“あなたと出会って、僕の世界には怖いものが増えました。”
 ディスプレイに打ち出した文字と、点滅するカーソルを静かに見つめた天蓬は、視線をゆっくりずらしてテーブルの上に置かれたカップを見つめた。室内灯でその淡いベージュの縁が光り、その存在を主張しているようだった。それを暫く見つめていたが、徐に深く息を吐いてそのカップから視線をずらし、再びディスプレイに真っ直ぐ目を向けた。そして静かにキーボードを打ち始める。
 その横で、カップが光を弾きながら静かに天蓬を見守っていた。


++++


 街はすっかりクリスマス模様である。日々朝晩が冷え込むようになり、ひょっとしたらホワイトクリスマスも、と予報されている。恋人たちには楽しい日になりそうだ。平和で宜しいことである。地上二十階の窓から寒いビル街を見下ろして溜息を吐く。冬は好きだが寒いのは嫌なのだ。朝から布団に潜ってじっとしていたい気分だったのだ。社内は暖かいけれど外に出る用事がないわけではない。
「寒そうですね」
「……ええ、でもまた取材ですね、明日」
 突然後ろから話し掛けてきたのは須賀だった。腕には顎の下まで来るほどに積まれた何冊もの雑誌を抱えている。しかし天蓬が手を貸すはずはなく、須賀も助けてもらえるとは思っていない。人の良い笑顔を浮かべた彼はにこにこしながら天蓬の横に並んだ。
「女性は冷えが気になるみたいですから」
「男だって冷えるのになぁ……最近俺足が冷えるんですよ」
 冬になると自然、男がこき使われるようになる。仕事もハードで多いというのに部署にいる男は二人のみ。使われるようになるのは自然と言えた。それに加えて寒い季節が来た。男尊女卑だ何だと騒がれるが、ごくたまに女尊男卑に近い状態にもなる。男である自分たちが女性に仕事を押し付けられないのを逆手にとって、というほど質の悪いものではないと思いたい。須賀は肩を竦めて溜息を吐いた。冷えるらしい。しかし彼の顔は沈んでおらず、却っていつもより元気なくらいに見えた。
「でも俺、頑張りますよ」
「……どうしたんですか、急にそんなに元気になっちゃって」
「はっはっはっ」
 明るく笑った後、須賀はがっくりと額を抱えていた雑誌の上に載せた。それで何となく天蓬は彼の空元気の理由に思い至る。
「……ふられたと」
「クリスマスなんか仕事しますよ俺! お付き合いします!」
 ばっと顔を上げた彼はそう言って一人納得している。相当捨て鉢な状態らしい。容姿はかなりいい男だというのに、そんないい男が子供のように拗ねてふくれているのが意外でおかしかった。思わず笑ってしまうと、彼は自分が馬鹿にされたのだと思ったのか、眉を顰めた。そして落ち込んでしまったように項垂れて肩を落としてしまう。
「笑って下さいよ……あいつ二股掛けてたんですよ、しかももう一人の方を取って俺は切られたってことなんですよ。もう女なんか見たくねえと思ってたらうちの職場は女だらけだし……女なんかもう」
「おや、とうとう河岸替えですか」
「え? ……ちょっ、ちが!」
 慌てて彼は顔を赤くして否定し、思わず山積みの雑誌を取り落としそうになって一人あわあわしている。そして天蓬に笑われてまた拗ねたように赤くなった顔を逸らしてしまった。そして先に編集部へ向かって歩き出してしまう。それを暫く見ていた天蓬は、気を取り直してその後ろを足早に追った。
「すみませんって……冗談ですよ」
「ヒドイですよ……後輩からかって遊ぶなんて悪趣味な」
 恨みがましげな彼の視線を受けて天蓬は穏やかに笑ってみせる。その笑顔に一瞬言葉に詰まったようだった須賀は、その後毒気を抜かれたように笑った。いつもこんな風に誤魔化されていながら、すっかりもうその笑顔に毒されてしまっているのだった。それは編集部の者は殆どそうであると言える。男である須賀とて例外ではないのだった。
「……でも実際、天蓬さんってその手の人からモテるでしょう?」
「その手……ゲイのお兄さんからってことですか?」
「まぁ、そういうことですね」
 実際のところを知らないからこそ彼はこんな風に無邪気に自分に訊ねてくるのだろうと思うと、何だか少し申し訳ない気すらする。そんな彼に笑って、天蓬は緩く頭を振った。
「そんなことないですよ、僕なんて小さいもんです」
「またまた、老若男女から愛されてるじゃないですか」
 取材に行けば行った先々で注目される。妙齢の女性からは熱い視線を集め、その気(け)のない男からも密やかな視線を集める。しかもおばあちゃんおじいちゃんからは可愛がられ、何故かちびっこが次々に懐いてくっついてくるのである。最初の頃は、何か人を惹きつける匂いでも出ているのではないかと言われたくらいだった。しかし今では同僚たちもそんな不思議な現象にすっかり慣れてしまっている。
「今はフリーなんですか」
「ええ、一人ぼっちですねぇ。寒さと寂しさが身に染みる季節ですよねぇ……あ、ごめんなさい」
 一人身になったばかりの須賀はその言葉自体が身に染みたらしく、沈黙してしまった。しゅんとしてしまった後ろ姿を見て、何だか可哀想になってその背中を軽くぽんぽんと叩いた。
「落ち込まないで下さいってば。あなたが優しいし男前なのはよく知ってます。すぐに素敵な恋人が出来ますよ」
 ぱふぱふと背中を叩きながらそう慰めると、しょんぼりと肩を落としていた彼は静かに顔を上げて切なげな目を向けた。その捨て犬系統の寂しげな目に、一瞬戸惑って目を瞬かせる。一瞬頭の中で警報が鳴った気がしたのだ。
「……今優しいこと言われたらその気になりますよ」
「え」
 小さく声を漏らして、じっと彼の目を覗き返す。しかしすぐに「冗談ですよー」と笑ってくれるかと思いきや、彼は見つめる天蓬の目を逆に見つめ返してきた。進退きわまった天蓬がとりあえず何か言おうと口を開こうとした、まさにその瞬間、須賀はその顔を緩めた。
「……なーんて、さっきのお返しです」
 ころりと態度を変え、笑って歩いていく彼の後ろ姿を見て、きょとんと目を見開く。そして歩いていく彼を見つめながら、ゆっくりとからかわれたということに気付いた。しかし天蓬は大して腹を立てるでもなく、急いで彼の後を追い、一緒のエレベーターに乗り込んだ。そして動き出したエレベーターの中、ガラス越しに地上を見下ろしながら冗談交じりに言った。空調とモーターの音が耳につく。
「ま、間違いは起こさないようにお願いしますよ」
 そう言ってから振り返ると、数字盤の方を向いていた須賀は笑って振り返った。その視線を正面から受け止めて目を細める。
「それは牽制ですか」
「そういうところです」
 そう言ってにっこりと微笑んでみせると、須賀は笑って肩を竦めてみせた。
「それは残念」

