厚ぼったいダウンジャケットとコートをクリーニングに出した。久しぶりに窓を開けて部屋の掃除をした。花粉症の天蓬がくしゃみをした。
 もうすぐ、彼と出会ってから初めての春を迎える。

「……女の人の心理はよくわかりませんねぇ」
 暖かなある土曜日。窓の外では洗われたシャツがふわふわと風に揺れている。そんな穏やかな日差しを受けながら、ぬくぬくとグレーのブランケットに包まった天蓬は、ローテーブルに置いたノートパソコンに向かって一人唸っている。今日はコーヒーではなく紅茶を淹れていた捲簾は、二つのカップを持ってリビングへと戻った。そして眉を寄せて何か悩んでいる彼の横へ膝をつく。
「どうした、何か煮詰まってんの?」
 ピンクのカップを天蓬に差し出しながらそう問うと、彼は溜息混じりに呟いた。そして指先でディスプレイを指差してみせる。
「……再来月号の特集です。“今春夏絶対観たい!恋愛映画特集”」
 そう言って天蓬は深く溜息を吐いた。目の前にはパソコンの横に幾つもの映画雑誌や書類、チラシがたっぷりと積んである。ポストイットやペンで印がつけてあるのはいずれも今話題の恋愛映画だ。それを横目に天蓬は飽き飽きした顔をしている。その指が雑誌の表紙を飾る海外女優の顔をなぞり、ピンと弾く。キラキラの衣装も、煌びやかなメイクも、美しい女優も、全く興味がないのだろう。そんな所も彼らしい、と思い、捲簾は笑った。
「今日後輩が映画館で最近公開されたのと試写会と、連続で見てきてくれるっていうことなんですけど」
「……お前嫌な先輩だな」
 捲簾がそう言うと、天蓬は虚を衝かれたように目を瞬かせて、面白くなさげに唇を尖らせた。そしてブランケットを引き寄せながらじろりと捲簾を睨み上げる。その目は如何にも傷付いた、と言わんばかりに捲簾を責めてくる。
「行ってもいいんだったら、今からでも行きますよ? でも今日あなたが来るって言うから、態々予定を空けてたんです」
 そう言って天蓬はむっすりした顔で再びパソコンへと向かった。その横顔が予想以上に怒っていて一瞬たじろいでしまう。そして何とかその場を取り繕おうと何か声を掛けようとした。が、しかしその瞬間、テーブルの上にあった彼の携帯電話が突然震え出したのに驚いて声を止めた。不機嫌そうな顔をしていた彼はますます顔を顰め、その電話に手を伸ばした。そして画面に表示された名前を見て、目を見開く。そして通話ボタンを押し、耳に当てながら立ち上がり、ベランダの方へ向かってゆっくり歩き始めた。その一連の動きを見つめていた捲簾は、先程の彼の言葉を思い出して一人、何だか気恥ずかしい気分になっていた。

「天蓬」
 通話ボタンを押し、そう言うと、電話の向こうからざわざわと街中の喧騒が聞こえてきた。その中、聞き慣れた後輩の声が張り上げられる。その声量に一瞬天蓬は顔を顰めて電話を耳から離した。
『須賀です。これから観るんですけど、用事が出来て時間がなくて、一つが限度になるんです……すみません、試写会の方はちゃんと行きます』
「ああ……そうですか、構いませんよ、あなただって本当は休みなんですから。それで、どれが観られなさそうですか?」
『時間が丁度いいんで、邦画の方を観ようと思うんですけど』
「そうですか、じゃ洋画は月曜に二人で行きましょう。時間見て今日観た二つの大まかなレビューは纏めておいて下さい」
 部屋の時計を見上げてそう言う。今から二本観れば時間はもう日暮れ時だ。夕方から誰かに会う約束でも出来たのかもしれない。
『了解でーす、じゃあそろそろ始まるんで入ります』
「ご苦労様です。じゃあまた明後日」
 そう言って通話を切る。そして息を吐きながら部屋の中へと振り返った。ローテーブルに携帯電話を置いて顔を上げると、居心地悪そうに胡座で座り込んでいる捲簾と目が合った。そしてそのきまり悪そうな目にきょとんと目を瞬かせる。何か自分に知られてまずいことでもしていたのだろうか。そう思って訝しげに眉根を寄せる。
「……何ですか?」
 そう怪訝な顔で問われて、彼は少し言葉に詰まったようだった。そしてちらちらと視線を巡らせた後、少しだけ頭を掻いた。
「いや、仲が良いなと思って」
 今の会話のどこで仲が良いと思えるのかが不思議だった。天蓬はそんな捲簾に肩を竦めて、再びパソコンの前に座り込む。そしてすぐに電源を落とした。これ以後は鑑賞後でなければ進められない。パソコンを閉じて、脇に置いた雑誌や書類を整理してパソコンの上に適当に置いた。そして目を擦り擦り小さく欠伸をし、首を回す。首の骨が痛そうな音を立てた。
「まあ……利口で、優しい子ですよ。気が利くし、明るいし、結構美形です」
「あ、そう……そらいいこった……」
 曖昧に笑ってそっぽを向いていた捲簾は、ふと笑うのを止め、黙って天蓬の横に胡座を掻いて座り込んだ。そして徐に天蓬の肩に凭れ掛かってくる。その重みと、首筋に触れる短い黒髪がくすぐったくて僅かに肩を竦めた。伏せられて窺えない彼の顔を覗き込もうとしながら、つんつんとその毛先を摘んで引っ張った。
「どうしたんです。……甘えん坊ですね」
「ほっとけ」
 そのまま彼はその頭を天蓬にすり寄せてくる。その髪がやはりくすぐったくて笑いつつ、そのつんつんした硬質の髪を手の平で撫でた。これはなかなか心楽しい感触である。撫でたり軽く引っ張ったりと弄くっていると、突然彼の顔が上げられ、恨みがましげな視線で下からじっと見上げられる。そんな目を向けられる謂れのない天蓬がきょとんと目を瞬かせていると、徐に額で肩を押しやられ、突然の衝撃に天蓬はフローリングの床にブランケットごと倒れ込んだ。急に天井が視界の前に現れ、その天井と自分との間に不意に黒い髪の毛が割り込んだ。そしてその髪が懐くように自分の首元に擦り寄せられて、温い息が耳元を撫でるのに肩を竦めた。
「……くすぐったいですよ」
 大きな犬のようにじゃれてくる、いい歳をした大男に笑った。頬にかかる自分の髪の毛を払って、そのままその手を彼の頭に伸ばす。そしてその短い髪に自分の指をそっと絡めた。男の匂いに心が揺らいで、くらりと頭の芯が揺れる。シャツに包まれた胸に頬を擦り寄せて、ゆっくりと瞼を下ろした。シャツ越しに彼の背中へ軽く爪を立ててから、視界の少し下に見える黒い頭をそっと両腕に抱いた。



 未だ、触れることで精一杯だった。彼と出会って、四ヶ月と少し。悟浄にはよく我慢していると同情の目を向けられた。最初の頃はそんなことを考える余裕すら生まれなかったから、我慢だなんていうものも存在しなかった。しかし彼とそれなりに付き合い続けるようになり、それなりに余裕も生まれた。その余裕が余計な欲望を生み、結果的に自分に我慢を強いているのだった。酷く世擦れしているようでいて、彼は時折物凄く純粋な目をした。三十を越した男へ付けるには今一つ相応しくない形容詞かもしれない。しかし、ふと向けられるその何も知らないのではないかと錯覚してしまう眸に戸惑い、その度伸ばしかける手をそっと止めるのだった。彼が何も知らないはずがない。寧ろ、自分よりずっと知らなくていいことまで知ってしまっているはずだった。
 そして、今日も彼は無防備にころんとリビングの床に転がっている。しかもテラスのドアから光の差し込む場所を選んで、膝を引き寄せるようにして小さくなって眠っている。まるで日向ぼっこをする猫のような風体に笑ってしまう。眠る横顔に髪が掛かって顔を覆っている。起こさないように、光を遮らないようにしながらそっと近寄り、彼の横へ跪いて、指先でそっと頬に掛かる髪の毛を退けた。薄ら開かれた唇から、穏やかな呼気が聞こえる。夢を見ているのか、ぴくりと薄く白い瞼が震えた。
 自分の欲望くらい自覚している。そしてそれを制御する方法も、何故しなければならないのかも。
 男女の付き合いとは勝手が違う。男女で恋人という関係にあれば、こちらが求めるのと同じように、大なり小なりの違いはあれど相手も似たような思いを持っているだろうと仮定出来る。しかし同性の場合全く分からない。彼が精神的な繋がりだけを求めていて身体的なことなど全く求めていないということも考えられた。下手を打てば、彼の男としてのプライドを破壊することにもなり兼ねない。そう考えると下手に無茶な行動を起こすことも躊躇われた。八戒が最初の頃、彼は男でも女でも構わないと言っていたのを思い出した。しかしそれが事実なのか、それとも自分に嫌味を言うための咄嗟の嘘だったのかは分からない。自分がここまで臆病な男だったとは、今まで生きてきて自覚することはなかった。きっとこれからも、もし彼とこんな関係にならなかったら一生気付くことのなかったことだ。気付かなければよかったのか、気付けてよかったのか、そんなことは問題ではない。自分は彼に出会ったことを後悔しておらず、そしてもう既に自分の弱さを自覚してしまった。ならばそれをこれからどうして克服するか。それ以外は最早問題ではなかった。
 眠る彼の横に座り込んで、テラスから快晴の外を眺めた。春である。桜ももうすぐ開花するだろう。あの桜の木々は一体いつ満開を迎えるだろうか。どうせ見るなら一番美しい時に見るのがいいだろう。折角の春だというのにそれを拒否するように俯いてしまう彼を、少しだけでも上向かせてやりたかった。


