長編小説を読んだ。簡単に読めるようなライトな本ではなさそうだったが、寝る前にと読み始め、途中で止めることが出来ずに結局徹夜してしまった。きっかけは書店で店頭に平積みにされているのをふと見かけたことだった。その著者はその小説でデビューし、様々な賞を総なめにしている男だという。いや、男というのは正しくない。名前が男なだけで、実際は男か女か分からないのである。若いのか歳を取っているのかも分からない。その著者は、授賞式にも何一つ顔を出さず、後記も解説も付けないという変わり者でも有名だった。勿論テレビや雑誌などのメディアにも全く姿を見せない。著者の存在感や人間臭さを全く感じさせないのである。
 処女作は無力感に襲われている社会人一年目の男と、風変わりな隣人の話。その頃丁度自分も社会人になり立てで、主人公と同じ状態だった自分はその本に興味を持った。読書の趣味などはなかったがつい手に取ってしまった。それは、何の過剰表現も如何にもフィクションらしいイベントも起こらない、等身大の物語だった。しかしその静かな世界観とストーリー構成は不思議な反響を呼び、静かなブームとなっていた。出世作となった二作目は現代を舞台にした奇妙なミステリだった。これまたノンフィクションのようなフィクションで妙なリアリティがあり、背筋を寒くさせた。そしてその後出版された三作目は、海沿いの小さな町に住む若者たちを主人公とした素朴な短編集。そのどれもがタイプの違うもので、評論家の中にはそれぞれ別の人間が書いているのではないかと言うものもあった。しかし全く以って答えは出ていない。著者が爺さんなのか婆さんなのか、女なのか男なのかも分からない。しかしただ一つ、きっと自分のような男とは全く違った思考回路と頭脳を持っているのだろうとぼんやり考えていた。

「よ、捲簾」
 ランチタイムで混み合うカフェ。大学からの友人である悟浄に声を掛けられて、捲簾は顔を上げて少しだけ手を上げてみせた。赤い髪を後ろで一つに括った男だ。そして彼が自分の向かい側の席に腰掛けるのを見てテーブルに載せていた財布とバインダーを下ろす。いつもは昼も女子社員と一緒の彼が、珍しく一人でいることに目を見開く。
「どうした、振られたか」
「ばーか、振ったの。何か結婚意識してそうだったからな。そういうの嫌だし」
「最低」
「また、俺って優しい男よ?」
 軽口を叩き合いながら、そんなことを嘯く男に肩を竦め、捲簾は右手にフォークを持ったまま広げた本に視線を落とした。それに悟浄はその赤い目を瞬かせて興味津々といった目を向けてくる。その視線の心地悪さに少しだけ捲簾は顔を上げ、開いていたページに栞を挟んで閉じた。そしてテーブルの隅に片付けてしまう。悟浄の視線はそれを追った。
「何、突然読書の秋?」
「まぁな」
 それでもまだ気になる様子の彼に、本を持ち上げて表紙を掲げてみせる。すると納得したように彼は頷いて、自分の持ってきたトレーに載せてあったコーヒーカップに手を伸ばした。
「それか。人気だよな、俺も読んだ」
「お前が?」
 読書、といえば雑誌くらいしか出てこなさそうな彼が、こんなぶ厚い本を読む気になるものだろうか。そんな気持ちが表情に表れていたのか、彼は如何にも心外だと言いたげな顔をして眉を顰めた。
「何だその顔」
「や、意外だなぁと思って……」
 怒るかと思われたが、彼は少し怒ったような振りをしてすぐに人好きのする笑顔に戻った。そしてその手を捲簾の広げる本へと伸ばし、表紙をもう一度眺め始めた。ちなみに彼(仮に)の本の表紙はいつも美しい写真が使われている。それにシンプルな白い縁取りに白文字のタイトル。そして端に一番小さく薄い色のフォントで、まるで隠れるようにして著者名が書かれているのだ。
「もうすぐ待望の四作目発売ーって本屋に掲示されてたぜ」
「へえ」
 それまでにはこの三作目を読み終わろう、と思いながら残ったページをぱらぱら繰った。この分なら今日明日で読み終えられるだろう。今も悟浄が来なければ少し読み進めようと思っていたのだ。そんな風に本に見入る捲簾を見ていた悟浄は、途端に何か悪戯でも思い付いたかのような表情になった。そして僅かに身を乗り出してくる。
「気になんねぇ? その、作家」
「まぁな、……性別くらいはな」
 本当は色々と物凄く気になるところだが、彼に言っても変に勘ぐられるだけ勘ぐられてからかわれて終わりそうなので、捲簾は適当に相槌を打っておいた。つもりだった。
「男だよ」
 悟浄の言葉に、捲簾はゆっくり顔を上げる。そしてそのニヤニヤした顔に眉を顰めて、首を傾げた。
「……妄想?」
「あのな……ちげーよ、事実!」
 声を荒げた悟浄に目を瞠り、彼の顔と本を見比べる。
「どういうこと?」
 そう訊ねると、嬉しそうに彼は笑って少しだけ身体を乗り出した。そして内緒の話をするように僅かに声を潜めてみせた。
「実はさ、俺の高校からの友達が奴の担当なわけよ。あ、その出版社に勤めてんだけどさ」
「本当か」
 そう聞くと彼は神妙な顔をして深く頷いた。それは、とても凄いことではないだろうか。というか彼はそんなことを気軽に他の人に話していいのだろうか。彼の顔を窺ってみるも、彼は何か重大なことを話しているようでもなく、ひたすらに自慢げなだけだ。
「話したこともあるし。キレーな顔してて、残念ながら男だけど」
「ふーん」
 あくまで無関心な風を装う捲簾に、何でも見通したような顔をした悟浄は、にやにや笑いながら自分の携帯電話をトントンと指で突付いて見せた。それに捲簾はじっと見入り、ゆっくりと顔を上げた。このまま食いついては、きっとまたまずいことに巻き込まれる。その自信はあった。その自信は経験に基づいており、だからいつも、その楽しそうな笑顔には嫌な予感を覚えるのである。
「会ってみたくねぇ? その男に」
 彼は昔から、かなりのお節介だ。そのせいでいい方向へ向かったこともあれば、余計な面倒事に巻き込まれたことも多々ある。

