当分缶詰なので会えません、というメールが来てから三週間以上が経った。冬も深まり、もうすぐ初雪かと言われる季節になった。朝晩も酷く冷えるようになった。考えるのは、彼がきちんと体調管理をしているかどうかということばかりだった。
 そしてその朝、ニュースの注目の本を紹介するコーナーにて件のメールの意味を知るのだった。新旧作家の短編作品集だという。奴は短編作家だっただろうかと思いながらテレビに目をやり、そして同時進行でパンを齧りながらネクタイを締める。朝からは厳しい濃い目のメイクのアナウンサーが説明をしている。そして彼女の口にした、その本のテーマに思わずテレビを二度見した。
 決しておかしくはないのだが、何だか彼には似つかわしくないそれで、よく彼が受けたなぁと思ってしまったので。
(『家族』……)
 昼休みに足を運んだ書店で購入してきたそれをぺらぺらと繰る。豪華な顔触れの中にいる彼の名は少々異色だった。別に、彼が家族について語るのがおかしいわけではない。彼は祖父母に育てられたというだけで天涯孤独なわけではない。しかし彼が『家族』というものに対して少々他の人間とは違った見方を持っているだろうことは事実だった。『家族』というものに対していい印象を持っているかどうかも、定かではない。彼の考えるそれが、自分の考えるそれとは全く違うであろうことも分かっていた。
 そんな彼の書く『家族』がどんなものか非常に気になったが、読むのは後にして本を抽斗に仕舞った。そして再びパソコンに向かおうとして、携帯電話のランプが点滅しているのに気付いた。嫌な予感を感じつつもそれを開くと、やはり予想通りの名前が表示されていた。一瞬がっくりしつつも内容に目を通し、すぐにそれを閉じてデスクの隅に置いた。

「知ってたか? あいつがまた小説書いてたなんて」
 夜のカフェには不釣り合いな男二人が真面目な顔を突き合わせていた。彼は何も知らなかったらしく、自分と同じく朝のニュースで見て驚いたようだった。何も話さなかった天蓬に僅かに憤っているようでもある。そんな悟浄を見て捲簾は苦笑した。幾つになっても子供っぽいところのある友人である。
「俺も知らなかったよ」
 メールのことは、話したら拗ねそうだったので黙っておいた。週末毎に自分が彼の家を訪れていることも、悟浄は知っているのか知らないのか分からない。どちらにしても別に話す必要はないものだ。彼の手元には捲簾の買ってきた例の本が置いてあり、ぺらぺら繰られていく。シンプルで綺麗な装丁だが、今回はあの玄奘という男は係わっていないらしい。
「八戒から聞いてなかったのか?」
「いいや、最近会ってなくてさ。仕事が詰まってるらしい」
「ふーん……」
 そう言いながら彼から本を取り返し、天蓬のページを選んで開いた。ところで八戒は天蓬の事情のことを知っているのだろうか。彼はどういう思いでこのテーマを請け負ったのか。直接聞くのも躊躇われるその疑問を心の中に留めつつ、ざっとページに目を通した。こんなところでは読んでも内容が頭に入らないので、とりあえず家に帰るまで待とうと本を閉じる。するとどこからか携帯電話の振動する音が聞こえてきた。一瞬自分のものだろうかと胸ポケットに手を当てるがそうではないことが分かり、視線を巡らす。すると、目の前の悟浄が慌ててポケットを探り始めた。そして引っ張り出した携帯電話を見てがくりと肩を落としている。
「どうした、女?」
「ああ……」
 その落ち込みようから見て、どうせ浮気でもばれて修羅場になっているのだろうと笑う。どうせするならばれないようにやればいいのに、彼は最終的に詰めが甘いのだった。隠し通せないところに彼の優しさがあるといえばそうかもしれないが、浮気をする時点で女性にとっては優しいの優しくないだのの問題ではないだろう。
「で、そういうお前はからっきしなわけ?」
「……ああ、まあな」
「クリスマスも近いってのに、淋しいねぇ」
