目的は、生きる意味の奪還だ。

 空間を、革靴の音だけが支配する。
 カツン、カツンと高い踵の音が反響して耳に響く。真っ白な廊下を歩いている青年は真っ直ぐ前を見つめていた。そこだけ全くの異空間のようなその廊下は、窓の一つもない。長い廊下の奥には厳重に閉まった銀のゲートがあり、侵入者を拒むようだった。しかし臆することなくその青年は廊下を進み、扉の前で立ち止まった。扉の脇にある認証用スキャンに、首から提げていたホルダーのICカードを翳して、ボタンで暗証番号を打ち込む。その後スキャナに手を載せ、目の前の画面で掌紋と瞳の虹彩の認証を済ませる。すると目の前のゲート上のランプが赤から緑に切り替わり、勢いよく開いた。カードホルダーをクリップで胸ポケットに留めていた青年は、前を見るともなくゆっくりとそのゲートをくぐる。さらりと流れた彼の髪の先までがゲートをくぐり終えた瞬間、ゲートは瞬く間に閉ざされた。



「おはようございます、天蓬さん」
「あ、おはようです」
 天蓬と呼ばれた青年がにこりと微笑むと、その微笑みに、挨拶をした女性もほわりと相好を崩した。彼女の長い黒髪が、動物の尻尾のようにふわふわと揺れている。それを無意識に目で追いながら、天蓬は上着を脱いだ。
 そのゲートの奥に広がっていたのは白を基調とした、落ち着いたオフィスのような部屋だった。室内は広く、一人辺りの作業スペースもゆったりと取られている。快適な場所だ。ただ一つ、窓が一つもないことを除いては。ここは外界に面していない地に作られている。勿論場所を知る者は極々僅か、一握りの人間だけだ。完全に外界から遮断された、清潔すぎる部屋。匂いもなければ、電子機器以外の音も聞かれない。もしこんな部屋に閉じ込められたら精神に異常を来たしそうだ。
「……自分が発狂しないのが不思議なくらいですねぇ」
 ぽつり、とそう呟くと、よく聞き取れなかったのかコピー用紙を抱えた彼女は小首を傾げた。それに気付いて青年・天蓬は何でもないと首を振って微笑んでみせた。そのまま自分のデスクに向かい、パソコンの電源を入れる。その段になって、いつも誰より先に出勤している上司の姿が見当たらないことに気付いた。顔を上げて、コピー機の前に立っている彼女を振り返った。
「八百鼡さん、ところで先輩は?」
「あ、眼科に寄ってから出勤だそうですよ。スケジュールにも書かれてました」
 コピー機に向かっていた彼女・八百鼡は顔だけ振り返りそう言った。なるほど、共通スケジュールを覗いてみれば確かにそう書かれてある。しかしあの彼が眼科というのは何だかおかしい。何せ、年中充血してるような人なのだ。くすくすと笑いながらスケジュールの画面を消した。『先輩』というのはここの室長で、天蓬の高校からの先輩でもある。そして天蓬を働いていた一般の署からここへと引き抜いたのも彼だ。彼は昔からその無表情のせいで周囲に誤解されがちだった。しかし天蓬はいつも不機嫌そうな仏頂面をしている彼の表情から滲み出す優しさと責任感の強さに気付いていた。彼に懐く自分を、周囲の友人たちは変わったものを見るような目で見ていたが。
 そして天蓬はコピー機から離れた八百鼡の姿にやっと顔を上げた。珍しくパンツスーツに包まれたその脚が、僅かに不器用な動きをしているのに気付く。一瞬考えてすぐに思い当たった原因に、天蓬は立ち上がった。
「怪我の具合はどうですか、歩くのに支障は?」
 彼女は昨日脚に怪我を負っていた。脛に掠った切り傷がぱっくりと開いて痛々しかったのを思い出して声をかけると、八百鼡は何でもないように笑って手を振った。
「大丈夫ですよ。痛みもそんなにありませんし、ちゃんと縫ってもらいましたから」