 しかし何だかんだと言って結局頷いてしまう自分は割と欲望に忠実だ。翌日の土曜に引き合わされた彼の友人は、一瞬驚いた顔をした後、少しだけ呆れたような顔で悟浄を見た。きっちり短く切り揃えられた清潔そうな髪にベージュがかったシャツ、パンツもしっかりアイロンが掛けられている。そしてその如何にも神経質そうな容姿に拍車を掛けるのは細いフレームの眼鏡だ。その奥にある深い翠の眸を瞬かせて、彼は捲簾を見つめた。一見温厚そうでもあるが、かなり頭の切れる、ただのお人好しとは思えない切れるような雰囲気を漂わせている。ただ優しいだけの性格ではなさそうだ、とふと苦手意識が顔を出した。人と接するのは好きな自分ではあるが、こういう冗談の通じなさそうな硬いタイプは得意ではない。
「今彼に臍を曲げられると、うちは大損なんですよ」
 担当であるという彼は、名前を猪八戒と言った。八戒は彼のファンというより、利益優先の極普通の仕事仲間といった感じらしい。そう話をしながらも手元は書類を纏めていて、視線は常に時計を巡る。きびきびと部下に指示を出すその合間にちらりと捲簾の様子を窺い、そしてもう一度悟浄へと睨むようして、皮肉げに笑って言った。
「悟浄には借りもありますし、断れませんね。但し、彼が少しでも不快がったら接触は中止です。割と簡単なことでやる気を失ってしまう人なんですよ。あと、見た目以上に人見知りします。苦手意識を持たれたら最後、近づけてもくれなくなりますよ」
 何だか動物園の檻につけられた注意書きみたいだと思いながら、矢継ぎ早にそう言う彼の言葉に黙って耳を傾ける。隣の悟浄は含み笑いで捲簾の肩を叩いた。そして声を潜めて言う。
「ああ言うけど、結構あいつもファンなんだぜ」
「……」
 冷たそうなタイプに見えたのだが、長年付き合っている彼にはそれが違った表情に見えるのかも知れない、と思い直してもう一度捲簾は八戒の顔を見た。しかし捲簾の目に映るその横顔は、やはり冷たいようにしか思えなかった。
 そしてその日の内に捲簾は肩書きを出版社の社員ということにして、八戒の名代で原稿の進み具合を見に行くという口実の元に送り込まれた。それは僅か十分ほどの面会だ。ボロを出さなければばれることはないだろう、とは悟浄の談だが、八戒は既にばれることを前提として考えているようだった。その証拠に彼は、もしもばれたら悟浄のせいだと言うように、と最後に忠告したのだった。
 そして事前知識として教えられたのは、著者は男だということ。そして名前はペンネームで、本名は“天蓬”と言うのだということ。
 彼は短期集中で執筆をするタイプらしく、書けそうな気分になったらホテルに篭るという。正確に言えば出版社の人間に押し込まれるというような形らしい。その缶詰に使われているホテルの前まで来て、上空を見上げて細く息を吐いた。どこにでもありそうな、シンプルなビジネルホテルだ。八戒に渡されたメモをポケットから取り出し、開いた。風に煽られ飛んでいってしまいそうなその小さなメモに並んだ文字を目で辿る。細く几帳面そうな文字で書かれた部屋番号。
(……1804)
 十分程の面会だ、当たり障りのない会話をすればいいだけ。ばれたら責任は悟浄に押し付ければいい。そしてそこまで考えて、どうしてここまで自分が頑張っているのだろうとふと我に返った。特に芸能人にも興味を持たない自分が、二、三冊本を読んだだけの小説家にそこまで惹かれるのはどうしてか。しかしうっかり深く考え込みかけてしまい、慌てて、それは会えば分かることだと頭から弾き出してもう一度ホテルを見上げた。