 そう言えばそうだ。窓の外は寒そうで、もうすぐ雪も降りそうだ。ここ数年なかった一人ぼっちのクリスマスも冗談ではなさそうだ。別に一人でいることは苦痛ではないし、女と二人でクリスマスを過ごすことがステータスだとも思っていない。ただ一つ気になるのは、彼がどう過ごすのかということだった。花見も好まないという彼だから忘年会もそこそこに済ませるだろうし、誘われたところでパーティーになんて行きそうもない。きっと恋人もいないだろう。
(そこが一番の疑問点だけどな……)
 彼は進んで自分のことを話すタイプではない。だから捲簾がそう思っているだけで実はそうではない、ということも多々あるはずだった。ただ捲簾が訊かないだけ、天蓬が話さないだけだ。天蓬は話す必要などないと思っているだろうし、捲簾は一歩踏み出して関係の形が変わるのを恐れている。二人ともがそう思っている以上何も変わりはしないだろう。変わらないことがいいことかどうかは別にしてだ。
 一方、捲簾の見る前で悟浄の顔色は徐々に悪くなり始めていた。風向きが怪しいのか。
「……ちょっと俺行かないと駄目かも」
「ああ、うまくやれよ」
「ワリ、じゃあまた今度な」
 慌てて席を立ち、カフェを出て行く後ろ姿を見て少しだけ笑った。そして自分のカップに残ったコーヒーを飲み干して、伝票を持って席を立つ。悟浄がいなくなった以上、こんな洒落たカフェに一人でいる理由はない。特に今日は家に帰ってやりたいこともある。会計をし、コートを羽織って外に出た。吹き付ける北風に肩を窄めて、向かい風に目を細める。早くも今週末のことを考えつつ、華やぎ始めた街並みを横目に、光に背を向けて真っ直ぐに歩き出した。
 あの夜、あれから家に帰って散々飲み明かして、二人とも何時の間にか眠っていた。彼は辛うじてブランケットを掛けていたが、目覚めた朝は酷く冷えていた。あれから彼が風邪を引いていないかどうかが心配だった。しかし、いつも何かから逃げるように小さくなって縮こまって眠っている彼がその日、僅かばかり穏やかな顔で眠っていたことに、安心感と愛しさを感じたのだった。会う度気付く、またいつもと違う彼の顔に限界を感じ始めていた。空缶の転がるがらんとした部屋の中、彼の小さな寝息だけを聞いて、暫くじっとしていた。

 豪華作家陣の描く親子、兄弟、夫婦と並ぶ中で、彼の描いた『家族』は異色だった。一人の男と、籍を入れる前に亡くなった恋人の残した一人の男児。その、血でも戸籍上でも繋がりのない二人の話である。彼以外にも擬似的な『家族』を描いた作家がいた。しかし彼の描く奇妙な形の『家族』は一際異彩を放っていた。しかし著者である彼自身は奇を衒ったつもりはないだろう。彼は普通の『家族』が描けないのだ。それは分からないからである。
 ソファに背を預けてページを繰っていた捲簾は、目を瞑って目頭を揉んだ。そして壁に掛かったカレンダーを見る。今日は水曜日。週末まであと二日。いつもはあっと言う間にやって来る週末がこんなに遠く感じたのは久しぶりだった。これではまるで子供のようだ。
 どうしようもなく会いたかった。


 そう言えば彼にこんなに長く会わずにいるのは久しぶりだった。もう一ヶ月以上になる。冬の初めだったあの頃からすっかり寒くなり、朝晩も何枚も布団を掛けて眠らなければならないようになった。何とか書き上げた短編も無事掲載され発売された。テーマに沿わないと批判を受ける覚悟はあったがそういうこともなく、再びただのライターとして働き始めている。
「……何でしょうこれは……須賀」
 久しぶりに編集室へ出勤した天蓬は、自分のデスクの上に積まれた山に足を止めた。見ればその山は可愛らしいラッピング、書店の紙袋、コンビニで売っているお菓子などで構成されている。新手の嫌がらせだろうかと思い、目を瞬かせながら隣の席に座る男に訊ねる。すると彼はペンを指先でくるくる回しながら、笑って振り返った。
「あの日天蓬さんが誕生日だって知って、皆慌てて選びに行ったんですよ。なのに皆やっと選んで買ってきたかと思えば、天蓬さんまた別の仕事に呼ばれて行ったって言うし」
「あらあら」
「あらあらじゃないですよ」
