やっと逢えるのだと捲簾はドキドキしながら未来の下界へ続くゲートを潜った。観世音と三仏神が力を合わせたために、寸分も違わず目的の地に着く事ができた。
「…………捲簾、勝手な行動はするなよ」
 すぐにでも動こうとした捲簾を窘めるように金蝉が云う。それに捲簾はビクッとした。
 今、金蝉を、観世音を不機嫌にするのは得策ではない。
「分かってる」
 捲簾にとっての一番は天蓬を奪還する事。自分の腕の中に取り戻して愛情を分かち合う事。
「………分かってるって」
「捲簾」
 金蝉にも捲簾が焦っているのは分かっていた。そしてその気持ちも金蝉には痛いくらいに分かる。天蓬を思う気持ちの種類は違えど、金蝉にとっても天蓬は大切な存在なのだから。
 捲簾と天蓬の関係がただの上司部下でない事はすぐに分かった。
 天蓬の笑顔の種類が変わって、無理をしていない笑い方をするようになったから。それに下界への討伐任務でも一人で無茶をして怪我を負って帰ってくる事もなくなった。
 いい事だと思った。
 そして天蓬を変えたのが捲簾だと知って、金蝉は安心したのを憶えている。自分では天蓬を変える事はできなかったから。
「大丈夫だ」
「……金蝉?」
「天蓬は強いから」
 捲簾の肩に手を置いて云う金蝉に、後ろでその様子を見ていた観世音がクスッと笑った。観世音は金蝉の気持ちも分かるだけに複雑な思いでいた。
「………んな事、よく知ってるって」
「だったら、シャンとしやがれ」
 金蝉に云われるのに捲簾は頷いて、眼の前のドアを見上げた。大きなドアは慶雲院の三仏神謁見の間に続いている。
「じゃあ、覚悟はいいな?お前ら」
 後ろにいた観世音は前に出てドアに手をかけた。かなり重厚なドアは少し押したくらいではピクリともしそうにない。
「あぁ」
 金蝉は答えて捲簾に振り返った。捲簾もドアから観世音に視線を向けて頷いた。
「お願いする」
「……いい顔だ」
 天蓬がいなくなってから初めて見るかもしれない、凛とした捲簾の表情に観世音は笑った。
「行くぜ」
 重厚なドアは観世音が押すと簡単に道を開けた。眩いばかりの白い光が差し込んでくるのに捲簾も金蝉は手を翳して睨み付けた。