 担当にだけ特別に渡されているという鍵を使い、その部屋へ入り込む。カーペットの床にはスーツが皺のついたまま放られていた。その奥にはネクタイ、そのまた奥には靴下が脱いだまま投げ捨てられている。恐らく脱ぎ捨てながら部屋の奥へ入っていったのだろう。奥にあるベッドからは、崩れ落ちている脚だけが見えていた。裸足の白く、細い足が床に着き切らずに浮いている。
 こんなに人と会うのに緊張したのはいつ以来だろうと考えてみた。一歩ずつ奥へと歩きながら、今更平気なのだろうかと不安になってきた。しかし今更退けるわけもなく、引く気も更々ない捲簾は一歩一歩、足音を立てないように息を押し殺して部屋の奥へと向かう。一度立ち止まり、自分の大きな鼓動を感じて大きく深呼吸をする。そしてバッグを抱える腕に力を込めて、再び足を踏み出した。
 一瞬その姿に見入った。シーツの上に、自分の膝を引き寄せるように縮こまって眠るその姿を見て、息を呑む。その端整な横顔が自然に目を引いた。ワイシャツのボタンは三つほど開けられ、白い首元が露わになっている。白のピローカバーには半端に伸びた黒髪が艶やかに流れ、黒縁の眼鏡が外れ掛けになって耳に辛うじて引っ掛かっている。細い姿態がシーツの上で縺れるようにして人形のように眠っていた。息をしていることが、身体の僅かな上下でやっと確認出来る。そうでなければ人形が転がっているのかと思うところだ。暫く声を出すことも出来ず、そのままその姿を見下ろして立ち尽くしていた。
「……ぁ……ん」
 突然漏れた小さな声に、思わず体を強張らせる。そして僅かな衣擦れの音と共にその白い足がシーツの波を蹴った。ゆっくりと眼鏡の奥の瞼が押し上げられる。瞼の下から覗いた潤んだ黒の眸がゆるゆると二度瞬き、そっと目だけで捲簾の方を見上げた。そしてその眸が俄かに大きく見開かれた。
「……あ……八戒の、代理の方ですよね」
「あ……ええ」
 初めて聴いたその声に、一瞬声を失う。しかしそのままだと不審がられるということに気付き、慌てて返事をした。するとそれを見て彼は、ほわ、と何故だか消えそうな笑顔を浮かべてゆっくりベッドから起き上がった。そして目を擦りながら口を開いた。
「……どうしたんですか、あの鬼が急に病気だなんて」
「鬼……?」
「おや、彼の原稿の取り立ては鬼の如きですよ。あなたにはそうでもありませんか?」
 起き上がった彼はそう言いながら、乱れた髪を直して眼鏡を掛け直した。そして初めて彼の容姿を正面からしっかり見つめた捲簾は、再び言葉を失いそうになる。悟浄の言う通り、綺麗な顔をした男だった。そしていっそ不健康と言えるほどに白い。こんな狭いホテルに篭りきりでいては不健康にもなるだろう。きちんと三食食べているのだろうか。そんな世話焼き癖が顔を出すのを押し留めつつ、やっと部屋の全貌を見渡すことが出来た。テーブルにはノートパソコンと携帯電話に辞書、ノートと筆記具だけが置いてある。床には沢山の本が積まれていた。図鑑のような厚いものから小さな文庫本まで様々だ。
 珍しげに部屋中を見渡す捲簾を見て、彼はくすくす笑った。そしてベッドから降りてちらりとテーブルの上の携帯電話を窺い、嫌そうに顔を顰めてそれを再びテーブルに戻した。
「すみませんねぇ、わざわざ。捲簾さん、と仰いましたか」
「ええ。進み具合は、どうですか」
「あははは、耳が痛いですねぇ」
 そんな風にへらへらと笑う様子を見ていれば自ずと答えは見えてくる。つまりはからっきしなのだ。そんなふわふわした様子の男に呆気に取られながらも、捲簾は次に続ける言葉を探した。そして自然に視線は相手の服装へと向かう。
「昨日は、どこかに出掛けてらしたんですか」
「あ、ばれました?」
 スーツを床に脱ぎ捨てワイシャツのまま眠っていた姿を見れば大方想像はつく。まさかいつもスーツのまま、ということはあるまい。八戒ならばそんな自堕落な状態には確実に顔を顰めるに違いない。
「昨日の晩、知り合いと呑みに出掛けてて」
「食事は」
「肴だけですね」
「朝食は」
「いえ、今まで寝てましたから」
「昼食は」
「いつも食べないです」
 その彼の言葉に、捲簾は頬をひくりと引き攣らせた。そんな捲簾にも構わず、彼はテーブルの奥に置いてあった煙草を引っ張り出してきて呑気に火を点けている。こんな綺麗な顔をしていてそんな中身はありなのか、と頭が痛くなる思いがした。
「天蓬さん」
「はい?」
「食事は必ずして下さい」
「は」
 煙草を銜えてぼうっとしていた彼は、捲簾の言葉に眼鏡の奥の眸を瞬かせた。思ったよりずっと幼く見えるその目に一瞬言葉に詰まるが、心を鬼にして彼を少し強く睨み付ける。
「酒と煙草ばかりで食事もしないで、早死にしますよ」
 その言葉に彼は一瞬言葉を失い、目を三度ゆっくりと瞬かせた。彼は俯き、ゆっくりその煙草を灰皿に押し付けながら、徐々に楽しそうにその口元を緩ませていく。そして指に煙草を挟んだまま、面白がるような悪戯っぽい顔をして捲簾を見た。
「……誰の手引きです? 大方、沙君ですか」
 何でこのタイミングでばれるんだ、と一瞬思考が止まる。そんな捲簾を見て彼はますます面白そうに笑った。
「……何で」
 どうして分かったと暗に訊ねる捲簾に、彼は再び煙草を銜えながら微笑む。
「出版社の人間は僕の健康を気遣ったりしませんから」
「……」
「僕は彼らの金蔓ですから。絞り取れるだけ取られておしまいの。それに、八戒が病気になるわけないですからねえ」
「どうして」
「あんな堅物、病原菌の方が嫌がります」
 そう言ってころころ笑った彼は、灰皿に煙草の灰を落としながら捲簾に向き直った。その両の眸が楽しげに煌いて捲簾を映す。
「で、あなたはどうして僕のところへ?」
 こんなタイミングで白状する羽目になるとは、思いもしなかった展開だった。頭を抱えてしゃがみ込んでしまいたかった。