 呆れたようにそう言う同僚に、デスクの上のチョコレート菓子のパッケージを指して見せた。コンビニやスーパーで売っている類の安いものである。
「このお菓子、あなたでしょう」
「何で分かるんですか!」
「この編集部にあなた以外にこんなもの贈る人はいませんよ」
 皆センスの良い女性ばかりの職場だ。まさかいくらなんでもこんなものを贈る人はいないだろう。彼は少し困ったように笑って、それでも焦ったように弁解を始めた。
「いや、でも美味しいですよ、それ……」
「はいはい」
 彼を適当にあしらいつつ席につく。そして目の前の煌びやかな山を見上げて少しだけ思案した。
「さて、どうしたものでしょうかね……でもこんな歳で、何だか恥ずかしいですねぇ」
「三十三でしたっけ、まだまだ若いですよ」
「ええ……」
 そういえば須賀は自分より五つ下、二十八だった。彼と同じだな、と思うとそれだけで自然に口元が綻ぶ。見た目は本当に端正な容姿の大人の男なのに、中身は少し子供染みた部分もある彼を思い出す。そうして、大したことのないものから彼を連想するようになって、それだけ自分が彼に依存していることを思い知る。それが心地よくもあり、不快でもあった。いずれ切らなければならない相手なのだと分かっていても、もう少し、あと少しだけと甘えが生じる。彼の熱に慣らされて、いずれ離れられなくなりそうで怖い。
「天蓬さんがいない間、クリスマス特集とかで大変だったんですよ。やっぱり女性には大事なんでしょうね、クリスマス」
「クリスマス……」
「何か、今年は一人ぼっちになりそうなんですよ……天蓬さんはどうですか? やっぱり恋人と?」
 クリスマスを誰かと過ごそうなんて特に考えたこともない。自然と成り行きでその時付き合っていた相手と過ごしたこともあるが、特に何をするというわけでもなく、相手の考えたコースに沿って過ごしただけだった。仕事の話が長引いて三蔵と過ごしたこともある。今思えば図られたのではないかとも思うのだが、別にだからなんだということもない。自分は死ねば寺の墓に入るだろうが、特に何の宗教を信仰しているということもない。だからクリスマスなど重要な行事ではない。
「いえ、僕も一人ですよ。きっと仕事ですね」
「またまたー」
「いや本当に……」
 須賀はまるで本気にしない。天蓬もすぐにそんな彼を見て、それ以上言い訳をするのを止めた。どうせどうにもならないだろう。
 デスクの上に積まれていたものはとりあえず後で箱か袋を貰ってくることにして、一旦デスクの隅に寄せる。そしてパソコンを立ち上げて、戻ってきたいつも通りの生活に溜息を吐いた。それが疲れなのか安堵なのかは自分でも分からなかった。デスクの上の小さなカレンダーを見る。今日は木曜日。クリスマスまではあと一週間と少し。昨年は街に青が溢れていた。今年は一体何色だろうか。
 そんな風に考えていた。特に冷え込んだ日だった。


++++


 人物が哀しみ、涙に暮れる表現が秀逸だと評価されたことがある。それは幼き日に一生分ほどに泣いたからだった。しかしそれ以来、泣いたことはない。しかし嘘泣きは巧いという自信がある。それは涙を零す仮面の裏で、緻密な計算がなされているからだった。涙は処世術であると考えていた。生きてゆくのにあれば便利なものだと。しかしそれ以上に涙が無力で無駄なことも知っていた。知っていたはずなのにどうして泣くのだろう。
 知らず溢れる雫は、ぱたりとテーブルの上に落ちて、散った。


++++


 朝一番に電話が掛かってきた。相手は悟浄。何と天蓬が昨日無断欠勤をしたらしい、と悟浄を経由して八戒から伝わってきたのだった。恐らく八戒は、自分が毎週末彼の家へ訪れているのを知っていて、様子を見て来るようにと指図しているのだろう。少々気に入らないながらも気になるのは仕方がない。何も知らない悟浄を軽くあしらい電話を切って、朝食もそこそこにコートに腕を通し、車のキーと財布を片手に家を出る。底冷えのする、凍り付くような朝だった。
