あなたから見た私って、さぞかし憐れでしょう。他人の痛みがわかるなんて、優位に立つ人間の偽善だわ。
 それは、彼の四作目の作品に出てきた少女の台詞の中で、一際異彩を放っていたものだった。元々彼の作品には特徴的な台詞が多い。それを全て繋ぎ合わせると、彼という人間に至るのではないかとも思えた。
 彼と初めて出会った頃にはまだ暖かかった日中も、最近は上着の必要な気温になってきた。コートの袖に腕を通しながら窓の外の寒そうな空を見上げた。同僚と一杯呑んだ後の帰り道、吐いた息は白く染まる。鼻から空気を吸うと鼻の奥が冷たさにキンとした。
 自分の気持ちに気付いて、向き合っても尚そのままでいようとして二ヶ月近く経った。予想以上の自分の余裕のなさに気付いて情けなくなって、割と切羽詰まっていたのだということに気付いて焦り出した。手を伸ばしたくなったのは一、二度では済まない。触れてみたくて守ってやりたくて、小さくなって眠る姿に手を伸ばしてしまったこともある。起きている時に触れても、そう嫌がられないのではないかという軽い確信もある。しかしこの曖昧な関係を崩して、元にも戻れなくなるのが怖かった。臆病になっていた。情けなくて泣けてくる。
 抱きしめてしまえば何か変わるのか。それがもし、悪い方向だったら。
 家に帰ってコートと上着を脱ぎ、ハンガーに掛けてシャワーを浴びようと思った。しかし力が入らなくてそのまま寝室のベッドに倒れ込む。仰向けにベッドに寝転び、酒で多少ふわふわした頭のまま考える。そしてそのままぼうっと悶々していると、どこからか何か鈍い音が聞こえるのに気付いた。よく聞く音だ、と霞がかった頭でぼんやり思い、それが携帯電話のバイブレーション音だと気付くまでに十秒かかった。そして慌ててクロゼットの中のコートのポケットを探って取り出すまでにまた十秒。その時にはもう既に通話は途切れていた。もし上司だったらどうしようと思いながら着信履歴を確認する。
(天蓬……?)
 表示された名前に目を瞠る。滅多に自分から電話などしない男だが、非常に情緒不安定な人間でもある。もしかしたら何かあったのかもしれない、と一瞬背筋が寒くなった。すぐに掛け直してみるがなかなか出ない。焦れて唇を舌で潤しつつ彼が出るのを待った。しかし電話に出たのは、無機質な女性の声。留守番電話だった。すぐに掛け直すように言って通話を切る。しかしその後も不安は拭えなかった。明日も仕事だというのに、これから行ってみようかとまで考える自分がおかしい。どこまでのめり込んでいるのだろうと笑い、彼を想って重い溜息を吐いた。このままどうにかなってしまいそうだ。

 頬に血の筋が生まれた。シンクの中には白く鋭い欠片が沢山散らばっている。指先で生まれた血の雫を拭い、それを舌先で舐めた。暫くそのまま立ち尽くしていた天蓬は踵を返し、ビニール袋を持って戻ってきた。そして散らばってしまったコーヒーカップ“だった”ものを拾い始めた。指先にも傷を付けてしまいそうなほど乱暴に。天蓬自身がシンクに叩き付けて割ったそれは、天蓬自身にも傷を残した。
 最近の自分がおかしいのは自覚している。三蔵と話をしたあの日からだ。彼の言った一言一言が頭から消えず、吐き気すらする。忘れたいのに、彼という強烈な存在から発された言葉をそう簡単に忘れられるわけがない。苦しい。カップを割ってそれがなくなるはずがないのに、癇癪を起こしてカップを割って。一体自分は何歳なのか、自分が情けなくて堪らなくなる。自分を傷つけるような趣味などなかったはずだ。カップの欠片を手の平に握り締めて痛みに耐える。滲み出した紅い雫と、それに塗れた白い欠片を見て泣きたくなった。
「……」
 名前を呼びたかった。あの笑顔が傍にあれば、何もかもが忘れられそうな気がした。
 手当てもしないままでリビングに戻り、テーブルの上の携帯電話を怪我をしているのとは逆の手に取った。時間は午後十一時過ぎ。今日は木曜日。今日連絡をしたとしても、今の時間なら彼も出られないだろう。しかし手は勝手に動いた。彼の番号を選び、通話ボタンを押す。十コールで出なかったらすぐに切ろうと決めていた。まるで告白を決意した妙齢の女性のようだ。そういう時の十コールは思うよりも長く感じるという。確かにその通りだ。しかし電話はそのまま電子音を鳴らし続け、十コールはすぐに過ぎた。通話を切って携帯電話を畳み、テーブルに置く。そして絆創膏でもなかっただろうか、とテーブルに背を向けた。心臓の鼓動が速い。胸が苦しいなんて、こんないい歳をして何をしているんだろう、と思えば何だか笑えてしまった。
 結局絆創膏は見つからず、細く裂いたタオルで手を巻き、コンビニに出掛けることにした。ドアが閉まり鍵の閉まる音がしてすぐ、暗闇の中でぼんやりとテーブルの辺りが明るくなり、携帯電話がバイブレーションで震え始めた。数十秒続いたそれが途切れ、留守番メッセージが吹き込まれる。その主は、天蓬に留守番メッセージを聞かずにさっさと削除してしまう癖があることを知らなかったのだ。


