誰からも愛されるあなた。
 似た顔をしているのに自分にはないものを幾つも手にしているあなたが、どうしようもなく妬ましくて憎らしくて愛おしいのです。

 窓から夕焼けが差し込んでくる時間帯、午後六時過ぎ。ドサ、とごみ袋を玄関前に下ろして、八戒は腰を叩いた。今日は定期的に掃除しなければ人の住める環境でなくなってしまう兄の部屋の清掃日だった。かといって特にごみ屋敷のようなものというわけではなくて、単に本で溢れ返っているだけのこと。しかしそれが大変だった。ハードカバーの小説から文庫本、辞書のような厚さの専門書まで床に散乱しているのだ。それらを全て本棚に収納し終えると、今まで本に覆われて見えなかった場所から、思わぬものがひょっこり見つかったりもするのだった。
「……あたっ」
「大丈夫ですか? 八戒」
 急に足の甲に訪れた衝撃に思わず声を漏らす。するとベッドの向こうで本を抱えていた天蓬が慌てて駆け寄ってきた。心配そうに顔を覗き込んでくる彼に笑って首を振り、その衝撃の原因を拾い上げた。
「怪我してませんか?」
「大丈夫です、角じゃなかったので」
 拾い上げたのは、角からぶつかっていたらさぞかし痛かろうと思う、重いフォトアルバムだった。僅かに載っている埃を払って厚い布張りの表紙を開いた。長い間開かれていなかったそれは僅かに硬い音を立てて開く。
「いつのですか? それ……」
 八戒のアルバムや幼い頃のアルバムは八戒の部屋に置いてあるので、この部屋にある限り天蓬のものには違いない。にも拘らず天蓬は全く覚えがないらしく、首を傾げながら八戒の腕の中を覗き込んでいる。中表紙には、八戒の筆跡で『天蓬・高校一年〜三年』と書かれている。どうやら天蓬ではなく八戒が纏めたものらしかった。
「天蓬が高校の時のですよ」
 一番初めのページを掲げてみせると、天蓬は僅かに顔を顰めて肩を竦めた。
「うわわやめて下さい、ホント写真写り悪くって嫌になっちゃいますよ」
 途端に情けない顔で逃げ腰になる天蓬に思わず笑ってしまう。しかしそれは八戒も一緒だった。どうにもカメラの前では表情が硬くなるのだ。小さな頃の写真を見れば自分も天蓬も最高に全開の笑顔なのだが。自分の写真を見るのは嫌だが人の写真を見るのは好きな八戒は、少し掃除の手を休めてアルバムを見ることにした。天蓬は少し嫌そうな顔をしている。
「やめましょうよ、八戒ー」
「たまにはいいじゃないですか、ね?」
 こうなったら八戒が絶対に折れないことを知っている天蓬は、少ししゅんとなってごみ袋を抱えて部屋を出ていった。ちょっと可哀想だが今は少し我慢してもらおう。彼の背中を見送ってから、八戒は視線をアルバムに戻した。
 入学式の写真は、天蓬がどうしても逃げるので八戒が隠し撮りするような格好になってしまった。写真の中の天蓬は、今の自分よりも年下なのだと思うと何だか不思議な気分になる。体育祭の写真もほぼ隠し撮りで、これを見たら天蓬がどんな顔をするだろう、と小さく笑った。剣道でインターハイに出た時の写真だけは何とか辛抱強く説得してまともに撮らせてもらったが、上位入賞で晴れやかな顔をしていてもいいはずなのにやっぱり顔が引き攣っている。隣に並んでいる全開の笑顔の捲簾との対比がおかしい。
(……そういえば、殆どの写真に捲簾さんが入ってる)
 そう思って今まで見てきたページに戻ってみてもやっぱりそうだ。どれだけ仲が良いんだ、と笑ってしまいそうになる。
 途中まではほぼ二人で占められていたアルバムに、途中から悟浄が混じり、そして三蔵が混じり始めた。その中の一つに目が留まる。自分が好きになり始めた頃の三蔵。そして、天蓬に片想いしていた頃の、三蔵。
 他の誰が自分よりも天蓬を選ぼうが、どうでもよかった。ただ、彼だけは――と、天蓬を本気で憎んだ時期がなかったわけではない。今考えると本当に恐ろしい感情で、この手が彼を傷つけることがなくて本当に良かったと思う。
 そのことは、直接三蔵から聞いたことがあるわけではない。しかし昨日捲簾も知っていたし、多分悟浄も知っているはずだ。そして三蔵も知られていることを知っているだろう。皆知っていて誰も口に出さない。そして何も知らないのは天蓬だけだ。普段聡過ぎるほど聡く、八戒の気持ちにもすぐに気付いてしまった彼なのに、三蔵の気持ちにだけは気付かなかった。知っていて知らない振りをしている、ということはないはずだ。もし天蓬がその向けられる好意に気付いていたら、今の自分はどうしているだろう。
(……有り得ない)
 もしもの話など実がない。八戒は軽く首を振ってアルバムを閉じた。いつまでも感傷に浸っているわけには行かない。そろそろ夕飯の支度もしなくてはならない。閉じたアルバムを持って立ち上がると、廊下の方から新しいごみ袋を持った天蓬が戻ってきた。
「すみません、サボってて」
「いいんですよ、そもそも僕の部屋の片付けですしね」
 そう言って笑い、天蓬はごみ袋を広げ始めた。ふと、その目が八戒の持つアルバムに留まる。
「……欲しい写真あったら、持ってってもいいですよ?」
「……」
 思わず顔を赤くしてしまうと、天蓬はくすくすと笑って「幾らでもどうぞ」と言った。しかしそう言われると尚更開き辛くて困っていると、ごみ袋から手を離した天蓬が近付いてきて、八戒の手からアルバムを取り上げた。そして無造作に真ん中辺りのページを開く。
「だって僕、こんなにいっぱい三蔵の写真要りませんし……ね?」
 そう言われて更に赤くなる。このアルバムの写真を撮ったのは全部八戒だ。あの頃は、無意識にファインダーを彼に向けてしまっていて、現像した後、どうしてこんなに彼ばかり撮ってしまったのだろうと悩んだ覚えがある。
「……皆、変わりませんよね」
 天蓬が適当に選別して手渡してくる写真を受け取りながら、照れ隠しのようにそう言う。すると、天蓬の手が一瞬だけぴたりと止まった。しかしそれはすぐに元の動きに戻ってしまう。
「人は皆、変わるものですよ」
 いつもの口調で告げられた言葉に、どこか冷たいものを感じて八戒は少しだけ首を傾げる。十枚ほど写真を取り出してから天蓬はアルバムを閉じて、笑った。
「変わらないのは写真だけです」