 休日の朝、静かなマンション。音といえば鳥の囀り以外になく、それすら遮断される屋内は本当に静かだった。朝だというのに住人の一人とも擦れ違わず、エレベーターにも誰も乗って来ることはなかった。さわやかな朝なのに少し不気味さすら感じながら十二階に辿り着いたエレベーターから吐き出された。廊下に響くのは自分の足音だけ。彼以外にも住人はいるだろうにどうしてこんなに静かなのだろう。ポケットに入れた手を何となく落ち着かない気分で動かしながら、焦るように足取りは速くなっていった。
 綺麗な字で書かれたネームプレートを前に、二度チャイムを鳴らした。しかしインターフォンの反応はない。繰り返し三度鳴らしてみた。しかし何の反応もない。焦れた捲簾がドアノブに手を掛けると、思ったような手応えはなくそのままぐるりと回転した。鍵が開いている。彼にしては、無防備すぎた。どこかに出掛けていて鍵を掛け忘れたのだろうか。とりあえず中に入って家にいるのかどうかを確かめようと、再びドアノブを捻った。
 ドアを開けると、そこにはいつも彼の使う靴がそのまま置いてあった。やはり中にいるのだ。安心した反面、不審に感じて眉根を寄せる。一日無断欠勤をして電話にも出ず、来客にも応答しない。ひょっとして具合でも悪いのだろうか。そんな風に思いながら玄関に上がり、廊下を抜けてリビングへ向かった。
 カーテンは開いている。なにもない部屋に一つだけあるローテーブルには携帯電話が置いてあった。メールや留守番電話が溜まっているのだろう、ランプが時折点滅する。その奥、ベランダへ向かうガラス戸の前に、彼はぺたんと座り込んでいた。まるで立った状態から、そのままへたり込んだように。
「……天蓬?」
 呼び声にも応答する様子がない。訝った捲簾が一歩踏み出すと、その振動に僅かに彼が肩を揺らした気がした。躊躇いつつもゆっくり彼の元へ歩み寄り、座り込んで俯いた彼の横に膝をつく。そしてその肩に手を掛けてそっと揺らした。肩は冷たくなっていた。
「おい、……具合が悪いのか?」
 そう問うと、彼はやっと動きを示した。小さく緩く首を振ったのだ。しかしとても平気そうには見えなかった。俯いたままの彼に焦れて顔を上げさせようとする。そうして彼の身体を少し揺らした瞬間、ぱた、と床に水滴が散った。
「……天……?」
「……平気、です。ちょっととまらないだけ……」
 久しぶりに聴くその声は酷く掠れ、嗄れていた。まるで散々叫び明かした後のようなそれに、慌てて彼の両肩に手を掛けて上向かせる。その振動で、更にちらほらと水滴が散った。手の甲に一瞬冷たいものを感じたが、そんなことは次の瞬間に目にしたものの衝撃で、すぐに忘れてしまった。
 白い頬に涙の痕と、絶えず流れる涙。いつもきょろきょろと動く、明るい鳶の眸は光を失い黒ずんだようだった。
 一瞬頭に色々なことが巡り、言葉も纏まらずに唇を噛んだ。細く息を吐いて再び俯こうとする彼を止めて顔を覗き込む。
「何があった」
 訊ねる捲簾に、全て諦めきってしまったような目をした天蓬は、口元だけで笑った。そしてその黒ずんだ眸を窓の外に向ける。
「……おばあちゃん、亡くなったんです」
「……」
「病気なんて、何もなかったはずなのに……」
 最後は独り言のようでもあった。思う以上にあっさりと言う彼が逆に痛ましくて顔を顰める。床に降ろされた彼の手は、何かに縋り付くように強く握り締められていた。
「……連絡が来たの、いつだ?」
「昨日の、朝……」
 だとしたら昨日の朝からずっとこのままだったということだろうか。だとしたら身体が冷え切っているのも、電話にも全く応答しなかったことも理由が付く。ずっと絶望の淵で一人。もっと早く連絡を取れなかったことが悔やまれて、唇を噛む。しかし、こうしてばかりもいられない。
「……呼ばれてるんだろ、行くぞ」
 捲簾に腕を引かれ、名前を呼ばれても彼は糸の切れた傀儡のように腕を垂らしたまま動かない。そっとしておいてやりたい気持ちもあったが、このままにしておいてはならないという使命感に駆られて彼の両肩を掴んで揺さ振った。
「お前が行かなくてどうする!」
