唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
後の山に棄てましょか


 久しぶりに訪れた友人の住まう山間に位置する町は、五年前に訪れた時と同じく異様な空気に包まれていた。元々良い噂など十に一つもありはしない町だ。正直なところ長逗留したいとも思えない。宿で一人夜を明かすことすら気の抜けない町だ。彼に用事がなければ彼の家に泊めて貰い、明日の朝早くには町を出ようと決めて関を通り過ぎた。他所の者が足を踏み入れると、この土地の者は一瞬にして目の色を変える。あちらこちらからこちらを窺う視線やひそひそと噂する声がするが決して振り返ってはならない。不用意に視線を合わせてはならない。これは、今までに何度も面倒事に巻き込まれた度に身を以って思い知った教訓だった。真っ直ぐに前だけを見てただひたすらに待ち合わせている友人の住まいを目指す。彼の住まいは長屋の一角、なるべくなら近寄りたくない区域だったが、こちらから用を頼んで押し掛けているわけだからそういうわけにもいくまい。
 ざわざわと賑やかな町。ただ普通と違うのは、あちらこちらから投げ掛けられる色めいた視線の数々だった。さして珍しいことではない。しかし問題なのは、その相手が男衆ばかりということだった。寒気を堪えつつ、周囲からの圧迫感に耐えて捲簾は歩き続けた。身体が無意識に震えるのだけは抑えられなかった。立ち止まればきっと歩き出せなくなってしまう。
「捲簾!」
 掛けられたそれは懐かしい声。緊張を解いて顔を上げれば、五年前から何ら変わりないように思える友人の顔だった。相変わらずぽっちゃりとしているせいでまるで歳を取ったようにも思えない。昔から変わらない幼い顔に思わず顔が緩んだが、いつもの調子で走ってくる彼に嫌な予感を覚え、自分に走り寄ってくる彼を制するように掌を前に突き出した。一秒遅れていればそのまま抱きついてきたであろう彼はそんな捲簾の仕草に、悪戯を窘められた子供のように頭を掻いて笑った。
「相変わらずだなお前はァ」
「そっちこそ。……俺だって五年振りに逢った友人と再会の抱擁をするのは吝かではない。それがこの町でなければな」
「分かってるさ。お前はこの類の人間に目を付けられやすい、中に入りな。他のモンは今皆出てるよ」
 彼が促したのは長屋の一番角だった。四方八方から向けられる視線に耐え兼ねていたところだったので、その申し出に飛び付き、彼を急かすようにして長屋の中に足を踏み入れた。簡素な室内だったが、それでも興味の視線から解放されたことで漸く捲簾は大きく溜息を吐いた。そんな捲簾を見て、友人は声を立てて笑う。
「笑うな」
「いや済まない。しかし、お前のそれは相変わらずだなァ、やはり軍隊などに入るからそんなことになるんだ」
「だろうな。自分自身勿論経験はない、しかし隊内のあちらこちらで日常的に行われるそれが俺にはどうにも理解出来ない。お前のことを否定するつもりはないがな、どうしても、それらのことには神経質になってしまう」
 彼は同性愛者である。それを知ったのは彼と自分が軍士官学校の同窓の友であった頃だ。嫌悪がなかったわけではないが、特に親しくしていた彼をその理由だけで切り捨ててしまうことが出来なかった。それは自分の利己である。しかし彼はそれでも良いと言ってくれた。彼と自分の間には恋情はない。だからこそこうして、長い間壊れることのない友情を築き上げてこられたのだ。
「そういう人間がいることは、この町の誰もが知ってることさァ。こちらに入ったばかりの連中はそういう奴等に反抗するけどさ、俺らみたく長い間こうして過ごしていれば自ずと、慣れてくるもんさァ……気にするもんじゃない、お前が悪いんじゃないんから」
 そう言って茶を出してくれる彼に謝意を述べて、湯呑みに口をつける。一口飲んで溜息を吐いた後、漸く身に纏っていた外套を脱いだ。この町ではおちおち外で薄着になることも出来ない。友人との再会を喜んで抱擁することも躊躇われる。不用意に呼び込みをしている男と目も合わせられない。自分のする行為の何が、彼らにとっての「同意」と取られるか分からないからだ。いっそ自分がこういった偏った思考を持ち合わせているのだと看板を下げて歩きたいほどだが、この町でそんなことをするのは馬鹿らしいというものだ。あちらこちらから物を投げられ、罵声を浴びせかけられて終わりだ。この町は、そういう町なのである。
 立ち並ぶ宿というのも、男衆が睦み合うためにあるものが主だ。一人で泊まるものなどそういない。いたとしても、夜間の平穏は保証されない。二、三、娼婦のいる館もあるが、他の宿に比べて宿代が格段に高いのである。高い金で夜の安心を得るか、安い金で眠れぬ夜を過ごすかは旅人たちの自由である。
「うちの奴は今晩帰って来ないから泊まってきな。布団もちゃんと干したし、清潔にしてあっからさ」
「悪いな、気を利かせてくれたんだろう」
 彼の言う「うちの奴」とは彼の恋人のこと、勿論男である。気の良いその恋人は、捲簾の話を彼から聞いているのか時折捲簾が泊まりに来る度気を利かせて夜は家を空けてくれる。こうして優しさに触れる度に自分がどうしても嫌悪を抱いてしまう対象へ申し訳なさを感じてしまう。同性愛者が皆悪い人間であるわけではない、自分に関わりのないそれであってもそれを許容出来ない自分が狭量なだけなのだ。それを彼もその恋人も、捲簾が悪いのではないと笑ってくれる。それが、嬉しいのに哀しくてどうすることも出来なくなってしまう。