 彼はいつものように土曜日に天蓬の家を訪れた。そして頬に貼ってある絆創膏と、手に巻かれた包帯に目を剥いた。
「カップ割っただぁ?」
「ゴキブリが出てびっくりしたんですぅ」
「……嘘だろ」
「何で分かるんですか」
「こんな食べ物もゴミもない家にゴキブリが出るか。それにお前がそんなことで驚いてカップを落とすなんて思えないし、喋り方が嘘臭い」
 騙せるとは思っていなかったが、明らかな証拠と共にあっさりと見破られて唇を曲げた。それを見て彼は笑ったが、俄かに真剣な顔になり天蓬の怪我をした左手を掴む。それに驚き、天蓬は咄嗟に顔をあげた。
「木曜の夜、電話してきただろ。それと関係があるんじゃないだろうな」
 彼の目は本当に真剣だ。もしかしたら何か危ない人でも家に上がってきたのではないかと考えているのかもしれない。それは誤りだ。寧ろ危ない人は自分である。
「折り返し連絡しろって留守電に入れただろうが」
「え?」
「え? ……入ってなかった?」
 逆に驚いたような彼の反応に、天蓬はあの晩のことを思い返してみた。電話を切って、絆創膏を探して結局見つからず、コンビニに出掛けて。そういえば絆創膏などを買って帰った後、携帯電話に何かメッセージが入っていてそのまま消した覚えがある。
「……消した」
「おい!」
「癖なんです。前に変態さんからメッセージが入ってたことがあって、それからはついついすぐに消しちゃうんですよ。主に電話して来る人たちはそのことを知ってるので滅多にメッセージが入ってることってないんです」
 そう言うと彼は呆れたように項垂れ、そして諦めたように笑った。少しだけ背の低い天蓬の頭を撫でて、安心したように溜息を吐く。
「心配した。何かあったんじゃないかと思って昨日も電話したんだけど電源切れてるし」
「……昨日会議があって、そのまま切りっ放しでした」
 今もバッグに入れたままのそれを思って顔を顰めた。もしかしたら大事な電話でも入っていたかもしれない。捲簾にも大分心配を掛けてしまったようで心苦しかった。しかし彼はひたすらに、安心したというように天蓬の髪を撫でた。その手が愛しいと思うのは罪だろうか。
「よかった」
 自分の無事を喜んで、こんな風に笑ってくれる存在が。
“その男がいつまでも――――……”
 しかし、頭を過ぎるあの声が邪魔をした。あの声が、自分が一歩踏み出すのを妨げるのだ。大学時代、先輩だった彼と一時期だけ関係を持った。友人としてはよかったが、すぐに恋人としての不一致に気付いて別れた。そのはずなのに、彼は何かと自分の交友関係に口を出した。しかしまあ彼に一言、セーブを掛ける言葉を告げられると不安になって行動を思い留まってしまう自分にも問題はあるのだが。だが彼の言葉には、自分にそうさせてしまうだけの力があるのだった。
 不意に俯いた天蓬を不審がるように捲簾が顔を覗き込んで来る。これ以上を欲しがるのは、強欲だろうか。
「どうした?」
 存在するだけでいい。この一時だけでいい。いずれ彼が自分に飽きて何処かに消えてしまうまでの、ほんの僅かな時間だけでいい。今があるというだけで、自分には過ぎた幸福だった。あと、もう少しだけこんな微温湯の幸せに浸っているくらいは許されていいはずだ。それが済んだら、少しだけ幸せを分けてもらったら、すぐに消えるから。
 少し心配そうな彼に微笑み返して首を振る。そんな顔させたいわけじゃない。
「何でもありませんよ」

 彼の物腰がこれまでになく柔らかい気がした。笑顔も、いつもの何を考えているのか時折分からなくなるそれではなく、本当に邪気のないそれだった。正直なところ逆に困ってしまって、暴走しそうな自分を抑え込むのに精一杯になる。しかし頭の片隅の冷静な部分は、どこか彼の様子がおかしいということに警鐘を鳴らしていた。何か、取り返しの付かない事態になりそうな気がして。
 それからぼんやりと彼の部屋にある本を繰ったりして過ごした。時々パソコンを前にこくりこくりと舟を漕ぐ彼にブランケットを掛けてやったりもした。相変わらず、休日でも持ち帰りの仕事があるらしい。テーブルの上の灰皿がてんこ盛りになっているに気付き、ゴミ袋へと零さないように運んだ。
 一昨日の電話もおかしかった。彼は電話を掛けた理由を話そうとしない。僅か十コール程度の短い間、何を思っていたのだろう。もしあの時出られていれば何か変わっただろうか。しかしどちらにしてももう遅いのだが。灰皿の中身を捨ててリビングに戻ると、彼が目を覚ましたところだった。見上げた時計は八時近くを指している。欠伸をする彼の前に灰皿を戻して考えた。そろそろ夕食の時間だ。
「何か簡単なものでいいな?」
「はい……」
 そう言いながらも、彼の目は時計を見上げている。何かを考えているようでもあった。しかし捲簾はそれについては少しも深く考えず、そのままメニューのことを考えながらキッチンへと戻ったのだった。
 しかし何故か食事が終わっても彼はぼんやりと時計を見上げている。何か約束でもあるのか、見たいテレビでもあるのか(この家にはテレビがない)。暫く自分で考えようとしていた捲簾だが、これでは埒が明かないので直接訊いてみることにした。