+++


「……かわいい」
 接客スペースの二人掛け用ソファの前にしゃがみ込んだ水野はほう、と溜息を吐いた。ソファでは、同僚の男性社員が疲れ切って眠り込んでいるところだった。その顔をちらちらと覗き込みながら水野は楽しそうに笑った。そこを通りかかった須賀は、一人で楽しそうに笑う同僚に気付いて不審げに首を傾げた。一瞬何か目に見えないものと会話でもしているのだろうかと、本人に知れたら酷い目に遭わされそうなことを思いつつ恐る恐る声を掛けた。
「……何やってるんですか、水野さん」
「あ、須賀君。ほら見て見て、すごーく可愛いのー」
 顔を上げた水野に手招きされ、怪訝な顔でソファに近寄った須賀は彼女に倣ってソファを覗き込んだ。そこにいたのはすっかり夢の中の自分の先輩だった。すっかり疲労し切っているようで、顔色もかなり悪い。
「……天蓬さんか」
「写真撮っちゃえ」
 どこからかさっと携帯電話を取り出した水野は、手早くカメラを起動してボタンを押す。辺りに間抜けなシャッター音が響いた。するとその音にか、天蓬はひくりと瞼を震わせ、肩を動かした。それに思わず二人で口を覆ってその動きを窺う。しかし暫くすると安心したように天蓬は動きを止め、二人は揃って溜息を吐いた。
「何で写真……」
「娘とか友達にね、天蓬さんのこと話したら皆見たいって言うから。だから撮っていって見せようかなぁと」
「……だったら起きてる時の方がいいと思いますけど」
 そう言うと彼女はふふっと笑って、「起きてる時のは撮影済みよ」と言った。二人揃って天蓬が眠りに落ちているソファの元にしゃがみ込み、声を潜めて会話をしている姿はかなりおかしい。くうくうと気持ちよさげに寝息を立てる姿を、水野はうっとりと眺めている。ちなみにおしゃまな五歳の娘と気弱で優しい亭主を持つ三十歳である。
「でも、……やっぱり男にしとくには勿体ないなぁ。彼女にしたら自慢し放題ね」
「そんな、先輩女じゃないすか」
「でも女じゃなくってよかったかもね、近くに須賀君みたいな子もいることだし」
「どういう意味ですか」
 心外だと須賀が眉根を寄せるのに、水野は意味深に笑った。そして先程自分が撮影した写真をきっちり保存しつつ、そのカメラのレンズを須賀に向けた。冷たいレンズに目を瞠った自分の顔が映っている。
「知ってるのよぉ、あなたが高校大学とやりたい放題してたの」
 顔を引き攣らせる須賀に眩しいフラッシュと、ぴろりーんという間抜けなシャッター音が浴びせ掛けられる。
「な……な?!」
「もう、須賀君も優しい顔してヤリたい放題だったなんて」
 そして水野は須賀の驚いた顔も一応保存し、携帯電話をぱたんと閉じた。そして再びソファに横になった姿を見つめる。
「天蓬さんには手を出さないでね」
「出しませんよ!」
「本当に?」
 じろ、と疑いの目を向けられて須賀はたじろぐ。こういう時……詰問する時の女の目というのは、本当に怖い。全く自分に非がなかろうと怯んでしまうくらいだから、本当に自分に心当たりがある場合には――――風の前の塵である。水野はそんな須賀を疑いの目でじっと見つめていたが、漸く興味を失ったように視線を天蓬へと戻した。
「天蓬さんが好きになる人ってどんな人かな」
「はい?」
「前、取材の時かなぁ……相手のヘアメイクアーティストだったかな、その人がやたら天蓬さんに絡んできてね。まあそのくらいなら珍しくもなかったんだけど、ちょっとエスカレートして色々際どいこと訊かれたりとか触られたりとかまずいことになりかけてね。結局適当にあしらって何とか逃れてきたって感じだったんだけど」
「そんなこと、俺知らなかったですよ。編集長に話しましたか」
「ううん、天蓬さんがあんまり外聞よくないし内緒にしときたいって言うから。須賀君も、他の人には内緒よ」
 そう言って水野は立ち上がった。そして接客スペースを出ていく。それを須賀はゆっくりと追った。彼女はコーヒーメーカーの前に立ち、カップにコーヒーを注いでいる。そしてそれを須賀に手渡し、次に自分のカップにコーヒーを注ぎ始めた。
「珍しくないんだって、男に声掛けられたりとかじろじろ眺められたりとか。だからもう慣れちゃったって」
「そんなの、慣れられないでしょう」
 水野は難しげに目を伏せて眉根を寄せた。その顔を見下ろして、須賀はコーヒーを啜った。社員の出払った編集室には自分たち二人と、眠っている天蓬しかいない。遠くでファックスの紙が出てくる音が聞こえてきた。ゆっくりとそこへ向かって紙を手に取り、宛名の相手の席へとその用紙を置いた。そして再び水野の元へと戻る。水野は何か考え込むような目で両手に包んだカップを見下ろしている。
「だから何となく天蓬さんには恋人のこととか訊けないのよ。もしかしたら訊いちゃいけないのかもって思えてくるから」
 須賀は黙ってコーヒーを啜る。奥で、天蓬が身動ぎするような音がした。

「……いて」
 ゆっくりと意識が浮上し、鼻先をコーヒーの香りが擽った。頭が重く、目の奥が何だかずんと重い。起き上がろうと思い、身体に力を入れたが異常に頭が重くて身体が持ち上がらないような感覚を味わった。風邪でも引いたのだろうかと思いつつ、無理に力を込めて起き上がった。そしてソファの背凭れに凭れて、僅かに寝癖の付いた髪を撫で付けながら大きく深呼吸した。自分が寝始めた時には確か部屋には須賀しかいなかったはずだが、今はもう皆帰ってきているかもしれない。
 手探りでテーブルから眼鏡を取り、ぼんやりしつつもそれを掛けた。そして携帯電話で時刻を確認する。
「あ、天蓬さん、起きました?」
 ひょっこりと顔を覗かせたのは須賀だった。既にコートを着始めている。もう帰るのだろうか。まだ僅かに焦点の合わない目を擦りつつ、須賀を見上げた。すると、一旦戻っていった彼が、天蓬のコートを持って帰ってきた。状況の飲み込めない天蓬は戸惑ったように笑顔の後輩を見上げる。そして投げ渡されたコートと彼の顔を交互に見て首を傾げた。
「え?」
「もう俺が出しときました。当分楽になりますね、今月提出一番でした」
 その言葉に、天蓬は目を瞬かせた。今回はサブの特集を須賀と二人で担当していた。一段落したから、少しだけ仮眠をとろうと思い眠ったはずで、だからまだ多少自分がやらなければならないことが残っていたはずだ。手渡されたコートを腕に抱いて、きょとんと須賀を見上げる。清々しいまでの笑顔に毒気を抜かれて、とりあえず曖昧に笑い返した。
「久しぶりに飲みに行きません?」
 その笑顔を見て暫く逡巡し、漸く事態を飲み込んだ。あれを一人ですべてこなすのは大変だっただろうに。それなのに何でもないような顔をして笑ってみせる彼に、ふと彼の人を思い出した。そしてそんな単純な自分を叱咤して、困ったように笑いながら立ち上がり、コートを羽織った。
「行きましょうか。……久しぶりに奢りますよ」
「やった」
 笑って席に戻っていく彼の後ろ姿を見送ってから、ゆっくりと天蓬もコートのボタンを留めながら歩いていった。


「天蓬さんの恋人って、どんな人ですか」
 ネオンの輝く春の夜。しかしまだ夜の風は少し冷たく、薄手のコートに包まれた自分の肩を擦った。そんな時、並んで歩く須賀に突然そう尋ねられ、天蓬はその端整な顔を見つめながら暫く目を瞬かせた。そして視線を正面に戻し、ややあって再び須賀の顔を見た。
「……言いましたっけ? 恋人がいるって」
「いえ。何となく。でもいるでしょう?」
 確信しているかのような口調に僅かに戸惑って視線を揺らす。言っていいものか一瞬迷ったのだ。しかし少し話して彼が何かに気付くはずもない、と思い直して、小さく息を吐いた。
「……ええ、まあ」
「どんな人なんですか? さぞ、かっこいい人なんでしょうね」
「え? ああ、まぁ……っていうか、え?」
 咄嗟のことに頷いてしまってから、その質問の違和感に眉根を寄せる。その天蓬の表情を須賀はにこにこと笑いながら見つめていた。
「男の方ですよね?」
「それも何となくですか?」
「そうですね。何となくです」
 明るく笑って彼は両手をポケットに入れた。それを呆然と見つめながら、何とか彼について歩いていく。一瞬頭を過ぎったのは、一緒にいる所を見られたのだろうかということだった。しかし、男と二人で歩いているからといってすぐにそういった関係だと考えるはずがない。結局どれだけ考えても分からなくて、天蓬は僅かに先を歩く彼へと少し歩調を速めて近づき、顔を覗き込んだ。
「それって、僕がゲイだと決め付けてることになりませんか」
 そう言うと、咎められたと思ったのか驚いたように須賀は目を見開き、とんでもないというように手を振った。
「そういうことじゃないですよ」
「でも事実ですよ、僕の恋人は男です。……軽蔑するならすればいいと思っています」
 半ば自暴自棄になりそう言うと、彼は一瞬驚いたように目を瞠った。そして少し微妙な表情をした後、諦めたように笑った。しかし天蓬はその笑顔に隠れた真意を見つけ出せずに苛立つ。馬鹿にしたいなら表立って馬鹿にすればいい。それを笑顔で覆い隠して心の奥で馬鹿にしているのだとしたら、却って屈辱だ。そう思いながら彼を睨み上げる。すると彼は困ったように天蓬を見下ろして、頭を掻いた。
「軽蔑なんてしませんよ」
「どうして」
「俺も天蓬さんのこと、好きですし」
 天蓬は立ち止まった。そのまま歩いて行こうとした須賀は、立ち止まった天蓬に目を瞬かせて同じく立ち止まる。
「どうかしました?」
 その反応があまりにも普通で、逆にこちらが戸惑ってしまう。からかわれているのか、それとも須賀が異常に天然なのか。どちらとも計り兼ねて天蓬は口を噤んだまま歩き出した。それに倣って須賀も首を傾げながらついてくる。その何でもないような様子が腹立たしくて、天蓬はきつい視線を横に流した。その視線を受けて彼はきょとんと目を見開いた。
「冗談も大概にしなさい」
「冗談じゃないですよ。あ、でも手は出さないって約束しましたからね、だから安心して下さい」
 そうして須賀はへらりと笑った。そして、何となく、彼が本気なのだろうと無意識に察してしまった。暫し視線をさ迷わせた後、顔を上げて彼の表情を窺う。その自分の顔が余程おかしかったのか彼は噴き出し、笑い出した。そんな笑い声も街中の喧騒に直ぐに掻き消されてしまう。何とか笑いを収めた彼は、軽く肩を竦めてみせた。
「天蓬さん結構鋭いから、とっくに気付いてると思ってました。エレベーターの時も、実はかなり冷や汗掻いてたんですよ」
 あれも全て本気だったということか。とすると自分は相当無神経なことをしたに違いない。具合が悪くて顔を顰め、ちらりと隣の彼の顔を窺う。彼はすっかり晴れ晴れした表情をしていた。溜め込んでいたものを口にすることが出来てすっきりしたらしい。
「……全然、知りませんでした」
「いいですよ、今は一緒に働けてるってことを大事にしたいですし、よければ今まで通りにしてくれると嬉しいです」
 そう言って笑う顔は、絵に描いたような善人だった。その優しさが痛くて、天蓬は曖昧に笑って俯く。そんな優しさを受ける権利があるのだろうかと首を捻る。ややあって顔を上げ、先に再び歩き出した。それをゆっくりと彼が追ってくる。
「安心して下さい、俺略奪とか無理矢理とか趣味じゃないですし」
「あなた如きの実力行使でされるがままになるような僕じゃありませんよ」
 もしそんなことになったら、後輩であろうと何であろうと二目と見られぬ顔にしてやる。それが彼にも伝わったのか、一瞬口を噤んだ彼は俄かに顔を引き締めて「胆に銘じます」と言った。しかし彼はそこまででは終わらなかった。
「結局、天蓬さんの恋人はどんな人なんですか?」
「……いいじゃないですかもう」
「振られ男を悔しがらせるつもりで一つ」
 そう言って須賀は食い下がる。そんな彼に、態々悔しがらせて欲しいなんてどんな趣味だ、と思いつつ大きく溜息を吐いた。そして彼の人を頭に思い浮かべてみた。どんな人、と言われてもあの男を端的に形容するのには困ってしまう。思い当たる形容詞をずらりと頭の中に並べてみて、暫し考えた。どれも月並みな表現である。言葉を尽くしても、どう表現していいのか分からないというのに端的に言えとは、何とも難解な。暫く考え続け、夜空を見上げた。そして頭に浮かんだ一つの言葉をそのまま口にした。
「大型犬みたいな」
「は?」
 それが最も相応しい、と天蓬は自分の返答に満足し、いつもの居酒屋へ向かって意気揚々と歩き出す。それに暫し置き去りにされていた須賀は、小さく首を傾げつつもその後ろ姿を追って走っていった。


