天蓬の毎朝の恒例行事になっている散歩も、捲簾たちが一緒に住むようになってから少し変わった。
 まず、ジープと一緒に捲簾が同行するようになった。天蓬と行動を共にして、根気良く天界の事を話すようになった。
 そして八戒と一緒に天蓬が好きだった料理を作るようになり、昼にも散歩をするようになった。
「捲簾」
「あ?」
「そろそろ寒くなってきてますから、天蓬が風邪をひかないようにあったかくして下さいね」
 八戒はそう云ってフカフカのマフラーを二本、捲簾に放り投げた。それだけでなく、捲簾はすでにブランケットも二枚持ち出していた。
「おー、サンキュ」
 受け取ったマフラーを天蓬の首に巻き付けて結ぶ。くすぐったいのか天蓬は外そうとしていたが、捲簾はそれを許さなかった。
 捲簾たちが来てから一週間、元々の知り合いだったためか仲良くなった天蓬はよく一緒に時間を過ごすようになっていた。
 今夜も明日の食事を釣ってくると云い出した捲簾に天蓬がついて行くと名乗りを上げた。
 近くにある川に行く準備をして、捲簾は釣る気満々だ。どこから持ち出したのか釣竿を担ぐ姿はさまになっている。
「じゃあ行くか」
「はい、行ってきます」
 嬉しそうに笑って出て行く二人に悟浄は不機嫌丸出しで、行儀悪く両足をテーブルに投げ出して酒を飲んでいる。
 その横にはジープが丸くなって眠り、前では金蝉が上品に紅茶を飲んでいた。何ともおかしな光景だった。
「どうして二人っきりで行かせんだよ?」
「天蓬の記憶が戻ればいいと思いません?」
 金蝉に紅茶のおかわりを淹れながら云う八戒に悟浄は顔を上げた。
「俺は戻らなくてもいい」
「悟浄……」
 正直な気持ちを口にする悟浄に八戒は呆れたように苦笑した。視線を金蝉に向ければ眉間に皺を刻んで悟浄を睨み付けていた。
「天蓬……、奪われたくない」
「お前、何云ってやがる」
 金蝉が口を挟むのに悟浄は顔を上げた。切れ長の眼が真っ直ぐに金蝉を見るのに八戒はドキッとした。
 どう見ても戦闘向きでない金蝉に悟浄が襲い掛かったら止めないといけない、と。
「最初に天蓬を奪ったのはソッチだろう」
「奪ったワケじゃねぇよ」
 強気な金蝉に対して、悟浄も熱くなっている。
「天蓬は絶対に連れて帰る」
「本人が嫌がったら、渡さねぇぜ」
「さぁな」
 悟浄が云うのに金蝉は云って腕を組んだ。ソファーの背凭れに身体を預けて息を吐き出す。
「……まぁ、天蓬の怪我が治るまでは帰りたいと云っても帰す気はありませんけど」
「八戒?」
 八戒が云うのに悟浄は顔を上げた。
「無理はさせたくありませんので、お二人とも喧嘩はほどほどにして下さい」
 ニッコリ笑う八戒に金蝉はゾクッとするものを感じた。それは本気で怒っている天蓬によく見られる光景で。
「さて、どうせ天蓬も捲簾も朝まで帰ってこないんですから」
「……変な事、してねぇよな」
「テメェ、何の想像してやがる?」
 ムッとして眉を寄せる金蝉の迫力も半端ではない。長い金髪の隙間から覗く眼は怖いものがある。普通の人間が相手なら背を向けていてもおかしくない。
「だって、天蓬可愛いし……」
「そりゃあ……」
 悟浄が云ったのに金蝉は否定しなかった。記憶を失っている天蓬は普段以上に可愛いものがある。容姿だけでなく、仕草など心を惹かれる。
「やっぱ、ジープを同行させた方がよかったんじゃ……」
「それは悟浄、お邪魔虫って奴ですよ」
 八戒が云うのに悟浄はムスッとした。テーブルの上に投げ出したままの足を組み替えて背を反らす。
「何で、八戒は捲簾なんかの味方すんだよ?」
「だって、捲簾といる時の天蓬、……すっごくいい顔で笑ってるんですもん」
 八戒も困ったように笑いながら答えた。
 八戒も天蓬の笑顔に惚れた口で、それでも悟浄と違うのは天蓬の幸せを願っているという事。
「本人も分かってないかもしれませんけど、多分……一緒にいたいんですよ」
「………お前」
「僕の勘なんですけど……金蝉」
 八戒は悟浄の足を叩いて下ろさせてから、金蝉を真っ直ぐに見据えた。金蝉もその視線に身体を起こした。
「あの二人、恋仲だったんじゃ?」
「やだっ」
 八戒が云った想像に悟浄は声を上げた。酔っ払っているわけでもないのに拗ね出した悟浄を八戒は手刀を入れて黙らせた。
「五月蝿いですっ」
「うぅ……っ」
 容赦なく悟浄の頭をソファーに押さえ付ける八戒に驚きながら金蝉はどう答えたらいいのか分からなかった。
「で、どうなんです?」
「……さぁな」
「はぐらかすんですか?」
「知りたきゃ本人に聴け」
 テンポよく言葉を返す金蝉に八戒はクスッと笑った。
「?何だ?」
「貴方、いい性格してますね」
 八戒が笑うのに金蝉は瞠目して、フッと笑みを浮かべた。
「お前には勝てねぇけどな」
「云いますねぇ」
 金蝉の毒舌にも八戒は嫌な顔一つしないで受け答えた。