 ドアの向こうには一人の男が立っていた。
 一見で僧侶だと分かる恰好に双肩に掛けた経文。文学には興味のない捲簾でも分かる、三蔵法師だった。
「………おー、待たせたな」
 観世音は相変わらずの尊大な態度で先に歩く。捲簾も改めてその三蔵を見て眼を見開いた。
「…………マジ?」
 思わず視線は金蝉の方に向いてしまう。当の金蝉は三蔵を見たまま硬直している。
 三蔵は驚くほど、金蝉に似ていた。髪の長さや恰好は違えど漂う空気や雰囲気が酷似している。
「金蝉(オマエ)にそっくりじゃん」
「………眼付きは悪いがな」
 金蝉は自分にそっくりだと云われたのが不愉快なのか嫌そうに眉を寄せた。眉間に寄る皺はいつもの倍以上はある。
「………いや、同じだって」
 金蝉だって眼付きは十分に悪い。だから悟空なんかは金蝉に睨まれると怖がって避難しに来るくらいなのだ。
「…………………」
 その言葉に睨んでくる金蝉の視線を受けながら、捲簾は三蔵をジッと見た。
 不機嫌な顔で観世音を見ながら煙草をふかしている三蔵は本当に最高僧なのかと疑いたくなる。捲簾もガラが良くないが、三蔵法師というのは桃源郷の中でも最高の権力を持った僧侶のはず。
 下界の中でも唯一、天界の住人とコンタクトを取る事ができるとされている。それがこんなガラの悪い僧侶でいいんだろうか、と。
 だが、金蝉はお堅い僧侶よりもこういう男の方が好きだ。
「で?アイツはどこにいる?」
「ちゃんと保護させてる」
 保護『させてる』という言葉からも慶雲院の中にいない事が分かる。という事は、まだ移動しないといけない事になる。
 天蓬の性格からも捲簾に迎えに来いと云っているに違いない。
「じゃあ案内してくれ」
「その前に、そっちの素性……教えろ」
 三蔵は腕を組んで金蝉と捲簾の方を顎でしゃくった。
「…………あ?」
 軽くあしらわれた事に金蝉は眉間の皺を濃くした。お坊ちゃんであってもそういう時の対応はまるでゴロツキのようでもある。
「こっちのババァの素性は分かるがアンタらは知らんからな」
「………………」
 観世音を平然と『ババァ』と云ってのける三蔵に捲簾は驚いた。そんなところまで金蝉と同じで。
 金蝉は甥なのだから分かる。しかし三蔵はただの人間で観世音はこんなのでも天界五大菩薩の一人で、本来なら口をきくのも難しい相手。
 それをこうも軽口叩くとは、余程の大物か怖いもの知らずか。
「だな」
 観世音もニッと口の端を上げて笑い捲簾と金蝉に振り返った。それに捲簾は苦笑して一歩前に出て踵を揃えた。
 カツッと音を鳴らして背筋を伸ばし、敬礼をする。
「俺は天界西方軍大将、捲簾と云う」
 軍人である挨拶に三蔵はピクッと眉を動かした。
「今回、行方を捜している天蓬は俺の副官だ」
「あ?階級で云うなら逆だろう」
 すぐに返してくる三蔵に軍の事情も調べているんだな、と思った。しかし天蓬が自分の副官である事は間違いない。
「でも、そうなんだ」
 真っ直ぐに見て云えば、三蔵は嘆息して金蝉に眼を向けた。自分から興味の対象が動いたのに捲簾は敬礼の姿勢を解いた。
「………俺は、そこのババァの甥で金蝉だ」
 普段なら観世音の血縁者とは云わない金蝉もさっさと話を終わらせるためにそう云った。素性をハッキリさせれば天蓬のところに案内してくれるのだ。
「天蓬は俺の幼馴染みでな」
「そうか」
 金蝉の言葉に三蔵は何かを考えるように顎に手を当てた。
 何を考えているのか知らないが、捲簾の正直な気持ちとすれば早く天蓬のところに案内して欲しかった。
「お前ら二人とも、深い繋がりがあるんだな?」
「………多分な」
 答えたのは観世音だった。
「なら、案内する前に云っておかなければいけない事がある」
 三蔵は真面目な顔で云うと捲簾と金蝉に顔を向けた。
「どういう事だ?」
「………あの、天蓬は記憶を一切失っている」
 三蔵が云ったのに捲簾は勿論、金蝉も観世音も驚いた。
「記憶……喪失か?」
「あぁ」
 観世音が聴き返すのに三蔵は頷いた。観世音自身も初めて聴く事実だったのか眉を寄せている。
「人間関係に関する事だけだな」
「は?」
「自分が誰なのか、どこに住んでいたのか……何も憶えていなかった」
 三蔵が云うのに捲簾はショックを隠せなかった。
 天蓬と討伐に下りる前、記憶を失った時の話をしていた。天蓬は捲簾が例え記憶を失っても構わないと、出逢ったら何度でも自分を『愛してる』と云わせてみせる、と。
 でも、いざそうなってしまうと自信がなくなってしまう。自分では天蓬にそう云わせる事ができるのか、と考えてしまう。
「幸い、日常生活に関する記憶は残っていたから支障はないみたいだがな」
 三蔵は云うと短くなった煙草を床に捨てて、草履の底で踏み潰した。本当にガラが悪い。こんなのが天界と唯一コンタクトが取れるという大役を請け負っていていいんだろうか、と思う。
 しかし捲簾はお堅い僧侶よりもこういう奴の方が好きだった。
「一体、天蓬は何をしてコッチに来たんだ?」
「あ?」
「俺は怪我して、生死の境を彷徨っていた時の状況を見たわけではないが」
 三蔵が生死の境と云ったのに捲簾は大袈裟なくらいにビクッとした。
 天蓬も捲簾も軍人で、しかも最前線に立っているのだから怪我を負う事はよくある。それでも生死の境を彷徨うほどの怪我となると話は別だ。
「最初は死んでると思ったらしいぜ」
「…………………」
 三蔵の視線が真っ直ぐに捲簾の方に向けられる。捲簾はそれを受けて僅かに視線を反らした。
「今では普通の散歩はできるみたいだが、体力は戻ってねぇみたいだし」
「………………」
 観世音が云っていた。今は天蓬が落ちてから二ヶ月ほど過ぎている、と。その二ヶ月の間に天蓬は漸く傷を癒し、捲簾を忘れたまま生きていた。
 今の天蓬の中に捲簾という存在はいない。
「本人の意見一つでは俺はアイツをお前たちに引き渡すのを拒否するからな」
「………あ?」
 三蔵の言葉に捲簾は顔を上げた。
「それだけは理解しとけ」
「……了解だ」
 金蝉が答えるのに捲簾は顔を向けた。何かに耐えるような表情の金蝉に捲簾はグッと押し黙った。
「だったらついて来い」
 三蔵は云って背中を向けた。観世音がそれについて行くのに、少し遅れて金蝉と捲簾は後を追った。肩を並べて歩く金蝉はチラッと捲簾に眼を向けた。
「………怖いか?」
「あ?」
 金蝉に聴かれて捲簾は声を上げた。
「天蓬に会うのが」
「……少しな」
 捲簾は正直に返事した。
 ハッキリ云って天蓬に会って、初めて会う相手のように云われるのが怖い。
「だが、天蓬は強いぞ」
「あぁ」
「いろんな意味で……アイツは簡単に自分を失ったりしねぇ」
 記憶をなくしたとしても自分を失わなければ天蓬は天蓬であり続ける。それにアレは天蓬が云ったのだ。


 頭が記憶をなくしても、心と身体は必ず憶えている。


 それを信じるしかない。天蓬は捲簾に会って話をすれば必ず思い出してくれると。
 捲簾が信じなくては天蓬は戻ってきてくれないから。捲簾は絶対に天蓬を奪還しようと心に決めてキッと前を向いた。








