好きになることが相手を困らせることになるなんて、何たる皮肉だろう。

 家の最寄駅で電車を降りた天蓬は、正面のホームに止まっている電車から降りてくる男に不意に目を奪われた。あの人の好きな黒を基調としたファッションで、伏し目がちに歩いてくる大柄な男。少し顔色が優れないのは、あの日から変わらない。
 友人の家にCDを返しに行こうと、自分の家から少し離れた駅でホームに降り立った捲簾は、正面のホームに停車している電車からたった今降りてきた男に瞠目した。前より少し痩せた感がある、薄手のジャケットを羽織った男。
 再会の時は唐突に訪れた。
 もし神がいたとしたら、相当な性悪に違いない。自分たちが滑稽に踊るのを、ゲラゲラ笑って見ているのだ。

 思わず立ち止まった二人を、一緒に降りた乗客たちは川の水が川の中の石を避けるようにして階段へと次々に流れ込んで行く。自分たちの周りだけ時間がスローに進んでいるような心地だった。このまま人波に紛れれば逃げられた。しかし足がホームに根を張ったように動かない。視線が相手から逸らせない。逃げられないことを悟った。
 捲簾にとっては自分が蒔いた種で、天蓬にとっては青天の霹靂で。それでも逃げられないことだけは二人とも解っていた。
 天蓬の唇が何か言いたげに動くのを見て、捲簾は諦めたように足を踏み出す。
 捲簾が一歩足を踏み出すのを見て、天蓬は諦めたように目を瞑る。
 実に一週間振りの対面だった。




「元気そう……では、ないな」
「ええ、あなたも」
 とりあえず駅を出ることにした二人は、おかしいほどにぎこちなく並んで階段を降りた。両方が両方、(これからどこへ行くんだ)と思っていたが、どちらも(……なるようになれ)と投げ遣りに考えていた。何だかどうしても勝たなくてはならない相手に対峙している時のような、ぴりぴりした空気が二人の間に流れていた。並んで歩いていると言うのに全く視線は交差しない。間には微妙な距離。
「今日は、何でまたこの駅で」
「太田にCD返しに」
「ああ」
 彼は二人の共通の友人で、駅を挟んで天蓬の家とは反対に住んでいるが割と近い。そういえばその線で出会う可能性もあったのだ、と今更ながらに気付く。呑気な友人の顔を思い浮かべて、舌打ちしたい気分になる。
「寝てないのか」
 碌な目に遭わない、と心の中で深く溜息をついている最中に急に声をかけられ、天蓬は思わず顔を上げて横に立っている男の顔を見上げた。そう言う彼だって、優しい表情をしてはいるけれど酷く顔色が悪い。そんな顔を見ていられなくて、天蓬は再び俯いた。
「昨日はよく寝られました」
「……そうか。無理はするなよ」
 誰のせいだ、と詰ってしまいたくなる。だけどこれは、彼だけのせいじゃない。きっぱりと決断出来ない自分のせいでもあるのだから。友達としての捲簾を失いたくないからといって、彼を待たせて憔悴させている。まるで自業自得だ。
「……って言っても、俺のせいか」
 そう言って笑うのが分かった。彼はきっと困ったような顔をして笑っているんだろう。
「言わない方がよかった、とも思った。ここ何日かで」
 その言葉に思わず指先が跳ね上がった。しかし歩いている途中だったため、隣の彼はそれに気付くことはなかった。何だ、それは。やっぱり軽い気持ちで言っていたというのか。撤回しなかったのは引っ込みが付かなかったからか。直接顔を見ることは出来ず、視線を一歩先の地面に向けながら低く声を出す。
「……どういう意味ですか」
「危ない賭けに出るより、長く続く友情を優先すべきだったと思った、ってことだよ」
