夕闇は人を淋しくさせる。編集室の窓から沈む夕日を眺めて溜息を吐いた。当分溜息を吐いても変に勘ぐられることはないだろう。全て、祖母を失った哀しみから来るものだと思ってくれるだろうから。そのことによる溜息がないわけではない。しかし大半は、悩むことが有り過ぎて頭が一杯になっての溜息だった。胸にもやもやした空気が溜まって、重苦しい。何だか胃も痛い。
「天蓬さん」
 書類を胸に抱えたまま窓辺でぼうっとしていた天蓬は、突然後ろから声を掛けられて肩を揺らした。そして慌てて振り返ると、香山が気遣わしげな目でこちらを見ていた。彼女も自分の欠勤の理由は聞いているのだろう。心配しなくてもいいと断ろうかと考えたが、それすら面倒に思えて曖昧に笑っておいた。
「どうかしましたか、香山さん」
「あの、桜田君が……」
 その言葉に顔を上げて入り口に目を向けると、そこには少し申し訳なさそうな顔をした男が立っていて、僅かに手を上げていた。それに思わず本当に溜息が漏れた。あの男は早速仕事をさせるつもりだろうか。まさしく鬼だ、と思いながら香山に礼を言う。その気遣わしげな視線から逃れるようにして、最高に不機嫌そうな顔で桜田の元へと向かった。
 その自分の顔が余程怖いのか、桜田は僅かに身体を強張らせている。その哀れな姿を見ていると少々溜飲が下がる気もした。彼の横まで歩み寄り、自分よりも背の低い彼を威圧感で以って押さえつける。
「あ、この度は御愁傷さ」
「口上は結構です。で、何ですか」
「え、ええ?」
 出鼻を挫かれてますます彼は混乱したようだった。そんな様子をにっこりと微笑んで見下ろす。
「今度は何の仕事ですか、八戒の手先の桜田君」
「手先……」
 悪の組織みたいじゃないですか、と悲しそうに言う彼を鼻で笑って先を促す。すると彼はすっかりしょぼくれてしまったような顔で唇を尖らせ、ぼそぼそと話を続けた。
「違いますよー……八戒先輩、昨日から休みなんです。具合が悪いそうで」
「まさしく鬼の霍乱ですね」
「……何か喜んでませんか」
「僕がそんな風に見えますか」
 はい、と一瞬真面目に答え掛けた彼は、その墓穴の回答を声として出す前に慌てて飲み込んだようだった。少しは利口になったらしい。しかし全ての答えが顔に出ている時点で失格だ。そんな彼を一睨みで窘め、腕組みをして再び溜息を吐く。
「それで、彼の具合が悪いことを態々伝えに来て下さったわけで?」
「あー……それと上から、そろそろ五作目の話が」
「そっちの話を先にしなさい。小賢しいですね」
 真っ先に仕事の話をしたら天蓬が不機嫌になると踏んで、ワンクッション置こうとしたのだろう。そんなことをしたところで、逆に後が怖いと分からないのだろうか。こめかみを人差し指でぐいぐい押して揉み解す。そして可愛子ぶって何も知らないというような顔をしてみせる彼の額を、中指で弾き、大袈裟に痛がる彼を呆れたように肩を竦めて見下ろした。暫く恨みがましげに天蓬を見ていた彼は、俄かに真面目な顔になり姿勢を正して、先程言いかけた口上を再び言い直した。
「……別に、平気ですよ」
 この一、二週間の自分の様子は、捲簾と悟浄、八戒を介して彼へとどのように伝わっているのだろうか、と笑った。その滅多に見ない真剣な顔に少々戸惑いながらも、何ということはない顔をして答えてみせる。それが自分の矜持でもあったからだ。しかし彼はなかなか引き下がらない。
「だって、天蓬先輩、小さい頃からそのおばあさんと暮らしてこられたんでしょ?」
「ええまぁ……でも、もう大丈夫ですよ」
 笑って首を振る天蓬にも、彼は納得の行かなそうな顔をする。
「平気なんて言わなくていいですよ……あ、そうだ、よければこれ」
「え?」