 結局今日もあの人と会うことはなかった。酷いことをしている自覚がある。あの日からもうすぐ一週間になるのに、あの言葉を撤回する連絡が来ないのはつまり本気ということで。
(……何だか、なあ……)
 ソファに座っていた天蓬は、台所で野菜を切っている八戒の後ろ姿を見つめた。
 男にしたって、何を好き好んで自分なのだろう。普段から手が掛かるの何のと文句をつけてばかりだというのに、何で。
(八戒みたいなのだったら、まだしも)
 料理は上手いし、綺麗好きだし、優しいし可愛いし。幾らか兄の欲目が入っていたとしても、絶対に自分よりか人間として価値は高いはずだ。掃除は面倒臭がるし必要に迫られなければ自炊もしない自分と比べれば誰だってそう思うだろう。
 一度会って、一体自分のどこがいいのか訊いてみたらいいのだろうか。しかしそれには、どんな答えが返ってきても動じないという覚悟が必要だった。何を言われるのか皆目見当が付かない。そういえばそれ以前に、自分は男を抱く側にはなれないのだということを彼は知っているのだろうか。いや、やる気になれば出来るのかもしれないが、今までそんな心持ちになったことがないのである。
(抱いて欲しい、となったらどうしたものか……いやいや、逆だからいいってわけじゃないですよ?)
 ソファの上、スリッパを脱いで膝を抱えた。自分の膝に顎を載せてぼうっと野菜がフライパンの上で焼ける音を聴く。いい匂いがする。
(ああいい匂い。八戒は可愛いなぁ、料理は上手いし、言うことないですよね。三蔵は果報者ですよ)
 捲簾が自分を好きだと言うのが、八戒の身代わりにだとしたら、頷ける。顔は、同じなのだから。でももし本当にそうなのだとしたら、それこそ本当に断らなければいけない。流石に誰かの身代わりにされるほど安くないはずだ。それに、本当に好きなら身代わりなんかで満足出来るはずがあるまい。
(どうして、僕なんですか……ねぇ……)
 魚の焦げる匂いを嗅ぎながら、意識が揺れてきたことに気付く。このまま寝たら、八戒が怒りそうだ。しかしもう瞼が落ちる。
(……もう、むり)
 こてん、と膝を抱えたまま横に倒れる。眼鏡がずれた気がしたが、それを直すために腕を上げることすら億劫で天蓬はそのまま目を閉じた。音と匂いが遠ざかって行く。

