天蓬が悟浄の家に世話になって二ヶ月が過ぎようとしていた。 自力で歩く事が漸くできるようになったのに、天蓬は朝ジープと一緒に散歩をするようになった。八戒もその様子を微笑ましく見て朝食の用意をする。 それが毎日の日課になっていた。 ジープは相変わらず天蓬に懐き、今では八戒以上に慕っているようにも感じる。天蓬もジープの事を可愛がっているから問題はない。 八戒が気にかかっているのは前回、三蔵が来た時に云っていた言葉。 『アイツは天界の神だ』 普通の人間ではないと思っていた。そして妖怪でない事も分かっていた。だが、神様ともなると話は全く別問題になる。 天蓬も三蔵と二人で何やら話をしていた。何を話していたのか聴いても、曖昧に笑うだけで教えてはくれなかった。そうなれば天蓬は絶対に話さないだろう。 短い付き合いの中でも天蓬の性格は分かってきたつもりだ。 「ジープが懐いてるって事は悪い人ではないですし」 それは八戒も信じている。 ジープは悪人には決して懐かない。そんなジープが天蓬には最初から懐いていた。まだ眼を覚ましていない時から枕元にへばり付いていた。 思えば悟浄だって警戒心は強い方だ。初対面の相手にはある程度の壁を作っているというのに、八戒にしても天蓬にしても悟浄は何でもない事のように傍に置いている。 このまま天蓬の記憶が戻らなければ、八戒と同じようにこの家に置くつもりだろう。 「……本当に、お人好しなんですから」 八戒はまだ起きてこない悟浄がいる部屋の方に顔を向けて思った。 「僕が悪人だったらどうするんです」 だったら、ではなく八戒は大量殺人を犯した犯罪者で世間的には十分に極悪人とされる部類に入る。それでも悟浄は八戒の事を悪く云ったりしないし、軽蔑したりもしない。 天蓬にしてもそうだ。 天界の神と聴かされて、あの大怪我を負っていたという事は何か犯罪を犯して追放、暗殺されそうになって逃げてきたという可能性だってある。 最初、三蔵の話を聴いた時、八戒はまずそれを疑った。しかし悟浄はそんなワケないと云い切った。そこに悟浄の底知れない優しさを見た。 悟浄がそう云うものだから八戒も信じる事にした。三蔵も調べてみると云った。 「そろそろ来そうなんですよね」 三蔵は何だかんだ云っても天蓬の件を最優先で調べてくれるはず。気になる事は公務を後回しにしてもやるのが三蔵なのだ。 八戒の勘は当たる。 ならばと四人分の朝食の準備になる。三蔵が来たら悟浄を起こせばいい。ジープが行けばすぐに起きるだろう。 三蔵のためにマヨネーズをたっぷり使ったサラダとトースト、ハムエッグと用意してコーヒーメーカーに豆をセットした。 記憶は相変わらず戻らない。戻らないけど、嫌だとは思わなかった。自分を知っている人に会いたいとは思うけど、今が幸せだと思うから。 「キュー」 ジープが天蓬の肩に乗って擦り寄ってくる。そんな仕草が可愛くて天蓬は鬣に手を伸ばす。 見た事がないはずの姿をしているのに受け入れてしまうのは、身体のどこかでジープを知っているから。それがジープではなく半身かもしれないが、天蓬は確かに知っていた。 悟浄にしても八戒にしても同じだ。 「風が気持ちいいですね」 街中でないから、木々の間から吹いてくる風が天蓬の髪を揺らす。近くに川があるのか水の匂いもする、葉っぱの匂いもする。 自然の中にいるとそれだけで元気になれる気がしてくる。それは多分気のせいではない。 「今日は少し遠くまで行ってみましょうか?」 「キューッ」 天蓬が云ったのにジープは声を上げて天蓬の髪を咥えて引っ張った。眼付きが間違いなく怒っている。 「………えっと」 「キュッ、キュー」 クイクイと引っ張りながら、羽根をバタつかせるジープに天蓬は苦笑した。 動けるようになったと云っても、まだ走れるような状態ではない。雨が降れば傷口は傷むし、咄嗟の反応は矢張り鈍い。 この散歩もジープが同行するのが条件で八戒が許可を出した。ジープはある意味お目付け役なのだ。 最初、燈熔の診療所まで歩いて云ったら無茶苦茶怒られて悟浄が飛んで迎えにきた。そんな距離ではないのだが無理をしていると判断された。 「分かりました、このまま帰りますよ」 「キュッ」 天蓬の返事にジープは小さく鳴いて天蓬の頬にチュッとした。 「でも、もう少しここにいましょう」 どうしてかと聴かれたら返事に困るのだが、何故かいた方がいい気がした。 天蓬は少し歩いて木の下に何故か置かれている岩に腰を下ろした。かなり大きな岩なのに調度、人が一人座れるようになっている。 「よいしょ」 天蓬はそこに腰を下ろして息を吐いた。するとジープがすぐに膝の上に丸まる。いつでも天蓬の傍にいようとしてくれるのは嬉しいと思う。 「やっぱり疲れますね」 「キュ?」 天蓬が呟いたのにジープは顔を上げた。心配していると分かった天蓬はニコッと笑みを浮かべた。それから身体を撫でてやればジープは気持ちよさそうに眼を細める。 (………本当に優しい人たちです) 天蓬の脳裏に浮かぶのは悟浄と八戒の顔で。 血塗れで倒れていた天蓬を拾って治療までしてくれて、それどころか自由に動けるようになるまで家にいてくれてもいいと云ってくれた。 