 彼は突然ごそごそとブリーフケースを漁り始める。そして何やら、やけに可愛らしいラッピングの包みを取り出した。呆気に取られて目を見開く天蓬に、彼はその包みを差し出してきた。
「……何でしょう」
「例のクッキーです。甘いもので元気を出して頂こうと思って」
 本当に作ったのか、と思いながらも差し出して来るその勢いに負けて、その包みを受け取る。満足げに頷いた彼は、「用事が出来たらまた伺います」とだけ言ってそのまま手を振って去っていた。まさかこれがメインの用件だったのではないだろうか、と思えば、今までの壮大な照れ隠しに少し笑えてくる気がした。
 しかし、手の平に載せた軽い包みを弄び、去っていく桜田の後ろ姿を見つめながら天蓬は考えていた。彼は、自分が幼い頃から祖母と暮らしていたことを知っていた。悟浄はそのことを知らないはずだ。ならば捲簾が悟浄に話したのだろうか。そして段々と伝わって桜田に至ったのか。しかし考えれば考えるだけ捲簾がそういったことを軽々しく他人に漏らす性格とは思えなかった。
(……何かおかしい)
 しかしそれ以上深く考えることもなく、天蓬はその包みを片手に編集室の中へ戻っていった。

 熱は去らない。目を伏せればまたすぐにあの熱が思い出せそうで、そんな自分を叱咤して首を振った。
 あれだけ色々なことをしてもらっていて、好意を向けられていることに気付かないわけがない。そしてそれが嫌ではない自分にもとうに気付いていた。しかし彼の気持ち、延いては自分の気持ちを受け入れることが、自分を何かに縛り付ける鎖になるならそれは決してしてはならないことだった。
 彼は既に自分の枷になっていた。それは、初めの内なら外すことが出来たものを、もう少し、あと少しだけと甘えの心を出して外そうとしなかったのだ。結果的にきつく締まってしまったそれが自分を縛めて逃がさない。自業自得だった。全てを切り捨てていくと言いながら、結局、本当に欲しかったものは切ることなど出来なかったのだ。


++++


「祖母さんが亡くなったそうだな」
「ええ、よくご存知で。大方桜田を脅したんですね。やめて下さいね、気の小さな子なんですから」
 そう言うと彼は鼻で笑った。まあ彼にとってはどうでもいいことだろう。二人カフェの窓辺の席で向かい合いながらも、視線は滅多に交わらなかった。滅多に見られぬ美男が珍しいのか、近くの席に座っている女性からの視線が痛い。彼といるだけで自分まで注目されるのが昔から大嫌いだった。どこをどう見たら自分が女に見えるのか、三蔵がよく女と出掛けていると噂されたことが あった。噂の主は余程大柄な女が好みと見える。
「お前がこの世に執着する理由の片方が消えたか」
「そういうことです」
 その言葉の意図するもう一つの意味にも気付いていたが、天蓬はもう隠すことを諦めていた。それが誤りならば否定もしたが、彼の予想が事実であることももう明らかだった。ならば隠すことももう無駄としか言えない。しかし突然態度を変えて事実を肯定した天蓬に、向かいに座った三蔵は訝しげな顔をした。しかし天蓬は特に表情を変えるでもなくテーブルの上の書類に視線を落としている。
「どんな心境の変化だ?」
「自分に素直になろうかと思いましてね。……隠して否定しても、本質は変わるわけではないですし」
 そう、彼に気持ちが傾いていることも事実で、自分がこの世に執着する理由が彼のみになってしまったのも事実だった。それは隠しても否定しても変わるものではない。どうせ残りの期間は長くない。ならばその期間だけでも自分に素直になるのも悪くはなかろう。
「答えは出たのか」
「ええ」
 その答えとは、この前彼が去り際に言った言葉のこと。
“その男がいつまでもお前のところへ来るという保証が、どこにある?”
