春。桜。私の世界に鮮やかな黒を教えた人。煙草。酒の香。強い黒を持つ男。

「天蓬、……天蓬、さっさと起きろ」
 柔らかな綿に包まれたような穏やかで変化のないまどろみから引き上げられ、天蓬はぱちぱち、と二度大きく瞬きした。目の前には黒い軍靴。こんな場所に置きっ放しにしただろうか。吐息の音がして、紫煙が目の前を覆う。しまった、煙草を放って寝てしまっていただろうか。とりあえず消火をしなければ本が全滅してしまう、と天蓬は更なる眠りを求める身体に鞭打って、よっこいしょ、と身体を起こした。
「……お前はじーさんか」
 吐息が頬を撫でて、鼻を煙草の香りが突付く。きょろ、と辺りを見渡すと、丁度自分の正面に黒い塊が鎮座しているのが見えた。
「……あれ。いつからいたんですか」
「そうですねえ、元帥がお目覚めになる五分くらい前かな」
「おやおやそれはご苦労様です。で、一体何用で」
「書類を急かそうと思って来た。……けどそこまで行くレベルじゃねえなさっさと風呂入って来い、飯用意しとくから」
 そう言うとその黒い男は、猫の首根っこを掴むようにして天蓬の白衣の襟を掴んでずるずると部屋の端へと引き摺っていく。軍人にしてはひょろいにしても、とても小さいとは言えない自分をこうも容易く引き摺りまわすのだから相当な力の持ち主だと知れる。まあそうでなくても彼の豪腕には幾度となく救われているから骨身に沁みて理解しているのだが。飯、と言ってきっと握り飯でも用意してくれるのだろう。銃を自在に操って、そしてその手で今度はちまちまと料理をするというのだから大した主夫だ。
 ぽい、とゴミでも捨てるように脱衣室に放り込まれて、文句の一言でも、と思いながら振り返ると、丁度バタンと音を立ててドアが閉められたところだった。踏んだり蹴ったりである。唇を尖らせた。
 天蓬は諦めた。今の彼に逆らうのは得策ではない。一つ文句を言えば十の説教が待っていることは言わずもがなである。食事を三日ほど抜いたことも、その間、つまり三日風呂に入っていないのもバレバレらしい。白衣を脱いで、それを洗濯籠に放り投げた。ネクタイを引き抜いてワイシャツも同じように籠に入れる。靴下、パンツ、下着を同じく脱ぎ、久しぶりに入る浴室のドアに手を掛けた。で、湯を頭から被ってから眼鏡を外し忘れたことに気付いた。高温は眼鏡によくない。外した眼鏡を、細く開けたドアの外に出して、もう一度シャワーのコックを捻った。
 風呂は基本的に嫌いではない。ただ、やりたいことをする時間を風呂に入るために削るのが嫌いなのだ。そんなことを考えながらバスタブに湯を溜め始める。中ではアヒルさんが沈没と浮上を繰り返しながら回転している。
 これを初めて見た時にあの男が、微妙な表情をした後、「ホントアンタって分かんねえ」と呟いたことを思い出す。分かる必要はないと思っていたのだが、最近では彼も何も言わなくなった。たまに彼がこの部屋で風呂に入って行くことがあるが、その時バスタブにアヒルが浮かんだままになっているのも知っている。カエルの灰皿だって割と丁重に扱って、掃除の時に丁寧に水拭き、乾拭きをしているのを知っている。案外気に入っているのかも知れない。その割に天蓬の趣味が悪いとあちらこちらで言い触らしているようだが。悟空にまで言っているというのは一体どうなのか。一体どんな会話の流れでそこに至ったのだろう。
 まあ気にするほどのことではあるまい、と天蓬は目を瞑った。熱い雫が頬を打つ。薄く開いた目には、蒸気で白くなった鏡の隙間に映った生気のない自分の顔が見えた。
(ひどいかお)
 鏡の自分へ微笑みかけてみれば、鏡の中の自分(彼)が、自分を嘲笑った気がした。

 新しいシャツを引っ張り出して、身体を拭くのもそこそこに脱衣所を出た。洗いたての髪に流れてくる風が冷たい。自分にしてはなかなか綺麗な方の室内を歩いていると、濡れ髪に吹き込んできた花弁がくっつく。うざったい、と思ったが、ほろうのも面倒で、そのまま頭にタオルを被せた。見れば、執務机が簡単に片付けられ、その上に皿に握り飯が二つ載ったものが置いてあった。しかし特に食欲が湧くでもなく、ソファに崩れ折れるように座り込む。
(食べなくても、死なない)
 背凭れに頭を凭れ掛けて、天井を仰ぐ。朽ちることない建物には、染み一つなかった。呑まれる、感覚に襲われる。