 二人が編集室に辿り着くと、編集室の前には数人の男女が立っていて、天蓬の方を見て小さく声を上げた。そしてばたばたと去っていく。それに思わず天蓬は須賀と顔を見合わせた。
「何でしょうあれは」
「……きっとあれは偵察でしょう」
「何の」
「知らないんですか? 今朝から噂になってるんですよ、出版部の猪っていう人と天蓬さんが兄弟だって。俺もさっきちらっと見てきましたけど、そんな、ちょっと似てるってだけで急に兄弟なんて……」
 彼は口さがない周囲に呆れているようだった。しかし事実を知る身としてはそんな風に擁護してくれる彼に申し訳なくなってしまう。
「いいんですよ、須賀―――――事実ですし」
 彼はその薄い色の瞳を見開いた。天蓬はそれを放ったまま、その横を通過して編集室へと足を踏み入れた。女性陣からもこれから質問攻めに遭うのだろうと覚悟しながら。そして漸く背後から須賀の驚く声が聞こえてきたのに一人笑った。
 一体誰が知らせたのだろう、と思ったが、まあ大方八戒に事情を教えられた桜田が、驚いて思わず大声で復唱してしまった、というようなところだろう。別に周りに知れたところで不利益のある問題ではない。自分が捨てられたというような過去まで知れ渡るわけではないのだから。それに、別に捨てられたという過去が露呈したところで別に痛くも痒くもないのだ。しかし、こちらにも数人が覗きに来ていたということは、彼の方へも何人か行っているのだろう。しかも何故か編集室にいるはずの女性たちが殆どいない、ということは。
(……あちらにご迷惑をお掛けしていないといいんですが)
「あれ、皆いない……もしかして猪さんを見に行ったんですかね?」
「でしょうねぇ」
 ふわふわとそう返事する天蓬に呆気に取られたようだった須賀は、ふと我に返ったように顔を上げて天蓬の前へと割り込んできた。
「で、どういうことですか兄弟って……腹違いとか? 親御さんが再婚されたとか?」
「いえいえ。腹は同じですけど、種違いです」
 種……と絶句する須賀を放って天蓬は椅子に座り、携帯電話を手に取った。そしてそのボタンを手早く操作して右耳に当てた。そして受話器の向こうから聞こえる元気な声に小さく笑った。
「……桜田ですか。僕です」


