人に頼るって、どんなだ。依存とどう違うんだ。一人が誰かに頼り、その誰かがまた誰かに頼り、を繰り返していたら、最後の人は誰に頼ればいい。自分を支えてくれた強い腕はあの日あの夜呆気なく消えてしまった。拠り所をなくした自分は今も一人、両腕を先の見えない暗闇の中に突き出しては何とか寄り掛かることの出来る場所を探している。
 暗闇の中、ふと懐かしい影を見つけて目を凝らした。少し襟足の長い黒髪の青年。今の天蓬よりも幾らか年上だ。彼が心配そうに視線を向けた先には、蜂蜜色の長い髪。並んだ二人の男女はどちらも綺麗な緑の眸を持っていた。
『本当に大丈夫かな、花喃。二人ともまだこんなに小さいのに……』
『大丈夫よ、夜はお母様だっていらっしゃるでしょう。それに、天蓬ももうお兄ちゃんだもの。ねぇ』
 女性の柔らかい微笑みは天蓬に向けられていた。思わず身体を強張らせると、そんな天蓬を見て彼女はくすりと優しく笑った。そして隣に寄り添っていた青年は一歩こちらに近付き、両腕を伸ばしてきた。逃げることもせずにじっとしていると、その両手は壊れ物に触れるように優しい仕草で天蓬の頭を撫でていった。そして温かく笑いかける。
『天蓬、八戒をよろしく頼んだよ。お兄ちゃんだもんな』
『八戒も、――――――』
 父の声ははっきりと聞こえたのに、母の声は突然途中から全く聞こえなくなってしまった。八戒へ何を伝えたいのか、分からない。
 ジャメヴュ。見知った父の顔なのに、まるで初めて見たようだ。父も母も、寄り添う姿は初めて見たカップルのような錯覚に陥る。その姿は幻で、もし手を伸ばしてもこの手はすり抜けてしまって触れられないのではないかと思ってしまう。父の手がするりと身体から離れていって、確かにあった体温が消えていく。父は最後に笑いかけて、天蓬に背を向けた。そして母と並んで共に歩いていく。
 行ってはいけない。予定通りの飛行機に乗ってはいけない。渋滞が起きればいいのに。二人の乗るタクシーが、時間通りに空港に着かなければいいのに。どうか乗らないで、そしてがっかりした顔をして、そのまま家に帰ってきて。
 お父さん。お母さん。

「……ぁ、……!」
 部屋の中はぼんやり明るい。静かな室内に自分の荒い息遣いだけが響いていた。耳元で自分の心臓の鼓動が大きく聞こえて、両手で耳を覆った。心臓が早鐘を打つのを鎮めながら、震える呼吸を整える。そして耳元の大きな鼓動が段々と小さくなっていくのと共に、冷静に周りが見えて来るようになった。ベッドサイドの時計を見ると、時間はまだ六時だ。大抵ぎりぎりに叩き起こされてのそのそと起き上がる天蓬は、こんな時間に目を覚ましたことはなかった。何となく再び横になることが躊躇われて、そのままベッドから出る。篭った空気をどうにかしようと、カーテンを開けて目を眇めながら窓を開ける。朝の少しだけ冷たい澄んだ空気を吸い込んで、一気に吐き出した。
(何ていう、悪夢だ)
 あの事故以来幾度となく見た父と母の夢。それでも最近は心の整理が付いて見なくなっていたというのに。引き金は何だ。やはり命日だろうか。しかし去年はこんなことにはならなかったはず。何事もなく八戒と一緒に墓参りに行った。今年はどうするのだろうか。八戒は受験生で、模試などで忙しい。予定が合わなければ別々に行くしかなかろうか。そうなったら今までで初めてのことである。結局誰より過去に足を引っ張られているのは自分なのだ。
 ぞくり、と朝の風に身を震わせる。そして椅子の背凭れに引っ掛けられていた薄手のセーターを肩から掛けて、部屋から出ていった。

 部屋を出てドアを閉めると、台所の方からぱたぱたとスリッパの足音が聞こえて来るのに気付いた。そしてひょっこりと台所から廊下に八戒が顔を覗かせた。そして驚いたように目を見開いて声を上げた。
「天蓬! どうしたんですか、こんな早い時間に」