 ゆっくり歩いて辿り着いた川は大きくはないものの、月明かりがキラキラと輝く場所だった。捲簾は大きな岩場に乗って早速釣り糸を垂らしている。
「あの」
「んー?」
 どっしりと構えて下から声を掛けてくる天蓬に捲簾はチラッと顔を向けた。
「僕も、そっちに行ってもよろしいでしょうか?」
「……勿論」
 捲簾は返事をして、竿を立てると天蓬に手を差し出した。
 そんなに急な岩場ではないけど、今の天蓬の足ではキツいかもしれない。
「一人で大丈夫です」
 捲簾の差し出した手には縋らず、天蓬は岩に手を掛けて飛び乗った。記憶はなくしても運動神経までなくしたわけではない。
 天蓬は危なげなく岩の上まできた。
「あんまり、見くびらないで下さい」
「おー」
 隣に座る天蓬に捲簾は苦笑して竿を持ち上げる。二人にある光源は夜空に浮かぶ月だけ。それでも軍人である二人には十分だった。
 暗闇でも行動できるように訓練されている二人には明るすぎるくらいで。
「捲簾は……釣りが好きなんですね」
「まぁ、趣味だな」
 簡単に云ってはいるが不殺生が原則の天界人にとっては禁忌な事である。天蓬もそれは分かっているがあえて口出しはしなかった。
「楽しいんですか?」
「おー、水面を挟んでの魚とのバトルはたまんねぇ」
「ふふ……、楽しそうですね」
 嬉しそうに笑う捲簾に天蓬もクスクス笑った。まるで子供のように屈託なく笑う捲簾はキラキラしていると思う。
「それに魚は美味いし」
「え?」
「生でも焼いても煮ても」
 云いながら舌で唇を舐める捲簾。
「……捲簾は料理できるんですか?」
「してたじゃねぇかι」
 云われて天蓬はコテンと首を傾げた。
 確かに捲簾が来てからは八戒と二人で用意をしてくれていた。捲簾が作った料理も天蓬は何度も口にしている。
 八戒が作ったものより、捲簾の作ったものは天蓬の口に合っていた。
「えぇ、貴方のゴマ団子は美味しかったです」
 おやつに作ってくれたゴマ団子を天蓬は凄く気に入った。甘くて香ばしくて、いつもは食の進まない天蓬がパクパクと食べたくらいに。
「あぁ、お前の好物だったからな」
「……という事は、天界にいた時の僕はよく食べていたんですね」
「まぁな」
 捲簾は云うと、引いている竿を持ち上げた。
「わ、釣れましたね」
 パチパチと手を叩く天蓬に捲簾はニッと口の端を上げた。糸の先にピチピチと跳ねる魚がいて、捲簾は優しい手付きで針から外すと、持ってきていたバケツの中に放つ。
「凄いです」
「じゃあコレ、抱っこしてて」
 捲簾はバケツを天蓬に渡す。天蓬はバケツを大事に腕の中に抱き込んで再び糸を垂らす捲簾に眼を向けた。
「捲簾は魚も捌けるんですか?」
「おー」
「器用なんですね」
 褒める天蓬に捲簾はクツッと笑った。それに首を傾げると捲簾はチラッと眼を向ける。
「それ、前にも云われた事ある」
「………そうですか」
 困ったように笑う天蓬に捲簾は一度視線を川に落とした。月の明かりにキラキラ光る水面、その下には今にも餌に食い付こうとしている魚がいる。
 悟られないように気配を消す。そうしないと逃げてしまうから。
「僕は……どうだったんでしょう?」
「え?」
「いろいろ、教えてくれませんか?」
 チラッと見てくる天蓬に捲簾は眉を下げた。
「お前、ここでの暮らしが好きなんじゃねぇの?」
 捲簾はここ一週間の暮らしでそう思っていた。
 悟浄や八戒と幸せそうに笑っている天蓬を見て、天界の暮らしに引き戻すのが果たしていい事なのか考えていた。
 本音を云えば連れて帰りたい。
 天蓬は天界の住人で、軍人で。西方軍の元帥で、カリスマ的存在で。皆が帰りを待っている。
「そうですね、ここは凄く過ごしやすい場所ですしね」
「………………」
 すぐに頷く天蓬に捲簾は肩を落とした。
「でも、僕がいていい場所じゃないんでしょう?」
「え?」
「僕はこの時代の住人じゃないんですよね」
 悲しそうに眼を細める天蓬に捲簾も視線を反らした。
「五百年、ですか?」
「そうだな」
「僕がここに居続けたら、歴史を歪めてしまいます」
 バケツをギュッと握るようにして云う天蓬は、凄く考えて答えを出しているんだな、と捲簾は思った。
「それに………」
「それに?」
 言葉を止めた天蓬に捲簾は答えを促した。
「……引いてますよ」
「え?」
 文脈が合ってないのに捲簾は怪訝そうに眉を寄せた。天蓬は川の方に指を差して捲簾に眼を向ける。
「糸……ピクピクしてます」
「うぇ?あぁっ」
 天蓬に指摘されて捲簾は慌てて竿を引いた。思っていた以上に大きな引きに捲簾は腰を上げて逃がさないように注意して引き上げた。
「……よっしゃ」
 さっきのものとは比べ物にならないくらいの大きな魚。十分焼き魚にできる大物に捲簾はガッツポーズを取った。
「おっきいですね」
「……天蓬、バケツ」
「はい」
 云われてバケツを差し出してくる天蓬に、捲簾はすぐに魚を入れた。
「いっぱい釣らねぇとな」
「そうですね、八戒も期待してますし」
 多分、万が一の場合に備えて用意もしてあるだろうけど、捲簾を信じていると思う。八戒は捲簾に一目置いている節があるから。
「ここはいい穴場だな」
 捲簾はすぐに糸を垂らす。
「……そういえば、話が反れてしまいましたね」
「え?」
 天蓬が云ったのに捲簾はハッとした。糸が引いたのに話が反れてしまっていた。まさか天蓬が自ら戻してくるとは思っていなかっただけに捲簾は驚いていた。
「僕ね、貴方と金蝉が来てから……ちょっと気持ちが変わったんですよ」
「え?」
 捲簾には意味が分からなかった。
「貴方たちと会うまでは、記憶が戻らなかったら悟浄のところにお世話になろうかな、って思ってたんです」
 天蓬が云うのを捲簾は黙って聴いていた。
「うん」
「不安もありましたしね」
 クスッと苦笑する天蓬に捲簾はそうだろうな、と思った。
「何か、その時は懐かしいとか思ったわけじゃないですよ」
「そんな感じだったな」
 捲簾が天蓬と再会したばかりの時は怯えているだけのようだった。変わったのは夜中に起きてきて話をした時。
 存在していたはずの壁がなくなったように思えた。
「ただ、傍に貴方を感じると安心できるんです」
「………安心?」
「何て説明したらいいのか迷うんですけど……」
 天蓬は言葉を選ぶように空を見上げた。闇夜に浮かぶ月が雲に隠れて少し暗くなる。それに視線を捲簾の方に向けた。
「背中を向けても平気かな、って」
「………………」
 その考え方は軍人の考え方だった。
 ずっと捲簾の背中を護っていたのは天蓬だった。それは逆も同じ事が云えて。天蓬だけが捲簾の背後に立つ事が許されて、捲簾だけが天蓬の背後に立つ事が許されていた。
 部下たちが常に二人の背後に立つ事はあっても戦場では絶対に立たない。というか立たせない。
「おかしいでしょう?」
「そんな事はねぇよ」
 捲簾は云ってフッと笑みを見せた。
「お前らしい考え方だ」
「……僕、らしいですか」
 捲簾が云ったのに天蓬は嬉しそうに笑った。
「貴方は僕の事、いっぱい知ってるんでしょうね」
「軍人としてのお前ならな」
「え?」
 捲簾の言葉に天蓬は首を傾げた。
「子供の頃の事は知らねぇから、金蝉に聴けよ」
「………そうですか」
 捲簾が知るのは出逢ってから先の天蓬だけ。それ以前の事は全く知らないに等しい。天蓬は自分の事をベラベラしゃべるような人ではなかったから。
「………っと」
 云っている内にまた魚がかかった。竿を引くと、小さな魚が二匹かかっていた。それに天蓬も瞠目している。
 焼き魚にはならなくても天麩羅にはできる。
「俺の記憶でよかったら話すけど?」
「是非、お願いします」
 天蓬も真剣な顔でお願いした。捲簾もそれに頷いて、まずは出逢った時の事から話し出した。あの夜には話さなかったプライベートな事を中心に、二人が恋人同士だったという事は除いて、丁寧に。






