燈熔が部屋から出て来た時、空はすっかり明るくなっていた。小鳥が囀り、リビングにも日が差している。


 ――――カタッ


 その物音に悟浄は顔を上げた。八戒はまだ机に突っ伏して寝ている。悟浄は燈熔に振り返って静かにと人差し指を唇の前に立てた。
 燈熔も八戒が寝ているのに片眉を上げて頷くとソファーの方に腰を下ろした。
 悟浄は音を立てないように立つと冷蔵庫からビールを二缶持って燈熔の元に足を向けた。
「お疲れさん」
「おー」
 答える燈熔はすっかり疲労困憊していた。悟浄からビールを受け取ると一気に飲み干した。すぐにもう一缶にも手を伸ばす。
「どう?」
「まぁ、山は越えたと思うけどな」
 燈熔は云って真っ直ぐに悟浄を見た。その視線に悟浄はビクッとした。
「ひっでぇ怪我だな、ありゃ……八戒さん以上だ」
「あぁ」
「骨折は右半身全般、右足に至っては折れた骨が突き出てやがった」
 それは悟浄も眼の前で見たから分かった。本当に生きているのか不安になったくらいで、僅かに聴こえた呼吸音だけが生を教えてくれていた。
「それでも生きようとしてんだから人間ってのは凄いよな」
「………あぁ」
 それには悟浄も頷いた。
「出血量が半端じゃなかったから増血剤を毎日与えるようにな」
「増血剤?」
 輸血をしていなかったのは分かる。確かに血液型をこんな場所で調べるのは大変だし、増血剤の方が安全だろう。
 だが、今から帰って調べてくれれば輸血もできるだろうに。
「うーん、ちょっと傷口の治りを見てな、増血剤の方がいいと思ったんだ」
「……ふーん、分かった」
 医学に関しては素人より悪い悟浄だから素直に燈熔の言葉に従う事にした。下手な事をして殺してしまったら大事だ。
「さてと、帰るかな」
「……燈熔?」
「診療所の方も開けねぇといけないしな」
 昨日は緊急事態で来てもらったが燈熔は今から仕事がある。しかし少しでも休んでもらわないといけないというのがあった。
「午前中、休んだらどうだ?」
「今日は八百屋のばぁさんが来る予定だからなぁ」
 滅多に来なくても常連はいるし、年配の人はいつ何があるか分からない。留守にしているわけにはいかない。
 悟浄にもそれは分かる。
「だったらよ」
「朝食くらい召し上がってって下さい」
 不意に背後から声がして悟浄と燈熔は同時に驚いた。そこには八戒が笑顔で立っていた。
「は、八戒」
「すぐに用意しちゃいますから」
 八戒は云ってすぐに台所に向かった。八戒の手にかかればあっと云う間に朝食は用意できるだろう。燈熔も八戒の行動に動けないでいる。
「ま、そーゆー事だから、顔洗ってシャワー浴びてきな」
「………………」
「八戒は云い出したら聴かねぇし」
 悟浄は云って空き缶を引き寄せた。煙草を一本取り出して咥えるとライターを探すようにポケットを叩くようにして確認する。
「悟浄」
「……………っ」
 再び聴こえた低い声に悟浄はビクッとして咥えていた煙草を落としてしまった。燈熔も悟浄の反応に驚いた。
「空き缶を灰皿にしようなんて、思ってませんよね」
「……は、はひ……」
 明らかに怯えている悟浄に燈熔はこの家での二人の力関係を知った。家主は悟浄でも実権は八戒が握っているらしい。
 ならば八戒の申し出を断るのは後々厄介な事になりそうだと燈熔は思って立ち上がった。
「じゃあ、シャワー借りるわ」
「着替えは用意させますから」
 ニッコリ笑って云う八戒に燈熔は苦笑した。用意『させる』というからには悟浄にさせるつもりなのだろう。
 髪を短くしても立っている触角のような前髪が今はすっかり垂れている悟浄に同情しつつ燈熔は風呂場に急いだ。






 三人で食事をして燈熔が帰っていったのに八戒はすぐに部屋に戻った。何をしに行ったのかと思えば手には天蓬が着ていた服がある。
「八戒?」
「これ、洗濯して解れを縫っておかないといけませんね」
 そういう気遣いができるのは流石八戒だと思う。悟浄は煙草を一本吸い終わって灰皿に放り捨てた。
 今日は早起きをしてしまったから睡眠時間が絶対的に足りない。本当は今すぐ部屋に戻ってベッドで眠りにつきたい気分だ。
 しかし眠いという条件は八戒も同じで、しかも八戒はベッドを占領されていて身体を休める事はできないのだ。一人ゆっくり眠るわけにはいかない。
 こういうところが悟浄と八戒の器用貧乏たる所以でもある。
「悟浄、暇ならあの人の事、見てて下さい」
「お、おー」
 悟浄は煙草の匂いがしていないか確認してから八戒の部屋に足を運んだ。
「………………」
 ドアは開けっ放しにしてベッド脇に椅子を引き摺っていく。八戒の時も最初の数日はこうして一緒にいた。
 椅子に逆向きに跨ぐように座って、背凭れに両腕をかける。
 身動き一つしないで眠る様子は、なまじ顔が綺麗なだけに人形のように見えてしまう。血を失ったせいで青白い顔もそれを手伝っている。
「………アンタ、一体何者よ?」
 返る声はない。それでも声をかけていないと不安になってしまう。
 そっと手を伸ばして頬に触れてみれば水のように冷たい肌にドキッとする。これが生きている人間の体温だろうかと思う。
 指先には弱々しくも脈の波動を感じる。
「どうしてあんな場所にいたの?」
 八戒と同じ雨の日に、八戒と同じ恰好で。
 それだけで運命のようなものを感じる。普段ならそんな乙女チックな事は思わないけど、そう思わせるだけの雰囲気が天蓬にはあった。
 よく見れば八戒にどことなく似ている。顔立ちとかそういうのではなく雰囲気が。
「アンタは死にたいって思ってる?」
 八戒はそう思っていたから。
 否、少し違う。やるべき事があって、それをやり終えたら死のうとしていた。悟浄はそれを分かった上で助けた。
「どうして刀や銃なんか持ってたの?」
 いくら今の桃源郷が物騒でも一般人が持っているようなものではない。しかも三蔵が持っているような小型の銃ではなくそれなりの重量もあった。
 服装から察して軍人だとしても、この辺りの者ではない。
「軍人さんなのか?」
 こんな華奢で細い男が軍人だなんて俄かには信じられない。八戒や三蔵も細いと思うが天蓬はそれ以上だ。
 悟浄はもう一度天蓬の額に触れた。頬に比べて僅かに熱を持ってる気がする。
「どこから来たの?」
 知りたいと思った。
 知らないと困るし、必要とあれば三蔵に連絡して身元を捜してもらわないといけない。できる事なら係わり合いになりたくないが、厄介事だと後から報復がありそうだから。だったら最初から知らせておいた方がいい。
「なぁ、アンタ……テンポウって名前なのか?」