 傍から見れば酷い言われようだが、それなりの生活をしている天蓬は言い返すことも出来ずにへらへらと笑った。そして肩からずり落ちかけたセーターを引き上げながら話を逸らすように鼻をひくつかせた。コーヒーの香りがして何だかほっとする。
「コーヒー淹れてたんですか。一杯頂けます?」
「あ、はい! すぐ!」
 八戒が慌てて台所へ戻っていくのを見送りながら、天蓬はゆっくりとリビングに足を運んだ。そして朝日の差し込むリビングに立ち尽くして小さく溜息を吐いた。ソファに腰を落とすと少しだけ埃が舞って目の前でキラキラと輝く。ふらふらと風で右へ左へ動くそれを目で追いつつ、肩から力を抜いた。夢のことなどなかったかのような穏やかな朝だ。そうして暫くぼんやりしていると、キッチンからマグカップを二つ手にした八戒が歩いてきた。その片方を天蓬に手渡してから、八戒は向かい側のソファに腰を下ろした。
「何かお腹に入れませんか? トーストとか……あ、クロワッサンありますよ」
「いえ、お腹は空いてないので」
 そう言うと八戒は俄かに顔を曇らせる。昨日の晩、天蓬が夕飯にあまり手を付けなかったことを気にしているのだ。
「そんなこと言って……天蓬、最後に固形物を口にしたのいつですか?」
「ええ……と、昨日のお昼にこんにゃくゼリー一個……」
 八戒が微笑んだ。天蓬は怯んだ。そしてその怯え様をたっぷり堪能した後、ゆらりと立ち上がった八戒は台所へと戻っていった。冷蔵庫の開けられる音がして、今度はコンロにフライパンが掛けられる音がした。きっと意地でも何か食べさせる気だ。
 まだ少しどきどきする心臓を押さえて、天蓬はソファの背凭れに身体を預けた。八戒は見た目も父に似ているが中身も父によく似ている。少し人見知りはするけれど、打ち解けた相手には本当に優しくて親身になってくれる。心配してくれるのは嬉しいが、逆に頼り切れない自分が何だか情けない。自分が彼に寄り掛かったら何かが壊れてしまいそうで怖いのだ。今までのスタンスを保ち続けることで二人の関係を維持してきた。せめて彼が独り立ちをするまでは彼にとっての“頼れる兄”でいなければ、と思っている。父から託されたただ一つの役目だ。
『天蓬、八戒をよろしく頼んだよ。お兄ちゃんだもんな』
 あの夢は戒めだったのだろうか。甘えた心を持ち始めた自分への叱責か。本当はもっと父と母に甘えていたかった。しかし八戒は親に甘える期間を永遠に奪われたままなのだ。だから、自分の淋しさなど贅沢なものだ。
 台所で起きていた物音が止まった。そして足音が近付いて来る。顔を上げると、大きな盆を手にした八戒が戻ってきたのが見えた。クルトンの散らされたレタスやトマトなどのサラダに、表面を軽く焼かれてバターの香りを漂わせるクロワッサン、そして透き通った黄金色のスープ。目の前に並べられる皿に軽く手を合わせて、ゆっくりとテーブルに置かれたフォークを手に取った。フォークの先に半分に切られたミニトマトを刺して口に運んだ。その一挙一動を見守る視線に気付いていたが、構わず口に入れて咀嚼する。久しぶりに口に入れる有機物に、思った以上に空腹だったことに気付いた。
「美味しいですね」
「……もう、ただのトマトじゃないですか」
 そうは言いながらも八戒は嬉しそうだ。湯気を立てるスープの入ったカップを持ち上げ、スプーンで一口掬って飲んだ。手製のコンソメスープは、きっと煮込むのに時間も手間も掛かっただろう。頼れない、などと言いつつも、心配を掛けているのは事実だった。別の料理のために買ってきた材料を、急遽天蓬でも口にしやすいメニューに変更したのは何となく分かっていた。かりっと焼けたクロワッサンを手に取って一口大に千切って口にした。少しだけ甘い味がした。
「……八戒?」
「はい、何ですか?」
「本当に、すみません」
 八戒が一瞬息を呑んだ。そして手に持っていたカップをテーブルに戻して、静かに天蓬を見つめてくる。その眸が何を言いたいのか計り兼ねて、天蓬は見つめかえすことが出来ずに俯いた。何に対して謝ったのか。分からないのではない、対象が多すぎて、どれから謝ったらいいのか分からないのだ。