 ゆっくりと歩いていたものの、二人はもうすぐ駅の出口に差しかかる。外からは強い日差しが差し込んでいて、眩しさに目を眇めた。天蓬は、これからどうするのだろうと思ったが、捲簾がそのままのペースで外へと歩いていくのでそれに随っていくことにした。建物の中から外へと出れば、容赦ない日差しが肌を刺した。まだ初夏にも早いというのにこの暑さは何なのだろう、と顔を顰める。
「あ、外は暑いか」
「平気です。それよりあなたはこれから……」
 その言葉に、天蓬が早く会話を止めたがっていると思ったのだろうか、少し困ったような顔をして捲簾は、「あと少しだけいいか」と言った。天蓬はそれにつられるようにして頷き、彼の指し示す駅前のコーヒーショップへと足を踏み入れた。

 ストローの刺さったカップを差し出され、オープンカフェになっているそこで椅子にぼうっと腰掛けていた天蓬は一瞬面食らった後、躊躇いがちにそれを受け取った。すると彼もまた、天蓬の向かい側に腰掛けて隣の椅子に上着を置く。じりじりと不快な日差しが容赦ない。
「……あの、お金は」
「今日は俺が無理に呼び止めたんだし、いい」
 折角会話の糸口を引っ張り出そうとした言葉にもにべもない。これではどちらが呼びとめたのか分からない。不機嫌になりながらストローに噛り付いて視線を駅前に移動した。薄着になり始めた少女たちがこぞって街へ出掛けようとしている。丁度花の盛りだ。花の命は短いものだ。いや、生き続けはしても美しいのは一時だけ、ということ。この目の前の彼とて、そんな愛らしい花々を次々に渡り歩く蜜蜂のような男だったはずだ。だというのに何を考えて、こんな蜜も出やしない同じ男の元へとやってきたのか。
(蜜はない、可愛らしくもない……毒はある、自覚がある)
 こんな男に乗り換えるとは、まさに河岸替えと言うに相応しい。ふわふわのスカート、恥ずかしくなるほどのピンクの洪水、艶々とした唇に紅潮したような頬、そして何より、若さと美しさへの自信に満ちた笑顔。そんなものたちを追いかけ、口付ける彼の方が彼らしい。
 天蓬はストローを噛んだ。腹立たしい。しかし一体何に腹を立てているのか、自分でもよく分からなかった。
 嫌いじゃないから困るなんて、理屈が通らない。最初はどう、友情を壊さないように断ろうか考えていた。今では、本当に自分が断りたいのかどうかすら分からなくなっている。麻痺している。分からない。
「……あのな、天蓬」
「何ですか」
 思った以上に不機嫌な声が出て、内心(しまった)と思った。しかし一旦出てしまった言葉が引っ込むはずもない。そろり、と見上げた彼の顔は笑っていたけれどどこか悲しげで居た堪れなくなり、唇を噛んだ。
 嫌いじゃないのだと伝えたいけれど、今そんなことを伝えたとしても彼はそれをその場しのぎの言葉としてしか受け取ってくれないだろう。ならば、きちんとした答えが纏まらないうちに彼に変なことを言って混乱させるのは得策とは言えない。
「……すみません、何ですか」
 一応口調を和らげてもう一度訊ねる。彼は微妙な顔をしていたけれど、ストローを指先で弄びながら口を開いた。視線は常に下向きで、天蓬の方を見る気配はない。何だかそれも腹立たしかったけれど、真っ直ぐ見つめられたら見つめられたで自分は戸惑ってしまうだろう。ならばこれでいいのだ、と自分を納得させて、小さく咳払いをする。
「本当に、嫌だと思おうが、気持ち悪いと思おうが、お前の勝手で」
「……」
「断ってくれて、本当に構わない。とにかく、俺が欲しいのは返事だってことを分かって欲しい」
 それは、イエスでもノーでも、どちらでもいいからとにかく返事が欲しい、ということであろう。
「ノーならノーで、ちゃんと受け止めて諦めたいと思ってる。ずるずる引き摺るつもりはないし……お前との今までの関係も捨てたくない」