「多分、そうでしょうね」


 ドアの方から聴こえたのに悟浄は顔を上げた。八戒はカップにコーヒーを淹れて一つを悟浄に差し出してきた。
「八戒?」
「服の裏に刺繍がありましたし……、軍人さんのようですね」
 八戒が云うのにやっぱりそうか、と思った。
 八戒は悟浄の横に立つと真っ直ぐに天蓬を見下ろした。その眼は少し苦しそうに感じて悟浄は眉を寄せた。
「僕、今……気孔の練習してるんです」
「気孔?……って」
「僕の気で、相手の怪我を治したり攻撃したり防御したり」
 八戒は云って手を天蓬の前に翳した。
「…………………」
 悟浄はその様子を食い入るように見ていた。
 すぐに八戒の突き出した手の少し先が淡い光に包まれた。離れている悟浄にも分かる、優しい力だ。
「…………あ」
 額にあった傷がゆっくりではあったが薄くなって、最後には消えたのに悟浄は小さく声を上げた。八戒も小さく息を吐いて手を引っ込めた。
「今はこれが精一杯です」
「すげぇ」
 悟浄は感嘆の声を漏らした。
「まだまだですよ」
「んな事ねぇって」
「もっとこの力が使えたら、この人の傷も癒してあげれたのに」
 本当に悔しそうな顔をする八戒はグッと拳を握り込んだ。悟浄はカップを床に置いて握り込んだ八戒の手を包むようにした。
「燈熔が治療したんだから大丈夫だ」
「……………」
「お前の時だって治してくれたんだから」
 な?と悟浄が笑えば八戒も漸く笑みを浮かべた。
「眼が覚めるの、交替で待と」
「はい」
 八戒は頷いて洗濯続きをやるつもりなのか部屋を出て行った。