 捲簾の話す事に天蓬は真剣に聴き入っていた。
 初めて会った時の事や出陣の時の事。皆で宴会をした時の事や下界に下りて焼肉パーティーをした時の事。
 聴けば聴くほど、天蓬はその話にのめり込んでいった。
「でよ、お前ってば本当に一人じゃ生活できなくてよ」
「……………ι」
「俺っては世話女房みたいになってたんだぜ」
 ケタケタ笑う捲簾に天蓬は恥ずかしい気持ちになった。しかし、自分の家事のできなさを思えばそれも分かると思った。
「僕ってそんなに駄目人間だったんですか?」
「日常生活はな」
 否定するでもなく頷く捲簾に天蓬は嘆息した。その間にも捲簾は器用に魚を釣り上げバケツの中に放っていく。
 天蓬が抱くバケツの中には大きな魚から小さな魚まで満タンになっていた。これ以上は釣っても無駄というもので。
 捲簾も漸く竿を上げて釣りをするのをやめた。
「でもよ、軍人としては最高だったぜ」
「え?」
「お前が元帥ってのも分かるし」
 捲簾は云うと真面目な顔で向かい合った。
「いつでも部下の事考えて、必死に動いて頑張って」
「………………」
「お陰でウチの軍は常勝って云われて、俺が赴任してからは死者は一人もでなかった」
 嬉しそうに笑う捲簾に天蓬も安堵したように頷いた。
「でな、お前の親衛隊もいたんだぜ」
「は?親衛隊ですか?」
 捲簾の言葉に天蓬は呆れたように瞬きした。男ばかりの軍内で親衛隊とはまたおかしな話だ。
「もー、すっげーの」
 ケタケタ笑う捲簾に嘘はないように思った。
「お前、慕われてたんだぜ」
「……それって喜んでいいんですよね」
「当然だろ」
 即答する捲簾に天蓬は微笑した。
「貴方は?」
「え?」
「僕とは、どういう関係だったんですか?」
 さっきから聴いていると軍の事ばかりで、捲簾との関係については一言も話してくれていなかった。この親しみはただの上司部下ではないと思っている。
「だから」
「ただの上司部下では……ないですよね?」
 確信を持って聴けば、捲簾はグッと押し黙った。
「僕……貴方に触れるとドキッとするんです」
「え?」
「悟浄や八戒ではこうはなりません」
 ハッキリ云ってズイッと捲簾に近付いた。バケツが転ばないようにしっかり抱き締めて、捲簾と触れるくらいの距離にまで近寄る。
「お、おい……」
「逃げないで下さい」
 天蓬の接近に逃げようとする捲簾に鋭く云えば、その場に留まった。
「どうしてですか?」
「………………」
「どうしてこんなに鼓動が鳴るんですか?」
 こんな事、聴いたところでまともな返事が返ってくるとは天蓬は思っていない。
「貴方と僕は、どんな関係だったんですか?」
「………天蓬」
 迫る天蓬に捲簾は困ったように眉を寄せた。その表情に天蓬は捲簾が何かを知っているのだと分かった。
「教えて下さい」
「……………」
「僕は、全部知りたいんです」
 キッパリ自分の気持ちを告げた。
 少し前までは記憶なんて戻らなくていいと思っていた。今が幸せならそれでもいいのではないかと思っていたから。
 それでも、観世音の言葉を聴いて、捲簾や金蝉に会って、思い出したいと考えるようになった。
「どんな結果でも受け入れますから」
「………天蓬」
「教えて下さい」
 真剣な表情で問えば、捲簾は小さく息を吐いて真っ直ぐに天蓬に向き直った。




 あまりに真剣に聴いてくるものだから、捲簾は小さく息を吐いて全てを話す覚悟をした。
 天蓬の膝の上からバケツを奪って横に置き、その手をギュッと握った。
「………本当に後悔しないな?」
「はい」
 コクンと頷く天蓬の指は冷たく冷え切っていた。このままの状態でいれば確実に風邪をひかせてしまう。そうでなくても川辺は冷えるのだ。
「ちょっと待ってろよ」
「え?」
 一度天蓬の手を離して、出掛けに八戒に渡されたブランケットを取り出す。それを天蓬の肩からフワリと掛けて、そのまま自分の腕の中に抱き込んだ。
「――――――っ」
 途端にビクッとする天蓬の身体をしっかり抱き込んで逃がさないようにする。天蓬はそれに逃げるでもなく大人しく収まっている。
「こういうの……嫌か?」
 普通は同性に抱き締められたら不快に思うはずだから。最初、天蓬にアタックし始めた当初も嫌がられていた。
 何度も根気良く口説いて漸く理解してもらった恋だから、記憶のない今の天蓬は嫌がるのではと思っていた。
「……嫌、ではないですよ」
 小声ではあったけどハッキリ返された言葉に捲簾はホッとした。
「そっか」
「……僕たちは……こういう関係だったんですか?」
 ボソボソした声に少し身体を離せば天蓬は真っ赤になっていた。
「うん」
 捲簾が頷けば、天蓬は更に頭を垂れてしまう。捲簾の肩に頭を押し付けるようにして恥ずかしさを誤魔化すようにしている。
「信じられない?」
 聴けば天蓬はすぐに首を横に振った。
「本当に?」
「………はい」
 コクンと頷く天蓬はそろっと顔を上げてきた。信じられないくらいに紅く染まった顔に僅かに眼は潤んでいる。
「だって……」
「ん?」
「僕の心は、本当だって云ってますもん////」
 天蓬の言葉に捲簾は驚いた。
「え?」
 分からなくて聴き返せば天蓬は困ったように微笑した。
「あの……、僕の心と身体は貴方を憶えているって云うか……その」
「………………」
 天蓬が云ったのに捲簾はハッとした。
 天界にいた頃、天蓬が云っていた言葉が脳裏に蘇る。