その優しさに甘えてもう二ヶ月近くも世話になっている。 八戒は世話好きらしく、甲斐甲斐しく天蓬の世話をしてくれる。悟浄も仕事(?)帰りにたまに天蓬に土産を買ってきてくれる。 そんな優しい二人に天蓬は何も返せないでいるのが辛かった。 「……僕に何かできる事があればいいんですけど」 自分の過去が分かっていない天蓬には自分にできる事が何なのかも分からない。恩返ししようにも金もなければ知識もない。 もし、このまま記憶が戻らなければ、ここで生きていかなくてはいけない。 それは構わないと思っている。ここは穏やかでいい人が多いみたいだし、生きていくことはできると思う。 動けるようになればバイトもできるようになるし、そうなれば悟浄と八戒に少しづつでも世話になった分を返せる。 天蓬にできる仕事があるとは限らない。それでも生きていくために必要なら頑張れる気がした。 (でも………) 天蓬にはどうしても心に引っ掛かる部分があった。 夢の中にたまに出てくる黒い影。逆光になって顔は見えないけど優しい人だと分かる。しかも天蓬にとって凄く近い人。 (あの人……、誰なんでしょう?) 考えようとすると頭の奥が凄く痛む。思い出すのが辛くて、考えないようにする。そうすると必ず夢に出てきて手を差し出してくる。 『迎えに行くから』 それだけを云って背中を向ける影に天蓬は必死に手を伸ばして、眼が覚める。そこでいつも眼の端から涙が溢れているのに気付く。 その涙の意味が何なのか分からないまま今日まで過ごしてきた。 (僕はできる事なら、あのお二人の傍にいたいです) 天蓬にとって悟浄と八戒の傍は心地よかった。優しくて安心できる。 (でも) その心地よい空間は自分が本来いるべき世界でない事も何となく分かっている。自分はもっと別の世界に生きていたのだと身体は分かっている。 それでも一度知ってしまった幸せは手放せない。 (………幸せ?) 今が本当に幸せかと聴かれたら頷けない。穏やかな時間は心地いいけど本当の幸せなんだろうか。 知るのが怖くて考えないようにしている。でも、いつまでもなあなあにしているわけにはいかない。この穏やかな時間に甘んじていたら堕落してしまうから。 (僕は……) 悟浄が見ているTVを見て胸が騒ぐ時がある。それは専ら、妖怪が暴れて人里が襲われたニュースであったり、戦争の映画であったり。 (ここに居て、いいんでしょうか?) 八戒は迷惑じゃないからいつまでも居て欲しいと云う。悟浄も好きにしていいと云ってくれる。その優しさに甘えてしまう自分が許せなくなっていた。 「……キューッ」 「……………っ」 ジープが声を上げたのに天蓬は顔を上げた。自分の足元に影が落ちているのに驚くとそこには見た事ある人物が立っていた。 位の高い僧侶のクセに金髪で煙草を吸って酒も飲む凄い人。しかも麻雀まで教えてくれた。 「どうした?」 「…………三蔵、さん」 桃源郷に存在する最高位の僧侶、三蔵法師。どういう繋がりか聴いた事はなかったが八戒や悟浄とは仲がいいらしい。 「疲れたのか?」 「いえ、そうじゃないんですけど」 今はもう疲れていない。自分でもどうしてここで休憩する気になったのか、今なら分かる。 三蔵がここを通る予感がしたのだ。 「まだ無理するな」 「………はい」 天蓬は云ってジープに眼を落とす。ジープは羽根をバタつかせて飛び上がると天蓬の肩に着地する。それを確認して天蓬は立ち上がった。 「散歩もいいが、もっとあったかくなる時間の方がよくないか?」 「朝の……この空気がいいんです」 天蓬が答えるのに三蔵はやれやれと嘆息する。煙草に手を伸ばそうとして天蓬がいるのに引っ込めた。 「あの」 「あ?」 「煙草、吸っても構いませんよ」 実際、煙草の芳香は嫌いじゃない。三蔵のには違和感を感じたが悟浄のは心が落ち着いたから、自分に近かった人が同じ銘柄を吸っていたのだと考えている。 そして、天蓬も煙草を好んで吸っていたのだとも思う。 「だがな」 「……えっと、燈熔さんには内緒にしておきますから」 天蓬の周囲で煙草を吸うのに怒るのは八戒だけではない。燈熔も同じように怒る。動けない時ならまだしも、今は散歩ができるくらいに回復しているのだ。 「別に煙草を吸ってねぇと駄目ってワケじゃねぇからな」 「………………」 悟浄も天蓬に遠慮して外で煙草を吸っている。天蓬が外に出ようとすれば先にジープが目ざとく見付けて悟浄に知らせに行く。本当に徹底していると思う。 「行くぞ」 「はい」 三蔵が先に立つのに天蓬はゆっくりと後をついて行く。 「……あの、三蔵さん」 「何だ?」 「今日のご用向きは一体?」 三蔵は桃源郷東方一の大寺院、慶雲院の総責任者。こんな遠くまで足を伸ばしてこれるほど暇ではないはずなのだ。 前に初めて会った時も忙しそうにすぐに帰って行った。だから朝の忙しい時間に三蔵が来たのが不思議でならなかった。 「あぁ、お前に用があったんだ」 「………僕、ですか?」 三蔵が云ったのに天蓬はビクッとした。 前回の時に話していたのは天蓬の事で、調べておいてくれると云った。