「お花見のシーズンねぇ」
 香山が唐突に呟いたのに、須賀は嫌そうに顔を顰めた。そして上目遣いに香山の顔を見上げる。
「……俺欠席しますよ」
「どうして? 皆で行った方が楽しいでしょ?」
「だって、天蓬さんがいないと男俺一人じゃないですか」
 本当ならば喜ぶところだ。美人揃いのこのメンバーで男一人。傍目から見ればハーレムであるが、こんな風にお喋りで煩くて可愛くない中身の女たちに夜中まで引っ張り回されるのは御免だ。クリスマスも同じ目に遭ったのだ。春くらい、もっと心静かに過ごしたい。まあ、もう一人の美人が居れば話は別だ、とも思うのだが、その美人は生憎花見だとかパーティーだとかそういった馬鹿騒ぎを好まないのだった。よって、彼は一度もメンバーでの花見に参加したことがなかった。
 須賀がそう文句を言うと、途端に彼女は顔を曇らせて手にしていた雑誌をぱたんと畳んだ。そして肩を落として大きく溜息を吐いた。その目がちらりと須賀の隣のデスクを見る。今は他の部署へ出掛けていていない、天蓬の席である。その視線の向きに気付いた須賀は、呆れたように肩を竦めた。これもいつものことである。
「香山さんが天蓬さんのこと好きなのは分かりますけど」
「ちょっ!」
 慌てて香山が人差し指を唇に当てるのに、須賀は白けた目を向ける。そんなことこの部署の人間なら誰でも大分前から知っている。今更隠し立てするような問題でもなかった。その証拠に、二人の会話が耳に入っているだろうに周りの同僚たちは何でもないように仕事を続けている。知らないのは当人と、その相手だけだ。
「今年も無理ですよきっと。っていうか絶対」
「何でそう決め付けるのよ、もしかしたら今年こそ……」
 そう言い続けて数年、やんわりと断り続けられ一度も色よい返事を貰っていないというのに彼女もなかなかしぶとい。須賀は溜息を吐いて、パソコンを立ちあげた。話をしていられない。それにそろそろ天蓬も戻ってくるだろう。彼女は今度は鏡に向かって髪の毛を直している。本命の前では綺麗でいたいのは分かるが、自分の前との違いがあり過ぎる。
「……勝ち目ないですって……」
「何か言った?」
「いいえ」
 先日、彼の口から直接恋人の話を聞いた。恋人がいるということもそれが男であるということも、決して誰にも話してはならない秘密だ。その時のショックは計り知れない。相手が男だったということについてではない。その男のことを話す時の彼が、酷く綺麗に見えたことだった。見たこともないほどに楽しそうな顔をする彼に、割と自分が本気だったことを思い知って、聞かなければよかったと後悔した。初めて会った頃にはただ単に、綺麗な人だと思っただけだった。しかし男で、そういった対象になるだなんて考えもしなかったというのに。
 あの顔を見れば、もう何があっても自分に勝ち目はないのだと、きっと香山も分かるだろう。しかし恋をしている今の彼女にそれを突きつけるのは余りに酷かもしれない。男の自分でも、今も少し引き摺ってしまっているというのだから。
(……どんな男だろう)
 ちらりと、隣のデスクを伺った。時折彼の携帯電話を震わせる相手。それを見ていつも彼が微かに笑みを浮かべるのを知っていた。そう考えて、嫉妬かもしくは嫉妬で汚れた自分の心に顔を顰めた。最後の最後で、愚かな男にはなりたくなかった。


+++


 “今日うちに来い”と、それだけの素っ気無いメールが届いたのは、デスクの上の時計が七時過ぎを示した頃だった。小さく欠伸をして伸びをし、首を鳴らす。外は暖かく、春の暖かい穏やかな夜だった。いつもくどくどと説教してくる同僚が既に帰ったのを確認し、煙草に火を付けた。そして腹の底から息を吐き出す。
「天蓬さん」
 背後からそう呼びかけられて、椅子の背凭れに腕を掛けて振り返った。そこには弁当と缶コーヒーを持った須賀が立っている。にこにこ笑って近付いてきた彼は、隣の席に腰掛けて缶コーヒーのプルトップを開けた。そしてそれを一口飲んでから、彼は何気なく口を開いた。
「待ち合わせですか?」
「……分かります?」
 先日告白された。しかし、受け入れなかった。自分の心は広くない。自分の心のキャパシティは極端に少なくて、既にその大半をあの人が占めてしまっている。もう他の人間を受け入れてやるような余裕はなかったのだ。しかし彼はそれにも関わらずいつも通りに接してくれている。まるで、あれは冗談だったのだろうかと思ってしまうほどに、普通だった。しかし、それを冗談にしてしまうのはそれ以上なく彼へ失礼なことだと頭のどこかで理解していた。彼は少し困ったように笑っている。そして、割り箸を手にしてそれを割った。
「天蓬さん変わりましたから」
「え?」
「去年の年末くらいからかな。あの……お祖母さんが亡くなられた、後くらいから」
 よく見ている、と思った。その頃が丁度何かが変わり始めた頃。初めて抱きしめられた頃。表には出なかったが歳若い少女のように胸を高鳴らせていた。もしかしたら気付かれていたかもしれない。それでもよかった。
「悔しいけど、よっぽどいい人なんでしょうね」
 いい人だ。いい人過ぎて愚かにすら思えて、その優しい人を騙して悪い方へ引き込んでいるようで心苦しくなっていたのだった。それは須賀も同じだった。そして八戒も。皆が優しくて、どうして自分が優しくしてもらえているのか分からなかった。周りから何かを与えられるだけの自分が、幼く思えたのだ。
「……ええ、とても」
 与えられるだけでも周りが笑って見守ってくれているのは、五歳くらいまでのものだ。与えられたらそれ相応の何かを返すのが摂理というもので、しかし自分が上手く出来ないことでもあった。
「すみません」
「どうして謝るんですか?」
「いつも寄り掛かってばかりで」
 須賀は目を見開いて、指先で掴み揺らしていた缶コーヒーを止めた。色の薄い眸が天蓬の顔を映す。その目は徐々に緩み、笑うように細められた。その目に宿る感情が読めなくて、天蓬はその眸をじっと見つめ返した。そして缶がデスクに置かれる音でふと我に返った。笑ってそんな天蓬を見ていた須賀は、ゆっくりと視線を落とした。
「あなたからはいつも色々なものをもらってます」
「……? 何ですか?」
「振った男にそこまで言わせないで下さいよ。後は、恋人に聞いて下さい」
 その言葉の真意が見えなくて問い返す天蓬に、彼はまた困ったように笑って頭を掻いた。その目が天蓬を見ることは、とうとう最後までなかった。その澄んだ眸は、パソコンのディスプレイの光を映し込んで暗い光を宿していた。