『記憶は失っても心と身体は憶えている』


 天蓬はそれが嘘ではなかったと、今証明した。
「多分、求めて……」
「天蓬っ」
 天蓬が全てを云う前に捲簾はその身体を引き寄せて力の限り抱き締めていた。腕の中で強張る身体が愛おしい。
 天蓬はまだ憶えてくれている。取り戻せる。そう思えば嬉しくて堪らなかった。
「捲簾?」
「俺、お前の事……すっげー愛してるんだ」
 天蓬を失っていた時間は短いけど、愛しいと思う気持ちは募るばかりで。
「えっと、捲簾?」
「本当に……愛してる」
 真摯に告白すれば天蓬はコクンと頷いて背中に腕を回してくれた。天蓬の方から引っ付いてくれるのに捲簾は嬉しくなって抱く腕の力を強めた。
「お前な、こっちに落ちる前に云ってたんだ」
「え?」
「俺が例え記憶を失っても自分は大丈夫だって」
 捲簾が云うのを天蓬は黙って聴いていた。
「何度でも俺に『愛してる』って云わせてみせるって」
「………………っ」
 捲簾が云ったのに天蓬は大袈裟なくらいに身を強張らせた。ビクッと動く身体は何かを思い出したんだろうか。
「だから俺も云うよ」
 身体を離して真っ直ぐに視線を交える。肩に手を置いてそっと髪に指を絡めた。
「お前が俺を……何度忘れても俺はお前に『俺を愛してる』って云わせてみせる」
「………捲簾///」
 これは結構恥ずかしい愛の告白だと思う。それでも今、伝えなければいけない言葉だったから捲簾は真摯に伝えた。
「だから、無理に思い出さなくても……」
「嫌です」
 捲簾が全部云う前に天蓬は云った。それに捲簾は驚いた。
「そんな事聴いたら、思い出したくなっちゃうじゃないですか」
 天蓬は云って離れた距離を縮めるように抱き付いてきた。隠れていた月が姿を見せたのに二人を優しく照らす。
「ズルいです」
「天蓬?」
「思い出させて下さいよ、……捲簾」
 天蓬が云うのに捲簾は眉を寄せた。
 失った記憶を呼び戻すには、強い衝撃を与えるのが一番いい。だからと云って、天蓬を傷付けるわけにはいかない。
「俺は……」
「僕、貴方が好きなんだって、実感したいです」
 何て事を云うんだと思った。
「お願いします」
「……無茶、云うなって」
 こんな場所でどうしろと云うのだろう。天蓬が云っている意味が分からないではない。嫌というくらいに分かっていると思う。
 しかしそれを実践するには場所が悪い。
「僕、ヤケになってるわけじゃないですよ」
「………天蓬」
「もう、貴方の事忘れたままなんて……嫌なんです」
 そんな事云われたら止まれるわけもなく、捲簾は天蓬を力のままに引き寄せるとそっとキスを交わした。







 時刻は日付を変えようとしていた。
「さて、そろそろ寝ますか」
「さんせー」
 八戒が云ったのに悟浄は手を上げて賛成を示した。ここ数日、悟浄は賭場に行っていない。それは観世音がカードを置いていったので、そこから生活費を賄っているからだ。
 好きに使えと云われた以上、遠慮する気はない。
「今日は自分の部屋で寝て下さいね」
「あいよー」
 悟浄は云ってすぐに部屋に向かった。
 天蓬は今夜は多分、帰ってこない。捲簾が出掛けに夜通しで釣りをすると云っていたし、キャンプをして過ごすから問題ないとも云っていた。
 天蓬も乗り気で楽しみにしているようだったから一人、戻ってくる事もないと分かる。
「僕も部屋に戻りますけど」
「あぁ」
 金蝉は寝床になっているソファーに座ったまま答えた。八戒が貸したベストセラーが余程気に入ったのか、天蓬たちが出て行ってからずっと読んでいる。
 テーブルの上に置かれたままのカップに、冷めてしまったコーヒーがある。
 金蝉も多分、今夜は本を読んで天蓬を待つんだろう。八戒はそう思って、台所からコーヒーメーカーを持ってきた。カップに冷めたコーヒーは流しに捨てて洗っておく。
 そこに熱いコーヒーを注いで、近くにミルクと砂糖も用意する。八戒がそこまで動いているにも関わらず、金蝉は本から顔を上げない。
「コーヒーはここに置いておきますから」
「……すまんな」
 金蝉は口だけで礼を云ってページを捲くった。
「……おやすみなさい」
 八戒はジープを抱き上げて、金蝉に声をかけてから部屋に戻った。









 一人残されたリビングで、金蝉はパタンと本を閉じた。ここから遠くない位置に感じる二つの神気。さっきからずっと気にかかっていた。
「………………」
 本を読んでるフリをして何も頭には入っていなかった。
 最初から近くにあった二人の神気は、今は一つになりそうなくらいに近い。心が近寄っているのだと分かる。
 天蓬と捲簾の関係くらい知っているから。あの時、迎えに来た時も天蓬が捲簾という存在を気にしたのは分かった。
 だから二人にすれば記憶が戻るんじゃないかと思った。
「………………天蓬」
 金蝉にとっても天蓬は唯一本音で話せる友人で幼馴染みで。捲簾とは違った意味で大事な友人だった。笑顔が好きで、特に驚かせた後に見せる笑顔は輝いていた。
 記憶を失ったと聴いても慌てずに済んだのは、捲簾なら取り戻せると思ったから。そうでなければ、金蝉が天蓬の傍にいた。
 金蝉だって天蓬にとっては特別な存在だ。自惚れではなくそう思っている。
「戻ってこいよ」
 遠くにある幸せそうな気配を感じながら、金蝉はコーヒーに手を伸ばした。