 天蓬はそれから一週間、眠り続けた。
 燈熔に云われた通り、毎日決まった時間に増血剤を飲ませて身体を清潔に拭いた。燈熔も日に一度は顔を見せて容態を見、栄養剤の点滴を打ってくれた。
 拾った当初のような血の気のない顔は失せ、血色が良くなってきたのに後は目覚めるのを待つだけだと云われた。
 そして流石に一週間も稼ぎがないのでは困ると八戒に云われた悟浄は久し振りに賭場に向かった。何かあった時にはジープを連絡係にすると云い置いて、八戒が天蓬に付いていた。
 椅子を枕元に置いて、コーヒーを飲みながら本に眼を落とす。
 それでも意志は常に天蓬に向けてあるから万が一の時にはすぐに対応できる。
 この日は雲一つない夜だった。
 風が窓を叩く音が耳につく。ジープも八戒の肩に乗ったり枕元に移動したりと忙しない。どうにも天蓬が気になるらしく、見かけないと思えば八戒たちの代わりに見ているようになった。
「……キュー」
 小さく鳴いては顔を覗き込む。今、天蓬が目覚めたら驚くだろうなと八戒は思ってジープをそっと抱き上げた。
「起こしちゃ駄目ですよ」
「キュー」
 首を傾げるジープに八戒は微笑して喉を擽るように撫でる。ジープも暫くすると大人しくなって八戒の膝の上で丸くなった。
 八戒はそれを確認して天蓬に視線を向けた。
「………………」
 ベッドで眠り続ける天蓬はまだ起きそうにない。重くはないがジープをずっと膝に乗せたままでは疲れてしまうと思った八戒はそっと立ち上がった。
 ベッドが使えなくなったために、ジープ用のベッドがリビングに作ってある。
 物置にあった籠にタオルを詰めてシーツの切れ端を被せた簡易のベッド。
「……おやすみなさい」
 ジープをベッドに寝かせて八戒は部屋に戻った。椅子に座って暫く天蓬の寝顔を見ていると、僅かに動いた気がして立ち上がった。
 ベッド脇に手を付いて、どんな些細な動きも見逃すまいとする。
「………………」
 睫毛がピクリと動いて呼吸が少し速くなる。
「眼が、覚めましたか?」
「……………」
 八戒が声をかけるとゆっくりと、しかし薄く眼を開けたのにホッとした。
 八戒はすぐに部屋を出るとジープを抱き上げてドアを全開にした。
「ジープ、悟浄を呼んできて下さい」
 声をかけてまだ寝ぼけているジープを外に放る。急の事に驚いたジープも空中で体勢を整えてすぐに悟浄のいる賭場へ飛んでいった。
 それを確認して八戒は部屋に戻った。
「………………」
 今度はちゃんと眼を覚ましているのが確認できた。
 キョロキョロと周囲を見て真っ直ぐに八戒を見てくる天蓬に、もう大丈夫だろうと思った。
「ここが、どこだか分かりますか?」
 声をかければ、一瞬怯えたような顔をして起き上がろうとしたので、八戒はそっと手をかけて寝ているように促した。
「あの……?」
「今、貴方を拾ってきた者が帰ってきますから」
 ニッコリ笑って、怖がらせないように椅子に腰を下ろす。天蓬も不安気な視線を向けてくるのに八戒はそっと手を伸ばした。
 怖がっている相手を安心させるには触れ合うのが一番いい。
「ちょっと失礼しますね」
 八戒は布団の上に置かれている天蓬の手をそっと握り締めた。末端冷え性の八戒よりも冷たい指先をしている。
「何か、身体のあったまるものをお持ちしますね」
「………あの?」
「少し待ってて下さい」
 本当はずっと一緒にいるのがベストだろう。しかし、一週間何も飲み食いしていなかった上にこんなに身体が冷えているのなら、まず温めてやるのが先決だ。
 こんな事ならジープに残っていてもらえばよかったと思う。しかし悟浄への連絡係が欲しかったのだから仕方ない。
 八戒は手早く鍋に湯とコンソメの素を入れて、トマトを散切りにして沸騰させる。それをマグカップに注いでスプーンと一緒に部屋に戻った。
「お待たせしました」
 天蓬はほんの少しの間にも眼を伏せていたらしい。八戒が声をかけたのにゆっくり眼を開けた。しっかりと自分を認識してくれているのに安堵して、八戒はカップを机の上に置いた。
 冬場に使う毛布を出してきて、天蓬の背を支えるようにして起こした。腕を動かそうとした時に天蓬の身体がビクッと動いたのに八戒も手を止めた。
「すみません、痛みましたか?」
「………いいえ」
 答える声がか細かった。しかし大丈夫だと云う以上、過剰な心配はかえって失礼になる。ずっと寝ていたのだから身体は起こしておいた方が楽になるかもしれない。
 どの道、悟浄が帰ってきたら今度は八戒が燈熔を呼びにいかないといけない。
「ちょっと我慢して下さいね」
 八戒は云ってなるべく負担が掛からないように手早く背に毛布を当てて凭れられるようにした。
「……………ふぅ」
 小さく息を吐く天蓬に八戒もホッとした。肩に薄手の毛布を掛けてから、カップを手渡した。右手の握力が少し不安ではあるけど、包むように持たせれば震えながらもしっかり持った。
「温まりますから」
「……………」
「トマトはお嫌いですか?」
 それだとしたら仕方ない。天蓬はゆっくりと顔を上げると緩く首を横に振った。
「あの、お窺いしたいんですが」
「はい」
「貴方は一体?」
 当然の質問だと思った。
「この家の家主の同居人です」
 他に説明の仕方がなかったので八戒はそう答えた。
「………あの」
「いえ」
 天蓬はそう云って視線を左右に彷徨わせた。その仕草に八戒は違和感を覚えた。
 これは八戒に警戒心を持って怯えているというだけではない。他にも何かあるのだと思った。
「天蓬さん?」
「………え?」
 名前を呼んだのに天蓬は顔を上げて首を傾げた。
「どうしました?」
「……今のは、僕の事ですか?」
「え?」
 天蓬の返事に今度は八戒が驚いた。思わず凝視してしまうと天蓬は居心地が悪そうに視線を動かした。
「あの……」
 もう一度ゆっくりと声をかければ、天蓬は真っ直ぐに視線を合わせてくる。
「貴方、天蓬さんですよね?」
「………………」
 確認するように聴けば、天蓬は困ったように眼を揺らし眉を下げた。伏せられた長い睫毛が影を作って泣いているようにも感じた。
「え?違うんですか?それとも……」
「分かりません」
 ボソッとした声で答える天蓬に八戒は本気で慌てた。
「何も、分からないんです」
「………………」
「僕は一体誰なんですか?」
 そんな事は聴かれても八戒の方が困る。天蓬の眼が覚めればいろいろ分かると思っていただけにこれはショックだった。
 八戒のその気持ちが通じたのか、天蓬は視線を反らしてカップに眼を落とした。湯気の上がるスープに眼を細めて天蓬はゆっくりとスプーンを握った。
「……いただきます」
「はい」
 こうして会話はできるのだから全ての記憶がないわけではないだろう。生活に必要な知識はあるが、自分の名前や交友関係を忘れてしまったのかもしれない。
 天蓬はゆっくりとスープを口に運んで咀嚼する。その速度は恐ろしくゆっくりだ。
「………………」
 一口飲んでは息を吐き、また口に運ぶ。八戒はそんな天蓬をずっと見ている事しかできなかった。