 少し語気を強めて言うと、彼はゆっくりと頭を上げて光のない目を瞬かせた。その様子に少し苦しいものを感じつつも、更にその腕を引いて立ち上がらせた。そして部屋の隅に落ちている彼のコートを拾ってきて、肩から羽織らせてやる。
「礼服は俺のを貸す……実家はどこだ」
 自分の手まで震えていたのは、きっと今日が寒いからだ。寒空の下、上空は快晴で雲一つなかった。


 黒服は天蓬の青白い肌を一層際立たせていた。下向きのまま顔を上げず、じっと正座のままいる。動くのは弔問客に向けて頭を下げる時だけだ。それを、手伝いに来ていた女性たちも気遣わしげに見つめている。彼女たちは彼の祖母の友人たちだった。まだ皆八十にも満たないという。遺影に映るのは穏やかで利発そうな美しい老婦人である。突然の心不全だった。皆それが信じられないと言い、状況が飲み込めない様子だった。彼が家で呆然としていた昨日一日もここは大騒ぎになっていたようだった。
「天蓬君がああなっちゃうのも無理ないわ、……皆まだ信じられないもの」
 皆が戸惑いを隠せない中、一人きり時間を止めてしまったかのように彼は実に静かに座っていた。口元に笑みすら浮かべているように見えて、僅かに捲簾は身震いをした。このまま彼が元に戻れないのではないかと思えたのだ。彼を気遣って誰もが声を掛けられなかった。悔み言を述べることすら躊躇われる雰囲気だったのだ。そしてその日、彼は人形のように黙って座ったままだった。
「……うん、だから八戒に……うん、頼む。悪いな、デート中に」
 そして手伝いの合間に抜け出した捲簾は、悟浄に電話を掛けていた。今日はデートだという話だったが今は形振り構っていられない。彼に悪いとは思いながらも八戒への伝言を頼み、電話を切った。金曜の無断欠勤の理由と家の事情、彼の状態について。明日も出勤出来るかは分からない。彼のことだから行くと言うに決まっているが。
 閉じた携帯電話を握り締め、暫く思案した。これから自分に何が出来るのか。何をしなければならないのか。

「……天蓬、今日はもう休め」
 最後の弔問客を送り出し家の中に戻ってきた捲簾は、未だに座ったままの彼を見て、彼に気付かれないように小さく溜息を吐いた。何か腹に入れろと言っても今の状態では無理だろうし、易々と眠ることも出来ないだろう。ならばせめて横になって身体を休ませようとそう告げた。しかし彼は首を振ってその場から動くことを頑なに拒んだ。
「悪い夢を見そうだから」
 そう言われればどうすることも出来ない。そして結局その日、彼は眠ることも出来ず食事も摂れなかった。
 簡単に片付けを済ませた帰り道、実家へ向かって歩く彼の半歩後ろを捲簾は歩いていた。いつかの河川敷とよく似た川沿いの道だった。小さな頃彼もこんな所に遊びに来たのだろうか。似合わないと思いつつも、彼にもきっとそんな時代があって、そしてその場面に必ずいたのがあの婦人だったのだろうと思う。
 掛ける言葉も見つけられずに口を噤む。遠くの鉄橋を電車が通り過ぎていく音が響いた。昨日と違い、今日は妙に暖かな日だった。彼も自分もコートを脇に抱えている。黒い服が日差しを吸って暖かい。不釣り合いなほどの好天に、溜息を吐きながら空を仰ぐ。
「……昔よく、ここで泣きました」
「――――……え?」
 突然告げられた言葉に、油断していた捲簾は反応が遅れた。慌てて顔を上げると、小さく笑った彼が前を見たまま言葉を続ける。
「人前では泣けなかったんですが……一人になると割と泣き虫だったんです」
 今からは想像も出来ない姿だ、と一瞬思ったが、その時不意に土曜の彼の姿を思い出した。幼い頃も、あんな風に静かに一人で泣いていたのだろうか。それはあまりに痛ましかった。
「馬鹿だったので、泣いてもどうにもならないと分かるまでに結構時間が掛かりました。今でも馬鹿は治っていないみたいですね」
「……自棄になるな」
「平気ですよ」
 そう言う口調はいつものそれと何一つ変わりないように聞こえた。しかしその平常さの裏で何か彼がおかしな方向へ進もうとしているようで怖くなる。笑顔の仮面の下で本物の彼が壊れていこうとしているようにも思えた。
