前に菩薩に聴いた気がします。記憶というのは頭だけが憶えているわけじゃなく、身体も心も憶えているのだと。
 だから頭が忘れてしまっても身体が憶えている事がある、と。だから記憶を失っても人は強く生きていけるのだと。
 それを聴いた時、いい話だなと思いました。流石に天界五大菩薩なだけあるな、と。




『記憶、はそんなに大切じゃない』





「は?どうしたのよ、いきなり」
 天蓬の部屋から見える夜桜を見つつ、ふと口にした言葉に捲簾は興味を示したように顔を上げた。その手元には明後日決行予定になっている討伐任務の地図が広げられていた。
 いつもなら本に埋もれている床も捲簾が朝から大掃除をしたお陰で今は何も置かれていない。地図を広げて酒瓶を置いても全然危なげがないのをいい事に捲簾は寝転がっていた。
「いえ、菩薩の言葉をふと……思い出しましてね」
「お前さんの云う菩薩ってのは」
「観世音菩薩ですよ」
「………だよな」
 天蓬の返事に捲簾はガックリ頭を垂れた。それに天蓬はクスッと笑って捲簾の正面に腰を下ろした。それにならって捲簾も身体を起こすと天蓬に酒瓶を差し出した。
「いえ、僕は……」
 天蓬はそれを片手を上げて断った。
 全く飲めないわけではないが、天蓬の場合は酒癖が悪すぎるらしい。自分自身では分からないが金蝉だけでなく観世音まで必死になって止める以上、相当なのだと自覚はしている。
「そういや、お前って酒は飲まねぇよな」
「あまり好きじゃないんです」
 元々、甘党な天蓬は酒のような辛い飲み物は好むところではない。
「それって人生の半分は損してるよな」
「僕にとってはお酒を飲むくらいならそのお金を本に費やします」
「ははッ、らしいな」
 捲簾は天蓬の返事にケタケタ笑うと手酌で酒を煽った。それを見つつ天蓬は地図に眼を落とした。作戦は完璧に立てた。今回は万が一のために天蓬も前線に出る。
 最初は永繕や洋閏に反対されたが、前回も前々回も大人しく後方にいたのだからと我侭を云った。
 これ以上前線に出ていないと勘が鈍るしストレスも溜まる。そのストレス発散に暴れてもいいのだったら、と云ったら快く承諾してくれた。
「ところでさ」
「はい?」
 真剣な眼で地図を見つつ返事をする天蓬に捲簾は気にする事なく続けた。
「さっきの、どういう意味?」
「は?」
 捲簾の質問に天蓬は顔を上げた。さっきの、とはどの事を云っているのか一瞬理解できなかった。
「さっきって、どれです?」
 作戦についてなのか主語を云ってくれなければいくら天蓬でも理解はできない。捲簾とは仲も良くなったと思うがそこまでは分からない。
 心の奥底まで分かるならば言葉なんていらなくなってしまう。
「記憶がどうのこうのって」
「あぁ、それですか」
 捲簾が云ったのに天蓬は漸く合点がいったように頷いた。
「いえね、さっきちょっと思い出したんですよ」
「観世音菩薩サマのお言葉って?」
「えぇ」
 天蓬が頷くのに捲簾は真剣に聴く姿勢をとった。それに天蓬も話さなければいけないんだろうな、と思って楽な姿勢を取った。
「何のお話をしてた時なのか忘れましたが、菩薩が教えてくれたんですよ」
 天蓬は両手を組んで片膝を抱えるようにした。もう片方の足はだらしなく伸ばしたままにしてある。
「記憶はそんなに大切にするものじゃない、って」
「それはまた……」
「僕、全然意味が分からなくて」
 ニヘラ〜と笑う天蓬に捲簾も曖昧な笑みを浮かべた。当時は悟空よりも小さな子供だったから分からなくても仕方ない。
「記憶って頭だけじゃなくて心と身体でも憶えているものだから」
「あー、云うなそれは」
「えぇ」
 今なら天蓬も分かるのだ。忘れていても触れてみると急に思い出したりよくある事。特に長い時間を生きる天界人である自分たちはよくある。
「だからいざという時は記憶より生命をとれって」
「は?意味分かんねぇ」
 捲簾は眉を寄せて首を傾げる。
「僕にも分かりませんよ」
「はぁ?」
「でも菩薩の言葉ですからねぇ」
 ニコニコ笑いながら云う天蓬に捲簾は呆気に取られた。心底天蓬が考えている事が分からないと。
「はぁ……」
 捲簾が溜め息のような声を漏らすのに天蓬はクスッと笑った。
「もし」
「え?」
「捲簾(アナタ)が記憶を失ってしまったら、僕の事は思い出さなくてもいいですよ」
 天蓬が笑顔で云ったのに捲簾は心底嫌そうに眉を寄せた。思い出さなくてもいいと云われていい顔をする奴はいない。
「……つれないなぁ」
「ふふ、だって」
 天蓬は笑って両手を地図の上に置いた。そのまま這うような形で捲簾に近付く。両膝と両手が地図の上に乗ってまるで獣のような恰好をしている天蓬に捲簾はゴクッと息を飲み込んだ。
 白衣を着た獣は妖艶で言葉を失わせる。
「僕を忘れたとしても、貴方には何度でも僕を愛してると云わせてみせますから」
「………………」
 ニコッと、誰もが見惚れる笑みを見せられて捲簾も漸く口の端を上げた。
「お前って」
「え?」
「どこでそんな殺し文句覚えてくるのよ」
 何度でも愛してると云わせる、なんて最上級の殺し文句であり告白だ。それだけ天蓬が捲簾を大事に思い、愛しているという証でもある。
「殺し文句?」
 分かっていない天蓬に捲簾は肩を揺らして笑った。
「すっげー自信だしぃ」
「はい?」
「だって、俺は記憶喪失になったとしてもお前を愛させるって自信があるんだろ」
「………っ/////」
 捲簾が云ったのに天蓬は瞬時に真っ赤になった。何気なく云った言葉だったが裏を返せばそういう事になる。
「かーわいい事云うよな、天蓬って」
「そ、そんなんじゃ……」
「俺も絶対お前を愛するぜ」
 ニヤニヤ笑う捲簾に天蓬は身を下げようとした。だが、捲簾がそれを許すはずもなく素早く動いて腰を抱き寄せられた。
「………っ、何をっ」
「お前があんま可愛い事云うから………ほら」
 グイッと身体を密着させられて捲簾の膝の上に座り込むような形になって。
 すぐに分かったのは捲簾の足の間、存在を主張するものが天蓬の太腿に当たっている事。
「……捲簾っ///貴方ねぇ……っ」
「煽ったんだから責任取れ」
 ニヤニヤ笑う捲簾に天蓬は顔を真っ赤にしたまま睨み付けた。両手を突っ撥ねて離れようとするのにそれ以上の力で抱き留められる。
「な?いいじゃん」
「明後日から討伐任務なんですよっ///」
「そんなに無茶させないし」
 すでにヤル気満々の捲簾に天蓬は返す言葉もない。下手に抵抗すれば傷付くのは自分の方だ。痛いのは好きじゃないし天蓬は抵抗しないと云う代わりに嘆息した。
「明後日の任務に影響が出るようなヤリ方したら、三ヶ月の禁欲させますから」
「げ、それは勘弁」
 捲簾は云って大事に天蓬を抱っこし直した。すぐにキスをされて天蓬は眼を細める。捲簾と過ごすこういう時間は嫌いじゃない天蓬はすぐに大人しく腕の中に納まる。
「ちょっと動けそうにないから、ここでヤッちゃ駄目?」
「………駄目です」
 捲簾が云うのに天蓬はギロッと視線を向けた。こんな床の上でヤッたら間違いなく腰を痛める。だったら多少の無理をしてもベッドまで連れていって欲しいと思う。
「ちゃんとお姫様抱っこで運びなさい」
「へいへい」
 天蓬が云うのに捲簾は返事して命令通り優しく抱き上げた。