 そういう、彼ならではの皮肉な物言いだった。それを真剣に考えてみたのは単なる気まぐれで、しかし彼はそれも全て見通しているようだった。それが昔から憎かったけれど、それに甘えていたことがあったのも事実だ。
「聞かせてもらおうか」
 静かに言う彼は言い逃れを許さない様子だった。
「……保証なんてありません。傷つくのが嫌なら、彼がいなくなる前に自分がいなくなるしかない」
 その言葉を、手を組んだまま聴いていた三蔵は、少し間を置いてからゆっくりと口元を歪めた。
「相変わらずの、馬鹿で捻じ曲がった答えだな」
「多分、これは死ぬまで治らないでしょう」
「そうだな。……それは俺もだろう」
 お互い、とても愉快とは言えない過去から捻じ曲がってしまった根性は、死にでもしなければ治りそうにはなかった。そんなところもよく似た二人だった。だから惹かれたのだろう。天蓬はある種の同族嫌悪から三蔵を不快に思い、三蔵は天蓬の、顔に貼り付けた仮面の裏側を見透かした。誰より相手のことが分かってしまうからこそ相手の悪いところがよく見えて、誰より相手のことが腹立たしくなるのだ。
「……あなたのことが憎いんじゃない。だけどどうしても、あなたの悪い部分が目に付いてしまうんです」
「俺もだ。お前は嫌味で根性が捻じ曲がってて、おまけにとんでもなく馬鹿だとな。俺が一番お前のことを知っている」
 そう言い、コーヒーを口に運ぶ彼を見て僅かに笑った。反発もしたが、これだけずけずけと物を言う彼とだから、気を置かずに付き合ってこられたのだ。尤も、生まれ変わっても出会いたいなんて絶対に思わないけれど。
「あなたのこと、昔から好きになったり嫌いになったり落差が激しいけど、あなたの撮る写真だけはずっと嫌いになったことがありませんでした。……次の表紙デザインもよろしくお願いしますね」
 すると彼は片眉を上げ、訝しげにゆっくりと顔を上げた。その顔を、僅かに首を傾げながら見つめる。
「……珍しくやる気なんだな」
 勿論だ。彼は暫くじっと天蓬を見つめていたが、次第に諦めたように口元を歪め、肩を竦める。そして鋭い、紫の眸で射抜くように見つめられた。それまで少しも動じなかった天蓬も、指先を小さく震わせた。
「――――……最後にするつもりか」
 天蓬は何も答えなかった。ただひたすら薄く微笑んだままでいた。三蔵は何も言わずにじっとこちらを見ている。不躾なほど真っ直ぐに見つめられているのに、少しも不快には思わなかった。鋭く強く、睨まれているかのようなのにそれが心地いいというのだからおかしい。
「……勝手に、満足のいくようにやれ」
「ありがとうございます。好きですよ」
「黙れ」
 三蔵は鼻から息を吐いて怒ったような顔をする。その横顔が、曇ったガラスに映って少し物憂げに見える。ガラスに映った彼に向かって微笑み掛けてみた。ガラスに付いた結露が水滴になってガラスを伝う。そのせいで、ガラスに映った彼が泣いているように見えた。この男が、泣くはずなんてないのに。
「じゃあ、大嫌い、ですよ」
「……あの男は、どうなんだ」
 あの男、ということは、三蔵は彼のことを見たことがあるのだろうか。彼のことだからとっくに調査済みなのかもしれない。三蔵は彼のことをどう思っただろうか。長く付き合わねば分からないかもしれない。しかし自分は分かってしまった。
「愛してるんです」
 笑われても構わないと思った。しかし三蔵は窓の方を向いたまま、ゆっくり一度だけ瞬きをするだけだった。それを見て天蓬は俯く。
「……多分ね」


++++


 衝動と自制心をぶつからせて、ついうっかり何の間違いからか衝動が勝ってしまったあの夜から一週間が経った。未だに自分のあの行動が一体何を変えたのか、結果が出ずにいる。鏡の前、寝惚け眼のまま歯ブラシを銜えて目を擦る。いつからか休日の朝に早起きするのが習慣になっていた。歯を磨いて顔を洗い、タオルで顔を拭きながらリビングへ戻る。そして珍しく、朝早くからインターフォンの音が響いたことに、眉を寄せた。こんなに早くから来客があることは滅多にないのに、と思いながらもインターフォンの画面を覗き込む。
「ばっ……」
 慌ててタオルをテーブルに放り投げて玄関へ向かう。画面には、きょろきょろと興味深げに辺りを見渡す天蓬の姿が映っていた。

「おはようございますー」
