たとえそれが、本物じゃなくても。

「しまった……」
 三蔵の家には客室というものがなかった。それというのも実際滅多に人のこない家で、ましてや泊まる人間など過去に殆どいなかったため、必要性がなかったのだ。
「……さんぞう?」
 不思議そうに見上げてくる子供の視線を感じつつ、三蔵は顎に当てた手を下ろした。そして何でもないと頭を撫でてやって、一人寝室へ向かった。一応、布団は何枚かあるので使えるには使える。が、寝室はひとつしかない。とすれば、どうするのが一番いいのか。
 何時の間にか付いて来ていた純粋な目に不思議そうに見上げられて少々たじろぎながら、三蔵は寝室のクロゼットを開けて毛布と枕を一式引きずり出した。そしてそれを持ってリビングに向かう。じっとその一連の行動を見ていたゴノウの前で、それをソファの上に置いた。
「さんぞう?」
「……俺は今夜ここで寝る。お前があっちのベッドを使え」
「え、……僕、ここでいいです」
 そう控えめに言いながら、ソファに置かれた毛布の端を掴んだゴノウに、思わずため息を吐きそうになった。が、それをどれだけ彼が気にするかを考えた瞬間、その溜息を咄嗟に飲み込んだ。そして不安そうに三蔵を見上げてくる翡翠の目に向かって、そっと笑いかけた。
「気にするな、今日だけだ。明日になったら空き部屋を掃除してお前の部屋を作る」
「……でも、僕は」

 それでもまだ気にしているゴノウの頭を撫でて、三蔵は一旦リビングを出て、ドアを閉める。そして廊下に出て、大きく息を吐いた。
 後悔、しているのだろうか。自分には荷の重い任務だったのだろうか。元から人と馴れ合うのが嫌いな質だ。そしてきっとゴノウもそうだろう。そんな二人が一つ屋根の下でやっていけるのだろうか。ゴノウに対して嫌悪感はない。寧ろ、大事に大事にしたいと思っている。だからこそ、腫れ物に触れるような態度を取るしかなくて、余計に疲れてしまう。傷つけたいわけではなくて、淋しがらせたいわけでもなくて。
 焔が研究所の外に家を持ってそこでゴノウと共に住めればそれが一番いいのだろう。だが焔は研究所に缶詰で外に家を持つ意味もなく、しかも焔と一緒に住んでいては研究所の所員にゴノウの居場所がばれかねない。彼にとってここは只の隠れ家だ。もし研究所の方でほとぼりが冷め、焔の仕事が一段落ついたらきっと彼はゴノウを迎えに来るだろう。それまでの話だ。そうしたらまた一人の生活に戻る。
(……馬鹿は俺だな)
 自分が一人になりたくないだけだ。

 苛々として自分の前髪を掻き回していると、控えめな音を立てて、リビングから廊下に通じるドアがゆっくり開いた。そしてその細い隙間から、ひょこりと黒い毛並みのいい獣の耳が覗く。続いて現れたのは、不安そうに揺れる一対の眸。
「どうした」
 また何かあったのだろうか、と呼び寄せると、ゴノウはとたとたと三蔵の数歩手前まで歩み寄ってきた。そして、手を伸ばしてやっと届くくらいの距離を保ったまま、そっと口を開いた。
「あの……僕、やっぱり、リビングで、いいです。なんなら床でも……」
「……お前な」
「だって、ペットはそういうものでしょう」
 その言葉に、目を細めてゴノウを見下ろす。するとそれが怖かったのか、彼はビクリと肩を揺らした。
「……誰に言われたんだそんなの」
「キメラは、売りに出される前に、お客様の家で粗相をしないように、教育を受けることになってるんです」
 そのときの事を思い出したのか、ゴノウは顔を曇らせた。飼い主に忠実になるよう誓わされて、人間としての意識を持ちながら犬猫同然の扱いに耐える事を強いる教育だ。それでもいいとキメラになることを選んだ子供と違って、ゴノウは無理矢理に連れてこられた子供である。それから俯きがちになってしまったゴノウの頭に手を乗せて、艶やかな濃茶の髪の毛を撫でてやると、ゴノウは不思議そうに目をぱちくりさせて三蔵を見上げた。
「辛かったな」
 裕福な家に育った三蔵に分かるはずもないことを、無責任なことを言っているという自覚はある。小さな頃から大の大人よりも丁重に扱われ、人間以下の生活など送ったことのない自分だ。キメラになる前の彼がどんなに辛い生活を送ってきたかなんて分からない。キメラになってからだって、三蔵の想像以上に辛い生活だったかもしれない。実際半年前に焔に匿われる前はもっと酷かったのではないか。
 三蔵の言葉に、一瞬目を見開いたゴノウは、その長い睫毛をゆったりと上下させた。そしてふと痛みを堪えるように、フッと目を伏せた。長い睫毛が頬に影を作る。
「……辛くなんてないです。こうして今、さんぞうの近くにいられるから」
「……」
 一瞬何て口説き文句だろうと吃驚して彼の顔を覗きこんだが、彼は本音を口に出しただけらしく、そんな三蔵を覗き込むようにして、不思議そうに眺めている。

