何も変わらぬ朝だった。少しいつもよりも寒くて空気の透き通った朝。昨日夕方出張から直帰し、その後食事も摂らずに日の沈む前から布団に潜ってしまっていた。寝室から重い足取りで出て、リビングのテーブルの上に置かれていた携帯電話のメールを無意識に確認する。友人などから二、三通届いてはいたが、最も気にしていた相手からのそれは届いておらず、捲簾はすぐに不要とばかりに他のメールを読むこともなく携帯電話をソファに放り投げた。一、二ヶ月会っていなかったものの、メールは欠かしたことがなかったのだ。どんな状態で彼がそれを打っているのか分かりはしなかったが。
 そしてとりあえず一服した後、新聞を取りに家を出る。そして郵便物などと一緒に、大きめの封筒が放り込まれているのに気付いた。
 家の中に戻り、郵便物を軽く確認しながらも意識はその大きな封筒へ向かっていた。封筒の表面に書かれた社名は、八戒と天蓬の勤務する出版社だったのだ。しかも、宛名は書かれておらず消印もない。誰かが直接放り込んだのだ。悪戯にしては、どうしてこの会社の封筒なのかが疑問になる。他の郵便物に一通り目を通し、纏めてから、ソファに腰を落ち着けてその封筒を開いた。封がされていない。中には何か固く四角いものが入っているようだった。有り得ないだろうが危険物だったら、と思い、封筒の口を開いて中を覗き込んでみる。入っていたのはハードカバーの本が一冊。何か嫌な予感を感じてそれを取り出す。いつも見慣れたあの、玄奘三蔵の写真とデザインだった。そして帯に書かれた文字をゆっくり指でなぞる。
 封筒をテーブルに置いて本を開いた。そして一ページ目からゆっくりと目を辿らせた。そしてついそのまま本の内容へと入り込んでしまっていた。それからどれくらいの時間が経ったのか、突然震え出し音を立てた携帯電話に思わず本を取り落としかける。いつもなら取らないところだが、何となく気になってディスプレイを窺う。表示された名前に捲簾は慌てて通話ボタンを押した。

『郵便受け見たか?』
 開口一番ぶつけられた言葉に舌打ちしそうになる。それを何とか押し留めて、捲簾は何とか落ち着いた声色を心掛けて問い返した。
「これ入れたのお前か? どういうことだ」
『明後日、来週月曜に書店に出回る新作。昨日八戒から見せられて、すぐにお前ん家行ったんだけど何回チャイム鳴らしても出ねーし電話にも出ねーしメールも返事ねーし……やっぱり家にいたのか?』
 疲れきっていたにしても、何度チャイムを鳴らされても電話をされても起きなかった自分に情けなくなる。軽い自己嫌悪を感じ、ソファの上で項垂れつつも電話越しの悟浄に訊きたいことはまだまだあった。
「悪い、寝てたんだ。で、これはどういう……」
『ちょっとページ開いてみ』
 そう唐突に言われて戸惑いつつも、携帯電話を持ったのとは逆の手に持った本を見る。そして先程までに読み終えた部分に指を挟んだまま、彼に従って表紙から順にページを繰る。
『後ろの方のページだ、小説が終わった後んとこ』
 言われた通りに作品部分を飛ばして終わりの方をぱらぱらと繰る。エンドマークの打たれたページを見て、そのページをそっと繰った。その次のページにあったのは、後記だった。今まで四作書いてきて、一度も無かったこと。それが彼が、自分の作品に自己を反映したくなかったからだ。いつか消えるため、何も残さずにどこかへ消える時のため。
 当たり障りのない後記は一ページの半分にも至らない短いもので、どこか無理をして書いたようにも見受けられた。内容は全く自分には触れていなかった。そしてその、どこか浮いたような後記の末尾、ペンネームと共に添えられた一行。

“桜の季節はとても待てそうにありません”

 指先が竦んで思わず本を取り落とし、テーブルの角に当たって床に落ちた。その音と沈黙に、電話の向こうの悟浄は少し訝しげに捲簾の名前を呼んだ。
『おい、どうかしたか?』
「……いや、ちょっと物落としただけ……」
