うちの大学には変わり者の教授がいた。色素の薄い長髪を三つ編みにして垂らしていて、いつもふわふわした微笑みを湛えている人だった。入学当時から彼は天蓬に目を掛けてくれていて、よく彼の部屋に呼ばれたりもしていた。彼の淹れる紅茶は美味しく、その少しだけ埃っぽい部屋にはいつも穏やかな時間が流れていて、天蓬はその部屋でゆっくりと彼と話しながら過ごす時間が好きだった。その日も窓から差し込む光に目を細め、古びた革張りのソファに身体を埋めていた。
「天蓬君、今日はディンブラーですよー」
「いつもすみません、先生」
「いえいえ、ゆっくり座って待ってて下さいね」
 一度腰を浮かせかけた天蓬を手で制して、彼はにっこり微笑んでティーポットを抱えて出ていった。それを見送って、天蓬は力を抜いてもう一度ソファに体を沈めた。そしてゆっくりと深く息を吐く。その吐息の音だけが、静かな室内に響いた。春の進みゆくこの頃は気温も温暖で、漂ってくる花の香りに何だか気分も柔らかくなる。つまりは、眠いのだ。天蓬は小さく欠伸をして、目を擦り擦り窓の外へと目を向ける。窓の外には大きな桜の木がある。その桜色は見ているだけで心が華やぐようだった。その桜を暫く眺めた後、ゆっくりと目を瞑った。そして再びゆっくりと目を開く。そしてその時、壁に掛かっている大判の写真が目に入った。天蓬はゆっくりと立ち上がった。
 彼の部屋にはいつも写真がある。しかもそれは、天蓬が訪れる度に違うものになっているのだった。その写真が、天蓬は好きだった。写真の掛けられた壁の前に立つ。今日の写真は夜桜。夜、というよりも夕闇の中、ぼんやりとバイオレットの空に浮かぶ淡い桜色が幻想的たが、その後ろに聳えるネオンに塗れた夜景が現実とのギャップをもたらす。そんな、どこかいつも皮肉めいた題材が興味深くて、とても好きだった。こんな写真を撮るのは一体誰なのだろう、と思っていたが、ついいつも聞き忘れてしまうのだった。
「お待たせしました〜、……あ」
 盆を両手に部屋へ戻ってきた彼と目が合う。彼は少し驚いた様子だった。何だかその驚きようが、自分が勝手に室内を物色していた自分を咎めているようで、きまり悪くなって天蓬は頭を下げた。
「すみません、勝手に……」
「いえいえいいんですよ、……気に入って頂けました? それ」
 にこにこ笑いながらその盆をテーブルに置いた彼は、そのまま天蓬の隣へと歩いてきた。そして並んで写真を見上げる。
「はい、とても」
「そうですか、嬉しいですねぇ。これ、私の息子の撮ったものなんですよ」
「息子さん……」
 彼に息子がいたということ自体初耳で、少し驚きつつも彼に倣ってもう一度写真を見上げた。
「いつも、違う写真ですよね」
「おや、いつも見て頂いてるんですね。あの子も喜びます」
 そう言って彼は嬉しそうに笑った。きっと自慢の息子なのだろう。“彼の息子”というのもあったが、純粋にこんな写真を撮る人に一度会ってみたい、と心のどこかで思っていた。その願いは、叶わないでいるべきだったのだ。

 そして出会わなければよかったのにうっかり出会ってしまったのが、あの男だった。出会わなければ綺麗な理想だけをずっと心の中で大事にしておけたというのに。入学して少し経った頃、キャンパス内を歩いていた時に突然声を掛けられた。そしてそのふてぶてしい物言いに初対面で最悪の印象を抱いた。そして何故かそれから何かと話し掛けられたり一緒に出掛けるようになり、変な人だなぁと内心思っていた。しかしある日、偶然二人で歩いている時に教授に出会う。それが人生の岐路だった。
 その男が教授の息子だと知り、つまりはあの写真を撮った人物だと気付いた時には酷く後悔をした。そしてその場で、天蓬が彼の写真を気に入っていたと教授にばらされたものだから、事態は余計にややこしくなった。それが彼を付け上がらせることになり、結果的に自分と彼とを結び付ける要因となったのだった。そして、自分が小説家などという仰々しい肩書きを持つことになったのも、その出会いがあったからだ。今の自分があるのが彼のおかげ、と言うのも何だかおかしい気がするが。