(吐きそう)
 顔を顰めて、毛先からひたり、と頬や眼鏡に落ちた雫をタオルで拭う。邪魔だ。いっそ、今鋏で切ってしまおうか。そう思い立つと、それが名案なような気がして仕方がなくて、天蓬はふらりとソファから立ち上がった。そのまま机に向かい、上の食物に目もくれずに引き出しを引いて中にある無機物を取り出した。大きめで重い裁ち鋏だった。ずっしりとしたそれを手に、天蓬は頭に被せていたタオルを取り、顔の脇に張り付く髪を一房無造作に掴み取った。鋏を開いて、それを間に挟む。
 そして、その鋏を握り締めようとした瞬間、目の前の扉が大きく音を立てて開いた。
「……何やってんの、お前……」
「切ろうかと」
 面白いくらいに目を見開いた彼に、天蓬は何をそんなに驚くのか、と首を傾げ、そのまま鋏で髪を切り落とそうとした。が、慌てて駆け寄ってきた男に手を掴まれ、鋏を奪われる。迷惑そうな視線を向ける天蓬に、彼は目を剥いた。
「何やってんだお前は!」
「あなただって、よく邪魔だって言うでしょう」
「それは、そうだけど……切りたいなら乾いてから均一に揃えてやるから、今は止めとけ」
「坊主にして下さいね」
「は」
 冗談だと思ったらしく、彼はそのまま笑い出した。しかし天蓬の表情が一向に変わらないこと、撤回の言葉が出ないことに、暫くしてゆっくりと笑いを収めた。そして今度は少し引き攣ったような笑顔を向けて、確認するように言った。
「……えーと……冗談だよな?」
「冗談だって言いましたか、僕が」
 鋏を奪われてやることを失った天蓬は、つまらなそうに彼に背を向けてソファに舞い戻った。そして先程と同じように力なく座り込んで、適当にタオルで髪を拭く。邪魔だ。今度バリカンを用意しよう。そのまま呆然と天蓬の動きを見ていたらしい彼は、暫くしてからソファの方へ歩いてきた。そして上から、天井を見上げている天蓬の視界に割り込むように覗き込んでくる。
「じゃま」
「……また何かややこしいこと考えてる?」
「いつもです」
「だろうけど。……そうじゃなくて」
 今度は天井ではなく、少し浅黒い彼の顔を観察する。肌は、少し黒めだがすべすべしている。睫毛は結構長い。目は強い光を持った漆黒。如何にも女好きしそうな、男らしさ。整っていて凛々しい、と言えば、それまで。特に興味を持つこともない。なのにどうしてこう、自分が彼に惹かれるのか解らない。そして、こんな風に彼に惹かれて止まない自分が、嫌いだ。元から自分は好きではない。ただ、こうして彼の存在に動揺している時の自分は、酷く、醜かった。醜くて、鬱陶しくて仕方がない。そんな自分がどうしても好きになれない。
 相変わらず彼は、自分の心の中を読もうとするようにじっとこちらを見下ろしている。読めるはずなどないのに。
「お握り、ありがとうございました。もういいですよ」
「何が」
「だから、僕のお世話です。もういいですよ、オシゴトは終わりです」
 だからもうどこかに消えてくれ。そういう意味を込めて言ったはずだったが、うんと頷いた彼は、ソファの後ろを離れたかと思うと今度は前に回ってきて、天蓬の隣にどっかりと腰掛けた。
「終わりだって、言いましたけど」
「だからここからはプライベートだろ」
「折角のプライベートなんですから、お出掛けしたらどうですか」
「……お前、俺がいたら嫌なの」
「嫌ですね」
 つい本音を漏らすと、彼は怒ったような顔をした。しかし、僅かに表情に滲み出る悲しそうな色が拭い切れていなくて、(ああ、また優しい人を疵付けてしまった)、と天蓬はまた少し、自分が嫌いになった。
「……すみません。少し神経がささくれ立ってるんです」
 そう言って上を向いたままタオルで顔を隠す。濡れたタオルが少し冷たくて丁度いい。暫くそうしてぼうっとしていると、不意に濡れた髪を大きな手が撫でたような気がした。そこからぴりりと痺れのようなものが伝わってくる。
「……どうした」
 男の口調がふわりと優しくなって、彼がきっと酷く優しい顔をしているのだろうということが分かった。返事をしようと口を開いたが、空回るばかりで何も言葉を発することが出来ない。ああ歯痒い。髪を撫でる指が優しくて、羽根で撫でるように優しいのに、天蓬にはそれが棘で刺されているようにちくちく痛むような気がした。