 おかしいくらいに自分の声は動揺していた。そんな声に内心舌打ちしつつ、悟浄がそれに感付いていないようにと願う。しかし、捲簾の様子がおかしいことに気付いたのか気付かなかったのか、悟浄は僅かに間を置いた後、話を続け始めた。
『お前、それに何か心当たりないか? 八戒もその見本が出来て来るまで後記があるなんて知らなかったらしいんだ。だから天蓬が入れたんだとしたら、態々八戒を介さずに直接……』
 手がおかしいように震えて、唇を噛む。そしてそれ以上は平静を装うことは出来そうになくて、彼に悪いと思いつつも通話を一方的に切った。そしてすぐに電話を掛け始めた。無論この本の著者、天蓬へと。しかしコール音を予想した耳は裏切られ、届いた声は無情なものだった。機械的な女性の声で、その番号はもう使われていないとのことだった。
 乱暴にその冷たい声を遮り通話を切って、苛立ち紛れに携帯電話をソファに投げた。すぐにクロゼットを開きダウンジャケットを引っ張り出す。そして車と家の鍵、封筒に突っ込んだ本だけ持って、ジャケットを羽織るや否や玄関を出た。主人の消えた家の中、放り投げられた携帯電話がぼんやりとランプを光らせていた。


 彼のマンションに着き、駐車場に車を停めてすぐエレベーターに飛び乗る。休日ということもあり、ちょこちょこ人が乗り込み動きの遅いそれに苛立ちつつも唇を噛んで堪える。そしてやっと辿り着いた十二階を足早に抜け、来慣れたドアの前に立ち止まる。ネームプレートは入ったままで、恐れていた事態の一つは回避された。一度チャイムを押し、しかし待ちきれなくて続けて二回連打する。彼は出てくることはなかった。続けてまた二度チャイムを押すも応答はない。焦れた捲簾はそのままノブに手を掛けた。抵抗があるかと思われたそれは自然に回り、引くとそのドアはすぐに開いた。在宅なのか。しかしそうだとしても鍵が開いているのはおかしい。そこまで来て、以前のことを思い出して背筋が寒くなった。彼の祖母が亡くなった次の日の朝、彼は鍵も掛けずに家で一人、死人のような顔で座り込んでいたのだ。そんな風にまた彼に何かがあったのだろうか、と慌ててドアを開け靴を脱ぎ捨てて家の中へと踏み込んだ。
 彼はいなかった。いつも着ているコートも置いていない。いつも無造作に置かれているボストンバッグも、いつもリビングの真ん中に置かれていたローテーブルも見当たらない。ふっと、まるで消えたように。
『ある日突然何も残さずに―――――』
 細く吸い込んだ息で、心臓が凍てついたような気分になった。脇に抱えた封筒に入った本を手の平で感じる。これが、何もかも残さずに出ていった彼がたった一つ残したものだなんて信じられない。こんなに呆気なく、本を一冊だけ残して消えるなんて信じたくない。すぐにリビングを背を向け、靴を引っ掛けてエレベーターに走った。運良くすぐにやってきたそれに乗り込み靴の踵を直す。その指が冷たく震えていた。心当たりなんて幾つかしかない。しかし今の自分はそれに縋るほかに方法がなかった。
 焦る気持ちを押さえて向かった彼の祖母の家は、もう綺麗に掃除されて他の家族が住み始めていた。会わない内に彼が家の中の不要な家財道具を捨てて売りに出してしまったのだろう。住む人間が違うだけで同じ家が全く違った雰囲気になってしまうものだ。落ち着いた日本家屋が、まるで違う場所のようだった。中から元気な子供の声がする。捲簾は車の窓を閉めて再び走り始めた。感傷に浸っているような時間はない。尤も、もう既に手遅れなのかもしれなかったが。走らせた車の窓から川が見えた。河川敷では子供たちがころころと走り回っている。
(……それじゃあ)
 心当たりなんてそんなにない。彼と会うのは殆どがどちらかの家だった。そこでも、彼の祖母の家でもないとしたら一体。一瞬、思案した捲簾は車の方向を変え、先程とは逆の方へと走り出す。やっと辿り着いた場所で駐車場を探し停める。そして本を助手席に置いたまま車を降りた。表紙の写真には、黒いカンバスにナイフで傷を付けたような細い三日月が鋭く光っていた。