 討伐任務は順調に進んでいった。
「……呆気ないな」
「油断しないで下さい、捲簾大将」
 すでに動いている妖怪はいない。
 今回の討伐任務は妖獣ではなく妖怪だった。人間と同じような姿形をして知能を持った相手。力は巨大でない分、知能戦になる。
 天蓬が最前線にまで顔を出す事になったのがそのせいだ。
「何か、怒ってる?」
「………腰、痛いんですけど」
「だって、アレはお前が引っ張るから悪いんじゃん」
 自分は悪くないと云う捲簾に天蓬は足を蹴り出した。しかし捲簾はそれを綺麗に避ける。
「おっと」
「避けるんじゃりません」
「避けなかったら落ちるじゃねぇか」
 天蓬が云ったのに捲簾はチラッと背後を見て声を震わせた。二人が今いるのは背後が断崖絶壁になっている。
 高所恐怖症の捲簾にとっては最悪の場所だった。
「いっその事、落ちてしまいなさい」
「テメェ、いつまで引き摺ってやがる?」
「腰が痛いんですっ」
 天蓬は云って今度は麻酔銃を抜いた。流石に捲簾は両手を上げて降参を示す。
「僕をベッドから落とすなんて……」
「仕方ねぇだろ?腕掴んだのに間に合わなかったんだから」
「ふんっ」
 天蓬はそっぽを向いて銃を仕舞った。それに捲簾はホッとして両手を下ろした。捲簾ほどじゃないにしても天蓬の銃の腕はいい。
 遠距離になれば命中率は落ちるものの、標的には必ずヒットさせるのだから十分だ。しかも今はこの距離、外す事はない。
 いくら麻酔銃でも天蓬が撃ったなら衝撃は凄いに決まっている。
「ったく」
「何です?」
「拗ねてるのも可愛いけど、俺は笑ってて欲し………わっ」
 捲簾が全部を云う事はなかった。回し蹴りの要領で繰り出された足を捲簾は笑みを浮かべたまま受け止めた。
「―――――っ」
 しっかり掴んだ捲簾はそのまま足を引っ張る。
「ちょっ」
 片足立ちの不安定な恰好で何とかバランスを取っている天蓬の腕を引く。足をしっかり掴まれていては下ろす事もできない。
「こんなに足開いて……誘ってる?」
「……んなワケないでしょう!!」
 天蓬は声を上げて近くにある捲簾の襟首を掴んだ。しかしここで争っていて足を滑らせたら崖の下に真っ逆さまになる。
 ハッキリ云って、ここから落ちたら冗談じゃなく危険だ。
「いい加減、離してもらえません?」
「じゃ、機嫌直してくれる?」
 捲簾が云うのに天蓬はジッと見た。ここで首を振らなければいつまでもこの体勢のまま。部下が戻って来たら何事かと思われてしまう。
「……………」
「ど?」
 捲簾が聴いてくるのに天蓬はグッと押し黙った。捲簾はすでに天蓬の返事を分かっているように笑っている。それが天蓬の癪に障る。
「……分かりましたから離して下さい」
「おー」
 天蓬の返事に捲簾は漸く足を離してくれた。ずっと上げっ放しにしていた足を数回振って感覚を取り戻す。
「さてと、アッチも無事片付いたみたいだし」
「……そうですね」
 見れば部下たちは撤収作業に入っていた。少数とはいえ、天蓬と捲簾が見出した部下たちは動きも考えも早い。
「俺たちも帰る準備すっか」
 結局周囲の空間を凍結しただけで終わった二人は、それでも疲れたように肩を回した。
「結構な数でしたけど、全部封印したんですよね」
 数が多いと確認し忘れとかがあり、天界に帰った後にまだ残っていた、という事が稀にある。天蓬は自分が率いる部隊でそういう事があるのが凄く嫌だった。
「あー、とりあえず最後に確認すりゃいいだろ」
「まぁそうですね」
 天蓬は云って周囲を見回した。
 眼に付く場所に妖怪の気配はない。捲簾は苦手なクセに崖に立って煙草を吸っていた。崖の下から吹き込む風に白煙を揺らして部下たちの動きを見ている。
「危ないですよ」
「ヘーキだって」
 捲簾は云うがいつもより動きが鈍い。