 自分に構うな、とはね付けられたらどんなにいいだろう。けれどそんな風にしたら彼が疵付くのが解っているので、怖くて出来ない。喪いたくなくて、それでも傍にいて欲しくなくて、だけど彼が他の人の傍にいるのも嫌で。なんて我侭な要求だろう、と解っているから口に出せない。呆れられるに、決まっている。
「いつも、本当によく悩むな、お前は」
「……ライフワークなんです」
 やっと言葉を口に出せた、と思えば、それは憎まれ口でしかなかった。タオルの中で顔を顰めたが、彼にそれが解るはずもなく、隣の彼は喉を鳴らして笑った。ふと、彼の指が、自分の額に張り付く髪の毛を取るように、軽く爪で掻くように触れた。ぴくりと指先が跳ねた。思わず跳ね起きなかっただけ上等だろう。そこから電気が走った気さえした。汗が出る。
「……すみません、あんまり触らないでくれますか」
「あ、悪ィ」
 具合の悪い時、気分の悪い時、身体に触れられるのを嫌がるのはいつものことだった。なので然程の抵抗もなく彼は手を引く。彼の熱が遠ざかった。名残惜しい、と思うのは、只の我侭でしかない。
 彼は人に触れるのが好きだった。それは勿論、自分以外であっても、然程仲が良い相手でなくても。するすると人の心に入り込んで、捉えるのが巧かった。それがどうしようもなく憎くて、焦りを感じるのだ。

 彼と身体の関係を持つようになってかなり経った。始まりは只の性欲処理だった。否、始まりだけでなく、今もずっとそうだ。出陣が長引き、下界で丁度いい相手を調達することが出来なかったため、手近にあった自分を選んだだけ。自分が突っぱねたら、今度は別の人の元へ移るだけだろう。自分がいなかったらきっと、他の誰でもよかったのだ。それからずるずると続けてしまった関係は、甘美で、痛みと寂寥感を伴うものだった。あれっきりにすべきだった。しかし関係を求める彼を突っぱねられなかったのは、自分の弱さだ。身体だけでも、なんて、そんな馬鹿げた思いを。
(馬鹿だ)
 あの日、下界で身体を重ねた、それで終わりにすればよかったのだ。二度目を許したせいで、彼は自分を気軽に行為を求められる相手だと思ってしまっただろう。セックスフレンドでしかない。そして求められるままに、三度、四度、と続けるうちに、最初は覚えたはずの胸の痛みすら麻痺するようになっていった。――――愛されていると錯覚してしまうのだ。
(そんなはずない、彼は)
 誰にでもああして優しく触れるのだ。セックスフレンドでしかない自分に対してでも、あんな風に優しく触れるのだから、本当の恋人にはさぞかし優しいのだろう。そう考えるだけでも動悸が激しくなって、胃の方から何かせり上がって来る心地がした。眩暈がする。
 だから、行為の後は必ず痛みが必要だった。あれは只の快感を得るための行為だと、首を擡げる甘えた心に思い知らせるために。だから誰にでも気軽に触れる彼を遠くから見つめた。女性と親しげに話す様子を部下から聴いた。それが功を奏して、何とか自分は立っている。痛みを感じた後は、いつも暫くの間気分が塞ぎこんでしまうことなど、押し隠して。
「腹減ってなくても、少しは食えよ」
「……はい」
 今何かを口にしたら全て吐いてしまいそうだった。彼の言葉にお座成りに返事をして、目をきつく瞑る。
 自分のことを何一つ愛していなくても、行為の最中、この身体だけは愛してくれているのだろう。馬鹿げた話だ。彼が愛するものは全て美しいもの。腹の底からどす黒い自分の中身が、愛されるはずがないことくらいずっと分かっていたはずなのに。
「……ちょっと横になるか」
「平気です」
「あ、さっきの話だけど」
「……何ですか」
「坊主には、しないからな」
 突然持ち出された話に、暫くタオルの下で目を瞬かせる。そういえばさっきそんな話をしたような。
「洗えばこんなに綺麗なんだ。勿体ない」
(綺麗なものか)
 そんなことをさらりと言ってのける彼に、カッと頭に血が昇る。激情のまま酷い言葉をぶつけるのは簡単だった。だけど何とかそれは手の平に爪を食い込ませることで我慢した。そして、なるべく冷静で平坦な声を心掛けて、口を開いた。
「洗っても汚かったら、問題ですよ」
「可愛くねぇ……」
「なら、可愛いお嬢さんの所へ行って下さい。僕に可愛さを求めるなんて、間違ってますよ」
