死などあり得ないこの場所で、俺の感覚はすっかり麻痺してしまっている。
 肉が抉れ、大量の血が溢れ出して骨も幾らか折れている。白い肌が彼のものか、敵のものか分からない赤に塗れている様を見て、美しいと思ってしまった。そして、足元に肉片が頽れるような音がしたことでやっと我に返ったのだった。同じく怪我だらけの部下たちが必死にその肉片を起き上がらせている。ああ、死してしまえば彼とてこんな肉片と化すのか、と何だか急に頭の中が冷えた。
「大将、早急に元帥の手当てを!」
「……この場で処置は出来ない。上へ連れ帰れ」
「大将は……」
「俺がこの場を去るわけにはいかない」
 この小隊の総責任は軍大将であり、隊長である捲簾にある。その自分がこの場を離れることは出来ないのである。訝しげに、少し焦ったような様子で自分を見上げる部下に、余裕で笑って見せた。すると彼は僅かに不快そうに顔を顰める。不謹慎だと言いたいのだろう。しかし彼はそのままその表情を押し留めると、姿勢を正し短く敬礼をして、その血塗れの肉片を担いだ。そしてその厳しい表情のまま、低い声で言う。
「……先に帰還致します」
「任せる」
 そう言って捲簾は、彼らに背を向けた。まだ後始末が残っている。
 あの後、最後の妖獣を封印し終えた後。砂塵が止まない中、部下たちはある一つの事に気付いて顔を青くしていた。一人敵陣へと乗り込んでいった彼等の敬愛する元帥が行方不明だという事に。彼が突入していってからすぐに、敵陣の様相が変わり、暫く攻撃が止んだ。つまり彼の戦略は功を成したのだ。ただ、その本人が帰ってこない。相当数の傷を負っているはずで、未だ囚われたままになっているのかも、既に命を絶たれているのかも分からない。諦めと絶望に包まれる部下たちの中、腕組みをしてじっと正面を見つめていた捲簾の黒い双眸に小さな黒い影が見え始めたのは、少し経ってからの話だった。
 ゆっくりと砂塵の中から、身体を引き摺るようにして現れた彼。彼の辿ってきた足跡は赤く、右腕はぶらりと垂れ下がっていた。頑丈に出来ているはずの軍服も切り裂かれいくつか肌が露わになり、血に塗れている。白い肌が赤く濡れて、美しかった。
 生を信じていたわけではない。死んでいるかと思っていた。ただ死んでいると信じたくなかった。またあの熱は腕の中に戻ってくると信じた数刻前の自分が裏切られるのが怖かった。しかし。
 死にに行けと命じたのが、自分だという現実が、重く痛く冷たくて、哀しかった。
 昔、西方軍に来る前、戦場で大怪我をしたことがある。結局は助かったのだが、暫く絶対安静になってしまった。その後、久しく通っていなかった娼館へと足を運んだ時の事。馴染みの娼婦に軽い気持ちで挨拶をすると、彼女は途端に泣き出した。死んでしまったのかと思った、とほろほろ泣いた。その時の複雑な気分を忘れはしない。こんな風に泣いてくれる人がいるという事を喜ばしく思うでもなく、自分は思ったのだ。その存在が重い、と。何とも薄情な事だ。しかし勝手に心配して泣いて、何故そんな危険を犯したのだと自分を責める女を、冷めた目で見下ろしたのを覚えている。縋りつくその手の細さと白さに苛立った。何の穢れも知らない手。命の危機などに晒されたこともない平和惚けした女。あまりに違い過ぎる温度に逆に頭が冷めた。この複雑な感覚を共有出来る相手などいるのだろうか、と思っていた。そしてきっとずっと、その相手を探していたのだ。