 その頃、天蓬は悟浄と八戒とテーブルを囲んでいた。朝から八戒が作るのはフルーツをふんだんに使ったタルトで。
「何か、緊張してる?」
「……そりゃあ、少しは」
 悟浄に答えながら天蓬は今朝も見た夢の事を思っていた。
 昨日の夜も天蓬はいつもの夢を見た。その声が今も天蓬の脳裏に残っている。
「僕の記憶、戻りますかね?」
「……さぁ?」
「やっぱり、怖いですね」
 記憶を思い出そうとすると不安な気持ちになる時がある。それがあるから天蓬はどんな事をしても記憶を取り戻したいとは思わない。
「昨日も云ったけど、天蓬がここにいたいってんなら俺は構わないからな」
「………悟浄」
「部屋ももう一つ空いてるし」
 そう云って奥の方に眼を向ける。そこは倉庫の代わりにしている部屋だった。
「でも、悟浄は嫌いでしょう?」
「何が?」
「他人が自分の領域(テリトリー)に入ってくるの……」
 天蓬が云ったのに悟浄は瞠目した。
 悟浄は自分の事を第三者に知られるのが凄く嫌いだった。八戒は他人とは少し違う。かといって家族でもない。上手く説明はできないが戦友のような存在だと思っているのかもしれない。
 ジープはいうまでもなくペットで。
 天蓬はまだ客扱いしているし、天蓬も必要以上に干渉していないから悟浄も安心していた。
「ふぅーん、よく分かったな」
「悟浄は、誰にでも優しいですけど一定以上に踏み込もうとすると壁を感じますから」
 ニッコリ笑う天蓬に悟浄は苦笑した。天然でボーっとしているようでいて天蓬は見るところはちゃんと見ている。
「八戒もそうですよね」
「あ?」
「彼は貴方以上にその壁が複雑で厚い」
 天蓬はスッと眼を八戒の方に向けた。そこでは八戒が鼻歌交じりにもてなす準備をしている。
「うーん、何て云うかいつも笑顔でいるんですけど……近付こうとすると全身で拒絶されているっていうか」
「……お前ってすげーな」
「え?」
 悟浄が褒めたのに天蓬は首を傾げた。どういう意味なのか分からなくてジッと悟浄を見るとニッと笑われた。
「観察眼?あるぜ」
「……そうでしょうか?」
 自分では分からない天蓬は難しい顔をしている。それに悟浄はクツクツ笑った。
「お前が軍の元帥ってのも頷ける」
「………………」
「きっとお前はいろんな奴に愛されて慕われていたんだろうな」
 悟浄の言葉に天蓬は俯いた。
 今まで自分の事しか考えていなかったけど、天蓬の帰りを待ってくれている人もいるかもしれない。そう思うと記憶が戻らなくてもいいのだとは云えなくなった。
 考えれば分かる事だった。
 天蓬をわざわざ迎えに来るという事は捜してくれているという事で。
「そう思うと、ちょっと悔しいな」
「え?」
 悟浄の言葉に天蓬は小さく声を上げた。
「こっちの事」
 悟浄はニコニコ笑うだけで答えてはくれない。天蓬はそれを無理に聴くでもなく嘆息して膝の上で手を組んだ。
「……悟浄」
「ん?」
「僕、貴方たちの事すっごく好きですよ」
 こんな事を云うのは初めてだった。今まではどうも照れ臭くて口にできなかった言葉だったけど、今なら云えると思った。
 否、今云わなければもう云えないと思った。
 もし、今から来る人たちと会って記憶が戻ったら、悟浄たちの事を忘れてしまうかもしれないから。そうなったら感謝の言葉も云えなくなってしまうから。
「………天蓬」
「助けて下さってありがとうございました」
 真っ直ぐに顔を見て礼を云えば、悟浄は緩く首を横に振った。
「もういいって」
「ですが……」
「天蓬は自分の事だけ、考えろよ」
 優しい悟浄の言葉に天蓬は微笑して眼を伏せた。