(酷い人)
 一瞬そう思い、すぐにそれを打ち消した。彼だって、そんな虫のいいことが可能だなんて思ってはいないだろう。今更――元の関係に戻れるだなんて、お互い思っていない。切実に願った。あの頃に戻りたい。喧嘩をしても、殴り合いをしても次の日には笑って話が出来た時代に。これは、あの頃の喧嘩なんかとは話が違う。
「……わかりました」
 だから、天蓬はそう答えるしかなかった。段々と汗を掻き始めたカップを持ち上げ、ラテのストローをずるずると啜る。下品だとは思ったが何となくやってしまう。いつもならそれを制するはずの捲簾は黙ったままだった。いつもみたいに叱ってくれないかと、試したかったのかもしれない。あの頃みたいに怒って欲しい、と思うのは我儘だろうか。
「少し、待って下さい」
「……わかった」
 そう言って彼は席を立つ。彼のカップはとっくに空だった。いつの間に、と思ったが、彼と出会ってからかなり時間が立っているのに気付いた。自分が黙っていた時間はそんなに長かっただろうか。彼はどんな思いでその居た堪れない時間を過ごしたのだろう。
 椅子をテーブルに押し込んで、踵を返し背を向けて歩いていこうとする背中を見たら、どうしようもなく呼び止めたい衝動に駆られた。
「捲簾」
 そう声をかけてから、こんな風に名前を呼んだのは久しぶりだということに気付いた。彼も少し驚いたように振り返り、天蓬を見つめてくる。そういえば何を言いたかったのだろう、と自分の頭の中をフル回転させる。唇が空回りしそうで、天蓬は唇を噛む。
「……正直に言うと」
 そう切り出すと、彼の顔が一瞬にして強張るのが分かった。この場で返事をされると思ったのだろう。しかし生憎天蓬の中でまだそれは決まってはいない。驚かせてしまったことに少し罪悪感を感じつつ、天蓬は口を開いた。
「まだ、自分でもよく分からないんです。あなたをどんな風に見ているのか……見られるのか」
 そう、自分の気持ちなのに自分で分からないとはどうなのだ、と思いつつも、やはり分からない。最初は分かっているつもりだったのに、数日悩んだだけでその答えは段々と輪郭がぼやけてきた。こんなに曖昧な関係だったのだろうか、と愕然としたりもした。
 目の前の彼は、目を瞠ったまま立ち尽くしている。天蓬としては、言いたかったことはこれで終わりなのでその視線に晒されることが辛かった。それが数秒のことだったのか、数十秒のことだったのかは分からない。とうとう天蓬もまた席を立ち、軽く頭を下げてから彼の横を通り過ぎた。そしてカップをくずかごに捨てて、足早に彼に背を向けて歩き出す。
 顔が赤くなっていないだろうか。まさか。頬に手を当ててみる。熱いのは日差しで火照ったせいだ。
(わからない)
 息が苦しい。どうして、そんな。




「……う……」
 我に返ったのは、あのまま歩き続けて家を通過し、二駅ほど歩いた後だった。日光の下を黙々と歩き続けていたせいか、額にはじんわりと汗が滲んでいる。汗を拭い、上着のボタンを外して風を送って息を吐いた。じりじりと照り返しの日光でまるで焼かれるようだ。
(何をやってるんでしょう)
 阿呆のようだ、と自分自身に溜息を吐く。そして場所を確認するために周りを見渡す。これでは三蔵の家に行く方面だ。今日は家庭教師の日ではないし、三蔵には何となく会い辛い。別に、何ということもないのだけれど、どうも一昨日の三蔵は様子がおかしかった。考えられる原因はやはり。
(僕、なんでしょうか)