という事は今日の用向きはその事だろう。 「………………」 自分の事が分かるかもしれないというのに喜べない。それはきっと怖いと思っているところがあるから。 「詳しい事は着いてから話すから、そんなにビクつくな」 「え?」 三蔵が云うのに天蓬は顔を上げた。 「安心しろ、テメェは犯罪者でもなければ悪党でもなかった」 そんな事は気にしていない。もし、自分が悪い事をして追われていたというのなら、その罪を償って罰を受けるだけだ。 問題なのは本当に自分が天界の住人だとして、何をしていたのかという事。 実感がなさすぎてどうする事もできなかった。自分がそんなに偉い存在だとは思えなくて困惑した記憶は新しい。 「……………聴くのが怖いか?」 前を向いて歩いたまま聴いてくる三蔵に天蓬は曖昧に微笑した。ジープも天蓬の頬に擦り寄って心配そうにしている。 「正直云えば、少し……」 「素直だな」 天蓬の返事に三蔵はクツッと笑った。 「僕は……記憶を取り戻した方がいいんでしょうか?」 「………………」 天蓬の云っているのは記憶を取り戻したら、この生活の記憶が消えてしまうという事。世話になった悟浄や八戒の事を忘れてしまうのが辛い。 「それは、俺の口から返事するわけにはいかねぇな」 「………ですよね」 苦笑してジープの背を撫でる。 これは天蓬がどうにかしなければいけない問題。決して三蔵が口を出せるものではない。助言はできても最終的に結論を出すのは天蓬なのだから。 「別にお前がここにいたいと思うんなら、その時は俺が何とかしてやる」 「え?」 「これでも、権力は持ってるつもりだ」 三蔵法師は神にもっとも近い人間。確かに多少の我侭は通じるだろう。だが、無茶をする事に変わりはない。 矢張り、天蓬は天界に帰るべきなのかと考えた。 「今は難しく考えるな」 「………………」 「どの道、怪我が完治しなけりゃ帰さねぇから」 三蔵が云ったのに天蓬は苦笑して頷いた。 「ただいま帰りました」 ドアを開けると朝食のいい匂いが漂ってきた。八戒は天蓬の後ろにいる三蔵を見て眼を細めて微笑した。 「お帰りなさい、天蓬」 パタパタと近付いてくる八戒に天蓬も微笑み返した。三蔵は誰が勧めるでもなく勝手に椅子に陣取った。特等席になっているのか足を組んで座ると置いてあった新聞に手を伸ばす。 「……三蔵も、いらっしゃい」 「あぁ」 何とも味気ない返事に八戒は苦笑した。 「朝食、召し上がります?」 「あぁ」 それだけを聴いていると熟年夫婦のようで微笑ましい。しかし口に出して云えば二人に反論されるのは分かっているから云ったりしない。 「河童の分を寄越してくれたらいいぞ」 急の来客である三蔵の分は普通なら用意していない。そして朝食を滅多に食べない悟浄の分ならいいと三蔵は思ったに違いない。 ある意味、酷い言葉だが新しく作れと云わないのは三蔵の優しさなのかもしれない。 「ちゃんと貴方の分も用意してありますよ」 「そうか」 三蔵は気のない返事をしている。八戒は慣れているのか、そこには突っ込まず天蓬の方に顔を向けてきた。 「天蓬」 「はい」 「貴方は手を洗ってらっしゃい」 散歩してくると八戒はいつもそう云う。まるで子供扱いのようだが、世話を焼いてくれるのはありがたいのでいつもその通りにしている。 「じゃあジープもいきましょう」 「ジープは悟浄を起こしてきて下さい」 八戒がニッコリ笑って命じたのに、ジープはキュッと顔を上げてすぐに飛んでいった。じきに悟浄の悲鳴が聴こえてくるはず。 天蓬はそれが聴こえる前にと洗面所に足を向けた。 予想通り、悟浄の悲鳴が聴こえて八戒と云い争う声が聴こえて三蔵のハリセンの音が聴こえた。天蓬は、いつもよりゆっくり手を洗って顔を洗った。 漸く静かになったのに嘆息してタオルで顔を拭いてからリビングに戻ると悟浄が凄い勢いで近付いてきた。 「天蓬っ!!!」 「はいっ」 勢いのままに名前を呼ばれて思わず背筋を伸ばしてしまった。 「コイツの世話をちゃんとしとけ」 そう云ってズイッと渡されたのはジープで、悟浄は事もあろうか首を鷲掴みにしていた。バタバタと足を動かして必死に悟浄の腕を引っ掻いている。 寝起きでタンクトップ一枚の悟浄の腕には紅い線が走っている。それは見るからに痛そうで天蓬は思わず眉を寄せた。 「痛そうですね」 「すっげー痛ぇ、だからちゃんと管理しろ」 グイッと渡されたジープを腕の中に抱え込む。すぐに甘えるように擦り寄ってきたジープは悟浄を見て紅い舌をベッと出した。 「天蓬、気にする事ありませんよ」 「え?」 「寝汚い悟浄が悪いんです」 あくまで冷たく云い放つ八戒に悟浄はガクッと頭を垂れた。三蔵は特に何を云うでもなく新聞を捲くっている。 「でも、悟浄はお仕事してたんですし」 「そうだよっ」 天蓬が云ったのに悟浄は味方を得たとばかりに声を上げた。 この家の生活費を稼いでいるのは悟浄で、家も悟浄の物。本来なら一番威張っていていいはずなのに矢張りこれは性格がものを云っている。 