 岩場から下りて木の下に二人で並んで座って。
 捲簾は白煙を吐き出していた。その肩に寄り掛かるように天蓬は頭を預けていた。
「………捲簾」
「ん?」
「僕、思い出したいです」
 肩に重みを感じたまま云われて捲簾は視線を向けた。肩に天蓬の頭があるから大きく動く事はできない。眼に映るのは黒髪だけ。
「貴方と過ごした時間を……」
「過去はどうでもいいんだけど」
「でも……」
 捲簾が云ったのに天蓬は頭を上げて視線を絡めてきた。相変わらず分厚い眼鏡の向こうの紫碧は揺らいでいる。これは困った時の天蓬のクセで。
「また、愛し合えばいいんだし」
「でも僕は……」
「天蓬、無理すんなって」
 捲簾は天蓬の頭を抱えるようにして腕を回して額に唇を押し付ける。それに天蓬は眼を見開いて顔を俯けた。
 こんな風に素直に反応はしてくれなかった。天界にいた時の天蓬は意地を張っているところがあったから。
 でも、あの時の天蓬もこんな風になるのを必死に取り繕っていたのだとしたら何とも嬉しい。可愛くてたまらない。
「僕、軍人なのに」
「やめたらいいじゃん」
 天蓬にとって軍人は天職だと分かっている。それでもあの時と同じ気持ちを味わうのは嫌だった。
 天蓬には平穏に暮らして欲しい。怪我なんかしなくてもいいように、本音を云えば閉じ込めてしまいたいと思っている。
「僕、元帥なんでしょう?」
「あぁ」
「簡単にやめられない職業……なんですよね」
 それに捲簾はすぐに答えられなかった。
 確かに天蓬という存在を西方軍、……天界軍は手放したりしないだろう。例え両手足を失ったとしても天蓬の軍師としての頭脳だけでも欲するかもしれない。
 天蓬という存在はそのくらいに重いのだ。
「僕、貴方と背中合わせでいたいです」
「………………」
「全てにおいて、貴方の一番でいたいです」
 凄い告白だと思った。
 全てにおいて、とは公私においていつでもずっと、という事で。
「僕は………、っ」
「ったく」
 言葉を云おうとする天蓬がビクッとした。当然、その意味を捲簾もすぐに察して顔を上げた。
「捲簾」
「やっぱお前、軍人だな」
 天蓬も捲簾の肩に手を置いて周囲に気を張っている。不安そうにしているのは天蓬が戦い方を忘れてしまっているからだ。
「……結構、数が多いな」
「えっと、この気配は……」
「妖怪だ」
 即答して捲簾は腰に隠してある銃を確認した。天界から持ってきて、常に肌に離さず持ち歩いている銃には麻酔弾が六発と予備の弾が十二。
 一発で眠ってくれるとは限らないから正確に狙わないといけない。
「……捲簾」
 捲簾の袖をギュッと握る天蓬を立たせて背中に庇う。ただの妖怪ならどうって事はない、少し脅せば勝手に逃げ出すだろう。
 捲簾はそう思って左手に銃を握った。
「僕……どうしたら……」
「俺から離れるな」
「でも」
 云っている内に近付いてくる気配は増える一方で。ガサガサとした足音に天蓬も身体を強張らせている。


「うひゃひゃ、こーんなトコに今夜の獲物がいたぜ」
「……しかも二人も……、ツイてるな」
 下品な笑いを浮かべながらやってきた妖怪たちは数だけ見れば二十か三十か。とにかく半端でない数だった。
 これでは下手な討伐のようだと思い、自分の迂闊さを呪った。気配を感じた時点で逃げればよかった。
 いくら捲簾が軍大将でも多勢に無勢というもの。しかも天蓬に怪我をさせないように動くには場所も悪い。
「そっちの美人さん、欲しいなぁ」
「俺も……すっげー好みだ」
 ケタケタ笑う妖怪たちに天蓬はビクッとした。
 この河原は走り難いし眼の前は川、背後には妖怪。浅い川ならまだしも魚のいる量や流れから見るに水深はかなりある。
 どうせなら釣りをした岩場を背に対峙した方が効率はいいだろう。捲簾は天蓬の手を強く握り締めた。
「………天蓬」
 小声で話し掛ければ天蓬はビクッと顔を上げた。
「あそこまで行くぞ」
「…………はい」
 天蓬もすぐに意を察したのかコクンと頷いて、少しづつ足をずらした。肩に掛かったままのブランケットをしっかり握って岩場を睨み付けた。
「行くぞ」
 天蓬の手を引いて岩場まで行く途中に飛び掛ってきた妖怪三人を蹴って殴って回避した。状況が状況といっても天界には不殺生の原則があるから殺すわけにはいかない。
 だからと云って麻酔銃を考えなしに放てばいずれ捕まり、やられてしまう。
「テメェ……」
「どうやら嬲り殺しが希望らしいなぁ」
 大人数でいる奴らは必ずそういう考えを持つ。じわじわと痛ぶるのを楽しんですぐには殺さない。万全な時ならそれにノッてやるのも一興だが、今は天蓬がいる。
 そこにいる妖怪の中には天蓬を狙っている奴もいる。何があっても渡すわけにはいかない。
「お前の眼の前でヤッてやろうか?」
「あ?」
 一人の妖怪が云った言葉に捲簾はギロッと眼を向けた。それに暴言を吐いた妖怪が怯んだ。捲簾の殺気に満ちた視線に全ての妖怪の足が止まる。
「テメェらにコイツを渡す気はねぇぞ」
「ハッ、この人数見て物云えや」
 ジリジリと寄ってくる妖怪たちに捲簾は両足をしっかり踏み締めた。
 体術には自信がある。軍内でも捲簾に組み手で勝てる者はいない。唯一、天蓬の足技に翻弄される事はあるが、それでも力においては絶対的な自信がある。
 万が一の場合に麻酔銃もある。
「さぁ、来いっ」
 捲簾は天蓬を岩に押し付けて構えた。
「行くぞっ」
「かかれぇ――っ」
 一気に飛び掛ってくる妖怪たちを殴って蹴って、武器を持っている相手には銃を放つ。妖怪の肉体は強固だからいつまでも素手でどうにかなるはずもない。
 崩れ落ちた妖怪から刀を奪って構えると少し余裕ができた。
「………っ、囲めっ」
 妖怪の一人が云ったのに岩の上に乗ろうとする奴が現れた。そんなところに登られたら天蓬にも危害が及ぶ。
 捲簾はそう判断して岩場から離れた。
 大丈夫だと思った。この程度の奴らならどうにでもなると、高を括っていた。
「一気に潰すぞっ」
 リーダー格の妖怪が命じて周囲を囲まれたのに全ての妖怪を自分に引き付けられたと思った。刀を片手に、銃を片手に近付く奴は容赦なく吹っ飛ばした。
 多少手荒になっても死なせなければいい。
 腕の一本くらいなくなっても妖怪の生命力なら簡単に死にはしない。もし、殺してしまっても時間軸がズレているのだから誤魔化す事も可能だ。
 そう思って、捲簾は妖怪をどんどん片付けていった。
「ぐあぁっ」
「こなくそっ」
 叫びながらも逃げずに飛び掛ってくる。その度胸は大したものだと思う。
「足を狙えっ」
 命令に寸分なく足を狙ってくる。それが分かれば回避も楽というもので。捲簾を囲む妖怪は残り三人となった。
「………はッ」
 ニッと口の端を上げる捲簾に妖怪たちは眉を上げた。息の上がる妖怪三人ならもう、楽勝だ。捲簾はそう思って天蓬がいる方に眼を向けた。
「―――――っ」
 いるはずの天蓬がそこにはいなかった。近くに眼を走らせるも天蓬の姿はない。
「今だっ」
 捲簾が呆然としているのを狙って妖怪が突っ込んできた。それに捲簾は咄嗟に銃を撃った。続けざまに二発。
 弾の無駄遣いと云われても仕方ない。
「テメェっ」
 逆の方から向かってくる妖怪にも同じように麻酔弾を撃ち込む。残る一人には刀で薙ぎ払って蹴倒す。
 今は不殺生などと云っている場合ではない。
「……………っし」
 捲簾は周囲に立っている妖怪がいないのを確認して川の方に走った。









