雪の降り積もる音を知っている。白い匣に閉じ込められた様な無音空間の中、さく、さく、と音がするのである。そんな中で心の臓が懸命に凍えた身体中に血液を送る。そんな、強く硬い鼓動が耳の奥で鳴り響く中、身体中が透明な白に覆い尽くされていく。このまま雪に覆われて、雪に混じってしまえないだろうか。しかし自分のような汚れた分子がが白に交わることなど不可能かも知れない。そんなことを考えていると、遠くから微かな雪の降る音を掻き消すように、ざくざくと積もった雪を踏み抜く軍靴の音が身体に振動として伝わって来た。乱雑で、風情の欠片もないまるで煩わしい現実の象徴のような音がする。
 自分を現実に連れ戻しにくる、圧倒的な存在感を持つ男だ。いつからかその男が歩く音だけで分かるようになった。何時だって彼は僕を見付け出す。部屋の中から、林の中から、殻の中から、沈み込んだ精神の中から、意図も容易くその逞しい片腕で以って僕を引き摺り出す。それが決して不愉快なわけではない。彼を疎んでいるわけではない。しかし、こうして現実逃避をする一人きりの時間が自分には不可欠であることも事実だった。そして、そこから連れ戻してくれる誰かが必要なことも。彼がやりたくてやっている役割ではないことも知っている。だから尚更、辛い。
「凍死志願か」
「……御免ですね」
 がん、と頭に軽い衝撃が来て、軍靴で蹴られたことを知る。しかし怒るのも瞼を開けるのも億劫で、何とか声だけで彼に反抗する。生への意欲が極端に低下している。このまま身体を冷やしていたら冬眠状態に陥るのかも知れない。それはそれで興味深い。しかしもしそうなったとしたら彼は自分をきちんと上へ連れ帰ってくれるかな。それともそのまま埋めて、見なかった振りをして帰ってしまうだろうか。ふと、先程の蹴り以来一切の動きを見せない相手の様子が気になって薄目を開いてみると、彼は一歩もその場から動かず腰に両手を当ててじっと此方を見下ろしていた。目を刺すような純白で目が焼かれる中、黒い塊がずんぐりとそこに立ち尽くしている。厚ぼったく動きを妨げるほど長い軍支給の黒いコートが嫌味な位に似合っている。彼は黒が似合う。自分なんかはひどく陰鬱な顔をしているものだから黒なんて余計に陰気に見えるだけでこうはならない。精悍で無駄な肉などない顔立ちは宛ら黒い獣。その獣が今僕を値踏みしている。助ける価値のある物かどうか。若しくは喰う価値もない物かどうか。そして彼は笑った。それに対して笑い返したかったのだが、顔面の筋肉がどうも云うことを聞いてくれない。何とか薄く開いた唇から吐息だけが情けなく漏れて、白く視界を濁らす。
「結局そういうことをしながら俺に置いて行かれるのは嫌なんだ。お前は賢いから」
「まあね」
 溜息のような声しか出ない。漏れる吐息で生まれた結露がコートの襟元に付着し、皮膚が濡らして気分が悪い。黙って言うことを聞け、この体。態々彼が少ない時間を縫って僕のお守を買って出てくれていると言うのにこれでは面目が立たない。それでなくとも、彼に与える対価すら思い浮かばない自分なのに。大将には心底申し訳ないと思っている。普段口を開けば捻た言葉しか出てこないものだから言葉にして伝えたことはないのだが、本当に感謝している。左遷されて自分のような欠陥者のお守をさせられて、本当に何と言ったらいいか、不憫だとしか言い様がない。しかし多分、誰より同情を嫌うであろう彼にそんなことは言えなかった。幾ら周りから冷血だと謗られようとも。
「放って、下さい……直に帰ります」
「そういうわけにはいかねえだろ、集団を乱すな。さっさと立て」