「……何が、ですか?」
「ご飯のことも、お掃除もお洗濯も、最近の変な行動のことも、八戒にいっぱい心配掛けてて申し訳ないなぁって」
 八戒はすぐに首を振って微笑んだ。その行動も予想していたから何と言っていいのか分からなかったのだ。謝れば却って八戒が気にすることも懸念された。だから黙っていようとしていたのだけれど、黙っていられないのはこの雰囲気のせいだろうか。明るく清潔なリビングに温かい食事と優しい弟。少し油断すると弱音がぼろぼろと腕から零れていき、慌てて拾い集めようとすればするほど腕の中から零れ落ちていく。それを一つ一つ拾い集めては、八戒は優しく笑ってくれる。
「ご飯は作るのが好きなんです。天蓬に食べてもらえるのも嬉しいですし。お掃除は部屋が綺麗になるのが好きだからで、お洗濯は干すのが好きだからです。……心配になるのは、天蓬が好きだから仕方がないんです。意識しなくてもね、天蓬のことだから分かるんですよ」
 そう言う弟の顔は強さと優しさに溢れていた。何時の間にこんなに大人になっていたのだろう。知らぬ間に追い越されていたようで何だか嬉しい気分と悔しいような気分が綯い交ぜになって、俯いた。情けない気分になったのだ。ぼろぼろと弱音と共に涙が零れて視界を滲ませた。
「天蓬!?」
 驚いたような声を上げて八戒が慌てて駆け寄って来る。そして天蓬の座るソファの前に膝を突いて、慌てたように顔を覗き込んで来る。目元を隠すように当てた手にそっと八戒の冷たい手が添えられた。汚れるのを避けて眼鏡を外し 、手探りでテーブルに置こうとすると何かにすっとそれを取り上げられた。八戒が受け取ったらしい。小さく眼鏡がテーブルに置かれる音がして、座っていたソファの左側が急に沈み込んだ。少しだけ手を離してみると、左隣に八戒の膝が見えた。背中を優しく撫でる手を感じると、ほっとするような安堵感が伝わってきた。しかしほっとして脱力した途端、抑えるものがなくなって掌を温い水が濡らしていく。
「天蓬……」
 俯いたまま動かない天蓬に、八戒は困り果てたように声を漏らした。リビングにはそれきり沈黙が舞い下りた。そしてずっと静かに天蓬の背中を擦っていた八戒は、沈黙をそっと破って口を開いた。
「ねぇ、天蓬」
 そう言ってからまた、暫く八戒は口を噤んだ。そして躊躇いを振り切ったように再び口を開く。
「天蓬にとって、僕はまだ子供ですか。守らなければならない存在ですか」
 少し固いその声に、天蓬はそっと顔を上げた。八戒は天蓬と目が合うと一瞬驚いたように目を瞠って、そして痛ましげに眉を寄せた。こちらに向かって伸ばされた八戒の指先が、少しだけ濡れていた頬の上を滑る。
「平気じゃないのに僕の前では平気な振りして、無理を重ねてきたのも知ってます。高校の頃も、バイトと勉強で殆ど遊んだり出来なかったでしょう。ずっと苦しかったです。早く高校生になって、自分もバイトが出来るようにならないかってずっと考えてました。毎日家で失神したみたいに寝てる天蓬を見て、何で弟に生まれたんだろうって思いました」
 そこまで口にして、一旦八戒は口を閉ざす。天蓬は、濡れて少しだけ重たい睫毛を上下させて八戒を見つめた。思いつめたような弟の顔に不安を煽られ自然と自分も同じような表情になる。するとそれに気付いたのか、ぱっと八戒は顔を上げてぎこちなく笑って見せた。しかしそれも長くは持たず、すぐにその視線は俯いてしまう。
「高校の頃、天蓬が学校で倒れたの、僕捲簾さんから聞いたんですよ。しかもその日から一週間経ってからです。……我儘だって分かっていても、どうして一番に頼られるのが自分じゃないんだろうってカッとしました」
 そう言ってから八戒はゆるゆると首を振った。そして小さく息を吐いて、そっと微笑んだ。
「まだ自立も出来ない分際で、何を言ってるんでしょうね」