 捲簾が妖怪を引き付けるために飛び出したのに天蓬は何もできなかった。
「………捲簾」
 こんな時、どうして記憶を失ったんだと思う。どうして捲簾と一緒に戦えないのだと思う。歯痒くて仕方がない。
 自分が戦えたら捲簾はあんな無茶はしなかっただろう。


 ―――パシャッ


 耳に届いた水音に天蓬はビクッとした。顔を向ければそこには、水に濡れた妖怪がいてニヤリと口の端を上げている。
「…………や」
 咄嗟に捲簾に助けを求めようとして口を噤んだ。
 ここで天蓬が助けを求めれば捲簾は飛んでくるだろう。しかし相当な無茶をして怪我をしてしまうかもしれない。
 自分のために怪我なんかして欲しくない。
「………………」
 天蓬はそう思って捲簾には気付かれないようにジリジリと背後に下がった。ゆっくりと後ずさる天蓬に現れた妖怪も同じ速度で迫ってくる。
 岩場を回避して下がればすぐに川に足が付いて、ビクリとした。
 川では逃げ場はないも同じで。
「…………ふふッ」
 これ以上、下がれない天蓬に妖怪はフッと笑って足を進めてきた。このままここにいて捕まっては捲簾に迷惑がかかる。
 捲簾の足手纏いにだけはなりたくない。
 天蓬はそう思って身を翻した。
「………なっ」
 せめて捲簾があの妖怪たちを全部倒すまで捕まるわけにはいかない。天蓬は迷う事なく川の方に走った。
 川が安全でない事は分かる。でも捲簾の方に走るわけにもいかないし、大人しく捕まるつもりもない。捕まって殺されるのも犯されるのも嫌だから。
「このっ」
 天蓬を追ってきた妖怪を確認しつつ川の深いところまで行く。
 川の中腹まで行けば流れは予想以上に深くて速かった。急に深くなった水深は腰の辺りまできて、借り物のブランケットを流されないように支えるので精一杯だった。
 足が縺れて流されそうになる。踏ん張って何とか過ごそうとした。
「追い詰めたぞ」
「…………っ」
 すぐ近くで声がして天蓬はバッと振り返った。手を伸ばしてくる妖怪に避けようとした時、足が流れに攫われた。


 バシャッ


 背中から川の中に落ちるのに妖怪も追うように飛び込んできた。
 真っ暗な水の中、僅かに見える月明かりに妖怪の姿を確認できた。手に持った刀が天蓬を狙っている。
(………殺される)
 そう思った。
 呼吸ができなくて苦しくて。川の流れに眼鏡までも奪われてハッキリしない視界に苛立ちを感じた。何とかして川の上に顔を出したかったのにそれもできない。
(こんなところで……死にたくないっ)
 妖怪の手が首に掛かって、突き出された刀を天蓬は何とか避けた。それでも掠った刃が腕を裂き、血が流れた。
(…………………っ)
 痛みと水の流れ、そして眼の前の妖怪に頭の中で何かが弾けた気がした。







 崖から落ちた捲簾を追って天蓬も地を蹴った。真下にあったのは広大な川で、暗く冷たい水の中、必死に捲簾を探した。
 泳げないわけではないけど、捲簾は怪我をしていたから。
(………あ、いた)
 流されるように意識のない捲簾を見付けて天蓬はホッとした。
 だが、それも束の間、捲簾を狙う妖怪がいる事に気付いて天蓬は腰に差した刀を抜いた。水の中じゃ銃は使い物にならないから。
(捲簾……)
 水を蹴って、妖怪の刃が捲簾に届く前に間に滑り込む事に成功した。その時、僅かに腕を掠った刃が血を散らす。
 殺されるとは思わない。生きて一緒に帰るのだと約束していたから。
 驚く妖怪に天蓬は刀を構え直して一気に腹を貫いた。一気に紅く染まる視界を冷たい眼で見て、天蓬は捲簾の腕を抱えると水面目掛けて浮上した。






 同じ光景にフラッシュバックしたのだと感じた。もう一度くる斬撃を避けて逆に刀を奪おうとした。当然簡単には離してくれない妖怪の腹を蹴って何とか奪い取った。
 これ以上は呼吸がヤバい。
(………これで、終わりです)
 天蓬は両手でしっかり刀を握って力いっぱい妖怪の腹に突き立てた。







 捲簾は天蓬を捜して川の方に足を向けた。自分たちの横を天蓬は通ってない。ならば川の方に向かうのだと考えるのが普通だ。
「……天蓬っ!!天蓬―っ」
 声を上げて天蓬を呼ぶ。それでも返る声はなく、捲簾は川の中に飛び込もうとした。
「…………っ」
 だが、その時川の中腹から何かが顔を出した。咄嗟に妖怪かと思って麻酔銃を向ける。照準を真っ直ぐに合わせてみれば、それは妖怪ではなかった。
「――天蓬っ」
 捲簾が叫んだのに天蓬はクルッと振り返って微笑した。バシャバシャと川の中に足を踏み入れると天蓬も捲簾に向かってきた。
 流されながらも必死に手を伸ばす天蓬の手を握って力のままに引き寄せる。
 全身びしょ濡れになりながらもブランケットを手に持ち刀を握る天蓬を腕の中に抱き込んで安堵した。確かに感じる鼓動にホッとした。
「……捲簾」
「よかった、無事で」
 力のままに抱き締めて、天蓬が苦しいのが分かってもやめる事はできなかった。
「ただいま、………捲簾」
「え?」
 天蓬が云ったのに捲簾は顔を上げた。肩を掴んで引き離したのに天蓬はニコッと微笑した。
 濡れた髪が頬に張り付いて、肌に張り付いた肌が扇情的で。その奥にある笑顔は何よりも綺麗で、捲簾のよく知る笑顔で。
「て……んぽ?」
「はい」
「お前、……ひょっとして?」
 怖々と聴けば天蓬は優しく笑って捲簾の頬に手を添えた。緩い力で引き寄せられて顔が近付いて。互いの顔しか映らないくらいの距離で見詰め合って。
「戻ったのか?」
「………はい」
 優しい返事と共に柔らかいキスをされて、捲簾は離れる前に天蓬の頭を攫った。背中を抱いて頭を支えて深く唇を合わせる。
 冷えた身体にそこだけが熱を持ったように熱くなって。
 天蓬も捲簾の背に腕を回して縋り付いて。
「……けんれ……ん」
 呼吸の合間に名前を呼んでくる天蓬が愛おしくて、キスをやめる事はできなかった。
「……お帰り……天蓬」
 そっと囁く声に、天蓬の眼からは涙が溢れ頬に伝った。