 朝一番で見るほやほやした笑顔は力が抜ける。慌てて出たにもかかわらず、そののんびりさに脱力してしまう。コートを着込み、紙袋を一つ抱えた彼をとりあえず玄関に引っ張り入れてドアを閉めた。
「……何しに来たのお前……」
「あれ、来ちゃ拙かったですか。じゃあこれ置いてすぐ帰ります。すぐ出して形を整えた方がいいですよ」
 そう言って彼は、持っていた紙袋を捲簾に押し付け、そのままドアを開けて出て行こうとした。その腕を掴んで引き止めつつ、袋の中身を確かめる。中に入っていたのは、クリーニングの袋に入ったままの礼服だった。この前自分が彼に貸したものだ。
「これをお返しに来ただけなのでお構いなく。それでは」
「待て待て待て」
 来た時と同じような笑顔でさわやかに出て行こうとする彼の腕を引いた。彼はきょとんとしたように振り返って目を瞬かせる。
「上がれ」
「いえいえ朝早くからお邪魔でしょうし」
「本当にそんなこと思う奴はこんな時間に来ねぇだろ」
 それもそうですね、と笑いながら彼は靴を脱いでいる。指は赤く、頬も僅かに紅潮している。余程外は寒いのだろう。彼は車を持っていなかったはずだ。ならば歩いてきたということだろうか。こんな朝早くから。見上げた掛け時計はまだ七時台だ。いつもいつも無理に起こそうとすればするほど寝汚く布団に深く深く潜り込んでいくタイプだというのに今日は一体何があったのか。裸だった上半身に取り合えず何か羽織るべく、寝室へ入る。彼はふわふわ欠伸をしながら勝手知ったると言わんばかりにリビングへと歩いていった。
 そして捲簾が上にシャツを着て出て来ると、彼が思い切り豪快にくしゃみをした瞬間だった。
「おいおい……大丈夫か」
 ティッシュ箱を差し出しながら言うと、彼は何やらくぐもった声で頷き、差し出されたティッシュを受け取って鼻に押し付けた。
「無理して来なくても、俺が行くって知ってるだろうが」
 呆れたようにそう言うと、目だけで捲簾を見上げた彼はきょとんとした目をした。
「いえ、お散歩してたら何かこの勢いで行けちゃいそうだなぁって思ったので。だからどうせならそれをお返しに行こうと」
 やはりこいつは馬鹿だ。ずびずびと鼻をかんでいる姿を見て、小さく溜息を吐いた。行動が突飛すぎる。腕組みをして呆れた目を向ける捲簾に、鼻をかみ終えた彼は笑って言った。
「でも来て頂かなくてよかったです。今日はこれから用があるのですぐに帰りますし、家にもいられないので」
「用?」
「おばあちゃんの家の片付けに行くんです。要るもの要らないものちゃんと調べないと」
 彼は家を売り払う予定でいる。家にある必要なものは持ち出さなければならないのだ。だからこそ彼はこんなに早く起きたのだろう。彼の祖母の家は彼の家から捲簾の家の地区を通り越してその先にある。ひょっとしたらここに来たのはそのついでだったのかもしれない。そう思うと何だか少しつまらない気分になったが、彼の祖母に申し訳なくなってその考えを頭で打ち消した。
「今日明日頑張ってもまだまだ足りないでしょうから、来週も頑張らないと」
「手伝うっつうのに」
「何から何まで手伝って頂くのは申し訳ないです」
「ここまで首突っ込んだんだ。どうせ今日も予定は入れてない」
 煙草を銜えて火を点けながら言う。パッケージを差し出して煙草を勧めると、彼は手を上げて断り、自分のポケットから煙草を取り出した。それを一本銜えるのを見て、火を貸してやる。
「どうも。……すみませんね、本当におんぶに抱っこで」
「構わねぇっての。しおらしすぎて、変だぞお前」
「僕はいつだって慎み深いですよ」
「ははは、笑わすな」
 軽口に軽口で返しつつ笑う。しかし、意識すればするだけ、目を合わせることが苦しくなる自分を感じていた。彼の様子がいつもよりおかしいことにも気付いていた。しかし自分のことで精一杯で、彼の様子に十分気を配ることは出来なかった。


 朝食など摂っているはずもない天蓬に簡単な朝食を出し、腹に入れさせる。少しは食事を摂っていなければ、これから一日中家の片付けをするというのに体力が持たなくなってしまう。そして食後、少し落ち着いてから車に乗り込み、彼の祖母の家へと向かった。空模様はぐずつき始め、雲行きが怪しい。風の強い日だった。
 その家に足を踏み入れるのは葬儀の日以来だった。元々綺麗に片付けられた家だった。