 僕の周りの人は皆不幸になっていくんだ! なんて悲劇のヒロインのように自己憐憫に浸るつもりはない。しかし誰も彼も優しすぎて困るのだ。あいつはどうも調子が悪そうだから面倒事には関わらないでおこう、とかそういう突き放し方が出来ない人たちなのだ。悟浄然り、三蔵然り、そして悟空も八戒も。普段はそんな彼らを好ましく思いこそすれ、辛く思うことなどないのに。腕時計を眺め、目を眇めて空を見上げてから、天蓬は再び歩き始めた。
 それから三十分ほど、ふらふらと歩き続けた。道は段々奥まっていくが、天蓬の足に迷いはなく、寧ろ導かれるように奥へ奥へと細い道へ入っていく。そうしているうち、車の喧騒も届かない奥まった住宅街へと出た。如何にもな屋敷が立ち並ぶそこに、目指す場所があった。丁寧に手入れが施された凝った庭を眺めつつ、歩調を緩めてゆっくりと歩いていく。その先に、一際大きな、しかし嫌味なほど豪奢ではない質素な屋敷が立っていた。
 別に、誰かに会いにきたわけではない。会えれば嬉しいかな、くらいの気持ちで来た。それと庭が少し見たかっただけ。生垣には白く小さな花がぽつぽつと可愛らしく咲いている。僅かに中央から差す甘い紫色が綺麗だ。それに少し良い香りもする。少し触れてみたくなって指を伸ばし、しかし触れたら落としてしまいそうで、一瞬躊躇った後その手を下ろした。ほう、と息を吐くと、不意に生垣の向こうから水音がするのに気付いた。そして咄嗟に顔を上げる。
「久しぶりですね、天蓬君」
「光明さん……」
 会えると思っていなかった庭の主に、天蓬は一瞬呆然とした。そしてすぐに無礼だった、と思い立って姿勢を正して頭を下げた。すると温かい笑顔がそれを迎えてくれる。
「お久しぶりです」
「ああもういいんですよ、あなたは昔から固いですねぇ。もっとフランクにいきましょうよ」
「そんなこと言うの、あなたくらいです」
 霧吹きを持ったまま、そうですか? とおどけたように首を傾げた彼は、その屋敷の主の光明だった。
「その花、綺麗でしょう? 白丁花っていうんですよー」
「はい、可愛いですね」
 同調して頷くと彼は嬉しそうに笑って、中に入りなさい、と促してくれた。

「すみませんね、実は今客人が来てまして」
「え、じゃあ……」
 飛び石の上を歩きながらそう軽く言う光明に、いない方がいいのでは、と天蓬が引き気味になると、彼は笑って首を振った。色素の薄い髪の毛がポニーテールに束ねられ、太陽の光を綺麗に弾いている。光を集めたような色のそれをつい目が追ってしまう。
「そんなことを気にするような奴じゃありませんよ、さ、中に」
「はあ……」
 彼が人を『奴』と呼ぶのが何だか新鮮で、天蓬は目を瞬かせて、真意を窺うように彼を見上げた。しかし彼が本音を言うはずもなく、ただ悪戯を仕掛けた子供のように楽しそうに笑うばかりだった。それを内心不審がりながらも入り口から中に入れてもらい、庭の中に入った。その庭は綺麗ではあるものの、整っているとは言いがたい。彼が好きな花を何でも適当に植えるからだ。それでも不思議と調和が取れているのは、彼がそこに立っているからではないかと思えてしまう。庭の端には文目が咲き誇り、ぼんやりした一体の中で濃い紫紺が際立っていた。
「綺麗でしょう、今丁度時期なんですよ」
「……ええ」
 花に見惚れて生返事をする天蓬に、光明は少し笑ったようだった。
 そのまま二人で庭の奥へと入っていくと、縁側に誰か脚を組んで座っているのが見えた。すらりとした長い脚。女性のようだ。この庭には全くそぐわない、露出度の高い大胆な服を着ている。化粧も多少濃いような。しかし確かに美しい女だった。まさか、と思う。光明には全く女の影がなかった。彼はそういったものを全て超越した存在とすら思っていたので、その女性の存在が妙に現実感を伴っていた。幻滅、とまでは行かないが、少し拍子抜けしていた。見てはいけないものを見た気分になっていた。