「いいや、今晩は本当に仕事でさァ。お前が前に来てからすぐかね、大通りに新しい宿が建ったんよ。それがなかなか、評判でさ。力仕事もあるらしくて、たまに借りられていくんよ」
「へえ……どんな宿だよ」
 そう訊ねると、自分のための湯呑みを持って戻ってきた彼は、どっしりと捲簾の前に腰を下ろしてから笑った。
「唄鳥の館って、評判さァ」
「……ウタ、ドリ?」
「ああ、日が暮れ掛かったら少し見に行ってみるかい。丁度競の始まる頃だ」
 彼の言う言葉は全て飲み込めなかったが、何となくの意味は分かった。そんなものは見たくない、という嫌悪感と、興味とが拮抗して捲簾は返事をすることが出来なかったが、彼は意味ありげににっこりと笑った。
「お前も考えるところがあるかも分からんよ」

 この町へ来た本当の目的はものの数分で済まされた。それが終わってから五年間の空白を埋めるように絶えぬ会話をしていると、そのうちにゆっくりと長屋にも赤い夕焼けが差し込み始めた。山間の町は、闇が迫るのが早い。真っ暗闇になってしまう前にと灯りをともし始める彼を手伝っていると、通りの宿にもぼんやりと灯りがつき始め、妖しげな雰囲気を纏い始める。
「そろそろ行こうか。あまり遅くなると何も見られなくなる」
 正直なところ躊躇いはあった。しかし、捲簾の異様な程強烈な嫌悪感を理解していて、いつもなら決してこんなことを勧めるはずのない彼がそう言うのだから何か意図があるのだろう。そう考えて、捲簾は嫌々ながらも腰を上げた。

 月の明るい夜道を並んで歩くのは久しぶりだ。いつも軍の宿舎で黒ずんだ天井を見上げて過ごす夜とは違った解放感に伸びをすると彼はおかしそうに笑った。そうすると僅かに目元に皺が出来て、やはり彼も自分も歳を取ったのだと実感した。彼は珍しく鼻唄を歌っている。珍しいことだ、と思いつつその音色に耳を傾ける。何の曲だったろうと思いを巡らせていると突然声を掛けられた。
「唄を忘れたかなりやは、って知ってるかい」
「あ……ああ、童謡だろう」
 突然の言葉に目を瞠りつつもそう答えると、彼はうんと頷いて空を見上げた。その目は月の光を受けてきらきらしている。昔から、何の穢れもないような、赤子のような純粋な目をする男だった。
「かなりやはどうして唄を忘れたと思う。いや、本当に忘れたんだと思うかい」
 突拍子もないそんな言葉に捲簾は返す言葉が見当たらなかった。そのまま何も言い返せずに彼の目を見返すが、彼は軽く肩を竦めただけだった。彼らしくないその態度に焦れつつも、二人の向かう先にぼんやりと光の灯った広い場所があるのに気付いて顔を上げた。
「あそこだ――――――唄鳥たちの棲み処さァ」

 くらくらした。目の前に広がる光景はまるで、トーキーの中の世界のようだった。つまり、それだけ現実感を伴わない。その広場には一畳ほどの広さしかない檻が幾つも並んでいる。その中にいるのは、彼の言う「唄鳥」ということなのか。他の人間にはそう見えているのだろうか。しかし捲簾の目に映るそれらの唄鳥は、どう見ても人間だった。
「前に立ってる男が、その唄鳥の主人さ。そいつに交渉して、一晩飼う。それがこの商売の基本なんだ」
 ふらりと歩き出す捲簾に、友人はついてこなかった。その彼を置いたまま、ふらふらと捲簾は、並べられた檻の前を歩く。女もいれば、男もいる。項垂れたように檻の中で座り込んでいる者もおれば自分を売り込むように歌声を響かせているものもある。いつもなら避ける視線も、避けることなく見つめ返してしまった。それで、捲簾が自分を買ってくれるのかと思ったのか期待に輝いた眸は、捲簾がそのまま呆然と目を逸らしたことに失望の色を浮かべた。しかしその目はすぐに通り掛かりの別の人間へと媚びるように向けられる。
 そのままゆっくりと檻の並ぶ前を歩く。あまりに非現実的だった。こんなことは、許されることではない。
 そんな風に呆然と歩いているうちに、檻の並ぶ列を漸く過ぎたようだった。喧騒と灯り、唄鳥の歌声から逃れるように広場を出る。そしてそのままその場にしゃがみ込んで頭を腕で抱きかかえた。これは夢だろうか。友人と思っていた彼は別人で、自分は化かされているのだろうか。そう思いながら痛み始める頭を押さえていると、広場から少し離れた草むらから鋭い何かを打つ音が聞こえるのに気付いた。怖いものなどなくなっている状態の捲簾は、ゆらりと立ち上がり、その草むらを覗いてみることにした。
 聴き覚えがある。あれは、鞭の音だ。

 唄え、唄え、唄え、と低い声に重なるように、酷く耳障りな鞭の音が草むらの中に響き渡る。ふと、友人が先程一人唄っていた童謡の一節を思い出した。遠い記憶の向こうから、長い間聴いていなかった唄が思い出されてくる。
(唄を忘れた かなりやは 柳の鞭で……)
「随分な目をするじゃないかぇ……食い扶持にもならぬような唄鳥など、今この場で首捻り殺しても構わんと言付かっているのだからな」
 どすのきいた声の後に、鞭の振るわれる音が続けざまに二度響いた。暗がりの中に大きな背中が一つ。その目の前には、戸の開かれた檻が一つある。その中に、暗闇の中でもほわりと白く浮かびあがって見える「唄鳥」がいた。白い着物一枚で包まれたその身体からは多少出血しているのか、所々に赤い染みが浮かび上がっている。抵抗する気もないのか、檻の前で小さく身体を丸めた子供は、じっと自分の腕で傷を押さえ、その暴力に耐えている。