「あまり物を持たない人でしたから。本や手紙類は処分して、家具は売れるものは売り払ってしまいます」
「あれ……この前まであった時計とか、花瓶とかは……?」
「価値のありそうなものは、それぞれご友人に引き取ってもらいました」
 趣のある振り子時計や鮮やかな色使いの花瓶。家を華やかにしていたそれらの消えた部屋は、やけに寂しげに見えた。彼は居間にある遺影の前に座り、蝋燭や線香に火を点けている。その暖かい光が遺影を照らす。それを確認して彼は立ち上がり、早速腕まくりを始めている。これからやることは幾らでもあるのだった。
 それからが目まぐるしかった。押し入れの中身を引っ張り出し、箪笥類から物を取り出して家から運び出し、ごみを袋に纏める。さながら引越業者にでもなった気分だった。黙っていると指先が冷えてくるくらいだったのにもかかわらず、既に汗ばんできている。袖をまくり上げた腕で額の汗を拭って、溜息を吐く。息は白いのに身体は暑い。しかしこのままでいると汗が冷えて風邪を引きそうだ。
「タオルなら何かいっぱいあるのでどうぞ」
 彼が遠くから放り投げてきたのは、袋に入ったままのスポーツタオルだった。しかも保険会社の名前入りである。相当古そうなそれだが、このまま汗を垂れ流しているよりはましだ。ビニール袋を開けて汗を拭い、首から提げた。
 彼はというと、いつもの怠け者の風体からは全く想像出来ないほどせかせかとあっちこっち走り回って働いている。仕事の時もこれくらい真面目に働いているのだろうかと思うと何だかおかしい気もした。暫く手を止めてその姿を見ていると、視線に気付いた彼が顔を上げて訝しげな表情をする。
「……何か?」
「いーえ」
 もう一度タオルでこめかみを拭って、再び作業に取り掛かった。
「これが一番困りますよね」
 暫く黙って手を動かしていた彼が、突然そう一人で呟いた。一体何をしているのだろうと、ごみを纏めていた手を止めて彼の背後へと近付いてみた。背中越しに覗き込むと、彼の前には古びたダンボール箱が一つある。中身は、全て写真のアルバムだ。
「写真……も、捨てるしかないですね……」
 普通ならば取っておくところだろうが、彼にとっては不要なものでしかないだろう。捲簾も余計な口を挟むことなく、そのまま元の作業を続けるべく彼の近くから去ろうとした。その瞬間、家中に古い家屋特有の少し間抜けなチャイムが鳴り響く。その音に、彼も少し驚いたように顔を上げた。そして少し戸惑った顔をしつつも立ち上がり、玄関へと向かっていった。

「どちら様……」
 そう言いかけた天蓬は、開け放たれたままの玄関に立っている姿を見て目を瞠った。その後ろを追った捲簾もまた驚きに目を見開く。
「悟浄……と……」
 戸口に立っていたのは、悟浄と八戒だった。しかもこの休日に何故かきっちりとダークカラーのスーツを着ている。八戒は少し硬い表情で俯き加減のまま顔を上げようとしない。悟浄の方は、何故か捲簾までいる状態を見て少し驚いたようだった。しかしすぐに天蓬へ向き直って真剣な顔になる。
「線香、上げさせてもらえないかと思って」
「あ、はい、構いませんよ……荒れ放題ですけど、どうぞ」
 しっかりとスーツを着た二人の目に、この寒い日に薄着で汗をだらだらさせている自分たちがどう映っているのかが少々気になったが、天蓬が快く二人を迎え入れたので、それに倣って捲簾は廊下から退いた。悟浄は八戒の背を軽く押して、上がるようにと促している。八戒は俯いたまま、押されるままに重そうな足取りで靴を脱ぎ始めた。その態度が一体どういうことを意味するのか、捲簾には全く理解出来そうになかった。
 悟浄に背を押されて廊下を歩く八戒と、その後ろをついていく天蓬。そしてその後を捲簾はゆっくりとついていく。
 居間に入ると、短くなった蝋燭がその火を風に揺らしていた。線香は既に燃え尽きている。その前に、まず先に八戒が膝をついた。そして手を線香に伸ばす。その手が震えているように見えたのは錯覚ではなかっただろうか。隣に立っている天蓬の様子を横目でこっそりと窺う。彼は静かに立ち尽くしたまま、八戒の後ろ姿をじっと見つめていた。八戒は静かに手を合わせている。その姿を、悟浄もまた静かに見守っているようだった。