「……なー、天蓬」
「何ですか?」
「お前、さっきから時計ばっかり見てるぞ。……何かあんの?」
 そう訊ねると、彼もまた今気付いた、というように目を瞬かせ、少し困ったように笑った。そしてもう一度時計を見上げる。
「あー……、今年の誕生日もあと二時間くらいだなぁと思いまして」
「え?」
 持ち上げて口に運び掛けたコーヒーカップをそのままに、彼を穴が開くほど見つめた。彼は包帯に包まれた両手にカップを包み込んだまま小さく首を傾げている。そんな中捲簾は今までその情報を聞いたことがあっただろうかと記憶を辿った。
「……聞いてないぞ」
「ええ、今初めて言ったような気がしますが」
「もっと早く言え!」
「あれー、早く言ったら何かくれました?」
 そう嘯く彼にがっくりと肩を落とした。しかし呆けているようにも思えない。元々こういったぼんやりした性格なのか。今までそんなことを聞いていない。わざとでなかったとしたら、特段話すことではないと思っていたからか。だとしたら……やはり淋しいことだ。誰にも祝われることなど想定していないのか。例えば、唯一の友人であるあの男にも。
 彼から一度だけ聞いた生い立ちを思い出す。母に捨てられ、優しい祖父母に大事に育てられたと言っていた。仮令満足に生活出来ていたとしても実の親に捨てられるとはどんな心地だろう、と思うだけで痛くなる。
「……ちょっと待ってろよ」
「え? いや、ちょっと捲簾……」
 突然立ち上がった捲簾に、天蓬は目を瞠った。そしてそのまま捲簾が携帯電話と財布を取ったのを見て慌てて立ち上がり、離れていく腕を掴んできた。そしてじっと視線を合わせてくる。
「どこに行くんですか?」
「いやちょっと……」
 そう言葉を濁すと、彼は少し唇を噛んだ後少しだけ俯いた。そしてふるふると首を振る。黒い髪が肩の上でさらさらと揺れた。
「……いいんです、どうせ本当の誕生日じゃないんです。僕がおじいちゃんの家に押し付けられた、それだけの日なんです」
 変わり者で、精神は複雑怪奇で生活不能者で、しかしどこか臆病者だ。笑ってしまいそうになってそれを堪える。
「いいんだよ、それでも」
 掴まれた自分の腕から彼の手を引き離し、もう一度玄関に向かって足を向ける。そして少し言い足りなかったことに気付き、振り返った。振り返った先では、どこか心もとない様子の彼がぽつんと立ち尽くしている。
「別に、生まれた日だから祝うんじゃない」

 彼に言うつもりなんてなかった。三蔵の言う通りになるなんて御免だった。なのに今、彼に誕生日のことを告げ、三蔵の言う通り彼と一緒に過ごしている。全てが三蔵の言う通りになっていた。情けなくてこのまま逃げたくなってしまう。浴槽に入って蓋をしてしまいたい。しかしそんなことをしたら帰ってきた彼にまた心配を掛けてしまうだろう。心配されるのは、嫌だった。
 消えるのに邪魔なものは全て切り捨てるのではなかったのだろうか。現金すぎる自分が馬鹿らしい。結局淋しいのだ。分かっていた。
 テーブルを前に、膝を引き寄せて腕で抱える。そしてぼんやりとテーブルに並んだ二つのカップを見つめた。あってはならないものだった。彼が出て行ってから十分ほど経っている。最寄りのコンビニまではエレベーターを使って片道五分。まだ帰っては来ないだろう。生まれた日を祝うのでなかったら、何故誕生日は祝うのだろうか。訊いておけばよかった。見上げたカレンダーの、今日を差す青い数字。何もめでたい日ではない。今日、同じ日に生まれたもっと素晴らしい人間ならば祝われて当然だろうが。立ち上がってベランダに向かい、カーテンを少しだけ開いてみる。ただただ寒く、ただ空は晴れていて月や星が鋭く冷たい光を発していた。それを見るとますます身体が冷えてきたようで、部屋の片隅に畳まれているブランケットを取りに向かう。そしてそれを肩から掛けて包まり、少し開いたカーテンの隙間の前に小さくなって座り込んだ。
 途端、ふっと周りが暗くなった。咄嗟に部屋を振り返ると電気が消えている。充電をしていたはずの携帯電話のランプも消えている。停電か。しかし窓の外に見える夜景は変わりない。立ち上がって階下を見下ろしてみるが、下の街灯もきちんと点いているようだ。だとしたらこのマンションだけか。頭を過ぎったのは今出掛けているあの男だった。もしエレベーターに乗っていたら。補助電力でどうにかなっているだろうか。心配になり、ブランケットに包まったままカーテンの隙間から差し込む光を頼りに玄関へ向かおうとした。
 しかしその時、丁度玄関の方からドアの開く音がした。足を止める。ビニール袋が擦れ合う音がした。
「天蓬、大丈夫かー?」
「……エレベーター、乗ってなかったんですか」
「乗る前に電気が急に消えたから、階段で来た」
「……」
 ここは十二階である。それだけの階段を昇ってきたにもかかわらず全く息も切らしていない。大したバイタリティだ。
「……よくやりますよ」