 女の子だというのにこんな怪我の絶えない仕事に就いている彼女に、同情の念が拭い切れない。こんな華奢な女性が月に何度も病院に担ぎ込まれるだなんて、特にフェミニストでもない自分でも不条理を感じてしまう。メンバーが幾つかに分けられたグループは三日スパンで入れ替わる。そして特別大きな事件がなければ、その後次のシフトまでは休暇となる。……とはいえ、大きな事件がない、という期間はそうそうないので、つまりはほぼ休みなしという状態になる。明らかに労働基準法に反しているが、自ら志願しただけあって弱音を吐くわけにもいかない。それでも、年にメンバーの半分はノイローゼや怪我によって元の一般部署に戻ったり、警察自体を辞めたりしている。ハードなシフトということもあるが、常に命の危険に晒され続ける状態は精神を激しく磨耗させていくのである。
 そんな中、数少ない女性メンバーである彼女はよく頑張っていた。もう一人いる女性も今月中で辞めるという。若いのだから、遊びたい気持ちがあってもおかしくないのだ。しかしここにいる以上はそんな欲求は押し殺すほかない。そう考えると、彼女のことを感心だと思うと同時に、変わっているとも思えてしまうのだった。
「八百鼡さんは、お休み欲しくないんですか?」
 そう訊ねてみると、彼女は数枚のコピー用紙をクリップで留めたものを天蓬に手渡しながら笑って言った。
「休んでいても、近くでサイレンの音がするとつい気になってしまって、結局休めた例がないんです」
「旅行に行ったりとか」
「仕事で、もう行ったことのない都市なんてないですもん」
 確かに、と天蓬も相槌を打つ。このチームはここ、セントラルのみに限らず全都市を管轄とする機関だ。つまりは出張も自然と多くなり、数をこなしているうちに、行ったことのない街などなくなってしまった。そんな環境に置かれていながら、わざわざ休みの日にまで移動をしたくない、というのが本音である。どうせなら家のベッドで一日中ごろごろしていたい。書類に目を滑らせれば、早速今日も出張のようだ。いい加減、汽車も飛行機も船も飽きてしまう。
「今日はパイロープに一泊ですか」
「長引けば二泊になるかも知れません、明日取引が実行されるという情報も正確ではないかも知れませんし」
「ガセネタを掴まされている可能性も?」
「ええ、だとしたら私たちの意識をパイロープに引き付けておいて、他の場所で取引がこっそり行われる可能性があります。休暇中の二隊が、可能性のある他の都市へ派遣される予定です。……ええと、クリノクロアですね」
 書類を捲りながらそう言った彼女に、無意識に天蓬は指先を震わせた。それに気付いた彼女が不思議そうな顔をするのも見なかった振りで、天蓬は笑ってその指先をマグカップへと滑らせた。
「……どうしてまた、そんなド田舎で?」
「あ……はい、こちらもあまり正確な情報ではないのですが、もしものためにと、室長が」
「そうですか」
 マグカップの取っ手を掴み、震えないように押し留めた指先が冷たい。書類を静かに見つめながら、その空のカップを指先で弄んだ。
 八百鼡が気遣わしげな視線を向けてきているのに気付き、天蓬はカップから手を離した。そして書類を手にしたまま立ち上がる。
「ええと、汽車はセントラル発何時?」
「あ、はい! えっと……九時二十分です」
 それを聞きながら時計を見上げ、一瞬で駅へ向かう時間を換算して残った時間を引き出した天蓬はこきこきと肩を鳴らした。
「じゃあ駅に向かう途中であなたの家にだけでも寄りましょう、すぐに着替えを用意して下さい」
「え、でもそうしたら天蓬さんは……」
「僕の家は遠いですから。ワイシャツや下着なら宿でも買えますし。でも女性は色々と困るでしょう? ……そろそろ出ないとあなたの家にも寄れなくなりますよ」
 戸惑った顔をする八百鼡を追い立てて、荷物を取りに行かせてから、一人きりになった白い室内で天蓬は一人で溜息を吐いた。久しぶりに耳にした地名だった。クリノクロア。殆ど犯罪に巻き込まれることもないような田舎だから、仕事でも滅多に向かうことのない場所だった。それでも天蓬は年に一度はその町に向かう。今年はまだだ。
「……ああ、駄目ですね」