「死にたかったのか」
「……はい」
 その言葉にぱっと顔を上げたゴノウの目には、何故知っているのだろうという色が明らかに見え隠れしていたが、焔に聞いたのだろうという結論に辿り着いたらしく、困ったように笑っただけだった。
「僕は、生きる糧をなくしたから」
 先ほどまで幼い色を見せていたゴノウの顔に、ふと自嘲する様な妙な大人臭さが垣間見えた。
 不思議な少年だと思った。普段他人にあまり興味を持たない三蔵でも、今この場で肩を掴んで問い詰めて、全て吐かせてやりたいと思うほどに、その背後に見え隠れする過去は興味を惹いた。そして、彼自身も。だが、初日の今日から彼を怯えさせて距離を置いてしまうのは得策ではない。全ては、出来るだけ、なるだけ警戒心を解いてからだ。三蔵はそう自分の心に整理をつけて、ふうと息を吐いた。
「分かった。そのことは後で考える。……とりあえず風呂に入れ」
「え……はい」
 その背中を押しやりながらバスルームへ誘導する。ドアを開け、バスルームの中を覗き込んだゴノウは、困ったように顔を上げた。
「……使い方がわかりません」
「……」
 言うと思った、と三蔵は肩を竦めた。何せ焔のあの研究室には簡易のシャワールームしかない。それこそ湯と水のコックしかついていない簡単なものだろう。三蔵の家のそれのようにタッチパネルで操作する方法など分からないはずだ。
 戸惑ったように見上げてくるゴノウにため息をついて、三蔵は自分の前髪をくしゃりと掴んだ。
「……とりあえず、脱げ」

 普通なら従うか躊躇うような唐突な言葉にも忠実に、ゴノウはぱたぱたと服を脱ぎ始めた。脱ぎ捨てられたツナギを拾い上げると、大分くたびれているのが分かった。薄いグレーの生地なのかと思っていたが、本当はもう少し濃いチャコールグレーだったらしかった。
 そういえば寝巻きには何を着せたらいいのだろうと考えながらそのツナギを洗濯籠に投げ入れた。そしてスラックスの裾を捲り上げながら浴室に戻ると。
「……お前な……」
 浴室でぽつん、と立ち尽くしていたのは、Tシャツ一枚と靴下だけ身に着けたままのゴノウ。少し恥ずかしそうに目元を赤くして上目遣いに三蔵を仰いだ。そりゃあそうだ。恥ずかしくないわけがない。しかも今日会ったばかりの男の前で。だが、その格好は。
「犯罪の匂いがすんだろうがよ……」
 白のだぼだぼとしたシャツは恐らく焔のお下がりだろう。余裕で臀部を覆うほどの長さが、余計に危険な香りがする。今この瞬間誰かに見られたら、犯罪者のレッテルを貼られることは間違いない。
「……恥ずかしいならそのままでもいい、湯の出し方教えるから覚えろ。……靴下は脱げ」
 そう言われて、慌てて靴下を脱いで洗濯籠の方へ歩いて行く後ろ姿を見て、大きくため息をついた。そして浴室の天井を、助けを乞うように仰いだ。
「犯罪者になるつもりはねぇぞ……」
 そう口に出して、自分でぎくりとした。慌てて首を振ってその一つの可能性を頭から追い出すように別の事を考えるよう努めた。