「可哀想な子だろう、まだ十四だ」
「お前……いつの間に」
 軍人である捲簾すら気付かぬうちに背後に立っていた友人は、視線を向こう側の唄鳥に固定したまま言葉を続けた。
「この町が少しおかしくなったのは、五年前に奴らがここに根を下ろしてからさ。こんなことはおかしいと誰もが分かってる。辞めなければならないと分かってる。しかしこれを政府に摘発されたら困るから、おかしいと分かっていて町ぐるみで黙ってるのさ」
「困る……? どうしてこの町の者が困るんだ、職にあぶれるからか」
「違うな。奴らはもし政府の手がこの町に伸びたら全ての責任をこの町の人間に押し付けて金だけ持って逃げるつもりでいるんだ。ただでもこの町は中央からいいように思われていないだろ、怖いのさ。居場所を追われるのが」
 そう言いながら、彼の視線は今も鞭で打たれている唄鳥から離れない。その時捲簾はあることに思い至った。
「お前、そのために俺をここに誘ったな」
「あの子だけでも助けてやりたいんだ。俺は、この町の住人である限り手出しが出来ない」
 自分たちに危険が及ぶかも知れないのに、その唄鳥を救うことを願う彼に違和感を覚えた。どうしてそこまでの思い入れがあるのだろう。ほんの十四の子供に。途端に嫌な想像をしてしまい、いつもの発作が起こる。手が震える。それでもしゃがみ込むのを堪えられたのは、鞭で打たれながらも気丈に顔を上げ続けるその唄鳥のことが気になったからだった。
「……お前は、あの子を知っているのか」
「日中は唄鳥の世話をする仕事もやってるからさ。碌な食事も与えられずに鞭で打たれて唄え唄えと急き立てられる。あんな綺麗な顔をした子が何でって、皆言ってるよ。どこから連れて来られたものだか分かりはしないってさァ……だけど少しでも詮索したり口答えしたりすればただではおかれないから、皆黙って言いつけ通り従うしかないんよ」
 そう言う彼の話を黙って聞く。しかしそれは頭の半分も占めてはいなかった。頭の大半を占めていたのは、目の前の少年の身体に、一度音が響くたびに増えていくだろう傷のことだった。駆け出して、その男の身体を蹴り倒したくなる衝動を必死で堪えていたのだ。しかしそれも限界に近付くと、(何故堪える必要がある)という考えが頭に芽生え始めた。今、外套の下には軍服を着ている。男の前で外套を脱いでみせればどんな反応をするかは考えるまでもない。そう考えた途端、捲簾は隣の友人を放ったまま歩き出していた。背丈の高い草を踏み分けて歩く足は段々と加速していく。草を掻き分ける音に気付いたのか、鞭を振るう手を止めた男は不審そうな顔をして振り返った。その横面を蹴り倒すと、つい一秒前まで男の立っていた場所に立って、開いた檻の中を見下ろす。白い頬に大きく赤い鞭の痕が横切っているのを見て、横で無様に倒れている男に対して残虐な感情がうまれた。
「何だッ……貴様は……!」
 物騒にも短刀を抜いてこちらを睨み上げてくるその男の横面は赤く腫れている。無様な、と笑いながら外套の前をはだけてみせた。軍服に付けられた徽章がぼんやりとした月の光を弾き、その光とその意味は目の前の男にも届いたはずだった。
「政府軍の中央本部所属、捲簾と言う。位は大尉だ。どんな理由があれ、子供に対する暴力は見過ごすことは出来ん」
「軍……」
 そう呟いたきり、男は怯えたように唇を凍らせた。直接軍の者に見つけられるとは思ってもみなかったのだろう。軍の人間に対して刃物を向けていることに漸く気付いたのかそれを自分の身体の後ろに慌てて隠した。
「その……この子供は」
「見苦しいな。命乞いをする暇があるのなら子供の手当てでもしたらいい」
 そうは言っても、つい先程まで躊躇いなくその子供を傷つけていた手で一時的に施される手当てなど何の意味も成さないだろう。きっと自分がいなくなった後にはすぐにその包帯は解かれ、傷の上から傷を深めるように折檻を受けるに違いないのだから。見下ろしたその子供は、遠めに見るよりもずっと細く見えた。白い着物で何とか身体の線がはっきりしているようだった。俯いているせいで目に映るのは彼の旋毛だった。碌な物を食べさせられていないというのは本当だろう。目の下の暗さは隈ではなくこけているからだ。
「この子供、私が三日買おう」
「……は」
「それとも何か。この子はこのまま処分するつもりだから、もう商品ではないとか」
「め、滅相も御座いません! ただ……」
「ただ?」
「この唄鳥は唄わなくなってしまったのです」
 それを聞いて、この広場へ来るまで彼が唄っていた唄の名前に気がついた。唄を忘れたかなりやは、まさしくそれだった。深く考えるのは後にして、それでもいいと言うと、慌てて立ち上がった男はすぐに部屋を用意すると言い、少年の腕を引き立ち上がらせて広場の方へと歩いていった。それを後ろで見ていた友人はゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。その場に残されたのは、膝を抱える空間しかない狭い檻と鞭だけだった。さく、と彼が草を踏みしめる音がして、漸く捲簾は顔を上げた。
「よかったんかい、捲簾。宿賃はぼられるかも知れんよ」