「もっと俺を敬え」 「そんな口はもっと稼いでから云え」 「ひどっ」 不意に口を挟んできた三蔵に悟浄は立ち直れないとばかりに頭を垂れてすごすごと洗面所に向かった。 「いいんですか?」 「何がです?」 天蓬が聴いたのに八戒は首を傾げて席を勧めてきた。そこは天蓬の席に決まっていてゆっくりと腰を下ろした。ジープは天蓬の腕の中から逃れて、これも定位置となっている端に降り立った。 「悟浄、きっとお疲れなんですよ」 「そんな事は分かってますよ」 ニッコリ笑う八戒に天蓬は首を傾げた。 最初の頃はどうしてなのか不思議だったが、今なら分かる。これは悟浄と八戒の言葉遊びなのだと。それだけ心を許し合って信じ合っていつのだと。 「でも、今日は貴方の事がありますし」 「え?」 「三蔵が来たのは天蓬の事を話すためでしょう」 それは質問ではなく確認だった。三蔵も頷くでもなく新聞から視線を上げただけだったが、答えはそれで十分だ。 「なら、悟浄は聴く義務があります」 「…………八戒」 「この中の誰よりも、ね」 確かに天蓬を拾ったのも悟浄なら傷の治療の手配をしたのも悟浄。それだけなら権利と云いたいところだが、完治するまで家にいるように命じて天蓬をここに留まらせた。 天蓬の時間を奪ったのだから悟浄は聴かなければいけない。よって権利ではなく義務なのだ。 「………………」 でも、同じ理由で天蓬も二人の時間を奪っている。それだけでなく三蔵の時間も天蓬は奪った。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 燈熔だって天蓬のために時間を割いてくれている。どれだけ多くの人に迷惑をかけたのかと思って天蓬は眉を寄せた。 「ホラ天蓬、そんな顔しないで下さい」 「え?」 「僕たちは貴方の笑顔が好きなんですから」 八戒が云うのに天蓬は一瞬、瞠目してすぐに微笑を浮かべた。 「貴方を助けたくて僕たちが勝手にしたんですから、笑っていて下さいね」 「―――はい」 天蓬が笑顔で返事したのに八戒も満足そうに笑った。 それを待っていたかのように悟浄が戻ってきた。首からタオルを提げたままの状態で当然のように天蓬の横に腰を下ろす。 これは三蔵と悟浄が隣同士で食事をしたくないからだと八戒から聴いた。正面に座るのも嫌らしく、いつも対角線に座る。 「八戒、飯」 「用意できてますよ」 亭主のような云い方をする悟浄を咎めるでもなく、八戒はすぐに朝食をテーブルに並べた。 ゆっくりとした食事が終わって食後のコーヒーを飲み始めた頃、三蔵は漸く新聞を畳んだ。それに三人は自然と姿勢を正した。 「さて、話をしようか」 「………はい」 三蔵は真っ直ぐに天蓬を見てテーブルの上で手を組んだ。 「お前が天界の住人だって話はしたな?」 「はい」 それは前回に聴いた。 「結果を先に云えば、お前は今から五百年前の天界の住人らしい」 「………………っ」 それは予想もしていなかった事だった。八戒も悟浄も同じように驚いている。 「これは三仏神が直々に調べた事だから間違いはねぇよ」 「……そうですか」 かなりな事を云われているのに天蓬はどこか冷静だった。 「お前の正式な役職、名は『天界西方軍、天蓬元帥』らしい」 三蔵が云ったのに天蓬は頭の奥がツキリと痛むのを感じた。何か懐かしい響きがするのに鼓動までも高鳴る。 呼吸が苦しくなるわけでもなく、表現するなら熱くなるような感覚。 「やっぱ軍人かよ」 悟浄は云って背凭れに腕を掛けた。思えば悟浄は最初から天蓬の事を軍人と云っていた。 「でも元帥って……」 八戒は別の事が気になったらしく手を顎に当てた。 「あぁ、軍の最高位だ」 「………だよな」 三蔵が云ったのに悟浄は頷いた。 「凄いですね」 八戒が唸るように云って、視線を向けてくる。三蔵も悟浄も、ジープまでも視線を向けてきて天蓬は困惑した。 「とても、そうは見えねぇけどな」 「…………」 三蔵は云って八戒に向かってカップを突き出した。無言でコーヒーのおかわりを要求するのに嫌な顔一つしないで、八戒はコーヒーメーカーごと持ってきた。 それでも三蔵は自分ではやらないから八戒がカップに注いで椅子に座った。 「だよなぁ、ほっせぇし」 「優しい顔してますし」 悟浄も八戒も云うのに天蓬は首を傾げた。 記憶がない以上、今の天蓬は本当の天蓬である保障はどこにもない。身体の細さはどうしようもないが表情は分からない。 「前に見たけどよ」 「え?」 三蔵は云ってサッと天蓬の手を掴んだ。テーブルの上で、手の平を上にするように向けられて三蔵は眼を細めた。 何を確認しようとしているのか、その力に天蓬はテーブルに突っ伏すように前のめりになった。 「………痛っ」 腕が無理矢理伸ばされる感覚に骨がキシリと痛んで、天蓬は思わず唸ってしまった。 「おい、何すんだよっ」 「天蓬に無礼をしたらコーヒーを頭からかけますよ」 本気にも聴こえる事をサラッと云う八戒に三蔵はギョッとして天蓬の手を引く力を緩めた。それに天蓬はホッとして何なのか三蔵に眼を向けた。 「お前の手にな、タコがあるんだ」 「…………」 左手の平と指に少し硬くなっているところがある。 