 とたとたと浴室に戻ってくるゴノウを中に入れ、浴室のドアを閉めた。きょろきょろと中を見渡すゴノウを横目に、三蔵は壁に取り付けられたシャワーヘッドを取り、ゴノウに見せるように掲げた。
「ここから水が出る、それは分かるな?」
「はい」
 ゴノウは利口にコクンと頷いて見せた。それを確認して三蔵は、タッチパネルで温度設定をし、コックを湯の方に捻った。途端にシャワーヘッドからは細かな水が吹き出し、タイルを濡らしていく。
「で、暫く待てば湯が……っ?」
 そう言って、背後のゴノウを振り返る。ゴノウは、気が触れたように全身をガタガタを震わせていた。その目は三蔵の持つシャワーヘッドから叩きつける水飛沫だけを見つめていた。
「……ゴノウ……?」
「……とめて、……止めて下さい……!」
 水に怯えたように、浴室から逃げようとドアを開けようとするその身体を無理に抱き寄せ、慌ててシャワーを止める。水音が止むと、ゴノウは三蔵の腕の中で安心したように細い息をゆっくりと吐いた。その眦からぽろりと涙が溢れる。それを見ながら三蔵は内心かなり動揺していた。
 猫は風呂を嫌うものがあるというのは知っている。だが、水を見ただけでこれほどまでに怯えるものだろうか。水や湯といった温度に関係があるとも思えず、とりあえず三蔵はまだ微かに震えるその身体を擦り続けた。
「……水が、嫌いか?」
 躊躇いがちに出した三蔵の声に、ゴノウは腕の中でゆっくりと顔を上げた。そしてふるふると首を振る。振ったものの、何も答えてくれる様子はなく、そのまま顔を伏せてしまった。無理に過去を聞き出すことはしないと先ほど心に誓ったばかりだったので、三蔵は今にも問い詰めたくなる気持ちを抑えて、その顔を覗き込んだ。
「……バスタブに湯を溜めれば入れるか?」
 背中をぽんぽん叩きながらそう言うと、ゴノウは腕の中でこくりと頷いた。
「……はい。ごめんなさい」
「謝るな。すぐに溜まるからここで待ってろ、俺は着替えを取ってくる」
 ゴノウから腕を離し、バスタブの蛇口を全開にしながらそう告げて、その頭をぽんと叩いて浴室を出る。外の空気は少し乾いていて心地が良かった。

 ゴノウが怖いのは水や湯自体ではないのだ。それでは何だろう。シャワーヘッド、水飛沫、水音。そう悶々と考えながら自分の部屋に戻り、クロゼットを開ける。なるべく小さなシャツを探しながら、焔の言っていた話を頭の中で反芻する。ゴノウは自傷に走ったことがあるという。しかし家事を任せている以上、包丁に触れるなというわけにはいかない。とりあえず剃刀だけでも片付けておこう、と頷いた。

 三蔵がシャツを持って浴室の前に行くと、磨りガラス越しに立ち尽くす小さな姿が目に入った。
「ゴノウ、半分以上溜まったならそのまま入れ。シャツは脱げよ」
「あ、はい……」
 すると硝子越しにその姿がもぞもぞと動き、少しだけドアが開けられ、その隙間からシャツが出された。パタン、とドアが閉まるのを確認した後、三蔵はそのシャツを拾い上げ、洗濯籠にそれを放った。その後少し考えた後、洗濯籠の中身を洗濯機の中に空けた。そしてそのまま洗濯機を回すことにした。寝床の問題をどうするかが、まだまだ頭の痛くなる問題ではあったが。

 浴室のドアの前にシャツやタオルを置いた後、三蔵は唸りながら寝室に立っていた。どうしてもゴノウが譲らなかった場合、自分がここに寝て、彼をソファに寝させるほかない。別に彼をソファに寝せるのが嫌なわけではない。が、ソファに寝せることで、彼が自身を三蔵より格下の、それこそ自分はペットレベルの立場だと認識してしまうのが嫌だった。
(どうしたものか……)
 元々面倒の嫌いな三蔵は、幾度となく匙を投げそうになりながら、あの震えた肩を思い出してはその怠惰な気持ちを振り切ってきた。たとえ自分が、彼が焔と一緒に暮らせるまでの繋ぎだとしても。泣かせないと決めたからだ。