 そんなことを思いつつぼうっとその女を見つめていると、湯呑みを持って庭をぼうっと眺めていた彼女は天蓬の視線に気付いたように顔を上げ、目を瞠った。そして途端に面白がるように――先程の光明のように――悪戯っぽく笑った。
「何だ? 光明。随分と若ぇ恋人だな」
 不遜な口調で堂々と言い放った女は、組んでいたその綺麗な脚を解き、それから立ち上がった。そして女の言葉に目を白黒させている天蓬の元に歩み寄り、その秀麗な顔をぐっと近づける。長い指に顎を捉えられ、随分と綺麗にアートの施された爪が目に入った。そして女は、値踏みをするようにまじまじと天蓬の顔を眺め始めた。いつもなら思いきり振り払うところだが、出来なかった。本能が、『この女に逆らってはならない』と告げる。腕が強張った。
「……ふーん、随分とまた、綺麗な顔してやがる」
 はっきりとした顔立ちの美女は、眼前十センチほどまで迫ってきていた。僅かに白檀の香りがする。女はその間も、まじまじと天蓬の顔を観察しながら感嘆の声を漏らすばかりだ。当人にとっては笑い事ではない。何故か『食われる』という警告が頭に点灯した気がした。
「止めなさい観世音」
 それまで何の遠慮もなくしげしげと天蓬の顔を眺めていた女は、そう横から声をかけられてつまらなさそうに顔を顰めた。
「いいじゃねぇか見るくらい、減るもんじゃねぇ」
「ふふ、あなたがそんな風に見ると、可愛い天蓬君が減っちゃいそうなんですよ」
 そう言って光明は横から腕を伸ばし、女から天蓬を引き離した。女は舌打ちをして肩を竦める。
「取って食いやしねぇっての」
「食いそうですからね、あなたの場合」
「分かってんじゃねぇか」
「ふっふふ」
 何の会話だ、と天蓬が首を傾げていると、光明は女を指差して言った。
「私の異母兄弟です。全然似てないでしょう性格悪いんですよ〜」
「お前も大概だ」
 確かにある意味よく似ている、と天蓬は納得し、女から一歩だけ距離を取った。
「で、お前……天蓬っつったか」
「はあ……」
 それから三人は縁側に移動し、庭を眺めながらお茶を頂いていた。香りの豊かな番茶にほう、と溜息を吐く。その横で、相変わらずその短いスカートで堂々と脚を組んでいる。天蓬とて完全なゲイではなく、女に惹かれないわけでもないのだか、観世音の豊満な身体やスラリとした脚にはどうしてか全く興味が持てなかった。寧ろ、見るのが怖い。何故か、その個々のパーツが女とは思えないのだ。それらが本当に本当に女性らしく、美しいパーツであるにも関わらず、だ。よって声を掛けられても僅かに視線を逸らしがちに返事をした。彼女もそれを咎めることはなかった。しかし次に告げられた言葉に思わず飲み込もうとしたお茶が変な場所に入りそうになる。
「マジで光明の恋人か?」
 普通にあれは冗談で言ったのだと思っていた天蓬は油断していて、思わず湯呑みを両手で握ったまま首をブンブンと何度も横に振った。それに観世音は笑い、光明は少し拗ねたような顔になった。
「振られたな、光明」
「残念です」
 途端によく分からなくなって慌てる天蓬に二人は笑い、からかわれたのだということを知った。今度は天蓬が拗ね出して、光明は取り成すように茶菓子を勧めて来た。むすっとしたままその饅頭に噛り付く。それを観世音はまた、まじまじと見つめてきていた。
「で、本当は何なんだ?」
「お友達です」
「親子ほど歳が離れててか?」
 友情に年の差なんて関係ありません、と何故か自信満々に言う光明への返事もそこそこに、観世音はじっと天蓬を見ている。流石に食べているところをじっと見られて居心地悪く思いながらも、何となく彼女には逆らえなかった。饅頭を齧り、お茶で流しながらその視線から必死に逃れようとする。しかしそれも長くは続かず、元々短気に出来ている天蓬の我慢は早々に限界に達した。