 いつもとは違う電車に乗り込み、慣れないホームに降り立つ。そういえば会社から直接彼の家に行くことはあまりなかった。平日に会うとすれば自宅だったし、彼の家に訪問する時は大抵彼の車で迎えに来てもらっていた。自ら彼の家へと赴くのは久しぶりである。彼の住むマンションへ、ゆっくりと歩いて駅から十五分。いい立地条件だ。ネオンに背を向けて、住宅街へと進んでいく。周りから抜きんでて背の高い建物が彼のマンションだった。以前、一週間ほど滞在した時には殆ど家から出なかった。感傷に浸って現実世界から逃避する自分を辛抱強く力付け続けた彼のことを思うと、申し訳なさが先に立った。そしてその存在の大きさを再確認するのだった。大きくなってはいけない、と押さえ付けて結局押さえられずに逃げようとした。そして彼に止められた。すぐ次の桜の季節すら待てずに姿を消そうとした自分を、止めた。きっと今自分がここにいられるのは彼が引き留めているからだ。自分は、何者にも必要とされずに存在していられるほど、強くはなかった。
 マンションのエントランスに入り、部屋番号を打ち込む。ボタンを押し、口を開こうとしたその前に相手は早口で言った。
『今から降りるからそこで待ってろ』
「え? いやその、……」
 そのまま通話は切られる。ひょっとしてどこかへ出掛ける予定だっただろうか。ならばこの格好ではよくなかったかも知れない、とスーツに鞄を持ったままの自分の格好を見下ろしてみた。しかし今更どうすることも出来ずに、草々に考えることを放棄した天蓬はそのままエントランスにぽつんと立ち尽くした。
 そのままぶらぶらして待っていると、数分後に奥のエレベーターから彼が降りてきた。そして手前のセキュリティのためのドアが開く。
「ワリ、待たせた」
 彼は黒のカットソーにジーンズという極々普通の普段着だった。ちらりと自分の今の格好を見下ろしてから、彼に訊ねる。
「どこかに出掛ける約束でしたっけ? この格好でいいんですか?」
「ああ。別に人のいる場所に出掛けるわけじゃねぇし。けどちょっと歩くぞ、平気?」
 お前いつもぎりぎりまで我慢するからな、と彼は笑った。そしてその大きな手で天蓬の頭を撫でる。そう大きく身長が離れているわけではない。ほんの僅かな差に過ぎないのに、彼の手に掛かると自分が酷く小さなものに思えてならなかった。
 彼は手招きして、エントランスから出て行く。彼の出た自動ドアが閉まりかける段になって、天蓬もその後を追って歩き始めた。

 春の夜は不思議と風が柔らかく感じる。彼の数歩後ろをゆっくり歩きながら、前を通り過ぎる家々の明かりを見つめた。その一つ一つにそこで生活する人々の小さな幸せが宿っているのだろうと一つ一つを思い描きながら歩いていると、彼と自分の間は幾分広がっていったようだった。街灯の下、穏やかに時間が流れていく。アスファルトを自分の革靴が叩く音だけが大きく響いて聞こえた。
「どうかしたか?」
「いえ、ちょっと……」
 先を歩いていた彼が唐突に振り返ったのに内心少し驚きつつも、笑って誤魔化しておく。すると少し訝しげなまま笑った彼は、少し歩調を緩めて天蓬の隣に並んだ。ほんの僅かに位置の高い彼の肩先を見つめながら訊ねた。
「ところで、どこに行くんですか?」
「そう焦るなって、すぐ着くから」
 それから二人は俄かに黙り込んだ。相手はそれをどう思ったか分からない。しかし自分にとってはとても、心地のいい沈黙だった。
 それから彼は、住宅街から外れて進んでいった。公園の脇を通り、子供しか通らないような抜け道を通る。少なくともスーツで通るような場所ではなかった。木の葉の纏わり付いた袖を手で払いながら、悠々と進んでいく彼の後ろ姿を恨みがましげに見つめた。これで碌でもない場所だったらどうしてくれよう。しかしきっと、碌でもない場所だとしても彼と一緒ならそれなりに楽しい気分になってしまいそうな自分がおかしかった。
 捲簾はゆっくりと段々と薮の中へと進んでいく。周りをゆっくりと見渡しながら、天蓬もその後ろについていった。起こった一際大きな風に、辺りの木々が揺れた。ざわざわと揺れる木の葉を、風に煽られる髪を押さえながら見上げた。木々の隙間から静かに光る満月が見える。そのまま暫く歩き続けた彼は、立ち止まったまま付いて来ない天蓬に気付いて、足を止めた。そしてゆっくりと振り返った。その黒い眸が近くの街灯の光を映し込んで光っている。
「どうした」
「いえ、月が、大きいなぁと思って」
 大きな銀の月が見下ろす下で、妙に胸が騒ぐのを感じた。綺麗な満月の夜は何かが起こりそうな予感がするものだ。月から視線を引き剥がして、立ち止まっている彼へと距離を詰めた。そして彼も、再びゆっくりと歩き出す。月の下、自分の背の低い影が、月から隠れるようにして足元に縮こまっている。
「今からどこに行くか、全く見当付かないか?」
「……約束しましたか? それって」
「んー、俺はしたつもりだったけど、お前はもう覚えてないかもな」
 そんな風に言われると、思い出せない自分がまるで薄情な人間だと責められているようではないか。こんな夜に街に背を向けて向かう場所なんて見当が付かない。どこか楽しげに口元を緩める彼の横顔を見て、天蓬は首を捻った。そして何となく面白くないながらも彼の服の袖を軽く引く。
「ヒント」
「ヒント? しゃあねぇな……」
 負けず嫌いな天蓬に笑って、捲簾は笑いを堪えながらの様子だった。それも腹立たしいが、答えが分からないのも悔しい。その場はぐっと堪えることにして、彼の返事を待った。珍しく従順に返事をじっと待つ天蓬に彼は物珍しげな視線を向けながらも、彼は何事か思案しているようだった。そして何かに思い当たったように顔を上げて、徐に口を開く。
「じゃあ、……お前の待ち切れなかったもの」
 天蓬は立ち止まった。彼の横顔は楽しげに笑っていた。そして同じく立ち止まり、戸惑ったようにぽつんと立ち尽くした天蓬へ向かって手を差し伸べた。頭の上の木々がざわりと揺れて、生温い風が頬の表面を軽く撫でていった。胸が騒いだのは、本当に月のせいだけだろうか。どうして月の夜は、いつも何故かおかしなことばかりが起こるのだろう。
「……それ、殆ど答えじゃないですか」
 されるがままになるのが面白くなくて、思わず憎まれ口を叩く。そして、それでも笑って待ってくれている彼の元へと再び歩き出した。差し出された手の指先を軽く掴んで、歩き出す。ゆっくりと瞼を伏せた。

 そして再び目を開くと、目の前には純白に僅かな紅を溶かしたような淡い桜色で染まっていた。何か言おうとして、しかしその状況に相応しい言葉が一つも思い付かなくて天蓬はそのまま口を噤んだ。その後ろで、捲簾が小さく笑い声を漏らした。振り返ってみると彼は一際大きな木の前で煙草に火を付けていた。そしてその目が天蓬を映し、悪戯っぽく光る。
「すげぇだろ。多分、近所の子供くらいしか知らない」
 それも、とびきりのやんちゃだ。あんな獣道を抜けてこんな場所を見つけ出すのだから。となると彼もそんなやんちゃな子供と同じだ。それにしても、都内の普通の住宅街の中にこんな場所があるなんて思いもしなかった。立派な桜の大木が連なって立ち並んでいて、しかも丁度満開を迎えていた。彼は一体どうやってこんな場所を見つけたのだろう。まるで非現実的な状景に頭がくらりとして、足元が何となくふわふわと心許なくなる。まるで夢の中に立っているような気分だった。その夢見心地のまま彼に視線を向ける。
「……すごい」
 贅沢としか言いようがない。こんな風な場所を見つけたら誰もこんな満開の時期に放っておくはずがない。きっと殆ど知る者がいないのだろう。それとも、知っている者たちはこんな時間には家から自由に出られない子供たちなのか。薄っすら唇に笑みを乗せて大木を見上げ、深く息を吐く。僅かに香る桜の匂いが鼻先を擽った。
 その時、一際大きな風が吹いて、天蓬の前髪を煽った。咄嗟に目を瞑り、風が止んだのを感じてゆっくりと目を開く。すると、目の前の草むらは風に散らされた桜の花びらを敷き詰めたようになっていた。折角の満開を散らされたのは淋しいが、緑の芝に散った薄い桜色は静かに映えて美しかった。それを思わずじっと見つめていた天蓬へ、捲簾が何やら笑いながら近付いてくる。そして笑いながらその両腕を伸ばしてきた。それに再び咄嗟に目を瞑る。
「桜まみれだな」
 その言葉に目を開くと、彼の手が自分の肩や頭を両手で軽く払っていた。その手にならってちらほらと小さな桜の破片が足元へと散っていく。どうやら先程の風で桜の花弁が体中に付着していたらしい。されるがままに服を払われながら、ふと天蓬は捲簾の頭の上や肩にも花弁が付いていることに気付いた。無意識にそれを取ろうとして右手を伸ばす。そして肩の上の花弁を払ってから、頭の髪の間、挟まったように引っ掛かっている花弁を取ろうと手を伸ばした。うっかり髪の毛を掴みそうになりながらも目当ての花弁だけを摘んで取り、彼の前に掲げてみせた。そして、その段になって自分が無闇にやたらと彼に接近していたことに気付いたのだった。一瞬流れた沈黙に戸惑い、咄嗟に視線を落としてそっと彼の手を避ける。
「あ、すみませんね」
 そう言ってすぐに手を引っ込めて一歩退こうとする。その手を存外強い力で掴まれて、しかし何故かそれを予測していたかのような自分は、彼の顔を見ることも出来ずに掴まれた自分の手を黙って見つめていた。彼の指は力が入り過ぎて白くなっていた。そしてそれを見てから、腕が痛い、とぼんやり気付く。最早どう動いていいのか分からなかった。初恋をしたばかりの少女でもあるまいし、何をそう戸惑うのか自分でも計り兼ねた。しかし、全てを相手の意志に委ねるということをしたことがない自分は丁度よく力を抜くことすら出来ずに、他の誰かに翻弄されている自分というものに初めて対面して、どう向き合っていいのか分からずにいた。
 音がするほど強く掴まれていた腕が、少しだけ緩む。その隙に腕を払おうとして、少し考えた後に止めた。そして短く息を吐いて、彼を見上げた。僅かに切羽詰まったような表情に余裕のなさが窺えて、少しだけ安心した。翻弄されているのは自分だけではないと思うと身体から力が抜けた。
 肩に手が触れる。黙って視線を彼の胸元へ落とした。今更ふざける気も、逃げる気も起きなかった。これも全て自分が望んだことだと思えば、翻弄されているなどという躊躇いも消える。彼の顔が近付いてくることを気配で感じ取り、ゆるゆると瞼を伏せる。視界が閉ざされて、音と気配が感覚を支配した。少しずつ気配が近付いてくるのを、焦れるような、居た堪れないような気分で受け入れた。
 軽く押し当てられ、食まれる。まず先に煙草の香りが鼻先を擽った。体温を軽く移すだけのキスと慣れた彼の匂いに、少し強張っていた肩から力が抜けた。そしてその直後、頭の後ろに手が回され、深く口付けられる。滑り込んでくる舌に、思わず一瞬肩を強張らせた。しかしそれを悟られるまいとすぐにその肩を下げた。きっと既に気付かれていただろうが、それが面白くなかったのだ。
「……―――ん……、ぅ……ん」
 自分だってそれなりの経験を積んできているつもりではあるのだが、今まで手当たり次第の女を相手に経験を積んできたであろう彼に数的に勝てるはずがない。それが何となく面白くなくて悔しくて仕掛け返す。その繰り返しをしているうちにすっかり息は上がり、意識はどこかふわふわしたものになっていた。力の抜けた身体を肩に凭れ掛けさせて支えながら、彼は優しくその堅い指先で天蓬の髪を梳いた。その時、その指先が図らずも皮膚に触れて思わず軽く身体を震わせる。すると彼は何事かと様子を窺うように顔を覗き込んで来た。そんな彼から顔を逸らすようにしながら彼の肩に頬を押し付けて、大きく息を吐いた。
「大丈夫?」
「……存外、緊張してます」
 三十も過ぎてキス如きで、と情けなくなりつつも彼の肩に顔を伏せた。情けなさで顔が上げられない。しかも僅かに息が上がっているなんてもうますます今までの人生で一体何をしてきたのかと自己嫌悪に陥った。そして八つ当たりするように彼の肩に手を掛けて、軽く爪を立ててやった。頭上で彼が微かに笑う気配がした。その余裕が気に入らなくて、顔を上げて睨み上げると、軽く触れるだけのキスを額に与えられる。その額を押さえつつ恨みがましげに彼を見上げた。すると、先程取ったばかりなのにまた花弁が彼の肩にいくらか降り積もっているのに気付いた。一瞬躊躇したがその躊躇いはすぐに振り払って、あまり力の入らない右腕を持ち上げた。そして震えそうになる指で、彼の肩から花弁を払い落とし、その指を手の平に握り込んだ。
「後悔してない?」
「してません」
 後悔するのは嫌いだ。するくらいなら、とっくに彼の前から消えている。後悔するとしたら、彼と出会ったその時からだ。出会っていなければ自分の汚い面も弱い面も知らずにいられた。その方が幾分心穏やかだっただろう。しかし、今更退くことなんて出来ない。手に入れた安息の場所から自ら消えることなど、出来そうにない。自分の肩を支える大きな手を見つめて、ゆっくりと緩い息を吐いた。
 こんなに面倒臭くて疲れる恋は、一生に一度きりで十分だった。