「さんぞう……上がりました」
 ひょこ、とリビンクに顔を出したゴノウは、丁寧に髪の毛をタオルで拭っていた。着ているのは、とりあえず三蔵の大きめのワイシャツ一枚とトランクス……だがサイズが大きくて殆ど短パン状態になっている。
 いたいけな子供に酷いことをしているような気分になって三蔵は何となく良心が痛んだ。実際悪いことは何一つしていないつもりだ。
「……ああ。じゃあ、ここがいいなら、ここで寝ろ」
 もぞもぞと髪を拭いているその手の上から自分の手を重ね、少し乱暴に髪を拭く。
「うわ、わわっ」
 そしてバッとそのタオルを取り去ると、びっくりしたようにその大きな目に三蔵を映した。
「もう俺も風呂に入って寝るから。お前は好きなときに電気を消して寝ろ」
 そう言って電気のスイッチの場所を指差して見せる。その瞬間、ふとゴノウが淋しげな目をしたが、それはどうせ焔が傍にいない喪失感のせいだろうと考えた三蔵は、まだ湿ったその頭を一撫でして、リビングに背を向けた。パタン、とリビングのドアを閉めた瞬間ガラスのドア越しに、濡れた翠玉が切なげにじっと此方を見つめていたのだけが、どうしようもなく気になったのだけれど。

 その抗い難い視線に気付かない振りをして、三蔵はバスルームに入り込んだ。手早く服を脱ぎ浴室に入って、バスタブに溜まった湯を流す。そしてそのままいつも通りシャワーヘッドを手に取った。そしてそのシャワーをじっと凝視する。これにゴノウを怖がらせた要因があるのだろうか、それとも他の。水は怖くないと言っていた。水自体ではなく他の何かなのだ。思い当たるものがないわけではない。それは三蔵も同じく苦手なものだ。だが勝手な思い込みで彼と自分とを結びつけるのは得策とは言えない。だが、一応その日は気を付けておこう、とそれを三蔵は頭に刻みつけた。
 次の雨の日は、いつだったか。
 三蔵は、頭上から降り注ぐ、その空から叩きつけるそれに似た水飛沫を受けて、ゆっくり目を伏せた。

 三蔵が風呂から出て、廊下からリビングの方を見ると、もう既に電気は消えているようだった。どうやらちゃんと寝たらしい、と息を吐いて、自分もベッドルームへ向かった。そういえば今までにないほど心身ともに疲れている。睡眠欲を訴えるように脳の中心がくわんと揺れた気がした。真っ暗なベッドルームに入り、電気を点けて消すこともせずにそのままベッドに潜りこんだ。慣れたシーツに身体を沈めて、大きく息を吐く。