「八戒……」
 それは違う、と慌てて反論しようと口を開くと、それを見計らったように八戒はすっくと立ち上がった。ばたばたと部屋を行き来し、財布や携帯電話などを集めて鞄に詰め始め、そして最後に学生服の上着に腕を通した。全て天蓬に背を向けて行った八戒は、最後に少しだけ天蓬の方を振り返って笑った。痛いような笑顔だった。
「いってきます」
 そして、再び背を向けて玄関に向かおうとする。このまま行かせてはいけない、と咄嗟に天蓬は立ち上がった。
「八戒!」
 鋭い声で呼び止められ、廊下に進もうとしていた八戒の足はぴたりと止まった。それが再び動き出す前にと天蓬は一息に言った。
「……今日は、寄り道しないで帰って来てもらえませんか。話したいことと……話さなければならないことがあります」
 恐る恐る、というようにそっと顔だけで振り返った八戒は、一度だけ恐々と天蓬の目を見つめた。そして小さく頷いて、再び玄関へと向かって歩いていった。暫くしていた物音は、ドアの閉まる一際大きな音を最後に途切れて、家の中には再び沈黙が訪れた。そして天蓬は糸が切れたようにソファに座り込んだ。あんなことを言ってしまった以上、何を話すかしっかり整理しておかなければならない。言わなければならなかったのに言わずにいたことが幾つもある。だからきっと八戒も苦しんでいたのだ。そんなこと、今まで少しも気付かずにいた。
 ふらりともう一度立ち上がり、テーブルの上に置かれた眼鏡を掛け直してからゆっくりとした足取りで自分の部屋へと戻る。ドアを開けると、開けられた窓からさわやかな空気が流れ込んで来ていて気持ちが良かった。ドアを開けたまま部屋に入り、天蓬は真っ直ぐチェストの前へ歩いていった。チェストの上には本が数冊積まれ、その隣に写真立てがある。その写真立てを手に取った天蓬は、徐にその裏蓋を外した。蓋をチェストに置き、中身を取り出す。ガラス板と、写真と、小さなビニール袋。ガラス板と写真も蓋に並べてチェストの上に置いた。そしてジッパーのついた小さなビニール袋を開いた。
 所々焼け焦げた跡がある。濡れてふやけて少し縮んだような、手帳の切れ端だった。もう一つは、殆ど焦げてしまって原形の残っていないばらばらの紙屑だ。どちらも同じ手帳のもの。久しぶりに手にしたその紙切れを、天蓬は暫く静かに見つめていた。




「……八戒、八戒!」
「え、あ、はい!」
 肩を揺さ振られて、八戒は慌てて顔を上げた。そして目の前の赤毛の男に驚いて椅子ごと身を引いた。彼は訝しげな顔をして八戒の様子を窺っている。どうみても怪しんでいる様子の友人を笑って誤魔化しつつ、再び参考書へ目を落とした。
「何だか八戒さん、朝からぼうっとしてますね。どうかなさったんですか?」
 横に座っていた少女が笑って言うのにも笑って八戒は誤魔化した。
「すみません、八百鼡さん。紅孩児さんも」
 前の席の紅孩児が、首を傾げて八戒の顔を窺ってくる。その目には八戒を心から心配している様子がありありと浮かんでいる。何だか少しだけ申し訳なくなって、手にしていた参考書をぱたんと閉じた。
「どこか具合が悪いのか?」
「あ、いえいえ。昨日夜更かししたせいで少し眠くて……中間も近いですし」
「あまり根を詰め過ぎるのはよくありませんよ。夜はちゃんとお休みになって下さいね」
「はい、ありがとうございます」
 そう返事をしたところで、教室の前のドアを開けて教師が入って来る。後ろを向いていた紅孩児と横を向いていた八百鼡は、真っ直ぐ前に向き直って姿勢を正した。八戒も机の上に置いてあった参考書を机の中に仕舞った。いつものように始まる授業に、八戒は少しずり下がってきた眼鏡を指先で押し上げてから黒板に目をやった。事務的に進められる授業に内心溜息を吐く。