「奇特な方もいるものですねぇ」
 捲簾が白状した後、その言葉を聞き終えた彼が呟いたのがその言葉だった。ファンなんて沢山いて、ファンレターだって箱単位で届くだろうにその言葉は何なんだと脱力してしまう。彼と話せば話すほど、あの作品を書いた作者とは思えなくなってくるのだ。しかしそれは決して幻滅ではなく、ますます彼という人間に対しての興味を増すものだった。
「あまり嬉しそうじゃないですね」
「え? 嫌ですね、嬉しいですよ。一人でも自分の作品をいいと思ってくれる人がいるというのは本当に有り難いことです」
 そう言って彼は笑った。遠慮がなくなって、自らも煙草に火を点けた捲簾は緊張を解すように一度大きく息を吐いた。そんな捲簾を、彼はじっと興味深げに見つめている。その視線に少し居心地の悪いものを感じながら見返すと、彼はすみません、と謝ってまた笑う。
「あなたは会社員ですか?」
「え、ああ……そうですが」
「僕もね、普段はただの会社員なんですよ」
「は?」
「前までは今の出版社で雑誌のライターをしてたんです。あ、今も執筆時以外は、普通のライターですよ」
 その意外さに目を見張ると、彼はその反応に嬉しそうに笑った。食べ物の話を聞けば、食事は気が向いた時、という何ともアバウトな返事で、捲簾は呆れて暫く返事が出来なかった。常に必要なのは煙草と本だけだなんて、これで人気作家でもなかったらただの廃人だ。そんな風に思っていると、彼は訝しげな捲簾を見て小さく笑った。
「本当は、ファンだなんて正直心苦しいですよ」
「え?」
「小説家を志したことなんてありません。ただ、暇潰しに書き始めたそれを友人に読まれてしまったせいでこんな風になっちゃって。これじゃ、本気で小説家を目指している方々に申し訳ないでしょう」
「友人……」
 いてもおかしくないのに、何だか彼の口にする“友人”という言葉が不思議で捲簾は目を瞬かせた。それに、彼も捲簾の気持ちが分かったのか苦笑いをする。
「友達、ね。僕には彼だけですから」
「え……八戒は?」
「担当ですよ」
「悟浄は?」
「知人です。そもそも僕には友達の定義が分かりませんし……だけど彼だけは、何となく友達なんです」
 何がなんだかさっぱりだ。しかし、その彼の唯一の友人という男だけは、彼に認められているということだろうか。そう考えると、その見たこともない男が何だか憎らしく思えた。そして、ティッシュを求めて立ち上がった彼の目が、壁に掛かった時計を見上げた。そして続いて時計を見上げ、既に時間が三十分を過ぎていたことにやっと気付いたのである。
「すみません、長居を」
「いえ、久しぶりに珍しい人と話せて、楽しかったですよ」
 ティッシュで眼鏡を拭きながらそう言って彼は柔らかく笑った。立ち上がった自分は、それを見つめたまま立ち尽くしてしまう。このまま去れば、きっとこれきりだ。このまま、一人の読者に戻らなければならないのか。自分は友人に頼んでほんの数十分間の夢を見ただけだった。いい加減、夢から覚める時間がくる。
 急に動きを止めた捲簾に、訝しげな彼は少しだけ首を傾げる。そして何かに思い当たったように手を打った。
「八戒には、ぼちぼち進んでおりますと伝えて下さい」
「進んでるんですか」
「や、あまり……けどそう言っておかないと煩いんです。ひらめけば然程執筆に時間は掛からないので、それまでの辛抱なんですよ。というわけでよろしくお願いします」
 そう言われれば、もうそれ以上この部屋に居座ることは出来なかった。後ろ髪引かれる思いで出口に向かうと、戸口まで彼も見送に出てきてくれた。最後に一度だけ振り返ると、彼は小さく手を振った。
「じゃ……さようなら、捲簾さん」
「また会えますか」
 あまりに唐突だったか、と自分でも思ったが、口から出た言葉は二度と引っ込むことはない。突然の言葉に、少し驚いたように目を瞬かせた彼に自己嫌悪を感じた。しかし彼はすぐに先程までの笑顔を取り戻す。彼はまた穏やかに笑って手を振った。
「いつでも」