 かたり、と。物音がした気がして、三蔵はゆっくり目を開けた。気付けば何故か大分頭が冴えているようだった。きっと身体が疲れているせいで頭が冴えているのだろう、と、ごろりと仰向けの格好になって、夜目の利くようになった目で天井を見上げた。
 しかしすぐに再び響いた、何かが動いたような物音に、反射的に三蔵は身体を起こした。
(……寝てないのか……?)
 蛍光塗料の塗られた置時計の針は午前二時を示している。もう寝ていてもおかしくない。それとも慣れない場所のせいか寝られないのだろうか。とりあえず見に行こう、とベッドから両足を下ろして、フローリングに足をつけた。
 ひたり、ひたりと廊下を歩いてリビングへと向かう。やはり電気はもう消えている。突然で驚かせないようにそっとドアを押し開けた。その途端、顔にふわりと柔らかい風が吹きつけてきた。
(……?)
 目を細めながら、真っ暗な室内をぐるりと見渡す。その視界にふわりと揺れる白い影が見えた。それに向かって足を進めると、それはベランダの戸に取り付けられたカーテンだ。そして、それに包まるようにして外を眺めているのは。
「……ゴノウ?」
「あ……すみませ……」
 ゴノウはちょこん、とドアの前に座りこんで、開けられたドアから外をじっと見つめていた。突然声を掛けられ、驚いたように肩を震わせて立ったままの三蔵を見上げる。
 体育座りのような形で座っていたゴノウの横に膝をついて、その少し頼りない表情を見下ろす。
「……どうした」
 寝られないのかと問うと、少し困ったように微笑んだゴノウは、こくりと頷いた。そして自分の膝をぎゅっと引き寄せ、それに顔を埋めるようにして小さくなった。その、少し躊躇ったかのような沈黙の後、ゴノウはくぐもった声で呟いた。
「少し、さびしくて」
「……焔がいないからか?」
 自分の言ったその言葉に、微かに胸に痛みを訴えながら。しかしゴノウはその言葉にふと顔を上げ、少し頭を傾けた。
「……と、いうか……僕、今まで寝る時、一人で寝たことなかったから」
「は?」
「ほむらと一緒に寝てたので……ちょっと淋しくて」
 あの犯罪者、とギリギリ奥歯を噛み締めながらも、三蔵がそのままの表情を保てたのは称賛に値すると思う。というか、あのベッドで。あの小さなシングルの、病院のベッドみたいなベッドで。いくらゴノウが細いからといって、あのベッドじゃ焔一人で寝るので十分、というサイズだ。寝れなくはないと思うが。
「……」
「おかしいですね……もう十五になるのに」
 呆れられているのだろうと項垂れたゴノウは、そう言って自嘲するように笑った。いや、呆れてはいるがそれは焔に対してのものであり、彼に呆れた訳ではなかったのだが彼はそのまま誤解をしたようで、しゅんと引き寄せた自分の膝に顔を埋めて小さくなってしまう。
「別に、いいんじゃねえのか」
「……?」
 そろり、と三蔵の顔を窺うように首を擡げたゴノウの髪を撫でてやる。艶々と三蔵の指にならってさらさらと揺れる。
 綺麗だ。
 ベランダから彼が眺めていたのは月だったようだ。ゆらゆら揺れるカーテンの隙間から、大きな満月が見える。月下の黒猫、というのも何だか、何か不思議な気分になる取り合わせだと思う。月明りにだけ照らされたゴノウの一対の瞳が不思議な色に輝く。そうするとやはり片方は贋物なのだと分かってしまう。勿体無かった、と思う。この瞳が完全な一対ならば、と願ってしまう自分がいる。ゆらり、とゴノウの背後で黒い尻尾が揺れ、ぴくりと黒い耳が動く。その耳を宥めるように撫でてやり、大きな音を立てないように、その横に座り込んだ。
「さんぞう?」
「俺は相手の気持ちを慮るのが得意じゃない」
「……?」
「だから、お前が嫌なものがあれば言葉にして貰わないと分からねぇし、何かして欲しいことがあってもしてやれん」
 そう言って、横でじっと三蔵を見上げるゴノウに視線を下ろした。月明りに揺れる二つの翠玉が濡れたように控えめに光る。
「お前が俺と平和に暮らしたいなら、覚えておけ」
「……はい」
「で、言ってないことがあるだろう」
 それこそ叱られた子供のように小さくなったゴノウは、うるうると非常に庇護欲を煽る瞳で三蔵を見上げ、小さくすみません、と謝った。
「……雨、が」
「……」
「……雨が、嫌いなんです。怖いんです」
 嫌なことを、思い出させるから。続けられた言葉に、三蔵は目を見張った。
「雨の中で一番大事なものをなくしてから、雨はずっと嫌い……なんです」
 ぽつり、とゴノウは呟いた。その目は、じっと視線の先、大きな満月を見つめていた。
「……そうか」
 その目は、まるで日の下で見ていたゴノウとはまるで別人のような気がして、少し怖くなった。それを誤魔化すように三蔵は相槌を打って、その頭に手を乗せる。するとゴノウはゆっくりと三蔵を見上げた。そして、お風呂ではすみませんでした、と小さな声で言った。
「構わん。……俺も雨は好きじゃない」
「……そうなんですか……?」
「少なくとも良い思い出はないな」
「……?」
「俺は捨て子でな。今の養い親に拾われるまではずっと雨ざらしの生活だった。そういうわけで雨にはいい思い出はない」
 そう言って、くしゃりとその髪を撫でると、ゴノウは不思議そうに目を瞬かせた。そしてじっと三蔵の瞳を見上げてくる。
「さんぞうは、淋しくなかったですか?」
「……さあな。本当に小さい頃だったから記憶にない」
「でも、一人ぼっちは淋しいでしょう?」
 そう言うゴノウの口調は、寂しくなかったと意地を張る三蔵を非難するようでもあったが、目には少しの哀しげな色を滲ませていた。
「……そうだな」
 淋しくないなんて言えない。
「でももう忘れた」
「……どうしてですか?」
「別にもう一人じゃねえからな」
「……」
 そう言い放つ三蔵を、ゴノウは羨ましそうに見上げて、ふいと目を逸らした。それを見逃さずに三蔵は鋭い口調で諌めた。
「僕は一人だとか抜かしやがったら殴るぞ」
「え……」
 弾かれたように顔を上げたゴノウの目は明らかな驚きに満たされている。その目に眼を付けるように見下ろした三蔵に、ゴノウは怖がることもせずに答えが与えられるのをじっと待っている。
「ンなこと言ったら焔が泣くぞ」
「どうして」
「お前は焔と一緒にいるときも自分は一人だと思ってんのか」
「……」
「あいつはお前といることで二人だと思ってるだろうな。お前はそうじゃないのか」
 虚を突かれたように目を瞠ったゴノウは、苦しそうな顔でふるふると首を横に振った。
「今こうしてお前が、焔がいなくて寝られないのがその証拠だろう」
「……はい」
 こくり、と首肯したゴノウは、ぎゅっと自分の膝を引き寄せた。そしてその上に顎を乗せるようにして、また月を仰ぐ。それを見ながら三蔵は心の中だけで嘆息した。
「……しかも、俺がこれほど近くにいるのに一人だ何だと抜かすのは失礼ってもんだ」
「え?」
 ぴく、と黒い猫の耳が動き、じっとゴノウが三蔵を見上げてくる。
「……何でもない。そろそろ寝ねぇと朝になるぞ」

