「天蓬は卵焼き、甘いのと塩辛いのと、どっちが好きですか?」
 なんて突然訊かれて、天蓬は一瞬思案した後、塩と答えた。
「そうですか。……同じですね」
 そう言って弟は嬉しそうに笑った。彼の手には菜箸が握られている。彼は先程から天蓬の家のキッチンに立っていた。何時の間にか捲簾が持ち込んだらしいフライパンは、主に彼らによって使われていた。というか、天蓬が進んで料理をしようとしなくても彼らが夕食を作ってくれたり、来られない時には弁当を渡してくれたり作り置きをしてくれるのだ。二人とも男の割に料理が上手く、専属の料理人を二人付けている気分である。一介の会社員にして贅沢なものである。そうして今日も、彼は自分の家のキッチンに立っている。魚の焼ける香ばしい香りが漂ってくる。ちなみに捲簾は現在海外に出張中だ。その情報を悟浄から仕入れたからこそ彼がこうしてここに来ているのだが。八戒と捲簾は仲が悪い。悪い、というより玩具を取り合う子供と同じだ、と悟浄が言うが、まさにそうだと思うのだった。ということは、自分は玩具なのだろうか、と少し納得のいかない思いで首を傾げた。
「五作目読んだぜ」
「それはありがとうございます。……あれ、何時の間にいたんですか」
 ローテーブルの前に座り込んでぼんやり煙草を吸っていた天蓬は、唐突に八戒以外の声に話し掛けられて目を瞬かせた。その相手は少しむっとしたように顔を顰め、拳で天蓬の額を小突いた。
「八戒と一緒に来ただろうが! ったく……その歳でもう耄碌したのか」
「失礼なクソガキですね」
「おまっ……」
「年上への言葉遣いを改めなさい、社会人になって何年目なんです」
 手厳しい天蓬の反論に、その男、悟浄は決まり悪そうに言葉に詰まり、唇を子供のように尖らせた。
「……捲簾とか八戒と扱いが違いすぎねぇ……?」
「八戒は弟ですから」
 天蓬はそうとだけ言った。捲簾のことに関しては言及しない。それに対しては悟浄もまた問い返しはしなかった。それを訊いてしまったら最後、散々惚気られることは間違いないと知っているからだ。それを狙って天蓬がそうしているということに半ば気付いてはいるのだが、結果的にそういうことになってしまうことは嫌というほど思い知っているので、やはり出来ないのだった。
「……綺麗な薔薇には刺がある、ってことかね」
「男に薔薇とか言わないで下さい、気持ち悪い」
「じゃあ……鈴蘭とか?」
「……それも如何かと思いますけど、その心は?」
「綺麗なナリして毒がある」
「うまい」
 キッチンから美味しそうな香りが漂ってくる中、何処か抜けた天蓬はそう言って真剣な顔で頷いたのだった。

「……そういえば、美味しい茄子にも刺がありますよねぇ」
 料理の終わった八戒が麻婆茄子の大皿を運んできたのを見て、天蓬はそう嬉しそうに言った。
 友人の捲簾と彼がどうこうという関係になって、二ヶ月少し経つ。桜は満開を過ぎ、段々散り始めていた。彼の待てないと言っていた桜の季節を、何とかこうして無事に迎えている。
 彼の五作目も今までとは違った話題を呼んでいた。今まで彼は、決定的な恋愛関係を描いたことがなかった。しかし今回の作品には、一組の男女が出てくるのだ。前半の綺麗すぎる恋愛と、後半での番を亡くした男の生々しい描写のギャップは読む者を話の中に引き込んだ。彼は、自分が分からないものは書けない。家族に関してもそう、今回の恋愛や恋人を亡くした感情に関しても。前半の、キス一つしない男女が彼とその祖母で、後半に現れる男が捲簾であることは悟浄にも八戒にも一見してすぐに分かった。もしかしたら、こちらが勝手にその男女をカップルだと思い込んでいるだけで、彼自身は恋人同士として描いているわけではないのかもしれなかった。そして、作品の中ではその後の男二人については描かれていない。彼のあの状態では、その二人に末路を作ることは出来なかったのかもしれない。今の彼なら、あの続きをどう描くのだろう。