 精神が段々と落ち込んでくるのに気付いて、そんな自分を叱咤するように天蓬はそう口にした。窓の一つもないその室内でその声は妙に大きく反響した。一旦落ち込むと、ずぶずぶと嫌な思考へ引き摺りこまれていく自分を引き留めてくれるものがない。絶え間なく襲い来る記憶は、天蓬の神経の弱いところを確実に狙って苛んでいく。
「は、……う」
 息苦しさに少しだけネクタイを緩め、室内を見渡す。自分はもう既に、狂う一歩手前まで来ているのかも知れない。
 デスクの中から小さな鍵の束を取り出した天蓬は、その足で通路の奥へと向かった。一際厳重に閉ざされている銀の扉に、その鍵を差し込んで開く。内扉も同じようにして開ける。すると、中には真ん中に細い通路があり、その両側には幾つものロッカーのような小さな扉が並んでいた。天蓬は迷いなくその中の一つを開く。中に入っているのは、台に立てられた幾つもの小銃。右から順に指で辿り、その中の一つを引っ張り出した。そのグリップはわざわざ天蓬の握りやすいように誂えられたもので、掌にぴったりと馴染んだ。それを一つと、その隣にある一回り小さなサイズの銃を取り出す。そしてその扉を閉め、鍵を掛け直してから、奥にある一層大きな扉を開けた。必要分の弾丸を引っ張り出して袋に詰め、再び同じようにその扉も閉める。そして小銃を二つと弾の入れられた袋を手にした天蓬は、その部屋を後にする。天蓬がその部屋を出てしまってから数秒、静かに二枚の扉は閉まり、ガチン、と錠の下りる重い音が響いた。
 元の部屋に戻ると、丁度ロッカールームから八百鼡が戻ってきたところだった。取って来た銃の小さな方を放って渡す。躊躇なくそれを受け止めて、彼女はハンドバッグにそれを仕舞う。外を歩いていればただの可愛らしい女性なのに、そのハンドバッグに銃が入っているなどと誰が思うだろう。
「弾、これで足りると思います?」
「……余ることを期待したいです」
 彼女の言う尤もな言葉に苦笑して、白い部屋の出口へと足を進めた。外界に出れば、自分たちの回りは敵だらけになる。


 ホテルのロビーでコーヒーを口にしながら新聞に目を通していた天蓬は、エントランス近くで白いものがちらつくのに気付いて顔を上げた。靡く銀色の髪に、新聞を畳んで軽く手を上げてみせる。ぐるりとロビーを見回していた彼はすぐにそれに気付いて、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。少しだけ彼が申し訳なさそうな顔をしているのに笑う。
「すまない、遅くなった」
「いえ、構いませんよ」
「眼科に行くと聞いて、お前が笑っているのではないかと思っていた」
 すっかり見透かされていることを知って天蓬が閉口していると、彼は疲れたように溜息を吐いて天蓬の向かい側に腰掛けた。指先で目頭を押さえながら、彼はちらりと視線を上げた。
「支配人には?」
「話は通してあります、ご心配なく」
 自分たちが滞在するということは、ホテルも危険に晒されることになる。その旨を説明した後でなければ泊まることは出来ない。このホテルは何度か利用していることもあり、快く受け入れてくれた。それだけセキュリティに自信があるということである。そして、それだけ、宿泊代も高いということだ。まあそれも自分の出す金ではない。しかしそれに見合う働きをしなければならないわけではある。
「八百鼡は」
「今お風呂に入って、傷の消毒をしてます。いない方がいいかと思って」
 原則、男であっても女であっても部屋は同室だ。単独行動は危険であるためだが、それは女性への負担が大きい。幸い敖潤も天蓬も淡白な方であるからよかったものの、チーム内に色情魔がいたらと思えば恐ろしいことだ。
「明日の情報、信用できる筋のものですか?」
「ああ……十中八九間違いない。だが我々の動きを読んで、突然場所を変更することも考えられる。それで、休暇中のチームに呼びかけて他の地区へも飛んでもらった」
「クリノクロアへ、ですか?」