 朝はついカッとなってしまって、天蓬を驚かせてしまった。あんなに責め立てるような口調で言うつもりはなかった。そもそも、自分の不満ばかりをぶつけて天蓬の言い分も聞かない自分の態度は駄々を捏ねる子供そのものだ。こんな子供染みたことをしておいて大人扱いして欲しいだなんて。今朝のことを思い出すと頭を抱えて転げ回りたい衝動に駆られる。しかも何故よりによって、あの天蓬が泣くほどに思い詰めている時に。
(……何をやってるんだ、僕は)
 テキストに視線を落として小さく息を吐く。話がある、とは何のことだろう。拗ねてしまった自分に、仕方なく口を開こうとしているのだろうか。そう考えたら妙に沈み込んでしまう。遠くから聞こえる教師の声が、何だかぼんやりと耳に響いた。しかも今日に限ってアルバイトがない。しかしそのまま帰るのには躊躇いがあった。天蓬と顔を合わせるのが気まずい。
 僕に全てが受け止められるのだろうか。




 結局一日家を出なかった、とマグカップを持ったままテラスに立って、柵に凭れながらぼんやりと夕焼けに沈んでいく街を眺めた。
 八戒は帰って来るだろうか。帰って来ないような気がしてきた。重いと思われたに決まっている。自分が一人で負わなければならないものを弟に押し付けるなんてどうかしている。ぐす、と洟を啜ってカップに口をつけた。温くなったコーヒーを飲み込んで、泣きたいような、情けないような気分で夕日を見詰めた。自然と目が滲む。
 申し訳なく思うのは八戒だけではない。捲簾。あの日以来、結局彼から逃げ回る格好になっていた。断るならばさっさとそうしてしまえば彼も新しい恋を見つけられるのに、きっとそれすら出来ずに悩ませてしまっている。結局自分は、彼を自分に引き留めておきたいだけなのではないだろうか。なくしてしまうくらいなら、引き留められるならば恋情でも構わない、と彼に失礼なことを考えてはいないだろうか。
(……我儘め)
 どうして不変ではいられないのだろう。ただ好きなだけではいられないのだろうか。
 苛立ち紛れに、後ろで一つに括った髪の毛を少し乱暴に掻いた。その時、家の中から小さな物音がした。訝しく思って、カップを片手に家の中を振り返る。学生服を着た八戒が、バッグを片手に立っていた。少しだけ、思い詰めたような顔をしている。揺れた眸が戸惑ったように一度俯き、再び静かに上げられた。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
 微笑んでみせると、少しだけほっとしたように八戒も笑った。カップを持って、テラスから家の中へと戻る。思う以上に緊張していた。


 テーブルの上には湯気を立てる二つのティーカップ。そして八戒が帰りに買ってきたマドレーヌ。向かい合ってソファに座って、沈黙していた。外からは子供の元気な声や車の音が聞こえて来る、夕暮れ時。吹き込んで来る風は初夏らしくさわやかで心地が良い。向かい側に座った天蓬は僅かに顔を俯けて、膝の上で組んだ自分の手を見つめている。元々痩せ型で血色も良いとは言えない天蓬は、ますます青白い顔をしているように見えた。躊躇うように、天蓬はちらりと舌先で上唇を舐めた。そして静かに顔を上げた。図らずも八戒の表情は硬くなり、空気がぴんと張り詰めたような気がした。
「……まず、話さなければならないのに黙っていたことから、話します」
 そう言った天蓬は一旦立ち上がり、一度ダイニングテーブルに向かって何か小さなビニール袋を手にしてから再びソファに戻って来た。そして、少し表情を緩めてそっと微笑んだ。
「もうすぐ命日ですね。……覚えてますか。あの日のこと」
 友人の結婚式に呼ばれた母が、父と連れ立って出掛けた日。タクシーで空港へ、そして空港から飛行機に乗った両親はそのまま帰らなかった。父方の祖母に預けられていた二人にそのことが伝えられたのはその日の夜。幼かった二人は亡骸と対面することも許されなかった。それほどの惨状だったのだ。ここで爆発でも起きたのだろうかと思ってしまうような現場に立ち尽くして、八戒は天蓬の手を掴んで泣いた。頭が痛くなるほど泣いたせいか、それ以上の記憶はない。