 天蓬が呆れたようにそう言うと、暗くて顔は良く見えなかったが彼は笑ったようだった。そして微かにビニール袋の音がする。暗闇の中、何かが自分の腕に触れ、掴んだ。そして強く引っ張られる。驚き、一瞬腕を引き掛けたものの、相手は捲簾だ、と力を抜く。
「何ですか?」
「来い。……何、寒いか?」
 目が慣れてきたのか、ブランケットを羽織っているのに気付いたらしい彼はそう言って顔を覗き込んで来る。それに首を振って、天蓬は顔を逸らした。あまり近くにいては、おかしくなる気がしたのだ。そんな天蓬を、彼はそれ以上追及しようとはしなかった。
 そして腕を引かれるままにリビングへ戻り、僅かな明かりを頼りにしてローテーブルの前に座る。彼はその隣へと座り、ローテーブルにビニール袋を置いた。そして中身を取り出した。出て来るものは、……酒。それもビールからチューハイ、清酒まで何でもありである。しかしコンビニで揃えたとすればこんなものか。
「酒ばっかりですね」
「嫌いじゃないだろうが」
「好きですけど……」
 苦笑する天蓬に笑い、彼は次々と袋から缶や瓶を取り出していく。そして最後に一つ、一切れのケーキを取り出した。それを見て目を瞬かせる天蓬を面白そうに眺めた後、そのパッケージを開け始めた。
「誕生日はやっぱりこれだろ?」
 彼の目は楽しそうだ。しかし、それがどうしてだか全く分からなくて天蓬は内心酷く混乱し、困惑していた。どうしてただの知人の誕生日をそこまで楽しそうに祝えるのだろう。彼ほど心が広ければ、何ということはないことなのだろうか。包装を解かれた小さなケーキの上には鮮やかな赤の苺が乗っている。自分には遠いもののようだった。
「……僕には理解出来ません」
「何が?」
「……誕生日を祝うわけも、あなたがここまでしてくれるわけも。全て分かりません」
 真剣な言葉だったというのに、天蓬の言葉に一瞬目を瞠った彼は途端に笑い出した。急に大笑いされた天蓬は呆気に取られる。しかしふつふつと怒りが沸いてきた。何故そこまで笑われなければならないのか。一度足先で彼の膝を蹴り、顔を顰める。すると彼は何とか笑いを収めたようだった。しかし次に続けられた言葉にますます怒らされることになる。
「お前ってやっぱり馬鹿だな」
「……蹴り出しますよ」
 祝うと言いながら何という言い草だ、と天蓬はむくれた。
「誕生日を祝うわけっていうか……相手が今ここにいることを祝うってことだろ。無事三十三になりましたーって」
「……?」
 まるで解せない、というように眉を寄せる天蓬に彼は少し困ったように天井を仰いだ。
「あー……だからな、お前が生まれてきたことと今生きてることを祝うってことだ」
「……恥ずかしいんですが」
「俺の方がよっぽどだ」
 そう言って彼は顔を逸らした。照れているらしい(尤もだ)。男二人でこんな時間に一体何をやっているんだろうと思えばますます恥ずかしい。しかしそれは不快感ではなかった。何だか笑い出したくなって小さく肩を揺らす。彼は少しきまり悪そうに唇を曲げた。
「……最近のコンビニのケーキって美味しいんですよね」
「結構食うの?」
「この前雑誌でコンビニスウィーツの特集をしたんですよ。色んなコンビニから何十個も買い揃えてきてちょっとずつ味見したんです」
 彼は如何にも信じられないと言いたげに顔を顰めた。甘いものがあまり好きではなさそうだ。あれは、甘いものが苦手でない自分でも辟易した光景だったから致し方ないだろう。
「女の人って好きなのに体重気にしてあんまり食べないんですよね。だから残り物押し付けられて、もう糖尿が出るかと思いました」
「……食ったのか」
「三日くらい晩御飯がそれでした」
「……本当に早死にするぞ、お前」
 そう言って呆れたような顔をする彼に笑いつつ、少しほっとしていた。あんな恥ずかしい空気には耐えられない。ちんまりとした苺のケーキを前に何だか力が抜ける。何だかこの家の中でそれだけが違う空気を放っているようだった。
「僕、高校三年までおばあちゃんと暮らしてたんですけど、その最後の年までおばあちゃんがわざわざケーキを焼いてくれてたんです。もう高校の頃になるとホールケーキ一個なんて恥ずかしくって」
 しかしそれが嬉しかったのは否定出来ない。たった一人の家族が祝ってくれているということが純粋に嬉しかった。誰かが自分の存在を喜んでくれているということがそんなにも嬉しかったのだった。
「懐かしいですね」
 あの時の浮き立つような気分になったのは、久しぶりだ。まさかこの歳になって、誕生日のケーキに喜ぶなんて。

 彼はどこか懐かしげに、まるで遠い過去を見つめている小さなケーキを見つめている。時間も時間なので、生憎コンビニの物しか手に入らなかったのだ。不満そうな顔をするかと思ったが、どうやら存外お気に召したらしい。こっそり安堵の溜息を吐きながらその横顔を窺った。暗い部屋の中、僅かに開いたカーテンの隙間から差し込む外の光で、彼が少しだけ微笑んでいるのが分かった。綺麗な横顔に、真っ暗な非日常な空間に、思わずくらりと、何とか保っていた自制が揺らぎそうになる。