「少しでも相場に反するような値を提示してきたらどうなるか分からんはずがないだろう。悪人ほど上の者には媚びるんだ」
 檻の戸を閉めると、ギイ、と耳障りな音がした。その音にすら苛立って、再び開き始める戸を乱暴に叩き付けるように閉めた。金属のぶつかる酷い音に、林の中のどこかから鳥が飛び立つ音がした。



 用意された部屋に入ると、中にはぼんやりと火の色をした灯りが灯っていた。一式引かれた布団の前に正座をした少年は、身動ぎ一つせずにその一つきりの灯りを見つめていた。その蒼白い表情は、火の光のおかげで僅かに顔色が良いように見える。外套を脇に抱え、友人の家から借りてきた薬箱を手にして、捲簾は部屋に足を踏み入れた。畳が僅かに沈むような感覚を覚えながら瞬き一つせずに立ち尽くしている少年を見つめた。
「……坊や、平気か」
 先程とは違う、新しい白の着物に着替えさせられた少年は、血も綺麗に拭き取られている。とりあえず見た目は出来る限り整えたようだ。しかし頬に付けられた大きな傷は隠すことが出来なかったようで、白い肌の上でその痛ましさを主張している。それでも、捲簾の呼びかけに応じて少年は静かに顔を上げた。頬に掛かっていた黒髪がさらりと後ろに流れる。陰鬱な色をした眸が事務的に捲簾の方へと向けられる。その何を考えているのか分からない眸が、真っ直ぐに捲簾を見上げた。
 酷く造作の整った少年だった。それだけに、頬を横切る傷と、憔悴しきってやつれた頬が余計に痛々しい。何を探るでもなくじっと捲簾を見上げていた少年は、すぐに興味を失ったように俯いて、膝の上で重ねた自分の手を見下ろしている。その手の甲にも広範囲に渡って包帯が巻かれていた。近付かれたくないという彼の気持ちが刺さるほどだったが、いつまでもこうしているわけにもいくまい。
「とにかく、手当てをさせてくれ」
「どうして僕を買ったんですか」
 それは澄んだ、少年とも少女ともつかない声だった。その少女めいた容姿も相俟って、彼が一体何者なのか分からなくなる。真摯に向けられる眸から視線を逸らすことが出来ず、暫しの間その眸と対峙しあった。そしてどれくらい時間が立ったのか、かたりと風で障子が揺れる音で漸く視線を落とすことが出来た。足元に薬箱を置き、部屋の隅に外套を放ってその場に胡坐を掻く。そうすると、正座をした彼と丁度同じ目線になった。炎に照らされたその大きな眸は琥珀のような色を呈している。惹き付けられるように目が逸らせない。
「――――俺は、男に興味はない。むしろそういうものを特別苦手としている。だから……ただ見ては居れなかっただけだ」
「僕はこの状態から逃れられるのならばあの場であの男に頸を捻折られて殺されてもいいと思っていました」
 そう抑揚のない声で言う少年のその目は、明らかに正気ではなかった。軍内では厳格な訓練や閉鎖的な空間によって精神に異常を来たす者が少なくない。そういった相手への対応は慣れたものだと思っていたが、相手がまだ甘い顔立ちをした少年だというだけで寒気がするような思いがした。こういう相手には幾らこちらが正論を突きつけても埒が明かないのである。話を聞くのはとりあえず後にして、横に置いてあった薬箱を開けて、彼に服をはだけさせた。それでも彼は素直に帯を解き、するりと肩から着物を落とした。ぱさ、と布切れの落ちる音と共に、子供の細い姿態が露わになる。
 露わになった細い身体は白い皮膚に幾筋もの赤い傷痕が残されていた。黒ずんだ打撲痕は古いものだろう。貰ってきた包帯で足りるだろうかと考えながら溜息を吐き、薬箱の蓋を開けた。消毒液の瓶を取り出し、綿球を鑷子で摘んで液に浸した。まず傷付いた腕の傷を消毒しようとその腕に無造作に手を伸ばした。
 そしてすぐに鋭い痛みが走って、その手が振り払われたことに気付く。驚いて顔を上げると、きまり悪そうに彼は俯いていた。
「……すみません」
「いや、こちらこそ驚かせたな。お前に危害を加えるつもりはない。少しの間だけ我慢してくれ」
 払われた手の甲のぴりぴりとした痛みを受け止めつつそう訴えると、少年は暫く困ったような顔をしていたが、その後そっと手をこちらに向けて差し出してきた。いいのか、と訊ねれば、少年は何も言わぬまま、顔を逸らしたままで小さく頷いた。暫く様子を窺ってから、その手首をそっと掴んだ。腕に僅かに力が篭るのが分かったが、気付かぬ振りをして腕に走る長い傷に綿球をそっと近づけた。沁みるだろうに、少年は表情一つ変えることなく、その傷口を凝視している。
「……坊やは、いつからこんなことを?」
「坊や、は、やめてください」
「では何と」
 そう訊ねられて初めて名前を聞き出すための誘導だと気付いたようだった少年は、少しだけその無表情を崩して眉根を寄せ顔を逸らし、捲簾の顔を見ぬままでぽつりと自分の名前を呟いた。
「僕は天蓬、……八年前から、こうして過ごしています」
「八年前?」
「それ以前の記憶がないので、経緯を訊ねられても困ります」
 そう言って彼は強引に会話を切り、それ以後黙り込んでしまった。今何を問い質しても答えは得られないであろうと踏み、捲簾はそれ以上の追究を止めた。そして腕の、僅かに化膿しかかった傷の消毒を終えて包帯を巻いた。もしそれでも客の前に出そうとするのならばこんなに目立つ大きな傷はつけないはずだ。ならば彼は相当前から客を取っていないということになる。
(唄を忘れた金糸雀は 柳の鞭で……?)