 悟浄はそれから間もなくして帰ってきた。八戒は玄関のドアが開く音を聴くとすぐに悟浄を寝室に連れて行って入れ替わりに燈熔の元に急いだ。
 当然ジープを連れていくのに悟浄は呆気に取られた。
「何なのよ?」
 思わず出てしまった言葉に天蓬は何の反応も起こさなかった。ただ、悟浄の紅い髪に見入っている。その視線に悟浄は振り返ると、そういう視線にも慣れているのか髪をガシガシかいてさっきまで八戒が座っていた椅子に腰を下ろした。
「えっと、初めまして、かな」
「…………はい」
 悟浄も初めて聴く天蓬の声にドキッとした。こんな状態なのに凛とした声をしている。
「気分はどう?」
「…………貴方が僕を助けて下さったんですか?」
 質問には答えずに云う天蓬に悟浄は肩を竦めた。多分、気分がそんなに良くないから質問をしてきたんだろう。
 悟浄はそう理解して足を組んだ。
「助けたのは燈熔だけどな」
「………え?」
「拾ったのは俺」
 悟浄はニッと笑って答えた。拾ったという言葉に天蓬は怪訝そうに眉を寄せた。しかしそれが一番正しいと悟浄は思う。
 道にボロボロになって倒れていて、意志もなかった天蓬を拾い上げたのは間違いないのだから。
「すっげー怪我だったけど、どうしたの?」
「え?」
「あんなになるのは尋常じゃねぇし」
 確かに今の桃源郷で妖怪に襲われるのはよくある事だ。それでも悟浄の家近辺には妖怪は近寄ってきたりしない。
 何故かは分からないがそういう被害にあった事がないのは確かだった。
「…………それにアンタ、軍人だろ?」
「あの?」
「詮索する気はねぇけど、何かに巻き込まれてんならいろいろあるし」
 これは悟浄にとっても当然、知る権利がある。ジッと真っ直ぐに見れば、矢張り天蓬は視線を反らす事はない。
 見返してくる視線は逆に悟浄を射抜いてくる。
「どうなの?」
「……僕、実は……」
 迷ったような口調ではあるけど真っ直ぐに見てくる。それで悟浄は気付いた。
「あ、ワリィ」
 悟浄は片手を上げて天蓬の言葉を遮ると、抽斗の中から直したばかりの眼鏡を取り出した。
 壊れていたレンズを見せて直してもらったのだが、度が凄くて驚いた。常にそんな眼鏡をかけていたのなら今は殆ど見えていなくてもおかしくない。
「見えてねぇだろ」
「……………」
 悟浄が云ったのに天蓬は困ったように眉を下げた。それが質問を肯定しているという事で。
「ほら、力入る?」
「………はい」
 天蓬は返事してゆっくりと手を伸ばして自分の眼にかけた。それを確認して悟浄は椅子に座り直した。




 キィ――……ッ、ガタガタッ




 家の前に凄まじい音がしたのに、悟浄も天蓬も驚いた。次いでバタンとドアが壊れんばかりに音を立てたのに悟浄は立ち上がって迎えに出た。
「早くっ、燈熔さん」
「……はいはい、引っ張るなって」
 八戒が燈熔の腕をグイグイ引っ張っている。燈熔は今まで仮眠を取っていたのか髪はボサボサでシャツのボタンは一つ掛け違っているような状態。
 いくら深夜で人が滅多に通らないからといっても酷いと思える。悟浄は心から燈熔に同情した。
「ったく、ちょっとしっかりさせてくれ」
 燈熔は云って服装をしっかり正した。手櫛で髪を整えて息を吐く。
「悟浄、天蓬さんは?」
「……あぁ、起きてるぜ」
「そんな事は分かってます」
 八戒は冷たく云って燈熔に顔を向けた。八戒の真剣な表情に燈熔も何があったのかと思った。
「どうした?」
「彼、記憶喪失みたいなんです」
 八戒が云ったのに悟浄も燈熔も瞠目した。悟浄に至っては、八戒の言葉を聴いて今までの天蓬の動きが不審だったのに納得がいった。
「ほぉ、そりゃまた……」
 燈熔もすぐに真面目な顔になって天蓬がいる部屋に向かった。天蓬は大人しくベッドに腰を下ろしたまま自分の手を見ていた。
 そこに何があるわけではない。包帯の巻かれた右手と無事な左手を見比べる。その表情は凄く悲しそうだ。
「………………」
 その気持ちは分からないでもない。眼が覚めて自分が誰なのか全く分からず、見た事のない場所にいれば誰だってパニックになる。