 ―――――コンコンコン


 聴こえたノックの音に天蓬はビクッとした。玄関のドアを正面に座っている天蓬の身体が明らかに硬直しているのは二人の眼にも分かった。
 ジープも天蓬の膝の上で心配そうに見上げている。
「来ましたかね」
 何気ない様子で立つ八戒に悟浄はジッとドアの方を見た。天蓬は大人しくテーブルに置かれたコーヒーを飲んでいる。
「悟浄、出て下さい」
「おー」
 八戒は台所に向かい悟浄は真っ直ぐにドアへと足を向けた。ノックの音は最初の三回だけ、悟浄は誰か確認するでもなくドアを開けた。
 こういうのは無用心だと云われるかもしれないが、ここは街から離れた辺境の地。客なんか滅多に訪ねてこない。しかも悟浄も八戒も自分が信用した相手にしかここを教えていないからこういう事はよくある。
「はいはい、どちらさん?」
 ドアを開けてから云う科白ではない。
「遅いっ」
「え?」
「このバ河童」
 三蔵が云うのに悟浄はピクリと眉を動かしたが、背後にいた三人の客の手前、何とか堪えた。一緒に来ているのは間違いなく天蓬のお迎えなんだから。
「入るぞ」
「………どーぞ」
 悟浄は不機嫌全開で三蔵を通し、後ろにいた三人も中に促した。
 先に入るのは当然、観世音でそれから金蝉と捲簾が入りドアはきちんと閉められた。
「……狭い家だな」
「あ?」
 観世音が発した一言に悟浄はムッとして振り返った。その恰好だけでも驚いたが態度もとんでもなくデカい。
「よく、こんな汚ねー家で我慢していたな、天蓬」
「え?」
 声を掛けられた天蓬はビクリとした。観世音は天蓬を見てニッと笑うとズカズカ歩いて眼の前のソファーに腰を下ろした。
「……んだよ?」
「悪ィな」
 毒付く悟浄に捲簾が片手を上げて謝った。
「アレでも天界の上級神なんだわ」
「…………」
「偉い人だから口のきき方だけは気を付けろよ?」
 捲簾は云うと挨拶もそこそこに足を進めて天蓬の横に腰を下ろした。
「ってコラっ、天蓬の横に座んな」
 悟浄は云って捲簾の襟首を掴むとソファーから引き離した。悟浄も半妖、力は半端じゃなくある。捲簾は簡単に引き離されたのに驚きながらも、観世音の横に座り直した。
「いらっしゃいませ」
 八戒はあくまでにこやかに微笑して、まず椅子に座る三蔵にコーヒーを出してもう一つを置くと金蝉を促した。
「どうぞ」
「………あぁ」
 金蝉は返事して勧められた椅子に腰を下ろした。それから観世音の前、捲簾の前と順にコーヒーを置いていく。
 客からコーヒーを出していくのは流石といえる。
「こちらもよろしかったら」
 八戒はフルーツタルトも一緒に置いて漸く腰を下ろした。悟浄と八戒に挟まれるようにして座る天蓬はホッと息を吐いた。
 どこか怯えているような天蓬に前に座った捲簾は眉を寄せた。
「……三蔵」
「あ?」
「説明、してくれませんか?」
 八戒が云うのに三蔵は面倒だという顔を全面に押し出したままコーヒーをテーブルの上に置いた。一度金蝉に眼を向けてこっちに来いと促して三蔵は立ち上がった。
 自ら椅子を持ち上げて移動するのに金蝉も同じように椅子を持って座る五人の方に移動した。
「じゃあ一応紹介はしておく」
 三蔵は云って親指を立てて、まず観世音を指した。
「そこの派手な恰好したヤツは天界の菩薩だ」
「あ?」
「観世音菩薩、って云えば……八戒、お前なら分かるだろう?」
 三蔵が後の説明をしろと暗に云うのに八戒は頷いた。
「僕の記憶が確かなら……慈悲と慈愛を司る仏……ですよね?」
 見上げるようにして確認する八戒に観世音はニッと笑って足を組み直した。どこからどう見ても、そうは見えない観世音に悟浄も反応できないでいた。
「博識だな」
「お褒めに預かり……」
 八戒も一応笑顔で答える。
「あ、悟浄」
「ん?」
「この人、確か両性具有のはずですからバカな事は考えないで下さいね」
 それでも悟浄は意味が分からないらしく首を捻った。 
「あの……半分女性で半分男性って事です」
 助けるように天蓬がボソッと説明すると悟浄は瞬きを数回繰り返して観世音をジッと見た。見るからに上半身が女、という事は普通に考えれば下半身が男。
「………………」
 悟浄はそこまで考えて首を横に振った。
「……そろそろ続きをいいか?」
「えぇ、お願いします」
 返事する八戒と頷くだけの悟浄を一瞥して三蔵は観世音の隣にいる捲簾を指差した。
「そっちの黒いのが」
「何つー云い方すんのよι」
 ガックリと頭を垂れる捲簾に天蓬はスッと視線を向けた。まだどこか怖がっている節はあれど、警戒はしていない。
「天蓬、お前の上官らしい」
「はぁ?元帥より上っていんの?」
 三蔵が云ったのに反応したのは悟浄だった。普通に考えれば元帥より上の階級なんてない。
「俺は西方軍大将の捲簾って云うの」
「はぁ?階級下じゃん」
 悟浄は捲簾に顔を向けていつでも動けるように体勢を整えた。
「天蓬が俺の副官になるって云い出したんだよ、……な?」
「…………あの」
 聴かれても天蓬には答える事ができなかった。困ったように視線を動かす天蓬に捲簾は愕然とした。
 分かってはいてもいざ、知らないという事を見せられるとショックが大きい。
「天蓬は記憶がないんです、混乱させる事は云わないで下さい………捲簾さん?」
 八戒もキツい視線を向けて云うのに捲簾は嘆息した。
「………天蓬」
 捲簾は静かな声で天蓬に声を掛けた。天蓬はビクリともしないで視線を上げただけだった。
「本当に憶えてないの?」
「……………」
 天蓬は僅かに間を置いてからコクンと頷いた。それに捲簾はガックリと頭を下げた。大きな男が項垂れるのに悟浄は自分に近い部分があるような気がしてきた。
「コッチは幼馴染みだそうだ」
「………僕の、ですか?」
「他にいるか?」
 この場に捲簾の幼馴染みを連れてくる意味はない。考えれば天蓬の幼馴染みなのだと分かる。
「……俺は金蝉だ」
「コンゼン……さん?」
 金蝉には名前を聴き返すのに捲簾はゆっくりと顔を上げた。
 自分とは漂う空気が違うのは分かっているが、この差はキツいものがある。
「幼少時を一緒に暮らしてきた仲だ」
「……そう、だったんですか?」
「あぁ」
 金蝉が答えると天蓬は僅かに表情を綻ばせた。柔らかく微笑する天蓬に金蝉も少しだけ口の端を上げた。
「だから『さん』はいらねぇ」
「………金蝉、と?」
「そう呼べ」
 金蝉は云って素っ気無く顔を反らした。金蝉も相当辛いのが分かる。観世音は小さく嘆息して踏ん反り返った。
「俺は思うんだがな」
 観世音が口を挟むのに全員の視線が集中した。
「記憶は無理矢理戻すモンじゃねぇ」
「…………はい」
「暫く、天蓬(コイツ)を頼む」
 観世音は云ってタルトを頬張るとコーヒーで流し込んだ。口の端に付いた欠片を手の甲で拭うとスクッと立ち上がった。
「俺は帰る」
「は?何云ってんだっ」
 金蝉も追うように立つのに観世音は片手で制した。
「お前もここで厄介になれ」
「あ?勝手に決めんな」
 何でも一人で決める観世音に金蝉は今にも掴みかからん勢いだった。
「天蓬が世話になったのは二ヶ月だったな?」
「………え?はい」
「後、医者にも世話になったと」
 観世音は云うとポケットの中から一枚のカードを取り出した。金色に輝くカードを八戒に渡すとツンツンと指で突いた。
「これは、現金が引き出せるカードだ」
「……………で?」
「金蝉と捲簾、後天蓬が世話になる間の生活費にしろ」
 観世音は云って笑うのに八戒は眉を寄せた。悟浄の稼ぎでは心許ないというわけではないけど、施しを受けるのは好むところではない。
「天蓬の分はともかく、コイツらの分は予定外だからな」
「……………」
「この際だから、遠慮なんかするな」
「………使い倒しますよ」
「構わん」
 観世音は八戒の答えに満足したように笑って捲簾、金蝉、そして天蓬を順に見た。
「お前らは残って天蓬の記憶を何とかしろ」
 観世音が云うのに捲簾と金蝉は頷いた。
「なぁ、天蓬」
「…………はい」
「天界にはお前が必要なんだ、できる事なら戻ってきて欲しい」
 優しい表情で云う観世音は確かに慈悲と慈愛の菩薩だった。
「だが、ここに残って生きたいっていうんなら止めはしねぇよ」
「………菩薩さま?」
 天蓬が口を開くのに観世音は手を伸ばして優しく頭を撫でた。
「よく考えて答えを出せよ」
「…………………」
「後悔だけはするな」
 その言葉は天蓬の心に強く残った。