 そして数刻後、白いベッドに横たわる姿を壁に寄り掛かったままじっと見つめていた。病的な白さだ。清潔感を出すためとはいえここまで白づくめだと医務室というのは居辛いものだ。顔半分は白いガーゼが当てられ、頭には包帯が巻かれている。身体の方はといえば肌が一体どれだけ露出しているだろうと言うくらいに包帯だらけである。首まで引き上げられた真っ白な布団の中で、彼はただひたすらに美しくあった。極端な血液の不足で肌はぞっとするような白さで、しかしその中で何故か一際赤く濡れている唇があった。普通血液が減ったらまず唇が青ざめるものだろう。しかし彼の唇は、まるで今さっき舐めたばかりのように濡れて、赤かった。
 まるで今さっき、生き血を啜ったばかりのような。
 目がいかれているのかも知れない。目をきつく瞑って指を目頭に当てた。その瞬間、無音の空間の中で小さく衣擦れの音が聴こえた。
「ご迷惑、おかけしました……」
「……第一声がそれか」
「けんれん」
 無意識に腕を上げようとして、彼はふと顔を顰めた。腕にも傷を負っているのである。ゆっくりと壁から背中を離して、彼の枕元に歩み寄る。そして布団からはみ出した彼の腕を布団の中に収めてやった。
「無理するな。事後処理はもう終わってる」
 横たわったまま、彼はゆっくりと瞬きをした。鳶色の右目に自分の顔が映る。左目は包帯に覆われていた。赤く濡れた唇が、何かを言おうとするように微かに動いた。手を伸ばして、行き場を失った子供のような目をする彼の額を撫でてやる。彼は少しだけくすぐったそうに目を細めた後、再び最初と同じ言葉を繰り返した。
「あれだけの規模で、負傷者一名だ。大したもんだろう」
「皆は、無事ですか」
「ああ、目を覚まさないお前の様子を窺って数分置きにここに来る。何か入用があれば何なりと、と言っている。何か欲しいものは?」
「では、“あなたたちの元気な姿”とでも言って、全員早めに休ませて下さい。負傷しているのは僕だけではないでしょうから」
「泣いて元帥万歳なんて言い出さなければいいがな」
 捲簾がくつくつと喉で笑えば、彼も大きな眸を細めて僅かに頬を緩めた。捲簾は部下と軍医に報告してくる、と言って踵を返した。背後で彼が、お水が一杯欲しいです、と掠れた小さな声で(それでも今の精一杯だろう)言うのに、少しだけ目を伏せた。
 軍医に意識が戻ったことを報告し、今か今かと報告を待っていた部下達に彼の無事を告げると制止する間もなく彼らは歓声を上げた。彼の伝言を告げると、予想していた万歳とはいかなかったが泣き出す者までいて、やれやれどうしたものかと苦笑した。この有り様を彼が知ったらどう思うだろうと考えれば何だか愉快だった。彼は慕われている自覚が全くないから、そんな事は有り得ない、と首を振るだろう。
 水をタンブラーに一杯汲み、医務室へと戻る。ドアにはまだ面会謝絶の札が付いたままだったが、少し考えた後、その札をそのままにして捲簾は部屋の中へと入っていった。彼は目を瞑っていた。両手は腹部の上で組まれていて、何だか縁起でもない想像が頭を過ぎる。捲簾は、外側が僅かに水滴で濡れたタンブラーを、目を瞑ったままの彼の額に当てた。途端にぱちり、とその大きな目が見開かれる。
「水」
「……ありがとうございます」
「でも、飲めないだろう」
「……あ」
「ここは口移しでいくか?」
「すみませんが、温い水なんて飲んだら戻してしまいそうです」
 それはそうだ、と捲簾は笑った。しかし生憎ここには吸い飲みがない。周りを見渡してみると、消毒済みのトレーの中に大振りなスプーンが置かれているのが見えた。効率は悪いが、乾いた口内を満たすには十分だろう。棚に近寄り、スプーンを一つ手にとって傍のタオルで拭った。そしてそれとタンブラーを持って彼を振り返る。ベッド脇に丸椅子を引き摺って来て、それに跨るようにして座った。
「効率は悪いが、我慢してくれ」
「あ……はい」
 意味を理解したのか、珍しく彼は大人しくぱか、と口を開けた。そんな幼い仕草に苦笑して、タンブラーからスプーンで水を掬って、口の中に垂らした。大きなスプーンだったため、それでも幾らか飲めたのかこくり、と白い喉が動いた。それを目の端に捉えて、捲簾はタンブラーをサイドテーブルに置いた。そして空いた左手を彼の顔に伸ばして、顎に添える。頭で理解する前に身体が動いていて、彼がきょとんとした顔をしているのを見る間もなかった。彼の顔が自分から数センチのところにある。
 ちゅ、とやけに愛らしい音がして、ゆっくりと彼の顔が離れていく。呆然としていた彼は、戸惑ったように眉を寄せた。ただでも赤かった彼の唇が吸われたことで余計に赤くなり、艶めいている。
「……急ですね」
「悪くないだろ」
 彼が訝る顔をしたのを見て、捲簾はクッと笑った。
「お前が死ななくて本当に良かった。屍姦なんていう非道に手を出さずに済んだ」
「……ネクロフィリアとは、美しくないですね」
 一瞬呆気にとられたような顔をした彼だったが、すぐに笑みを取り戻して穏やかに微笑んだ。もし死んでいたら死体を犯されていたと告げられて笑っていられる神経が分からない。しかし、捲簾も笑った。手を伸ばして彼の頭を撫でる。
「早く傷を治せ。全身にキスし直さないとな」
「おや、本気だったんですね」
「勿論」
「死人に手は出しても、怪我人には出さないのですね」
 そう面白がるような口調で言われて、思わず目を瞠る。彼は穏やかに笑っていた。挑まれているのか、誘われているのか。一瞬手がぴくりと動いたものの、捲簾は目を瞑って息を細く吐いた。
「……ああ。酷くしちまいそうだからな」
「優しくして下さるつもりなんですか?」
「甘やかしたい気分なんだ」
 そう言って笑う。
 嘘だ。本当は酷くして酷くして、壊してしまいたい衝動に襲われている。彼が少しでも生に執着する瞬間が見たい、それだけの事で。
 じっと捲簾を見つめていた彼は、ゆるりと微笑んだ。
「壊してしまって構わないのに」
 赤い唇が言葉を紡ぐ。責める言葉でもなく甘い言葉でもなく、ただひたすらに許す言葉を。
 許して欲しい。お前に死に急がせる言葉しか告げられない俺を。大事に大事に、優しくして抱き締める事も出来ない俺を。
「あなたがそんな風に泣くのなら」


 どうか。




(そんな顔をしてそんなことを言うな。お前の全てを手に入れたような錯覚に陥ってしまう)




 許して。









執着愛。         title by 亡霊 * 2006/6/27