 濡れたままの状態で戻れば、金蝉はまだ起きていて八戒と悟浄が飛び起きてきて。ジープまでも飛んできて、二人は有無云わさず風呂に叩き込まれた。
 大事に天蓬の背を抱きながら風呂場に消えた捲簾を見送って八戒はジープに近くに来るように促した。
「キュ?」
「燈熔さんを呼んできます」
 天蓬が怪我をしていたのを八戒はちゃんと気付いていた。早く治療したいと思うのが当然だった。
「その必要はねぇだろ」
「金蝉?」
 八戒が出て行こうとするのを金蝉は寸前で止めた。悟浄も不可解な顔をしている。
「今……ババァがこっちに向かってる」
「え?」
 金蝉は天蓬たちが戻ってきたのに別の気配を感じていた。それはずっと親しんできた気配で間違いなく観世音のものだった。
「すぐに察知したのか分かっていたのか……相変わらず食えねぇババァだ」
 一人納得している金蝉に八戒と悟浄は顔を見合わせた。
「どういう事です?」
「世話になったな、今夜……天蓬は連れて帰る」
「………って、俺は……」
 悟浄が声を上げるのに八戒が片手を上げて制した。ジープも八戒を見上げて答えを待っている。
「……天蓬の記憶、戻ったんですね」
 これは質問ではなく確認だった。
 悟浄も八戒が云ったのに眉を寄せて視線を反らした。悟浄も分かっていたらしい。
「多分な」
「そうですか」
 八戒は云うとジープを悟浄に渡した。そのまま台所に向かうとお茶の用意を始めた。
「八戒?」
「すぐに来られるんでしょう?お茶の用意をしておかないと」
 流石にお茶も出さないのでは失礼になる。深夜の招かざる客でも、相手は菩薩なのだからと八戒は考えた。
「……天蓬、やっぱ帰りたいのかな?」
「そりゃそうでしょう」
 落ち込んでいる悟浄に八戒は冷たく答えた。金蝉はそんな二人を見て一人ソファーに戻った。今まで天蓬の傍にいた二人の気持ちを金蝉は知る事ができない。
 別れを考える二人の傍に金蝉は不要だ。
 さっきは読めなかった本を手に取り、金蝉は視線を落とした。帰るまでの僅かな時間でどれだけ読めるか分からないが時間潰しには調度いいと思った。






 金蝉の宣言通り、捲簾と天蓬が風呂に入っている間に観世音は三蔵と一緒にやってきた。相変わらずの変わらない恰好と態度は、いっそ清々しいくらいだ。
「戻ったんだろ?」
 誰も勧めていないのにソファーに座って足を組んで、金蝉は嫌そうに眉を寄せた。
「………今、捲簾と風呂に入ってる」
「あ?さっすが暴れん坊将軍(下半身含む)ってか」
「下種な勘繰りはやめろ」
 観世音の言葉に金蝉は云って、八戒の用意した茶を口に運んだ。三蔵は椅子の方に座って煙草を吸っている。
「出てきたら怪我の治療、頼むぞ」
「あ?」
「腕を怪我してやがる」
 金蝉が苛立ちを隠さずに云うのに観世音は嘆息した。
「またか、あのバカ」
「……あぁ、まただ」
 頷く金蝉に観世音はやれやれを背凭れに体重を預けた。天蓬と捲簾が怪我をするのはいつもの事だからそんなに驚いたりはしないが、記憶のない時にまで怪我をするとなると呆れてしまう。
「………金蝉」
「あ?」
「よかったな」
 観世音が云うのに金蝉は眉を寄せた。いきなりそれだけ云われても返事に困ると云うもので、観世音は何を云いたいのかと金蝉は考えた。
 だが考えるまでもなく天蓬の記憶の事なのは分かった。
「あぁ」
 金蝉が返事するのに観世音はニッと口の端を上げた。そんな二人を離れた場所で八戒たちは静かに見守っていた。







 風呂から上がると観世音に三蔵までいるのに二人は驚いた。
「………菩薩」
「よぉ」
 驚く天蓬に観世音はズカズカ近付くと無遠慮に腕を引っ張った。斬られたのは左腕で、捲簾の手により止血はされているものの、そのままの状態でダラダラと血が流れていた。
 観世音にジッと見られて天蓬はバツが悪そうに視線を反らした。
「お前は……」
「すみません」
「怪我ばっかするよな」
 そう云いながらも観世音は軽く怪我を治していく。淡い光が集まったかと思えば、みるみる内に傷は消えていく。
「………はぁ」
 相変わらずの手際に天蓬は細く息を吐いた。
「傷は塞いだが、派手に動かすなよ」
「………はい」
 どうせ出陣は敖潤が入れないだろうが、と観世音は云わないでおいた。
「さて、夜が明ける前に帰るぞ」
「………はい」
 観世音が云ったのに天蓬は返事して悟浄と八戒の方に顔を向けた。何か話があるんだろうと観世音は思って捲簾と金蝉に外に出るように促した。
 三蔵も一緒になって外に出るのに観世音はニッと笑って静かにドアを閉めた。
「あの……悟浄、八戒」
「戻ったんだな?」
 天蓬が何かを云う前に悟浄は口を開いた。
「はい」
「よかったですね、天蓬」
 にっこり笑う八戒に天蓬も眼を細めて微笑した。八戒の手からジープも飛んできて天蓬の肩に止まるとキューと小さく鳴いた。
 天蓬はジープの鬣をそっと撫でて、二人の方に視線を戻した。
「いっぱいお世話になりました」
「それは別にいいんだけど」
 頭を下げる天蓬に悟浄は素っ気無く答えた。それに天蓬はそろそろと顔を上げた。最後にはちゃんと顔を見て挨拶したい。それが正直な気持ちだった。
「……悟浄」
「俺、天蓬とこのまま一緒に暮らしたい」
「……悟浄……」
 悟浄の気持ちが嬉しかった。一緒にいたいと云われて嫌だなんて思うわけがない。
 悟浄も八戒も悪い人ではないし、一緒に過ごしていて楽しかった。一時期はこのまま一緒に暮らすのもいいと思ったくらいだから。
 でも、天蓬は記憶を戻して捲簾と再会して、帰りたいと思っている。それに矢張り天蓬がいるべき場所はここではない。
「帰らないで欲しい」
「………………」
「俺、天蓬の事、好きだよ」
 凄く真摯な告白だと思った。真っ直ぐで穢れがなくて正直な気持ち。
 だからと云って、天蓬はそれを受け止める事はできない。捲簾が好きだからという以前に、悟浄の気持ちを貰えるほど、自分がいい人だとは思えないから。
「僕は……」
「行くなよ」
 悟浄は云って、天蓬の身体を腕の中に抱き込んだ。ジープが驚いて飛び上がるのも気にしないで悟浄は優しく天蓬を包み込む。
 大きな腕の中は安心できる場所なのかもしれない。それでもそこは天蓬の居場所では有り得ないのだ。
「悟浄、天蓬……困ってるじゃないですか」
 八戒が横から口添えするのにも悟浄は首を横に振った。自分より背は高いけど、子供な悟浄。優しくて不器用で器用貧乏な人。
「……ごめんなさい、悟浄」
「やだ、聴きたくない」
「聴いて下さい」
 少し強めに云えば悟浄はビクッとして抱き締めていた腕から力を抜いた。俯いたままの悟浄の表情は長い紅髪に遮られてしっかり見る事はできない。
 それでも泣きそうな顔をしている事は何となく分かる。
「僕はこの時代の住人じゃないんです」
「そんなの関係ないもん」
 まるで小さな子供のような云い方に天蓬は眉を下げてクスッと笑った。
「悟浄の気持ちは嬉しいですよ、こんな僕を好きって云ってくれて」
「………天蓬ぉ」
「でも、僕は帰らないと」
 悟浄の髪を掬うように頬に手を添えて撫でる。真っ直ぐに視線を合わせると、悟浄は今まで見た事がないくらいに情けない顔をしていた。
「ありがとうございます、僕を助けてくれて」
「………俺」
「貴方の事、忘れませんから」
 天蓬は云って背伸びをすると、唇にチュッとキスをした。触れるだけのキスに悟浄は眼を見開いて硬直した。
 天蓬はそんな悟浄にフッと笑みを浮かべて離れた。
「て、天蓬……」
「今までのお礼です」
 これが意地悪だと分かっている。でも、忘れられたくはなかったからインパクトのある礼をしたかった。
 最も、自分たちが去った後で記憶は抹消されるだろうけど。
「……んな事されたら……帰したくなくなるじゃん」
「でも、帰してくれるでしょう?」
 悟浄は凄く優しいから。自分よりも他人を大事にする人だから。
「天蓬って、ズルイ」
「ふふッ」
 もう一度悟浄が抱き締めてくるのに、天蓬も今度はその背に手を回して優しく叩いた。
「……ねぇ、天蓬」
「はい」
 八戒が声を掛けてきたのに悟浄は名残惜しそうにしながらも天蓬を解放した。正面から顔を見るために身体ごと向き直れば、八戒の手には天蓬の軍服があって。
 悟浄も何かに気付いたかのように場を後にした。
「これ、洗濯して繕ってますので」
「……八戒」
「帰られるんでしたら……必要でしょう?」
 軍服は置いておくわけにもいかない。
「ありがとうございます」
 天蓬は礼を云って軍服を受け取った。久し振りに見る自分の軍服に苦笑してしまう。
「貴方にもお世話になりっ放しで……」
「いいえ、楽しかったです」
 八戒は悟浄のように直接的な行動には出てこない。だから天蓬が逆に行動に移した。
「―――――え」
 天蓬から八戒に抱き付くようにして身を寄せる。
「て、天蓬っ///」
「貴方の優しさも愛情も忘れませんから」
「…………はい」
 天蓬が云うのに八戒もそっと抱き締めてくれて。同じようにキスをしようとしたら手の平でスッと遮られた。
「……そういうのは大事な人にだけ、してあげて下さい」
「八戒」
「恋人、なんですよね?」
 誰、とは云わなかった。それでも見ていれば分かる事で、天蓬も微笑してコクンと頷いた。
「なら、尚更です」
 八戒に頬を撫でられて髪を梳かれて。
「幸せになって下さいね」
 まるで花嫁の父みたいな事を云う八戒に瞠目しながらも天蓬は頷いた。