「……実は、あまり」
「そうですね、あなたは小学生になったばかりでしたから」
 そう言って、天蓬は手にしていた先程の小さな袋を開けた。そして中から白い物を取り出して、テーブルに置いて八戒の方へと差し出してきた。見ていいのかと目配せすると、天蓬は小さく頷いた。それを了承と取り、八戒はその紙切れに手を伸ばした。
 紙は端々が焦げたように黒ずんでいて、一度濡れた紙を乾かしたように皺が出来ていた。まるでメモ帳を破ったようなその紙切れの表面には、小奇麗な筆跡で『天蓬へ』と書かれていた。指先がぴりぴり痺れるような感覚を味わった。何か言おうと口を開くのに、上手く言葉が紡げない。
「これ……」
「『八戒のことをよろしく頼みます。大人になるまでいっしょにいられなくてごめんね。天蓬、生まれてきてくれてありがとう。大好きだよ』」
 天蓬はその紙に書かれた言葉を一字一句違わず読み上げてみせた。つまり、すっかり覚えてしまうほど何度も読み返したということ。
「……父さんの字、ですか?」
 天蓬は静かに頷いて、膝の上で手を組んだ。そして親指同士を擦り合わせるようにしながら再び唇を舐めた。
「死ぬのを覚悟した父さんが、機内で書いたものです。奇跡的に、何とか残っていました。……そして」
 そう言って、天蓬は再び小さな袋を手にした。そして口を開けた袋をテーブルの上で逆さにした。中からははらはらと黒や茶、白の小さな欠片が舞い落ちた。小さな紙の欠片のようだった。そして、中で一番大きな欠片を指先で摘み上げて八戒へと差し出した。受け取った紙切れは、周りが焦げて崩れてしまいそうだった。元々は大きな紙で、周りが焦げてしまった欠片なのだろう。
「小さく、『は』って書かれてるのが見えますか」
 小さな声で告げられて、八戒は慌てて目を凝らし、その紙切れを見つめる。丁度親指で隠れていた部分に、消えかかった薄い文字。
「……もしかして、これは」
「多分、焼けてしまう前は『はっかいへ』と書かれていたものだと思います。見つかった時にはもう、灰になっていました」
 その小さな紙切れには、確かに『は』という文字が読み取れた。先程の紙より幾らか字が柔らかいところから見ると、こちらが母の字なのだろうか。その紙切れをじっと見つめていた八戒は、ふと天蓬のことが気になって顔を上げた。思い詰めた顔をした天蓬は、じっとテーブルの上に散った灰を見つめている。突付いたら今にも泣き出しそうな、今まで見たことがないほどに弱々しい姿だった。
 彼が病的なほどに八戒を庇護することに拘る理由が見えた気がした。
 天蓬は小さな頃から父親の言うことは何でも正しいと慕って、従ってきた。その父親がいなくなった今、天蓬に残っているのはそのメモに書かれた言葉だけ。その言葉に従うことで父の存在を確認していたのだ。
「事故から少し経ってから、おばあさんから渡されました。もっと早くにあなたに見せるべきだったのに話せなくて……すみませんでした」
 そう言って天蓬は頭を下げた。すぐに上げるかと思った八戒は、そのまま天蓬が頭を下げたままなのに焦って、慌てて顔を覗き込んだ。
「顔を上げて下さい。それは……びっくりしましたけど、多分、その当時に見せられても何のことだか理解出来なかったと思うし……中学生の頃は馬鹿なことばかりして、天蓬は迷惑ばかり掛けて、きちんと話せるような状況じゃありませんでしたし」
 捻くれて、純粋に心配してくれていた天蓬を突っぱねてばかりいた頃。あれでは天蓬がまともに話を切り出せなかったのも無理はない。そもそも残っていたのが天蓬の分だけだったというのがその気持ちを増長させたのだろう。
 母は一体八戒に何と書き残したのだろう。それが残っていたら、天蓬をこんな目に遭わせずに済んだだろうか。八戒のメモに、天蓬を頼むと一言だけでも残っていれば全てを天蓬が背負い込むことなどなかったのに。