 ふと頭を過ぎったその一節に顔を顰めた。唄を忘れた鳥が、鞭で打たれてそれを思い出すはずがない。巻き終えた包帯の端を留めて、今度は薬箱を持って彼の背後に回った。背中の傷を見ようと思ったのだ。しかし彼はどこか不安げに後ろを振り返って背中を見せようとしない。背後に立たれることが不安なのだろうか。
「後ろに立たれるのは不安か」
「……誰がいるのか分からないのが、怖い」
「じゃあ、話をしようか」
「え?」
「話していれば、後ろにいるのが俺だと分かるだろう」
 肩越しに振り返って捲簾を静かに見つめていた彼は、少し考えた素振りを見せた後に小さく頷いた。そして大人しくその白い背中を見せた。白く滑らかな肌は無残なほどに傷だらけで、先程脱ぎ落とした着物にも赤い染みが付いていた。少し長い後ろ髪を前に流し、傷が全て見えるようにしながら子供を安心させるように努めて穏やかな声を出した。
「何か訊きたいことはあるか」
 そう訊ねると、暫く沈黙を置いた後に少しだけ躊躇いがちな声が返ってきた。
「……あなたが、軍人というのは本当ですか」
「本当だよ。何だ、嘘だと思ったのか」
「止めるためにはったりを言ったのかと」
 そんな可愛くないことを口にする少年に言葉が出ず、苦く笑う。そしてふと思いついて襟元に付けられた徽章を外して、肩越しに彼の掌に落としてやった。驚いたように少しだけ振り返った彼は、少し戸惑った様子のままそれを光に当たるところに掲げて眺めている。それは火の光を優しく弾いて彼の横顔を明るくした。
「大尉……本当なんですね」
 そう呟いてから再びちらりと捲簾の顔を窺い、その眸はくりくりと動いた。彼から徽章を受け取って再び付け直してから手当てに戻った。それから暫くは彼も何も言わずに黙っていた。火の爆ぜる音すら耳に付きそうなほどの、沈黙だった。永遠とも思えるようなその沈黙を裂いたのは、彼の小さな声だった。
「もう一つ窺っても良いですか、大尉」
 先程までは少し距離が縮まった気がしたのに、その名で呼ばれるだけで突然彼との間に壁が出来た気がした。顔を顰めたが彼にそれが見えるでもない。
「大尉は止めてくれないか」
「……珍しい。偉方は皆役職で呼ぶと喜ぶのに」
「碌な人間を相手にしていないようだな。俺は捲簾でいい」
「捲簾」
「そう。それで何だ、もう一つの質問は」
 そう催促すると、彼は一瞬それを躊躇ったようだった。しかし再度訊ねてみると、彼は少し躊躇いがちにそれを口にした。
「あなたが、男が男を相手にすることを特別苦手としているというのは、何ですか」
 彼を安心させるのが半分、本音が半分で最初に口にしたそれを、彼はしっかり記憶していたようだ。自分でもどうしてか、的確に言葉で表せないそれをどう言い聞かせていいものか考えつつも、彼が不審に思うような沈黙を作らないためにとりあえず口を開いた。
「さあな……いつからなのか、どうしてなのか自分でもよく分からない。しかし男衆ばかりの軍隊内だと、周りでもいろいろあってな」
「何か嫌な目にでも?」
「それは誤解だ、よく言われるけどな。自分が当事者になったわけでもない、周りで勝手に行われていることなのに、どうしても許容出来ないんだ。反射的に強烈な嫌悪感が出て、震えが止まらなくなることがある。その場でじっとしていられなくなったりな」
「そんなあなたが、よくこの町に入れましたね。軍隊内の事情は知りませんが、この町はそれが日常で、常識となっている町です」
「しょうがなくな。友人が住んでるんだ……お前たちの世話係をしていると言っていた。邑慶という」
「……ユウさん。給仕の仕事をしているんですよ。いつも、他の人より少しだけ多めによそってくれるんです」
「まあ、お前はもう少し食った方がいいだろうな。あいつの場合食いすぎだが」
 そう言うと天蓬は僅かに顔を綻ばせた。初めて見たその微笑みは火の光でぼんやりと照らされて妖しげに見えた。まだ十四だというのにぞっとするような艶のある子供だ。婀娜めいた表情をして女のような格好をする男に現れる嫌悪感は彼には現れない。彼のそれは、女に似せたそれではないからだ。誰に教えられたでも、演じているのでもない。何よりも、自分のことなど眼中にも入っていないであろうその態度、それが捲簾に安心を与えると共に、手が届きそうで届かない焦りを感じさせた。
「僕もはじめは男が男に欲情することが不思議で堪りませんでした。けれどそのうち特に珍しいことではないのだということも知りました」
「俺は、どうしてもそれが受け入れられない。というより、その状況に立たされるだけで嫌悪感で立っていられなくなる」
「不思議なものですね。でも……普通ならそうなのかも。この町の人たちにとってはこれが普通ですから彼らの前では言えませんが」