「……このタイミングで言うのが適切かどうか、と思うんですが」
「ん?」
 景色は反転して、目の前に映るのは天井。後頭部に柔らかいソファの感触を感じ、オーバルの室内灯のカバーをぼんやり見上げて、そのまま視線をゆっくりと真正面の捲簾の顔へと移動させた。天井から降りてくる光を背後から受けて、彼の顔に濃い陰影が生まれて更に野生味を増す。まな板の上の魚、もとい食事抜きの肉食獣の前に放り出された状態の自分を妙に冷静に受け止めつつ、天蓬は戯れに彼のプルオーバーの襟を軽く引っ張った。
「初めてじゃありませんから」
「……ん。まぁ、何となく分かってた」
 存外簡単に返された言葉に、顔を顰める。須賀といいこの男といい、男である自分の恋人が男だったり、男との経験があったりすることにもう少し驚いてくれてもいいのではないだろうか。それとも、驚く必要もないくらいに自分はそっち方面に見えているのだろうか。それはそれで……嬉しくない。全く嬉しくない。それは確かな事実なのだが、釈然としないもやもやした気分を抱えつつ、彼の首筋に軽く爪を立てた。彼は何か、じっと考え込んでいる。そして暫くして、彼は一度唇を舌で湿らせてからゆっくり口を開いた。
「それって、今までに一人だけ?」
「そう、ですけど……?」
 彼が何を知りたいのか計り兼ねて、とりあえず彼の質問へと答えておく。そしてその真意を探るように、彼の深い黒の眸を覗き込んだ。しかしなかなか彼は本音を覗かせない。それどころか、どこか余裕の垣間見えるような不敵な笑みを浮かべてみせた。
「じゃあ、その男と比較する対象も、ないわけだ」
「はあ……」
 曖昧に返事をする天蓬に、彼は何故か少し嬉しそうに笑って天蓬の顔へ手を伸ばしてきた。咄嗟に目を伏せると、そのまま彼の手によって眼鏡を取り去られた。慌てて取り替えそうと伸ばした手は指を絡め取られて行き場をなくす。そして見上げた楽しげな顔に眉根を寄せ、その真意を質した。すると、頬の上に触れるだけのキスが降りてきて、思いがけない言葉が耳に届いた。
「その男が如何に下手くそだったか、分からせてやるよ」
 その言葉に目を見開く。彼の表情は段々と隠し切れない欲を滲ませ始めていて、そのいつもと違った雰囲気に思わず背筋が震えた。しかしその動揺を相手に悟られるまいと天蓬は余裕の笑みを浮かべてみせた。
「……それは、楽しみですね」
 そして自分に覆い被さってくるその肩に爪を立てて、目を伏せてその肩に額を押し付けじっと唇を噛んで待った。待ち遠しいのか、怖いのか、嫌なのか嫌ではないのか、よく分からない感情の波をそうして静めようとしていたのだった。濃密な空気と近くなる彼の匂いに小さく身震いした。