++++


 いつもと変わった様子の友人に、三蔵は目を細めた。グラスを傾け、そんなおかしな友人を眺める。何処か浮き立った様子の彼に、少し腹立たしく思いながらも口を開いた。
「そういう楽しそうな顔は、原稿をあげてからにしろ……天蓬」
「え? ああそうですね……ふふ」
「思い出し笑いか」
 からかうようにそう言うと、彼はぱっと目を見開き、再びにこにこと笑い出した。
「楽しい人に会ったんです」
「楽しい?」
「はい、何か、初めて見た種類というか……こう、何かね、綺麗なんですよ」
「顔がか」
「いえ、何か中身が……僕らと違って」
「成程な」
「こんな人二度と会えないだろうなって思ってたら、また会ってくれるみたいです」
 その楽しそうな様子が腹立たしい。無意識の内にその笑顔を消す言葉を探してしまう自分が憎かった。
「……どうせ、いなくなるぞ」
 それだけの言葉が、彼には酷く効いたようだった。彼の笑顔はたちまち小さくなり、その視線が切なげに下に向けられる。それに、しまったと思いながらも何だか満足感を覚えてしまう自分が憎い。
「そうですね……僕もあなたも、一人ですもんね」
 そうだ。それを忘れるな、天蓬。
 自己嫌悪の裏で、そんなことを思ってほくそえむ自分がいるのも事実だった。


++++


「つまりは全く進んでいないってことですね」
 捲簾の伝えた言葉に、八戒は迫力ある笑顔のまま返した。彼の背後に何か危ないオーラが漂っている気がする。やはりばれているのか。そして彼もそのことに気付いていて嘯いているのだろう。作家と担当だというのにかなりギリギリの人間関係だ。あちらもなかなか精神が図太く出来ているようだ。そうでなければこんな男と付き合ってはおれないだろう。
「天蓬はいつもああなんですよ。ギリギリまでゴロゴロしてて、〆切直前になってから一睡もせずに書き続けるんです。夏休みの宿題を片付けられない子供と同じです」
 その言葉に、捲簾はあることを思い出して声を漏らした。そして八戒の様子を窺いつつ恐る恐る進言する。
「あの、もう少し彼の体調を考えてあげた方がいいんじゃ」
 捲簾がそう言うと、彼は途端に冷めた顔になり、冷たく笑いながら言った。
「彼だっていい年をした大人です。そのぐらい自分で出来て当然でしょう」
 彼が言うのも尤もなことだ。しかし、流石に何処か冷たすぎるものを感じて捲簾は顔を顰める。彼はといえばさっさと仕事に戻ってキーボードの上に指を滑らせている。その横顔は酷く冷たく、人に話し掛けられるのを拒むようだった。悟浄の言うように、彼が天蓬の作品のファンだなんてとても思えない様子に、捲簾は戸惑うことしか出来ない。
 その時、ふとポケットの中にあった携帯電話が振動を始めた。一瞬八戒の方を窺ったが、彼の方はもう会話を終えたつもりでいるらしい。少しむっとしながらもそちらがいいのなら、と捲簾は挨拶もせずに彼に背を向け、編集室を出た。そして携帯電話を開いて中を確認する。メールは悟浄から。今会社の下にいるので下りてこい、とのことだった。

「どうだった、面会は」
「ん……すげぇ不思議だった」
 他に言いようがあったろうに、自分の口から漏れたのはそんな言葉だけだった。綺麗だとか変わり者だとかそういうこともあったが、それは彼も知っていることだろうと捲簾は言わずにおいた。とにかく不思議だったのだ。あんな人間が実際にいることが。
「まぁ、何か他と違う感じだよな」
「ああ……にしても、あいつ」
「あ? 八戒のこと?」
「ああ、何か……とてもファンとは思えないぞ。冷たすぎる、あれじゃいいように使われる馬車馬みたいだ」
 そう言うと、悟浄も少し困ったような顔をして、視線を少し部屋の中へと向けて頭を掻いた。
「……俺もあればっかりはよく分かんねぇんだわ。憧れの人の担当だからって浮つかないように自制してる……にしては、酷すぎるか」
 あれはとても憧れの相手に対する態度とは思えない。天蓬の八戒へ対する態度もどこか諦めのような呆れのような、一歩退いた様子が窺えた。彼自身が八戒と相容れることを諦めてしまっているのではないだろうか。
「だけどずっとああなんだよ。ちょっと異常だなっていうのは、俺も分かってんだけど、部外者が首突っ込めることじゃないしな」
 どうしようもない、というのが現実ということか。捲簾はまた、パソコンを前にして黙って手を動かす男の横顔を思い出してみた。少し冷たい八戒の横顔が、何を見ているのかは全く分からなかった。