 こんなに走ったのは久しぶりではないだろうか。白い息を吐きながら砂利道を走る。ダウンジャケットが暑く感じた。前のファスナーを僅かに開けて冷たい空気を送り込む。仰いだ空は青く雲の一つもない。薄く掻いた汗が冷たい風に撫でられて寒い。この河川敷は一層その冷たさが増したようだった。いつか彼の隣で横になった河川敷。人一人いないそこに、ぽつ、と立ち尽くす小さな姿を目の端に捉えて、無意識に走り出していた。まだそれは自分に気付いてはいない。そして音に気付いたか、その横顔はゆっくりと動いてその鳶の眸が捲簾を映した。そしてそれが大きく瞠られ、諦めたように伏せられた。
「……もう、間に合わないかと思った」
 彼の横にはいつものボストンバッグが置かれている。いつものコートを羽織ったその肩がふるりと震え、伏せられた瞼も小さく震えた。そして自嘲するように唇だけで微笑んでみせた。
「さっさと消えてしまうつもりでした。……けど、本当は探して欲しかったんですね」
 そうでなければ、あんな取って付けたような後記を付けたりはしまい。今にも泣き出しそうな俯き加減の顔に苛立ちにも似た思いを抱き、両手を彼に伸ばして強く抱き留めた。彼は抵抗も何もしない。逃がさないように抱きしめるのに、すぐにでも腕をすり抜けていきそうで不安が消えることはない。黒く長い髪がコートの肩をさらりと流れて風に煽られる。
「未練たらしくあんなものを残して……醜いことです」
 自嘲するように言った彼が、自分の胸元で小さく笑った気がした。
「あれを書いたらすぐに消えてしまうつもりだったのに、あなたのことを思い出したら」
 つい足が止まってしまいました、と呟いて彼は緩く頭を振った。それを見て何だか泣きたいような気分になる。どうしてそんなことを言うのに、消えようとするのだろう。このまま、どうしてそのままここにいようとしてくれないのか。大切なものを奪われまいとする子供のように彼の背中を抱き寄せた。
「うるせぇよ……」
 その呟きに、腕の中の彼がそろりと顔を上げた気配がした。その顔を見ることも出来なくて彼の肩に額を付けたまま低く詰問する。
 車に置いてきた途中まで読みかけの本は、美しく聡明な女性と、彼女しか拠り所のなかった孤独な男の話だった。そしてその彼女を亡くして、今まで当たり前にしてきた“生き方”を忘れてしまった男が、ある日出会った行きずりの男に死の淵から引き摺り戻される。捲簾が読んだのは途中までだ。その以後、彼がどんな風にストーリーを組んでその男に最後を与えたのかは分からない。彼がそのまま、男に死を思い留まらされてそれから幸せに暮らしたとは思えない。
「未練たらしくって……未練があるならここにいればいいだろ! お前はここに未練がないから消えようとしてたんじゃないのか」
「……」
「ふざけるなよ……」
 冷たく殺気染みたものが混じってしまったその声に、腕の中の彼が僅かに身体を震わせた。沈黙する中、耳の傍を強い風の音が通り過ぎていき、高く鳴く鳥の声が耳についた。その中自分の鼓動の音ばかりが大きく鼓膜を震わせていた。
「……多分、ずっと淋しかったんです。今までずっとおばあちゃんしか凭れ掛かれる存在がいなくて、だから彼女がいなくなった時にはもうここにはいられないだろうと思っていました」
「……」
 そう言ってから彼は、捲簾の身体を押し退けた。彼は笑っていた。それはいつもの完璧な笑顔だったが、今ならその裏で彼がどんな風に考え、苦悩して、一人きりで泣いていたのかが分かる気がした。
「あなたがいたから、もう少しここにいられるような気がしていたんです」
「……俺は今も、これからもここにいる」
 どうしても、と彼を引き止めることが出来ないことは分かっていた。それが自分の意に添わないことだとしても。彼は表情もなく、行き場をなくした子供のように立ち尽くして、じっとこちらを見つめている。
 本当に愛している者がいるなら自由にしてやれ、という言葉を聞いたことがある。戻ってきたなら自分のもの、戻って来なかったならば元々自分のものではなかったのだと。それはまだ自分には難しいことだった。しかしこれ以上駄々を捏ねて許されるような歳ではない。気を緩めればまた彼に追い縋りたくなりそうな自分を抑えて笑おうとしたがうまくいかず、俯いた。