 天蓬はネオンの輝く看板を見上げ、その店に足を踏み入れた。賑やかな店内を真っ直ぐ抜け、座敷に視線をちらちら向けながら進む。そして店の一番奥、少し居心地悪そうに正座している男を見つけた。そして足を速めてその彼の元へと急いだ。
「八戒」
 僅かに手を上げて名前を呼ぶと、俯いたままだった彼がゆっくりと顔を上げた。そしてその目に天蓬の姿を捉えてぎこちなく微笑む。靴を脱いで座敷に上がり彼の向かい側に正座した。そしてコートを脱いで横に置いた。その間も向かい側に座った八戒は、落ち着かない様子で店内を見渡している。来慣れないのだろうか。
「……よくいらっしゃるんですか、こういう店……」
「え? 駄目ですか……居酒屋」
 八戒からの呼び出しは大抵バーや高そうなレストランだ。そういえば居酒屋やその辺のファミリーレストランに呼び出されたことはない。彼の育ちの良さを象徴するようだ。ただ、悟浄の友達であるなら一度は連れて来られていそうなものだが。
「この店、おじいちゃんの友達の店なんですよ。で、お願いしてこの席を予約したんです。元々予約なんて出来ないんですけどね」
「おじいさん、の」
 彼はおじいさんと呼ぶことを躊躇っているようだが、つまりは八戒の祖父でもあるのだ。躊躇う必要はない。八戒は顔も見たことがないであろう自分たちの祖父を思い出して懐かしくなった。
「そんなに固くなるような店じゃないですって。あんな薄暗いバーで堂々としてるくせにどうしてこんなに賑やかで活気のある居酒屋でがちがちになっちゃうんですか」
 そう言いながら手早く注文を済ませ、運ばれてきたビールに口を付ける。しかし目の前の八戒が戸惑ったようにジョッキに手を付けないのを見て怪訝な表情になる。そして嫌なことに思い至ったかのように顔を顰めた。
「……まさかビールまで口に合わないなんて言いませんよね」
 洋酒じゃなきゃ駄目なんて言ったら、ぶっ飛ばす。と、内心物騒なことを考えながら彼の顔を窺う。するとそれが表情に出ていたのか、八戒は少し困ったように笑いながらジョッキに手を伸ばした。
「じゃ、いただきます」