 その言葉に続いて、先の討伐で負傷した左肩を蹴り付けられる。じんと痺れるような痛みが指先まで伝わったが、庇うような気にもならなかった。じっとりと軍服の下の包帯が湿ってくる。傷が開いた。指は無事に動くのだろうかとふと不安に駆られ、指先に力を込めてみる。指の関節が油の切れた機械のようにぎくしゃくして、ギイギイと音が鳴っている気がした。流石は欠陥人間だけある。無理に動かした指先はがたがたと震える。それは痛みのせいなのか寒さのせいなのか。多量の失血で常温を保てない体が、まるでブリキのボディのように思ったように動かない。唯一自由に動く眼球で人影を求めた。
 彼はただひたすら静かに、此方を見下ろしている。攻撃的な白の中に存在しながらそれに全く染まず存在する漆黒。服も髪も眸も、底のない黒だ。真一文字に引き結ばれた唇はどんな言葉も紡ぐ気配がない。その視線の前で、自分は酷く小さなもののように感じられた。今、自分の生死が全て彼の手に掛かっているような。それは支配者の目だった。
「動けないん……です、よ」
 痰が絡んでひゅうひゅうと嗄れた声は雪の音にすら負けそうだ。淡雪の表面を撫ぜていく風が頬を刺す。聞こえなくてもいいと思った。どうせそのうち諦めて帰るだろう。どうせ、自分が一日二日不在であろうが誰も気が付かない。こうして、静かに、存在を消して。彼を僕という重荷からそろそろ解き放たなければならない。彼は優秀な軍人だ。そもそも僕はお守が必要なほど駄目な軍人なのだろうか。彼が現れるまではそれなり、うまくやり過ごせていた。それなのに、彼が矢鱈めったら僕を甘やかすものだから。いればいたで役には立つが、彼がいなくても別に死にはしない。誰だ、彼をこんなにも傍に近付けるようにしたのは。
 馬鹿者。僕自身だ。
「で。どうして欲しい」
「……放って、置いて」
 その瞬間、音はしなかったが、激しい熱と痺れが左肩から指先に向かって走った。先程蹴られた肩の傷を同じように蹴られたのだ。多分、彼は爪先を軽く当てた程度だろう。しかしその軍靴の重みと硬さが相俟って傷口に大きな衝撃を与えた。しかし、痛いと感じたはずなのに自分の表情は殆ど変わらなかった。表情筋が引き攣ったように動かない。奥歯もうまく噛み合っていない気がする。容赦のない男の顔を見上げて、眼球まで固定されてしまったような気分になった。
「手当てしねえとお前腕腐るぞ」
「腐る前に、凍り、ます」
 その言葉に彼は面白くなさそうに片目を眇めた。どうやら彼にしては珍しく大分機嫌が悪い。あまり下手に刺激すれば怪我をした肩をその軍靴の厚い底で踏み躙られかねない。そうしたら今度こそこの腕は落ちるかもしれないと思いながら、その顔を暫く見つめていた。ああ、しかし雪に焼かれた目が痛い。ぼんやりと緑に染まる視界に一定しない視点を彷徨わせながら、否応無しに震える唇から何とか息を吐き出す。そして痛む目を少しでも和らげようと瞼を伏せた。
 その瞬間、深く吐き出される息の音と共に真っ赤に染まっていた瞼の裏が暗くなる。自分により近く、覆い被さる気配に咄嗟に目を開くと、先程よりぐんと近い位置に男の顔があった。しゃがみ込んだ状態で彼は先程と寸分違わぬ不機嫌顔で此方を見下ろしている。思ったよりも近かったために視点が合わず、思わず目を細める。それが食べられるのか毒なのか、注意深く検分する野生動物のような顔だ。その浅黒い頬も血色が悪い。近付いたせいで唇がやけにかさ付いているのが目に付く。吐き出されている息はやはり、自分と同じく白い。彼と自分とに同様の熱が通っているというのが嘘のように思える。全く違う生き物の様に感じられるのに、と思っていると、徐に黒いグローブに包まれた彼の手が顔の前に翳され、体が覚えた痛みで反射的に目を閉じる。