「行かせたかねぇけど、どうしても行くって言うなら止められない。でも、帰りたくなったらいつでも」
 そこまで何とか口にした時、急に胸に衝撃を覚え、厚いダウン越しに緩い力を感じた。顔を上げた視界の横で黒髪が風に靡いている。川を跨ぐ鉄橋を電車が渡っていく音が耳を劈き、高鳴る心臓の音を掻き消した。
「また、何かをみすみす失うのは、……」
 そこまで言って彼はゆるゆると頭を振った。胸に伏せられた顔は窺うことが出来ない。ややあって指をその小さな頭に伸ばし、恐ず恐ずと髪を梳いた。自分は行かせたくなくて、彼も行きたくないのならこれ以上意地を張り続ける必要があるのか。そう考えて答えが出るまでに、然程時間は掛からなかった。
「馬鹿なこと言わないで、ここにいればいいだろ」
 コートに包まれた肩を抱きしめる。その黒いコートの肩に白い結晶が落ちてきて、透明になっては消えていく。何度指で拭ってもその冷たい結晶は降り注いでくる。それにも構わず、濡れたコートの肩に頬をつけてその身体を掻き抱いた。しっかり抱き留めているはずなのに、すぐにでもすり抜けていきそうな気分に駆られる。
「―――――……行くな」
 ややあって厚いダウンの生地越しに、背中に回される弱い力を感じた。そんな少し遠慮がちな力がもどかしく、それを埋めるように一層強く抱きしめた。すると次第に彼の肩が小さく震え始めたのに気付いた。そして漸く彼が笑っているのだと気付いた時には、小さな笑い声が聞こえ始めていた。胸に伏せられたままの彼の頭が揺れる。
「……痛いですよ、もう」
「るせぇ」
 何だか決まり悪くてそう短く呟くと、ますます彼は大きく肩を揺らして笑い始めた。こんな寒い中だというのに頬が熱く火照る気がした。ぱたぱたと白い結晶が肩に髪に、落ちては解けていくのをじっと見つめていた。
「……雨?」
 頭の上に載った結晶が解けて冷たさを感じたのか、彼がやっと顔を上げた。その途端、彼の頬にぴたりとその雪が落ちてくる。そして静かに解けたそれが彼の頬を伝って流れた。捲簾はそれを半ば無意識に指先で拭い取り、抱きしめていた身体を解放した。そして斜面の芝に置かれた彼のボストンバッグを、上に薄く載っている雪を払って持ち上げる。彼は、こんなもの一つに収まってしまう分しか持ち物がないのだ。それは全て、今この日のため。
 その、彼の全ての持ち物が入ったバッグを片手に、彼の元へと戻る。そしてぽつんと立ち尽くす彼のコートの袖を引いて歩き出した。
「捲簾?」
「帰るぞ……家だ、朝っぱらから疲れた」
「……捲簾、あの……」
「何だ」
 言う言葉が見当たらなくて、ついつっけんどんになってしまう。しかし彼は全く意に介さず、何か懸命に訴えようとしている。訝って振り返ると、彼は言葉に詰まったように顔を逸らした。そして唇を舌で湿らせた。
「あなたにもらったカップ、割ってしまったんです。……うっかりじゃなくて、その、わざと」
 すべて捨て置いていくと言った彼のことだ、きっとそんなことだろうと思っていた。しかし珍しくしおらしげな彼がおかしくてつい笑ってしまった。あんなただの陶器のことを気にすることはない。幾つでも替えはあるのだ。
「……また買ってやるよ。今度はピンクにしてやろうか」
「……悪趣味」
「そうか?」
「お返しに黄色の買って贈りましょうか」
「いらねー」
 笑って返し、彼のコートの袖を掴む手に力を込める。家に帰って少し落ち着いたら買い物に行こう。彼の部屋にまともな暖房器具を入れなければならない。これから彼が、ずっと生活していく家なのだから。それと、捨ててしまったローテーブルの代わりも買わなければならない。きっと布団も捨ててしまっただろうから、それも。彼にはまだまだ必要なものがたくさんあった。そして、ふと立ち止まる。
「天蓬」
「はい?」
「―――――晩飯、何がいい?」