 一時間ほど変わらぬペースで飲み続けた二人は、全く顔色も変えずに穏やかに談笑していた。周りの客が段々と出来上がって騒がしくなる中、彼らだけ全く別の店状態だった。ちなみに祖父母はとても酒に強かった。明らかに遺伝である。穏やかに話をしながらも、二人の間に共通の母親の話題だけは出なかった。気を遣って八戒がその話題を振らないようにしているということである。天蓬にとってはもう既に他人の、ただの女だ。今彼女が幸せなら、勝手にしろという気分である。不幸になれとも地獄に落ちろとも思っていない。彼女に不幸が起きて今の夫や八戒が哀しむなら、それはあってはならないことだと思っていた。
「彼女は元気にやってますか」
「……はい」
 八戒は一瞬目を見開き、その後少し困ったように笑って言った。その返事に笑って天蓬は再びグラスに手を伸ばす。
「……天蓬は、本当に母を恨んでいないんですか」
「そうですねぇ……恨むことと言えば、この顔くらいですかね。捻くれた性格になったのは自分のせいだし、おじいちゃんおばあちゃんも本当に優しくしてくれました。彼女に嫌々育てられるより、ずっとよかったと思ってます」
 奔放な女だったと思えば、諦めも出てしまう。それは自分が歳を取ったせいなのかもしれない。
 そんな風に笑って言う天蓬を、八戒は納得のいかないような顔で見つめていた。
「あなたは、優しすぎます。これは褒めてるんじゃありませんよ」
 そう言って八戒は俯いた。それを見て天蓬は困ったように笑う。『優しい』が褒め言葉だとは天蓬も思っていない。これは優しいのではなく全てを諦めて全てを突き放してしまっているだけなのだ。しかし彼もおかしい。責められないことは彼にとってもいいことのはずなのにどうして責めない天蓬に追い縋るようにして責めて欲しがるのか。
「……あなたは、僕に責めて欲しいんですか? 何で生まれてきたんだと。よくもぬけぬけと僕の前に姿を現したと。そう詰って欲しいですか」
「そういうわけじゃ……」
 天蓬は欠伸を一つした。そしていつもの癖で携帯電話を確認する。すると数件メールが届いていた。一つは三蔵、一つは須賀、もう一つは、捲簾。内容が気になったけれど、何故かそれを八戒のいる前で開くことが躊躇われて、天蓬はそのまま携帯電話を閉じ、コートのポケットに忍び込ませておいた。そして顔を上げる。自分が気の長いタイプではないことは自覚している。
「だったら四の五の言わず黙って生きていればいいんです。生きるのに僕の許可はいらないでしょう」
 俯いてしまった彼の頭を腕を伸ばして撫でて、再び天蓬はグラスを傾ける。中の氷が小さく音を立てた。
「そろそろ楽になっていい時期だと思いますよ、あなたも……僕も」


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 「クリスマスは元々家族と過ごすのが普通なのだ」とは昨今では負け犬の常套句となっている。類語に「クリスマスは恋人と過ごすための日ではない」というのもある。真っ当な言葉だというのに僻み扱いされてしまう侘しさを感じながら、肩を竦めてコートの襟を少し立てた。もう雪も降りそうである。
 昨日居酒屋で偶然高校、大学時代の友人に出会った。そして時事の話題で自然とクリスマスの予定の話になる。彼は既に結婚していて、子供や妻と共に過ごすと言っていた。子供へのクリスマスプレゼントに悩んでいる、とそう言う時の顔がすっかり父親のものになっていて笑ってしまった。そういうお前は、と切り返されて、多分一人だ、と答えると、彼は思わず持っていたグラスを引っくり返してしまった。そこまで驚くことだろうかと思い、驚くことか、と納得した。最も女関係にルーズだった頃の友人たちから見れば、信じられないことだろう。もう涸れたかとからかわれ笑いながらも、意識はその話の方へ向いてはいなかった。友人の話を聞いて結婚生活が羨ましくなることもなかった。子供が欲しくなることもなかった。しかしいつでも堂々と愛する相手と会えるということだけは、どうしようもなく羨ましかった。
 だから、メールを送ってみたのはただの気まぐれだ。そしてそれに返事があったのも、相手の気まぐれだろうと思う。