 そう言いながら俯く彼を静かに見つめながら、包帯を巻き終えた。畳に落とされた着物を持ち上げて肩から掛けてやると、彼は小さな声で「ありがとうございました」と呟いた。そして包帯が巻かれた腕にそっと触れては小さく微笑んでいる。
「構わない。俺のやったことにしても、一時しのぎだろう。痛みはまだあるだろうし」
「慣れていますから。むしろ、こうして優しくされることの方が慣れなくて……くすぐったい気分になります」
 いつから彼はそうなのだろう、と思った。唄鳥、と呼ばれていたのだから最初の頃は従順に唄を聴かせていたのだろう。それが、いつからこんな風に口を閉ざし、鞭に打たれるようになったのか。

「お前は、もう唄わないのか」
 そう訊ねれば、着物の前身ごろを合わせていた彼は肩越しに捲簾を振り返った。その仕草一つに驚くほどの色香が漂って、まるで十四の少年とは思えなくなる。それと同時に、そんな色めいた仕草にまた嫌悪が湧かない自分に違和感を感じていた。
 いろいろ考えるところが多すぎて複雑な表情になる捲簾を暫く見つめていた天蓬は、ふっと視線を落とし、口許を吊り上げた。薄紅の唇が火の光を受けて艶めく。
「僕はもう唄うのは辞めたんです。人の顔色を窺って可愛がられるためにぴいちくぱあちく囀るのは」
 彼のその物言いはまるで十四の子供とは思えないほどに荒んでいた。彼の話をそのまま呑めば、六つの頃からこうして過ごしているということだ。普通の子供なら知らずに過ごすはずの裏の世界に突然放り込まれたかたちなのだからそうなるのも致し方なかろう。しかしその、それを何とも思っていないような眸が哀しかった。暫くそうして捲簾を眺めていた天蓬は、小さく笑って視線を落とした。
「可哀想だと思ってるでしょう」
「え……」
「でも僕は、もしここを出られても、行く場所なんてないんです。鳥は鳥らしく、大人しく籠の中で生きて死ぬしかないんですね」
 帯を締め、正座したままくるりと捲簾の方に向き直った彼は「ありがとうございました」と深く頭を下げた。それにどう対応していいか迷っているうちに彼は顔を上げ、少しだけ膝を引いた。
「どうぞ、僕は隣の部屋にいますから、横になって下さい。旅でお疲れでしょう」
「何を言ってる、俺は平気だからお前が寝ろ。碌に眠らせて貰ってないんだろう」
「平気です、あなたは客なんですから。何もしないんですからせめてゆっくりお休み下さい」
「何も……?」
 思わずそう訊き返してしまってから、曖昧に笑った彼を見て(しまった)と口を噤んだ。彼にとっては触れたくない話題で、自分にとっては聞きたくない話題だったとその時やっと気付いたのだった。
「純粋に唄を聴きたいような人が、こんな辺鄙なところにわざわざ訪れると思いますか」
「それは」
「誰も唄なんて目的ではないのですよ。当たり前のことなのに、それに気付くまでは大分時間が掛かりました。この町は以前は周りから理解されぬ嗜好の人々が中央から逃れてやっと築いた楽園でした。なのに今は、汚れた金が動く単なる歓楽街に過ぎない」
 嫌な汗がじわりと背中に浮かぶ。擦り合わせていた右手の母指と示指は汗で濡れて滑りが悪くなる。
「どこから伝え聞いたのかわざわざ中央からやってきた脂下がった男共が、痛みに耐えて漏らす僕の無様な声を美しい唄だと持て囃す」
 こめかみから、つ、と汗が伝うのが分かった。手の震えが始まる。まともに腰が据わらない。
「ここはそういう館で、これはそういう仕事です。本当は唄など必要ないんです」

 まるでもう夜が明けるのではないかと思うくらいに、長い時間だった。ジジ、と蝋燭の火で虫が羽を焦がしている音で漸く我に返る。それを見た天蓬は、早々に部屋を出ていこうと立ち上がった。咄嗟にその手首を掴んで再び座らせた。しかし掛ける言葉は考えていなくて、そのまま唇は空回った。真っ直ぐな視線を正面から受け取ることも出来ずに顔を逸らす。
「いいんですよ。一日の半分は失神してますから、寝るのはもう沢山です」
「……いいから、寝るんだ」
 そう押し殺して言った言葉は妙に低く威圧感を伴って響いた。少年の手がぴくりと跳ねたのに気付いたが言葉を撤回するわけにもいかなかった。今更引くことも出来ずに、その手を引っ張り布団の上に引き倒した。驚いたように瞬く眸は年相応の反応で、漸く天蓬という少年の本当の姿が垣間見えたようでほっと息を吐いた。存外簡単にころんと転がったその身体を布団の上に収め、掛け布団を胸の辺りまで引き上げてやった。丈の長い髪がさらりと枕の上に広がり、火の光に艶めいている。
「俺はやることもあるから……三日間休養だと思ってゆっくりするといい」