 心の中でそんな下らない葛藤を繰り返す中、頭の上の室内灯が小さく点滅し、やっと復旧した。彼も顔を上げて電気を見、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった、ポットでお湯も沸かせないところでした」
 それは数週間前に捲簾が家へ持ち込んできたものだった。どうやら使ってはいるらしい。そもそも鍋も薬缶もない家でどうやってコーヒーを飲んでいたのかが不思議である。見れば、部屋の隅に置かれたポットがランプを点滅させていた。
「あ……」
「……どうした?」
「コーヒー切らしてるのを忘れてました。すみません、コンビニでも行って買ってきますね」
 そう言って彼は早々にブランケットを落として立ち上がった。ぱたぱたとコートを羽織る彼を横目に、溜息を吐いて捲簾は立ち上がる。そして先ほど脱いだばかりの上着をもう一度着直した。財布を探してばたばたしているその背中を叩いて、テーブルの隅に置いてある彼の財布を指差した。そして先に玄関へと足を向ける。
「俺も行く」
「え、でも」
 慌てて追って来る彼の足音を聞きながら、靴を足先に引っ掛けた。
 復旧したエレベーターに乗る。停電した直後だからか、途中誰も乗ることはなかった。広がる沈黙に思わずお互い口を噤み、モーター音だけが響くのをじっと聞いていた。一階に着き、電子音と共にドアが開く。冷たい夜の風が頬を再び撫でていった。
 エントランスを抜けて外へと出るとその風が一層直接的に吹き付ける。隣を歩く彼が目を細めて肩を竦めた。
「マフラーもしてくればよかったんだ」
「見当たらなかったんです」
「財布と一緒にテーブルの上にあったよ。お前は老人か」
 冷たい風に触れて僅かに赤みを取り戻した彼の頬に笑う。吐いた息は真っ白く染まって闇夜にふわふわと浮かんだ。
「今年の冬は寒くなりそうですね」
「そうだな。雪も降りそうだ」
 彼は夜空を見上げて細く息を吐く。白く浮かんだ息が、闇の中で霧散していった。
「冬は好きですか?」
「え? ああまぁ……でも暖かい方が好きだな」
 しかし彼は秋や冬が好きそうだ。するとその通りに彼は笑って言った。そしてゆっくりと捲簾を見上げた。冷たい風に彼の髪が流されて煽られる。それを何の躊躇いもなく指を伸ばして撫でた。
「あなたはそうでしょうね。僕は寒い方が好きです。寒いのは嫌なんですけど」
「は?」
 彼のいつもながらの脈絡なさと、矛盾した言葉に首を傾げる。彼はそんな反応におかしそうに笑った。その笑顔は、明るく、綺麗だ。
「冬は淋しくて、好きです」
 いつもの河川敷を並んで歩いている。なのに自分と彼の間に相変わらず横たわる暗闇と距離が、くっきりと現れているような気がした。それが何だか悔しくて、奪ってでもその距離を取り払いたかった。しかしそれは求めれば求めるだけ去っていくようで、焦燥感が募るばかりである。寒空の下でコートの袖の下で揺れるその白い手を掴みたかった。
「……変な奴」
 そう言っても、彼はくすくすと笑うだけだった。歯噛みする。いっそ怒って欲しかったのだ。
「何で寒くて淋しいのが好きなんだか……」
「おや。じゃああなたはどの季節が好きですか?」
「……春」
 そう言うと彼は少し驚いたように目を見開いた。大方“夏”とでも言うと思っていたのだろう。よく同じような反応をする人がいるのだ。捲簾はその反応に笑って、大袈裟に肩を竦めて見せた。
「意外か?」
「ええまぁ……夏かなあと思っていたので」
「春は暖かいし、何か楽しいだろ」
「春は別れの季節ですよ」
「出会いの季節でもあるな」
「冬から取り残された気分になるから、嫌です」
「順応力が低いんじゃねぇのか」
 そう言うと彼は少し怒ったように唇を曲げた。そして小さく息を吐いて、視線を足元へ落とす。そして細く白い息を吐いた。
「ずっと寒いまま、縮こまったままでいたいんです」
 その俯いた横顔を見つめながら、何とも言えない苦いものを感じた。彼が何を思ってそういうことを言っているのか、何となく分かってしまうから逆に。軽く頭を掻いた。何と切り出していいのか分からなかったのだ。
「春はいいぞ」
「どこが」
「暖かいし、食い物は美味いし」
 そうは言ってみたものの、冬でも屋内は暖かいし温かい食べ物の美味しい季節だ。そしてその通りの言葉で反撃されて言葉に詰まってしまう。そして再び考えを巡らせ、思い付いたのは一つだけだった。
「桜が綺麗だし」
「……」
 そう言ってから、俄かに広がった沈黙に訝って隣の彼を見る。彼はその鳶色の目を瞬かせて驚いたような顔をしていた。
「……そんなに意外かよ」
「意外ですよ」
 「へぇー」だの「ふーん」だの、散々感嘆の声を漏らしながらまじまじと捲簾を眺めていた彼は、最終的に小さく吹き出した。
「……お前ね、失礼にも程があるぞ」
「すみません、でもまさかその図体で花が好きだなんて思いもしなくて」
「別に花が好きなわけじゃねぇんだけど……桜が好きなだけ」
