭をぐりぐりと撫でている。それに少し驚いた様子だったゴノウも、ちろりと上目遣いで男を見上げると、危ない存在ではないと本能で察知したのか、安心したようにその手の感触に目を細めた。 それを少し面白くなく唇をひん曲げて見ていた三蔵は、パン、と膝を叩いて朱泱の気を引いて見せた。するとやっと朱泱は三蔵の存在を思い出したかのようにあ、と顔を三蔵の方に向けた。 「おお悪い、つい可愛くて」 そう言いつつもゴノウを撫でる手を止めない彼はにやけた顔を三蔵に向けた。それにますます顔を引き攣らせたのは三蔵だ。 「……真面目に話を聞け」 「聞いてる聞いてる」 「とりあえずゴノウを離せ」 「え? ああ……お前ゴノウっていうのか。おっちゃんは朱泱っつうんだ。しゅうえい」 「……しゅうえい?」 躊躇いがちに出された、か細い声に笑みを深くして朱泱が頷く。するとにこ、とゴノウが、笑った。 (……笑った) 思うよりずっと自分は衝撃を受けていたようだった。正直なところ、愕然としていた。自分は丸一日一緒に過ごして、やっと得られたのがはにかみ笑顔程度だった。悟浄は一緒にいたのが三時間程度だというのに即手を繋ぐまでに至っていた。こんな、花の蕾の綻ぶような笑顔は。自分でも何故こんなにショックなのか分からなかった。 「おお、ちゃんと笑えるんじゃん。笑ってた方が可愛いぞ」 そう臆面もなくとんでもないことを言い出す朱泱に、三蔵は頭を押さえた。 「……言って置くがゴノウは男だぞ」 「ん、名前聞くまでは女の子かと思ったけどゴノウなんていったら男だろうよ」 そう言う間にも朱泱は本物の猫にするように喉をくすぐっている。ゴノウも本当の猫だったらごろごろ喉を鳴らしているだろう。そろそろ我慢の限界が訪れ、朱泱の隣からゴノウを引っ張り上げて、ちょんと自分の隣に座らせた。それを呆然と見ていた朱泱だったが、暫くすると含みのある笑みを浮かべてニヤニヤと三蔵を見た。それを気付かない振りで三蔵はフンと鼻を鳴らした。 「さあ、手伝ってもらうぞ」 最前の宣言通り、朱泱はさくさくと扱き使われた。本当に彼は自分を友人と思っているのだろうか、と何度か考え込みたくなったが、この忙しさではそんなことを悩む暇もなかった。その部屋の少しくすんだ色になってしまったカーテンを洗い、布団を部屋に持ち込んで敷く。家具は全くなく、シンプルというか寂しすぎる部屋になった。元々普通の家のリビングの大きさくらいある部屋だ。そこに布団が一組と服の入ったバッグが一つ、ぽつんと置かれているだけなのだから仕方はないのだが。 ゴノウはドアのところからじっと部屋の中を覗いていた。時折手伝いたさそうにしていたが、邪魔になるだけだろうと思ったのか、見るだけで手を出そうとはしなかった。三蔵は然程働いてはいないものの、洗濯物を干したりなどはやっているようだった。 ふと、三蔵がベランダに出たのを見た朱泱は、こっそり部屋の中からゴノウに手招きをした。 「……?」 「お前、いつからここにいるんだ?」 「あ……昨日、からです」 「そっか。……まあ座れよ」 朱泱の隣に促されたゴノウは、その場にちょこんと正座をした。 「三蔵はさ、悪ィ奴じゃねぇんだけどちょっと性格がひん曲がっててよ……何か、意地悪とかされてねぇか?」 朱泱の疑問、心配はそれだった。犬猫や小学生の頃のウサギ小屋の当番も、真面目にこなしつつもかなり厭々やっていた彼のことだ。動物のことは嫌いではなくても、毎日世話をするとなれば別だ。 第一に三蔵という人間は、元々人との深い係わりを善しとしない。というか、端的に言えば人嫌いの気があるのだ。そのため学校教育という集団行動の中でも少々浮いていたし、友人も極々僅かだった。彼の養い親の知人だった自分は彼がここまでひねる前の、ごく小さな頃からの知り合いのためそれでも少しは違うのだが。皮肉屋で斜に構えるのが常の彼だから、子供に対する対応なんてものも思い浮かぶ筈がない。先ほどの悟浄に対するような対応をそのままこの子にしていたらそれは問題である。