 そう言う捲簾を横になったまま見上げて、少年の目は何度も瞬いた。そして何か物言いたげに唇が空回りする。しかし彼はすぐに諦めたように口を閉ざし、ふいと視線を逸らしてしまった。
「どうした」
「……寝ない、んですか?」
「そういうのは嫌いだと言っただろう」
「そういうことをしようっていうんじゃなくて……」
 そこまで言ったものの続きが言えないかのように彼はそのまま尻すぼみに言葉を途切れさせた。暫くそんな少年の顔を眺めていたが、その言葉の続きに漸く思い至って小さく笑う。
「一人で寝るのは淋しいか」
「そんなじゃありません!」
 怒ったようにそう頬を膨れさせて言うのが、子供らしくて微笑ましく思えた。思わず手を伸ばして頭を撫でてやりたくなったが、今の状態では力一杯払われてしまいそうだったのでその衝動は堪えておいた。
「……分かった。横で寝ててやるからゆっくり寝ろよ」
 この町に来た真の目的である、友人から受け取った書類に目を通したい気分もあったが、それはいつでも出来ることだろう。書類は外套の上に置いて、軍服の襟を緩めてから布団の横に肘枕で身体を横たわらせた。何だか文句を言いたそうに天蓬が自分をじっと見ていることに気付いたが、気付かぬ振りで首を傾げてみせた。
「どうした。手繋いでてやろうか」
「いりません」
 布団の端を掴む彼の手に力が篭り、皺が増える。指の先が白くなるほど握り締められた手が痛々しくて、枕にしているのとは逆の右手を伸ばし、彼の手に自分の手を重ねた。白く、冷たいその手は一瞬抵抗をみせたがそれには構わず上から重ねるようにしてその拳を包み込んだ。包み込めるような大きさだった。幾ら世擦れしたような態度を取っていても所詮は十四の子供だ。
「お休み」
 力の緩んだ天蓬の手を布団から離して、その手を握る。今度は抵抗は見られなかった。じっと捲簾を見つめていた彼は何か言いたげだったがまたも何一つ口にすることなく唇を閉じた。言いたくなったら黙っていても言うだろうとそれ以上の追求は止める。ジジッ、とまた微かな音が響いて顔を上げる。火に飛び込んだ虫が灰になって、消えた。



 朝になって目が覚めると、自分の身体の上には寝る前確かに天蓬の身体に掛けられていたはずの上掛けが掛けてあった。隣に引かれた敷布団の上には誰もいない。どこにいったのだろう、と起き上がりつつそう思っているとその時丁度部屋の襖が静かに開いた。そしてそこにあった大きな眸と目が合う。膝を突き、両手で静かに襖を開けたのは天蓬だった。
「お早うございます。今朝餉が運ばれてきますので」
「あ、ああ……お前、これまさかずっと」
「違いますよ。僕が目覚めてからです……今日のうちにもう一式布団を入れさせますから、今夜はご心配なさらず」
 そう言って襖を全開にした彼は、後ろから入ってくる誰かを招き入れた。天蓬とは違う小奇麗な格好をした男たちが膳を運んで部屋に入ってきたのだった。その男たちも例に洩れずこの町の住人だ。その煩わしい視線から逃れるように捲簾は立ち上がり、庭に面した障子の方へと向かった。少しだけ障子を開けてみると、思ったよりも綺麗に整えられた庭が窺えた。
「終わりましたら膳は部屋の前に出しておきます」
 そう天蓬が言うと、男たちは少し不服げな顔をした後、全く気のない様子の捲簾の方をちらりと窺ってからすごすごと部屋から出ていった。たん、と小さな音を立てて襖が閉められるのを見て、捲簾は漸く安堵の息を吐く。
「……悪いな、気を使わせた」
「いいえ、こちらこそ。新入りで教育がなっていないんです……気を悪くしましたか」
「まあな……でもお前が悪いわけじゃない。じゃあ、冷める前に頂くか」
 そう思って見下ろした二つの膳は大分異なっていた。片方は、明らかに量が少ないのである。質も明らかに劣っている。迷いなく劣っている方の膳の前に膝を折った彼は、普通の膳の方を捲簾に勧めた。
「そちらをどうぞ。こちらは僕の分ですから」
「それって……こう、言ったら何だが、余り物みたいじゃねえか」
「ええ、まあ、悪く言えば残飯です。客に出すような上等な食事が与えられるわけがないですから。構わずどうぞ、召し上がって下さい」
 そう言って彼は、皿の底が見えるほどしかよそわれていない膳の前で膝を折った。それを見ると黙って立っているわけにもいかず、捲簾もまた自分に宛がわれた膳の前に胡坐を掻いた。先に手を合わせた彼は箸を取った。そんな量では、捲簾が箸を取るまでに食べ終わってしまいそうだ。
「少し、分けようか」
「いえ、僕はそんなに運動もしてませんしお腹も空いてませんから」
 そう言って平気な顔をして自分の膳に向かう彼を見ていると、自分の膳から何かを与えることすら傲慢なような気がして結局食事中何一つ言葉を口に出すことが出来なかった。