「こんな日に男二人だと、目立ちますね」
「今更だろ」
 華やいだ街を避けるように歩いても、暗がりになればなるほどカップルはいるものである。単にクリスマスイヴであるというだけのただの十二月二十四日は見慣れた街がロマンティックに見えて来るらしい。実に都合のいい目である。そんな街のあちこちで番いが睦み合う中、二人の男が歩くという光景はある意味シュールだった。しかし本人たちは口ではそう言うだけで内心殆ど気にしてはいなかった。
 捲簾はといえば気にしているのは空腹のことだし、天蓬に至っては足の先が冷たいことを気にしているだけだ。第一こんなクリスマスに、自分や恋人以外が見えている人はいないだろう。皆自分たちのこと以外気にも留めない。
「ところで、お前と一緒に残業する予定だった後輩は?」
「須賀ですか? 彼なら同僚の女性たちのパーティーに引っ張られていきました」
 元々は共に残業の予定だったのだが、天蓬が残れなくなり彼一人になったのだ。それを可哀想と思ったのかいい餌食だと思ったのか、同僚の女性たちのパーティーに強制連行されていった。無論、恋人のいない女性たちのパーティーである。以前天蓬も香山に誘われていたのだが、気乗りがしなくて断っていたのだ。
「何食いたい?」
「うーん……ぶり大根……」
「今からじゃ無理だろ……それは明日な」
「じゃあ鯖味噌。それと熱燗」
 どうあっても和食が食べたいらしい天蓬に捲簾は笑ってその頭を撫でた。やっと接触を持ち始めた彼らにとっては、そんな小さなスキンシップが精一杯だった。しかし、それで十分だった。
「クリスマスだっつうのに」
「おや、じゃあ七面鳥と高級ワインがいいって言ったら、用意して下さるので?」
「鯖味噌に熱燗ね、鯖……」
 手を繋ぎ、抱き合うカップルを見もせずに、華やぎ眩い街を通り過ぎる。お互いがいなければ今頃自分たちが埋もれていたであろうその眩しい光は、もう今の二人には必要のないものだった。

 目の前の鍋がことことと揺れている。甘い匂いが鼻を擽った。美味しそうな匂いに暖かい部屋。そして背中に男の体温を感じてそっと目を伏せた。背後から自分を抱きしめるその腕が顎に触れて、ピリ、と電気が走ったような気がした。
 仕事の続きをしていたら喉が渇いたのでキッチンへ行き、水を飲んでから、くらくらと揺れる鍋を覗き込み、彼と二三会話をして。そうして何故かいつの間にかこんなことになっている。心の中で散々クリスマスの雰囲気に酔っているカップルを馬鹿にしていたものの、雰囲気に弱いのは自分も彼も同じらしかった。それに何だか割り切れないものを感じながらも、その腕に抗えないのも事実だった。強く抱きしめられた腕の中で俯いたまま向きを変え、少し驚いたような顔をする彼の胸元に額を押し当て、煙草の匂いのするシャツに鼻先を擦り付けた。彼の反応を窺うまでの余裕はなくて、そのままぐいと額で彼の肩を押す。
 背中に肩に、セーター越しに添えられる大きな温かい手に緩く息を吐く。捕らえられているのか自分に逃げる気がないのか、計り兼ねている。しかし。強く背中を抱き寄せられる。駄目だ。
 この一晩だけ、甘えた自分を許して。
 抱き寄せられながら横目に見たベランダ。僅かに開いたカーテンの隙間から、白いものがちらほら過ぎるのが見える。それから目を逸らし、再び彼の肩に頬を寄せた。今日だけは寒いなんて、淋しいなんて思いたくなかった。