 ソファというのは寝るのには案外狭い。それが大の男なら尚更。そして、それが二倍になったら更に。大きくて丈夫そうに見えていたソファは、大の男二人に酷使されてぎしりと音を立てた。ソファの背凭れに捲簾の黒のプルオーバーが引っ掛かって袖がだらりと床に垂れ下がっている。テーブルに置いたはずの天蓬の眼鏡は何かの弾みで弾き飛ばされたのか、床に無造作に転がっている。しかしその持ち主は、そんなものに気を配ることも出来ない状態にいた。同じように蜷局を巻くようにしてネクタイが適当に投げ捨てられている。
「……せめて、初めてはベッドで、とか、考えませんか……」
「もうそんなに息上がらせといて、今更寝室行けんの……?」
 余裕が無いのはどちらも同じだ。ボタンを外され露わになった胸を喘がせながら、それでも余裕を滲ませて天蓬は笑ってみせた。これはせめてもの矜持だ、情けなく屈服など出来はしない。それは相手も同じだった。自分の弱みだけは晒すまいと意地を張り合っている。しかしそれが不快ではなかった。これは駆け引きを真似たただの遊びだ。
 上着を脱いだ彼の身体は見た目だけでなく厳しく鍛え込まれていることが分かるしっかりとした逞しい肉体だった。ほう、と思わず溜息を吐く。生憎どう鍛えても、体力は付いても目に見えた筋肉の付かない天蓬には得られなかったものである。浅黒く焼けた色は健康そのもので、自分とは全く違う、と思わず自分の胸元の肌色を見下ろしてしまった。
 横になったまま頭だけを起こしているのに疲れ、ソファの柔らかい肘掛けに頭を預けた。そして顎を逸らせて、喉元を彼の眼前に晒す。その弱く柔らかい部位を彼の舌が滑るように辿った。ぞくりと緩い刺激が背筋を伝い、彼の肩にかけた右手がぴくりと震えた。その舌はそのままゆっくりと移動し、薄い耳朶に辿り着く。思わぬウィークポイントを探られ、咄嗟に撥ね退けようとしたがプライドがそれを邪魔した。そのままその敏感な部位を舐め上げられ、濡れた音を間近で聴かされながらぎゅっと目を瞑る。そして、ともすると漏れてしまいそうになる声を奥歯を噛み締めて堪えていた。暫くそうしていると、ふとその刺激が急に止んだ。不思議に思いそろりと瞼を上げようとすると、その瞼に濡れた感触を感じた。瞼に口付けられたのだ、と気付き、何だか少し気恥ずかしい気分で小さく息を吐いた。
「……お前」
「何、ですか……?」
 呼び声にゆるりと瞼を押し上げて、自分に覆い被さる彼の顔を見上げる。彼の目は明らかな欲に濡れていた。ぞく、と背筋が震えた。
「今、どんだけエロい顔してるか、分かる?」
 そんな揶揄にも似た言葉に、いつもの調子なら分かるわけないだろうと返せただろうに、断続的に与え続けられた快感でぼんやりした状態の頭では、何も言い返すことが出来なかった。そのまま唇は空回りする。彼に口で敵わないという状態がこの上なく屈辱で、彼の顔に手を伸ばして軽くはたいた。それでも彼は気分を害した様子はなく、ますます楽しげに笑みを深くしたのだった。彼自身は、揶揄したなどという気は毛頭無かっただろうが。
 ぐったりと天井を仰ぐ天蓬の耳に、軽い金属をぶつけたような音が届いてきた。それを即座にベルトの金具の音だと気付き、僅かに身を強張らせる。幾ら色事に慣れていようとも、男との経験がそうあるわけではない。その行為が快感ばかり得られるものではないことも知っている。明日は何曜日だっただろうかと考えた。そして土曜日、という答えに暫くして辿り着く。彼のことだから、そこまで考えてのことなのだろう。もし明日が平日だったら、どんなに自分が切羽詰まっていようと無理を強いるような男ではない。その優しさが少し、辛くもあった。彼と出会って四ヶ月半ほど。そういった関係になって一ヶ月半ほど。キスの気配すらなく、きっとこのまま何も起こらないままでゆったりと過ごしていくのだろうと思っていた。そもそも彼は、男相手には欲情しないのだろうと思っていたのだ。別にそれでもいいと思いつつ、少しだけ淋しい気がしていたのも事実だった。予想以上にこういったことを期待していたらしい自分に気付いて、自分の汚さが露呈したようで酷く居た堪れなくなる。そして視界の下の方にある彼の髪に指を絡ませた。すると不思議そうな彼の顔が上げられ、悪戯っぽく微笑まれる。そして伸ばされた手に頭を撫でられた。
「……ちょっと待ってな。がっつきたくねぇから」
 そのどこか余裕を失ったような笑顔と言葉に思わず、ずるい、と少し掠れた声が漏れた。それを聞き逃したらしい彼が、聞き返すように首を傾げるのに、天蓬は不機嫌な顔で、何でもないですよ、と短く返してやった。
 ベルトが抜き取られ、カーペットの床に放り投げられて床とぶつかった金具が鈍い音を立てた。ファスナーの下げられる音に、天井を見上げたままきつく目を瞑った。そして何があっても我を忘れ、醜い姿だけは晒したりしないようにと奥歯を噛み締める。精神的に下位に立たされるのだけは決して許されなかった。
「っ、……ん、」
 咄嗟にワイシャツの袖口を強く噛み締め、快感の波に耐えた。すっかり熱くなり濡れそぼった自身を彼の硬い指先が軽く撫でたのだ。たったそれだけで指先の指紋のざらつきすら感じ取れそうなほどに敏感になっている其処は次の刺激を期待する。その浅ましさに自分で自分に心の中で悪態を吐き、目を瞑ったままひたすらワイシャツの布地を噛むことに集中した。
 どれくらいそうしていただろうか。ふと、頬の上を少し硬いものが撫ぜていくのに気付いた。それにそっと薄く目を開いてみると、彼は少し不安げに自分の顔を覗き込んでいた。頬を撫でたのは彼の指先だったようだ。その指先は次に天蓬の目元を拭うように撫でる。そして、低く掠れた声で訊ねてきた。
「……怖い?」
「……ええ」
 行為は怖くはない。痛いことも怖くない。しかし、快感に浸されて我を忘れて、どうにかなってしまいそうな自分と直面するのは怖かった。それを正確に読み取ったのかどうか、捲簾は天蓬の乱れた前髪を撫で、そっと額に瞼に唇を落とした。そのくすぐったさに少しだけ肩を竦めて口元を緩めると、彼は満足げに笑った。
「そうして笑ってろよ。気張ったままだと、何も分かんねぇだろ」
 そう言って彼は最後に、唇に触れるだけのキスをした。触れていたのは何秒もないのに、移された熱はなかなか去らず、いつまでもほんのりと火照ったようだった。その唇を噛み、再び行為に戻る彼を僅かに潤んだ視界の中で見つめた。
 スラックスは下着ごと引き下げられ、右足の先に僅かに引っ掛かったままだ。爪先を少し動かしてそれを床に落とす。そしてもうすぐ訪れるであろう刺激を覚悟して大きく息を吐いた。その直後、先走りで濡れた自身を彼の手の平が急に包み込んだ。ひゅっと鋭く息を吸い込んだ天蓬は、ソファからはみ出て中に浮いたままの脚を突っ張らせ、その指先は空を掻いた。頬は既に赤く染まり、隠し切れない欲情に薄っすらと目には涙の膜が張っていた。白い胸を喘がせて、小刻みに吐き出される息すら甘そうだ。予想以上の媚態に、捲簾は焦りすら感じていた。これは、余裕を保っていることは難しいかもしれないと。しかしそれ以上に湧き上がる欲は終わりを知らなかった。
 くちゅ、と粘ついた音が鼓膜を震わせて、天蓬は耳を覆いたくなった。しかしそうすることも出来なかった。既にプライドしか縋るものがなく、それを失ったとしたらどんな風になってしまうのか想像するのも恐ろしかった。男としての矜持か、目の前に差し出された快感か。どちらを取ることも出来ずにその合間で迷い、結果的に悶え苦しむことになり、しかし強い快感に苛まれることにもなっていた。
 すっかり硬く勃ち上がった肉塊は止めど無く粘ついた液体を零し、捲簾の手を濡らしていく。それを見ていられなくて顔を逸らす天蓬に、彼は何を思ったかにやりと笑った。そして徒らにその先端の窪みに軽く爪を立てて見せる。すると弾かれたようにびくんと天蓬の背が撓り、泣きそうにも見える恨みがましげな目で睨めつけられた。悪戯を咎められた格好の捲簾は決まり悪げにするでもなく軽く肩を竦めて笑った。そして、指で天蓬を呼び寄せ、状態をソファから起こさせる。力の入らない腕で何とか起き上がった天蓬の背中を、捲簾の左腕が支える。何をする気だ、と天蓬はその挙動を窺う。その前で、捲簾は天蓬の肩からボタンの外されたシャツを落とした。後ろに手をついていたため、シャツはその腕に引っ掛かって丁度枷のようになる。しかも下肢は彼によって押さえ込まれているせいでこれ以上動きようがない。訝しげに捲簾を見つめていた天蓬は、何だか悪い予感を感じ始めて口を噤む。そしてそれは的中した。
 白く平坦な胸の上でぷくんと膨らみ、つんと硬くなった桜色の芽を、柔らかく指先に摘まれて、反射的に背を丸めた。混乱した頭の中ではシャツをどう取っていいのか思い付かず、ただひたすらに与えられる快感に声を漏らすまいとして堪え、喉を鳴らす。それと同時に、硬く勃ち上がりとろりと液体を零す自身を左手の手の平に包み込まれ、擦り上げられた。喉の奥で声にならない声が反響する。色づいた桜色の芽は、捏ね繰り回されたり先端を軽く爪で引っ掻かれ、赤味を増してますます硬くなっていった。同時に与えられる敏感な部位への愛撫で、頭の中は混濁していく。最早逃げることなど考えられなかった。ただ快感に従順になろうとする意識が理性を覆い隠そうとする。それに必死に耐えていた。
「……あ、やだ……――――」
 押し寄せてくる快感の波に押し上げられて絶頂が近くなる。きつく目を瞑ると、涙の膜が破れて睫毛に幾つもの涙の粒を作った。再び目を開くと、潤んで揺れた視界に今にも達してしまいそうな自身が震えて、涙を零しながら彼の手に包み込まれているのが見えた。
 自分だけが良いようにされている、とその瞬間頭の奥のどこかが少しだけ冷めた。そして持っていかれ掛けた理性が僅かに戻ってくる。その戻ってきた冷静さで何とか絡まったワイシャツから腕を抜き、腕を捲簾へと伸ばした。一瞬驚いたようだった彼は、それでもまだ余裕の表情で天蓬が何をするのかと楽しそうに見ている。そんな中、天蓬は彼のジーンズのボタンに手を掛けた。力の入らない指先で何とかそれを外し、そこでふと思い付いたように姿勢を変え、ソファに正座を崩したように座り込んで彼の股間に顔を近づけた。そしてやっと、彼も大分我慢を重ねていたらしいことに気付いた。歯で何とかファスナーの金具を噛み、引き降ろすと、途端に彼の屹立が飛び出て来る。頭の上で彼が息を呑んだのが分かった。下着も何とか唇で引き降ろし、目の前に現れたそれに躊躇いなく舌を這わせた。
「こういうことも、前の男にやったわけ」
 視線だけで見上げた彼はすっかり余裕を無くした笑みを浮かべていた。三蔵のことが気になるというのだろうか。きょとんと捲簾を見上げ、すぐに興味を失ったように緩く頭を振った。
「……こういうのは初めてですね」
 そもそも、あの関係で“相手のために”なんていう行為は何一つとしてなかった。自分が快感を得るためか、相手を屈服させる優越感を得るためだった。あれこそ、非生産的な行為だったと思っている。急にそのことを思い出さされて少し気分を害した天蓬は、窘めるように捲簾を睨む。すると彼は宥めるように天蓬の黒髪に指を差し入れ、優しく撫でてきた。その優しい刺激に目を細めつつ、天蓬は再び愛撫を再開した。先端を避けて、括れに舌を沿わせて舐め上げ、溢れてくる苦い雫を丁寧に舐め取った。それを続けていると、徐々に大きくなったそれはぴくんと時折震える。こういった受け身ではない経験値は殆どない天蓬は、自分の技術は如何ほどのものなのかと気になり、ちらりと上目遣いで彼の様子を窺った。見上げた彼は笑っていたが、滲み出す欲情が隠せていない。それはぞくりとするほどの濃密な色気を伴っていて、一瞬怯えにも似た感情を覚えた。しかし既に退くことは出来ない場所まで足を踏み入れてしまっていた。決心するように一度唇を舐め、瞼を伏せた。震える先端にそっと舌を這わせ、窪みを突付くように舌を細めて猫のように熱心に舐める。そしてその先端を小さく口に含んだ。何処まで銜え込めるものかと思案しつつ、緩く吸ったり愛撫をそのまま繰り返していた。
 そんな風につい油断していた中で、異変に気付いたのは少し後だった。臀部に何かが触れる感触を覚え、閉じていた目をゆるりと開いた、その時。双丘に何か突然冷たいものを感じて驚き、銜えていた屹立から唇を離し、自分の背後を振り返った。何かぬるぬるしたジェル状の液体が背中から、双丘の間に掛けて掛かっている。潤滑剤だった。
「……いつの間に」
「さっきお前が水飲みに行った時」
 準備が良すぎる、と呆れたように見上げる天蓬の唾液と己の体液で濡れた口元を指で拭いながら、捲簾は本当に楽しそうに笑った。潤んだ目に濡れて赤くなった唇。これで意図的ならばかなりの性悪だ。しかし今の場合、そうではないのだろう。そうではないからこそ、余計に質が悪かった。