 カラッ……


 天蓬は部下たちの元に行こうかと思った時、石が上から落ちてくるのに気付いた。スッと視線を向ければ一人の妖怪が捲簾を狙っていた。
「捲簾っ!!!」
 気付いていないと思って声を上げれば捲簾は振り返ると同時に麻酔銃を抜いて発砲していた。気付いていなかったはずなのに見事に妖怪に命中させた捲簾はホッと息を吐き出した。
 倒れた妖怪が捲簾の足元に倒れ込んで、元々頑丈でなかった足場にヒビが入ったのに天蓬が先に気付いた。
「……捲簾」
「え?」
 天蓬が声をかけるのと同時に捲簾の足元がガラッと崩れた。
「うおっ」
 体勢を崩した捲簾の腕を天蓬は瞬時に掴んで、自分の身体を軸にして捲簾の身体を引っ張った。そして独楽のように捲簾を回して安全な場所に放る。
「バカっ」
 捲簾が安全な場に尻餅を付いたのを確認して天蓬は微笑んだ。
「―――天蓬っ」
 捲簾の代わりに天蓬が崩れた足場の向こうに身体を投げ出した。後は重力に従うように崖下に真っ逆さまに落ちていくだけ。
「天蓬っ」
 捲簾の叫び声を聴きながら、天蓬は冷静に落ちていく方に眼を向けていた。高さがある程度あれば、落ちる場所を調節する事ができる。
 後はせめて下に水がクッションになるものがあればいいと祈るだけだった。







 捲簾はここが高い崖の上であるのも関わらずギリギリまで近寄った。天蓬の姿はもう見えない。地面は遥か遠い場所にあり、深い緑の木々が見えるものの助かる可能性は絶望だと思えた。
「……天蓬」
 手が震えているのは高くて怖いからではない。天蓬がいなくなるかと思うと怖くてたまらなかった。
 天蓬が決して弱くないのは捲簾もよく知っている。常人では考えられないような事を平気な顔でやってのけ何でもない事のように云う。
「……嘘だろ」
 普通なら戸惑うような場所にも先頭切って突っ込んでいって、怪我を負いながらも必ず帰ってきた。やる事はやっているから文句云うなとオーラで出しまくってて。
「何で、俺を……俺なんかを庇ったんだよ」
 軍の大将が副官に助けられたなんていい笑い者だ。天界にこのまま帰れば絶対に何かを云われる。
「天蓬……」
 ここでいくら呼んだところで天蓬の返事が返ってくるわけではない。捲簾は天蓬が崖の向こうに落下していくのを確かに見たのだから。
「必ず助けるから」
 このままここで燻っているのは捲簾の性に合わない。天蓬の事だから絶対に何らかの痕跡を残しているはずだ。
 永繕たちもさっきの音でこっちに向かっているだろうから、来たのを確認したらすぐに下りようと思った。
「………絶対にまた会って、お前に愛してるって云わせてやるから」
 捲簾は云うとスクッと立ち上がった。乾いた風が吹き荒れる中、永繕たちが自分を呼ぶ声を背後に聴いた。