が、ゴノウはふるふると首を振った。 「そんなことないです! さんぞうは……優しいです」 「……そうか」 必死な顔で言い募るゴノウに、朱泱も相好を崩してその頭を撫でた。三蔵はまだこんなふうに気軽には触れないのだろうか、先程も痛いほどの視線を受けていた。触りたくないというより触ることが出来ないのだろうけど。 相手が男でも女でもそれに性欲が混じっていてもそうでなくても、三蔵はフィジカルな付き合いを好まない人間だ。人の体温は気持ち悪いと拒み、自ら触れるようなことは一切なかった。だから友人の多い朱泱や、女と四六時中べたべたとしている悟浄に対して信じられないという目を向けることすらあったのだった。 その三蔵が、実に優しく、さりげない仕草でゴノウをひっぱりあげたのには驚いた。彼がここに来たのが昨日ということはまだ丸一日程度しか一緒に過ごしていないということだろう。元から人に心を許すということもしない三蔵の行為とは思えなかった。 「……キメラになったのはいつ?」 「……十歳、くらい」 「今幾つだ?」 「十五です」 まだまだ聞きたいことは幾つもあったが、少し話を聞き出すたびに辛そうに垂れる眉に胸がズキリと痛んだ。朱泱だって、“キメラ”というものがどういうものか知っている。管轄外とはいえ、自分の勤める警察でも裏で噂になっている。話を聞くだけでも明らかに倫理に反しているのだ。しかし、その組織の尻尾を掴むことがどうしても叶わずにこうしている。そのキメラも今までに大量に作られているだろうに発見されたのはほんの一人だ。その一人も決して組織について口を割ることなく、すぐに警察から脱走し行方知れず。第一に被害届が全く出ていないのが問題なのだ。 キメラ合成のターゲットにされるのは身寄りのない、そして生きるのに困窮している幼い子供たちだ。一人いなくなったからといって警察に届けを出すものもいない子供ばかり。元はと言えばそんな子供が出てしまうようなこの世の中がいけないのだ。ひょっとしたら、この子は組織のことを何か知っているかも知れない。この子の証言を得れば、組織の解体に向かって一歩前進出来るかも知れない。 (……) じっと少年の顔を見つめる。少年は不安そうに正座したまま朱泱を見上げてきていた。朱泱は、基本は子供と動物に弱い。目の前にいるのはそれが組み合わされた存在であって、そんないきものがじっと自分を不安げな顔で窺っているのである。そんな、いたいけないきものを警察に突き出し取調べを受けさせる……。 「……ああ駄目だー!」 ゴノウが身体をビクッとさせると同時に、廊下から物凄い足音が響きバン!とドアが開け放たれた。そして実に素早い動作で朱泱の前からゴノウが取り去られた。 「……何をした朱泱……?」 「だ、ちょ、違ェ!」 ゴノウを両腕に抱いて鋭い目で睨みつけてくる三蔵にたじたじと言い訳しながら、その両腕に抱き上げられ、ぶらんとぶら下がったゴノウと目が合う。ぱちぱちと驚いたような目が瞬きをした。 「……まさかとは思うが、ゴノウを警察に突き出すような事をしようとしたら、この家を出る前にあの世に送るぞ」 「……すまん」 正直迷ったと正直に申告すると、三蔵は片眉を上げて面白くなさそうに鼻を鳴らした。 「ふざけんな。預かっているうちこいつは俺のものなんだよ」 「ワリ」 「……お前にとってその組織を解体出来るかもしれんことがどれだけ魅力的か、分からなくもないがな」 少しでも不幸な子供をなくすために。しかし、その組織があったお陰で今生きていられる子供もいるはずだ。ゴノウも、もしかしたらその時に拾われなければ死んでいたかもしれなかったのだ。 「ん、でもまあ片付けは一通り終わったぜ。これでいいの?」 「ああ」 綺麗に片付いた部屋を見渡した三蔵は満足そうに頷いて、腕の中のゴノウを床に下ろした。そしていつもの如く偉そうな口調で、それでも存外穏やかな声を三蔵は出した。 「……答えられる範囲なら答える。リビングに来い」 疑問を持つのも仕方がない、とそういうことなのだろう。