 結局、この日は悟浄は街に稼ぎに行き、八戒は悟浄の部屋で天蓬は八戒の部屋へ。金蝉と捲簾はソファーで横になった。
「…………捲簾」
「何だ?」
 ソファーに横になったまま声を掛けられたのに捲簾は眼を開けた。金蝉は天井を睨むように見ている。暗くてよく表情が見えないのに捲簾は嘆息して身を起こした。
「どう思う?」
「……あの、天蓬か?」
 捲簾が答えるのに金蝉もゆっくりと身を起こした。八戒が用意してくれたブランケットがハラリと床に落ちる。
「本当に俺たちの事が分かってなかったな」
「………………」
「まさか、アイツに他人を見るような眼で見られるとは思っていなかった」
 そう云う金蝉の声はどこか淋しそうに捲簾の耳に届いた。金蝉は天蓬と子供の頃からの付き合いなだけにキツかったのかもしれない。
 だが、捲簾もその気持ちは同じで。
「本当に記憶喪失だったんだな」
「…………………」
「アレは、ババァんトコに来たばかりの天蓬のようだ」
 金蝉は云って床に落ちたブランケットを拾った。恰好が恰好だから寒いのか、それを肩から羽織る。足を抱えるようにして包まる金蝉に捲簾はクツッと笑った。
 だが気になる言葉があったので捲簾は手を組んで身を乗り出した。
「どういう事?」
「天蓬が俺と幼少期を過ごす事になった切欠の話は憶えてるだろう?」
「あぁ」
 あんなショックな事を忘れたりしない。
「天蓬も昔っから今みたいな性格だったワケじゃない」
「……まぁ、そうだろうな」
 子供の頃からあんな性格だったらさぞ、可愛くないだろう。
「ババァに捨てられないように、いい子を演じてたし」
「…………まぁ無難だよな」
 幼い子供が生きていくためには、自分を偽る事も必要だ。天蓬ほどの頭脳を持っていれば、取るべき道は限られている。
「敬語だったのは昔からだが、遠慮ばかりして人の顔色ばっか窺ってて」
「…………んなの天蓬じゃねぇよ」
 捲簾の知る天蓬は、他人の事など考えたりしない。一度でも自分の内に入れた仲間や友人ならいざ知らず、他人には容赦しないで毒舌を吐きまくる。
 自分の考えを貫き通して、無理にでも押し通す、男気に溢れた恰好いい奴なのだ。
「今のアイツしか見てねぇお前ならそう思うだろうな」
「………金蝉」
「俺は必死に生きようとしてたアイツを知ってるから……あの天蓬を否定する事はできない」
 金蝉の言葉に捲簾は頭を垂れた。また、自分の知らない天蓬を語る金蝉に嫉妬してしまう。それでも分かっていた。どんな天蓬でも天蓬である事に間違いはないのだ。
「それでも、俺は」
「ん?」
「俺の天蓬を取り戻したい」
 ハッキリ云う捲簾に金蝉はすぐには答えなかった。ただ、黙って捲簾を見守っている。
 こういう時に天蓬が云っていた言葉の意味が分かる。


