その奔放さが、堪らない。

「ああ、捲簾大将」
 部屋を綺麗にされ、読みたかった本が行方不明になり仕事をするしかなくなった天蓬は、朝からむっすりと口を噤んで執務机に腰掛けていた。ただひたすらにぽんぽんと判を押し続ける機械的な作業が続けられている。書類の中身は読むには読んだらしく、あとは署名と判だけのようだ。テンポ良く判が叩き付けられる音を聴きながら、悠々とソファに腰掛けていた捲簾は暫く目を瞑っていた。そして真面目にやれば仕事も早いのだと感心しながらちらりと彼を横目に眺めていた時、急に声を掛けられ慌てて顔を上げた。
「何でしょう、元帥」
「あなた、持ち馬はありますか」
「は」
「あるなら早めに西方軍の馬屋に移しておいて下さいね。折角騒ぎが落ち着いたのにまたあなたが東方軍の敷地へ入っていって騒ぎを起こしたりしたら、やっと静まった騒動が再燃するでしょう」
 つまり、早めに切れる縁は切っておきなさいということらしい。彼らしい台詞に笑いつつ、もう一度背をソファに預けた。
「はいはい……そういえば、ここの馬屋って誰が世話してるんだ」
 そう、だらりとソファに腰掛けていた捲簾が言うと、書類と睨めっこをしていた天蓬はその目をぱちぱちと瞬かせて小さく首を傾げた。
「当番制ですよ。喧嘩になりますからね」
 ほら、あのくるくる回す当番表もあるんです、と天蓬はへらへら笑った。この男が自ら画用紙を鋏で切って作ったんだろうかと思うと何だか不思議な気分になる。戦場での顔、上官と共にいる時の顔、部下と接する時の顔、自分と共にいる時の顔、本を読んでいる時の顔、その全てが全て、異なって見える。
「で、それが何か」
「俺の馬、かなり暴れん坊なんだけど。俺の言うことも殆ど聞かねぇくらいだから世話係の言うことなんて尚更聞くわけなくて、暴れて毎回怪我させてさ」
「最悪」
「そうなのよ」
「まあ、あなたが世話をすればいいんですから」
「おいおい……」
 そう言い放った天蓬は、捲簾の存在を無視して元帥の判を交互に朱肉と書類に叩きつけていく。彼の神経質な友人とは違って写りなどはあまり気にしないらしい。
「でも、見てみたいですね」
「何」
「そのじゃじゃ馬を」
 書類に視線を落としたまま、天蓬はそう言って笑った。滅多に見たい、だとかやりたい、だとか、そういった感情を本以外に求めることのない彼が、自分の馬に対して関心を示したという事が少し驚きで、まじまじと彼を見つめてしまう。その視線に気付いたように顔を上げた彼は、訝しげに捲簾を見て首を傾げた。
「何か」
「あ、いや。んじゃ、それ終わったらついて来いよ。じゃじゃ馬っていうレベルじゃないけどな」
 自分の馬は手の付けられない跳ね馬ではあったが、彼に誇れるくらいには能力のある馬のはずである。何を考えてか少し微妙な顔をしている捲簾を見て、天蓬は少しだけ口元を緩めて笑った。

「……あ」
「どうした」
「僕、東方軍の大将に会えないんでした」
「何ぃ?」
 その三十分後捲簾は、天蓬と二人の部下を連れて東方軍の馬屋に向かって歩いていた。馬屋で汚すと面倒だと言って白衣を脱ぎ、討伐以外で身に着けない軍服に腕を通した天蓬は一際周囲の目を引いた。天蓬の信捧する者の中には「(捲簾が来る)前派」「(捲簾が来た)後派」「白衣派」「軍服派」となるものが存在するらしい。中でも軍服は討伐の際にしか見られないため、西方軍の者はともかく、他軍の者は殆どといってもいい程目に出来ない希少なものなのだった。颯爽と廊下を歩く珍しい彼の姿に、すれ違う部下たちもそれぞれ目を奪われ、足を止めている。