 コンコン


 燈熔が開けっ放しになっているドアを数回ノックしたのに天蓬は弾かれたように顔を上げた。
「こんばんは」
「……………こんばんは」
 燈熔が云ったのに天蓬は同じように返した。
「ちょっといいかな?」
「はい」
 天蓬に決定権があるわけではないが、コクンと頷く。部屋の中に入ったのは燈熔だけで悟浄と八戒は外で待っている。
 燈熔はあえてドアは開けっ放しにして天蓬に近寄った。椅子に腰をかけて真っ直ぐに天蓬を覗き込む。
「俺は診療所で医者やってる、燈熔だ」
「ヒヨウさん」
「そうだ」
 天蓬が云い返したのに燈熔は満足そうに頷いた。相手を怯えさせないためには自分の事を知ってもらうのが一番手っ取り早い。
「よろしくな」
 燈熔が笑みを見せて云ったのに天蓬はコクンと頷いた。それを確認して燈熔は少し前屈みになる形で膝の上で手を組んだ。
「自分の名前分からないって?」
「………はい」
 燈熔の質問に天蓬は俯くようにして頷いた。燈熔はふむと頷きながら顎を指で撫でると足を組んで背凭れに体重を預けた。
「自分がいた場所とか、友人とかは?」
 燈熔の言葉に天蓬はフルフルと首を横に振った。自分の名前を覚えてないのに他の事なんて覚えているわけないか、と燈熔は思った。
 ただ、会話は普通にできるところから、重度の記憶喪失でない事も分かる。
 とりえず、今どのくらいの記憶が欠けているのか知るためにも燈熔は鞄の中からペンとノートを取り出した。
「……これ、持って」
「……はい」
 天蓬は震える手でペンを握った。おかしな持ち方になっているのは利き手が逆になっているからだ。
「使い方、分かる?」
「はい」
 ならばと燈熔は自分が云った言葉をそのまま書いてもらう事にした。天蓬はゆっくりではあるけど確実に文字を綴っていく。
 その他にも日常生活においても基本知識は憶えているらしい事は分かった。
「なるほど」
「………え?」
「どうやら自分に関する事と、今までの対人関係の事だけを忘れてしまっているようだね」
 天蓬が自分の住んでいた場所を思い出せない限り連絡を取る事ができない。最も、今の天蓬は動く事はできそうにないのだが。
 暫くはここで厄介になるのが一番いいだろう。
「多分、一時期的なものだと思うから」
「……………」
「時間が過ぎれば思い出してくるだろう」
 燈熔はそう結論付けた。
 大怪我をして記憶が飛んでしまうというのはよくある事だ。本当は天蓬の過去に携わっていた者が近くにいれば一番いいのだが、この際仕方ない。
「まず、怪我が治るまではここで養生する事」
「ですが……お二人にご迷惑が」
 至極当然の事を口にする天蓬に燈熔は声を上げて笑った。その笑い声に天蓬はビクッとした。リビングにいた悟浄と八戒も何事かと顔を出す。
「大丈夫だ、迷惑じゃねぇよ」
 それは燈熔が云うような事ではない。
「あっちの悟浄……髪が紅い方な」
 燈熔が指を悟浄に向けて笑う。自然と天蓬の視線も悟浄の方に向けられる。
「あれは貧乏性でな、落ちてるモンは何でも拾っちまうんだ」
「はぁ……」
 八戒もその言葉にクスッと笑って悟浄に眼を向ける。八戒と天蓬の視線が向けられたのに悟浄はバツが悪そうに頭をかいてそっぽを向いた。
「僕は歓迎しますよ」
「え?」
 八戒が云ったのに天蓬は顔を向けた。
「日中の話し相手になっていただけると嬉しいですし」
「それって俺の存在、無視してるよな」
 ボソッと云う悟浄を八戒は綺麗に無視した。
「そういう事だから気にすんな」
「ですが……あの」
 家主はあくまで悟浄、なのにどうして八戒に決定権があるのか天蓬は不思議そうに思った。だが、燈熔も悟浄もそれが普通でいるのだから天蓬が口を出す問題ではない。
「いろいろ話をしている内に記憶も戻るかもだしな」
「ですが、このベッドも僕が占領しては……」
 当然の事を口にする天蓬に八戒はクスッと笑った。
「構いませんよ、どうせ悟浄は夜中は仕事で出てるんですから」
「え?」
「殆ど朝帰りですし、それまでは僕と悟浄で一つのベッドを交互に使うだけです」
 八戒は云って、明日はシーツを洗って煙草の匂いを消さないといけませんね、などと口にした。それは悟浄に対する嫌味でもあり、牽制でもあった。
「そういう事だ」
 燈熔は云って天蓬の頭をポンと叩くと立ち上がった。天蓬はそれを追いかけるように顔を上げる。
「毎日、様子を見にくるから」
「……………」
「無茶は駄目だぞ、何か異常があったらすぐに連絡するように」
 最初の言葉は天蓬に、後の言葉は八戒たちに向けてかけられた。
「あの、ヒヨウ……さん?」
 名前がよく認識できていない天蓬は聴いただけの音で声をかけた。
「何だ?」
「すみませんでした」
 首を動かすだけの礼になったのは、身体が痛くて動かせないからだ。それが分かるだけに燈熔は特に何も云わない。
「怪我人治すのが医者の仕事だから、礼なんていらねぇぞ」
 照れ臭いのか燈熔は云って天蓬に背を向けた。八戒は燈熔を家まで送る気らしく一緒に出て行く。悟浄は少し迷ってから天蓬の方に歩いてきた。
 身構えるでもなく、普通にしている天蓬に悟浄は椅子に座って視線を向けた。
「さっきは悪かったな」
「え?」
「アンタ、記憶混濁してたのに……あんな事云っちまって」
 分かっていなかったのだから仕方ないのだが、悟浄は深く頭を下げた。それに天蓬は慌てて首を横に振った。
「あの、頭上げて下さい」
 天蓬が云ったのに悟浄はゆっくりと顔を上げた。
「僕も助けて下さったお礼も云わずにすみませんでした」
「んにゃ、それはいいんだけど」
「改めてお礼申し上げます」
 丁寧な口調で話す天蓬に悟浄は苦笑した。どうもこの話し方はクセらしい。八戒が二人いるような感覚を感じつつも、悟浄はスッと手を差し出した。
「え?」
「俺、悟浄ってんだ」
「……ゴジョウさん」
 コテンと首を傾げる天蓬に悟浄は机の上に置いてあったホワイトボードを手に取った。
 八戒の部屋にある物にはワケが分からない物がある。これもその一つなのだが、役に立ちそうなので勝手に借りる事にした。
 そのホワイトボードにペンで『悟浄』と書く。
「こう書いてゴジョウって読むんだ」
「……悟浄さん」
 それを確認して天蓬は頷いた。
「アンタの名前は多分天蓬、……こう書く」
 何度も見た文字だから記憶している。天の蓬(よもぎ)と書くのだと八戒も云っていたからそのように説明もする。
「で、アンタの持ち物はそこにある刀とコレ」
「……………」
 悟浄は手を伸ばして抽斗を開け、八戒にも隠していた銃を取り出した。見れば黄金で木製のグリップをした立派なものだ。レボルバーなのは三蔵の銃と一緒だが、こっちはバレルが長くてかなり重い。
 何かを思い出すかと思って差し出せば、天蓬は戸惑う事なく銃を受け取った。
「……僕の、ですか?」
「腰に差してあったからそうだろうな」
 悟浄は云ってから手を数回握った。片手で持っていたツケなのか指が少し痺れている。
 天蓬は怪我をしていない左手に銃を握って真っ直ぐに腕を伸ばした。向かった照準は壁に飾ってあるリーフだ。
 ぶれる事なく合わせられた銃に真剣な眼。それに悟浄は確信した。
 天蓬は軍人で、前線に出て戦うくらいの実力の持ち主だ、と。
「……………」
 暫くそのままでいた天蓬だったが、ややあってパタンと力を抜けて布団の上に手を下ろした。万が一の事を考えて銃弾を抜いておいたのが幸いした。
 下手な衝撃を与えて暴発でもされたら大事になる。
「重い、んですね」
「だな」
 悟浄は天蓬の手から銃を奪い抽斗の中に仕舞った。八戒に見付かったら何を云われるか分かったものではないから。
「少し横になってるか?」
「…………えっと」
「ん?」
 何かを云いたそうにしている天蓬に悟浄は首を傾げた。
「先ほどの方をお待ちしてなくても?」
 そう云うという事は疲れてきている証拠だった。できる事なら休みたいが八戒を待ちたいというのだろう。
「アイツは八戒」
「ハッカイさん」
 悟浄はクツッと笑って文字を綴る。
「で、後ペット?自家用車?のジープってのもいる」
「は?」
「それは明日紹介するから」
 悟浄は云って、天蓬の背中に当ててある毛布を抜いてそっと背中を抱いた。身体に負担をかけないようにゆっくりと支えてベッドに横たえる。
 フゥーと息を吐く天蓬の肩まで掛け布を掛けてやって額に手を当てると僅かに熱を放っていた。
「……………」
 これだけ熱を放っているなら相当苦しかったはずなのに、そんな様子はおくびにも見せなかった。どこまで頑固なんだと思いながら暫く額に触れていた。
 天蓬の額を熱いと感じるなら悟浄の手は冷たいという事。こうしていれば多少は楽かもしれないと思ったから。
「……悟浄さん」
「ん?」
「ありがとうございました」
 天蓬は眼を閉じたまま礼を云って、すぐに寝息を立て始めた。
 いくら怪我をしていた自分を助けた相手だからと警戒心がなさすぎる。もし悟浄が敵で天蓬を殺そうとしていたら、あまりにも呆気なさすぎる。
「……ワケ分かんねぇ」
 悟浄はそう呟いて嘆息して、濡れタオルを用意するために台所に向かった。