 結局、第一小隊全員での捜索にも関わらず、天蓬を見付ける事はできなかった。永繕たちはなきそうになっていたが、捲簾は逆に笑みを浮かべていた。
 遺体が見付からなかったという事は生きている可能性があるという事だから。
 だがしかし木にも引っ掛かっておらず、血痕すらなかったのには不思議に思えた。それを確かめようとしたが天界から戻ってくるように命令が下り、捲簾は仕方なしに小隊を率いて天界に帰還した。
 捲簾が帰還してすぐ訪ねてきたのは金蝉と観世音の二人だった。
「……どういう組み合わせだよ?」
 別に叔母と甥なんだから一緒にいてもおかしくないのだが、そう思ってしまうのは仕方ない。金蝉は普段から観世音を邪魔扱いしているし、観世音だって五大菩薩という地位に就いているのだから決して暇ではないのだ。
「天蓬が行方不明って聴いてな」
 落ち着いて云う観世音は、まるで自分の物のようにソファーに座って足を組んでいる。見えそうで見えない姿をしているが別に見たくないので捲簾は視線を金蝉に向けた。
「……大丈夫なのか?」
「分かんねぇ」
 金蝉の質問に捲簾は短く答えた。
「俺んトコにも連絡きたからな調べてやったぜ」
「……連絡って、誰から?」
 観世音の言葉に気になるところがあって、捲簾はすぐに聴いた。天蓬を心配する上級神は少ない、というか捲簾は観世音と金蝉くらいしか知らない。
 しかもたった今帰ってきたばかりだというのに噂が広がっているとは思えない。軍関係者の中に観世音へ情報を齎す者がいるんだろうか。
「さぁな」
 こう云う観世音は決してネタ元を明かさない。というか聴くだけ無駄で、無理に聴き出せば後でどんな報復が待ってるか考えるのも怖い。
「まぁ、軍上層部にも天蓬を心配してる奴がいるって事だな」
 そんな奴の心当たりは一人しかいない。捲簾が思い当たるのは自分たちの上官、敖潤だけ。その敖潤と観世音に繋がりがあるのに驚いた。
「で?」
「お前たちが任務に当たってた場所な、ちょっと問題があってな」
「はぁ?」
 捲簾もあの地区での事は全部調べてあった。だが問題はどこにもなかったはずだ。現地調査した部下も何も云わなかったし天蓬も問題ないと云っていた。
「落ちた場所探しても見付からなかっただろ?」
「………あぁ」
「空間が歪んでたんだよな」
 観世音が云ったのに捲簾は驚いて眼を見開いた。
「はぁ?」
「あの辺りにいた妖怪のせいらしい」
 観世音に代わって金蝉が説明するのに、捲簾は続きを云うように促した。
「特殊な能力を持った妖怪がいてな、……多分、お前が封印してきた中に頭がいたんだろうよ」
「……ちっ、だったら今すぐ戻させれば」
 金蝉の言葉に捲簾は執務机を思いっ切り拳で叩き付けた。
「そう上手くいくか、ボケが」
「あぁ?」
 観世音のあまりの言葉に捲簾はムッとした。いくら何でも酷すぎる言葉だ。
「すでに空間移動した奴を取り戻すのは難しいんだよ」
「……………」
「んな事も分からずに軍大将やってんのか?」
 ズケズケと云う観世音に捲簾は口を挟む事ができなかった。確かに軍大将ともあれば空間の歪みについての知識は知っていないと困る。
「……場所だけの移動ならすぐ見付ける事ができるが、時間も移動したとなると厄介なんだよ」
「じゃあ、どうしたら」
 ガクッと項垂れる捲簾に観世音は小さく嘆息した。
「今、探してやってる」
「…………」
「二〜三日の内には何とかしてやる」
 観世音の言葉に捲簾は顔を上げた。口は悪いが今、初めて観世音が本当の菩薩に見えた。
「金蝉の親友で、可愛い天蓬のためだからな」
 少し考える言葉があったが、捲簾は素直にその優しさを受ける事にした。
「感謝する」
「その代わり、必ず無事に連れて帰ってこいよ」
「………勿論」
 観世音が云ったのに捲簾は真剣な表情で頷いた。











 落下中に空間が歪むのを感じた。自分と一緒に落ちる妖怪が麻酔で弱っているのを確認して何とか封印しないといけないと、そんな事ばかり考えていた。
 落ちる先の地面が近い事が分かって天蓬がした事は、自分の神気を全開でぶつける事。そうすれば少しは落下のショックを和らげる事ができる。
 ただ、それが下界にどれだけの影響を与えるか分からない。しかしこのままぶつかれば、間違いなく地面は天蓬と妖怪によって何らかの影響は出るだろう。
(迷ってる暇はありません)
 天蓬はそう思って両手を地面に向かって突き出して気を集中させた。




 ―――――ドンッ!!!!!





 地面にぶつかった衝撃は矢張り凄かった。
「くはッ」
 咄嗟に体勢を整えて背中から落ちたのは意地だった。バキッと身体の中から音が聴こえて、どこか骨を折ったのだと理解できた。
「…………っ」
 想像以上の痛みに声も出ない。呼吸をするのにも痛みを感じてしまう。両手両足を投げ出して薄く眼を開けると、さっきまで降ってなかった雨が落ちてきた。
 その冷たさが気持ちいいと感じるのは身体が熱を持っているせいだ。
「………………」
 天蓬はすぐに考える事ができずに空を見上げていた。眼に映るのは灰色の空と黒い木々、時刻は日付が変わろうとしている頃だ。
 それを理解して天蓬はゆっくりと動く方の、左手を動かした。
(右腕は……折れてますね)
 左手にも痛みは感じるものの折れている感はない。頭に持っていけば手にヌルッとした感触があった。考えるまでもなく自身が流した血だ。
(脳みそは……出てませんね、意識レベルも問題なし)
 冷静に考えて足を動かそうと思えば、右足に鋭い痛みを感じた。
「………っく」
 何とか頭を動かして眼を向ければ太腿に白いものが見えた。
「……さっいあ、くです」
 右側から落ちたのか折れた骨が太腿を突き出てしまったらしい。しかも足首の方はあらぬ方向に曲がっている。
 これでは歩く事は困難だ。移動は這ってするしかない。その最中に千切れはしないだろうけど邪魔になるくらいならない方が身軽でいい。