 しかし、突然立ち止まった天蓬はそこから一歩も東方軍へ進もうとしなくなった。それに捲簾が怪訝な顔をしていると部下の片方、劉惟がああ、と頷いた。そして緩く首を振る。
「そうですね、元帥はここで止めておいた方がよろしいかと」
「あ?」
「どうしてだ、劉惟」
 もう一人の部下の明珂が訊くと、劉惟は言ってもいいのか、というように天蓬へと視線を流した。すると彼は軽く肩を竦めて笑った。
「少し前に東方軍の大将にちょっかいを出されて」
「ああ?」
 聞き捨てならない言葉に、背後から天蓬の両肩を掴んだ捲簾は後ろから顔を覗き込んだ。
「ちょっかいって、いつだ、何された」
「僕がいつ誰に何されたっていいじゃないですか」
「よかねーよ!」
 があっと牙を剥いた犬のように天蓬に迫ると、彼は困ったように劉惟に視線を送った。すると捲簾の面白くなさそうな視線もまた劉惟に送られる。片方に縋られ片方に威嚇された劉惟は、困ったように笑って天蓬を見つめ返す。すると天蓬も申し訳なくなったのか、すっかり不機嫌になった捲簾の肩を叩いた。
「……いいじゃないですか。ちょっとお尻を撫でられただけですよ」
「ホントか、劉惟」
「え、あ……」
「嘘吐いてもいいことねぇぞ」
 そう言って目を光らせた捲簾に、今度こそ困った劉惟は視線で明珂に助けを求めた。しかし捲簾にかかるとあっという間にその話術にしてやられてしまう明珂は捲簾に抵抗する術など持たないのだった。そんな部下を見ていた天蓬は、呆れたように溜息を吐いて背後の捲簾の額を指先で強く弾いた。
「でっ!」
「お尻撫でられて腰を抱かれただけです、息が臭かったですね。それに仕方ないじゃないですか、その時は大事な大事な予算会議で、あの場で彼を殴ってたらうちの予算は他の軍の半分にされるところだったんです。それもこれもあなたの妙な武勇伝のせいで……奴らはうちの予算を減らして討伐を減らせば、あなたを西方軍で飼い殺しに出来ると思っていたんです。だから僕が身を張ってこの身にある限りの理性を掻き集めて心頭滅却し悪戯に耐えて、そして予算を毟り取ってきたんじゃないですか」
 そこを突かれると捲簾には反論する言葉がなく、明珂も、その会議に同席して事情を知っていた劉惟も申し訳なくなって口を閉ざしてしまった。定例の予算会議の知らせを受けた天蓬は、本当は大将にも回さなければならない知らせだったのにも関わらず自分のところでそれを止めた。捲簾を会議に出させないためである。そして彼に知られないままに劉惟、そして敖潤と共に会議に出席したのだった。上との“外交”に関しては捲簾よりも格段に上を行く天蓬は、毎回可愛い可愛い猫を何匹も被って何とか予算を確保しているのだ。天蓬自身はそんな猫にころりと騙される上層部がおかしい、と思っている。
「言っておきますけど身体を使うとか下劣な手は使っていませんから」
「次は一緒に出る」
「駄目です。あなたにああいう場所に出させたら碌な結果が出ない。怒って喧嘩して開き直って結局一銭も毟り取れずに帰ってくるに決まってます」
「じゃあ」
「仕返しとか言ってこれから殴りに行かないで下さいよ」
 話術では全く歯の立たない捲簾は、むすっと口を閉ざしてしまった。そして明珂と劉惟に促されて文句を言いながらも馬屋へ向かって歩いて行った。決してそこを動くな、と何度も念を押してから。
(全く……)
 それを愛しいと、思いこそすれ鬱陶しいなど思えなくなってきている自分に、天蓬は笑った。そしてポケットから煙草を取り出して火を点けた。立ち昇る煙が蒼い空に消えた。


「元帥、こちらの書類目を通されましたか?」
「え、ああ、はい」