 そしてやっと顔を上げた八戒に代わって今度は悟浄が線香を上げる。それが済むと、部屋には少し微妙な空気が流れた。彼らは、何を話そうとするわけでも何をしようとするわけでもないのに、帰る動きを見せようとしないのだった。決して早く帰って欲しいわけではないのだが、その彼らの様子は少しおかしかった。しかし天蓬は急かすでもなく、そのままのんびりとした声を掛けた。
「暖房がなくて寒いんですけどね、よかったらお茶でもどうですか」

 数分後、居間には更におかしな空気が流れていた。座卓の前に天蓬、その向かい側には悟浄と八戒が正座している。捲簾はその妙な雰囲気には耐えられず、お茶汲みがてらその場に座らずにいた。理由のない沈黙は苦手なのだ。いつも多弁な悟浄までも黙りこくっているのが気持ち悪い。湯を沸かしつつ、台所からその妙な三角形をそっと窺った。
「うちがよく分かりましたね」
 にこやかにそう言う天蓬に、二人は少しだけ顔を強張らせたように見えた。その言葉でやっと気付いたが、そう言えばどうして二人はここの場所が分かったのだろう。そもそも、どうして彼らが。悟浄ならば有り得なくもないが、あれだけ常に天蓬に辛く当たっていた八戒がどうしてこの段になって、わざわざ線香など上げに来たのか。
 天蓬もその違和感に気付いていながら、微笑んでいるのだ。或いは、もう答えに辿り着いているのか。
「時に八戒」
 天蓬に声を掛けられて、八戒が肩を揺らすという目に見える反応を返す。相当動揺しているだろうことは誰の目にも明らかだった。
「具合が悪くて先週少し休んだそうですね。もう平気ですか?」
 天蓬はただ優しくそう言う。それを黙って聴いていた八戒は、俯いたまま僅かに辛そうに顔を歪め、それでも小さく頷いた。捲簾は彼らのことも気になっていたが、後ろで火にかけた薬缶が音を立て始めたので、慌てて台所へと戻るしかなかった。そして、手早く三つの茶碗に茶を淹れた。
 茶を盆に載せて居間に戻ると、再び戻ってきた沈黙の中で三人が座っていた。少し緊張するのを感じながらも座卓に茶碗を下ろす。
「ありがとうございます。あれ、あなたの分は?」
「あ? いいよ俺は」
「温まりますよー?」
 個人的には身体ではなく雰囲気を温めて欲しかった。暫くすると諦めたのか、彼は自分の分の茶に口を付けた。そして年寄り臭く息を吐く。緊張しきった空気の中でがっくりさせられて肩を落とす。
「……爺さんかお前は」
「失礼な。まだ耄碌してませんよ」
 軽口を叩きつつも、捲簾は目の端に八戒を捉えていた。そして彼の膝に載せられた握り拳が震えていたことにも、悟浄がそれを不安げに見守っていたことにも。
「……あ、じゃあ、悪いけどそろそろ失礼するわ」
 悟浄が唐突に切り出した。それに天蓬と捲簾が反応する前に、今まで俯いていた八戒が一番に顔を上げた。
「待って下さい」
 鋭い声が空気を裂き、三人とも動きを止めた。静まり返った空間に一瞬唇を噛んだ八戒は小さく頭を振り、そして姿勢を正して天蓬に向かって真っ直ぐに視線を向けた。
「あなたに、謝らなければならないことが、数え切れないくらいあります。出会ってから今までのことと、今ここにいることと、……そして、僕がこの世に生を受けたことも」
 悟浄の紅い眸が俄かに緊張を帯びるのに、捲簾もまた身体を強張らせた。そんな中、天蓬だけが変わりない眸で、静かに八戒を見つめかえしていた。そこまで一気に言い切った八戒は、息を継ぐように一度俯く。そして再び顔を上げた。
「あなたを捨てた女性は、今の僕の母です」
 悟浄がその眸を伏せ、捲簾は思わず声を漏らしそうになるのをすんでで飲み込んだ。そしてゆっくり、八戒と天蓬を交互に見つめた。強張り、突付いたら泣いてしまいそうな八戒と、そのままの表情でゆっくりと瞬きをしている天蓬。時計のないその部屋の中、時間がどれだけ流れたのか、捲簾には分からなかった。
 どれだけ時間が経ったのか、そんな八戒を静かに見つめていた天蓬は大きく息を吐いて、再び茶を口にした。まだ湯気が立ち昇っているのを見ると、まだそんなに時間は経っていなかったらしい。そして彼はその茶碗を座卓に下ろし、ほうと息を吐いてから静かに微笑んだ。
「いやだなぁ、……知ってますよ」
 思わず手にしていた盆を取り落とし掛けて、ぎゅっとその手に力を込めた。各々驚愕する面々に全く関せず、彼は小分けにしてまだ茶を飲んでいる。そして、やっと飲み干した茶碗を座卓の中央に置いて、目を見開いた八戒に向かってそっと笑い掛けた。