 静かな天蓬の声に、敖潤はゆっくりと顔を上げた。そしてまた、僅かにその目に心苦しさを滲ませて視線を落とす。彼は優しい人だから、全て分かっているのに何も出来ないことを歯痒く思っているのだ。そんな表情を見ていると、ささくれ立っていた神経が少しだけ落ち着いた気がした。手持ち無沙汰にコーヒーカップのソーサーにおかれたミルクのカップを指先で突付く。
「……どうせなら僕をクリノクロアに回してくれればよかったのに」
「天蓬」
「別に自棄になってるわけじゃありませんよ。……今年、まだ行ってないんです」
「そんなものは、仕事とは別に行け」
 公私混同をするなと彼は眉を顰めた。しかしその真意は、全くの逆だと分かる。ついでなどではなく、一つの目的だけのために行けと言いたいのだろう。尤もなことだ。しかし自分にはその勇気が出なかったのだ。もしも仕事なら、嫌でも行かねばならない。だがプライベートとなれば目的は一つだ。そのことを考え出すと憂鬱で堪らなくて、天蓬は両掌に顔を埋めて小さく声を漏らした。
「いつもいつもついて行ってやるわけにはいかんだろう」
 過去に一度だけ、その町へ出掛けることを渋った天蓬に彼がついてきてくれたことがあった。いつまでも何度も甘えるわけにはいかないことくらい自分でも分かっている。珍しく意地の悪い物言いをする彼に唇を尖らせると、彼は呆れたように溜息を吐いた。
「……お前は一体幾つなんだ……」
「二十六ですよ」
「そんなことは分かっている」
 疲れたように溜息を吐いた後、彼は俯いた。その目は自分の膝の上で組まれた自分の手を見下ろしている。
「……調べは進んでいるのか」
 突然潜められた声に、天蓬は一瞬乗り遅れて目を瞬かせた。そしてすぐにその意味に思い当たって同じように声を低くした。
「ええ、……人物の特定までは。でも僕に進められるのはここまでのようです。権限がある代わり、僕の行動は悪目立ちしますから。対象者の調査は外部の者に依頼する予定です。……あなたの言う通り、無茶はしないことにしました」
「どこまでが本音か」
「酷いなあ」
 訝しげな顔をする敖潤に肩を竦めて、天蓬はカップに残ったコーヒーを一気に飲み干した。腕時計で時刻を確認し、「戻りましょうか」と切り出した。その言葉には何も返さず、彼は足元に置いていたバッグを持ち、立ち上がった。そして座ったままの天蓬とのすれ違い様、低い声で呟いた。
「無茶をするなと言っても、お前はするだろう」
 先に歩いて行ってしまった彼を振り返り、天蓬は暫く呆然としていた。彼は何てことを言うのだろう、まるで信用がないらしい。無茶をする癖は彼と働き始めて治り始めている、と自分では思っているのに。
 しかし今回の件は、彼に忠告されたから決めたわけではない。自分が攻撃の的になることは気にならなかった。しかし自分が一つの組織に属している限り、その攻撃の矛先が同僚に向かわないとも言い切れない。特に、自分が巻き込んでしまった優しい彼にその攻撃の手が伸びることだけは避けなければならなかった。元々は全て一人で抱え込むつもりだったものを、彼がそっと手を添えてくれた。今は、もし自分一人だったとしたら到達出来なかったであろうところまで来ている。そのことは感謝しているけれど、彼にはもうこの時点で手を引いて欲しかった。深入りしてしまう前に、自分の仲間と思われてしまう前に。
 戦いに出掛ける前には、自分の周りから全てを削ぎ落としておきたかった。それらが自分にとっての重荷になるからではない。犠牲は少ないのが一番だからだ。
 暫くソファに座ったままいた天蓬は、ゆっくりと立ち上がった。部屋番号を知らない敖潤は、きっと気まずげな顔をしてエレベータホールで待っているに違いないから。


 予感は的中し、翌日件の取引が行われたのはパイロープではなくクリノクロアだった。無駄足だったとも思うし、ほっとしたとも思う。結果的に別の仲間がその摘発を成し遂げたのだからめでたいことのはずだ、それでも何だかつまらないと思ってしまうのは、自分の感覚が麻痺しているからかもしれない。その証拠に、助手席に座る健全な女性、八百鼡はほっとしたような顔で終始微笑みを絶やさない。これが普通なのだと思えば、危険と隣り合わせのスリルに身を毒された自分は相当いかれてしまっている。弾の詰め込まれた袋は、手付かずのまま後部座席の下に置かれている。