++++


「……また、書いてるのか」
 あれから数日が経って、来年も近くなった頃。仕事納めも済んだ天蓬は、時折呼ばれて捲簾の家を訪れていた。天蓬の家には碌な暖房器具がないからだ。ダイニングテーブルでノートパソコンを打っていると、そう声を掛けられた。顔を上げると、キッチンから出てきた捲簾がこちらにコーヒーカップを差し出していた。キーボードを打つ手を止め、そしてそのカップを両手で受け取る。窓の外では先程から雪がちらついていた。暖房の殆どない自分の家はきっと相当に寒いだろう。
「……ええ。今回は缶詰しないでゆっくり少しずつ書こうと思ってるんです」
「そっか。無理すんなよ」
 その話をしたのは去年のこと、八戒と居酒屋で飲んだ日のことだ。辛気臭い話題が済み、仕事やら日常生活の話題になった時。
『そういえば、天蓬……』
『はい?』
『五作目を書き始めてるって本当ですか? やっと最近桜田に聞いて』
『本当ですよ。……あ、でも今回は、雑誌の仕事もしながらゆっくり書いていきたいんです。だからホテルとかは結構ですから』
『そうですか……』
 生返事をしながらも、八戒は少し訝った様子だった。しかし態とその物言いたげな視線には気付かない振りで天蓬は笑っておいたのだった。そして今、いつもの自分の執筆状況を知っている捲簾は更に心配そうだ。しかしそれにも笑って返して、天蓬はカップに口を付ける。これが限度だ。そろそろ温かい日向に背を向ける時期。
「今日、暗くなる前に帰ります」
「……分かった。送ってくか?」
「いえ、平気です」
 何が平気だというのか。内側から壊れ始める何かを感じ始めている。なのに全く変わらない自分の表面が恐ろしくすらあった。
 何も変わらない。その何も変わらない世界の中で静かに何も変えずに消えていくつもりだった。彼との関係も、これ以上変えてしまいたくなかった。なのに抱きしめられると逃げることも拒否することも出来なかった。自分も求めているのだと認めることが出来ない。認めることは縛られることになる。
 こんな幸せは、ほんの少し、あと少しだけでいい。微温湯に慣れてしまったらそれを失えなくなってしまう。
 失えぬものはすぐ傍にあった。

 天蓬の持ち物は極端に少ない。家にあるものも僅かだ。ただ一つ大きなボストンバッグを持っていた。それは、原稿のためホテルに泊まる時も旅行の時もいつも使っていた。そのバッグに、今天蓬はありったけの荷物を詰めていた。服も、雑貨も。そうやって家の中にある全てを詰めていくと、如何に自分の家に物がないかがよく分かった。こんなボストンバッグ一つに、家のものが全て入ってしまうなんて。
 家に唯一あった家具のローテーブルは、祖母の家に運んだ。そして他の不要な家具と一緒に処分してもらった。これで、自分がこのバッグを持って靴を履いて家を出ればこの家は蛻の殻だ。ボストンバッグのファスナーを閉め、パソコンの置いてある部屋の隅に向かう。そしてそれを膝に乗せて再びキーボードを打ち始めた。何かと自分の食事の心配をする捲簾へメールをするためだった。