 愛らしさなど、当の昔にどこかへ捨ててしまった自分にそんなことを求められても困る。
「可愛げなんて必要ない」
 人のために自分を変えるなんてそんなことは絶対にしない。自分は自分でしかなくて、自分以外のものに屈服させられるなど屈辱に他ならない。たとえそれが彼相手だとしても。
 二人ともそれから暫く黙っていた。沈黙の中、ふとカチカチとライターの音がして、息が吐き出される音がする。自分も吸いたい、と一瞬思ったが、タオルを取るのは嫌なのでそのまま黙っていた。タオル越しに、煙草の匂いがした。彼が身動ぎして、キシリとソファが軋む。
「……まあ、そうかもな。お前は可愛くないところが可愛いんだし」
 本当に、止めて貰えないものだろうか。ピロートークはベッドの中だけで十分だ。そんな風にされたら現実と夢の境目が解らなくなってしまう。ただの錯覚を真実と信じてしまいたくなる。
 彼は誰にでもこうなのだ、と自分自身に言い聞かせてきた。それももう限界に近い。
「出て行って貰えませんか」
「え?」
「ひとりで、考えたいことがあるんです。お願いします」
 思いの他懇願するような気色が強まってしまった。彼はおかしな顔をしているだろうか。彼は暫く返事をしなかったが、しかし次第に、諦めたように溜息を吐いた。すると、きし、とソファが軋んで、沈み込んでいたソファが跳ね上がった。
「……分かった。今日は帰るわ」
「すみません」
「いいよ。……たださ、手の平に疵付けんのは、止めとけよ」
 ひく、と自分の口元が引き攣ったのが解った。意識が自分の右手に集中する。手の平に食い込んだ爪。血でも出てしまっているのだろうか。だからばれたんだろう。そうに違いない、そうでなければ気付く理由なんてない。
「一人で煮詰まるなよ、何かあったらいつでも呼びつけろ。いいな」
(……やっと分かった)
 その、誰にでも優しいところが憎くて仕方がないのだ。
 彼にとって自分が唯一でないことくらい承知の上なのに、それでも他の誰にでも優しい彼が憎い。優しくされればされるだけ、誰にでもこんなことをしているんだろうと考えて、辛くなる。誰にでも平等に与えられるものなど欲しいわけがない。
 もう来ないで欲しい、と思いつつも、本当に彼が来なくなったら今度は何故来ない、と怒りそうな自分が嫌いだ。
 床の本を避けて、軍靴の音が去って行くのが聞こえる。
(ころしてしまいたい、なんて)
 そんな愛の形は間違っていると思っていた。刹那的な感情に流されて去って行く男の背中を刺す女の話を思い出した。そしてその後、不思議と後悔をしなかったという終わり方。如何にも文学的で現実に有り得ない展開だ、と、そう思っていた。そんなことを考えている自分の横で、バタンと音を立てて扉が閉まる。肩から力が抜けた。顔に掛けていたタオルを取り去ると、少しだけ呼吸が楽になった。ふと見れば、タオルを掴んだ右手は僅かに血が出ている。手当てを、とも思ったが、面倒だったのでそのままそのタオルを手に巻きつけておいた。

 快活に、少年のように笑う顔を思い返しては、苛立ちなのか焦りなのかよく分からない感情に揺らされる。こんな風に人に揺らされるなんて、間違っている。吐き気がする、こんな想いなんて。浅ましい。ソファから伸び上がって、机の上の食物を視界に捉えた。とても口に出来そうにない。彼が作ったのだと思えば尚更。しかしきっと自分はまた処分の方法にも悩むのだろう。捨てるなんて出来ないけれど、腐らせるわけにもいかない。どちらにしても、食べなかったことは彼にはすぐに知れる。ならばそれ相応の理由を用意しなければならない。
(いっそ、本当の気持ちを言ってしまえば)
 そうすれば、彼は今後一切自分に係わらなくなるだろう。好きだなんて、重い言葉に耐えかねて。
 しかしそれを告げた後の彼の拒絶を思うと、それすら踏み切れない自分がいる。臆病で煮え切らなくて、本当に嫌になってしまう。

「馬鹿だ……」
 愚かなのは自分なのか、こんな思いを抱いている自分に気付けないあの男か。











捲簾の好い男ぶりに天蓬、ちょっと悩む。端的に言えば恋患い。捲簾の方はとっくに付き合ってるつもりなんですよね。
テーマは「悩む天蓬」、「物好きな人」。     2006/08/24