「俺も銃を撃つから分かるんだが、これは銃を扱っている奴の手だ」 「………へぇ」 三蔵がハッキリと云うのに悟浄は納得した。 「だが、右手の方は刀を握っているな」 「……………」 天蓬は拾われたときに刀を握っていた。だからそれは何となく分かっていた。 部屋に置いてくれてあった刀を、まだベッドから動けない時に何度か抜いて見ていた。スッと伸びる直刃に血が騒いだのも記憶に新しい。 「両方共、かなり使い慣れているはずだ、……心当たりはあるか?」 「……僕は何とも」 八戒はすぐに答えた。天蓬を拾った時の状況も、その後の事も悟浄が隠そうとしていたみたいだから干渉はしていなかった。 「お前は?」 「………あぁ」 短く返事してスクッと立ち上がると、悟浄は勝手に八戒の部屋に向かう。それに関して八戒は何かを云ったりしない。 悟浄と違って見られて困るようなものは置いていない。それに今は天蓬の部屋のようなものだ。 「……どうしたんだ?河童は」 「さぁ?」 聴かれても答えられるわけがない。悟浄の全ての行動を把握しているわけではないのだから。天蓬も悟浄の行動に首を傾げた。 三蔵の言葉に納得して何を思ったのか。 「…………あ」 だが戻ってきた悟浄が手にしていた物に天蓬は小さく声を上げた。 「…………………」 悟浄の手にあったのは天蓬が持っていた刀と銃だった。天蓬の眼が揺らぐのに悟浄は何を云うでもなく、それをテーブルの上に置いた。 「………これは?」 「僕のです」 三蔵が聴いたのに悟浄が答えるより先に天蓬が答えた。三蔵がジロッと見てくるのに天蓬は視線を落としたままだった。 「僕の唯一の持ち物なんです」 天蓬は云って刀に手を伸ばした。柄を握って狭いテーブルの上で一回転させる。何度持っても手にしっかり馴染む感覚がする。間違いなく天蓬の愛刀だった。 「…………天蓬(コイツ)が倒れてた時に握ってた」 近くに落ちていた、ではなく握ってた、なら天蓬の物だろう。 「こっちのは?」 八戒が聴いて三蔵が手にする。三蔵が扱うS&W−M10とは比べ物にならない重量に眉が寄る。それでも慣れた手付きで確認すると装弾数は六発、それも違った。 「天蓬が腰に隠してた」 「……重いな」 三蔵はそう云って天蓬に渡そうとグリップを向けた。天蓬は少し迷って刀をテーブルに置くと、三蔵からそれを受け取った。 ズシッとした重みはあるものの天蓬の手には調度いい。 「手に合うようだな」 「………えぇ」 天蓬の返事に三蔵は腕を組んで嘆息した。 「……明日、お前の迎えが来る」 「え?」 三蔵の言葉に天蓬だけでなく、悟浄も八戒も顔を上げた。 「ここに連れてくるから、どうするかはお前が決めろ」 「…………………」 急にそんな事を云われても天蓬には返事ができない。 「さっきも云ったが、帰りたくないってんなら俺が何とかする」 「……三蔵」 三蔵の言葉に驚いたのは八戒だった。悟浄もニッと口の端を上げた。 「天界の神の寿命も気になるだろうが、コイツらは妖怪だしな」 「…………………」 「知ってるんだろう?」 天蓬は少し迷った後、コクンと頷いた。記憶喪失と云っても得ている知識までなくなったわけではない。 八戒の耳に付いているのが制御装置である事はすぐに分かった。三つ付けなければ制御できないという事は相当強い力を持った妖怪という事で。 悟浄に至ってはもっと分かりやすい。 紅の眼と紅の髪は混血児の証。人間と妖怪の間に生まれた子は例外なくこの容姿になるという。 「コイツらなら人間より丈夫だし、長く一緒にいられるしな」 三蔵の言葉に八戒と悟浄は視線を反らした。 「まぁ、明日まで時間があるからゆっくり考えろ」 三蔵は云うとすぐに立ち上がった。そろそろ公務に戻らないといけないのだろう。 八戒が立ち上がってドアまで見送る。 「それじゃあ、今日はありがとうございました」 「ふんっ」 照れ隠しのような返事をした三蔵の背中が見えなくなったのに八戒は戻ってきた。天蓬と悟浄はさっきまでと同じ恰好で座っていた。 「………あの」 八戒が声をかけるのに天蓬はビクッと身を強張らせた。ゆっくりと顔を上げた天蓬は立ち上がると泣きそうな顔で八戒に振り返った。 「大丈夫ですか?」 「………いろいろ考えたい事がありますので、お部屋で一人にしてもらってもいいですか?」 それが二人に失礼なのが分かってもどうする事もできない。でも悟浄は了解と手を振り八戒も笑顔で頷いてくれた。 その優しさに天蓬は微笑して、軽く頭を下げてから八戒の部屋に向かった。 「キュ〜」 「ジープっ」 天蓬の後をいつものように追おうとしたジープに八戒は鋭い声を掛けた。飼い主である八戒の声にジープは驚いて追い掛けるのを留まった。 「いらっしゃい」 「キュ?」 八戒に呼ばれて戻るジープに悟浄はガシガシと髪をかいた。ポケットを探って煙草とジッポを掴むと外へと足を向ける。 「ちょっと出てる」 「えぇ」 悟浄の様子と八戒の様子にジープは首を傾げた。それに八戒は微笑して優しく撫でる。 「天蓬を暫く一人にしてあげましょうね」 「キュー」 ジープは元気よく返事してリビングを一回り飛ぶと悟浄の後を追い掛けていった。 