「沙君、何ぼうっとしてるんですか」
「あ……いや別に。……っていうかさ、そろそろその“沙君”って止めない?」
「だって“沙”って呼びにくいじゃないですか。おい沙、とか」
「いや、そうじゃなくて下の名前で」
「えー?」
「何で嫌そうなんだよ!」
「だって今更恥ずかしいじゃないですか。そんな、何かがあったみたいな……」
「あるわけねぇだろ!」
 態とらしく恥じらって見せる天蓬に怒鳴り返す。そんな、何かあったなんてことになったら黙っていない人間が近くに二人もいる。どちらも悟浄にとって怒らせたら良いことのない男たちだ。そして特に。
「捲簾に言いつけちゃいますよ、あなたに意地悪言われたって」
「止めろ」
 彼もなかなか理性的な男だとは思っているが、天蓬が絡むと何をするか分からない。そんな眠れる獅子を蹴り起こすような真似はしたくはなかった。しかし、そんな二人も何と実は清いお付き合いだというから驚いた。キスもまだだと知った時には本気で捲簾が枯れたのかと心配した。しかしそういうことでもないらしい(そりゃそうか)。やり方でも分からないのだろうか。だが、彼らはやり方が分からないからといってもじもじしているようなタイプでもない。分からないなら調べるし足りないものがあるなら調達する。その彼らが何もしないというのだから、もしかしたら本気で何もする気がないのかもしれない。
「天蓬、温かいお茶淹れましょうか?」
「あ、お願いします。すみませんね、何から何まで」
「いいんですよ、好きでやってるんですし」
 事実である。八戒は捲簾の不在を日々虎視耽々と狙っているのだった。その情報提供をさせられる悟浄もまた、そのことが捲簾に知れたらただでは置かれないだろう。まあ、彼に限って気付いていないということはないだろうけれど。それでも悟浄に釘を刺そうとしないのは、本命の余裕ということか。少々八戒寄りになりつつある悟浄はその余裕が何となく憎かった。昔からあれは年齢に見合わぬ余裕を持っていて、それが垣間見える度に悔しい思いをしたものだった。
「……もう。名前で呼んだげますからそんなに拗ねた顔しないで下さいよ、悟浄」
「……天蓬」
「飯が不味くなる」
「……お前ね」
 やっぱり美人だが毒がある。これを上手く飼い慣らして可愛いとまで言ってのける捲簾はかなりの勇者かもしれない。毒があると知っていても味わってみたくなる気持ちは、誰しも持つものだが。
「……かわいくねーの」
「オッサンですからね」
 そう言って天蓬はいそいそと料理の並べられたテーブルの前へと座り込む。そして丁度良く八戒が湯飲みを盆に載せてキッチンから戻ってきた。向かい側に座った八戒は、湯飲みを三つテーブルに置き、盆を床に下ろした。
「じゃあ、頂きます」
 丁寧に手を合わせる天蓬に倣って悟浄も手を合わせる。そして箸を取った。彼は食事は不規則で不真面目なくせに、作法はしっかりとしている。態度は尊大だったり可愛くなかったりするが、こういった行動の端々から祖父母にしっかりと躾られたことがよく分かるのだった。育ちの良さ、という面では八戒もそうだ。彼の父親はかなりの高給取りであり、実家もかなり大きな洋館だ。殆ど彼を育てたのは家政婦や家庭教師である。丁寧に、しかし腫れ物に触るように育てられた一人っ子の彼は成長してこう、少々ひねた考えを持つ大人になってしまったのだった。だからもしかしたらいつも、兄弟が欲しいと思っていたのかもしれない。その証拠に今の彼はとても嬉しそうなのだ。
「八戒は洋食とか、中華が好きなんですね」
「え? ……ああ……いつも、そういうものばかり食べていたので」
 八戒は居酒屋すら誘っても付いて来ないくらいである。一度も悟浄は彼を連れて行けた試しがなかった。天蓬に何度か連れられて行って少しは慣れたらしいが、基本は高そうなレストランやバーを好む。一般人にすれば羨ましい話である。
