こんなことになるとは思わなかった。こんな、取り返しのつかないことになるはずではなかった。 蒼白になった瞼から流れる睫毛がふるりと震え、静かにゆっくりと押し上げられる。その眸は何度かゆったりと瞬きながら漸く事態を飲み込んだのか、自分を覗き込む何人もの顔に驚いたように目を見開いた。そして戸惑ったようにその視線は彷徨い、眼鏡を掛けた男を見つけて安心したように吐息を漏らした。 「……八戒、こちらの方々は……どちら様、ですか」 白い部屋、白い寝具に包まれた中、真っ青な顔をした天蓬は、絞り出すような声でベッド脇の椅子に腰掛けていた弟に問い掛けた。 こんなことになるなんて、思いもしなかった。頭からすうっと血が降りていく感覚が分かって、冷えた指先が震えるのを、掌の握り込んで堪えた。隣に立つ悟浄の顔色が真っ青になっているのが分かった。きっと自分も同じような顔色をしているのであろうことも。 ベッドの脇の椅子に腰掛けて、天蓬の手をずっと握っていた八戒もまたその発言に言葉を失っていたが持ち前の順応能力ですぐに事情を飲み込んだようで、兄を安心させるようにいつもの穏やかな笑顔を浮かべて、「もう、心配したんですよ」と優しく声を掛けた。しかしその優しい声で、続けて紡がれる想像もしていなかった言葉に、冷えた指先から凍て付いていくような思いがした。ぐらりと世界が揺れて、ぼんやりとベッドから向けられた、天蓬の、見知らぬ人を見るような目に射竦められる。他意はないのだろう、しかし今の捲簾には、その目の奥に、眠らされた記憶の中の天蓬が憎悪の念を向けているように見えたのだ。一歩退きたい、それなのに、凍り付いたように足が動かなかった。 (そんな目で、見るな、見るな……!) 「天蓬が階段から落ちたのを目撃して、病院に連れて来て下さった通りがかりの方ですよ」 その後すぐに担当医師が部屋を訪れ、一旦三人は部屋を出された。最後に部屋を出た八戒はドアを閉め、廊下で手持ち無沙汰に立ち尽くす二人を睨み付けた。その視線に嫌な顔をすることも、睨み返すことも出来ないのは、二人ともその心の中に疚しい部分を持っていたからだ。その冷たい眸を直視することも出来ずに俯く二人を憎悪の篭った目で見つめる八戒は、ここが病棟の廊下でなかったら叫び出したい気分だったのだろう、低く、押し殺した声で言った。 「――――帰りなさい。見舞いなんて来なくていい、二度と天蓬の前に姿を現さないで下さい」 そう言った途端、八戒の背後のドアが開き、中から医師と看護師が退出してきた。そして一見して身内だと分かる八戒に二言三言話をした後、軽く会釈をして去っていった。その背中に深々と頭を下げていた八戒は、彼らが角を曲がり姿が見えなくなると頭を上げて、再びその冷めた目を二人に向けた。(いつまでそこにいるんだ)と言わんばかりのその目には明らかな侮蔑の感情が込められていた。 「あなたたちがしたことだけでも最低の行いなのに、こんなことで……天蓬は命まで落とすところだったんです。階段から落ちたのはあなたたちのせいじゃないことくらい僕だって分かります。だけど、あなたたちがあんなことしなかったら天蓬と喧嘩になることもなかった、天蓬と揉み合いになって、天蓬が階段から足を踏み外すことだってなかったでしょう!」 この場が病院であるという自制が切れ始めたのか、声を荒げてそう言った八戒は、一旦冷静さを取り戻すように大きく息を吐いて顔を逸らした。その目は、閉ざされたドアに向けられている。しかしその横顔は俄かに笑みを取り戻した。それは穏やかな人を和ませるそれではなく、背筋に寒気の走るような微笑だった。 「あれは、好都合でしたね。あなたたちのことだけ忘れているのなら尚いいのですが。どちらにしても……僕を覚えているなら問題ない」 そう言って八戒はすっと目を細めた。「帰って下さい」、と繰り返される言葉とその目は逆らうことを許さず、その無言の圧力に押し出されるように、まず先に悟浄が病室に背を向けた。その場の空気に耐え切れぬようにその歩く速度は速くなり、最後には半ば駆け出すようにして階段の方へと走っていった。それほどに八戒の目には憎悪しかなかった。しかもその顔が兄である天蓬に瓜二つであることが、怯えを加速させた。まるで、天蓬が自分に向かって憎悪をぶつけてきているようで、怖かったのである。 その目に抵抗をして何とか身体を押し留めていた捲簾も、とうとうその圧力に屈し、静かに八戒に背を向けようとした。 「あなたが罪悪感を持つことはありませんよ、捲簾さん。あなたを選んだ天蓬の見る目がなかっただけなんですから」 かっとして反射的に振り返る。穏やかな笑顔を浮かべて静かな廊下に立った学生服姿の少年は、こうして見ればただの優しい表情をした品行方正の優等生としか思えない。その微笑みが天蓬のそれに重なって、ぞっとする。そしてその微笑みが一瞬にして嫌悪の感情で一杯になるのが怖くて仕方がなかった。記憶の奥底に沈められた天蓬の憎悪が、弟に乗り移ったのではないかと思うほど。 「あなたも安心したでしょう。本当は怖かったんじゃないですか? 目が覚めた天蓬に侮蔑の目を向けられるのが、憎悪の言葉を叩き付けられるのが!? ……違いますか、自分たちのことを一切覚えていなかった天蓬に、安堵しなかったと言い切れますか?」 次々に叩き付けられる屈辱的な言葉に、しかし何一つ言い返すことが出来なかった。その理由を考えることすら怖くて、その笑顔から逃れるように八戒に背を向けて歩き出した。しかし尚も容赦なく背中に突き刺さる言葉の一つ一つが頭に染み付いて離れない。背後に立つ少年が、慈愛に満ちた微笑を浮かべているであろうことが想像出来て、ぞっとした。 「さようなら、二度と会うこともありませんね」 |