 しかし、想定外だったのはそこからだった。自分でも何故そんなに簡単に雰囲気に呑まれてあんな関係に至ったのか全く分からない。彼は確かに器用だった。比べるデータは今の所ないが、多分下手ではなかったと記憶している。……とそんなことまで覚えている自分が憎かった。
 そして何故か十数年、腐れ縁は未だ切れることがない。それは腐れ縁というより悪友と言うに相応しく、自分の苦手とする“純粋さ”というものを全く持ち合わせていない彼という存在が、どうしようもなく安心出来るものであるのは確かだった。純粋なものは、自分を心苦しく妬みの固まりにさせる。彼はその欠片すら持たなかった。嫌な部分ばかり似通っていて、気が合う反面酷く反発もした。自分の汚れた部分、醜い部分を見せ付けられているような気になったからだ。なのに二人はそれ以上の関係に踏み込んだ。それは何かの意地だったのかもしれない。ふとした酔い任せだったのかもしれない。何でもいいから決して、自分から望んだ行為だったとは思いたくなかった。


+++


「いつまでもあったらいいな、じゃなくいつまでもあるように努力しようって気にはならねぇのか貴様は」
「あなたにそんなことを言われるとは、僕も落ちたものですね。……しかし、ご尤もです」
 珍しく素直に非を認めた天蓬に、三蔵は目を瞠った。そして皮肉げに笑って煙草を銜え、ライターを取る。
「お前は馬鹿で可愛くねぇところがいいと思っていたが……随分と素直になったもんだな、あの男に調教されて牙を抜かれたか」
 あからさますぎる下世話な嫌味だ。しかし今日に限って天蓬はそれに全く反応を見せず、頬杖をついて青空に浮かぶ白い雲を見つめながら深く深く溜息を吐いた。そんな反応に三蔵は面白くなさげに片眉を上げ、怪訝な顔で天蓬の顔を覗き込んだ。綺麗に磨かれた眼鏡の表面に訝しげな三蔵の顔が映っている。昼間、屋外のカフェテラスは女性客で溢れ返っていた。暖かい日差しに天蓬はひなたぼっこする猫のように目を細める。
「何してやがる」
「……恋患いごっこ」
「……いい歳して……春になって頭が沸いたか」
「かもしれないですね」
 そう混ぜっ返して天蓬は力なく笑った。そして右手をコーヒーカップに伸ばす。取っ手に指を掛け、そのまま持ち上げる気になれずに手を落とす。ソーサーに置かれていたスプーンが小さく音を立てた。
「相手は若者ですし」
「五歳くらいで何だ」
「唯の知り合いの五歳下とはちょっと違うんですよねぇ」
 そう行って再び曖昧に笑う天蓬に、三蔵は興味なさげに手元の本へと視線を落とした。その本へと天蓬は目を留める。
「何の本ですか?」
 そう訊ねると、三蔵は視線をちらりと上げて小さく笑い、本を立てて表紙を掲げてみせた。それは紛うことなく彼の撮影した写真で、自分の第五作目の作品だった。それを見て天蓬は顔を顰め、三蔵は如何にも楽しそうに笑って本を元に戻した。そしてゆっくりとページを繰る。大人げなくその本を取り上げようかと思ったが、根本的解決にはならない、と諦めた。
「……この本にも映画化の話が来てるそうだな」
「いつものことです」
「傲慢な。……有名な大監督から直接電話でオファーが来たのに、お前の担当編集者がばっさりシャットアウトしたと噂になってるぞ」
「流石」
 気の利く弟である。今日もせかせかと生真面目に働いているであろう弟を思い、後で何か和菓子でも買っていってあげようかと思いを巡らせた。相手が有名であろうと無名であろうとそれは天蓬の返答には直接関係ない。寧ろ、そのネームバリューを笠に着るような人物であったら却って心証が悪い。完璧に、完全に自分の思い描く世界観を実現出来る人物がいるというのなら、有名であろうと無名であろうと関係なく映像化を許可するだろう。それを他が傲慢だと称するのなら仕方がないと思うまでだ。映画化すれば儲かるだとか、認知度が上がるだとかそういうことには興味はなかった。彼もそういうタイプだろうと思っていたが、彼がそんなことを気にするのが何だか珍しくて天蓬は少し身を乗り出した。