「あの人は、僕の世界に唯一必要な人でした」
「それを欠いた今、こんな世界に用はないか?」
 思わず口を突いた言葉に、彼はそっと立ち止まり、薄く微笑んで振り返った。何も返事はしなかった。そして再びゆっくりと歩き出す。その足取りのまま、このままどこか遠くへ行って歩いていってしまいそうだった。しかし自分にそれを止める資格などあるとは思えない。それを彼も望まないと思ったのだ。
 二人の間には距離が開いていった。どこへ行くつもりなのか迷いのない足取りで川沿いを歩いていく彼と、迷ってばかりで足取りも遅くなる捲簾の間に距離が開くのも当然だった。躊躇いを振り切って顔を上げ、その後ろ姿を見つめる。
「……今日から当分、うちに来い」
「……え?」
 すると彼は足を止め、驚いたように目を見開いて振り返る。その間に距離を埋めるように少し足早に彼へ歩み寄った。そして言葉の真意を探るようにじっと見つめてくる彼の額を指で弾いた。呆然としたように彼は自分の額を押さえて目を瞬かせている。
「パソコンなら後で取って来てやるから」
「え、そうじゃなくて……」
「気にすんな。……俺が、放って置きたくないだけだからな」
 ぽつんと立ち尽くす彼の腕を引き、彼の実家までの僅かな道のりを歩く。彼がどんな顔をしているのかは見られなかった。
 家の側に置かれた車に乗り込む。彼は助手席の窓から家をじっと見つめていた。数え切れないような思い出の詰まった家だろう。しかし彼は、この家を売り払うつもりでいるらしかった。そこに住む者がいない以上、彼に価値のある場所ではないからだ。それに彼は消えるのに邪魔なものは必要ない。いずれこの家の中を片付けるために一人、ここを訪れるのだろう。
「……いいか」
「……ええ。お願いします」
 膝にコートを載せ、彼は頷いた。生まれ育った生家から目を背けるように。


 翌日の月曜日は休むことになった。捲簾の家はシンプルに落ち着いた家具で揃えられていた。居心地は悪くないが、綺麗に片付き主人を待つその部屋に自分がいるのは不釣り合いな気がした。シャワーもそこそこに、借りたスウェットを着てぼんやり窓辺に座り込む。ローテーブルに灰皿を持ってきて、一人煙草を吹かしていた。今日も良く晴れている。これからまだまだやらなければならないことは沢山あるのだ。その前に少し休んで体力を貯えておくのも悪くないだろう。
 今朝、編集長から電話が掛かってきた。弔問に行けなかったことへの謝罪と、当面無理をしなくて良いということ。その言葉に甘えて今日だけは休むことにした。どうやら捲簾が、悟浄を介して八戒に連絡をしてくれていたらしい。編集部へはその八戒から頼まれた桜田が連絡をしてくれたようだ。祖母の友人たちも一日くらい休むようにと言ってくれた。自分が茫然自失の状態の間、様々な人に迷惑を掛けていたことに今更気付いて心苦しくなる。捲簾にも心配を掛けて、休日にもかかわらず結果的に手伝いをさせてしまった。なのに彼は恨み言一つ言わない。それが逆に苦しかった。
 そして昨日は、心を見透かされたようで怖かった。“こんな世界に用はないか”という言葉にぞっとした。振り返った先の彼の目が、逃げようとする自分を責めているような気がして。
 煙草を灰皿に押し付けて、カーペットに転がる。乾ききらない髪の毛が頬に纏わり付いて邪魔だったが、直すために腕を上げることも面倒でそのまま転がっていた。目を伏せて、再び開けば全て夢だったという結末ならいいのに、と思う。しかし残念ながら目を開いてもその先に広がるのはただ青い空だった。
 ゆっくりと起き上がって部屋中を見渡してみる。オーディオ類の置かれたシルバーのラックが部屋の隅に置いてある。その上は本棚になっていた。そこに見覚えのある本を見つけて立ち上がった。それは見間違うはずもない自分の本だった。四冊きっちり並べてあるのを見ると何だか気恥ずかしい。何となく気になって、一冊目の本を手に取ってみる。少しカバーがくたびれた様子が、それだけ何度も読んでいるのだということを表しているようだった。社交辞令ではなかったことに今更気付いてくすぐったい気分になる。