「――――――――」


 ふと、何かが動く気配がして天蓬は意識を向けた。自分の左方向、黒い影。もぞもぞと動いて天蓬の方に視線を向けた。
「……………っ」
 それは一緒に落下した妖怪だった。ここで襲われたら間違いなく死んでしまう。動く左手を動かせば指先に刀の感触があって、柄を握り込んだ。
 痛みを感じながら何とか身体を起こすと右半身に激痛が走った。それでも、何とか動かなければどうする事もできない。
(………右腕……捨てますか)
 天蓬は思って一度刀を放して左手で無理矢理動かない右腕を掴んだ。右手自体は握り込めるのを確認して、右手で刀を握り、上半身を起こした。
 素早く動く事はできないが、妖怪の今は瀕死の状態。真っ直ぐに天蓬に向かってくるだろう。
 天蓬は痛む手で刀を握りいつでも対処できるように身構えた。
「ぐあぁぁぁぁっ」
 呻き声を発して、妖怪は真っ直ぐに天蓬に腕を伸ばしてきた。鋭い牙と爪は天蓬を殺そうとしている。
「来なさい」
 不殺生の天界軍の掟に背く事になるが仕方ない。このまま黙って殺されてやる気は毛頭ないのだから。
 天蓬は意を決して最後の力を振り絞った。














 大粒の雨が叩き付けてくる中、悟浄は急ぎ足で帰路についていた。
「やっべぇ」
 久し振りに大当たりの賭博で、時間を忘れて遊んでしまった。
 今までは一人暮らしだったから、朝帰りをしようが稼ぎがゼロでも問題なかったのだが今は同居人がいる。
 数ヶ月前に傷だらけで倒れていたのを拾って、お節介と知りつつ助けた男。まさかその男が大量虐殺なんて事をしでかしていたとは思えなかった。
 でも、自分の髪と眼を見て『血のように見えた』と云われて悟浄は驚いた。
「怒ってる……よな」
 その事件が切欠で出会った三蔵と悟空と共に、新たに八戒という名前を与えられて生きる事を許されて。再会して、悟浄が勧めるままに同居という事になった。
 家の中の事は全部八戒に丸投げしているから、生活費を稼ぐのは悟浄の仕事。まともに働くのは無理だから相も変わらずカード賭博に励んでいる。
「しっかも雨降ってるし」
 八戒を拾った日もこんな大雨の日だった。今は大分落ち着いたが雨が降ると八戒は精神が少し不安定になる。そういう日は傍にいてやりたいと思いはするのだが、流石に生活費が底を付いてきたから稼ぎにいかないわけにはいかない。
 やっと伸び始めた髪が頬に張り付くのを悟浄は指先で払った。
「大丈夫かね?アイツは……」
 悟浄は小さく息を吐き出した。家までは後少し、ここから走ったところでたかが知れているけど悟浄は意を決して走ろうと思った。


「―――――――」


 その時、何かの気配を感じて悟浄は足を止めた。家に向かう道は森に挟まれている。その右側、森の中から僅かだけと鉄錆臭い匂いがしてきた。
「………何だ?」
 悟浄は少し迷って森の方に足を向けた。
 こういう時、好奇心が先に立ってしまう。何事もなかったように通り過ぎれば、きっといつまでも気にかかって後悔する。
 それを分かっているから悟浄は自分の思うままに行動してしまう。
「………すっげー血の匂い」
 森の奥には獣も住んでいる。それに犬猫がやられたのかと思った。これだけ派手に血の匂いを放っていればすぐに他の獣が来て喰らうだろう。
 どうなろうが知った事ではないが自分の家のすぐ近くで血生臭い事が起こっているのは好むところではない。
「………と、あれか」
 少し開けた場所に黒い塊が見えて悟浄は足を速めた。幸い、獣はまだ近付いていないようだ。
「………げ」
 近くまで行って、それが犬や猫でない事が分かった。かつての事がデジャヴのように思い出される。
 八戒を初めて拾った時にもこうやって血の匂いを撒き散らして倒れていた。それと全く同じ状況で倒れている。
「……………おーい」
 だから悟浄も同じように声をかけた。しかしその影はピクリとも動かなかった。
 黒い服に手には剥き出しの刀があってよく見ればすぐ傍には鞘が転がっている。そして夥しい量の血も分かる。
 流石に八戒のように腸は出していないようだが骨が折れまくっているのは分かった。
「死んでんの?」
 間延びした声で呼び掛けて折れてる方の腕を蹴れば、ビクッと動いた。こんなところまで一緒だった。
「……あ、生きてるんだ」
「………………」
 腕に埋まっていた顔が持ち上がって薄く眼が開けられた。そこに光る色は紫碧で八戒と違うのだと分かってホッとした。
「………れ……ん」
 ボソッとした声に悟浄はハッとした。そしてその眼が笑ったかのように細められて、閉じられた。
「………おいっ」
 悟浄はそれを見てから傍に駆け寄った。意識はすっかり飛ばしてしまったらしく今はピクリとも動かない。
「………仕方ねぇ」
 こうして見付けてしまった以上、放っておく事は悟浄にはできない。握られたままの刀を鞘に納めてしっかり握ると、身体に負担がかからないように背負おうとした。
 しかし突き出た骨があって、背負うのでは負担がかかってしまう。
「……まぁ、細っこいし大丈夫だろ」
 これだけの身長でも細いし軽いだろうからと悟浄は横抱きに抱き上げた。
「うおぉっ」
 抱き上げてみて、その軽さに改めて驚いた。そして青白い顔をしているのに綺麗な顔をしているという事にも。
 思わず胸元を見て、真っ平らなのに安堵する。
「………………」
 暫く呆然としていたが、ハッと我に返って悟浄はなるべく負担がかからないようにしながら急いで家に向かう事にした。