『金蝉は僕なんかじゃとても敵わないくらいに強いんですよ』


 力は別として、金蝉は凄く強い。心が真っ直ぐでどんな時でも自分を保っていられる。それはとても大事な強さだ。
「取り戻すんだろう?」
「え?」
「『取り戻したい』って希望じゃなくて『取り戻す』ってここまで来たんだろうが」
 金蝉に云われて捲簾はビクッとした。
「腑抜けた事云ってやがると、ぶっ飛ばすからな」
 そんな事、金蝉にできるはずがない。武力の差は歴然としているし、金蝉の攻撃を避けられない程、捲簾も鈍くない。
 だが、今だったら本当にぶっ飛ばされそうな気すらする。
「………怖ぇな」
「ふんっ」
「もう大丈夫だ、弱音は吐かねぇよ」
 捲簾は云って身を起こすとギュッと手を握り締めた。捲簾の様子に金蝉は安心したように息を吐き出した。
「お前が一緒でよかったぜ」
「あ?」
「俺一人だったら、挫けてたかもしんねー」
 捲簾は云って顔を上げると苦笑した。金蝉はそれに瞠目して、眉間に皺を寄せた。その方が金蝉らしくて捲簾は肩を揺らした。
「らしくねぇ事云うな」
「でもよ、助かったってのは本当だぜ」
「ババァのやりそうな事だ」
 金蝉は云ってガシガシと髪をかいた。長い金糸がクシャリと乱れる。
「あ?菩薩サマが?」
「気に食わねぇ」
 一人で納得する金蝉に捲簾は眉を寄せた。そんな捲簾に金蝉は一度視線を向けてすぐに戻した。
「あのババァの掌の上で踊らされてると思うと胸糞悪い」
 本当にお坊ちゃんかと疑いたくなる言葉に捲簾は嘆息した。これも全て観世音の影響だろう。天蓬がこんな言葉遣いじゃなくてよかったと捲簾は本気で思った。







 ゴロンと寝返りを打つ。いつもならすぐに眠りの世界に入れるのに今日は違う。なかなか寝付けない。
(…………眠れない)
 その理由は考えるまでもなく分かる。自分の記憶を知る二人がドア一枚挟んだ向こうにいるというプレッシャー。
 天蓬が生きてきた世界の住人で、一人は仕事仲間で一人は幼馴染みだという。
(あの人、夢の人でしょうか?)
 天蓬の眼についたのは黒い男、仕事仲間という捲簾の方。姿形は夢で天蓬を迎えに来ると云った人物に酷似している。
 声も多分同じ。天蓬はそう思った。
(会ったら、記憶が戻ると思ったのに……)
 二人とも知らない人だった。懐かしいとも思わなかった。
 帰っていった観世音は後悔しないようにと云ったけど、天蓬にはどうしたらいいのか分からない。それでも、話をしたいと思うのは天蓬の中の何かが二人を求めているから。
(……どうしよう?)
 寝返りを打てば、もう見慣れた天井が眼に入って天蓬はホッと息を吐いた。
(僕……、どうしたらいいんでしょう)
 悟浄も八戒もここにいてくれていいと云う。観世音は天蓬を必要だと云ってくれた。
「………僕が、必要………」
 ここにいても天蓬は世話になる事しかできない。迷惑をかけて、恩返しの一つもできていない。
 天蓬は何かを返せるまでここにいたいと思っている。
 でも、必要だと云われて、記憶を取り戻さなくては、と思ったのも事実だった。
(……お話をすれば、記憶を取り戻す切欠になるでしょうか?)
 天蓬はそう思ってゆっくりと身を起こした。ベッドの下には籠が置いてあって、そこではジープが寝入っている。
「………ジープ」
 天蓬が起きても眼を覚まさない。それに天蓬はホッと安堵して掛け布の上にかけてあった上着に袖を通した。
 悟浄が昔貰ったというカーディガンだが、趣味ではないらしく倉庫の中で眠っていたのを引っ張り出してきた。
「………………」
 天蓬は足音を立てないように、そっと動いて音を立てないようにドアを開けた。