 覚悟した衝撃は来なかった。ただ、冷たさに麻痺した頬に何かが触れる鈍い感触だけがあって、そろそろと瞼を恐々としながら開いた。視界の下に彼の手があって、しかしその表情は殆ど変わっていない。どうやら頬を抓られている様だった。頬の感覚が殆どなく、痛みは感じない。ただ何かが触れている感じがする。その表情と、頬を抓るという軽い行為が上手く頭の中で結びつかなくて発する言葉を見失った。その真摯な視線を受け止めながら、先程まで自分を蔑んでいるように見えていたその眸は、どうやら違った感情を宿しているように感じられた。その黒い眸の下、微かに震えた唇から囁くような声が発せられるのをぼんやりと見つめる。
「寒くねえのか、こんなところに一人で」
「……よく、分からな」
「んで、痛くねえのか」
「まひ、してて」
 その言葉に彼は初めて顔を歪めた。切れ長の目が細められ、眉はぴくりと跳ね上がる。自分より彼の方が余程寒そうなのに、と思う。余計な肉の削ぎ落とされた鍛え上げられたその体は寒冷地には適さないだろうに。僅かにしか開かない唇の隙間から細く息を吐き出すと、彼の顔が一瞬白く曇った。
「……一人で自虐してんじゃねえよ」
 吐息で曇った空気で、その時の表情がよく見えなかった。
「どいつも、こいつも、……馬鹿ばっかりだ」
 ざく、と雪を押し潰す音がして身構えると、負傷したのとは逆の腕を鷲掴まれて勢い良く引き起こされた。今の今まで硬直していた体を無理矢理引っ張り、体位を変えられて体の其処彼処が痛みを訴え始める。痛みに顔を顰めていると、ぐいと顎を掴まれて彼と真っ直ぐに向き合わされた。その黒い双眸がひたと僕を捕らえる。
「口に出して訴えてみろよ。痛えって」
 彼が何を言っているのかすぐには飲み込めなくて、その真っ直ぐな目を見つめ返した。そこには意志のない、揺らいだ眸をした間抜けな自分が映っている。飲み込んだ後はどう答えようか考えた。実際、痛い、寒い。ならば痛い寒いと言えばいいのだろうか。喚き散らして、彼に訴えればいいのだろうか。そんなことを、彼に。
 言うべき相手ではない。言える相手でもない。そして、自分は、そんなことを言える立場ではない。
「おとな、ですから」
 薄く唇を開くと細かな震えが止まらなかった。それなのに吐き出された言葉は妙にクリアに響いた。瞬間、彼の表情が一瞬泣き出す寸前の子供のように歪んで、少しだけ、本当に良かったのだろうかと迷いが生じた。しかし、これ以外のことが自分に出来ようもない。弱音を吐かないことが強さだと信じる程青くもない。しかし形振り構わず何かにしがみ付く程に老いてもいなかった。出来ることなら弱みなど誰にも見せたくない。自分の中、うんと奥深くに沈めて、ふとした瞬間その塊の冷たさにはっとするくらいでいい。
 顎を捕らえていた手が離れる。しかし腕を掴む手は離れず、そのまま強く上に引き上げられた。その力のままに立ち上がると少し強い力で体を叩かれて、ぱらぱらと体に付いた雪や氷が落ち、足元の新雪の上に跡を残していった。
「帰るぞ」
 そのまま背を向けた彼を、ぼんやりと見つめた。厚く積もった雪を踏み分けながら、白銀の中を去っていく背中をすぐに追えなかった。凍り付いた足がなかなか動かない。手足の先の感覚が戻らない。グローブの中で凍傷を起こしているであろう指先を見るのが憂鬱だった。黒い背中は遠くなっていくのに、声も上げられない。引き留める言葉がないからだ。唇からは音のない吐息ばかりが漏れた。