が、朱泱はすぐに肩を竦めた。 「聞きたいことは本人に聞いたがね。聞いちゃあならねぇこともあるだろう」 「フン」 「それに聞くならまず焔に、だろう」 「無駄だな」 「あ?」 「焔はつい何ヶ月か前まで普通に製薬会社の研究所に勤めていたんだ。それが急にその組織に引き抜かれただけ、多分あいつは組織の末端でしかない。……何も知らないだろう」 「……そう、か」 「これまでのことは他言無用ださもないと」 「はいはいわーってるって。さもないとブッ殺す、だろ?」 そう言ってニヤニヤする朱泱をきつく睨みつけて、三蔵はドアを開けたまま部屋を後にした。ついてこいということなのだろう。三蔵の背中が見えなくなると、ぽつんと一人立っていたゴノウはトタトタと続いて部屋を後にし、三蔵を追いかけていった。それに少々目を剥きつつ、朱泱もまた、その小さな背中を追ったのだった。 「まあまあまあ……これは買い込んだなー」 リビングのソファに積まれた紙袋を見て、朱泱は感嘆の声を漏らした。ゴノウも少し驚いたようにその大量の袋を見つめる。 「悟浄の奴……」 買い物は全て彼に任せていたため、どんな物をどれだけ買ったかを三蔵は把握していないのだった。とりあえず開封してみるほかない、と一番上に置かれた袋に手をかけて口を閉じてあるシールを剥がした。 「まああいつが選んだんならそうセンスが悪いものはないだろ」 そう朱泱の言う通り、どれもこれもセンスはよく、ゴノウが身に付けても服に着られている状態にならない程度に鮮やかな色だったりデザインだったりした。三蔵としてはセンスが悪い、と切り捨ててしまえないのが悔しいところだ。 「おー似合いそう」 朱泱は手前に置いてあったカットソーをゴノウの身体に当てては機嫌よくうんうんと頷いている。そこにきてやっと三蔵は、ずっと聞き忘れていた質問を彼にぶつけた。 「ところでお前、何の為にうちに来たんだ」 「あ? あー忘れてた!預かり物があったんだよな。光明様から」 「父さん?」 訝しげに言った三蔵のその言葉に、ゴノウが耳をピクリと揺らして二人を見上げる。が、その時に限って二人はゴノウの事を見ていなかった。ぎゅっと、その小さな手が握り締められていた事にも、気付くことはなかった。 「ん、昨日こっちに帰ってきたんだぜ。電話なかった?」 「いや」 「ふーん……まあいいや。これ、土産だってよ」 そう無造作に差し出されたのは、一般人から見たら目を回しそうな値の高級ワインだ。こんな風に簡単に掴んで手渡してくるということは朱泱はきっとこの中身を知らなかったのだろう。 「で、明日にでも遊びに来るって」 その言葉に頭の芯がくらりと揺れた。今まで三蔵の家と言うのは、一ヶ月に一人人が訪れればいい方なくらいに人のこない場所のはずだった。なのにどうして、どうしても来て欲しくない時に限って毎日のように人が来るのだろう。これでははっきり言って匿っていると言えないのではないだろうか。この調子で毎日一人来客があったとしたら一ヶ月で三十人にゴノウの存在が知れてしまうということだ。 「ま、あの人に知れても悪いようにはならねぇって……かなり面白がられると思うけど」 それが嫌なんだとは間違っても言えなくて、三蔵はその言葉を呑み込むしかなかった。三蔵の父、正式に言えば養父は、簡単に言って“掴み所のない人”だった。もう働かなくても十分豪遊して生きていけるほどの資産を持ち、その言葉通り日々のほほんと海外をふらついている。そして時々暇になると日本に三蔵を突っつき回しに帰って来るのだった。昔と違ってサイズも性格もかなり可愛くなくなってしまった養い子を、それでも今も溺愛している。三蔵は時々その愛は屈折していると思うのだが。 「……そうか」 そう言いながら無自覚でありながら本人もそれなりにファザコンの気がある、と朱泱は思う。何せ小さな頃からそんな父子の関係を見てきてはいるが、反抗期にありがちな“父親を毛嫌いする年頃の男児”という様子を見たことがなかった。