「もし映画化したら、劇場まで足運んでくれます?」
「招待されたらな」
 自腹を切ってまでは嫌、ということらしい。しかし、招待されたら行く、というだけでも彼にとったら破格の扱いだろう。他人のために自分が動くことを極端に面倒臭がる人である。元恋人として一応他の人間とは一段上にランクされているのだろうか。それが果たして嬉しいことなのかどうなのか分からなくなって、コーヒーカップに映る自分の顔をじっと見る。何だか少し気恥ずかしい気分になった。
「まあ、当面そういうことはないでしょうけど」
「だろうな」
 そう言って三蔵は、ページをトントンと指で叩いた。そして視線だけを上げ、天蓬を見据える。その質の悪い視線に思わず天蓬は身構えた。そういう目をした時の彼は、碌なことをしない。そのことは、今まで嫌というほど身を以って知らされていた。
「この“男”は、奴にしか演じられない。そうだろう?」
 訊ねてはいるが、彼はそれを確信していた。その自信が憎くて、それを否定出来ない自分がもどかしい。言い返すことが出来なくて不機嫌に顔を逸らす天蓬に、三蔵は笑うことなく小さく息を吐いた。そして本の文面に視線を落とす。
「この主人公は最後に、自身を救った男を置いて消えた。……お前もそうしようとしていた。しかしあの男がそれを許さなかった」
「……」
 誰に向けるともなくそう低く続ける三蔵に、天蓬は顔を顰めた。何が言いたいのかが分からない。他人に惑わされて自己の意志を曲げた自分を愚かだと罵りたいのだろうか。
「……何が言いたいんです」
「あの男は俺のことを知っているのか」
「……それは、過去のことですか?」
 そう訊ねると、彼は首肯した。三蔵のことは、彼には話していない。しかし彼は聡い男だから何となくは察しているのだろう。大学の先輩で、十五年来の付き合いで、皮肉なことに……男としては初めての相手。その屈辱に唇を噛む。経験のない方が、幾分ましだ。
「話してませんよ。言ったでしょう、人生の汚点だと」
「まだしてないのか。……しかしいずれ、ばれることだろう」
 そう言って彼は皮肉げに笑った。それを見るともなく天蓬はゆっくりと頭を振り、組んだ自分の指先を見つめてぽつりと呟いた。
「……あの人は、あなたとは違います」
 そう言った瞬間、暖かい風が頬を撫でるのに気付き、再び目を細めて空を見上げた。一度大きく深呼吸をする。ずっと待ち焦がれた、花開く春が近かった。桜の花の満開もそろそろだとニュースで見た。
 その春は、あの頃の春とはきっと違って見えるはずで。


+++


「……何、してるんですか」
「見て分からねぇか。写真だ」
 それは大学生の頃。自宅よりも大学に近い三蔵のマンションは、天蓬にとって恰好の休憩所でありホテルだった。終電を逃した時、帰るのが面倒な時、訪れる度彼は嫌そうな顔をしながらも決して追い返すことはしなかった。そしていつもそれに甘えていたのだった。
 そしてある春の、晴れた休日。彼のマンションの大きなソファに陣取り、膝に置いた本へと視線を落としていた天蓬は、自分に向けられる冷たいレンズに気付いた。一瞬身体を硬直させた天蓬は、身の毛が逆立つような気分に襲われ、慌てて彼の手からそれを奪い返すべく立ち上がった。しかし彼は怯むことはない。それどころか憎らしい笑みを浮かべつつこんなことまで言ってのけた。
「言っておくが、これはかなり高いぞ。修理費も半端じゃない。……壊したら、全額弁償してもらうぞ」