「このまま口でイカせてもらうのもいいけどな……」
 そしてその指がそっと背筋をなぞり、双丘の合間へと滑る。段々と体温で温められて境界の分からなくなったジェルのぬるつきに身を震わせる。そして双丘を割りその奥の窄まりへと進もうとする彼の指に、思わず喉の奥がひくりと鳴った。しかしその指は遠慮することもなく奥の蕾を探り当てた。そして襞を弄るように指先が撫で、つんつんと突付く。その軽い刺激に思わず其処がひくつくのを感じて頬が火照る。そして彼が小さく笑ったのに気付いてますます居た堪れなくなった。彼の指はジェルの滑りを利用して、そのままその襞を解すようにしながら中へと進入を始める。久しぶりに感じる圧迫感に息を詰まらせつつ、何とか呼吸を整えようと大きく息を吐いた。そして目の前の彼の屹立に目を留めた。このまま良いようにされてばかりでは気が済まない。意を決して、天蓬は唐突にそれを口に含んだ。先程より更に大きくなった感のあるそれに少し苦しさを感じつつも、やられっぱなしではいられないとその先端をちゅうっと強めに吸い上げた。頭の上で捲簾が息を呑んだのが分かった。苦い味が口に広がったが、何となく楽しい気分になる。
「……このやろ」
 その声を合図に、彼の指が更に大胆に動き始めた。太い指が更に奥へと進入し始め、中を押し広げるように挿入されていく。そのままでは声を上げてしまいそうだったが、幸か不幸か、口の中は彼の物でいっぱいで声も上げられない状態だった。それでも鼻からまるで犬が媚びる時のような音が出てしまう。嫌でも耳にはぐちゅ、と粘ついたような濡れた音が届いて、それが自分のものだと思うだけで頭がどうにかなってしまいそうだった。
「天蓬、ちょっと、ストップ」
「……?」
 突然制止を掛けられて、不満気に顔を上げる天蓬に捲簾は笑った。そして自分の精液で濡れた唇を指先で拭い、奥を指差して見せた。それはソファのあいた部分で、意味が飲み込めなかった天蓬は首を傾げた。
「ちょっと、あっち向きでうつ伏せてな。……ちゃんと解さねぇと、後々大変だから」
 その後の大惨事を思うと言うことを聞くほかなくて、天蓬は存外素直に身体を起こした。そして思う侭に動かないだるい身体を動かして、ソファにくたりとうつ伏せた。自分でも何て無防備な体勢だ、と思う。今彼がその気になったら自分は簡単に殺されてしまうだろう。
「……ちょっと、やなんですけど……この体勢」
「そうか? ……イイ眺めだと思うけどな」
 捲簾はそう言って、満足げに眼下を見下ろした。無防備に晒される滑らかな白い背中と、濡れて空気に晒されてひくつく秘部。潤んだ目に睨み付けられて余計に嗜虐性が煽られる。優しく優しくしてやりたいと思うのは事実なのに、こんな目を見てしまうとつい焦らして甚振ってみたくなる。しかし今はそんなことが出来るほどには自分も彼も、余裕がなかった。
 幾分解れた蕾にまず一本、指を進入させる。それだけで其処はきゅうきゅうと吸い付くように締め付け、ソファに頬を寄せた天蓬は僅かに鼻を鳴らしてきつく目を瞑った。目頭に溜まっていた涙がそのまま横に伝い、ソファに落ちる。ソファに腕をついて身を乗り出し、彼の背中に覆い被さるようにして濡れた目元を軽く舐めると、天蓬は緩く目を開いて薄っすらと微笑んだ。
「平気、ですよ」
 そう言って笑ってみせるその頬にそっと口付けて、そのまま下へと移動し首筋の柔らかい皮膚を唇で食んだ。そしてちゅっと吸い上げると、天蓬の瞼がひくりと震え、切なげな顔になる。白い皮膚に紅い痕が残り、緩く目を開いた天蓬は不思議そうに目を瞬かせた。その隙に、緊張の解れていた後孔にもう一本指を追加して進入させる。すると途端に天蓬の背中が弓なりに反り、甲高く甘い声が漏れた。慌てて口を手で覆った天蓬に、捲簾はにやりと笑う。
「い、ぁ……だめ、です……って」
「駄目じゃないだろ……ほら」
 挿し入れた指先でぐい、と後孔の奥を探る。ぐち、と濡れた音が響いて天蓬は頬を紅潮させ、きゅっと眉根を寄せた。その表情からは何とも言えない甘く強い色香が漂い、捲簾の背筋をぴりりとしたものが伝う。唾を嚥下して、捲簾の喉が上下するのを天蓬は潤んだ眸で見上げていた。
 暫く内壁を探っていると、一際天蓬が大きな反応を返す位置がどの辺りなのかが何となく分かってくる。彼がそれを隠そうと頑張っているのが丸分かりで、その健気なまでの必死さに思わず笑ってしまう。覚え始めたその位置を指先で掠めてみたり、其処をわざと避けて周囲を弄ってやると、彼は眉を切なげに垂れて懇願するような眸で見上げてくる。その視線を受けてぞくりとするのを感じながら、彼の肩に手を掛けた。
「仰向けになれるか?」
 もう意識は快感に支配され、とろりとした目をした天蓬は、素直に仰向けになった。ほっそりした太股を割って、間に自分の身体を押し入れる。ふるりと震えた天蓬の自身は既に堪えきれないように涙を零していた。すっかり解れた其処に捲簾の熱い屹立が押し当てられる。それだけでひくひくと収縮してしまうのが恥ずかしくて顔を腕で覆う。しかし捲簾に腕を退かされてしまい、憎々しげに睨み上げる。それでも彼は却って嬉しそうに笑ったのだった。その余裕が憎らしくて、しかしどうすることも出来ずに天蓬は瞼を伏せた。
 ゆっくりと進入を始める熱に、唇を噛んで耐える。痛みがないわけではない。しかしそんなものは既に麻痺し、殆ど感じなかった。ただひたすらに泣きたいくらいの快感に襲われ、あられもない声を上げてしまいそうな衝動を、必死に堪えることに神経を費やしていた。はあっと大きく息を吐く。まだ幾らも入っていないだろう。この神経が焼き切れそうなじわじわと続く快感にいつまで耐えられるだろう、と頭の何処か冷静な部分でおかしくなってしまいそうな自分を遠くから眺めていた。肉棒がゆっくりと進入する度、内壁が持っていかれそうになり思わず締め付けてしまう。いっそもう乱暴に突き入れて欲しい、と半ば投げやりに思いながらそっと瞼を押し上げる。潤み、ぼんやりとした視界の中で、捲簾が僅かに苦しげな顔をしているのが見えた。何がそう苦しいのだろう、と思った瞬間、彼の腕が僅かにそそり立った自身を掠め、思わず強く内壁を収縮させてしまう。途端に、彼の余裕に満ちていた顔がきゅっと顰められる。それで漸く合点が行った。徒らに自分の中にある彼のものをきゅっと締め付けてみると、ますます彼は余裕を失ったように焦りを露わにした。そして恨みがましげに天蓬を見下ろす。
「お前……わざとやってる?」
「……今は、ね」
 天蓬の返事にむっとしたように少し眉を跳ね上げた彼は、やがて何か思い付いたように凶悪に笑った。両腕で天蓬の太股を抱え上げる。そして、不安げに見上げる視線に気付いていながら無視して、容赦なくその肉棒を最後まで奥へと一気に突き入れた。
「……ん、……――――――ぁ、あっ! ……ひ……ぁ、も、だめ、でっ……」
 うっかり大きな声を上げてしまいそうになって、すんでで唇を噛んでそれを堪えた。何処かにしがみ付かなければおかしくなってしまいそうで、目の前のしっとりと汗ばんだ彼の肩に縋り付いて額を押し付ける。小さな蕾を押し開き、ぴったりと中に収まっている肉棒の脈動をリアルに感じて、身震いをした。それは確かな恐怖だった。しかし何への恐怖なのか分からない。身を食い破られて引き千切られてしまいそうな恐怖なのか、底の知れない強すぎる快感への恐怖なのか。どちらなのか、考える余裕すら頭にはなかった。頭にあるのは快感へ従順になりたがる心を何とか押し留めることだけだった。
 ふと、捲簾が身体を僅かに起こした。彼の肩に額を押し当てて衝動を堪えていた天蓬はその挙動を見つめる。そんな視線の前で、捲簾は天蓬の平坦な白い胸に手の平を滑らせた。その指がつんと膨れ上がった淡い色の芽に引っ掛かって止まる。その小さな芽を突然きりりと親指と人差し指に強く摘まれ、天蓬は潤んだ目を大きく瞠った。じりじりと伝わる痛みの中からどうしようもなく強い快感が溢れ出てくる。そんな乱暴な行為からも快感を見出してしまうような自分の身体が酷く淫らに思えて、それを振り切るように頭を振った。
 散々抓られ、先端を引っ掻かれた芽は、白い肌の上でほんのり赤く色付きぷくりと膨らんで、捲簾の視線の前に晒されていた。散々弄り回されたそれは酷く敏感になっていて、晒された空気や彼の視線にすら身悶えた。ふっと笑った捲簾は、指先でピンとその先端を弾く。それだけで天蓬の胸はびくんと跳ね上がった。
「……お前、ここ弄られるの好きだなぁ……?」
「……っ!」
「ちょっと引っ掻く度に、すげぇ締め付けてくる」
 かり、と先端に爪を引っ掛けられる。試されているのだと分かっていても反射的に内に収めた彼のものを締め付けてしまうのが悔しかった。そして暫く顔を逸らせていると、じんじんと腫れたようなそこに濡れた感触がするのに気が付いた。その濡れて温い、少しざらついた感触に、舐められているのだと気付くまでにはぼんやりと霞がかった頭では少し時間が掛かった。
「ゃ、けんれ……」
 おかしくなってしまう、と頭の中で警鐘が鳴り、慌てて彼の髪に指を絡ませてそれを止めようとする。しかしそれくらいで止まる男ではなく、ざらついた舌は撫でるようにその膨れ上がった芽を舐め上げた。たったそれだけのことに背筋に電気が走ったように背を反らせた。と同時に内にある彼を思い切り締め付けてしまう。一瞬顔を顰めた彼は、それでも行為を止めようとしない。再び優しく膨らみを舐め、軽く吸われたり甘噛みされる度に、素直に反応を返す天蓬に満足げに笑った。しかしその笑みにも、そろそろ余裕がない。すっかりくったりしてしまっている天蓬はそのことには全く気付きはしなかったが。捲簾は天蓬の上に覆い被さり、唇も触れそうな距離まで顔を近づける。
「……正直、結構溜まってた?」
 あけすけな問いに天蓬は潤んだ目できっと睨み付ける。しかし、事実は事実だ。作家も兼業するようになってからは余暇もあまりなくなり、態々手の掛かる女性と付き合うことを好まなくなっていた。それでも時折はあった行為は、捲簾と出会ってからは、殆どない。それというのも平日は仕事、休日は彼と会う為に時間を割いていたからだ。女と会う時間など取りようもなかった。しかし、それでもいいくらいに彼に会いたかったのかもしれない。
「……っ僕も、一応まだ、若いんです、かね……」
 軽口を叩く天蓬に、彼は喉を鳴らして笑った。
「……逆に食われちまいそう」
 そう、低く掠れた声で言い、捲簾は熱い息を吐く。その息が頬を掠めて少しだけ身を竦ませた。その雄の声が滴るばかりの欲情を滲ませていて、言葉にならない感情が身体全体を支配した。重い両腕を持ち上げ、彼の背中に回す。彼はきょとんと目を瞬かせ、その後嬉しそうに破顔した。それがやはり何だか大きな犬を髣髴とさせて、思わず笑いそうになりながらその黒い髪に指を絡めた。そして、彼の澄んだ漆黒の目に、ぴたりと自分の目を合わせる。ふわりと降りてきた軽い口付けに、何だか温かい気分になった。
 一息置いて、ゆっくりと抜き出される肉棒に、内壁を持っていかれそうな気分になって身震いする。そしてぎりぎりまで抜き出されたそれは、一気に奥まで突き入れられた。その衝撃と言葉に出来ない感覚に、漏れそうになる声を必死に堪える。突き入れられたそれが内壁を探るように擦り、ふと、先程指で探り当てられた敏感な場所をその先端が掠めた。その時の一瞬の反応を見逃さなかった捲簾は、したり顔でしまったと唇を噛む天蓬を見下ろした。そしてそんな風に強情を張り続ける天蓬に構わず、捲簾はその柔らかな弱い場所を思い切り突き上げた。
「……ぁ……――――……っ!」
 顎を反らせ、甘く甲高い声を迸らせる天蓬の姿に、捲簾の目には愉悦と恍惚の色が浮かんだ。目の焦点はなかなか合わず、潤んでぼやけた視界に黒い影が映る。もう既に意味を成さない声を漏らすことしか侭ならない天蓬を、そのまま強く攻め続けた。我武者羅に内壁を突き上げられ、そそり立った自身を指で強く擦られながら、捲簾の肩にしがみ付いた天蓬はほろほろと善がり泣いた。頭の中が白んでくるのを感じ、きゅっと爪を彼の背中に立てる。堪えきれない絶頂に、小さな声を漏らす。
「……ぁ、ん……――――あ……!」
 大きな波に呑まれるようなイメージを頭の中で持った。きゅう、と強く後膣が締まるのを止められないまま、湧き上がる絶頂に身を任せた。頭の上で捲簾が僅かに苦しげな息を漏らすのが聞こえたのと同時に、唇を噛んで彼に強く縋り付いた。限界まで張り詰めた自身が弾けて、ひくひくと震えながら雫を溢れさせる。頭の中が真っ白になり飛びそうな意識の中、身体の奥に注ぎ込まれる彼の熱い飛沫を感じた。火照った身体はそれすら快感と受け取り、ビクンと痙攣したように歓喜に震えた。
 白濁した意識の中、閃光が走る。全身が、酷く熱かった。