 あんなに馬鹿みたいに優しい人は初めて出会った。ページをぱらぱら繰りながら、泣きたい気分になった。涙は癖になるのだろうか。

 ソファに座って彼の本棚の蔵書に目を通していた天蓬は、インターフォンの音に顔を上げた。栞を挟み込んでそれをテーブルに置き、壁に据え付けられたインターフォンの画面を覗き込む。それを見て小さく息を吐き、玄関に向かって歩き出した。鍵を開けてドアを押し開けてやると、冷たい空気が這うように流れ込んできて目を細めた。
「おかえりなさい」
「おう、ただいま」
「自分の家なんだから、自分で開けて入ったらいいじゃないですか」
「鍵が見つからなかったんだよ、寒いし」
 そう言い、捲簾は天蓬の背を押しながら玄関に入って再び鍵を掛けた。彼の身体からは冷たい冬の匂いがした。背に触れた彼の手もひやりと冷たい。ドアが閉められると冷たい空気は遮られ、暖かくなっていった。
 廊下を歩き、暖かいリビングへ戻る。彼は鞄とスーパーの袋をテーブルに置き、如何にも疲れたような顔でコートを脱ぎ出した。仕事は真面目にしているらしい。彼の指先が冷たそうに赤くなっているのを見て、居候として一応立ち上がって訊ねた。
「コーヒー淹れましょうか」
「ああ、悪いな」
 家事など全くやらないが、居候としての立場くらいは弁えているのである。ネクタイを緩めている彼を横目にキッチンへ入る。コーヒーメーカーに、日中に場所を確かめた豆をセットしてコンセントを繋ぐ。そしてカップを用意しようと再びリビングに戻った。するとすっかりスーツとコートを片付けてきた彼がネクタイを抜き取っていたところだった。それに背を向け、サイドボードからコーヒーカップを取り出そうとした。
「あ、待て天蓬」
「え?」
 カップを取り出し掛けた手を止めて振り返る。彼はネクタイをソファに放り投げて、テーブルの上に置かれたスーパーの袋を漁っていた。新しい豆でも買ってきたのだろうかと思い、今更遅いとも思いながらその動きを窺う。すると彼は袋の中から予想外のものを取り出した。
 それは、青い包装紙に白いリボンの掛かった正方形の小さな箱だった。それを唐突に差し出されて戸惑う。
「……何ですか?」
「いいから」
 勢いに圧されるようにしてその箱を受け取り、戸惑いつつもその包装に手を付けた。綺麗に結ばれたリボンを解き、包装紙を剥がして、テープで留められたボール紙の箱を開ける。
「……これ」
「割って、無くしちまっただろ。丁度、誕生日に何にもやれてなかったし」
 そういう彼はもう既にワイシャツのボタンを外しながらこちらに背を向けており、そのままシャツを脱ぎながら寝室へ向かってしまった。その背中がどこか照れているようで、きょとんとしてしまう。結局その後ろ姿が視界から消えるまで見送り、呆然としながら手の中の小さな箱を見下ろした。箱の中には入っていたのは、淡いベージュのカップだった。サイズも小さすぎず大きすぎない。そのカップをそっと取り出し、凝ったデザインの取っ手に指を絡めてみる。それを両手に包み込み、静かな部屋の中にコーヒーの雫が落ちる音だけを暫く聴いていた。


 それから何日か経ち、やっと納骨までが済んだ。その間ずっと捲簾の家に滞在していたが、いつまでもそこにいるわけにはいかない。青空の下、墓前で手を合わせながら、ここ数日のことを思い返していた。仕事もして、生活リズムの合わない天蓬のことも気遣って面倒を見てくれた彼は、態々ここにまでも付き合ってくれた。今も自分の後ろで手を合わせている。何から何まで、申し訳ないくらいだった。
 立ち上がり、振り返って彼に謝意を告げる。しかし彼は静かに首を振るだけだった。そして笑って言う。
「俺が勝手に付き合っただけだろ、何気にしてんだ」
「……それもそうですね」
 そう言うと、一瞬目を瞠った彼は何処か嬉しそうに次第に笑みを深くした。そしてその大きな手で天蓬の頭をぐりぐりと撫でる。
「そうそう。元気で何よりだ」