天蓬はベッドの上で仰向けになって天井に眼を向けた。 「………………」 清潔に洗濯されたシーツと柔らかい布団に安心できる。普通なら眠気がすぐに訪れるところだが、思うところはさっきの三蔵の言葉で。 (……お迎えって、あの夢の人でしょうか?) 何度も夢に出てくる黒い男。天蓬を迎えに来ると云った男の声が耳に蘇る。 「…………………」 右手を上に伸ばしてギュッと握る。多少痛みはするものの、生活には支障ない。だが、軍人としてどうかといえば、使い物にならないだろう。 例え完治したとしても、身体がきっと動かない。 (僕は……) どうしたらいいのか、天蓬は考えようと思った。 本来なら自分がいるべき天界に帰るべきだろう。五百年も時間がズレているのだから、ここは明らかに天蓬がいるべき場所ではない。 天蓬がこの時代にいる事で歴史に影響が出るとも限らない。 (………どうしたら……) だが、元帥という職に就いているという三蔵の言葉が本当なら、軍を辞める事も考えないといけない。今のままの天蓬では役には立たないから。 でも、刀を持つと血が騒ぐ。 前に散歩に出た時、落ちていた長い枝を握った時に動きたくなった。身体を動かして誰かと本気で打ち込みたいと思った。 それは天蓬が軍人だからなにかもしれない。身体を動かしている方が落ち着く、と憶えているのかもしれない。 (でも………) 今の天蓬は戦いというものを好まない。八戒の作るご飯の最後のおかずも、悟浄が手を伸ばしてくれば欲しいと思っていても引いてしまう。 悟浄が借りてくる映画を見ても思う。喧嘩のシーンや戦争のシーン、血が騒ぐ事はあっても乗り気にはならない。 「………………」 こういう事を考えている時に頭に浮かぶのは決まって夢の人で。顔は見えなくても優しい表情をしているのは分かる。 (貴方は一体、誰なんですか?) 聴きたいと思うのに知るのが怖い。自分との関係が分かってしまうのが怖い。 (何で、怖いんでしょう?) 記憶が戻るのは皆にとって喜ばしい事なのだ。悟浄と八戒も元の生活に戻れる。天蓬に気を使う事もなくなるし、余計な生活費も払わなくていい。 でも、頭の奥が警報を鳴らしているのも事実で。 その警報の意味が分からない。知らない方がいいと云っているのか早く知るべきだと云っているのか。 (僕、何かとんでもない事しちゃったんでしょうか?) それも明日になれば分かる。三蔵が連れてくると云ったのだから。 「…………僕は」 いろいろ考えていたら眠気が襲ってきた。柔らかい布団といろいろ聴きすぎて疲れたのかもしれない。 (………駄目) 寝てはいけないと思っているのに、身体は睡眠を欲していて逆らえそうにない。まだ考えないといけない事は山積みなのに身体は弛緩していく。 (も……むり……) こんなぼんやりした頭では正しい答えは見付からない。天蓬はさっさと諦めて、睡眠をしっかり取ってから改めて考えようと思った。 ―――――コンコンコン 昼の時間になっても部屋から出てこない天蓬に八戒は気になってドアをノックした。 「天蓬?」 ドアの向こうから声を掛けるが返事は返ってこない。それに八戒が眉を寄せると散歩から悟浄とジープが帰ってきた。 「お、どうした?」 「えぇ、お昼の用意ができたんですが、天蓬がまだ……」 言葉は最後まで云わなくても悟浄には伝わった。ジープも八戒の肩に乗ってドアをジッと見ている。 「さっきの話かな?」 「……でしょうね」 それ以外は思い当たらない。 記憶がなくて、今の天蓬も本来の天蓬じゃないにしても根本の性格は大きく違いはしないはず。普段は強がっていても、凄く弱いところもある。 自分の事が分かるのが怖いのだろうと二人はすぐに分かった。 「結構、キツい話だったからなぁ」 「………軍最高位の元帥、ですか」 頭がいいのは分かるけど、それだけでは元帥にはなれない。それなりに動けて戦えなくては軍人として致命的だ。 それに三蔵はキッパリと天蓬の手が銃の扱いに慣れていると云った。 「それより、アッチですよ」 「天蓬が五百年前に生きてたってヤツ?」 遠慮もなしに云う悟浄に八戒は忌ま忌ましそうに眉を寄せた。どんなに嫌な顔をしていたとしても、事実は事実。 「俺は天蓬が天界?の住人だっていうのにだってビックリだっての」 「………悟浄だって十分に希少価値だと思うんですけど」 「……………」 八戒が苦笑しながら云うのに悟浄はニッと笑った。 「それを云うならテメーの方が凄いんじゃねぇの?」 「…………………」 「普通、自分のねーさんが恋人で、妖怪に恋人差し出した村の人間殺して、攫った妖怪全部殺して、千の妖怪の血を浴びて自分が妖怪になっちまった大量殺人さん?」 逐一説明する悟浄に八戒はポリポリと頬をかいた。 忘れた過去でもその事実を八戒が忘れる事はない。花喃を忘れたくないというだけでなく、自分の犯した罪を生涯忘れないために。 そのために戒めを持って八戒は生きる事を決めたのだから。 「だから俺たちって近い存在なんよ」 「どこがです?」 自分は犯罪者だが悟浄はそうではない。どちらかといえば被害者だろう。 