 帰りは汽車ではなく、敖潤の乗ってきた車ということになった。ハンドルを握るのは立場が下の自分、そして上司である彼は後部座席でコンピュータにじっと視線を張り付かせている。ルームミラーで窺った彼の表情は、やはりよく分からない。セントラルへ向かう道路は空いていて、天蓬はいつもの如く法的速度を軽く上回った速度で車を走らせていた。今更敖潤も八百鼡もそれを咎めることはない。
「四時にはセントラルに着きますよ、病院に寄っていきましょうか」
「え、いえ、お二人を待たせるわけには」
「寄って行け。急ぐ必要もない。天蓬、もう少し速度をセーブしろ」
 案外気付かないものだとたかを括っていたが、どうも気付いていたらしい。さり気なく窘められたものの、素直に言うことを聞く気もない天蓬はアクセルを踏み続けたまま。暫くそのまま車を走らせていた天蓬は、ふと助手席の八百鼡が先程からずっとルームミラーを凝視していることに気付いた。訝しく思いつつも、視線は前方に向けたまま訊ねてみる。
「どうかしましたか? 何か楽しいものでも」
「……後ろの黒のワンボックスカー、ずっとついてきているような気がするんです」
 その言葉に反射的に視線をルームミラーへ滑らせる。確かに後ろには黒のワンボックスカーがぴたりとつけている。しかしこの道路はパイロープの方面からセントラルへ向かう一番大きな道路だ。ずっと行き先が同じでもおかしくはない。それに彼女はずっとつけていると言ったが、先程天蓬が見た時に後ろにいたのはシルバーの4WDだった。
「最初はシルバーの車がずっと後ろにいるなと思っていたんですけど、さっきサービスエリアで止まった時、その車も一緒に止まったんです。あの黒い車の運転手、その時の運転手と同じ人なんです」
 わざわざ途中で車を変える理由が分からない。唯一考えられるのは、いつまでも同じ車が後ろに付いているという印象を与えないため。そんなことをわざわざするということは、目的は一つだ。天蓬は再びちらりと視線をルームミラーに巡らせた。後ろのいつも無表情な上司は、苦虫を噛み潰したような顔をして顔を顰めている。反対に、やっと面白くなってきたと天蓬の目は活き活きし始めていた。
「どうします」
「……撒け」
「了解」
 そのやりとりを聞いて、八百鼡は慌てて座席の横に手を伸ばした。車にはしっかりと身体をホールドするための四点式ベルトが搭載されている。天蓬の運転は正確で、速い。ただ、あまりに非現実的だった。普通のシートベルトでは制御出来るものではないのだ。自分のベルトを締めた八百鼡が、天蓬のベルトも締める。後部座席の敖潤もコンピュータを閉じ、同じく後部座席でしっかりとベルトを締めた。自分の口元が攣り上がるのが分かった。全員の安全を確認し、ちらりとミラーを見る。そして、一気にアクセルを踏み込んだ。


 そのまま病院へ向かい、診察の終わった彼女を家に送り届けた後、二人はオフィスに戻ってきた。やっと自分のデスクに辿り着いた敖潤は、ふらふらとしながら自分の椅子に凭れ込んだ。天蓬は大袈裟だと笑って、自分と彼の分の荷物をテーブルの上に置く。あれしきのことで車酔いしたらしい。いい加減慣れてもよさそうなものだというのに。
「慣れられるか、あんなもの」
「ジェットコースターだと思って」
 そう言ってみると、彼はそれ以上何も言い返さずにむっすりと口を噤んだ。もしかしたらジェットコースターも苦手なのかもしれない。笑いながら自分の椅子に腰掛けて、疲れたようにこめかみを揉んでいる彼の様子を窺った。元から肌は白いので、蒼褪めているのか普段と変わりないのかさっぱり分からない。デスクに頬杖をついた天蓬は、先程までのことを思った。考えれば考えるだけ矛盾が生まれて答えが出ない。