 何となくばつが悪くなって、妙な空気の漂い始めたそこから逃げるように三蔵は立ち上がった。驚いたようにゴノウが見上げてくるのを気付かない振りで、ドアを閉め直す。その間にもゴノウはじっと三蔵を見つめている。無言の重圧に負けそうになりながら戸を閉め、カーテンを引くと、勢いをつけて振り返った。彼の願いは悟れなくもない。そしてそれは無理もないことだと分かる。
「……一人で、寝られるか?」
「ね、寝られます」
「そうか、それじゃ」
「う……」
 いざ三蔵が背を向けると切なげな目を向ける少年に、いい加減気が短くなってきた三蔵はその背と膝の裏に腕を回して抱き上げた。所謂横抱きというやつだ。
「わ、ちょ……!」
 驚いたように声を上げ、三蔵を見つめる視線に気付かない訳ではなかったが、いい加減心の平和が欲しい三蔵はその訴えを無視してそのまま寝室に向かった。部屋に入り、足でドアを閉めてそのままその身体をポンとベッドに放る。軽い身体は程好くスプリングのきいたベッドの上で少し弾んだ。
「……?」
 びっくりして身体を起こそうとするその頭を押さえて枕に押し付け、三蔵はその横に身体を滑りこませた。そして足元の方に追いやられていた布団を持ち上げて自分とゴノウの身体に掛けた。
 三蔵の方を向いたかたちになっているゴノウの目が、ベッドサイドのランプに照らされている。そのライトを消すと、その部屋に光が存在しなくなる。
「……寝ろ。いいから」
「……はい」
 驚いたようであり、少し嬉しそうな様子でもあるその声に、やっと息を吐いた三蔵は、今日一日の疲れが一気に襲ってくるのを感じた。瞼が意識せずにゆっくりと降りていくのを感じる。
「……おやすみなさい」
 そう、ゴノウが言ったような気がしたが、それに三蔵は返事をすることは出来なかった。







  


ゴノウが思うように喋ってくれない……!次回くらいからいろんな人登場。       2005/9/16