「俺も生きてくために、恐喝も盗みもしたし」 「殺人はないでしょう?」 「……お前のは相手が悪いんだから」 悟浄は云って八戒の頭をポンポンと撫でた。それに八戒は苦笑した。 「……で、天蓬は?」 「あ、入ってもいいでしょうか?」 自分の部屋なのに気を使う八戒の代わりに悟浄がドアノブに手をかけた。 「入るぞ」 声を掛けるのと同時にドアを開ける悟浄に八戒は嘆息した。しかし八戒も咎めるでもなく、悟浄に続いて中に入る。 「キュ〜」 ジープもすぐに飛んで天蓬の傍に行く。 枕元に下りて首を傾げる。それに悟浄と八戒も近付いた。 「おー」 「……寝てますね」 ベッドに仰向けになったまま寝息を立てる天蓬はすっかり熟睡していた。掛けたままになっている眼鏡を八戒はそっと外した。 そのまま寝ると痕が残ると注意してあったのに。 「寝かしといてやろうぜ」 「……えぇ、ジープ行きましょう」 食事は後で温め直してやればいい。もっと云うなら簡単に雑炊を作る事も可能だ。 名残惜しそうにしているジープは八戒を見上げて小さく鳴いた。先に出て行く悟浄と八戒を見て、ジープは静かに飛び上がって後を追った。 暗い闇の中に天蓬は独りで佇んでいた。 『これは……いつもの夢、ですね』 もう何度も見た事のある風景に天蓬はそう思った。自分の足元に地面があるのが分かるのに足を踏み出すのはどうしても躊躇われてしまう。 情けないな、と思う。 『………………』 少し待てばいつもと同じように、背後に光を背負った男が近寄ってくる。相変わらず逆光で見えないけど、優しい顔をしていると思う。 いつもと同じように手を差し出してくる。大きくて全てを包み込んでくれそうな手を取っていいのか迷ってしまう。 この手を取ればきっと記憶は戻ってくるだろう。でも、天蓬の心のどこかに思い出さなくてもいいと思っているから、素直に手を伸ばす事ができない。 『………明日、迎えに行くよ』 『え?』 いつもと違う科白に天蓬は顔を上げた。いつもは迎えに行くとだけしか云わない。でも今日は『明日』という言葉が入った。 『待ってろよ』 男は云って踵を返すと、光の方に歩いていく。 『……待って!!』 天蓬は声を上げて手を伸ばす。しかし足が思うように動かなくて追う事はできなかった。自分の足元を見て眉を歪めて、天蓬はキッと過ぎ去る男の背を睨んだ。 『待ってっ、お願いですっ』 『……………』 天蓬が叫ぶのに男は立ち止まると振り返ってゆっくりと戻ってきた。それに天蓬はホッとして真っ直ぐに男を見た。 どんなに眼をこらしても姿を見る事はできない。 『……貴方は一体?』 『………………』 『あ』 この時初めて、男の胸元が見えた。肌蹴た服の、調度心臓の真上に羽根の生えた髑髏の銀細工がある。特徴的な飾りに天蓬は魅入られた。 『明日、分かるよ』 そう云って去っていく男に天蓬は顔を上げると、光が大きく広がって眼の前が真っ白になった。天蓬は手を盾にして眼を護りながら必死に男の影を追った。 ハッと眼が覚めた時、最初に視界に入った天井が滲んでいるのに天蓬は瞬きを繰り返した。 「………………」 眼元に流れる温かいものは間違いなく涙で。今日も泣いてしまったと思い、指でそっと拭う。その時に自分が眼鏡をかけていない事に気付いて天蓬は周囲をキョロキョロした。 身体を横にしたまま視線を彷徨わせると、近くの机の上に畳まれた眼鏡があり手を伸ばす。半身を起こして眼鏡を掛けて、窓の外に眼を向ければ紅色に染まっていて自分が長い間寝入っていた事に気付いた。 「寝すぎ、ですね」 苦笑してベッドから下りると天蓬はゆっくりとリビングへと足を向けた。 ―――カチャ ドアを開ければ、悟浄はソファーでTVを見ながら寛いでいる。ドアの開いた音に顔を向けた悟浄は、天蓬の登場にニッと口の端を上げた。 「おはよ」 「…………はぁ」 お早うという時間ではないので天蓬は曖昧に笑みを浮かべた。 「よく眠れたか?」 「はい、寝すぎちゃいました」 ドアをきちんと閉めて悟浄の方に向かうと台所の方からいい芳香が漂っていた。確認しなくても八戒が夕食を作っているのだと分かる。 「こっち来て座れば?」 「……お邪魔します」 天蓬は一言断って、悟浄の横に腰を下ろした。流れているTVは昔やったドラマの再放送らしく、悟浄は興味なさげにしている。 「どうするか、決めた?」 「………僕、記憶は戻らなくてもいいかな、って思ってるんです」 「へぇ」 天蓬の言葉に悟浄は軽い返事をした。こういう時はあまり深刻な返事をしない方が相手も楽なはず。悟浄はそれを心得ていた。 「辛いかもしれない記憶なら、忘れたままの方がいいかな、って」 「まー、そうかもな」 どうせなら幸せでいたいと思う。これが逃げというのなら仕方ない。それでも天蓬は幸せでいたいと願う。 「こういうのって卑怯でしょうか?」 「……………」 「僕って、おかしいんでしょうか?」 悟浄に意見を求めようとすると困ったように笑われた。 「俺、あんま頭よくないんだから、そーゆーの聴かないでよ」 「え?」 