「“ハッカイ”という子が彼女の子供であることだけなら、僕は四歳の頃から知ってましたよ。あなたが生まれる、数ヶ月前のことです」
「……どうして」
「最後に彼女がこの家を訪れた時……もう三十年近く前ですね。丁度この居間で、彼女が言ったんですよ。本当に愛している人との間に本当に欲しかった子供が出来たと。……そしてその子に“ハッカイ”と名付ける予定だと」
「な……」
 八戒が言葉を失う。悟浄は居た堪れないという風に目を伏せた。
「あんまり嬉しそうに言うから、おめでとうって言うしかありませんでした。そしてその日、彼女がこの家を追い出されて離縁されて、それからは一度も会ってませんけどね」
 戸籍上では全く係わりのない、しかし確かな兄弟だったのだ。
「その“ハッカイ”という子供があなただと、会ってすぐに分かりました。嫌になるほどあの女に似てますから……まさかあなたもこのことを知っているとは、最近まで全く知りませんでしたけどね」
「最近……?」
 思わず声を漏らした捲簾に、天蓬は頷いた。そして何か思い出すように虚空を見る。
「八戒の部下が、僕が幼い頃から祖母と暮らしていたことを知っていたんです。最初はあなたが悟浄に話して、それが彼に伝わったのかと思ったんですが……あなたが話したんですね、八戒」
 最後の方は八戒に向けて、そう言う。八戒はどこか怯えた風に俯いたままで小さく頷いた。そして小さく謝罪の言葉を口にする。それに、天蓬は驚いたような目をして首を傾げた。そして全く顔を上げようとしない八戒を見て、しようのない子供を見るように苦笑した。
「あなたはいつも、本当に何を考えているのか分かりませんね。何を謝るって言うんですか……普段のハードワークのことなら是非謝って欲しいところですが」
「おい……」
 このタイミングで冗談を言うのか、と天蓬へ制止を掛ける。しかし彼は意識から捲簾を弾き出してしまったかのように全く反応しない。
 彼は座卓に手を掛けて息を吐きながらゆっくりと立ち上がった。そして捲簾の後ろを通り過ぎて、八戒の横に立ち止まる。そして、犬にでも触れるようにその頭を撫でた。八戒の髪が、天蓬の指に触れられるに倣ってさらりと流れる。愛おしむ視線でそれを見下ろしていた天蓬は、徐にその場にしゃがみ込んだ。そして俯いたままの八戒を撫でながら、抑揚なく呟く。
「ずっと、つらかったですか」

 呆然とその光景を見つめていた捲簾は、急に肩を叩かれて我に返る。そしてそのまま腕を引かれてつんのめりそうになる。腕を引いたのは悟浄だった。彼は腕を掴んだまま廊下の方を指差す。暫く考え、漸く合点がいった捲簾は、手にしていた盆を畳に置き、静かに悟浄と共に居間を後にした。


「……あぁさみ。上着忘れてきたし」
 玄関の外で並んで立ち尽くしながら、既に星のちらつき始めた夕空を見上げる。雲はすっかり何処かに消えて、空は青や紫のグラデーションが美しい。そんな空を見上げながら、捲簾はくしゃみを一つした。そして恨みがましげに隣に立っている悟浄を睨む。
「……で、何。お前は知ってて付いてきたわけ」
「ん……昨日聞いた。んで、ちゃんと話したいって言うから、線香がてら行くっていうのはどうだろうと思って」
 何も知らなかったのは自分だけらしい。ということはあの場で本気でおろおろしていたのも自分だけ。淋しいような情けないような気分になりながら肩を竦め、洟を啜る。空が綺麗だ。明日もよく晴れるだろう。
「……あ、そ」
「悪かったって」
「何にも謝るこたねぇよ、お前も、あいつも」
 これまで、八戒が天蓬という兄の存在を知ってどんな風に苦しんできたのかは分からない。それは当事者にならなければ分からないことだし、捲簾にはとても理解出来そうにない。上手く接することが出来なくて結果的に突き放すことになっていたというのも、捲簾には理解出来なかった。ただそれが、天蓬の前では何でもないことだというのは確かだった。彼は四歳の頃から既に弟の存在を知っていて、すっかりそのことが頭に染み透り、理解してしまっていたからだ。だから彼にとってのそれは、きっと今日の夕飯のメニューよりも軽い。コーヒーに入れる砂糖の量についてよりもだ。
「なるようになるって」
「ならなきゃ困るんだけど……」
 何もかも突き放しているように見えて、意外に周りのことに心を痛めている友人を横目に、捲簾は欠伸をした。