 八戒はリビングに座ってコーヒーを飲みながら時計を何度もチラチラ見ていた。膝の上にはつい最近拾ったペットがいる。
 ジープと名付けた白竜は八戒を主人と認め、悟浄は下僕のように思っているらしい。
「………今夜はちゃんと稼いでいるんでしょうか?」
 一人呟きながら膝の上で寝るジープの鬣を撫でる。
 頑張ってくれているのだから、せめてお帰りは云ってやりたい。温かいコーヒーを淹れてやりたい。そう思って起きているのだが、悟浄はすぐには帰ってきそうにない。
「先に寝てましょうかね?ジープ」
 声をかけても起きるわけないのに聴いてしまうのは一人が淋しいから。
 そっとジープを抱き上げて立つと何かがこの家に近付いてきている気配がした。パシャパシャと雨音に混じって聴こえてくる音は聴き間違いなどではない。
「………おや、帰ってきたみたいですね」
「キュ〜」
 八戒が発した声にジープは起きたらしく先にドアに向かって飛んでいった。思えば悟浄を迎えるのはいつだってジープが一番乗りだった。
 カリカリと前足でドアをかくジープに八戒は笑みを浮かべた。
「はいはい、今開けますよ」
 八戒は云ってドアを全開にした。
 外の雨脚は酷い。ドアを開ければ今まで気付かなかった音がして視界も黒一色に染まっている。その中でも悟浄の髪の紅は映える。
「………ほら、悟浄ですよ」
 ジープは凄い勢いで飛び出すと悟浄に向かって一直線に飛んでいった。





「ん?ジープぅぅ……ぶほっ」
 真っ直ぐに飛んできたジープはそのまま悟浄の顔面に激突した。避ける事もできなかった悟浄はジープのタックルをまともに喰らってしまった。
「キュ〜」
 歓迎されていると思いたいのだが、毎回この出迎えは嬉しくない。
 ジープは悟浄の頭の上を一回転して肩の上に降り立った。そして抱き抱えている男を見て首を傾げた。
「八戒は?」
「キューッ」
 元気よく返事するジープに悟浄はニッと笑って先を急いだ。玄関まで行くと八戒が何とも怪訝そうな顔をして立っていた。
「ただいま」
「………何です?その人は」
 その声はどこか怒っているように感じた。腕を組んで仁王立ちしている八戒を見て、ジープは早々にその後ろに避難した。
 悟浄の傍にいればとばっちりを受けるのはジープにもよく分かっているらしい。
「えっと」
「女性をこの家にお持ち帰りするなんて、いい度胸ですねぇ」
「は?違うって」
 どうやら八戒は悟浄が女を連れ帰ったと思ったらしい。確かに見た目は女と見違うくらいの容姿をしているが間違いなく男だ。
「何が違うっていうんです?」
「よく見ろよι」
 悟浄は云ってガクッと頭を垂れた。悟浄も一瞬見間違えたくらいだから仕方ないが、まさか八戒までも間違えるとは思っていなかった。
「コイツは男だ」
「………貴方、男にまで手を出すんですか?」
 完全に勘違いしている八戒に悟浄は嘆息した。
 だがしかし、これだけの口が叩けるならこの雨のせいで弱っている、という事はないだろう。
「とりあえず中に入れてくんない?」
 何で自分の家なのに遠慮しなくちゃいけないんだと思いながら云えば、八戒は鋭い表情のまま道を開けてくれた。
 中に入ればいい芳香がする。八戒が悟浄を待って料理を用意してくれていたのは確かだった。
「八戒、ベッド貸して」
「貴方のベッドを使えばいいじゃないですか」
「煙草の匂いすっから駄目」
 真剣な表情で云えば、八戒も漸く落ち着いてきたようだ。悟浄の前に回り込んで、八戒はギョッとした。
「この人、怪我してるじゃないですか」
「そーゆー事、悪ィけど医者呼んで来てくれるか?」
「分かりました」
 八戒は返事すると傘を片手に走っていった。その背中をジープが追いかけたから多分、すぐに戻ってくるだろう。
 悟浄はとりあえずと八戒の部屋のドアを行儀悪く足で開けて中に入った。
 綺麗に整理整頓された部屋の奥に設置してあるベッドにそっと身体を下ろす。布団は掛けずに横たえると刀をベッドの脇に置いて改めて確認する。
「……げ、こんなモンまで」
 腰に差してあった銃を見て顔を確認する。
「何者だ?」
 つい拾ったはいいが、面倒な奴だったら厄介だ。
「………………」
 そうは思うものの、もう厄介な奴を二人(一人と一匹)養っているのだから今更一人増えたところで問題ないと思い直した。
 幸い、部屋はまだ空きがある。
 咄嗟の判断で銃は抽斗の中に仕舞った。割れてしまった眼鏡も外して悟浄は風呂場に行ってタオルをありったけと盥に湯を用意した。
 それから冷蔵庫に氷があるか確認する。八戒の時も数日の間は高熱続きだったから、用意しておくに越した事はない。
「…………………」
 戻ってみれば死んだように失神しているのに眉を寄せた。
 悟浄は失礼と知りつつも身元を確認できるものを持っていないか探す事にした。
「……これって軍服って奴か?」
 しっかりした布地は身体を護るためのもので。それを引き裂くくらいだから相当の事があったのだろう。
 このままでは苦しいだろうと思って、ベルトを外して前を寛げてやれば、その怪我の凄まじさが見えた。抉れた肩に真っ赤に染まった腹、これで生きているのが不思議なくらいだ。
「………あ?名前か」
 軍服の裾に縫い込まれた刺繍は確かに名前だった。
「………テンポウ?テンホウ?どっちだ?」
 悟浄はそこに縫い込まれていた『天蓬』という名前に首を傾げた。まぁどうせ今読めなくても、聴かれる医者に聴かれるわけでもなければ必要なわけでもない。
 眼が覚めたら聴けば済む事だし、最悪八戒に聴けば分かる。
「死ぬなよ」
 折角拾ったのに死んでもらったら後味が悪い。見る限り妖怪ではないようだから生命力に不安はあるが人間は意外に死なないものだから。
「……頼むから」
 悟浄は云って天蓬の額に手を置いた。