 そしてまた捲簾はいつもの暮らしに戻った。会社と家、時々呑み屋を行き来するくらいの単調な生活だ。しかしそれが退屈だと思うほどに暇ではない。同僚の悟浄も同じようなものだ。彼の場合女に粉をかけるのがライフワークであるから暇ではないだろう。元々自分とてそういった人種だったのだが、最近では仕事が終わってからそちらに出掛けるほどの余力がない。年を取った証拠だろうか。
 彼と自分は友人ではあるが、別の部署の所属で、時間が合わないことが多いため一緒に呑みに行くことは実は余りない。しかしそんな彼から突然メールで呼び出されたのは、一週間後のことだった。
「天蓬、あのホテル出るらしいぜ。今の原稿終わったからって」
 開口一番そう告げられて、捲簾は咄嗟に反応出来ずに目を二度瞬かせた。
「はぁ」
「八戒からそれ知らせとけって」
「それなら、わざわざ呼び出さなくてもメールで知らせてくれればいいだろ」
 そう軽く返すと悟浄は少し眉を寄せてみせて、唇をひん曲げた。
「お前らこの前一度会っただけだよな? 何でお前に知らせが来んの?」
「あー……」
 それは自分が帰りがけにまた会えるかと訊いたからだ。しかしあの人に本当が覚えてくれているとは思っていなかったこともあり、何だか妙に嬉しい。そしてあれが社交辞令ではなかったことも。そんな捲簾を見ながらなんだか少し納得のいかない顔をしていた悟浄は、白状しようとしない捲簾に諦めを見せた。
「手が早いのね。まぁいいけど……多分お前さ、かなり八戒に嫌われたぜ」
「え? 何で……」
「あいつ天蓬に冷たく酷くする割に、他の奴が仲良くするの嫌がるんだよ」
「はあ」
 ますます八戒という人間が分からなくなっていく。呆れにも似た気分になりながら、その冷たい横顔を思い出した。何故単なる仕事仲間であるはずの相手に、そこまで執着するのだろうか。眼鏡越しの冷たい視線を思い出して顔を顰めた。
「あれ、でもあの人、一人だけ友達がいるって」
「あ? ああ……三蔵のことだろ」
「サンゾウ?」
「今話題のフォトグラファーだよ。それも、天蓬の本のカバー写真を撮ってるってことで人気が上がり始めてる」
 その言葉に目を瞠り、捲簾は隣の椅子に置いていた自分のバッグを漁り、手でハードカバーの本を探して引っ張り出した。そしてその本のカバーに目を通してみる。すると、カバーの折り返しの下部に小さな文字が印字されているのに気付いた。
 “design&photo:genjo sanzo”
「げ、げんじょ?」
「げんじょう、な。玄奘三蔵。一冊目から三冊目まで全部揃いの白縁のデザインだろ。それもそいつが考えたらしい」
「で、そいつが唯一の友人ってわけ?」
「らしいな、変わり者同士気が合うらしいけど。不可欠なのは煙草で趣味は酒と麻雀っていう奴等だから」
「麻雀……」
 ますます彼と、彼の書く作品との間のギャップが激しくなっていく。しかしそれすら何だか楽しいように思えるのが不思議だ。カバー写真を見つめながら、彼のことを思い出してみた。あれで、しっかりした生活をしてきちんとした格好をしていたらそれ以上なくいいのに。一体何が、と一瞬考えたが、全く答えは出てこずに捲簾はすぐに考えることを放棄した。
「何か、違う人種を見てる感じがする」
「言えてる」
 彼の軽口に軽口で返しつつ、次の可能性を確信して久しぶりに心が浮き立つのを感じた。


「無事にね、新作の原稿が出来上がったんですよー」
「遅くないですか」
「遅いですねぇ、また八戒に怒られました」
 ころころと天蓬は笑いながらボストンバッグへ沢山の服を詰め込んでいく。そしてホテルに滞在中の全ての荷物を。原稿が終わったため、ホテルを出て家に帰るとのことだった。相変わらず冷たい顔をした八戒からその手伝いをするように頼まれて(非常に嫌そうな顔をしていた)初めて会った日から一週間後の土曜日、捲簾はホテルの部屋の片付けを手伝っていた。適当に積まれた衣服を畳んでバッグにしまい、ふわふわと欠伸を繰り返す彼の顔を時折窺った。
「すみませんね、沙君に頼もうかと思ったらデートだって断られちゃったんです」
 自分は悟浄の代理ということか。しかし一度会っただけで悟浄の次点に数えられているだけましな方かもしれない。
「いえ、……また会えるか訊いたのは俺ですから」
「本当に物好きな人ですねえ」
「は」
「作品は暇つぶしになりますが、僕といたって何があるわけでもないですよ」
 銜え煙草でワイシャツを畳みながら彼は言った。暫く彼の様子を窺ったが、皮肉でも何でもなく心からの本音らしい。ぱちぱちと目を瞬かせる彼と数秒見つめあい、どちらからともなく目を逸らした。彼の畳んでいたシャツに視線を落としつつ、彼の眸は真っ黒ではなく僅かに明るさを帯びた榛色であることを知った。
「……別に、いいんだよ」
「え?」
 呟いた捲簾の言葉を聞き取れなかったのか、彼は大きく瞬き一つして、ベッドに膝をついて少しだけ捲簾に顔を近づけた。そしてその鳶色のきらきらした目がじっと捲簾を見つめる。
「何ですか」
「あなた、敬語使い慣れないんじゃないですか? 別にいいんですよ」
 聞かれていたのかいないのか、そう少し外れたことを言う彼に目を見開く。しかしそれは願ってもないことだ。仕事中に敬語を使うのは当たり前で、苦痛でなどあり得ない。しかし日常生活でまで敬語を使い続けるというのはなかなか辛いものだった。
「……いいのか?」
「ええ」
 ベッドに座り、にこにことそう言う彼に少し力が抜けた。
「あなたって敬語が似合いませんもん」
「そりゃどうも……」
 そう返すと彼はまた笑った。その笑顔には何だか人を脱力させる雰囲気がある。それに無意識に自分も笑ってしまうのを感じた。
「先週、僕の作品のこと褒めて下さったでしょう」
「え? ああ」
「だからもしかしたら、幻滅させてしまったんじゃないかってちょっと心配したんです」
 思いもよらぬ言葉に、シャツを畳む手を止めて彼を見上げた。彼は捲簾に背を向けてパソコンを片付けている。
「だからメディアには露出したくないんですよねぇ」
「……こう言っちゃなんだけど、顔出したらもっと話題になると思うけど」
 これだけの美形でしかもそれが今多数の賞を受けているという作家ならば、雑誌もテレビもすぐに食いつくだろう。しかし彼自身は何だか微妙な顔をして首を振った。
「顔が世間に知られるようになるのは、嫌なんです」
 最初捲簾はその言葉で、天蓬が人見知りするだとか、そういうことだと思った。他に何かがあるとは思いもしなかったのだ。