 貧乏とまではいかないものの、無駄な出費は抑えたい学生としてはここは踏みとどまるほかなかった。それは、きっと自分の予想を遥かに越える額に違いはないのだから。そうして油断して溜息を吐きながらソファに座り込んだ瞬間、シャッターの下りる音がした。その音に、恐る恐る顔を上げると、彼が構えたカメラをゆっくり下ろしている所だった。そのしたり顔に天蓬は顔を引き攣らせる。
「……僕、写真撮られるのは嫌いだって言ってるじゃないですか!」
「知るか」
 そういえばこういう人だった、と天蓬は口を噤んだ。嫌だと言えば、控えるどころか逆に進んでやりたがる人だ。つまりは、性格が悪いのである。既にフィルムに収められたであろう自分の間抜け面を思うと、金のことなど忘れてそのカメラを叩き壊したい気分になった。
「……あなた人物は被写体にしないじゃないですか……」
「お前はいいんだよ」
「そんな阿呆な」
 諦めの溜息を吐く天蓬に笑って、三蔵は隣に腰を下ろした。今までもこうしてふとした瞬間に気付くと写真を撮られていた。だからきっととんでもない顔ばかりがフィルムに収められているだろう。三蔵の部屋には沢山のカメラがある。時代を感じさせるアンティークな、実際に使えるのか分からないものから、高価そうな一眼レフ、デジタルカメラまでガラス張りのケースに入れられている。ソファに座って手にしたカメラを眺め回していた三蔵は、ふと思い付いたように再びカメラを構えてレンズを天蓬へと向けた。そしてすぐに拒絶反応を見せる天蓬に喉を鳴らして笑った。そもそも彼は撮る気がなく、からかわれたのだと気付いた天蓬は、それでもカメラに傷を付けるのが怖くて彼に当たることも出来ずにむすっと顔を背けた。
「どうしてそう撮られるのを嫌がるんだ」
「……いつも顔が引き攣って、碌な写りにならないんです」
 それは幼い頃から、集合写真然り証明写真然り。いつも顔を逸らしたり誰かの後ろにこっそり隠れたりしていた。それくらいに写真が嫌いなのだ。むすっと彼を横目に見て、顎でそのカメラをしゃくって見せた。
「さっきのも、現像しないで下さいね」
「無理だ」
「どうして!」
「フォトグラファーを目指すと父親に打ち明けた時から、撮影したものは全てあの人に見せるという約束をしている」
 あの部屋に飾ってある物はその中で彼が気に入ったものを引き伸ばしているのだ、と彼は言った。
「……か、んべんして下さいよ……」
 あの間抜け面を教授にも見られるのだと思うともう二度とあの部屋に行きたくない気分になった。カメラを持ったまま天蓬が肩を落とすのを見つめていた彼は、徒らに再びレンズを天蓬へ向けた。もう逃げる気にもなれなくて両手で自分の顔を覆って重い息を吐いた。

「え……無理ですよ、僕こういうきちんとしたカメラって初めて……」
 それから数日経ったある暖かい日曜日、二人はどちらからともなく待ち合わせ、共に公園へと向かった。桜の花弁の散る中で無理矢理カメラを持たされた天蓬は、戸惑ったように三蔵を見つめた。しかし彼は少し離れて腕組みをしたまま「撮ってみろ」と言うばかりだった。カメラなんて、インスタントカメラくらいしか使ったことがなかった。突然こんな高機能のカメラを持たされても戸惑うばかりで、幾つも並んだボタンやつまみを暫く眺めてから、困ったように彼をじっと見つめた。その無言の懇願に彼は笑い、組んでいた腕を解いて、ゆっくりと散った花弁の絨毯を踏みしめながら近付いてきた。
「ここを押せばいい。プロでもねぇんだ、ピントのことは気にするな。その辺のボタンも弄らなくていい」
 仕上がりには全く期待していない、と言わんばかりの返答に安心すると共に少し面白くない気分になる。もやもやした気分を持て余しつつ、何を撮ろうかと被写体を探す。折角だから桜、と思った。が、ふと思い立ったアイデアにカメラを構えたままくるりと振り返る。ファインダーの中の四角い風景の中で、驚いた顔をした彼が目を見開いた。そして顔を引き攣らせる。