「じゃあ後処理は我々がしておきますので少しお休みになって下さい」
「書類の提出に行って来ます」
「あ、ちょ」
「たまにはお休みになって下さい」
 集団で天蓬を丸め込んだ部下たちは、そうやって月に何度か半ば無理矢理天蓬を休養させるようになった。それは捲簾が西方軍に来てからだ。仕事は進んでしたいものではないけれど、なくなるとなくなったで何だかつまらないものだ。
「……僕の仕事がなくなっちゃうんですけど」
「元帥は十分過ぎるほどやってますよ」
 ぷくっと膨れる天蓬に、黎峰は微かに笑ってそう言った。そしてブランケットを手渡して、横になるように促す。そんな黎峰の笑顔を見つめて、天蓬は何だか釈然としない想いを抱えた。面白くないような、少し憎らしいようなもやもやした感情が渦巻く。
「あなたたち、変わりましたね」
 捲簾が来てから、とそう一人ごちる。変えたのは捲簾なんだと思うと、何だか少し悔しくてそう呟く。その言葉が少し拗ねたような風に響いたのに気付いて天蓬が顔を顰めていると、とうとう声に出して笑ってしまった黎峰は、天蓬の冷たい視線を受けながらも笑って言った。
「大将が来てから変わったのは、元帥ですよ。我々は元帥が変わったから、変わったんです。そして、大将自身も」
「え」
「我々はいつだってあなたと一緒に戦いたいと思っていましたよ」


(……捲簾で変わったのは僕で、僕が変わってみんなが変わって、僕で捲簾が変わって)
 ゆっくりと紫煙を吐きながら、少し前のことを思い出す。黎峰の言ったことが今でもよく分からない。
(僕が捲簾如きで変わりますか。まあ、捲簾については過去のことは知りませんから変わったかどうかなんて分かりませんけど)
 考えているうちに瞼の裏に浮かんだ憎たらしい顔に向かって、煙を吹きかけた。
「元帥ー!」
 遠くから声を掛けられて、天蓬は手にしていた煙草を地面に落として、ブーツの踵で踏み消した。
「はいはい。あれ、捲簾は」
 走って天蓬の元に駆けて来た明珂と劉惟は、顔を顰めて言った。
「これが、噂通りの暴れ馬でした。あれは確かにじゃじゃ馬っていうレベルではありませんよ」
「どうにもこうにもならないんで、落ち着けるためにひとっ走りしてからこちらの馬屋に向かうと仰ってました」
「そうですか……じゃあ、先に行ってましょうか」
 噂通りの暴れ馬、という言葉に、天蓬は少しだけ気分が高揚した。楽しみだ。あの屈強な捲簾でも捻じ伏せられないほどの暴れ馬というのは、一体如何程のものなのか。

 西方軍用の馬屋に辿り着くと、微かに藁の匂いがする。空を見上げて深呼吸しながら、小さく肩を回した。
「そろそろ来ると思うんですが」
 そう、傾きかけた夕日を見上げながら明珂が言うのに、天蓬は耳を澄ました。さわさわと草木が鳴く音に混じる、嵐の欠片。
 そう、蹄の音がする。
「――――……お前ら、そこを退け!」
 そして重なって聞こえたのは焦ったような彼の怒鳴り声。それに驚いた明珂と劉惟は反射的にその場から離れた。が、天蓬はそこから一歩も動かず、蹄の音の聞こえる方向をじっと見つめていた。子供のような、きょとんとした目をして。
「元帥、危ないです!」
 蹄の音が大きく聞こえるようになり、遠くにおぼろげに馬の影が見える。上に乗っているのは見間違えることもない、自分の上司。
「……天蓬、どけって!!」
 叫び声と共にものすごい勢いで馬が天蓬に向かって真っ直ぐに走ってくる。このままだと体当たりされて死ぬかなぁなどと呑気に考えて、天蓬は頬を指で掻いた。それを離れて見ていた明珂と劉惟は、ついに焦れて天蓬のいる方に向かって揃って走り出した。そして劉惟は麻酔銃を抜き、銃口を馬へ定めながら天蓬を守るように前方に立ちはだかり、明珂は天蓬の腕を引いた。