 そして、この近くにも綺麗な桜の咲く公園があることを思い出した。しかもあまり有名にはなっておらず、穴場なのだ。しかし彼の性格からして誘われても花見のどんちゃん騒ぎに参加するとは思えない。しかも先程の口振りでは春があまり好きではなさそうだ。
「花見とか行かないのか?」
「ええ。嫌なんです、ああいう騒がしいの……」
 如何にも嫌そうな顔をして、予想通りのことを言う彼に少しだけ笑った。
「だったら、騒がしくないところにいけばいいだろ」
「え?」
 不思議そうに自分を見る視線を、少し居心地悪く受け止めながら言う。
「連れてってやるよ。冬が終わって……春になったらな」
 彼は一瞬目を瞠って、そして少しだけ哀しげに笑った。
 長い冬はまだ始まったばかりだった。


++++


「天蓬さーん、起きてくださーい」
 デスクでうとうととまどろんでいた天蓬は、可愛らしい女性の声に呼ばれて顔を上げた。同じ編集部の香山だ。可愛い顔をして柔道の段位を持っているという彼女に少々乱暴に揺さ振り起こされ、無理矢理右手に電話の受話器を持たされた。そしてぼんやりとデスクに顎をつけたまま、受話器に向かって寝起きの低く平坦な声を出した。
「……はいお電話代わりました、天ぽ」
『あ、天蓬先輩? 僕です、桜田ですー』
 受話器から聞こえて来る聞き慣れた声に顔を顰めて嫌そうに、僅かに耳から受話器を離した。彼は八戒の部下で、あの男にいいように使われていながらそれに全く気付いていないという、哀れで意味とてもおめでたい青年である。しかし彼が八戒の仲間である以上天蓬には同情する余地もなく、いつも何だか可哀想な人だなぁと思いつつも放置しているのだった。
「……内線を使うなって、いつも言われていませんか? 彼に叱られますよ」
『あ、そうだった!』
 彼もまた天蓬の裏の顔を知っている。そして表立って天蓬と接触出来ない八戒に代わって伝言を持ってきたり、原稿の取り立てに来たりするのだ。でも彼は八戒と違ってやり過ごしやすい。しかし、このうっかりさ加減ではいつか自分があの小説の作者だと誰かにぽろっと零してしまいそうで恐ろしいのだった。その時には首を切られる覚悟でいてほしいものである。
「……まぁいいですよ、で、何ですか?」
『あ、あの、企画書がそっちに行ってますよね? あの短編のアンソロジーのやつです』
 少し彼が声を潜めた。ここからは裏の仕事の話である。
「ええ、来てますよ。ああ……何ですか、テーマが決まったとか?」
『そうなんです、……だけど八戒先輩が、何か乗り気じゃないみたいなんですよ』
「それはいいことですね」
 あの鬼にも人を気遣う心が生まれたのかと早合点しそうになる。しかしまあそんなはずはない。彼にもきっと何かただならぬ事情があるのだろう、と天蓬もその理由へ考えを巡らせてみた。しかし何も思い当たるものはない。
『ねぇ先輩、八戒先輩どうしたんでしょうか、最近いつも溜息ばっかり吐いてるんです。皆心配してて……』
「さー……恋患いじゃないですか」
『えええ!!!』
 ちょっとしたお茶目のつもりがどうやら本気にしてしまったらしい桜田は、一体相手は誰だろうと考えを巡らせているようだ。
「ああもう冗談ですよ……本当に煩いですねあなたは、もう切っていいですか」
『待って下さいよ、他にも色々お話することが』
「どうせ仕事の話だけじゃないんでしょう」
『お願いしますよー』
 情けない声だ。しかしそれが捨てられた犬の鳴き声のようで、どうも放っておくのには良心が痛む。電話の向こうで泣きそうな顔をしているだろうことが容易に想像出来て、天蓬は呆れて溜息を吐いた。しかしいつもこれに絆されているのである。
「……分かりました、お昼でも一緒にどうですか」
『いいんですか?』
 今きっと顔をきらきらさせているのだろうと思うと少しおかしい。頬杖をつきながら小さく笑い、時計へと目を巡らせた。もうすぐ昼休みだ。
「じゃあ、昼休みに入ったら食堂で」
『お待ちしてます!』
 後輩としては確かに可愛いのだが、使えるかどうかは微妙である。
 電話を切って受話器を戻し、目頭に指を当ててぎゅっと目を瞑った。決して悪い子ではないのだがちょっと疲れるのだった。そうしていると、そんな天蓬を、先程激しく揺さ振り起こしてくれた香山が後ろから覗き込んで来た。ファッションへの関心も高いらしい彼女はいつも綺麗なデザインのスーツを着ている。今日は一段と胸元の開きが大きい、と冷静に捉えながらも、特に興味のない天蓬は欠伸をしながらすぐに視線を彼女の顔へと移した。女性向け雑誌ということもあり、編集室は天蓬ともう一人の男以外は皆お洒落な女性である。女性好きならば堪らない環境なのかもしれない。
「桜田君って、本当に天蓬さんのこと好きなんですねぇ」
「あれ、そう見えます?」
「見えますよー、実はそうでもないんですか?」
「さぁ……未だに僕はよく分かりませんねぇ、彼のことは」
 くすくすと笑いながら言うと、彼女も同じく笑った。彼女は綺麗な人だ。社内でも相当人気がある。気さくで美人で、仕事も出来るし愛嬌もある。出来過ぎているくらいに出来た女性だった。対して天蓬は、昔から華美な女性は苦手だった。あの女を思い出させるからだ。あの女も、嫌になるくらい綺麗だった。そして愛想も良く優しかった。自分以外にはだ。