「その内、黙っててもちゃんと“兄弟”になれんだろ。よく見りゃ顔もよく似てら……」
 満天の星空がちらちら光り、街を夕闇に沈めていく中、吐いた息で視界は俄かに白く染まった。


 冷静なままいるように見えて、天蓬も少々困惑していた。いつも自分が鬼呼ばわりしている相手がこんなでは、調子が狂う。ふと頭を過ぎる『鬼の目にも涙』という言葉に、自分の神経を疑って頭を振った。彼の自分に対する辛い当たり方は、自分という兄の存在を疎ましく思ってのことだと考え、それで十分納得していたので、尚更混乱してしまう。思ったよりは、嫌われていなかったのだろうか。俯いたままの彼の頭を撫で、そっとその顔を覗き込んだ。
 自分は、彼には疎まれて当然の存在だろうと思っていた。あの女にとっては自分は過去の汚点であり、存在がばれてしまえば現在の家族を壊すことになりかねない。現在の夫は高給官僚だという。自分の父のような愚かな男とは違って、きっと利口で誠実な男なのだろう。彼に似たからこそ八戒がこうして利口な大人に無事育ったのだ。あの女に似ていたらそれこそ、ただの阿婆擦れにしかならない。
「あなたが謝ることは、何もないんですよ。あなたが生まれたから僕が捨てられたのではありません」
「……でも、……」
 ぱたぱたと雫が彼の膝や、震えるほどに握り締められた拳の上に散る。何だか堪らない気分になって、濡れたその拳に手を伸ばした。そしてその硬く握られた拳を両手で包み込んで、数回宥めるように軽く叩く。そしてしようのない子供を前にするように小さく笑った。
「……どうしてそんなに泣くんです。子供みたいじゃありませんか」
 身体を屈めて彼の顔を覗き込み、親指でその濡れた頬を拭った。そして濡れてしまった眼鏡を外させてやる。しかし指だけでは足りなくて、天蓬は身体を起こして部屋の隅に積んである未使用のタオルを腕を伸ばして取った。そして雑にビニールを開いて、中のタオルを持って再び彼の横に座って屈み込んだ。タオルで彼の手と濡れた膝を拭いてやる。
「泣かないで。……僕はあなたを恨んでなんていませんよ」
 両手で顔を覆って啜り泣く、その背中をさする。何か言おうと空回りするその唇を見て、その口に耳を近づけた。
「僕は、あなたに、あんな……」
「……何とも思ってませんよ? あのくらいで傷付くような僕じゃありませんし」
「……あなたに拒絶されるのが、こわくて。どう接していいのか、わからなかったんです」
 子供のように泣きじゃくる肩を撫でて抱き寄せる。抱き寄せられるにしたがって凭れ掛かってくるその身体を支えて、その髪を撫でた。どんな風に接していいのか分からないのは八戒だけではない。戸惑いながら撫でていることしか出来ない自分に歯噛みしながらも、ただひたすらにその細い身体に腕を回して、周りから必死に守るように抱きしめていた。


「で、お前こそなんでここにいるんだよ」
 散々捲簾に責めるような目で見られて立場が悪くなった悟浄は、少し決まり悪そうな顔でそう言い返した。そう言われると捲簾も返す言葉がない。週末毎の家の行き来のことも、悟浄には話していなかった。話すつもりでもなかった。出来るなら隠したままでいたかった。
「……手伝いだよ、手伝い」
「暫く見ない内に仲良くなっちゃってまぁ……」
 悟浄が来てから天蓬と言葉を交わしたのは二、三だけだ。なのにもかかわらず彼はその僅かな会話だけで何かを嗅ぎ付けたらしい。そういうことにばかり長けた男だ。しかも自分も彼も男同士だということを軽く飛ばしてしまっているのが悟浄らしいと言えるかもしれない。隠すことが出来ないのなら、黙っているしかない。彼がじっと様子を窺って来るのを避けて空を見上げた。綺麗な空だ、と現実逃避をしてみる。
「……ちなみに、どのくらいまで」
「……お前、どうしてそうお前はそういうことばっかり……」
 そう怒ったように返しながらも、心の中は彼の方へと向かっていた。どこまで、なんてそんなことを言われても答えようがない。何も、というのは嫌だった。しかし今まで散々肉欲に走ってきた自分が今更プラトニックラブを語ることが、自分の今までの経歴を良く知る悟浄の目にどれだけ滑稽に見えるだろうか。精神的な愛なんて、手を出すことが出来ないことについてのただの言い訳に過ぎない。
「うるせぇよ……」
 呟く声が寒空の下で白い息と共に消えていった。











2006/11/07