「……あの、何か僕の顔におかしいところでもありますか」
 一言一言きっぱりと告げてやると、観世音は一瞬目を瞠り、またおかしそうに笑い出した。
「悪い悪い。……好みだなと思ってな」
 獲物を狙う肉食獣のような目に、思わずビクッと肩が跳ねる。それを見て光明が気の毒そうに声を掛けた。
「私の友達を毒牙に掛けるのは止めて下さい」
「毒牙とは酷いな」
「否定出来ないでしょう。時に天蓬君、この人、女に見えます?」
 突然の光明の言葉に、目を何度か瞬かせた後、正座のまま膝で少し後退った。
「……まさか」
「どう思う?」
「あんまり知りたくありませんね……」
「そうですねぇ、世の中には知らない方が良いことも多いですし」
 即答する天蓬に二人は笑った。やっぱり血が繋がっているだけある、と天蓬は一人がっくりした。そして彼女への違和感への理由に思い至ってますます気分が滅入るようだった。
「ところで、今日は一体どうしたんですか?」
 そう訊ねられ、そういえばそうだった、と我に返った。しかしこの女のいる状態でまともに相談など出来そうにないし、あの後では何となくそう段出来る雰囲気でもない。天蓬はとっくに冷めてしまったお茶を飲んで、ゆっくりと首を振った。
「……何でもありません。すみません、用もないのに」
 そう言うと、少し哀しそうに光明は眉根を寄せた。そして咎めるように観世音を睨む。
「ほら、あなたが変なことするからまともに話が出来る状況じゃなくなってしまったんですよ」
「俺のせいか」
「そうですよ」
「そうかそうか。そんなら邪魔者はそろそろ退散するか」
 そう言って観世音は立ち上がり、服を払った後バッグを手にして、そのまま庭を歩いていく。止める暇もなかったが、よかったのだろうかと思っていると、庭の中頃で彼女はふと立ち止まり、くるりと振り返った。何か企んでいるような悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
「天蓬」
「はい?」
「小猿をよろしくな」
「え」
 表情を固まらせる天蓬を面白そうに眺めた後、「またな」と後ろを向いたまま手を振って彼女は真っ直ぐ庭を闊歩していった。
「……あの」
「何ですか?」
「もしかして猿って」
「ええ、悟空です。何せ、異母兄弟ですからね」
「ああ……」
 そう言えばそうだった。
「悟空を連れて来たのはあいつなんですよ」
「……」
「連れて来たのに私に押し付けるものだから困ってしまいましたが、三蔵がちゃんとお兄さんになってくれたので助かりました」
 三蔵、という言葉が出てきたことに一瞬腕が強張った。誤魔化したものの、解ってしまっただろう。
「あの子と何か、ありましたか?」
「……」
 一瞬迷った。全て吐き出して甘えてしまえば終わりだ。しかしそれは自分の情けなさを露呈して、しかも何も残らないという行為。それに彼は、ただの『友達』で。甘えていい相手ではない。そもそも自分に甘えてもいい相手など存在しない。天蓬はゆっくりと首を横に振った。その時に少しだけ光明の目が細められたことに、天蓬は気付かなかった。
「……平気です。ありがとうございます」
 これは一人でどうにかしなければならない問題だ。一人で立っていなければ、支えがなくなったときに倒れてしまう。甘えを覚えてしまうのはよくない。以前はこの人に助けてもらった。これから一人で立っていなければ。いつまでも子供ではいられないのだから。