 ソファから立ち上がり、朝のように彼の座るソファの隣に腰を下ろす。そして彼の背中に手を当てて軽く擦った。しかし朝とは違って心は静かに凪いでいた。俯いた彼の項を見つめて、居た堪れない思いに胸が押し潰されそうになる。天蓬を追いつめたのはあの残されたメモだけではない。自分も勿論その一端を担っている。彼の苦悩の欠片も知らずに負担ばかりを掛け、挙げ句醜い妬みの感情を抱いてぶつけそうにもなった。何も知らないことは罪だ。
「今まで、何も知らなくてすみませんでした」
「それは、僕が何も言わなかったから」
「僕が自ら知ろうとすれば、天蓬は話してくれたでしょう? でも僕は保身のために何も知ろうとしなかった」
 ゆっくりと顔を上げた天蓬は、心許ない様子で八戒を見つめた。その様子に小さく笑って、八戒は手を伸ばして彼の目に掛かっている前髪を軽く横に流した。覗いた眸に陰が差して、彼が嫌なことを考えているのが咄嗟に分かった。
「……僕はもう、あのメモしかなくて。出来ることは、父さんの、最期の言葉に従うことしかなかったんです」
 こんなことになるのなら、どちらのメモも焼けて無くなってしまっていればよかったのに、と罰当たりなことを思う。そして、揺れる、自分より少し明るい翠をした眸を見つめ返して、再び繰り返した。
「何も気付けなくて、ごめんなさい」
 彼の表情が、何かを堪えるように歪められる。膝の上で握り締められた手が微かに震えていた。その震えを止めたくて、そっと手を伸ばしてその拳を両手に包み込んだ。そこからまるで何か伝わって来たかのようにつんと鼻の奥が痛くなって八戒は俯いた。




 それから、二人揃って洟をかんで眼鏡を綺麗に拭いてから、温かい紅茶を淹れ直した。紅茶を少しずつ口にする天蓬の目はまだ少しだけ赤い。しかし幾分すっきりしたように晴れやかで、自分を見つめている八戒に気付いて、少し照れたように微笑んだ。それにほっとして、八戒も自分のカップを持ち上げた。買って来たマドレーヌもやっと喉を通りそうだ。そしてマドレーヌに手を伸ばしかけて、ふと思い出した大事なことに口元を緩めた。
「それで、天蓬」
「何ですか?」
「もう一つ、話してないことがあるんじゃありませんか?」
 丁度カップをテーブルに置いた直後だったためカップを取り落とすことはなかったものの、そのまま動きを止めた天蓬はどうもぎくしゃくと挙動不審だ。目が泳いでいて動きもらしくない。
「あ、あれー……僕、何か話しましたっけ……?」
「今朝言ったじゃありませんか。言いたいことと、言わなきゃならないことがあるって。言わなきゃならないことはもう済みましたから……言いたかったことって、例の悩み事でしょう?」
 見たことがないほどにおたおたとしていた天蓬は、次第に視線のやり場を失ったようにちらりと八戒の顔を窺ってくる。そんな兄ににっこりと笑いかけてみると、彼は進退窮まったように肩を落としてしまった。
「ねぇ、天蓬。話しちゃった方が楽ですよ」
 にこにこと微笑む八戒はそう告げてから、一口紅茶を口にした。

「……ああ、だから……」
 紅茶のお代わりを淹れながらそう呟いた八戒は、台所のカウンターからソファに座った天蓬をちらりと窺った。ソファにぐったりと項垂れている。二つのカップに紅茶を注ぎ、ジャムの瓶を幾つかと共に盆に載せてソファの方へとゆっくりと歩いて戻った。それに気付いた天蓬はゆっくりと起き上がって、八戒からカップを受け取る。
「別に……悩んでるとかじゃなくてですね」
「困ってると」
「……そうですね」
 一瞬逡巡したような仕草を見せた天蓬は、指先を暫くさ迷わせてからマーマレードの瓶を指先で掴み上げた。スプーンで一杯、マーマレードを紅茶に垂らしながら、困ったように笑う。しかし吹っ切れたようにはにかむ彼を見て少しだけほっとした。
「普通の喧嘩ではないだろうとは思ってましたけど、そんなことになってるとは思いませんでした」