 その言葉に、彼はその明るく光を持った鳶の眸をゆっくりと瞬かせた。そしてくすぐったくなるような笑顔で笑う。
「じゃあ、肉じゃがで」
 捲簾は頷いて、再びゆっくりと歩き出す。それを追って天蓬も歩き出した。白く、冷たい結晶がちらちらと視界を過ぎっていく。髪に纏わりつくそれを、頭を振るって払った。
 桜の季節まで、寒く淋しい季節が終わるまで、あと二月ほど。


 悟浄は、ソファで物思いに耽る男の前にコーヒーカップを置いた。彼が淹れるほどには美味くはなかろうが我慢してもらおう。彼はソファに座り、腹の上で手を組んだままどこか遠くを見るような顔をしていたが、コーヒーを出されたことに気付いて背凭れに預けていた身体を起こした。そして緩慢な仕草で右手をカップへと伸ばして、そのカップを両手に包んだ。
「……面白くないのは分かるけどな」
「結局、弟ってだけで、僕は彼を何一つ変えられはしなかったってことですね」
 一口コーヒーを口に含み、視線を落とした。その眸には落胆と僅かな妬みが宿っているように思えた。それは彼の兄へ、唯一の影響力を持つ男へ向けてのものだ。それは、彼が理性ある男だから辛うじて堪えていられるような激しいものだと分かる。
「お前があの本を捲簾にやれって言ったんだろうが」
「言ってませんよ」
「……あの本渡してどうにかしろって言われたら、そうするしかねぇだろ。お前に出来ないことが俺に出来るわけねぇんだからな」
 八戒が、悟浄が何を言ってもきっと天蓬の意志が揺るぐことはないだろう。ただ、彼ならば、と思うのは自分も八戒も違わないはずだ。分かるからこそ憎たらしいという気持ちが分からないではないのだが。
「お前の兄貴が幸せになるっつってんだ。祝ってやれよ」
「……祝えませんよ、あの男といる限りは」
 天蓬の最後の伝言である本は、捲簾に渡した。だからあの男は今頃天蓬を追っているのだろう。天蓬も、あんな分かりやすいメッセージを残すくらいだから本気でいなくなるつもりはないはずだ。探してくれるのを、きっとどこか彼らだけが知る場所で待っているに違いない。
「……まぁ、お前に祝ってもらえないからって諦めるような奴等とは思えないけどな……」
 そう思わず呟くと、彼から絶対零度の視線を浴びることになる。彼はその鋭い翠の眸を瞼に収め、息を細く吐きながら俯いた。そして暫く何も言わずに俯いていた彼は、その眸を薄く開き、じっと悟浄の心の内を見透かすように睨み上げてきた。しかしもう随分慣れてしまった悟浄は、その鋭い視線を真正面から受け止めて静かに見つめ返した。
「……まさか最初から、あの男を彼に会わせたところからがあなたの計画だったわけではありませんよね」
「そんなことして俺に何の利益があんのよ」
 そう言うと、悟浄は鼻から息を吐いた。カップを両手に包み込んで黙っていた八戒は静かな眸でそれを見上げ、自嘲するように笑った。そしてカップをテーブルに戻し、膝の上で頬杖をついた。
「……自分に不利益であっても人のためならやってしまうのがあなたでしょう。そういう愚かなところ、全く変わっていませんね」
「……ほっとけ」
 悟浄はカップをテーブルに置いて、八戒の座るソファの隣へ腰掛ける。そして手を伸ばして彼の頭をぐりぐりと撫でた。髪が乱れたことに八戒は不快げに顔を顰める。しかしその手を振り払おうとはしなかった。
 彼は淋しかったのだ。父も母も八戒を愛してはいたものの、彼らの一番はいつもお互いで、八戒を放って出掛けてしまうことも度々あった。小さな頃から家に帰ると出迎えるのはハウスキーパー、そして書き置きの冷たい文面だけ。虐げられているわけではないからあからさまに不幸を訴えることも出来ずに一人で孤独感を押し殺していた。そしてやっと手に入れた兄を、ぽっと出の他人に掻っ攫われたのだから、冷静にしてもいられまい。しかし表立って彼らの邪魔をしないのは、非常に紳士的であると言える。
「……結局、一人なのは僕だけじゃないですか」
「俺がいるじゃん」
「……。……ここは笑うところですか」