 家へと帰る彼を自分の車に乗せて走り出す。彼は帰りを待つ家族も恋人もおらずマンションに一人暮らしということだった。既に助手席でうとうとしている彼を横目に少し笑う。そう言えば八戒が、彼は案を思い付くと一睡もせずに書き続けると言っていた。ならば相当寝不足なのだろう。こくりこくりと舟を漕ぐ彼の瞼は今にも落ちそうだ。その少し幼い仕草に捲簾は微かに笑い声を漏らした。
「寝てていいぞ」
「……や、でも」
「着いたら起こすから、少し休め」
 住所は聞いているし、そう込み入った場所にあるわけではなさそうだ。うとうとしながらも少し思案していた様子の彼は、暫くするとこくんと小さく頷いた。
「……じゃあ、ちょっとだけ寝ます……」
 そう言うと彼はヘッドレストに頭を預け、すぐに瞼を閉じてしまった。余程無理をしていたようだ。青白い瞼が彼の疲れを表しているようにも思える。頬に掛かっている黒髪を直してやりたかったが、何となく触れることは躊躇われて伸ばしかけた手を引っ込める。そして信号で止まっている間に、後部座席から引っ張り出した上着を彼の胸から掛けてやった。
 それから黙って車を走らせた。ラジオも音楽も掛けずに、ただエンジン音が微かに聞こえる中で真っ直ぐ前だけ見ていた。どうしてそんなに彼が気になるのか、無性に触れてみたくなるのか、何度考えても至る結果はいずれも同じだ。それは感じてはならない衝動だった。しかしもう答えは目の前にある。それから無理に顔を逸らしつつ、ちり、と指先が痺れる感覚に襲われた。

 辿り着いたマンションの前で車を停める。そして助手席に目を向けて静かに眠るその横顔を揺らした。
「おい着いたぞ、……天蓬」
 初めて呼んだ名前に、少し舌が縺れた。しかし少し揺らしただけで彼はゆっくり目を開き、目を擦りながら捲簾を見上げる。そして窓の外を見上げて小さく声を漏らした。
「ああ……着いたんですね、すみません。車……地下に駐車場がありますから」
 ということは、送るだけで終わりではなく上がっていけということだろうか。一瞬戸惑ったものの、断る気は更々なく、彼の言葉に従って車を地下駐車場へと向かわせようとしてウィンカーを左に点ける。しかし彼が口にした次の言葉にはたと手を止めた。
「と言っても、お出し出来るものはインスタントコーヒーくらいしかないんですけど」
 何も言わずに動きを止めてしまった捲簾を助手席でじっと見ていた天蓬は、不思議そうに目を瞬かせた。
「どうしたんですか?」
「あんたの家、フライパンあるか?」
「え? ないですよ」
「鍋は」
「ないです」
 当たり前だと言わんばかりに軽く首を振る彼を横目に、捲簾は頭の中で買ってこなければならないものを思い浮かべた。食材の他に、フライパン一つくらいは必要だろうか。すぐに点けていたウィンカーを消し、彼の住むマンションを通り過ぎて車を直進させる。