 次の日、八戒と悟浄、ジープは天蓬の元で食事をする事にした。朝は流石に無理そうだったので昼食を一緒に取る事にした。
 使っていなかったテーブルを持ち込んで、昨夜と同じように天蓬の背に毛布を宛がって身体を起こし盆の上に雑炊を用意する。
 八戒たちは土鍋にたっぷり用意してある。付け合せに漬物と肉の味噌漬けもある。
「どうぞ」
 病み上がりでどれだけ食べれるか分からなかった八戒は茶碗に軽くよそってスプーンと一緒に盆に乗せた。
「まだありますから、沢山召し上がって下さいね」
「……ありがとうございます」
 天蓬はニコッと笑って茶碗に眼を落とした。昨日も思っていた事だけど、食欲をそそるいい芳香を漂わせる。
「キュー」
「ほら、ジープはこっちにいらっしゃい」
 天蓬が眼を覚ましてからずっと傍にいるジープに八戒が声をかける。いつもならすぐに云う事を聴くジープだが、今日は天蓬の傍から離れようとしない。
「ジープ、邪魔しちゃ駄目ですよ」
 八戒が少し強く云えば、ジープは小さく唸って天蓬を見上げた。天蓬は動く方の手でジープの喉元を撫でた。
「キュ〜Vv」
 ジープは嬉しそうに声を上げて天蓬の手に擦り寄った。ジープにしては珍しい事だった。
 警戒心が強いジープは簡単に人に慣れたりしない。
「…………」
「天蓬さん、すみません」
 八戒が謝ってくるのに天蓬は緩く首を横に振った。
「僕は構いません」
「でも、邪魔じゃ……」
 スプーンを使う左側にべったりくっつかれては食事もしにくい。そんなのは誰の眼にも明らかだった。
「いえ、可愛い子ですから」
 それは答えになっていないのだが、本人がそう云うのだから強くは云えない。ジープも本当に邪魔になると思えば離れるだろうしと八戒は思った。
「さぁ、僕たちもいただきましょうか」
「おー、もう腹減った」
 悟浄が云うのに八戒も座り直して手を合わせた。
「いただきます」
 八戒の音頭で三人はゆっくりと食事を始めた。あっと云う間に茶碗を空にしていく悟浄とは違い、天蓬は本当にゆっくりと咀嚼している。
 その速度にジープも心配そうに見上げてくる。
「………?平気ですよ」
 ジープの頭を撫でて、また雑炊をすくう。
「………………」
 食事をする気になっているのなら回復は早いだろう。例え、ゆっくりでも少なくても大丈夫だろうと八戒は思った。