「天蓬先輩、いますか?」
「……何だ、桜田君か」
 昼休み、今日も天蓬に伝言を届けに来た桜田は、がっかりしたように香山に言われてショックを受けたように目を見開いた。
「ひどっ……」
「天蓬さんなら、あなたの先輩に呼ばれてるわよ」
「え?」
「ほら、弟さんよ」
 そう言われて桜田も納得したように頷いた。二人が兄弟だという噂はすっかり社内に知れ渡っていた。なので二人が社内で会っていてもおかしいとは思われない。ひょっとしてそろそろお役御免だろうか、と内心桜田は危機感を抱いていた。二人が社内で話すことが出来なかったため桜田というメッセンジャーを使っていたのだ。二人が会っていてもおかしく思われないのならメッセンジャーは必要がなくなる。仕事が減って楽になると思えばいいのかもしれないが、何だか淋しいと思う気持ちが否めなかった。
「あー……」
「……何やってるのあなたは……」
 頭を抱えて落ち込む桜田を、香山は怪訝な顔して見下ろしていた。
 そして丁度その時、社内のカフェでは天蓬と八戒が向かい合っていた。兄弟、というだけで社内で男同士が仲良くしていてもおかしく思われない。これは便利なものだと思いながらコーヒーに手を伸ばす。行き交う社員たちがちらちらと自分たちの顔を窺うのに気付いていたが、一々顔を上げて笑い返すのもどうだろう、とパスタとパン、サラダのセットを目の前にした天蓬は小さく手を合わせる。
「いただきます」
 パンを千切る天蓬を見ながら、八戒は微笑んでいた。よく考えればこんな風に一緒に昼食を摂ることも、彼がこんな風に微笑みかけて来ることも一ヶ月前には考えられなかったことである。そう思えばぞっとしなくもないが、可愛い弟だと思えばその寒気も消えよう。その“可愛い弟”の笑顔に力の抜ける笑顔で返して、天蓬はパンを口に入れた。そんな様子を、コーヒーカップを片手に見つめていた八戒は、何か思い出したようにカップをテーブルに置いた。
「そういえば、玄奘さんから表紙デザインの案が届いたんですよ」
「本当ですか?」
 パンを咀嚼し、コーヒーで流してから返事をする。そして八戒の差し出してきたクリアファイルを受け取った。
 ページを繰り、中のデザイン案に目を通す。そしてその彼らしさに笑った。大抵彼は、天蓬から粗筋や内容を聞いてからそれに合った被写体を選ぶ。しかしそうではなく、今回に限って内容も聞かずにデザインを送り付けてきた。三蔵とはあの日以来一度も連絡を取っていない。これが“最後だ”と告げ、彼を“愛している”と自白したあの日から。
 ファイルに入っていたのは、太陽の光が完全に落ちてしまう寸前の、僅かに光が差す夕闇の中に沈む街。その闇空に浮かぶのは細く鋭い銀の月だった。ある意味、最後の作品には相応しいかもしれない。それが彼の、最後の皮肉のような気がした。
「締切のことはあまりくどくど言いたくないんですが……」
 その前置きに天蓬は笑った。数ヶ月前まで鬼のような取り立てばかりしていたくせに、と思うと笑えてしまう。ファイルを彼に返してコーヒーカップに手を伸ばす。
「……大丈夫ですよ、締切は守ります」
 最後くらいは、と心の中で呟く。もう然程時間はかからないだろう。終わりに向けての準備も始めなければならなかった。
 微笑む天蓬をじっと見つめていた八戒は、少し微妙な表情をしていた。それは笑おうとして、失敗したような顔で。
「……どうかしましたか? 八戒」
「……いえ」
 そう問われて一瞬戸惑ったような顔をした八戒は、少し困ったように微笑んで、労しげな目で天蓬を見つめた。そしてすぐに見ていられないというように視線を俯けてしまう。
「八戒……?」
「……僕、今すごく嬉しいんです。あなたと家族になれたことが」
「……」
「ずっとこのままでいたいんです。……お願いですから……変わらないで下さいね」
 変わらないなんて、無理だと八戒も分かっているはずだ。しかしそう言うことしか出来なかったに違いない。聡い彼は、何かを察してしまったのかもしれなかった。出来ることなら、彼を哀しませることはしたくなかった。本当なら兄弟だということも、知らずにいてくれればいいと思っていた。そうすれば、ただの憎たらしい金蔓が仕事を放り出して消えた、というだけで済んだだろうに。
「……どうしちゃったんですか? 僕はいつでも、変わりませんよ」
 今までもこれからも、望むことは一つだけだ。ただ一つ変わってしまったのは、あの人が自分の人生に絡んでしまったことだけ。彼と出会ったことで、変われたならもっと幸せだっただろうか。