 食事を終えて、膳を部屋の前に出せばもうやることはなくなってしまう。心の中の蟠りのせいで昨晩のように気軽に話しかけることが出来ず、もやもやした気分を持て余していた。膳を片付けるのも捲簾には何一つ手伝わせずに一人で行い、今は布団を上げている彼を見て心の中で嘆息した。彼は気付かないはずだったが、突然顔を上げた彼は捲簾に向かって首を傾げた。
「何か」
「……暇なんだけど」
 思わずそう言うと、彼は一瞬目を瞠り、その後困ったように視線を落とした。それを見て初めてしまった、と思い、慌てて付け加える。
「庭には出られないのか」
「庭、ですか。そこの」
「ああ」
「出られます、今履き物お持ちしますね」
 明らかにほっとしたような顔をした天蓬は、そう言ってぱたぱたと部屋を出ていった。襖が閉められ、一人きりになった部屋の中に大きな溜息が響いた。少年の存在は不可思議だった。もしあれが人ならぬものだと言われれば驚くより前に安心してしまいそうだった。『浅茅が宿』という話を思い出す。眠って起きればこの整えられた和室は廃屋で、庭は荒れ果てているのではないか。しかし昨日一日眠っても目覚めた時の風景は眠る前と何一つ変わらなかった。全て夢だと言われれば信じてしまいそうなのに。そう思っている間に部屋に戻ってきた天蓬は草履を手にしていた。障子を開け、縁の下に草履を下ろして捲簾に勧める。
「どうぞ」
「お前はついて来ないのか」
「……傍についていたら鬱陶しいかと」
 そんなことを言う子供が小憎らしくて「ついて来い」と言い捨てると、彼は困ったようだったが、少し悩んだ後にぱたぱたと再び奥の方へ走ってゆき、もう一足草履を持って現れた。

 天蓬と共に庭に降り、庭の花々に目を落とす。咲き誇る季節の花々の奥に、大きな木が映えていることに気付き、同時にまさかと目を疑った。さくらが咲いているのである。今は秋だ。紅葉が目に鮮やかな季節だというのにその枝振りのいいさくらは満開の花を抱え込んではらはらと風に花弁を落としている。
「さくらがお好きですか」
 いつの間にか背後に立っていた天蓬にそう訊ねられて、捲簾は僅かに上擦った返事をする。咄嗟にその気配に気付けなかった自分に驚いたのだ。
「あ……ああ」
「軍人の方はよくそう仰いますよ」
「他の男と一緒くたにされるのは悲しいな」
 その言葉を不思議に思ったのか、彼は首を傾げて捲簾を見上げた。しかしそれを曖昧な笑みで誤魔化す。答えを求められたとしても自分だって無意識にそう思っただけであって、どういう意味かなど分かりはしないのだ。思ったことをすぐに口にすべきではなかったと自分を戒めつつ、その大木を見上げる。
「どうしてこのさくらはこの季節に咲く?」
「あのさくらは狂っているのです。年に二度、春と秋に花をつける」
 そう言って、彼はふわふわと舞い落ちてくる桜の花弁を掌の上で幾つか受け止めた。
「遠い場所から、無理に移してこられた木だと聞いています。故郷恋しさにおかしくなってしまったのかも知れません」
 そう言う彼の言葉には深い感情が篭っているように感じられ、捲簾は言葉を返すことが出来ぬままその顔をじっと見つめていた。するとその視線に気付いたのか、彼は少し恥ずかしそうに顔を上げてゆるく首を振った。
「なんて、空想的ですね」
「……いや、そうかも知れねえな。植物には感情が宿るという」
「植物に」
「ああ。さくらじゃあないが、主人恋しさに一晩のうちに何千里も離れた場所に飛んだ梅の木があるという話だ」
 その話を興味深げに聞いていた天蓬は、話が終わった後静かに木の梢を見上げた。
「じゃあ、この木にはゆくあてなどもうないのかも知れませんね。それとも分からなくなってしまったのか。……どちらにせよ」
 僕と同じですね、と少し嬉しそうにその木の幹に触れる手が、年頃の男の子供とは思えぬほどの細さで、最前の言葉と相俟って胸が締め付けられるような思いを味わうことになった。俯いたせいで後ろ髪が左右へ分かれ、露わになった白い項が細くて痛々しいほどだった。普通の家で育っていれば、もっと焼けていておかしくない。まともな食事を与えられていればもっと背も伸びただろう。白い着物に包まれた立ち姿は、そのまま風が吹けば倒されそうな風情だった。しかし彼は立っている。生来の強さがあるのだろう。だからこんな逆境にも耐えていられる。儚い風情でいて風にも屈しないその強さは確かにさくらに似ていなくもない。うっかりそう思ってしまって、慌ててその考えを打ち消した。さくらのように潔く散られてしまっては、困るのだから。
 その時俄かに風が吹いて、枝を一層強く揺らし、花弁が一斉に舞い散った。その向こうで彼が小さく肩を震わせたのを見て、捲簾は自分の上着を脱ぎ、白い着物一枚の彼の肩から掛けてやりながら部屋に戻ろうと促した。

>>>