「元帥、早く!」
「お前らまで何やってんだ!」
 捲簾の怒声が聞こえたが、天蓬はやはり逃げることなく、それどころか前方に立つ劉惟の前に回りこんで、右手の人差し指一本で劉惟の肩を押しやって捌いた。そして正面に視線を向け、走ってくる馬の目を笑みさえ浮かべて見つめる。乗っている捲簾も、必死で馬を制止しようとしているが上手くいかないらしく、最悪の事態を想像して顔を歪めているようだ。そして明珂と劉惟もぎゅっと目を瞑って衝撃に備えた。
 砂塵が舞って、沈黙が流れた。
 明珂と劉惟は何の衝撃もないことを、捲簾は段々と頬に当たる風が弱くなっていくことを不思議に感じてゆっくりと目を開く。
 天蓬は真っ直ぐに立っていた。その真正面の馬とじっと見つめ合うようにして。その距離は十センチもない。
「……よ……よかった……」
 本気で天蓬を跳ね飛ばしてしまうと思っていた捲簾は、緊張の糸が切れたようにがくりと馬の上で肩を落とした。明珂と劉惟もまた大きく溜息を吐いて安堵の色を顔一杯に浮かべている。
「元帥、無茶をしすぎです!」
「本当ですよ!」
「ああ、すみません」
 背後にいる二人の部下が情けない顔をしながら怒っているのを、天蓬はにこにこして振り返った。二人は軽く目に涙すら浮かべている。実は本気で有り得ぬはずの死を覚悟していたのかもしれない。
「でも、……僕を助けようとしてくれましたよね。ありがとうございます」
 そう言ってきらきらの笑顔で微笑まれたものだから、怒るどころかそれ以上言葉を発することも出来ずに、顔を赤くして部下二人は項垂れたのだった。しかし捲簾はそうはいかなかった。安堵に緩みかける顔を厳しくして唾を飛ばす勢いで吠えた。
「……こら天蓬! 命を粗末にするんじゃねえ!」
 しかし、天蓬は捲簾には全く見向きもせずに、穏やかな笑顔を湛えて馬に微笑みかけた。黒々とした毛並みが美しく、深い漆黒の双眸は赤い夕日に煌いてその奥に灼熱の炎を灯したようだ。その美しさに天蓬はうっとりと溜息を吐く。しっかりと筋肉の付いた無駄のない身体は最早造形美の域だ。ぺたぺたとその身体を触っていた天蓬は、じっとその馬が自分を見つめているのに気付いた。そしてじっと馬の目を見つめて、馬の顔の前に手を翳してみる。すると馬はその目を何度かゆっくりと瞬かせて、目を瞑り鼻先を天蓬の手に擦り寄せた。
 そして彼は、ゆっくりと天蓬の元に跪いた。その衝撃で、馬の上から転げ落ちそうになった捲簾は、馬と天蓬に向かってじっとりとした視線を向けた。
「あなたが、捲簾の馬ですか」
 捲簾のことは綺麗に無視をした天蓬は、しゃがみ込んでそう声を掛ける。すると、人の言葉は分からないはずなのに頷くように彼は小さく唸った。それを見て、捲簾も眉を顰めて唸り声をあげた。
「……お前が人に跪くのなんて、初めて見たぞ」
「暴れ馬って聞いてましたけど、大人しくていい子じゃありませんか。それにさっきだってそのまま僕らを跳ね飛ばすつもりなんかなかったようですよ」
「何で分かる」
「何となく。それにあなたが無関係な者の命を次々に危険に晒すような悪い馬を飼い続けているとは思えませんし」
 語尾にハートマークが付きそうな調子で告げられて、捲簾はそれ以上どう追及したものかと言葉に詰まった。そして数秒後、どう言ったところで彼の会話力に敵うはずがない、と口を噤んだのだった。
「だから避けなかったんですか」
「それにしても、無茶です」