「……お前ね」
 呆けているのか本気なのか妙に真面目な顔で言う彼に、悟浄は脱力した。笑うしかなくて、その髪を再び悪戯に乱すように撫でた。そうしていると、八戒もつられたように笑って、悪戯に悟浄の身体に凭れ掛かってくる。そしてくすくす笑いながら演技がかった口調で言う。
「僕、誰にでも優しい人は嫌いなんです」
「あ? 俺は一途な男だろ」
 そう嘯く悟浄に、八戒は呆れたように笑って悟浄の身体を押し退けて、起き上がった。そしてすっかり冷めてしまったであろうコーヒーカップに手を伸ばす。それを一口口に含んで、舌の上で転がすようにした後に苦々しげに微笑んだ。
「……あぁもう、笑い話にもならないですよ」








「……」
「げっ」
 一週間後、顔を合わせた捲簾と天蓬の交換したそれは、笑い話にしかならないものだった。捲簾の開いた箱の中には、明るいイエローのカップ。天蓬の開いた箱の中には、可愛らしいパステルピンクのカップ。あの日お互い、相手は冗談のつもりだろうとたかを括っていたのだが、実はどちらも本気だったらしい。イエローの方がまだましのようだが、捲簾のような男が持つと、天蓬がピンクのカップを持っている以上におかしく見えるのである。暫く二人はお互いから贈られたカップを手に、沈黙した。ごくりと唾を呑む。
「……本当に悪趣味だなお前は……」
「どっちがですか……こんな三十三のおっさん捕まえてピンクのカップ持たせて。あなたも大概悪趣味です」
 そう言って、不満気に天蓬は唇を尖らせた。その両手にはピンクのカップが包み込まれている。淡い桜色がその白い手に映える、と思ってしまう辺り、確かに彼の言う通り悪趣味なのかもしれない。しかしそれも今更の話だ。
「どっちにしても、返品不可だし」
「……はいはい、使いますよ」
 そうして天蓬は溜息を吐き、そのカップを捲簾のイエローのカップと並べて置いた。暫くその並んだカップを頬杖をついて見つめていた捲簾は、小さく息を吐いて立ち上がった。相当どうにかなってしまっているようだった。しかしそれでもいいかと思えてしまうのだった。相変わらず会う度悟浄には色々と尋問され、その都度最後に八戒からのお小言がつくようになった。小姑のようである。しかしそれを差し引いてもこの充足感は何物にも替えられないものだった。

 捲簾が立ち上がり、カタン、と椅子が音を立てるのに天蓬も顔を上げた。そして彼の顔を窺うと、彼は二つのカップを差して言った。
「コーヒーでも淹れるわ」
「お願いします」
 キッチンへと入っていく捲簾の後ろ姿を見送ってから、天蓬はふわふわと欠伸をしてテーブルに頬杖をついた。そしてじっと二つ並んだカップを見つめる。あれから少しずつ自分の家にも物が増え始めた。とりあえず暖房器具というのは不可欠なものだと思い知った。どうせ無駄に金を溜めてるなら布団くらいいいものを買え、とは彼の談で、その通り少し質のいい布団を買った。お陰で毎日快適睡眠である。しかし残念ながら、週に何度かはこの家に泊まるので布団の出番は案外少ない。
 キッチンの方からいい香りが漂ってくるのに、天蓬は目を細めた。そしてその目を再び二つのカップの方へと向けた。暫くカップを見つめていたその鳶の眸が煌き、瞬いて、右手の人差し指がそっと伸ばされた。その指で、そっとピンクのカップを少しだけずらす。二つのカップは静かにぶつかって、チン、と小さく音を立てた。
「天蓬!」
「……ぁ、はい!」
 急に声を掛けられてそう、つい大声で返事をしてしまうと、キッチンから驚いたように彼が顔を出した。とりあえず笑って誤魔化しておこうと天蓬はふにゃふにゃと笑っておく。そんな天蓬に捲簾は訝しげに眉根を寄せ、その後釣られたように頬を緩めた。そして彼はテーブルの上のカップを両手に一つずつ持ち、キッチンへと戻っていく。それを見ていた天蓬は、暫くしてからゆっくりとその後ろを追った。






end.

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