 それから十数分後、八戒が医者と一緒に戻ってきた。
 その医者は以前に八戒が悟能と呼ばれていた時に診てもらった医者で、悟浄もよく世話になっていた。
 こんな深夜に呼び出したというのに嫌な顔一つしないでいてくれるのには感謝しないわけにはいかない。
「……またお前か」
「俺じゃねぇよ」
 やってきた医者は燈熔(ヒヨウ)という。正真正銘の人間で齢は悟浄たちより一回りくらい上だろうか。独身で世話好きのかなりのチェーンスモーカーだ。
「八戒さんが血相変えてきたから、てっきりお前だとばかり思ったんだが?」
 チラッと八戒を見つつ云う燈熔はポケットの中に入っていた煙草を取り出して顔を顰めた。ジープに屋根はないから全身ビショ濡れで。
 ならば当然ポケットの中にある煙草も濡れるわけで。
「……………チッ」
 湿気た煙草は使い物にならない。苛付いて煙草を握り潰す燈熔はそれをポイッと放り捨てた。
 悟浄が同じ事をすれば怒る八戒も燈熔がやれば文句も云ったりしない。それに悟浄は少しだけムッとした。
「怪我人拾ったんだよ」
「………またか」
「うるせぇよ」
 悟浄が物を拾ってくるのはよくある事だ。猫を拾っては飼い主探しを燈熔に押し付けたり、本を拾ってきて八戒に庭で燃やされたり。
「貧乏性にもほどがあるな」
 燈熔は嘆息して迷わず八戒の部屋に足を向けた。
「ご苦労さん」
「いいえ、まだ起きててくれて助かりました」
 普通なら寝ていてもおかしくない時間なのだ。八戒も起きているか不安になりながらドアを叩くとすぐに明かりが付いたのに安堵した。
「あの人は?」
「拾った」
「それは分かりました」
 八戒も今は落ち着いていてちゃんと悟浄の話を聴く姿勢を取ってくれた。悟浄もそれに息を吐き出してゆっくり言葉を紡いだ。
「お前とおんなじで、道に血塗れで倒れてたの」
「………僕と?」
「デジャヴだぜ……ったく」
 濡れたままの髪をかき上げるようにすると、八戒がすぐにタオルを持ってきてくれた。全部出したつもりだったのに、まだ仕舞ってあったらしい。
 悟浄は遠慮なくタオルで髪をガシガシ拭いて椅子に腰を下ろす。
「おいっ、悟浄っ」
「あぁ?」
 八戒の部屋から燈熔が声を掛けてくるのに悟浄はタオルを肩に引っ掛けたまま顔を覗かせた。どうやら服を剥いだところだったらしく、痛々しい傷が眼に映って悟浄は顔を背けた。
「湯をもっと持ってこい」
「………あぁ、分かった」
「後、氷もな」
 さっきまでが嘘のように真剣な顔をして指示を出す燈熔に悟浄は頷いて台所に戻った。燈熔の表情からもかなり危険な状態なのだと分かる。
 八戒の時もそうだった。それでも燈熔は助けてくれたから、今回も助けてくれるだろう。
「……八戒」
「はい?」
「湯……ありったけ用意して」
 悟浄が声を掛ければ、八戒はスッと薬缶を差し出してくれた。云われるのを承知で用意してくれていたのだろう。今は鍋をコンロにかけている。
「とりあえず今はこれだけです」
「サンキュ、後……氷」
「後で持っていきますよ」
 八戒が云うのに悟浄は先に湯を持って部屋に戻った。
 ドアを開けた途端に血の匂いが濃くなった。床には最初に用意してあった盥に手術用の器具が放り込まれていた。
「燈熔っ」
「その中に湯、入れろ」
 消毒のためだろう。悟浄は躊躇う事なく熱湯を注いだ。
「大丈夫そうか?」
「お前らが邪魔しなければな」
 八戒の時も邪魔しなかったのに燈熔はそう云う。悟浄も手出しをする気は毛頭ない。いくら半妖怪と云っても、こういうのは別問題だ。
「悟浄、氷……」
「それはこっちだ」
 八戒が来たのに燈熔は自分の方に持ってこいと命じた。八戒も今の有様に眉を寄せている。
「後、何か必要なモノは……」
「あったら云うから、出てろ、邪魔するな」
 命じる燈熔に悟浄と八戒は顔を見合わせて部屋を出て行った。
 リビングに二人で戻って深く息を吐き出す。悟浄にとっては二度目の経験とはいえ、様子が違う。
「とりあえず貴方はお風呂に入ってきますか?」
「おー」
 悟浄は云って自分の部屋に着替えを取りに戻り、そのまま風呂に向かった。