「本当に俺はバカだから、いい助言は云ってやれねぇけどよ」 悟浄は云って、ただ流れているだけだったTVを消した。一つの音が消えたリビングの中に聴こえるのは、八戒が台所で料理を作る音だけ。 「大抵の奴は、記憶とか過去に執着するんだろうな」 「でしょうね」 「でもよ、人はそれぞれなんだから気にする事ねぇよ」 「はい」 悟浄の言葉は胸に染み込んだ。 「それにな、お前が忘れていても、今まで経験してきた記憶や過去はちゃんとお前の一部になってんだから」 「………僕の一部、ですか?」 「そう、だから天蓬が過去を思い出したくないってなら俺も八戒も止めないけど」 優しい声に気配。本当に自分を心配してくれていると分かって天蓬は今が幸せなんだと思った。こういう幸せもあるのだと。 「お前の一部の過去を捨てる事だけはすんなよ」 「はい」 悟浄の言葉に天蓬は素直に頷いた。 「それに天蓬がここに居たい、ってんなら俺は歓迎よ」 「でも、ご迷惑でしょう?」 悟浄からの言葉に天蓬は顔を上げた。今の天蓬は何の役にも立っていない。 「そんな事ねぇよ」 即答する悟浄は慣れた仕草で天蓬の肩に手を回してきた。近付く煙草の芳香にドキッと鼓動が高鳴る。 「俺、お前の事気に入ったし」 「は?」 「天蓬、美人だしスタイル抜群だし」 すぐ耳元で囁くような声にゾクッとする。肩にあった手がスルスルと首に動いて髪を払うように撫でてくる。 指先が擽る感覚に天蓬はビクッとして眼を閉じた。 「……………」 そんな反応をする天蓬に悟浄は気を良くしたようにニッと口の端を上げた。 「可愛いし」 「……あの///」 悟浄の吐息が耳にかかる距離。近すぎて離れたいのに身体が動かない。 「何か、食べちゃいたいって感じ」 「………………」 初めて聴く悟浄の甘い声に天蓬は微動だにできなかった。 「なぁ、天蓬」 悟浄の顔が近寄ってきているのが分かった。通常では考えられないような距離は今にもゼロになりそうだった。 「―――何してるんです?」 悟浄との距離がゼロになる直前に聴こえた低い声に、その動きはピタリと止まった。 「……………」 悟浄はぎこちない動きで、天蓬は顔が紅くなるのを感じながら動けずにいた。 「は、八戒?」 さっきまでの甘い声も低い声もどこに行ったのか、今の悟浄は明らかに怯えている。それは天蓬の首に当てている手からも分かる。 「何をしているんです?」 「……えっと、天蓬とお話を」 悟浄は云いながら天蓬の肩に手を置いて引き離す。ある程度の距離が保てたのに天蓬は小さく息を吐いて、漸く八戒の方に眼を向けた。 「………………」 ソファーの向こうに腕を組んで立っている八戒がいて、その表情は怖いくらいの笑顔を称えていた。笑っているのに、凄く怖い。 「へぇ、そうなんですか」 「お、おー……」 ニッコリ笑う八戒に悟浄は今まで以上にビクビクしている。それだけでも二人の権力差が分かるというもので。 「貴方はお話するのに、肩を組んだり、キスまでするんですか?」 「……してませんっ、キスはしてません」 全力で否定する悟浄に八戒は一歩近付いてきた。今度は悟浄の身体が大きく動いた。 「あんなに顔、近付けて……」 「未遂ですっ!!」 両手を前に出して首を横に振る悟浄は本気で怖がっている。天蓬はどうしたものか悩んだ。 「………貴方、いくら綺麗な顔しているからって天蓬は男の人なんですよ」 「知ってます」 いつもと違って敬語になっている悟浄を天蓬はハラハラした気持ちで見ていた。 「それ以上、近付くなら追い出しますから」 「って、この家は俺のだぞっ」 流石に八戒の言葉に悟浄も声を上げた。ソファーの背凭れに両手をついて膝を乗り上げる。天蓬は一触即発になりそうな悟浄と八戒を交互に見比べた。 「………………」 しかし、そんな睨みも長くは続かず。 八戒がチラッと天蓬の方に顔を向けてきた。その表情はさっきまでとは違って凄く優しい。 「天蓬」 「は、はい」 返事して立ち上がると、八戒はにこやかに微笑した。 「……悟浄はそのまま放置して、一緒に食事にしましょう」 「え、でも……」 「おいっ」 あまりの扱いに悟浄はソファーから下りて八戒の前に移動してきた。天蓬の横を通り過ぎていくのに悟浄は八戒の胸倉を掴み上げた。 「ちょっ……」 天蓬は止めようと二人の間に入ろうとした。 「テメェ……、いい加減にしろよ」 「だったら抜け駆けはなしになさい」 「あ?……まさかお前……」 悟浄の声がどんどん小さくなって力も緩んでいく。 「…………嘘だろ?」 八戒の胸倉を離して驚愕する悟浄に天蓬だけはワケが分からずに首を傾げていた。 「まさか……」 「これだけは譲りませんから」 「八戒……」 八戒はニッと笑って悟浄に背を向けた。天蓬はどっちに声を掛けたらいいのか分からなくて二人の間で佇んでいた。 「いつまでそこにいるんです?」 「え?」 「二人とも、食事にしましょう」 そう云って振り返った八戒はいつもと同じ雰囲気だった。それにホッとして天蓬は悟浄に眼を向けた。 「……行きましょう、悟浄」 「…………おー」 悟浄も安堵したように苦笑して、テーブルに足を向けた。 NEXT 09/10/25 |