自分も幾度となく世話になり幾度となく心配を掛けて来た婦長、その人の前に跪き懇願した。周りには医師も衛生兵もおり、その誰もが彼の一挙手一投足を固唾を呑んで見守っていた。そうまでして願い、漸く手に入れた椅子で、彼は今度こそ大人しく部下の真白な顔を眺めていた。今まで彼は過去の狂行を理由に部下への面会を断り続けられていた。しかし当初は彼も医務棟の職員も、こんな遣り取りを繰り返している内にきっとあの人は目を覚ますだろうと、思い返せば随分と軽く考えていたのである。だが、一週間、二週間、通い詰める度に彼の表情は深刻になり、それを事務的に追い返す職員達の顔色もどす黒くなっていった。
 目を覚まさない。装置を装着すれば生の波動はきちんと観察出来るのに、その瞼は未だ開くことはなかった。
 矜持をかなぐり捨ててまで自分を跪かせたあの衝動は一体何処から来たのだろうと考えた。握ったその指先はぞっとするほどに冷たく、白い。その指先に自分の熱を移すように力を込めて握り、離す。その指は容易に赤くはならなかった。所詮は別の生き物。こうして触れ合う程度では何も出来はしない。
 その指先から体幹へと視線を滑らせていく。腕には入院当初幾度となく刺された点滴針の痕が赤みを帯びた黒い痣として残っている。緩い薄青の寝巻きに包まれた薄い胸元からは彼の生命を繋ぐためのラインが挿入され、そこから滴下される栄養液によって漸く生き永らえている。自発呼吸の弱い彼に代わって無粋なマスクがその顔を覆う。どれも今の彼にはなくてはならないものだ。それらが装着されているからこうしてモニターには彼の生の波動が表示され続けている。戦闘の最中、敵の刃によって切り落とされ不揃いだった彼の髪は誰かが丁寧に切り揃えたのか、以前よりも短く、整えられていた。今は呼吸も栄養摂取も身繕いも、全てを他人の手に委ねてしまっている彼はよく出来た人形の様にただ静かに美しくそこに在った。
「天蓬」
 だだっ広い白い空間に独り言のように響く声。いつか彼に届くようにと毎日発する声。それは祈りでもあった。返事がいつか帰ってくる日までいつまでも続く祈りだ。部下は調子の良い日はその呼び掛けに対して僅かに指先を動かして反応を返してくる。そのほんの僅かな動きに全神経を傾け、その結果に一喜一憂した。
 思えば、こんなにも彼一人に対して自分から関心を寄せたのは初めてかも知れなかった。彼とつるんでいたのは単純に居心地が良かったからだ。会いたくなれば会いに行った、時間がなければ幾らでも会わない期間は開いた。そのどちらも彼を思っての行動ではない。ただ自身の都合。いつだって彼の、捲簾に対する扉は開いていたからだ。だから都合の良い時ばかりその扉を叩き、彼とその居場所を求めた。そしてどんなに憎まれ口を叩きながらも彼はそれを拒絶することはなかった。それが何故なのか、一度も考えなかったわけではない。気付かなかった振りをした。彼の移ろう心の動きを、見て見ぬ振りをして通り過ぎた。
「怒ってんのか」
 怒っているなら怒鳴ってくれ。殴って欲しい。今ならばどんな仕打ちも甘んじて受け入れよう。彼が再び自分と同じ時を取り戻すことが出来るのなら。
 面倒を避けて、彼の痛みを悪戯に突付くような真似ばかりしていた。反面その傷口から溢れ出す血は見えない振りをして。なあ、そんな俺に嫌気が差したのか。口も利きたくなくなったのか。冷えた彼の左手を両手に包み、自分の手ごと額に強く押し付ける。この冷たさは俺への罰なのか。
「天蓬、……頼むよ」
 冷たく静かな月の晩。下弦の月がじっと一人の道化を照らしている。

(「ごめんのいえないわたし」より続き)







ネタ帳より。      2009/10/30