「……何のつもりだ?」
「いや、三蔵を撮ろうかと」
「ふざけるなお前」
 舌打ちをしてカメラを取り返しに掛かる彼に笑って、彼から一歩遠ざかった。
「今乱暴にされたらびっくりしてカメラ落としちゃうかもしれませんよ〜?」
 笑い混じりで先日の自分の台詞に切り替えす天蓬に、三蔵は苦々しげに再び舌打ちをした。ファインダーを覗き込んでその姿を見つめる。四角形の中に切り撮られた風景は、普通に眺める風景とは違って見えた。その中に、落ち着かない様子で立ち尽くす三蔵がいる。カメラを取り落とさないように持ち替えて、再びファインダーを覗き込む。ふと、彼がこちらを見た。その瞬間を逃さずに、天蓬はシャッターボタンを押した。
 それから数日後、またお茶に誘われて教授の部屋を訪ねると、壁の写真掛けには、満開の桜の中に立つ三蔵、という何とも言えない写真が飾られていた。父親だけには従順な彼は、あんな写真でも一応生真面目に提出したらしい。酷くその写真を気に入ったらしい彼は天蓬を褒め、楽しそうに写真を眺めていた。確かに、あの男の性格を知らなければ普通の美男子だし、その美男子が満開の桜の中立ち尽くす場面というのは美しいものかもしれない。しかし天蓬にとっては笑えるものでしかなかった。
「あの子は、あなたの前ではとてもいきいきした顔をしますよ」
「……? 恰好の遊び道具を見つけた感じだと思いますが……」
 いきいきと言えば確かにいきいきしているかもしれないですね、と天蓬が困ったように返すと、教授は楽しそうに、そして意味深に笑った。そして壁に掛かった写真を指差して見せた。
「あの子は誰にも自分のカメラを触らせたりしませんよ。意外に、潔癖なんです」
「……はぁ」
「きっと、あなたのことが好きなんでしょうねぇ」
 そんなあけすけな彼の言葉に曖昧に笑った天蓬は、その言葉を深く考えることもせずに右から左へと聞き流していた。その言葉が、実に的を射ていたことに気付いたのはそれから数ヶ月経ってからのことだった。

「……何、してるんですか」
 丁度数ヶ月前と同じような声を漏らした天蓬に、顔を上げることもなく三蔵は手で払うような仕草をした。あっち行ってろ、と言わんばかりの行為にも腹が立ったが、今はそれどころではない。
「ちょっ、何勝手に!」
「いつから書いてるんだ」
「どうでもいいじゃないですか、離して下さい!」
 天蓬がトイレに立った数分の隙だった。普段はパスで保護を掛けているパソコンだが、トイレに立つ間で、しかも部屋には三蔵しかいないとたかを括っていた。その隙に彼はパソコンを勝手に弄くり、尤も引っ張り出されたくないデータを器用に選び出し……黙々と読んでいた。電源のプラグを抜いてもバッテリーでパソコンは切れることがない。パソコンから何とか彼を引き剥がそうとしても、疎むように手で払われてしまう。それは暇潰し(実際暇などないのだが)に始めた物書きの真似事だった。ただちょっと何処まで出来るか試してみたかっただけで、人に見せることなんて全く想定していなかったというのに、予想外のお披露目に血の気が下がった。口の悪い彼のこと、どうせけちょんけちょんに貶されて終わりだろう、と諦め、彼をパソコンから引き剥がすのを止めて立ち上がった。そしてコーヒーでも入れようとキッチンへと歩いていった。
 それから丸一時間程経った。コーヒーを淹れて戻ってきた天蓬は、彼のいるソファの方には近付きたくなくて、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けて本を読んでいた。が、ふとリビングの方で三蔵が立ち上がる気配を感じて顔を上げた。彼は部屋の隅の電話の前に立ち、どこかと電話をし始めた。意図的に声を潜めているのか、あまり聞こえてこない会話に苛立ちつつ天蓬はコーヒーカップを持ってキッチンに戻り、カップを水に浸して再びリビングに戻った。彼は既に電話を終えていて、何か思案するような顔をして腕組みしながらパソコンを見下ろしていた。