 敖潤には理由を話して、天蓬不在が他軍に漏れないようにしてもらった。これには金蝉も力を貸してくれて、全く分かっていないくせに毎日西方軍の執務室に詰めてくれた。
「………少しは落ち着け、捲簾」
「そうは云うけどよ」
 金蝉に書類業務を任せて捲簾はソファーに腰を下ろしていた。組んだ足を貧乏揺すりして、さっきから煙草の消費量が半端じゃなく多い。
「ババァが調べてるんだ、すぐに見付かる」
「………………」
「あんなでも一応は天下の菩薩だ」
 普段は嫌がっているクセにこういう時は何よりも信頼している金蝉に捲簾は驚かされた。そして観世音もまた、協力を惜しまないでいてくれる。
 天蓬が金蝉の幼馴染みで唯一の親友というだけでないのかもしれない。
「アイツ……怪我してるかな」
「……………」
「生きてるよな」
 ガラにもなく弱気になっている捲簾に金蝉は立ち上がるとその胸倉を掴み上げた。非力そうに見えるのにグイッと持ち上げられて捲簾は抵抗するのを忘れていた。
「歯ぁ食いしばれ」
「え?」
 金蝉が云ったのに捲簾は構える事も忘れて眼を見開いた。



 ――――ドカッ



 頬が熱い、と思った次の瞬間、捲簾は吹っ飛ばされていた。ソファーのところにいたのに吹っ飛んだ先は出入り口のドア。
 凄い音が外にまで聴こえただろうけど、躾の行き届いた西方軍では誰かが飛び込んでくる事もない。
「痛ぇ」
「テメェ、頭沸いてんのか?」
 吹っ飛ばされた捲簾の前に仁王立ちする金蝉。その形相は切れ長の眼に長い金髪も手伝ってかなり怖い。
「あ?」
「お前が天蓬の無事を信じないでどうする」
 静かな低い声に金蝉がどれだけ怒っているのか分かった。金蝉は捲簾より天蓬との付き合いが長い。捲簾の知らない顔も知ってるだろうし心配する気持ちも生半可ではないだろう。
「お前がしっかり構えてないと部下たちも不安になるんじゃねぇのか?」
「…………………」
「テメェは西方軍の大将だっての、忘れんじゃねぇ」
 それだけの重責に就いているのだから個人の気持ちを抑える事だって大事なのだ。そんな大事な事をまさか軍とは関係のない金蝉に指摘されるとは思わなかった。
「…………天蓬の事はババァに任せておけ」
「金蝉」
「ババァが上手くやってくれるから」
 さっきとはうって変わって優しい口調になった金蝉に捲簾は笑みを浮かべた。今までウジウジしていたのがバカみたいに思える。
「だな」
 いつもの捲簾に戻ったのに金蝉もホッと息を吐いた。
「連絡が来るまで、俺が落ち込んでても意味ねぇよな」
「……っていうか、今のお前を見たら天蓬が拗ねそうだ」
 それはある意味最恐だ。以前に天蓬を怒らせて拗ねさせた時、二週間も口を聴いてくれなかった。拗ねさせたらとにかくしつこいのが天蓬だった。
「うわっ、怖っ」
「天蓬が見付かったって連絡来たら、すぐ動けるように用意しとけよ」
「おぅ」
 捲簾は云って、両頬を叩くと勢いを付けて立ち上がった。裾の埃を払うように叩くと大きく伸びをする。
「サンキュな」
「ふんっ」
「いいとこあんじゃん」
「テメェが腑抜けだと調子狂うんだよ」
 金蝉はそう云って背を向けたが、耳は紅くなっていた。捲簾はそれには触れずに腰を数回叩いた。






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09/10/18