(とまって)
 雪を踏む音がふと止んだ。振り返る後ろ姿に、思わず息が止まる。少し不機嫌そうに、しかしいつものような優しい光を宿した眸が細められ、ふっと伏せられた。遠くからでも彼が深く溜息を吐いたのが見えた。そして少し早足で自分の足跡を踏みながらこちら側に戻ってくる。そして再び腕を取られ、引っ張られた。
「捨て犬みてえな顔してんなよ」
 それなら、あなたは拾ってくれたんですか、といつものような軽口を発する気にもなれなかった。彼に腕を引かれるまま、先程彼の辿った足跡を歩いていく。見れば、彼はその横のまだ踏み均されていない新雪をまた新たに踏み進めている。何だって周りのいいようにして、自分を後回しにする。彼のそういうところが好意的でもあってそういう八方美人がむず痒くなる程憎くなることもある。誰にだってこうやって手を差し伸べていては、身が持たないだろうに。全てを救うためなら自分を擲つ様な、そんな馬鹿な相棒なら必要なかったのに。
 ふと、半歩前を歩いていた彼が振り返り、自分の頬骨の上を突付いてみせた。
「顔、凍傷になってる」
「……ゆびも」
「だろうな。馬鹿なことしたからだ」
 それきり彼は黙って、僕の手を引いてまた相変わらず半歩前を歩く。そういえば隊員達はどこへ行った。よくよく考えれば彼の性格からして先に帰らせたに決まっている。疲弊し切った隊員達を、勝手に消えた僕を探すためにこの極寒の中に放置することなど有り得ない。そしてこんなぼろ雑巾のようになった僕を隊員に見せまいとしたはずだ。僕のしたことでもし讃えられることがあるのならそれは彼の力量を素直に認めて隊長に据えたこと。そして潔く身を引いたこと。ただそれは誰のためでもない、自分一人が突っ走ることでしか部下を守れない僕と、そのせいで今まで散々な目に遭わせて来た隊員達のため。もしも自分がいなくなっても安心であるように。より一層の部下達の安全を確保するために。そのために捲簾は最も優良なピースだった。それが、ある日突然“左遷”という形でこの手に転がってきた。それだけだ。トップの資質があり、才能、実力と言動の釣り合いが取れている。何より彼ならば皆文句を言わず付いてゆくだろう。もしそこが絶望の淵だったとしても。
 捲簾のことなんて何一つ考えちゃいない。のに、彼が屈託なく僕に笑いかけてくるのが、痛い。何も与えていやしないのに与えられるのは怖い。見返りを求めるなら求めればいい、彼が残した功績の分だけ、僕は対価を与えるつもりでいるのに。そう思いながらも時折彼を突き放してみては結局差し伸べてくれるその手の温度を確かめている。
「あーさみさみ、お前のせいだからな」
 彼の露わになった耳が真っ赤になっている。後々痒くなりそうだ。
 分かっている。彼が何も見返りを求めないのは、僕が与えうるものの中に彼が欲するものがないからだ。彼にとって僕の存在価値はどれ程なのか。利用価値はあるのか。彼ほど頭が良ければ、ギブアンドテイクの成り立たない関係をこれほどだらだらと続けるとは考え難い。それでも彼は三日と置かず、僕の部屋をノックする。そして本の山に埋もれた僕に、手を差し出す。
「あなたの方が、余程馬鹿ですよ」

 それでもまた願っている。
 明日もまた、溜息混じりに差し伸べられるその手があるように。

 確かめるように強く握った掌を、彼はそれ以上の力で握り返して来た。









捲簾から逃げたいのに離れて欲しくない天蓬。と、たまにはちょっと言葉に出して頼って欲しい捲簾。
radical…この上なくすばらしい(俗語)
09/03/10