 ゆっくりとした食事を終えて、ジープはしっかり天蓬の膝の上をキープしていた。天蓬もそれを邪魔には思わず絶えず撫で続けている。
「あの、天蓬さん」
「はい」
 八戒の声に顔を上げれば悟浄も同じように天蓬を見ていた。少しキツめの悟浄の視線に臆する事もなく天蓬は真っ直ぐに見上げる。
「とりあえず傷が癒えるまではここにいて下さい」
「……いえ、歩けるようになったら……すぐにでも出ていきます」
 天蓬は緩く首を横に振った。天蓬の云う歩けるように、が壁伝いでも移動できるなら、という意味なのはすぐに分かった。
「このお礼は必ずさせていただきます」
「……………」
「燈熔さんに診ていただいたお代も必ず……」
 今の天蓬にすぐ働き口が見付かるとも限らない。不景気の今では難しいだろう。しかも怪我人を雇うような物好きはいないと思っていい。
「んな事はどーでもいいんだよ」
「……っ、悟浄さん?」
 予想以上の低い声に天蓬はビクッと身体を震わせた。キツい眼をする悟浄を八戒は留めようとしたが、悟浄が本気で怒っているのだと分かって手を引っ込めた。
「アンタ、自分の状態分かってる?」
「………………」
「んな状態で出て行って、家の前で死なれたら迷惑だ」
 キッパリ云う悟浄に八戒も呆気に取られた。しかし気持ちは分かる。この状態の天蓬が出て行けば、家の前は大袈裟でも街に出るまでの道で倒れるのは眼に見えている。
 折角助けた命が消えるのは嬉しい事ではない。
「そんな……」
「大体な、そうなった時、誰が死体の始末すると思ってんだよ?」
「……………」
 悟浄が強く云ったのに天蓬は俯いてしまった。握り締めた手が震えているのに悟浄の表情が少し和らいだ。
「金の心配なんかいらねぇから……、お前……天蓬はここにいろ」
「…………はい」
 コクンと天蓬が頷いたのに悟浄はホッとしたように息を吐いた。
「それとな、遠慮すんな」
「え?」
 悟浄の言葉に天蓬は顔を上げた。悟浄はポンと天蓬の頭に手を置いてガシガシと撫で回した。その行為に驚いている天蓬に悟浄はニッと笑った。
 子供扱いされているはずなのに天蓬は嫌がっていないようだった。
「齢分からねぇから仕方ねぇけど、多分そんなに違わねぇと思うんだわ」
「…………えっと」
「俺の事、呼び捨てでいいぜ」
 悟浄が云うのに天蓬はどうしたものかと悩んでいた。
「では僕の事も八戒、と」
「ですが……」
「その代わり僕たちも天蓬、と呼ばせていただきますから」
 お相子だからいいだろうと笑う八戒に天蓬は少し迷ってから頷いた。
「キュー」
「あぁ、はいはいジープもな」
 鳴き声を上げるジープの頭も撫でながら悟浄は云う。見上げてくるジープに天蓬も微笑した。
「じゃあ、今日からよろしくな」
「はい、あの……ご迷惑をおかけします」
 頭を下げる天蓬に悟浄は苦笑して八戒は微笑した。