「……天蓬さん? どうかしました?」
 考えに沈み込んでいたらしく、彼女に声を掛けられて慌てて顔を上げた。すると彼女は優しく笑う。
「疲れてるんじゃありませんか?」
「……」
 疲労の感覚など、とうに麻痺してしまっている。だからこそ天蓬は毎日笑っていた。
「平気ですよ、程々にさぼってますからね」
「編集長に怒られますよ」
「そこもうまくやってます」
 いつか消える日までは精一杯生き切ると決めているのだ。だから息継ぎなどしている暇はない。いつかその息が続かなくなって溺れそうになったら、きっとそれが自分の消える“機”だ。その時が、全ての終わりで、天蓬という望まれずに生まれてきた存在が消える。
 暫くデスクの上のメモボードを見つめていた天蓬は、唇を一度舐めて立ち上がった。見上げた時計は昼休みの時刻を指している。
「じゃあ、お昼に行ってきます」
「あ……」
 立ち上がり、外していた社員証を首に引っ掛けて部屋を出て行こうとした天蓬に、彼女は慌てて声を掛けてきた。不思議そうに振り返る天蓬に、一度慌てて自分のデスクへ戻った彼女は小さなペーパーバッグを持って戻ってくる。そしてそれを、なるべく自然に、と心がけているかのように差し出してきた。
「あの、一昨日誕生日でしたよね。昨日買い物してて、思い出して」
 一体いつ彼女に誕生日のことを話しただろうか、と記憶を引っ張り出してみる。しかしそんな過去のことを思い出せるはずもなく呆気なくその試みを放り投げた天蓬は、とりあえず微笑んでその袋を受け取る。
「ありがとうございます、覚えてて下さったんですか」
「あ、偶然ですよ」
「分かってますってば」
 慌てて付け加えて来る彼女に笑う。
「え、天蓬さん誕生日だったんですか?」
 それを見ていた近くの席の女性が驚いたように顔を上げた。彼女もまた綺麗な人で、本当にこの部署は恵まれているということに漸く気付くのだった。
「ええ、もう三十三です」
 そしてその彼女の高い声は、然程大きくない編集室の中であっと言う間に広がった。同僚たちから次々と祝いの言葉を浴びせられて、何だか少しむず痒いような心地に襲われた。


 そしてついうっかりあのまま、彼女から受け取った袋をそのまま持ってきてしまっていた。その袋についたシールの角を爪で引っ掻くようにしながら、トレーを持って席に戻って来る桜田を見上げる。容姿は悪くないにも拘らず如何せん、性格が弱々しい。何でもずばずば言ってくれるような強い女性になら合うのかもしれない。
「遅くなりました」
「構いませんよ」
 向かいの席に腰掛けた彼は、ぱっと目を見開いてその天蓬には似つかわしくない可愛らしい袋に目を留めた。
「どうしたんですかそれ……あ、誰かに贈り物とか」
「いえ、頂いたんですよ」
 そう言うと彼は声を漏らして大袈裟に頷いてみせた。そんな大きなリアクションも彼の持ち味である。少々疲れるが。
「流石、モテる男は違いますね」
「違いますよ、誕生日だったんです。一昨日ですけど」
 すると彼はコーヒーカップを持ち上げ掛けた手を止めて、天蓬の顔を凝視した。
「え、そうだったんですか! 言ってくれれば僕もお祝いしたのに」
「どうやって?」
「え……愛の手作りクッキーとか?」
「……出来るんですか」
「得意です」
 胸を張る彼に中途半端に笑いつつ、目の前のパスタに視線を落とした。実は大して食欲はない。
「ところでそれ、何だったんですか?」
 彼の指はそのペーパーバッグを差していた。
「これです」
 袋を退かして、その隣に置いてあったものをトントンと指で差した。
「ジッポ、と……携帯灰皿ですか?」
「僕の喫煙に対しては皆諦めてますからね」
 女性ばかりの部署だ、皆最初は健康がなんだ環境がなんだと禁煙を迫った。しかし禁煙なんてしたら死んでしまいそうな天蓬の実態を知った今、表立って天蓬に禁煙を迫るものはいない。女性ならではの感性なのか凝ったデザインの施されたそれと、何故かカエル柄の携帯灰皿を指先で突ついた。しかしなかなか可愛い、と天蓬は思っていた。
「先輩、カエル好きだと思われてるんですね。あの灰皿のせいですよ」
「可愛いじゃないですか」
「ほら、それですよ。確かに愛嬌のある顔をしてるなぁと思いますけどね」
 あの灰皿、というのは職場の天蓬のデスクの上で一際異彩を放っている、大口開けたカエルの灰皿のことである。あまり物を欲しがらない天蓬がどうしても欲しい、と思ったのだからあれは本当に可愛いのだと確信しているのである。
「……まぁ、どうでもいいですけど仕事の話をしませんか」
 ひたすらフォークにパスタをぐるぐる巻き付けていた天蓬は、一向に仕事の話へと向かわない会話に辟易して溜息を吐いた。すると彼はやっと思い出したというように声を漏らし、急に声を潜めた。
「あ、そうでした。……それで、八戒先輩がどうも変なんですよ。しかもその、短編集の正式な依頼書が届いてからなんです」
「……? 何か無理難題が書いてあったとか」