のちに見つかった縁者の手に引き渡されるのを拒否して、養父の元に残るのを決めたのも三蔵だ。軽度とはいえファザコンに違いはないだろう。 「ゴノウ、明日三蔵の父ちゃんが遊びに来るからなー」 「さんぞうの、お父さん……ですか?」 「ん、光明さんっつうんだ」 「こうみょうさん……?」 「そーそ、“ひかり”に“明るい”って書いて、光明」 そう言った朱泱を見上げたゴノウは、戸惑っているようにも見えた。 (やっと片付いたか……) それは部屋と荷物と、そして来客についてのことだった。 滅多に客の来ない家だけに、たまに人が訪れると面倒が多くて敵わない、と三蔵は顔を顰めた。元から人に接するのは好きではないのだ。朱泱を玄関まで見送り、同じく見送りをしていたゴノウと共にリビングに戻る。そろそろ日が沈む頃だ。だだっ広いリビングには、ゆっくりと赤い日差しが差し込んできていた。 「……疲れただろう」 「いえ……大丈夫です、いっぱい寝たから」 ゴノウは少しだけ口元に笑みを浮かべていた。とてもとても儚いそれは、三蔵にとっては眩しさすら感じるもので、少しだけ目を細める。きっとこの子は笑うのを忘れていただけなのだ。そして本当は人の傍にいるのが好きな子なのだろう。だけど大人の無体で、人を怖がるようになってしまったのだろう。致し方ないことだ。きっといつか元に戻れる。猫の耳や尻尾は取れなくても、きっと元の人間の自分を思い出せる。もっと自然に笑えるようになるし、自分から進んで人に触れられるようにもなるだろう。そうしたら、ほとぼりが冷めたら、ここを出て、焔と一緒に暮らせばいい。自分は、引取り手を探している間、預かっている間だけの飼い主なのだ。下手に情を移すのは得策ではない。分かっているのに、分かっているけれどどうしていいのか分からない。縋るように見つめてくる幼い目から視線を逸らせばいいのか。おずおずと、躊躇いがちに伸ばしてくる細い手を振り払えばいいのか。そのどれも自分に出来そうにはない。ほんの僅かな時間の間に、これほどまでの執着を抱いてしまっている自分に嘲笑した。 「さんぞうこそ……疲れたでしょう?」 「……いや、そうでもない」 ゴノウの口から、自分への労わりの言葉が出るとは思いもしなかった三蔵は、一瞬目を剥いた。決してゴノウが思い遣りがない子だというわけではなく、人のことまで考えるような余裕がある状態ではないのと思っていたのだった。 大丈夫だと言って見せると、少し三蔵の顔を窺うように、斜め下から見上げてきていたゴノウは、ペコリと頭を下げた。 「今日は、ありがとうございました」 「……あ?」 「服とか、お掃除とか、いろいろ……あの、これから僕も、それをお返し出来るだけ働くつもりです、だから」 また昨日の調子だ、と少々嫌気が差しながらも三蔵は、自分の眼下にある、ぴこぴこと動くゴノウの頭の天頂の髪の毛を撫でた。 「子どもが余計なこと気にするんじゃねぇよ、そう思うなら晩飯の準備でもしろ」 「あ、はい!」 忘れていた、とばかりに慌ててキッチンに駆け込んでいく後ろ姿を見ながら、気付かれないように三蔵は大きくため息をついた。これからは暗い気持ちに陥らせないようにしなくてはいけないようだ。そして、自分と三蔵とが対等な位置である事を認識させなければ、三蔵は本当の意味での彼の“主人”になってしまう。それでは、この家を出た時に、ゴノウは何についていっていいのか分からなくなってしまうのだ。 彼は自立出来なくなってしまう。彼はペットではなく一人の男なのだ。もう、普通の女と出会って恋愛することは一生ないかもしれないけれど、それでも一人の人間として生きるために。ごそごそと背後で冷蔵庫を漁る音が聞こえるのを感じながら、三蔵はキッチンに背を向ける。そして目を伏せた。 これ以上依存しないように、執着しないように。 別れが明日訪れるとしても、何も感じなくて済むように。 メゾネットも捨てがたかったのですが、やっぱりお金持ちということでペントハウス。(偏見) 2005/10/19 |