 いつまでも愚かな子供ではいられない。捲簾のことだって、そもそも自分が拗らせたのだ。
「覚えておいて下さい、天蓬君」
 俯いている天蓬に降りてきた言葉は相も変わらず優しかった。ふわり、と温かい手が頭の上に乗せられて、天蓬はゆっくり顔を上げた。優しい視線の前に晒されて、自分が酷く小さな人間に思えた。
「辛い時に誰かに甘えることは悪いことではありません。あなたの力になりたいと願っている人は、周りに沢山いるはずです。一人で立ち続けることは、如何なる時でも誇れることではありませんよ」




 悟浄はアルバイトのため、いつもと同じくスタジオの控え室にいた。下っ端なので早めに準備を始めなければならないものの、それでもまだ少し早い。椅子に座って資料に目を通しつつも、チラチラと携帯電話を窺っていた。連絡がこないかと思っているのだ。それはアプローチしている女の子からでも、何かの採用試験の結果でもない。ただ、昨今の友人の恋愛模様が気になって仕方なくなっていたのだ。最初は嫌々だったそれも、中途半端に首を突っ込んでしまうと、半端に一話を見たせいで続きが気になって見なければ気が済まなくなってしまったドラマのような状態になっていた。こうなったら最後まで首を突っ込み通す気でいた。
 そして今一番怪しいと思っているのは、あの男。
(敖潤会長、ね)
 昨日高校時代の友人たちに連絡をして、彼に関する諸々を調査したのだ。印象は皆殆ど似たり寄ったりだ。厳しい、硬い、白い、怖い、そんなもの。捲簾や自分など、一部に限っては、嫌味、憎たらしい、というのも加わるのだが。しかしそれが、天蓬の場合では全く異なるというのが問題だった。彼にあの会長の印象を言わせれば、優しいとか、可愛いとか、訳の分からないことを言い出すに決まっている。昔からあの男が可愛いと言うものが可愛かった例がない。捲簾も三蔵も自分も、彼に言わせれば『可愛い』らしいので、その辺からして何かが根本から間違っている。どこが可愛いのか、簡潔に教えて欲しい。教えられたところできっと自分に理解は出来ないだろうが。
(……ほんっと、変人)
 だけど人を惹き付けて止まないのは彼の才能に他ならない。初めて出会った瞬間の彼の姿を思い出して何だか不思議な気分になる。どうしても声を掛けてみたくなったのもそのせい。そんなことを考えているうちに、テーブルが携帯電話のバイブレータで揺れ、思わず驚く。そして我に返ってから携帯電話に手を伸ばした。電話だ。電話を親指で押し開いて、ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし、鷭里?」
 彼は中学からの友人だ。中学の当時は悪いことも色々やった仲だが今はまともに生きている。少なくとも自分は。
『あいよ。調べ付いたぜ、悟浄』
 彼には幾つも貸しがある。このぐらいの調べものをしてもらうくらいはタダだ。しかも彼自身こういったちょっと拗れたような人間関係に首を突っ込むのが大好きである。そして悪戯に引っ掻きまわすのも。流石に今それは勘弁して欲しい、と思っているのだが。
「おう、サンキュ。で、どうだった?」
 そう訊くと、電話の向こうの彼はおかしそうに喉の奥を鳴らして笑った。それを感じて悟浄は顔を顰め、電話を少し耳から離す。
『それがなぁ、こんな噂知ってるか?』
「え?」
『あの堅物の会長が天蓬のこと好きだったんじゃねぇかって噂。あったらしいぜ、今じゃもう殆ど覚えてる奴なんていなかったんだけどよ。ちょっと女子に訊いたら覚えてる奴がいたんだよ。いやー、女ってのは物覚えがいいぜ、しかもヤなことばっか』