「僕はまだ見せてもらってないんです。だけど、そういうことはないと思うんですよね」
 真剣に心配をしている様子の彼を見て、少し微笑ましく思う。
「……大丈夫です、どうせ碌なことでありはしませんよ」
「そうですか?」
 彼の、いまいち信頼し切れていないような声音に苦笑して、天蓬はフォークに視線を落とした。
 その八戒から呼び出しのメールが届いたのが、その日の丁度五時だった。


 彼の呼び出し場所はその時々によってまちまちである。社内で会うことはまずない。場所はホテルのロビーであったり又は何気ないショッピングモールの指定された店舗の前、ということもある。どこどこの駅の何番ホーム、ということもあった。それが一番周りから不審に思われにくいのだ。今日の呼び出しは彼にしては珍しい、とあるバーだった。
 約束通りの時刻にバーの前に着く。かなり寒かったが、そこで待っていればいいのだろうか、と周囲を見渡しつつも暫く待ってみた。すると数分もしない内にバーの扉が開き、店員と思しき男が突然天蓬の名前を呼んだ。
「猪様がお待ちです」
 いつから奴はバーの店員を伝言係に使えるような立場になったのだろう、と内心呆れ返りながらも、寒い中意地を張ってこのまま立っているのも嫌だったので、天蓬は大人しく彼にしたがって店の中へと足を踏み入れた。
 全体的に暗く、少し妖しげな雰囲気が漂っている。一見の者は入り辛かろう。客をちらりと窺っても、皆常連のような雰囲気だった。店員に連れられていった店内の隅の席で、待ち合わせ相手は両手を組んで頭を載せていた。しかし目の前に天蓬が現れたのを見て居住まいを正す。そして天蓬が座り、店員が去ったのを確認してから八戒は口を開いた。顔色が大分悪い。
「お待ちしてました」
「随分と偉くなったものですねぇ」
「友人の店なんです。幾らか金も貸したもので」
 だからって、と閉口しつつも、天蓬は次を促した。すると彼は少し言葉に詰まったように口を噤んだ。そして少し躊躇いがちに探り探り言葉を切り出し始めた。
「この前お知らせした短編集の話ですが、お断りしようかと思うんです」
「それは助かりますね」
 天蓬の返事はにべもない。そのくらいは彼も予想していただろうに、更に困ったように彼は視線を落とした。そんな珍しい表情に逆にこちらが困ってしまう。彼が、スケジュール調節という意味で断ろうとしているのではないということくらいは分かる。そんなことで大事な仕事を蹴るような人間ではない。
「……僕は、その仕事がなくなること自体は全く問題ではないんです。だけどあなたは困っている。どうしてですか?」
 例えば天蓬がその仕事を受けたがっていて、しかし諸事情で蹴らなければならないことになった、というのなら悩んでも仕方がなかろう。しかし今はそうではない。彼の悩む理由は、そこではない。基本的に彼の中には断るという選択肢はなかったはずだ。それが、どうしてもその選択肢を加えなければならなくなったということは、問題はスケジュールか、締切か、それとも。
「……何か気に入らないテーマでしたか?」
 その言葉に明らかに彼の表情が固まる。それは黙っていても分かってしまうもので、彼も表情に出してしまったことに唇を噛んでいる。そんな八戒に、正直天蓬も困惑していた。
「書きたいわけではないですけど、あなたが周りに心配されるほど悩んでいるそのテーマを知りたいものですね」
「心配……?」
「桜田が言っていました。同僚たちは皆心配しているそうですよ。勿論彼も」
 昼間の彼を思い出して、天蓬は僅かに笑った。そんな天蓬に、彼は微妙な表情をしている。そしてその手がテーブルの上に置かれていた書類入れに触れ、ゆっくりと中から一枚の紙切れを取り出した。裏返されたまま差し出されるそれに、見てもいいのかと彼に目配せしようとした。しかし彼は観念したように目を伏せてしまっていた。それを了解と受け取り、天蓬はその白いコピー用紙をひっくり返した。
 つまらない口上に殆ど以前の企画書と変わらない内容が書かれている。締切も然程厳しいとは思われない。そしてそれに続いて、太字で印字された作品テーマ。
 なるほどと笑う。しかし彼がそのことでそんなに悩んで“くれる”とは思っても見なかった。その用紙を再び裏返して、彼の方へと押し戻す。そして隣に置いたコートを抱えて立ち上がった。それを見て八戒は驚いたように顔を上げる。
「スケジュール調整とうちの編集長への言い訳と、あとホテルの手配。お願いしますね」
「え……」
「あまり甘く見ないで下さいよ」
 そう言い、彼に背を向ける。ドアの前でコートを羽織り、そのまま店を出る。ボタンを留めながら家路を急ぐ。
 自分から負担を増やすとは、何とも馬鹿なことをしたものだと思う。しかし、今しか書くことが出来ないような気がしたのだった。
 冷たい風が頬を打って、目を細めながら歩く。
 久しぶりにお腹が空いた、と思った。











天蓬の誕生日、は適当です。イメージは寒い季節、晩秋から冬。       2006/11/04