 目を覚ますと、目の前には暗色のシーツの波が広がっていた。捲簾の寝室のものだ。頬に触れる滑らかな感触に開き掛けた目を再びそっと閉じた。そして大きく深く息を吐く。身体が持ち上がらないほど重い。まるで自分の身体ではないようだった。しかし力を入れてみると、胸の脇に置かれた自分の右手の指がピク、と動く。それからゆっくりと身体全体を目覚めさせるようにしながら腕を動かした。そして横向きの身体をゆっくりと起こそうとする。その瞬間、下腹部に鈍い痛みを感じてそのまま倒れるようにベッドに逆戻りした。じんじんと痛みが続いて、手で腰の辺りを押さえながら枕に頬を寄せた。下腹部と腰がずんと重い。そして頭もぼうっとする。喉も渇いてひりひりする。水が飲みたい、と思ったが、暗い部屋の中で彼がいるのかどうかも分からない。暫くどうしたものかと考え込んでいると、ふと真っ暗な部屋に急に細い光の筋が差し込んできたのに気付いた。ドアが細く開かれているのだ。声が出せないため、小さく布団の中で身体を動かして起きていることをアピールしてみる。
「……天蓬? 目、覚めたのか?」
 その声の後に、カチンと音がして寝室の電気が点いた。突然の明るさに順応出来ず、天蓬は目を細めた。そして部屋に入ってきた彼が顔を覗き込んでくるのに応えて、何とか目を開いた。そのぼんやりした視界に気遣わしげな顔をした捲簾が入り込んできた。先ほどとは違う、白のシャツを着ている。
「……平気?」
 ベッドの脇にしゃがみ込んだ捲簾は、指先で天蓬の乱れた髪の毛を整えながら言った。その彼に何とか頷いてみせて、ゆっくりと身体を起こそうと試みる。それを見て慌ててベッドに体を押し戻そうとする捲簾を手で制して、腰を押さえながら何とか起き上がった。腰痛は既に職業病とも言えるものなので慣れている。が、あらぬ所に感じる疼痛に、布団の中に潜って隠れてしまいたくなった。それを見つめていた捲簾は手で天蓬の背を支え、逆の手で僅かに赤く上気した頬を擦るように撫でた。
「水が飲みたいんですけど……」
「待ってろ、今取ってきてやるから」
 そう言って立ち上がろうとする捲簾の服の袖に掴まった。そして止めようとする彼に逆らってベッドからそろりと裸足の右足を床に下ろす。ひやりと冷たさが脹脛を這い登るのを感じて目を細めた。やがて押し留めるのを諦めたのか、捲簾は立ち上がろうとする天蓬の腕を掴んで支えて来た。そしてその時やっと、ワイシャツ一枚しか身に付けていない自分の状態を見下ろした。道理で涼しい、と思いながら、捲り上がったシャツの裾を正す。事が終わって直ぐに意識を失ったわけではなかった。ブラックアウトしそうになる意識の中、何とか重い身体を引き摺って風呂に入ったことは覚えている。そして、風呂を出た記憶はない。この状態から見るに、湯船の中で居眠り……もとい失神して沈没していた自分に気付いた捲簾が、慌てて引き上げ何とかワイシャツ一枚を着せて寝せた、というところだろうか。それは申し訳ないことをした、と思いながら、タンブラーにミネラルウォーターを注いでいる彼をシンクに凭れ掛かりながら見つめた。暫くして静かに差し出されたタンブラーを、取り落とさないように両手を差し出して受け取る。そしてあまり力の入らない手で零さないように口に運び、一口嚥下した。冷たい水が喉に染み渡る感覚に深く息を吐いて、ふと、彼が静かに自分を見つめているのに気付いて顔を上げた。存外長い睫毛の流れる瞼がゆったりと上下し、凪いだ黒い眸がじっと天蓬を映していた。
「捲簾……?」
 その視線がどんな意味を持つのか計り兼ねて、小さく首を傾げた。そして、一歩自分に近付いてくる彼に思わず一歩退きそうになりながら、努めて表情に出さないようにと黙って彼を見上げていた。ゆっくり伸ばされた捲簾の手が、天蓬の前髪を掻き上げる。そして近付いてくる顔に思わず目を瞑った。額に与えられる触れるだけのキスを、中の水を零さないようにタンブラーをしっかりと握り締めながら受け入れた。肩に抱き寄せられて、その強靭な肩に額を摺り寄せる自分は敗者だった。熱すぎる熱にいとも容易く慣らされ、この強さと優しさに惑ったのだ。今更消えることなど出来ようもない。それは、自分が弱くなったことを意味するのかどうか。考える気も起きなかったのは、考えずとも答えが出ていたからだ。
「ありがとうな」
 ゆっくりと、顔を伏せたまま瞑っていた目を開いた。その謝意の言葉が何に宛てられたものなのかに惑い、しかし何だか顔が見られなくて、顔を彼の肩に伏せたまま口を開いた。
「……何が、ですか?」
「ん?」
 捲簾の大きな手が愛おしげに黒髪を撫で、笑い混じりの声が返される。天蓬の見ていない中、俯いたその黒髪の頭にそっと頬を寄せた。静かなキッチンの中で、天蓬の小さな息遣いだけが唯一動いているようだった。半端に長いその髪に指を絡ませて小さく笑う。
「いなくならないでくれて」
 天蓬はゆっくりと目を瞬かせた。そして緩く息を吐き出しながら、今までずっと一人、考えていたことを口にした。今までずっと考えていた。自分がどうしてこの場を離れ、消えてしまうという希望を捨てたのか。そしてその結果はいつも彼へと結びつく。彼がいたから。自ら失うことなど、決して耐えられなかったからだ。そしてやっと辿り着いた一つの答えが、これだ。
「……僕が自ら、望んだことです」
 決して誰かに変えられたわけではない。誰かのために自分を曲げたわけではない。ただ自分が自分のためにこうして今ここに居る。そう自分に言い聞かせることで自己のプライドを保ちつつ、それが強ち嘘ではないことにも頭のどこかで気付いていた。いつも結果は彼だ。しかしその彼を望んだのは自分である。ならば意思を変えたのは彼のためではなく自分のため。延いては自分の希望を叶えるためだ。自分が居たいからここに居るまでだ。今まで自分のことばかり考えて、ずっと苦しんでいた八戒のことも顧みず自己憐憫に浸って生きてきた。そんな愚かなエゴイストの自分が、たかが他人のために意思など変えるものか。人のためになんて、生きてやらない。
「あなたのためなんかじゃ、ないんですから」
 独り言のようなその呟きに、捲簾は一瞬息を呑み、その後再びゆっくりとその髪を梳きながら「それでも」と小さく呟いた。










2006/12/12