 ―――パタン


 小さな物音に捲簾が最初に反応した。
「………天蓬っ」
「あ、シィー」
 声を上げた捲簾に天蓬は人差し指を唇の前に当てて黙るように示した。天蓬の仕草に捲簾は口を手で覆ってすぐに押し黙った。
「………………」
 静かになった捲簾に天蓬は微笑して手を下ろした。金蝉はそれを確認して天蓬の方に眼を向けた。
「どうした?眠れないのか?」
 優しい金蝉の声に天蓬は首を横に振って一度八戒のいる部屋の方に眼を向けた。部屋から気配の動きはないからおきてはいないだろう。
「あの」
「ん?」
 天蓬が口を開いたのに二人は同時に顔を向けてきた。
「そちらに行っても、よろしいでしょうか?」
 おずおずと云う天蓬に捲簾と金蝉は顔を見合わせて同時に頷いた。天蓬はそれにニコッと笑って二人がいるソファーの方に足を向けた。
「あ、何か飲まれますか?」
「え?」
「僕はお茶くらいしかご用意できませんが」
 金蝉がブランケットを被っているのに天蓬は咄嗟にそう思った。
「今、お持ちしますね」
 背を向ける天蓬に捲簾も金蝉も反応ができなかった。
 天界にいた頃の天蓬は、湯を沸かすのもできない男だった。料理をするくらいなら食べない方がマシだと云って何日も食事を摂らない事だってある。
「本当に天蓬か?」
 捲簾たちを分からなかった事といい、台所に立っているところといい。顔が同じなだけで別人のようだと思っても仕方ない。
「……顔、と声は天蓬だな」
「世の中には同じ顔をした奴が三人はいるって云うぜ」
 それに金蝉は答えられなかった。
「記憶喪失になっただけで、こうも変わるものなのか?」
「……俺に聴くな」
 不機嫌に答える金蝉に、天蓬は危なげない手付きでポットに水を入れ火にかけていた。茶葉を用意してカップも三つ用意して、冷蔵庫の中から何かを出す。
 捲簾はその様子をジッと見ていた。
「………………」
「………………」
 暫く待つと、天蓬は盆の上にティーポットとカップ、茶請けの漬物を乗せて戻ってきた。
「大丈夫か?」
「え?何がです?」
 捲簾が聴くのに天蓬はキョトンとして首を傾げた。テーブルに盆を置いて二人の前にカップを置く。その時になって天蓬は迷ったように立ち尽くした。
「どうした?座れよ」
「えぇ……、あの」
 天蓬は困ったように眉を寄せて二人を交互に見た。それに金蝉は怪訝そうにする。
「こういう時、僕はどっちに座ったら……」
 天蓬が迷ったのは捲簾の横に座るべきか金蝉の横に座るべきか、だった。どうせなら今までと同じように座った方がいいと思うから。
「普段は捲簾の横に座ってたぜ」
「では、……失礼しますね」
 金蝉が云ったのに天蓬は軽く頭を下げて捲簾の横に腰を下ろそうとした。捲簾は慌ててブランケットを引き寄せると、逆の方に畳んで置いた。
「えっと、捲簾大将殿」
「は?」
「え?」
 天蓬が名前を呼んだのに捲簾は素っ頓狂な声を上げた。それに天蓬までも驚いてしまった。
「あの、どうされたんですか?」
「何だよ、その呼び方は……ι」
 呆れたように云う捲簾に天蓬は首を傾げた。
「え?でも……僕の上官……だったんですよね」
 慣れない上官という呼び方に天蓬は云い難そうにしながら捲簾に聴けば思いっ切り嘆息された。自分はおかしな事を云ったんだろうかと見上げれば、捲簾は眉を下げて微笑した。
「そうだけど、普段から捲簾って呼んでたぜ」
「捲簾……ですか?」
「そ」
 天蓬が云ったのに捲簾は嬉しそうに笑った。その笑顔に天蓬も多少の驚きを感じながらも微笑すると捲簾も驚いた。
 久し振りに見る天蓬の微笑に懐かしさを感じる。
「では改めて……捲簾」
「おぅ」
「お茶を……」
「あぁ、俺がやる」
 天蓬が手を伸ばすより先に捲簾がポットを手にした。蓋を開けて中味の蒸らし具合を確認して手元に置く。もう少し蒸らした方がいい。
「でも」
「気にするな、こういうのはいつも捲簾(ソイツ)がやってた」
「そうなんですか?」
 天蓬が聴けば捲簾は苦笑しながら頷く。確かにその手付きは慣れているように見える。無骨な軍人の手とは思えないくらいに繊細な動きで茶を淹れている。
「凄いですね」
「俺ってばこう見えて、結構家庭的よ」
「―――――え?」
 捲簾が云った言葉に天蓬はビクッとした。その反応に捲簾もピクリとする。
「どうした?」
「今の……言葉……」
 天蓬が反応したのは捲簾が云った言葉。



 本でごった返していた部屋を掃除する男。自分はそれを離れた場所で見ている。
 慣れた手付きで本を棚に納め、紐で括り整理していく。あっという間に床が姿を見せ歩ける状態になった。
『……はぁ、見違えましたねぇ』
 感心したように部屋を見回せばドサッと最後の本の束を纏める男がいる。
『だろ?俺こー見えても結構家庭的よ』
 そう云ったのに驚いた。



 不意にそんなやり取りが脳裏に蘇った。
「………ぽうっ、天蓬っ」
「…………っ」
 数度、肩を揺らされて天蓬はハッと我に返った。動揺を隠し切れずに前に座る金蝉と横から覗き込んでいる捲簾に眼を向ける。
「おい、大丈夫か?」
「………えぇ」
 頭痛がするわけでも呼吸が苦しいわけでもない。
「何でもありません」
「そうは見えねぇけど?」
 天蓬が答えるのに捲簾はより距離を縮めてきた。
「どうした?」
「………………」
「天蓬?」
 もう一度聴いてくる捲簾に天蓬は小さく嘆息した。それに捲簾が眉を寄せる。
「貴方って酷い人ですね」
「あ?」
 天蓬が云ったのに捲簾はさぞ意外だとばかりに声を上げた。不機嫌な声ではあるけど優しい雰囲気は消えていない。
「こういう時は黙って追及しないっていうのが優しさだと思うんですけど」
 そっとしておいて欲しいと、オーラを放っているのだから。それが分からないような人には見えなかったから。
「遠慮する関係じゃねぇし」
「……………」
「それに俺たちはお前を取り戻すために来てるんだから、遠慮はしねぇ」
 ハッキリと自分の意志を伝えると天蓬は小さく息を吐いた。天蓬自身もこうやって物事をハッキリ云う相手は嫌いではない。
「そうですか?」
「おー」
 天蓬が云ったのに捲簾は二カッと笑って返事した。
「実を云えば、僕……貴方たちとお話をしたいと思ってたんです」
 そのせいで眠れなくて、こうして起きてきてしまったのだから。どうせなら積極的に話を聴くのが有意義だ。
 話を聴いて、それでも思い出せないのなら仕方ない。その時は天蓬は悟浄の言葉に甘えてここで暮らそうと思った。
「え?」
「いろいろ、聴かせて下さい」
 天蓬は云って二人を交互に見比べた。
「貴方たちの知る、僕たちの事を教えて下さい」
 天蓬が云えば捲簾と金蝉は顔を見合わせてコクンと頷いてくれた。