「だって、パンは焼かなくても食べられるし、お惣菜買えば別にフライパンはいらないし……」
 トースターもフライパンも鍋もないということに対して、彼はそう言い訳してみせた。しかし捲簾にしてみれば信じられないことばかりだ。トースターのくだりはともかく、彼は目玉焼きすら食べないということになる。確かに店を回れば鍋など必要ないくらいに美味しい惣菜が手に入る。ただ、そんなことで身体があの激務に絶えられるはずがない。昔からからかわれ続けた世話焼き根性が、これ以上なく刺激されていた。怒ったような顔をする捲簾に、彼は少し困ったように笑って一歩後ろを歩いている。
「あ、そこですよ」
 彼の指したドアを前に立ち止まる。彼はボストンバッグのポケットを探り、キーホルダーも付いていない鍵を引っ張り出して鍵穴に差し込んだ。軽く回すと奥からカチン、と金属音がした。
「どうぞ、何もないですが」
 そう言われて、しかし捲簾はごちゃごちゃな汚い部屋を想像していた。数週間でホテルの部屋をあれだけ汚す男だ、部屋なんて足の踏み場もないだろうと。そう思って溜息を吐きながら玄関に足を踏み入れる。そこには彼の物と思しき革靴が一足だけあった。
 入った部屋に、一瞬言葉を失った。彼は何の嘘も言ってはいなかった。部屋の中には何もない。正確に言えばローテーブル一つしかない。呆気に取られて彼を見る。彼は少しだけ困ったように笑って、頭を掻いた。
「嘘は言ってないですよ」
「……何で?」
 無意識の内に呟いた捲簾に、天蓬は笑った。
「いつでもどこかへふらっと出掛けられるように」
「何?」
「いつか小説家として有名になって、自分が満足出来るだけ小説を書いたら、ある日突然何も残さずに消えようって思ってたんです。そしたら残るのは小説だけでしょう」
 普通の、ごく平凡な生活をしてきた自分にとっては、非日常としか思えない。きっとこんな小説を書く人間は、自分とは全く違う頭を持っているのだろうと漠然と感じていた。しかし今それが確信へと変わっていく。
「そうしたら、僕がいたっていう証拠は、何一つなくなるんです」
 その時に、彼がメディアへの露出を嫌う理由が分かった。小説を書いた著者と、生身の自分というものを切り離しておきたいのだ。そうすれば、友人も少ない彼は、いなくなっても消えたことに気付く者は少ない。そうすれば、……本当に彼は消えてしまう。残るのは、小説家としての彼の名誉と、その小説だけ。
「どうして消えたいんだ」
「どうでもいいからです、自分が」
 天蓬はそう言って小さく息を吐く。本当にどうでもいいのだろう。それは諦めなのだろうか。
「消えるのに邪魔なものは、全て切り捨てていきます」
 友人も生身の自分に対する名声も金も、どこかへと消えるのに邪魔なものは何も要らないと言うのだろう。
 何だろう。言いようのない焦燥感に、肌がぴりぴりした。


 そしてまた平日に戻ると普通の日常に身を投じる。そして週末には彼の様子を窺いに家を訪れた。彼はいつも何もない部屋の中、唯一の電気機器であるパソコンで仕事をしている。普段は普通のライターとして働いているという彼の言葉の通り、あれからは雑誌のライターとして働いているようだ。そして捲簾が訪れたのを見ていつも、ほわりと嬉しそうに小さく微笑むのである。置き去りにされた子供が親を見つけて微笑むように。
 そんな風な彼を前に、もう気持ちに背を向けることは出来なかった。しかし向き合っても、それを形にするつもりはなかった。形にしてしまったら壊れてしまう。だからこのくらいぼんやりと、曖昧な形のままの方がいいと思っていた。それくらい、大切な関係だった。
 それと、一昨日から天蓬の四作目が書店に並び始めた。売れ行きはネームバリューと前評判もあって発売当日から上々らしい。ちなみに捲簾は本人から発売前に貰っていた。画家を志す人付き合いの苦手な青年と、余命を宣告されている少女の話。彼にしては陳腐な設定だと思ったが、彼の作品がただで転ぶはずがなく、勿論中身は陳腐などとは思わせない丁寧な描写とストーリー構成が成されていた。そしていつも通り、表紙は三蔵という男の写真だった。彼の評判も高まっているらしく、天蓬の本の隣に彼の写真集も積まれているのを見た。そちらの売り上げもなかなかいいらしい。有り触れた美しさに斬新さを兼ね備えていると評価も高い。
 そして捲簾の部屋の本棚には、揃いの白いデザインの四冊の本が並んだ。ある夜、その背表紙を見つめていて、ふと前々から思っていたことがあったのを思い出したのだった。
「ペンネームですか? 死んだおじいちゃんの名前なんですよ」
 出汁巻き卵を頬張りながら彼はそう言った。彼は特に小食なわけではなく、買いに行くのが面倒だと思ったり食べるのが面倒だと思えば、食べなくていいか、と簡単に思ってしまうらしい。だからこうして捲簾が食事を作って出せば、その身体のどこに入っていくんだと思うくらいに軽く平らげるのだった。
「祖父さん?」
「ええ、僕、祖父母に育てられたんでね。おじいちゃんは僕が高校生の頃に病気で死んじゃったんです。おばあちゃんは今も元気に一人暮らししてて、たまに僕も帰るんですけど」
 味噌汁を啜って彼はそう言い、笑った。しかしそんなとても笑えない重い話に、逆に捲簾は口篭もってしまう。しかしそんな捲簾を見て天蓬は茶碗を持ったままくすくすと笑った。
「そんな顔をしないでください。そんなに気にしてないんですよ。おばあちゃんもおじいちゃんもすごく大事に育ててくれましたから」
「……そっか」
「ええ」
 そう言って彼は本当に綺麗に微笑んだ。
「僕を捨てた母に、今はとても感謝しています」










良識的サラリーマン×浮世離れした新進気鋭の小説家。ちなみに捲天に加え少々三天。       2006/10/22