 無駄に肝の据わっている異常に大胆な上官に、部下二人はげんなりと肩を落とした。もしも彼の予想が外れていたら三人揃って吹き飛ばされていただろう、とその大きな駻馬を見上げて、劉惟は身震いをした。
「お前、馬まで誑すんじゃねえよ」
 捲簾がぶちぶちと文句を漏らすのをよそに、機嫌の良さそうな天蓬は心地よさげに目を細める馬の鬣を撫でている。
「名前は」
「瑯(ロウ)」
「へぇ……綺麗な名前をつけてもらって、よかったですね」
 そう言って微笑む顔はやっぱり綺麗で、がっつり怒ってやるつもりでいた捲簾も、横から見ていた二人も、言葉を継ぐ気は失せてしまったのだった。(あの笑顔は……卑怯だ)と、三人揃って心の中で思う。そして、顔を見たのは今日が初めてなのにもう既に手玉に取られている自分の愛馬を見て、捲簾は情けなさに溜息を吐いた。
「この分なら馬屋に入れても平気じゃないですか」
「……や、多分お前にだけだと思うよ。俺は」
「明珂、空き場所ありましたっけ」
「え……あ、そうか。藁を退かせば一頭分は空くと思います。すぐに片付けてきます」
「じゃあ僕も」
 そう言って二人は馬屋に向かって駆けていく。劉惟の方は少々瑯におっかなびっくりの様子で、早々に瑯から離れていった。そんな二人を後ろから眺めつつ、瑯を撫でる手を止めないまま天蓬は捲簾に話し掛けた。
「さっきの走りを見ていても相当馬力がありそうですね……急な減速も見事でした。これは期待出来そうですね」
「まあ、戦場ではな。……素行は悪ィけど」
「はは、やっぱり主人に似るんでしょう」
 戦場では勇敢で力強く有能だが、素行は悪く品位も低く気性は荒い。主人そっくりだ、と天蓬は笑った。
「それにしても、綺麗で格好良いですね。うっかり見惚れちゃいました」
「へえ」
 どことなく拗ねた風の捲簾に、天蓬は少しだけ首を傾げる。
「何ですか、褒めてるのに」
「それはどうも。けどたまに俺のことも褒めてくれたらいいじゃん」
「前褒めたじゃないですか」
「もっかい」
「嫌です」
 むっすりと膨れてしまった捲簾を見て、少しだけ天蓬は笑った。褒め言葉は小出しにしなきゃ意味がないじゃないですか、というのは口には出さずに。

「大将、元帥、場所空きました!」
 馬屋の入り口から劉惟が呼んでいる。それを見て、捲簾は瑯の手綱を引いた。しかし彼は頑として動こうとしない。
「コラッ、動け瑯!」
 力任せに手綱を引いても全く言うことを聞く気配がない。ヒク、と捲簾のこめかみがひくつくのを横目に、天蓬は瑯の元にしゃがみ込んで、顔を覗き込んだ。そして何の邪気もなさそうな綺麗な笑顔で微笑み掛ける。
「ねえ、瑯、行きましょう。今日からあなたの過ごすお家ですよ」
 そう名前を呼んで言えば、瑯はすっくと立ちあがって、ぱかぱかと馬屋に向かって大人しく歩き始めた。その愛馬の後ろ姿を呆然と見つめながら、捲簾は何だか悲しい気分になった。
 夕日が差し込んで赤く染まった馬屋の中に入っていくと、ずらりと並んだ馬たちが丁度餌を食んでいるところだった。しかし気位の高い瑯は、そんなこれから仲間になる馬たちに見向きもせず、つんと澄まして歩いていく。
「どこが空いたんですか」
「奥から三番目です。元帥の馬の二つ手前の」
 その言葉に、捲簾は目を瞬かせた。そして一歩後ろを歩きながら他の馬の様子を眺めていた天蓬を振り返った。
「お前、馬持ってたのか」
「完全に舐めてますね。僕はこれでも普段前線に立っているんです」
 それもそうだ、と呟いた。だけどどうしてもこの男が馬に乗って前線を走る姿が想像出来なかった。それにまだ見たことがない。それはいつか是非見てみたいものだ、と思っていると、前を歩いていた明珂が声を潜めて言った。