「ひょっとして和食の方が好きですか?」
「いえいえ、僕好き嫌いはあんまりないですよ。だけどおじいちゃんもおばあちゃんも和食派だったので……あ、あと捲簾も」
(あっ)
 いち早く悟浄は親友の異変に気付いた。微笑んではいるが、かなり怒っている。というより、プライドを傷つけられた様子である。多分今日家に帰ってから彼は和食について勉強し出すに違いない。そしてまた、捲簾との冷戦が始まるのだった。その間に立たされている天蓬自身は何も気にしていないというのが不思議だ。もし自分だったら確実に胃を痛めてしまうだろうに。
「煮物とか上手なんですよねぇ。あとちょいちょいって魚も捌いちゃうし」
 八戒が何か考え込んでいる。この様子では新しい包丁でも買って帰るつもりではなかろうか。きっと試作品は全て悟浄が押し付けられ感想を強要されるのである。彼の料理が不味いということは決してない。寧ろそのせいで舌が肥えてしまったくらいである。そのせいで今までは何とか笑顔で食べられたような彼女たちの独創的な料理にも厳しくなってしまった。口には出さないが。
 そして捲簾も料理が上手い。そちらを口にしたことがあるのは彼の家に泊まった二、三度のことだが、そちらは洋食派の八戒とは逆に和食中心だった。そして天蓬も好き嫌いはないもののどちらかと言えば和食派らしい。
(八戒も頑張らないとだな……)
 いつの間にやらほとんど八戒寄りになっている悟浄は、心の中から険しい顔をしている八戒へとこっそりエールを送っておいた。
「でも八戒の作るシチューも美味しいですよ」
 そう、誑しの笑顔で言われて、微かに八戒が顔を赤くする。滅多に見られないそれに悟浄が目を瞠ると、八戒に物凄い目で睨み付けられた。どうやら兄専用の表情らしい。渋々視線を落とし、箸を取りながらも、悟浄は(食ったら先に帰ろ)と思ったのだった。


***


「桜田ですか?」
 悟浄が一足先に帰り、家の中が急に静かになったと思った途端、八戒の携帯電話を震わせたのは部下である桜田からの着信だった。そして慌てて奥の部屋に引っ込み、何かあったらしい桜田の半泣きの声に耳を傾けていたのだ。
「ええ、少しトラブルがあったみたいで……でももう大丈夫ですよ」
「そうですか」
 少し心配そうな彼を安心させるようにそう言うと、彼は少しだけ顔を緩めた。その表情の意味が分からなくて曖昧に笑いかえすと、彼は小さく八戒に向かって手招きをした。それに従い、彼にに近付いていき彼の横にしゃがみ込むと、伸ばされた彼の手がよしよしと八戒の頭を撫でた。目を瞬かせる八戒に、彼はにこにこと微笑んだ。
「八戒は頑張り屋さんですね」
「……いえ……そんなこと」
 曖昧に笑う八戒を見て、彼は首を傾げた。その鳶の眸が興味深げにきらめく。
「何事も程々に頑張って下さいね? あんまり根を詰め過ぎると倒れちゃいますよ」
「いえ、……忙しくしている方が、楽なんです。何となく……」
「余計なことを考えずに済むから?」
 八戒はゆっくりとその顔を見上げた。彼はひたすら、穏やかに微笑んでいる。どうしてこの人には分かってしまうのだろう。兄弟だから、とそういう理由ではない気がした。八戒は俯き、彼の膝を見下ろした。この人という存在がどうしようもなく愛しい。しかし自分も彼ももう三十前後だ。兄弟だからと甘えてもいられない。そして彼には既に恋人がいた。
「……そうかもしれませんね」
 昔から淋しさを紛らわすため、やっていたのは勉強や読書だった。数式や本の世界に逃げ込み余計なことを考えないようにしていた。しかし外面は良く、表向きは愛想の良い穏やかな青年を装っていた。仕事の忙しい父と、夫のことしか顧みない母。顔に微笑みの仮面を貼り付けた使用人に、無駄に大きな家と整った設備。そのどれもが八戒の孤独感を増幅させていた。