 外に出れば、観世音と金蝉の手によってゲートの扉が召喚してあった。そこから吹く風は酷く冷たく感じて、もう帰らないといけないんだな、と実感させられた。
「別れはもういいのか?」
「………はい」
 軍服を身に纏って、刀を片手に持った天蓬は討伐任務に出た時のままのように見える。
「じゃ、帰るか」
 天蓬は頷いて振り返らなかった。ここで振り返ればここに未練ができてしまう。中途半端な気持ちは邪魔にしかならないから。
「天蓬っ」
 悟浄が掛けた声に天蓬はビクッとしたけど振り返りはしない。これは天蓬の意地で、捲簾はクツッと笑った。天蓬の意地っ張りは今に始まった事ではないから。
「元気でなっ」
 叫ぶように云う悟浄に天蓬は前を向いたまま頷いて。
「いいのか?」
「えぇ」
 聴いてくる捲簾に天蓬は答えて前を見据えた。眼の前のゲートを潜れば天界、戻る事はもうない。
「僕は、帰るんですから」
「そっか」
 天蓬の答えに捲簾は素っ気無く云って先にゲートを潜った。その後に金蝉も続く。観世音は最後に潜るからと天蓬を待っていて。
「………天蓬」
 観世音に促されて天蓬はゲートを潜った。
「キューッ」
 ジープが最後に鳴いた。思わずそれに振り返ると、天蓬に飛び付こうとしているジープを八戒が必死に抱えていた。
「………………」
 戻ってしまいそうになるのを寸前で留めている天蓬の肩に観世音は手を置いた。ゆっくりとゲートが閉まるのにもう、最後なのだと思い知らされて天蓬はグッと手を握り締めた。
 掛ける言葉なんか見付からなくて、ゲートが閉まる寸前に天蓬は一筋の涙を零した。










 久し振りの自分の部屋で天蓬は窓から桜を見ていた。その横には捲簾がいて、酒瓶から直接酒を煽っている。
「……なーに黄昏ちゃってんの?」
「え?僕、黄昏てます?」
 質問したのは捲簾なのに天蓬も質問で返す。それに捲簾はクツッと笑ってそっと自分の胸に抱き寄せた。
「………どうしました?」
「んー?」
「淋しかったんですか?」
 のほほんと聴いてくる天蓬に捲簾は抱き締める腕に力を込めた。
「うん」
「ずっと独り寝をさせちゃってすみませんでした」
 天蓬も捲簾の背に手を回した。
「後、ごめんなさい」
「うん」
「貴方の事、忘れちゃって……ごめんなさい」
「思い出してくれたから……許す」
 捲簾が云うのに天蓬も微笑して腕に身を寄せた。
「今夜はずっと一緒にいよ」
「………今夜だけ、ですか?」
「これからずっと……」
 まるで小さな子供のような云い方をする捲簾。それはそれだけ心配していたという事で。
 天蓬も明日起きれなくなってもいいと思った。捲簾という存在を感じていたいと思ったから。
「も、忘れませんから」
「うん」
「忘れられないようにして下さいね」
「おー」




 桜舞う窓辺で優しく抱き締められて。ずっと待ち侘びた温もりに安心した。








∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴

白井ちか様からのリクエスト、『捲天で記憶喪失』でした。原作風でもパラレルでもいいとの事でしたのでごっちゃ(?)になってしまって。しかも捲天要素が最初のちょこっととラストだけって。大半に浄八が出張ってまして申し訳ないです。しかも無駄に長くて……、こんなのしか書けなくてすみませんでした。今回は天蓬さんに忘れてもらいましたが、また機会があったら今度は捲簾さんに忘却して欲しいです。




09/11/01