 まず何から話すべきかと考えたが、とりあえず天界の事から話す事にした。両手で抱えるようにカップを持つ天蓬に捲簾は軍舎の前にある桜の木が綺麗だったと話す。
「………桜、ですか?」
「おー、分かるか?」
 天蓬も捲簾に負けず劣らず桜の花が好きだった。捲簾のように木の上に登ったりするではなく、木の根元で昼寝をしたり本を読んだり静かに過ごすのが好きだった。
「えっと……」
 困ったように首を傾げる天蓬に捲簾と金蝉は顔を見合わせた。
「八戒に見せていただいた本にありましたけど」
「本物は?思い出せない?」
 こういう時に思い出す、というのは卑怯だと分かる。分かるけど他に云い方が分からなくてつい、捲簾は云ってしまった。
「すみません」
「お前が謝る事じゃない」
 金蝉は云って、ジロッと捲簾を睨んだ。こういう時、天蓬だったら上手く言葉を選んでくれるだろうけど捲簾ではそうはいかない。人一倍口下手なのだから仕方ない。
「今の季節じゃ咲いてないからな」
「………そうなんですか?」
「下界では、な」
 捲簾は云ってポケットの中から煙草を取り出した。灰皿が置いてないのに仕舞おうとしたのに天蓬は片手を上げてそれを制した。
「ちょっと待ってて下さい」
 天蓬はそう云って立ち上がると、また台所の方に足を向けた。下の棚を開けて何やらガサガサやっているのに捲簾は何が始まったのかと片眉を上げた。
「……何やってんだ?」
「さぁ?」
 捲簾は煙草をテーブルの上に放ってカップに口を付けた。コーヒー好きな捲簾は中国茶の味に眉を寄せながら嘆息した。
「そういえば……」
「ん?」
「さっき紹介された混血児」
 金蝉が小さな声で云うのに捲簾は少し身を乗り出した。
「……紅い派手な奴な」
 捲簾もその顔を思い出した。左頬に走る二本の傷跡と紅い髪が印象的な男。
「お前に似てたな」
「……俺はあんなバカじゃねぇぞ」
 捲簾はさぞ心外とばかりに眉を寄せた。
「そっくりだったぞ」
「あ?お前眼がおかしいんじゃねぇの」
 ジロッと睨む捲簾だったが、そんなものが金蝉に通じるわけもなくサラリと流された。
「眼とか雰囲気とか」
「………………」
 捲簾はすぐに返答できなかった。捲簾も対面した時他人のような気がしなかった。かといってすぐ仲良くなれると思ったわけでもなく。
 どちらかといえば、反発しあいそうな感じだった。
「同じ理由で天蓬と、八戒……と云ったか?」
「あぁ」
「アイツらも似てる」
 これには捲簾も素直に頷いた。
 天蓬が髪を切って並べば双子で通用するんじゃないかと思える。漂う雰囲気が違うからそうは思わないのかもしれないが、矢張りどこか似ている。
 悟浄が気付いているのかどうかは分からない。それでも金蝉はすぐに感じた事だった。
「何かあるのかな」
「………金蝉」
「ババァも気付いてたみてぇだし」
 金蝉の言葉に捲簾は瞠目した。血の繋がりがあるからこそ分かる事。
「何があるにしても俺は天蓬を連れて帰る」
「あぁ」
 捲簾の何度目かの決意に金蝉が顔を上げた時、天蓬が戻ってきた。その手には小さなバケツがある。両手に包めるくらいの大きさのバケツは実に可愛らしい。
「これを」
「あ?」
「灰皿代わりにどうぞ」
 捲簾の前に置いて、天蓬はその横に腰を下ろす。捲簾は多少驚きつつも煙草が吸えると放ったままの煙草に手を伸ばした。
「サンキュ」
 捲簾は礼を云って煙草を一本咥える。それをそのまま天蓬の方に差し出してくるのに金蝉が眉を寄せた。
「どうだ?」
「えっと、僕は吸ってないので」
「はぁ?」
 天蓬の返事に金蝉は絶句して捲簾は素っ頓狂な声を上げた。
「嘘っん」
 天蓬が一日五箱の煙草を吸っていたという事実は有名で。少しでもニコチンを摂取していなければ不機嫌になる天蓬が煙草を吸っていないといえば驚いて当然だった。
「え?」
「お前、すっげーチェーンスモーカーだったのに」
「……あ、やっぱり」
 捲簾の言葉に天蓬は納得したように頷いた。それに捲簾はどういう事だと首を傾げる。
「燈熔さんに煙草は駄目って云われているんですけど」
「……燈熔?」
 天蓬の口から出た初めて聴く名前に捲簾は眉を寄せた。
「僕の怪我の治療をしてくれたお医者さまです」
 それに納得した。確かに医者なら煙草を吸うなと云うのも頷ける。
「でも、悟浄や三蔵さんの煙草の香とか不快じゃないですし、……悟浄のは凄く落ち着けましたし」
「銘柄は?」
「………分かりません」
 天蓬の前で吸っているわけではないから知っているわけではない。ただ、外で吸っていても残り香で分かるというだけだ。
「でも、だから僕も吸ってたのかな、って」
「そっか、じゃあヤル?」
 聴かれて天蓬は少し考えて首を横に振った。どうしても吸いたいわけではないから、燈熔の許可がない限り吸う気はない。
「捲簾は遠慮なくどうぞ」
「やめとく」
「え?どうして……」
 眉を寄せる天蓬に捲簾はその耳元に顔を近付けた。以前に悟浄も同じように距離を縮めてきたけど、それよりもずっと緊張する。
「お前と一緒にヤッた方が美味いから」
「…………/////」
 低い声で囁かれて赤面した天蓬に捲簾は気をよくしてすぐに離れた。そんな二人を金蝉は呆れた顔で見て、大きく嘆息した。






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09/10/28