 兄の存在を知ったのは中学生の頃、母が友人と電話をしているのを聞いてしまった時だ。父と結婚する前の母は様々な不特定多数の男と付き合っていて、その頃ある男性との間に望まぬ子供を儲けてしまったということ。そしてその子供は、八戒は会ったことのない母の両親に預けられて育てられているということ。彼の名前が、“テンポウ”というのだということ。すぐにでも母を問い詰めてみたかった。しかしそれをすれば、今表面穏やかに過ごしている家族が壊れてしまうことは必至だった。それを壊してでも、という勇気は出ず、そのままゆっくりと中学、高校、大学時代を過ごした。そして今勤務している大手出版社に就職したのだ。
「いけませんよ? 程々にさぼらないと、頭が腐っちゃいます」
 そして、彼に出会った。女性雑誌部門に所属していた彼のことを初めて知ったのは、あるフォトグラファーから出版部に持ち込まれ、部署内で話題になった中篇小説を見た時だった。仕事でも趣味でも数え切れない程の本を読み込んでいる八戒はそれなりに文には厳しい。よってその小説も素人の書いたものと見縊っていた。しかしそれは遥かに予想を上回っていた。その小説が出版されることになり、一度その作者に会ってみたかった八戒は担当者に名乗りを上げた。そして、待ち合わせ場所にいたのが、彼だったのだ。
「……上手くいかないんです、息抜きとか、そういうのが」
「おや、それはよくないですねぇ。何でもいいんですよ、心行くまで本を読み散らかすとか、酒に浸ってみるとか」
「酔えないんです、お酒」
「酔えなくても、何となく楽しい気分になりますよ? また一緒に行きましょうね」
 そう言って微笑みかけてくれる彼に、不器用に笑い返す。そして手持ち無沙汰になって立ち上がった。彼は目を瞬かせて八戒を見上げる。その視線を真っ直ぐ受け止められなくて、視線を少しずらして曖昧に笑った。
「……コーヒー、淹れますね」
「あ、すみません」
 彼の優しい視線から逃れるように背を向けて、キッチンへと向かう。薄暗いそこに電気を点けて、コーヒーメーカーに向かった。豆の入った袋を引っ張り出して、セットする。スイッチを入れて、雫が落ちてくるのを静かに待った。途中、気になってキッチンから視線をリビングへと向ける。彼は顔を俯け、手元の何かを操作していた。携帯電話だ。その瞬間頭を過ぎったのは黒髪の、肉食獣を彷彿させるあの男だった。自分と同じで常に孤独だった彼をあっと言う間に攫っていってしまった。
 耳に届く、ボタンを押す音とコーヒーの雫の落ちる音に、無性に物悲しい気分になった。

「……どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 コーヒーを持ってリビングに戻った時には、既にメールは打ち終えたのか彼の携帯電話はテーブルの上に置かれていた。その八戒の目線に気付いたのか、彼は小さく苦笑して携帯電話を見た。その白いボディが蛍光灯の光を弾く。
「食事はちゃんとしたのかって、いつも煩くて」
 二人でいるのに離れている気がするのは、あの男のせいだ。こんな風に考える度目付きが変わる自分を、悟浄は玩具を取られて癇癪を起こす子供のようだと言った。否定するつもりはない。結局自分は思春期の頃に何かを学び忘れてしまって、今この歳になっても未だ大人になりきれていないのだ。
「どうしてあの人が良いんですか」
「……どうしてでしょう。自分でもよく分からないんです。だけど、僕にはあの人しかいないから」
 そう言って彼は笑う。どうしてそんな風に笑うのだろう。どうして自分ではいけないのか。何だか苦しいような思いに襲われて、彼の隣にくずおれる。不思議そうにこちらの様子を窺う彼の濃密な気配に、息が詰まった。彼の、シャツに包まれた肩に額を押し当てる。
「僕にもあなたしかいないんです」
「どうして」
「あなたの他に、僕には」
「あなたはもう、楽になっていいんですよ」