「僕だって予想だにしませんでしたよ」
 天蓬はゆるゆると首を振って、紅茶をスプーンで掻き混ぜている。深い紅が渦を巻いている。天蓬の表情に嫌悪はない。ただ深い困惑だけが彼の顔を曇らせていた。
「嫌なんですか?」
「嫌、っていうのかどうなのか……」
「考えられない、というか? 悪い意味じゃなく」
 そう八戒が言うと、ぐるぐるとカップをスプーンで掻き回していた天蓬は驚いたように顔を上げた。
「そう、それなんですよ。だけど捲簾に言っても悟浄に言っても分かってくれなくて」
 そう言ってふくれっつらになる天蓬を見て八戒は笑った。告白に対して「考えられない」と言ったら普通はお断りの返事だ。
(……というか、悟浄には相談してたんですね)
 再び釈然としない思いを抱えそうになりながら、自分のカップには蜂蜜を垂らして口に運んだ。じわりと甘みと温かさが染み渡ってほっと息を吐く。色事に関しても、捲簾に関しても自分より悟浄の方が良く知っているのは確かだ。だから天蓬も悟浄に相談した、おかしなことではない。静かな心で考えてみれば極々当たり前のことで、そんなことで一々腹を立てていた自分を羞じた。そして一人ぶつぶつと文句を呟いている天蓬に笑って、マドレーヌを勧めた。
「長い間普通の友達だったんですから、そう簡単に恋人に移行することなんて出来ないですよ。普通の人はね」
「あー……悟浄も捲簾も普通の人じゃないですもんね」
 その日出会った女の子とその日の内に恋人同士になって行為に移れる男共だ。八戒や天蓬の常識にはまるでそぐわない。それを思い出したのか、八戒の言葉に天蓬は苦笑いをした。
「ゆっくり考えたらいいんじゃないでしょうか。まだ考えている最中だってちゃんと伝えたんでしょう? 一旦、普通に接してみてから考えたらどうですか? 逃げ回ってばかりいたら考えようもないですし」
 静かに八戒の言葉に耳を傾けていた天蓬は、暫く何かを考えていたようだったが、次第に表情を緩めて小さく微笑んだ。
「もう一度言わせてみたらどうですか?」
「……勘弁して下さいよ」
 八戒の軽口に嫌そうに顔を顰めた天蓬は一息吐いてからマドレーヌを手に取り、それを二つに割って片方を口に運んだ。
「……美味しいです、どこで買ったんですか?」
「学校の近くにパン屋さんが出来たんですよ、それで開店セールをしてて。他にも美味しそうなものがあったので、また買って来ますね」
 微笑んで頷く彼を見て、八戒はゆっくり立ち上がった。そして彼の隣へ移動して、寄り掛かるように彼の胴に抱き付いた。恋人とは違う煙草の香りに彼の匂いが混じって、とても懐かしい気分になった。こんなに彼に近付いたのは久しぶりだ。幼い頃は、いつもあんなにべったりだったのに。いつから意地を張って彼を遠ざけるようになったのだろう。いつから大人ぶって、彼の優しさを拒むようになったのだろう。その背伸びが、何よりの自分の幼さだったというのに。
「八戒……?」
 そっと、労るように頭を撫でてくれる手を感じながら細く息を吐いた。自分の息が震えているのが分かった。それを誤魔化すように天蓬の身体に顔を押し付けて堪える。小さく音を立てないように洟を啜ってから、再び彼の身体に額を寄せた。
「……僕、天蓬の弟でよかったです」
「僕も、八戒みたいな弟がいて本当に幸せですよ」
 優しく撫でてくれる手と兄の匂いに包まれながら、幸せな気分の中で泣きそうになった。じわりと目の前が滲む。どうしてこの暖かい場所に気付けなかったのだろう。胸が苦しくなって、そのまま抱き付く腕に力を込める。
「僕は、何があっても天蓬の味方ですからね」
 そう言うと、天蓬はくすぐったそうに微笑んだ。そして泣きそうな顔をする八戒の頭をもう一度そっと撫でてくれた。










捲→天という主題からちょっと外れた回でした。次からはちゃんとメインに戻ります。       2007/03/17