「物凄く格好良いんですよ」
「馬がか、天蓬が」
「どっちが、と言うより、元帥が馬に乗るところが。西方軍の者以外は殆ど見られませんからね……あ、そこです」
 一頭ずつに割り当てられた区域の一つが空いている。明珂や劉惟の命令など全く聞かない瑯は、無理矢理に捲簾に引っ張られてやっとその場所に入っていった。少し瑯には狭いかもしれない。
「狭いな……後でちょっと場所を拡げてあげて下さい、明珂」
「あ、はい!」
 そう言って瑯を撫でている天蓬に、捲簾はふと思いついて声を掛けた。
「なあ、天蓬。お前の馬はどこにいんの」
「見たいですか」
 撫でる手をピタリと止めた天蓬はくるりと捲簾を振り返った。そしてじっと見上げてくる。それに素直に頷くと、天蓬は少し考えるような仕草をした後、まあいいか、と呟いて頷いた。
「いいですよ。……こっちです」
 人差し指を上に立てて曲げ、捲簾を呼び寄せた天蓬は、そのまま奥へ向かって歩いていく。その後ろ姿を見て、人に指で指図されても反抗する気にならない自分に少し不思議なものを感じながら、捲簾は憮然とした顔をして頭を掻いた。結局文句も言わずに天蓬の後ろをついていった捲簾は、奥の一際大きく取られた単馬房にある存在に息を飲んだ。
 その区域の前に立った天蓬は、先程と同じように少し上に手を翳した。そしてじっと自分の方を見ている捲簾に気付いて振り返る。
「こちらが、僕の愛馬です」
 そう言うと、天蓬の後ろにいた馬は、ゆっくりと捲簾の前に跪いた。
「……すげえ、な」
 言うことを聞かない馬だが、捲簾はそれでも瑯を優秀で、上を行く馬はいないくらいだと思っていた。しかし目の前の馬は、思わず姿勢を正さずにいられないほどの威圧感がある。見事な黒鹿毛にどっしりした重圧感。落ち着いていて初めて自分の前に現れた捲簾にも敬意を表すだけの余裕があるようだ。余程躾がなっているのだろう。
「名前、雛駿(スーシュン)と言います。安直ですが」
「雛駿」
 一歩歩み寄ると、ゆっくりと瞬きをした雛駿は立ち上がり、じっと捲簾を見つめてきた。彼の主人によく似た深い鳶色の双眸。思わず見入っていると、天蓬は横から手を伸ばして、雛駿の顔を両手で包むようにして自分の方を向かせた。
「雛駿、彼が僕の上司です。いざという時は彼の言うことも聞くんですよ」
 顔を近づけて天蓬が言うと、雛駿は了解の意を示すように一度ぱちりと瞬きして、天蓬の顔に鼻面を擦り寄せた。
「頭も良いんだな」
 そう褒めると、天蓬は嬉しそうに小さく笑って、褒められましたね、などと言いながら雛駿に微笑みかけている。今日は随分と普段とは違う表情を見ている気がする。自分の前ではこんな風に何の含みもない笑顔なんて見せない。“自分以外の誰も信用していない”笑顔では、ない。
(何だかなぁ)
「それにしても、綺麗な馬だ」
「小さい頃、産まれ立てで捨てられそうだったのを譲って頂いたんです。で、天馬の調教をしていた知人に頼んでこっそり育てて貰っていたら、こんなに大きくなって」
 それで少し納得がいった。実は長年の付き合いなのだろう。そして雛駿は幼き日の天蓬への恩義もある。それがこの絆の深さを思わせるのだろう、と思った。雛駿の、天蓬への愛おしげな視線の理由もそれで何となく理解出来る。
「少し、触ってもいいか」
「え、ああ……どうぞ」
 天蓬は少しだけ雛駿の前から離れると場所を譲った。捲簾が近付くと、ぱちりと瞬きした彼は大人しく捲簾が触れるに任せるといった様子だった。自分や天蓬に危害を加える人物かどうか一瞬で判断しているようだ。そして有り難くも危険のない人物として認定された自分は、触れるのを許されたらしい。