『仲良くやってるって。あいつら』
「……そっか」
 あれから久しぶりに電話をした捲簾が、悟浄とまず交わした言葉がそれだった。あの日、外で待っていた二人のところへ、天蓬に伴われて八戒が出てきた。目元は赤くなっていて、捲簾はそっと背を向けた。自分に見られることは本意ではないだろうから。天蓬に頭を撫でられて少し照れたように笑った横顔は、今まで見た中で最も人間らしいものだった。
『お前の言う通り、黙ってても勝手にどうにかなるのかもな』
「……ん」
 彼とは年末以来会っていない。自分は実家に帰省しなければならなかったし彼は仕事があった。そして年明けには彼はすぐまた小説の仕事が入ったとのことでなかなか会えなくなり、今に至っている。心配ではないわけではない。寧ろ、物凄く心配だ。しかし定期的に彼からメールが来るので、それで何とかその無事を確認していた。しかもその内容も食事はきちんと摂ったというようなことばかりで、彼はそんなに自分が食事のことばかり気にしていると思っているのだろうかと考えてしまう。
「で、ややこしいことになってた女とはどうなった?」
『まぁ……順調? もう駄目かと思ったけど、クリスマスに頑張ったからな……ところでお前、結局クリスマスはどうしたわけ?』
「……」
 一瞬何と答えようか迷ったその間を見逃さなかったらしい悟浄は、受話器の向こうで大袈裟に溜息を吐いてみせた。それに眉を顰めて捲簾は受話器を耳から僅かに離した。間を変に勘ぐられたら、終わりだ。しかしもう手遅れだった。受話器の向こうで悟浄が何となく面白くなさげに笑っている。
『へーそういうこと……まあ、お前も最初から大分ご執心だったしな。オメデトーゴザイマス』
「……してねぇぞ」
『嘘だろ?』
「本当」
 情けないことに、本当だ。実はキスにも至っていないなんて悟浄が知ったらどうなるだろう。本当に引っくり返って驚くのではないかと思えてしまう。それはそれで愉快だが、心の中は全く愉快ではない。ここは男の矜持だ。身体の関係が進むこと自体が心の繋がりを表すわけではないことくらいは分かっている。しかしそれは精神論であって。両腕にその身体を抱くだけで精一杯だったなんて、牙を抜かれたのかと言われても致し方ない。だから捲簾は言い訳もしなかったしする意味はないと思っていた。暫く悟浄は沈黙した後、呆気に取られたように呟いた。からかう気も失せたようだった。
『本当に好きなんだな』
 受話器から悟浄の子供のような呟きが耳に響いて、何だか笑ってしまった。こんな思いはきっと誰にも分かってもらえない。それでもよかった。決してそれが太陽の下で誇れない思いだとしても。
「うん」


++++


 パソコンをバッグに仕舞って、ファスナーを閉めた。そうしてじっとそのバッグを見つめて座り込んだまま、じっとその妙な寂寥感をやり過ごす。何も淋しく思うことはない。何も残さず全て持っていくのだから。しかし自分は失敗した。失いたくないものを増やし過ぎた。祖母のいない世界に、まだ執着すべきものがあるだなんて信じがたいことに気付いて、愕然とする。彼女を残すということが唯一の心残りで、多分それを失ったらもう自分は、何もかもなくしてふらりと消えてしまうのだろうと思っていた。だというのに、何だ、この様は。いつまでも未練たらしく優しい人々に甘え続けようとしている。しかしこれこそが本来の自分の姿で、甘ったれで幼く、酷く惨めなものだと分かっていた。だからこそ直視することなど出来はしなかった。プライドの高い自分は、これ以上惨めになることには耐えられなかったのだ。
 手に入れたまま、一生手の中で大事に抱えていられないものならば手に入れない方がよかったのだ。










2006/11/09