 彼に心を囚われることは苦痛ではない。寧ろ、他のものに簡単に彼を攫われてしまうことの方が辛かった。凭れ掛かる自分の背を、彼の手がそっと撫でてくる。その優しい温度に泣きたいような気分になった。暫く静かに八戒の背を撫でていた彼は、小さく笑って八戒の頭に頬を擦り寄せてきた。彼の吸う煙草の匂いがして、ずっと欲しかった温度に理性が決壊しそうになる。奥歯を噛み締めて、額を彼の肩に押し当てて滲み出しそうな視界を耐えた。
「ずっと一人でした、父も母も、一番はお互いでいつも僕は二の次で。中学生の時、あなたの存在を知ってからいつか探し出せる日をずっと待っていたんです」
 大人になって自由が利くようになったら、父も母も関係なくその兄の手掛かりを探そうと思っていた。しかしどうしても掴めなかったその人が、その人の手が今すぐ傍にある。なのに、素性が知れて、彼が自分に侮蔑の視線を向けるのかと思ったらどうしようもなく怖くなった。だからといって、彼に辛く当たって、意地を張っている間にあの男に簡単に持っていかれてしまった。彼が悪いのでも、あの男が悪いのでもないことは分かっている。彼は、自分に出会ってすぐに弟だと分かったという。なら、その時すぐに、正直になっていれば。
「……ごめんなさい、八戒」
 自分の背を撫でる手が止まり、そう小さな声で彼が囁くのが聞こえた。その声に、八戒はゆっくりと身体を起こす。そして視線を下に俯けた兄の顔を見つめた。蛍光灯に照らされて彼の白い肌が青褪めて見える。
「僕なんかより、ずっと苦しかったですよね」
「……っ、そんなじゃ……」
 決して自分は不幸自慢がしたいわけではない。俯いた彼に何か声を掛けてあげたくて、しかし何も掛ける言葉を持たない八戒は声を詰まらせた。視界が滲む。咄嗟にそれを堪えようとして俯き、口を押さえる。押さえていなければ、何か出してはいけない言葉が漏れてしまいそうだったから。俯いた視界が水分で潤んで、それが少し回復したかと思うと、視線の下にあった天蓬の膝が濡れていた。それを震える指先で拭う。その指先を、彼の冷たい手に包み込まれた。見上げた彼の顔に浮かぶ感情の種類が分からなくて、混乱する。
「……天蓬……?」
「僕にはあの人しかなくて……だけどきっと、あの人には僕以外にも沢山あるでしょう」
「じゃあ天蓬は、もしあの人がいなくなったらこの世に未練がなくなってしまうってことですか? そんなの嫌です」
 彼にもし裏切られたら、天蓬はまたあの日のようにふらりと消えてしまうというのだろうか。そんなことになったら、自分はあの男をそのまま放っては置けないだろう。たとえ、自分が犯罪者になったとしても。彼に包まれた手を見下ろし、きつく握り締めた。八戒がそっと顔を上げると、彼は少し困ったような顔をして八戒を見下ろしていた。
「……あの人と会って、僕はすっかり弱くなってしまったんです。何かあったとしても、もう自ら消えることなんて出来ないでしょう」
 彼を変えたのは、やはりあの男なのだ。憎いし、妬ましい。だけど、それを面に出すつもりはなかった。感情を封じ込める能力は昔から卓越していた。それが役に立つ時が来た。あの男がいつかぼろを出して、天蓬が自ら彼から離れるまで全てを封じ込めて、笑顔を浮かべて待つつもりだ。彼から落ちてくるまで、黙ってゆっくり見ていようじゃないか。強張った口元を、俯いたまま歪めてみた。それが思いのままに動くのに安心して再び、彼の肩へと自分の額を擦り寄せた。
「……天蓬、忘れないで下さいね。たとえいつかあの人があなたを必要としなくなっても、僕にはいつまでもあなたが必要なんです」
 彼の、八戒の指先を包み込む手に力が篭る。顔を彼の肩に伏せたまま、静かに八戒は微笑んだ。涙はすっかり、乾いていた。
 十年以上前からずっと焦がれ続けてきたものを、そう簡単に渡せるものか。









兄弟のはなし。はちが黒い。      2006/11/20