 彼は水桶を持ち、一足先に墓前を後にする。その後ろ姿を見送った後、天蓬はごみを片付けて立ち上がった。墓石を前にして、こんなに冷静にしていられる自分に少し驚いていた。我ながら、もっと取り乱すだろうと思っていた。皆の前で泣き崩れてしまったらどうしようと考えていた。しかし今存外穏やかな気分で墓前に立っている。手を伸ばして、墓石に彫られた文字を指でなぞってみた。最期に立ち会えなかったのは今も悔やまれる。そしてもっと話しておけばよかったと泣いた。しかし今更どうなるものでもない。多分これからもこのことを思い出しては幾度となく悔やむのだろう。ならば後悔ごと抱えていくしかない。
 ごみをまとめて袋に入れ、墓に背を向ける。そろそろ、準備をしなければならない時期に来ていた。


「……はい。はい、明日から……ええ、平気です……大丈夫ですよ」
 バスルームから出てきた捲簾は、リビングで天蓬が電話をしているのに気付いた。内容からして相手はきっと編集部の上司だろう。時折漏らす笑い声が自然になってきていることに少しほっとして、髪から滴る水をタオルで拭った。そして彼が電話を切るのを見計らってリビングへと踏み込んだ。すると、先にシャワーを浴びていた彼はタオルで濡れ髪を拭きながら携帯電話を畳んでいた。
「上司?」
「ええ、今週までは出勤してもちょくちょく抜けなきゃならなかったので……あ、それと」
 そろそろ来る頃だろうと思っていた捲簾は、彼に背を向け冷蔵庫に頭を突っ込みながら態と生返事をしてみせた。
「あー?」
「今日まで、ありがとうございました。明日から家に戻ろうと思うんです。もう平気ですから」
「ん。……分かった」
 無意識の内に終わりのないものと思い始めていた同居期間も終わりだ。冷蔵庫から取り出したビールを一缶彼に向かって放る。彼はそれを受け取り、両手に包み込むようにしながら「ありがとうございます」と呟いた。そしてその後プルトップの開けられる音がする。
「……明日、会社から直で帰る?」
 彼が質問に頷くのを見て、自分も缶のプルトップを開けた。
 一週間ほどの同居だった。生活リズムは微妙にずれていて、食事の時間もあまり合わなかったけれど、彼が毎日自分の家へ帰って来るというのが不思議で心待ちでもあった。そんな自分に気付いては、笑うしかなかったというのに。
 ふと、缶を開けたはいいが口をつけようとせずにぼんやりしている彼に目を留めた。そして様子を案じながら顔を覗き込む。
「……どした?」
 自分を覗き込んで来る捲簾に、彼は少しぼんやりしたような目を向けた。そして僅かに瞼を伏せる。
 その睫毛の先が僅かに震えたのを目の端に捉えた時、もうどうなってしまっても構わないかもしれない、と思ってしまった。ずっと曖昧なままにしておきたかったこの関係に名前を付けて、決まった形を作ってしまうことも。そしてもしかしたら悪い方向へと進んでしまうかもしれない、という今までの危惧も、もうどうでもよくなってしまった。
 缶を冷蔵庫の上に置き、右手を彼に伸ばす。彼は伏せ目がちのまま逃れようとはしなかった。
 濡れ髪に指を差し入れ、その頭を自分の肩に引き寄せた。彼が額を肩にすり寄せてくるのを感じると何だか苦しいような気分に駆られ、堪らなくなって左手を添えて強く抱き寄せた。
 好きだと告げたことはなかった。しかしきっと、彼に自分の想いは筒抜けになっているだろう。それで構わなかった。
 好きだと告げられたことはなかった。しかし少しは好意を持ってくれていることは、何となく察していた。それで十分だった。
 それだけでいい、他には何も望まないのに、どうしてこんなに焦りが出るのだろうか。今確かに彼はここにいるのに、今にもすり抜けていってしまいそうな切迫感を感じるのか。確かな実体を抱きしめているはずなのに、どうしてこんなに不安なのか。
 自分の腕の中、俯いてじっと押し黙った彼は、その答えを出してくれそうにはなかった。











純情集団です。誰が恥ずかしいって、私だ。       2006/11/05