「僕、階段から落ちたんですか……一体何をやっていたんでしょう」 捲簾が去っていくのを見送ってから一人、病室に戻った八戒は、ギャッチアップされたベッドの上でぼんやり外を見ていた天蓬が自分の方を向いたのを見て優しく微笑んだ。後ろでにドアを閉めて、頼りない目をする兄の横の椅子に腰掛ける。そして安心させるようにその手を握った。その指先は緊張していたせいか、僅かに冷たかった。そして暫く視線を彷徨わせていた天蓬が言ったのがその言葉だった。 「さっきの、助けて下さった方は?」 「今お帰りになりましたよ。大事にならなかったと聞いて安心していました、優しい人たちでよかったですね」 しゃあしゃあと言ってのける自分が可笑しかった。嘘ばかりだ。彼らが安心していたかどうかも分からない。優しい人たちなんかじゃない。何もかも正反対のことばかりだ。しかし彼は何も覚えていない、都合よく彼の記憶を操作出来るならそれでいいと思っていた。不安げな顔をする彼の手をそっと擦ると、少し落ち込んだような顔をした天蓬は小さく溜息を吐いた。 「本当に……そういえばお礼きちんと言えませんでした……」 「大丈夫ですよ、僕が代わりにきちんと。それに今は天蓬はちゃんと休まないと……」 そう言った途端大きな音が響いて、八戒と天蓬は顔を見合わせた。それに続いてバタバタと近付いてきた足音に、慌てて八戒は椅子から立ち上がった。しかしすぐに顔を出したその足音の主にほっと力を抜く。光を弾く金糸は風に乱れ、息もかなり荒れている。相当慌ててここまで来たのだろうということが窺えた。いつも仏頂面ばかりで走ることなどせず、取り乱すことも稀な彼が、こんなにも慌てているのは、珍しい。それも皆、天蓬に何かがあったと思ったからだ。 「金蝉ですか……」 「天蓬は無事なのか! お前はいつもぼやぼやして空ばかり見ているからそういうことになるんだ、大事には至ってないんだな!?」 最後の方は八戒に向けて一気にまくし立てた金蝉は、ただでも息が荒れていたというのに一気に長い台詞を口にしたものだから余計に呼吸が苦しくなったようで、膝に手を突いて肩で息をしている。しかしそうして呼吸を整えているうちに、いつもは口が達者な幼馴染から何の返事も得られていないことに気付いたのか、怪訝な顔をして身体を起こした。当人の天蓬はと言えば、少し戸惑ったような顔で八戒に救いを求めるように繋がれた手を握った。その反応に、まさか、と八戒は眉根を寄せる。 「……金蝉のことも、覚えていないんですか?」 「覚えてないって、何のことだ」 あの二人のことだけ都合よく忘れるなどということはやはり有り得なかったようである。八戒の手を握り、困ったように金蝉を見上げている天蓬はふざけているようにも思えない。八戒は(面倒なことになった)と歯噛みしながら、先程まで座っていた椅子を金蝉に勧めた。よろよろとその椅子に腰を下ろした金蝉は、まじまじと天蓬の顔を眺めている。いつもの天蓬ならそんなことも慣れているだろうが、今の天蓬は見知らぬ人間にじろじろと眺められているわけだから内心は穏やかでないはずだ。八戒の手を握る手にも力が篭っている。 「天蓬は今のところ、僕のことしか覚えていないんですよ。あなたのことも、覚えてないみたいですし」 「何……?」 金蝉の荒い物言いは、突然知らない世界に放り込まれた状態の天蓬には怖いものに思えたようだった。不安そうに身体を縮込める天蓬の頭を撫でて「大丈夫ですよ」と声を掛ける。まだ戸惑ったように金蝉と目を合わせようとしないその様子は、金蝉にとってはショックに違いない、と八戒はその蒼褪めた横顔を見て思った。 「この人は僕らの幼馴染です。天蓬とは同い年で、赤ん坊の頃から一緒だったんですよ。今も同じ大学に」 その言葉で、漸く天蓬はそろりと顔を上げて恐る恐るといった様子で金蝉の顔を窺い始めた。それまで蒼褪めて厳しい表情をしていた金蝉も、そんな天蓬に向かって努めて平静を装ってみせている。 「赤ん坊、から、今までですか……? コンゼン、さん」 そんな他人行儀な物言いは天蓬らしくない。一瞬金蝉も傷付いたように眉根を寄せたが、すぐにその表情を消して頷いてみせた。 「『さん』はいらん、呼び捨てでいい。もう二十年も一緒にいるんだ、遠慮も必要ない」 そう言われて、暫くじっと金蝉を見つめていた天蓬は、徐々に気を許したのか表情を緩めて微笑んだ。その笑みは今までに見たどんな微笑みよりも力なく、弱々しいものだった。八戒の手を握る手に入っていた力は徐々に緩んで、するりと天蓬の手は八戒から離れていった。その手はきつく握り締められて、指先は白くなっている。 「……不思議ですね。あなたみたいな綺麗な人とお知り合いなら、覚えていそうなものなのに」 微笑んでいるのに。言葉も冗談混じりなのに、その裏に潜む彼の混乱や辛さが滲み出しているようで、八戒は掛ける言葉を持たなかった。そのまま、病室に静かな空気が流れ始める。その沈黙をそっと割くように口を開いたのは金蝉だった。きつく握り締められたままの天蓬の拳の上に、白く大きな手が乗せられると、弾かれたように天蓬は顔を上げた。 「ゆっくり思い出していけばいい。思い出せないなら、もう一度知ってくれればいい」 低く、静かな声を聴いて天蓬はゆっくりと瞼を上下させた。そしてその泣き出しそうな表情が、そっと微笑みに変わるのを魔法を見るような思いで八戒は見つめていた。金蝉の手に包まれた天蓬の拳はゆっくりと緩み、強く繋がれる。 「変な人」 そう言って天蓬は笑い、金蝉を見つめて、もう一度声を出して笑った。 いつも、天蓬に本当の微笑みを与える人間は限られていた。 それが自分でないことも、知っていた。 あんな男に天蓬を一瞬でも渡したことを一生悔やむだろう。自分が幸せに出来ないのなら、最も彼を幸せに出来る優しい人へ。 いつだって笑っていて欲しいから。 |