 さらさら流れる毛並みはまめに手入れされているようで、撫でる指に逆らわずに流れる。触れた身体はみっしりと筋肉がついていて強靭だ。これが戦場を駆け抜ける姿はさぞ勇壮で美しいに違いない。しかも、手綱を引くは自分の美しい副官である。捲簾が触れるに任せて目を伏せていた彼は、何かを思案している捲簾を少し振り返って目を開けた。
「……あ、ああ、ワリィ」
 言っても分からないだろうか、と思いつつ謝ると、それでも彼は分かったと言うようにぱちりと一度だけ瞬きした。
「雛駿は言葉が分かっています」
「え、マジで」
「というか……多分瑯もあなたの言葉は分かってると思いますが」
 天蓬はそう言いながら、奥の倉庫から小さな紙袋を持って現れた。そしてその袋の中からころころと白い塊を取り出し、その塊を手の平に載せて、雛駿の口元に近づけた。角砂糖だ。雛駿が天蓬の手の平をぺろりと舐めると、角砂糖はすぐに消えた。
「最近少し飼い食いが悪いそうなので心配なんですが……ああ、もし馬の調子が悪くなったら李偉に相談して下さい」
「それって人専門の医者じゃねぇの」
「いいんですよあの人は。知識が広いですから」
 そう言って微笑んで、天蓬は白い袋に封をして雛駿の区域の隣にある倉庫に放り投げた。不思議な気分だった。今日は、見たことのない彼の姿ばかりを見ている気がする。
「あんた、何か馬には甘いのな」
「は」
 言おうかどうか悩んだが、捲簾は思いきって彼に告げてみることにした。その言葉を聞くと、一瞬きょとんとした天蓬は、何ともいえない表情をして雛駿へ手を伸ばした。様子のおかしい主人を心配そうに見つめる雛駿は慰めるように天蓬の頬に鼻面を寄せた。縦に長い馬屋に夕日が真っ直ぐに差し込み、天蓬の白い横顔が赤くなる。眼鏡の横から見える目は、何の感情が浮かんでいるのか分からない。じっと雛駿を見つめていた天蓬は、ゆっくりと捲簾へと視線を動かして、微かに笑った。それはやっぱりいつもの“誰も信用していない”笑顔で。そのことに少しだけ落胆した自分に、自身で驚いた。さっきの笑顔が、雛駿ではなく自分に向けられたら、そうしたらどんなにいいだろうと。
「雛駿は、僕を裏切りません。誰もが僕を見捨てても、この子だけは絶対に僕の味方でいてくれて、助けてくれる気がするんです」
「……」
「まあ深く考えないで下さい」
「……あんた、何を考えてる」
 自分の背後から夕日が差し込んでいるせいで、自分より少し背の低い彼は自分の影ですっぽりと隠れた。眼鏡に遮られた彼の目は窺うことが出来ない。
「さあ」
「分からないのか」
「……そう、ですね。自分でも分かってないのかも」
 そう言って微かに笑った彼は、困ったように頭を掻いた。その目は何もかも諦めてしまったようなそれで、思わず捲簾はそのまま彼の頬を張りたくなった。
 どうして俺の目を見ない。こっちを見ろ。その目に俺を映せ。俺という存在を認識しろ。

「捲簾大将」
「あ?」
「この天界は、あなたのような優しい者ばかりだと思わないで下さい。必ず相容れない者も存在するんです」
「……俺は、別に優しかねえと思うけど。んで、あんたは自分を優しくないと思うわけ」
「僕ほど非情で冷たい男はこの天界にいない」
「……ふうん、どこ触っても冷たいのか」
 そう言って、彼の頬に手を伸ばす。彼の左目の下の頬骨の辺りに指先を軽く押し当ててみた。人形のような男だと思っていたけれど、触れるとその頬は存外に柔らかかった。当たり前のことなのに少し驚いてしまう。そして心地いい体温がそこにあった。その上にある一対の眸は冷たかったけれど、思った以上にその男は、普通の人間だった。
