病院の中庭をゆっくりと歩きながら、金蝉は何も口を挟まず静かに八戒の話を聴いていた。話が終わったあとも暫く口をきかずに何か考えている様子だったが、そのうち大きく溜息を吐いてそのきらきらとした金糸を掻き毟った。彼はその美しい髪にあまり頓着しない。それを一番残念がっていたのは、兄だった。大好きだったその細くて艶やかな絹糸も思い出せなくなった兄は今頃、ベッドの上からぼんやりと夕焼け空を眺めているだろう。
「原因はやはり、あの兄弟か……」
「怪我の功名と言ったら何ですが、あの腐った関係を今回のことで清算出来たのなら天蓬にとってもプラスだったと思います。いつまでもあんな無理が利くはずがないんだ、いつか、どんなかたちであれ壊れることは決まっていたんですよ。こんな、天蓬だけが傷付くかたちを取ったことは最悪のパターンだったとは思いますが」
そう言う八戒を静かに見つめていた金蝉は、複雑そうな表情で視線を彷徨わせ、今日何度目かも分からない溜息を吐いた。夕空に溜息は消え、複雑な気分を持て余しながら金蝉は隣を歩く学生服の少年を見下ろした。兄によく似た端整な顔立ちは、仮面のように表情を動かさない。
「金蝉は大学も一緒でしょう。フォローお願いしますね。ひょっとしたら大学の場所も分からないかも知れませんから」
「ああ……でも、いいのか」
そう問い掛けると、八戒は不思議そうに首を傾げた。そのきょとんとした表情はまだ初な高校生に違いはないのに、ふとした瞬間に見せる、子供らしからぬ表情が金蝉には怖かった。それが天蓬には分からないのか、それとも八戒が意図的に天蓬の前ではそういった表情を封じているのかは分からない。天蓬は自分の弟が普通の優しい少年だと疑いもしていないだろう。金蝉だってそう思っていた。たまに覗く少し怖い面もあったけれど、それは兄にも共通するところだったので深く考えはしていなかった。それに違和感を覚え始めたのは、一年程前からだった。丁度あの男が天蓬と交際を始めた頃。八戒は元からブラコンの気があるように思えたし、八戒があの男と仲が悪いのも、兄を取られてつまらないという感情から来るものだと軽く思っていた。しかし今考えれば、その時から彼の胸に仄暗い感情は息づいていたのだろうと思う。
病院へ慌てて入って行った時、丁度階段から下りてきたあの男とすれ違った。彼も見舞いに来たのだろうと声を掛けたが、彼は何かに憑かれたように真っ青な顔をして視線すら金蝉にくれることなく階段を下りていった。確証はない、しかし彼をあそこまで憔悴させたのが今隣にいる少年であろうことは間違いなかった。
(何をした、と、聞くのは野暮か)
あの蒼褪めた顔を見れば、どれだけ精神的に打ちのめされたか分かるというものだ。八戒のすることだから生半可なものではないであろうことも想像出来る。しかし彼が天蓬にしたことを思えば、あまり同情する気にもなれないのも事実だった。揉み合いになって階段から落ちたのならば天蓬の不注意だ。しかし、揉み合いにならなければ、喧嘩をしなければ、そもそもあの男と付き合いなどなければ、こんなことにはならなかった。事実を手繰り寄せるようにそう考えれば、先程覚えた僅かな同情は夕闇に溶けて消えた。
天蓬と彼が付き合い始めた時、八戒が猛反対していたことを思い出す。この事件と重ね合わせれば、八戒はひょっとしたらこうなることを知っていたのではないかと思えてしまうのだった。いつか天蓬が傷付いて、最悪の終わり方をすると知っていたのだとしたら。
「ねえ金蝉」
考えに沈み込んでいた金蝉は、突然八戒から声を掛けられて慌てて顔を上げた。にっこりと微笑む顔は、幼馴染である彼の兄の幼い頃にそっくりの愛らしいもの、しかし今の金蝉には、純粋に可愛いとは思えなかった。
「何だ」
「僕、あなたになら天蓬を取られてもいいと思っているんですよ」
あなたなら大事にしてくれると思ってるから言うんです、と続けて、八戒はにこりと微笑んだ。微笑んでいるものの、その眸の奥は凍て付くように冷たかった。本当ならこんなことを言いたくはないのだろうと悟り、何も反応出来ずにいると、彼の方が先にすい、と視線を逸らした。それを珍しく思っていると、再びばっと顔を上げた。
「本当はこんなこと言いたくありません、僕が天蓬の弟じゃなかったらこんなこと言わなかった。だけど、弟である限り、僕では天蓬を幸せにしてはいけないでしょう。他の人間に渡すくらいなら……あなたに大事にして欲しいんです」
「……」
「好きなんでしょう、天蓬のこと」
その目には、苦しさの向こうに悔しさが窺えた。血の繋がった弟でなければ、自分が幸せに出来た。そんな痛ましいほど強い感情が溢れていて目を逸らしたくなる。しかし今が、目を逸らしてはならない時だと分かっていた。彼の方へと体の正面を向けて、真っ直ぐその目を見下ろす。ああ、泣き出しそうだと思った。泣く寸前の天蓬も、昔はよくこんな苦しそうな表情をした。長い間見ていなかった彼の泣き顔を見るようになったのは、そういえば一年前からではなかったか。小さい頃から、彼の泣き顔を見る度に二度と泣かせるまいと心に決めていたのではなかったのだろうか。今の今まで放っておいて、今更彼に手を差し伸べる権利があるのか、と一瞬躊躇いが出た。しかし今それを拒否してしまえば、目の前の少年が泣いてしまいそうだった。もう、この顔が悲しみに歪むのは見たくないのだ。
「……ああ。小さな頃から、ずっとだ」
「二度と、……天蓬が泣くようなことがないように、して下さいね」
泣きそうな表情を歪めて、無理矢理に唇を笑みの形にしてみせる少年が痛々しくて、金蝉は彼の頭に手を乗せて、無理矢理に下を向かせた。夕焼けに照らされる、涙で一杯になった眸を見ていられなかったのだ。
そして窓辺のベッドで、今も一人空を眺めているであろう彼の元に、早く帰ってやりたいと思った。
色々あって捲簾・悟浄と喧嘩をして揉み合い階段から落っこちて記憶を飛ばした天蓬の話。事情は伏せたのでお好きに昼メロっぽく想像して下さい。
思い付きの話なので深く考えないのが吉。書きたいシーンだけ書いたので断片的。 2007/10/09
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