「さっきのあれは何でしょう」
「今日摘発された組織の者でないのは確かだな」
 確かにそうだ。自分たちをつけてくる理由がない。恨みとしても、おかしな話だ。
「気色が悪いですね。分かり易過ぎて……何と言うか、自己主張が過ぎるというか、まるで自分たちの存在を知らせているみたいな」
 言葉が纏まらないまま独り言のように呟く。それを静かに聴いていた敖潤は、低く唸るように言った。その言葉に天蓬は弾かれたように身体を起こした。
「牽制だな」
「じゃ、先輩は今日の黒い車はあの組織が噛んでいると?」
「それ以外に思い当たるものはない。あの車からは敵意は窺えなかった。どちらかと言えばこちらの反応を窺って楽しんでいる愉快犯的な、……寧ろ、子供のようでもある」
 それも、何も知らぬまま動物を笑って甚振り殺すような残忍さを持った子供だ。デスクの上で組んでいた両手に、額を押し付ける。まるで祈るような格好だ、と自分でもおかしくて笑ってしまいそうになった。引き返せない場所まで来つつある。その前に、幾らでも周りの人間を遠ざけなければならない。
「……僕を狙った馬鹿のせいで、怖い目に遭わせてすみませんでした」
「いいや。狙われたのはお前だけではないだろう」
「何を言うんです」
 咄嗟に反論しようとした天蓬を、敖潤は手を軽く上げることで制した。そして彼は自分のデスクの抽斗を開け、何か小さな袋を取り出した。ゆっくりと立ち上がり、彼のデスクへと近付いてみる。それは黒い封筒だった。真っ黒の。表の白いラベルに書かれたのは彼の自宅の住所だ。その袋に入れられた彼の手が引っ張り出したのは、革張りの何かの箱。
「これは」
「一昨日、自宅に届いたものだ。この箱だけが入っていた」
 見たところ何の変哲もない箱だ。ジュエリーや、時計の類が入っていそうな箱である。
「開けると中から針が飛び出してくる、ちゃちな玩具だ。古典的な嫌がらせだな」
「先輩まさか!」
「こんな胡散臭い箱を調べもせずに開けるほど粗忽者ではない。しかし、どうやら私はもうお前の仲間だと相手に認知されているようだ。今更遠ざけようとしてももう遅い」
 頭の中が真っ白になって何も考えられない。そのまま動けない天蓬の手から、彼はその箱を攫っていった。
「針のことだが、科学班に調べさせた。刺さったとしても少々痺れがくる程度のものしか塗布されていないとのことだった。相手にこちらの命を狙う気はない」
 確かに、敖潤ともあろう者がこんな如何にもおかしな箱を簡単に開けるだなんて思うはずがない。しかも塗られていたのは軽い痺れ薬だという。分かることは一つだけ、自分たちはからかわれているということだ。誰か、非常に無邪気で頭が良く、残虐な人間の掌の上で転がされているような心地がする。恐ろしい、というよりは、気色が悪かった。得体の知れないものが自分の背中にぴたりと張り付いて息を殺しているような気分になる。
「……すみませんでした」
 そう一言言うのが精一杯で、歯痒くて唇を噛む。迂闊だった。厳重に管理されているはずのチームに属する人間の住所がこんなにも簡単に漏れている。ならば自分の住所もきっと。
「家に帰らない方が得策だな。何があるかも分からん」
 この建物はずっと暮らせるだけの部屋もある。家に帰らなくていいのならそれもいいことだ。自分はそうだ。しかし彼にまでそれを強いる羽目になることが悔しかった。机の上に置いた拳が震える。己が無力さを否が応でも自覚させられる。目的を成し遂げることは勿論第一の希望だ。しかしそれは、周りの者を踏み台にして成し遂げたのでは意味がないのだ。
 俯き、自分に対する怒りに身体を震わせていた天蓬は、敖潤が人知れずそっと瞼を伏せたのに気付かなかった。
「……お前の力になると決めたのは、もう十年近く前だ。待ち草臥れていたくらいだ」








  


第二章・天蓬編。八百鼡ちゃん出現率が高い。        2007/06/28