「温かいじゃねえか」
「ふざけてますね」
 ぱしん、と天蓬の手が自分の頬に触れている捲簾の手を打ち払う。夕闇の中、鋭い鳶色が捲簾を睨み付けた。
(……やべえな)
 背筋がぞくりとする。ピリリと背中に電流が流れたような快感に似たものを感じた。この男を安心させて、宥めて、懐かせてみたいとも思うのにこのまま無理矢理抱き込んで癇癪を起こさせて泣かせてみたいとも思ってしまう。弱く、従順になったこの男を捕らえても意味がない。怯えて、暴れて、自分に背を向け逃げて行こうとする彼を無理矢理に引き倒してこの腕の中に捕らえたい。凶暴な感情が胸の辺りで暴れて止まらない。
「あんたの内側が見たい」
「馬鹿な」
「全部見せてみろよ、俺に」
 時間が止まったような心地、というのはこの時以来、感じたことがない。天蓬は捲簾の脇をすり抜けて出口を目指して歩いていった。背後で、さくさくとブーツが藁を踏む音が聞こえ、明珂や劉惟が天蓬と会話する声が聞こえる。
「……ああ、振られちまったか」
 自嘲するように呟いて後頭部を掻き毟ると、こちらをじっと見ていた雛駿と目が合った。その目は、自分を責めているのだろうか。
「……なあ、雛駿」
 馬は何も話さない。だけどその目が全てを饒舌に語っている気がした。雛駿はひたすらに天蓬のことが大事で、愛しくて、傷つけたくないのだと。その目に見つめられると、自分の不甲斐無さを責められているようで胸が苦しくなる気がした。
「お前の主人は……どうしてああなんだ」
 一歩ずつ、ゆっくりと雛駿に歩み寄った。そしてゆっくりとその鬣に手を這わせる。
「傷つけるつもりはないんだ。だから」
 何を馬に言い訳してるんだ俺は、と一人ごちて、捲簾は俯いて笑う。雛駿が僅かに身動ぎして足踏みをしたせいで、かさ、と敷いてある藁が音を立てた。
「お前は、あいつの気持ちが分かるのか」
 そんなのおかしい、というのも分かっていた、しかし本当にそうなら少し羨ましいと思ってしまった。
 西方軍に来てからの自分は少しおかしい。以前の部下にもそう言われた。自分でも自覚がある。それもこれも、あのよく分からない男のせいだ。上官の竜王は感情が読めず、言うことも前の軍の上官と殆ど変わらない。それに、どちらかと言えば生理的に苦手なタイプだった。何か切欠があればまた過去のように殴りかかるような事態がないとは言い切れないだろう。別にそうでもよかった。またどこかに左遷されても構わないと思っていた。あの本の雪崩れに巻き込まれるまでは。
 あの男の真意が知りたい。何層も重ねられた彼の仮面を全て毟り取って、彼の裸の素顔が見たい。
「よく分かんねえんだ、俺も本当は」
 じっと雛駿は捲簾を見つめている。今後の行動によっては、捲簾はこの馬に蹴り殺されかねないだろう。
「何だろうな。奴を見てると苛々するんだ。かと言って、嫌いなわけじゃない、と思う」
 嫌悪感はない。むしろ興味を引く対象だ。見目は素晴らしく良く、不満はない(というか、最上級だ)。頭も良いから会話をしていても話が通じずに苛立つことがない。ただ、彼に対して感じる苛々、とは少し違うのだった。例えるなら金魚すくいのような。掬えた、と思えば、するりと身をかわして逃げる。やっと捕らえた、と思えば、紙を突き破ってでも逃げていく。そんな苛立ちだ。
「……逃げてんじゃねぇよ……クソ」

 あの奔放な馬を捕らえる術をこの手に。












一度は書きたいネタ。しかしタイトルから激しく外れた……!       2006/4/3