 天蓬の行方が分からなくなってから一週間、捲簾の元に金蝉からの使いが来た。敖潤も捲簾の今の状況を理解してなるべく討伐任務を与えないようにしていたために、すぐに向かう事ができた。
 金蝉の執務室にノックもなしに入ると予想通り観世音も一緒にいた。悟空はどうやら席を外しているらしい。
「……悟空は?」
「預けた」
 短く云う金蝉に捲簾は嘆息した。
 しかし天蓬が行方不明になっているなんて悟空には知られたくない。悟空は周囲が思っている以上に天蓬を好いている。
 金蝉を慕うのとは別の意味で大切だと思っているのは誰の眼にも明らかだった。
 そんな悟空の耳にこの一件が入ればきっと悲しむ。天蓬もそんな事は望んでいないだろうから内緒にしようとした金蝉の判断は正しい。
「そっか」
「おい、捲簾大将」
「あ?」
 観世音が云うのに捲簾は返事して近寄った。金蝉と観世音の間にはいくつもの本から資料からが置かれていた。
「天蓬のいる場所が分かったぞ」
「どこだっ」
 すぐに聴く捲簾に金蝉は落ち着けと手で制してきた。どんな理由があろうと眼の前にいるのは天下の菩薩。本来ならこうして面と向かって会話なんかできるはずもない。
 万が一にも無礼な事はあってはならないのだ。
「ワリィ、金蝉」
「大丈夫か?お前」
 心配そうにしている金蝉に捲簾は頷いて観世音に視線を向けた。真っ直ぐに冷静な眼をしている捲簾に観世音もニッと口の端を上げた。
「いいな、西方軍の大将たる者、常にそういう顔してろよ」
 観世音は云って、金蝉の執務机に腰を下ろした。堂々と足を組むのはいいのだが、見たくない物まで見えそうで捲簾は僅かに視線をズラした。
「矢張り時間も移動しててな、辿り着くのに時間がかかった」
 それは聴いていたから覚悟していた事だった。
「悪かったな」
「……………」
 観世音の言葉に捲簾は首を横に振った。調べてもらえただけでもありがたい事なのだ。
 多分、捲簾だけだったら分からなかった。
 時間を移動した事も、時空が歪んでいた事も、何も分からずに遺体は落下の衝撃で消滅したと判断していたかもしれない。
「俺としても、もっと早く調べられると思ったんだが」
「……仕方ねぇだろう、それは」
 観世音が云うのに金蝉は眉を寄せて云った。
「どういう事だ?」
 捲簾が聴くのに金蝉は観世音をチラッと見て口を開いた。
「上層部に内密で動いていたんだから当然だ」
「………金蝉」
 咎めるように云う観世音に金蝉はキッと視線を向けた。こんなにも本気で怒っている金蝉は捲簾も初めて見る事だった。
「テメェは無茶しすぎだ」
「仕方ねぇだろ、天蓬のためだ」
「………ったく」
 金蝉はガシガシと髪を乱暴にかいた。天蓬が絶賛していた金髪がグチャリと乱れる。
「観世音菩薩サマは天蓬にご執心なんでしょうか?」
 慣れない敬語を使って聴く捲簾に観世音はクツッと笑った。金蝉は何を今更と嘆息している。捲簾に至っては意味も分からずに眉を歪めるばかりだ。
「天蓬はな、金蝉と一緒に俺が育てたようなモンなんだぜ」
「はぁ?」
 初めて聴く事実に捲簾は素っ頓狂な声を上げた。その反応に観世音の方が驚いた。
「何だ、金蝉……話してなかったのか?」
「俺は天蓬が話してると思ったんだ」
 だがそんな事は有り得ない事を、少し考えれば分かるところだった。
 天蓬はなかなか自分の本心を話さない。親しい人であっても、考えて考え抜いてからでないと心の内を話さない。
 そんな天蓬がいくら肌を許すような仲とはいえ、知り合ったばかりの捲簾に話すわけがないのだ。
「だって、天蓬は……あれ?」
「アイツの両親は、一夜の酒欲しさに天蓬を娼館に売り飛ばそうとしたんだぜ」
 それも初めて聴く事実だった。確かに家族の話を聴くと泣きそうな顔をしていたがそんな理由があったとは欠片も思わなかった。
「娼館の主に引っ張られていく天蓬を金蝉が助けて欲しいと云い出してな」
 観世音はクツクツと笑って金蝉を見ている。金蝉はそれを鬱陶しそうにして、そっぽを向いた。
「コイツの初めての我侭だったから俺も自分んトコに引き取ったんだ」
「……そんな事があったのか」
 だから天蓬は観世音に絶大な信頼を持っているのだ。
 他の人に持っているのとは違う、強い絆を捲簾は確かに見た。
「俺にとっては天蓬も子供みたいなものだ」
 観世音の表情はどこまでも優しい。だからこそ、今の言葉に嘘がないのだと分かる。
「…………………」
 捲簾はそれを聴いて、一人取り残された気がした。自分が入り込んではいけない世界がここにはある。出会ったのがつい最近なのだからあって当然なのだが悔しくてたまらない。
「………捲簾?」
 そんな捲簾に金蝉が心配そうに声を掛けてくる。それにも捲簾はすぐに答える事ができなかった。
「……ババァ、話を戻せ」
「誰が脱線させたと思ってやがる」
 観世音は云うと机の上に置いてあった資料を手に取った。
「結論を云うと、天蓬はこの時代から五百年以上未来に飛ばされている」
「ごひゃっ……、マジかよ?」
 観世音が云った数字に捲簾は心底驚いた。五百年となると移動も大変になる。数年ならば敖潤にでも頼んで時空ゲートを上手く開いてもらうところだが、五百年ともなるとそうはいかない。
 折角居場所が分かったというのに、今度は移動手段が見付からない。
「……これじゃ、振り出しより悪いじゃんか」
 居場所が分かってなければ希望も持てる。しかし居場所が分かっていて移動ができないというのが一番堪える。
「何でだ?」
 金蝉が聴いてくるのに捲簾はキッと顔を上げた。
「五百年なんて、どうやって移動しろってんだよっ」
 捲簾の叫びに金蝉と観世音は顔を見合わせた。そして観世音はクツクツ笑い金蝉はポンと捲簾の肩に手を置いた。
「それは心配する事ねぇよ」
「は?」
「もう、移動の準備はできてる」
 金蝉が云うのに捲簾はビクッとした。
「俺を誰だと思ってやがる」
 踏ん反り返って云う観世音に捲簾は肩の力が抜けた。でも今は俺様主義の観世音が凄く頼もしく見える。
「天下の菩薩だぞ」
 観世音は云って机から飛び降りた。
「……じゃあすぐに移動できるんだな」
「あぁ、準備ができしだいな」
 観世音は云って二人に背を向けた。
「俺は準備してくるから金蝉から説明聴いとけ」
 云いたい事だけ云って執務室を出ていった観世音に金蝉は嘆息した。捲簾はパタンとドアが閉まったのに顔を向けた。
「どういう事?」
 捲簾が聴くのに金蝉はもう一度嘆息して腰に手を当てた。
「天蓬が落ちた時代の神……三仏神と云うんだが」
「あぁ」
 焦っている捲簾に金蝉は顔色一つ変えないで真っ直ぐに視線を合わせた。
「連絡がきたんだ」
 金蝉の説明に捲簾はなるほどと思った。しかし少し考えて違和感を感じて首を傾げた。
「あのさ、一つ疑問があるんだけど」
「何だ?」
「どうしてその三仏神?サマは天蓬がこの時代の奴だって分かったわけ?」
 それが疑問だった。
 天蓬も神である事は間違いないから、神気を感じて連絡をくれたのかもしれない。だが、時代までは簡単には分からないだろう。
 天蓬が自ら話したという可能性もなくはないが、そこまで自分の事を打ち明けるとは到底思えない。
「あっちの方が時代が先なんだ、すでに起こった事を俺たちの時間に連絡して少し前の時間に来てもらうようにすればいいだけだろう」
「あー、なるほど」
 確かに天蓬が今の時間に戻ったのを確認してから、こういう事があったから少し前の時間に引き取りに来い、と云えば解決は早い。
 流石下界にいる神、考える事が違う。
「納得したなら行くぞ」
「あ?お前も行くの?」
 金蝉までも行く気でいるのに捲簾は驚いた。
「時間移動はお前の想像以上の力を使うんだ、俺も一緒の方が都合がいいだろう」
「………そうか、頼む」
「行くぞ」
「あぁ」
 金蝉が云うのに捲簾は返事して一緒に天蓬を迎えに行く事になった。
(………今、行くからな)
 捲簾は必ず天蓬を連れて帰るのだと決意を固めて足を進めた。





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09/10/21