 電話の向こうの彼はそう言ってゲラゲラ笑っている。悟浄は口の周りが凍りついたような気分になった。頭がうまく作用しなくて紡ぐべき言葉が頭の中から見つからない。数秒かかって次の言葉を見つけ出し、何とか声を出した。唇が乾いて動かし辛い。
「それは、片想いって噂だったわけ?」
『多分。だってその頃……あ、一年の秋頃のことな? 天蓬に女いたし。その女がフェイクって可能性がなくもないがね』
 そしてこの男は人の関係を邪推するのも好きだ。
『俺は意外と天蓬は男でもいけるクチだと思うんだけどな……どう思う?』
(そんなこと訊くんじゃねーよ、俺に……)
「そうかもなぁ」
 ここで変に否定すれば悟られかねない。これが電話でよかった。確実に今、自分は顔に出ていたはずだ。……しかし、聡い男だから声だけでも解ってしまったかもしれない。しかし、返事はすぐに返って来ず、聞こえてきたのは微かなノイズ音だった。
『……ワリー、何か電波悪くってよ』
 そう言う彼の声はザーザーという雑音に掻き消されそうになっている。どうやら助かったようだ。暫く雑音が混じっていたものの、彼が場所を移動したのか段々とクリアに聞こえるようになってきた。
『実は一度迫ってみたことあんだけどさ』
「あ?! 誰に?!」
『だから天蓬に。ま、あの“にっこり”で撃退されたけどな』
「……お前、どっちでもいいのか」
『あー? バーカ女の方がいいに決まってんだろ。柔らけーし、カワイーし。だけどちょっと異色だからな、あの男の場合』
 まあ、確かに天蓬は異色と言うに相応しくはある。あの男には男をおかしくする素質もあるのかも知れない。そう思ったら何だか、そんなことを考えた自分と鷭里に嫌悪感が湧いた。自分の友人を汚したような気分になったのだ。
「……サンキュ。じゃ、これからバイトだからさ」
『おー、まだ下っ端やってんのかお前は……いい加減大成しろー皆に自慢も出来ねぇじゃねぇかよ』
「へーへー……」
 ぶうぶう文句ばかり言う友人にお座成りに返事をして電話を切る。携帯電話をパチンと閉じて、ゆっくりと息を吐きながらそれをバッグへと投げた。中に入っている何かに当たってカツンと音を立てる。
「あああー……どうしよう」
 捲簾にそれをどう伝えろと。しかも三蔵が言うにはまだあの二人は付き合いがあるということだ。天蓬は会長が好きで(多分友愛)、捲簾は天蓬が好きで(確実に恋愛感情)、会長は天蓬が好きだ(現在は不明)。捲簾と会長は非常に仲が険悪で、天蓬は捲簾をどう思っているのかはまだ分からない。
(ち、陳腐な……)
 陳腐なメロドラマとしか思えない。寧ろちょっと昔の少女漫画か。悟浄の頭の中には、人間関係の相関図がするすると出来上がってきていた。今のところ三人。しかし……今後、増えないとも言い切れない。関わる人間として考えられるのがあと二人。そして面白半分に頭を突っ込んできそうな奴らが数名。笑えない。面白半分、なんて自分にはとても言えそうになかった。
「〜〜〜あああどうしろってんだ〜!」
 悟浄はテーブルに突っ伏した。泣きたい気分だ。今更引くことも出来ないし、続きも気になる。まさしく次の号が待ち遠しい漫画か、来週が待ち遠しいドラマを待つ心境。しかし、それが楽しいだけではないことが悲しかった。本当にドラマか漫画なら楽しんで見ただろうに。
 それから十分ほど、同僚の女の子が部屋に入ってきて驚きの声を上げるまで、テーブルに伏せてぐったりとしていた。
 癒してくれる女の子を目下募集中である。











女々しい攻が殊の外嫌いなので、そろそろ捲兄もぼちぼち男らしくなっていただこうと思ってます。精神的にね。
そして初登場三人。観世音、お師匠様、鷭里。どれも大好きキャラです。       2006/09/13