「何の電話ですか?」
「ちょっと出版社の知り合いにな……」
「仕事ですか?」
 何でまた突然、と首を傾げる天蓬の前で、彼は天蓬のパソコンに持ってきたディスクを挿入した。パッケージは開けたばかりで、空のディスクだと分かる。ディスクの包装をごみ箱に捨てつつ、彼の方へと歩み寄って、テーブルの前に膝をついた。それを見て、何だか嫌な予感を感じて彼の顔を覗き込む。
「……何をするんですか?」
「小説の出版部門に知り合いがいる。丁度今、新人作家を探している最中だと言っていたのを思い出してな」
 血の気が、ますます引いた。慌てて彼の後ろから腕を掴み、データのコピーを止めようとする。すると彼は迷惑そうに眉根を寄せて天蓬を見上げた。そしてその腕を振り払って、再び操作に戻る。
「ちょっと待って下さいよ三蔵……その出版社、って、まさか……」
 彼の口にした社名に天蓬は卒倒しそうな気分になった。
「馬鹿言わないで下さいよ! そんなことしたら僕は明日からどうやって会社に行けばいいんですか!」
 その会社は、まさしく天蓬の勤務する出版社だった。部門は違えども、名前くらいは大体分かる。そんなことになったらどんな顔をして会社に足を踏み入れていいのか分からなくなってしまうではないか。そんな風に考えて顔を青くする天蓬に、三蔵は呆れたような顔をして言った。そしてテーブルの上の煙草に手を伸ばす。
「馬鹿が、誰が本名を使えと言った。ペンネームを使って、顔も出さなきゃいい」
「……つまらない小説売らせて自らの会社に損失を与えろと?」
「お前にしては、過小評価だな」
 パソコンが、コピーが終わったことを知らせる音を立てた。そして三蔵はディスクを取り出し、ケースに収める。そしてそのケースを天蓬の目の前に掲げて見せた。プラスティックのケースが光を弾く。
「お前の会社の出版部門の見る目を信じるんだな。……腕試ししてみるのも悪くないだろう。それに匿名なんだ、固くなるな」
 それから数週間が立ち、あっと言う間に出版が決まる。天蓬は出版までの過程を全く知らされぬまま発売日に至った。その発売日すら大まかにしか知らされていなかったため(興味があまりなかったせいでもあるが)、朝のニュース番組の新刊を紹介するコーナーでそれを見つけ、あらぬところにコーヒーを詰まらせ咽たのだった。全く無名の作家であったため発売日近くに一気に売れ出すことはなかったが、じわじわと売り上げを伸ばして、天蓬の危惧したような事態にはならなかった。
 そして、驚いたのは表紙カバーの写真だった。その写真は確かに見覚えのある、暮れ泥む河川敷の写真だった。水面に紫がかった夕空が映り込み幻想的な雰囲気を醸す中、その奥には光を灯しつつある高層ビル群が並んでいるという、彼らしい皮肉な写真。三蔵の撮った写真だった。小説の中には河川敷のシーンが何度も現れた。それを考えて、選んでくれたのだろうと思う。そういうことが時々起こるから、彼を根っからの悪人だと思えず憎み切れなくて、完全に縁を絶つことも出来ずにいる。本当に嫌いなわけではないのだ。確かに愛していた時期があったのも事実だ。だからこそ、今の異常な関係が続いていることが不思議でならない。只の友人とも言い難い。しかし既に二人は恋人ではない。“元恋人”というスタンスで、これからもずっと居続けるのだろうか。


+++


「……三蔵、今恋人はいないんですか?」
「いねぇよ」
「作る気は?」
「ねぇ」
 まるで気のない返事に天蓬は溜息を吐いた。これでは、“元恋人”離れはまだ先になりそうだ。コーヒーカップをひたすらぐるぐるとスプーンで掻き回しながら、天蓬は三蔵の冷たい美貌を見上げた。恋慕う女性も多かろうにと要らない心配までしてしまう。
「……好きな人もいないんですか」
「お前だな」
 あっさりと告げられた返事に、一瞬天蓬は動きを止める。そしてゆっくりと上げられた紫電に射竦められた。その強い光に怯んでしまいそうな自分を叱咤して、天蓬は態と不機嫌な顔を作って彼を睨んだ。
「僕は、絶対にあなたと縒りを戻すつもりはありません」
「知っている。……だから俺に恋人はいないし、作る予定もない」
 呆れると同時に、酷く恥ずかしい気分になった。天蓬が二度と自分の求愛に応じることがないなら、恋人にする相手は他にいないとあっさり言ってのけたのだ。歯が浮くような台詞だが、それが自分に向けられたものだと思うとどうしようもなく照れ臭くて恥ずかしい。しかし、ここで絆されてしまってはならないということは今までの教訓からしっかり学んでいる。黙っていればうっかり魅入られそうなアメジストを、表情を厳しくして睨んだ。
「僕とのことはさっくり忘れて下さって結構です。だから……」
「お前は幸せになった、俺は今も一人だ。そうだろう? お前に口出しする権利があるのか」
 彼の言うことは尤もだし、自分が酷いことを言っている自覚もある。しかし、どこかおかしかったあの頃の関係を清算して、彼にも早く幸せになって欲しいと思うのだ。それが傲慢な考えだということも、分かっている。
「愚かだと思うなら、放って置け」
 彼の言う通りだ。干渉しなければいい。しかしどうしてもそれが出来なかった。
 天蓬は進退窮まって、最終的に諦めた。カップをソーサーに戻して小さく伸びをする。面倒なことを考えるのは嫌いだ。彼がそれで良いというのなら良いのだろうと結論づけて、空を見上げる。鳥が飛んでいる。吹く風は暖かく、あの人の好きだと言った季節がやってきたことを感じさせる。そして、自分が嫌いな季節。そして、酷く待ち焦がれていた季節。
 気まぐれに記述した五作目の後記の一文は、特に読者におかしく思われたり気にされることはなかったようだった。単にこの作家は桜が好きなのだろう、というように解釈されたようだと八戒に後から教えられた。そんな簡単な言葉の意味を彼が気付いてくれたことが、子供のように単純に嬉しかった。冬の気配は春風に押し出され、列島には爛漫の春が訪れた。
「……三蔵って、好きな季節どれですか?」
「あ? ……何だ急に」
「いいからいいから」
 そう訊ねると、訝しげな顔をした彼はそれでも考え込むように目を細めた。
「冬は寒いし、夏はしんどいしな……」
「老人ですかあなたは」
「黙れ。冬と夏は無しだ。春は……色々仕事が面倒だからな……秋だ」
「秋、ですか」
 まるで彼とは正反対だ。確かに、彼は秋が似合うかもしれない(容姿の問題だが)。静かに冬の気配を感じる穏やかで豊かな秋と、寒い冬を越えて訪れる鮮やかで希望に満ちた春。どちらかと言えば自分も秋だった。そんなところまで三蔵に似通っている自分に嫌気が差した。春の明るい日差しが、自分にはまだ少し眩しすぎるのである。
「昔、一緒に花見に行きましたよね」
「……いつの話だ」
「大学の頃ですよー、僕があなたを撮ったじゃないですか。ほら、大学の近くの公園で」
 あの頃の、まだ少し距離のある幼い関係でずっといられたらと思っていた。そこから道を踏み外してしまったのは、何も彼だけのせいではない。無理強いを甘んじて受け入れるような自分ではなかった。受け入れたのだ。だからこそあんなことになった。
「……また行きましょうか、あの公園。今どうなってるんでしょうね」
 彼は首を縦にも横にも振らなかった。今更、この関係がリセットされるだなんて甘いことは考えていない。ただ、もう一度だけあの頃に戻ったような感覚を味わってみたかっただけだ。ただの先輩後輩で、少しおかしな友達とも言い難い不思議な関係に。
 この春はきっと、あの年の春とは全く違ったものになるだろう。甘い風が薫った。










三天という妙な境地。          2006/12/12