「天蓬〜、出来ましたよごは……天蓬?」
 音が止み、大皿を持った八戒が台所から出てくる頃には、もう天蓬の意識はなかった。眼鏡を掛けたままソファの上で小さくなっている。床には先程まで彼がぱらぱらと捲っていたハードカバーの本が落ちている。
「……寝ちゃったんですね」
 折角夕飯が出来たのに、と思わなくもないが、最近あまり眠れていなかったはずの彼が自発的に睡眠を取ろうとしているのだからそっとしておいてあげなくてはならないだろう。
 皿をダイニングテーブルに置き、すっかり片付いた天蓬の部屋に入った八戒は毛布を一枚持って戻ってきた。そして、ソファの上で縮こまるようにして眠る天蓬から眼鏡をそっと外し、肩から下を覆うように毛布を掛けてやる。少しだけ彼が唸り声を上げた。
(……疲れてるんですね)
 いつか心の整理が付いたら話してくれると言ってくれた。いつでも聴く準備は出来ている。ソファの横に膝を付いた八戒は、彼の顔に掛かる前髪を少しだけ整えてやった。白い額が露わになる。
 壁に掛かったカレンダーに目をやった。両親の命日までもう少しだ。それも天蓬の心労を更に重くしているに違いない。彼が時折八戒に父を重ねてしまって、自己嫌悪に陥っているのを知っている。それを八戒がよく思っていないのだからやめなければならない、と自分を諌めているのも。
 八戒が嫌なのは、天蓬に『八戒』として見てもらえなくなることだ。父、『悟能』の代わりと思って欲しくない。今見ても、天蓬の部屋に置いてある家族写真の中の父は、自分によく似ていた。天蓬が思わず自分に重ねてしまうのも致し方ないと思うくらいに。天蓬が自分に父を重ねて、それで安心出来るのならそれでいいと思う反面、どうして『八戒』のままでは駄目なのだろうと思う自分がいる。八戒が定期的にきっちりと髪の毛を短く切り揃えるのはそのせいもあった。父は僅かに襟足の長い髪型をしていた。伸ばしたままでは、八戒の後ろ姿を見て彼がどう思うか分からない。
 いつでも頼ってくれていいのだと、そろそろ分かってくれてもいいのではなかろうか。
「ねえ、天蓬」
 もう、あの墜落現場で、あなたの手を掴んで泣いていることしか出来なかった『八戒』ではないんですよ。
 穏やかな彼の寝息を聴きながら、暫く八戒は座りこんだままいた。



 決意したところで実行出来るかと言えばそんなことはなくて。
 今日も今日とて、天蓬は図書館でぼうっとしていた。大学では、自分から会おうとしなくても自然に会えるのではないかとうろうろしてみた。しかし今日に限って彼は姿を現すことなく、無駄足に終わった。
(とりあえず、僕は男は抱けないんですよって、それは伝えておかないと)
 昨晩から悩み、どこかおかしな決心をしていた天蓬は、行動が空振りに終わったために、暇潰しに図書館に足を踏み入れたのだった。静かで空調もいい図書館は暇を潰すには最適なのだ。どうせなので前に八戒から薦められていた小説を借りてみよう、と上の階に上がるため階段の方へと足を向けた。
「……天蓬?」
 背後から名前を呼ばれ、階段に足を載せ掛けていた天蓬はその足を床に戻し、振り返った。どこか聞き覚えのある低い声。そして、振り返った先にいた男に、天蓬は思わず目を見開いた。
「……先輩」
 そこに立っていたのは、高校時代の二年先輩である、敖潤だった。

「久しぶりですね、もう一年振りになりますか」
「ああ」
 その後連れ立ってそのまま上に昇らずに一階の喫茶店に入った二人は、外に面した席に向かい合って座っていた。高校生の頃から立派な仏頂面だった彼はやっぱり年を取っても変わらない。自分より二つ上なのだから、もう二十二、二十三になるのだろう。生徒会長だった彼はその無愛想さもあり、取っ付き難いと有名だった。ただ面と向かって話をしてみれば、ふとした瞬間に彼の目の奥が僅かに緩むのが分かったりもする。勉強を訊けば懇切丁寧に教えてくれる、しかし必要以上には甘やかさない。天蓬はそんな分かり辛い優しさが好きだった。そんな彼に先輩先輩と懐く天蓬に、捲簾や悟浄は「物好きな」と何度も言ったものだったが。
「お前は……大学、四年になるか?」
「はい、今年四年です」
「早いものだな」
 彼と同じ学校生活を送ったのはたった一年でしかない。それももう六年も前の話だ。運ばれてきたコーヒーを口に運びつつ、正面の敖潤の顔を窺う。冷たい強面なのは否めないが、端整な顔立ちは変わらない。無愛想だが、いつも自分を見る時に少しだけ視線を優しくしてくれるのが嬉しかった。
「ずっと連絡が取れなくなってて心配しました」
「すまない、携帯電話を壊してな……引越しもした」
「そうなんですか?」
 でも何だかこちらから訊くのは気が引ける、と内心戸惑っていると、敖潤は無造作にテーブルの脇から紙ナプキンを一枚取り、胸ポケットからボールペンを抜き取って何かを書き始めた。コーヒーカップを持ったままそれを見つめていた天蓬は、ずい、とその紙ナプキンを差し出されて目を瞬かせた。
「……必要なかったか」
 彼がその手を引っ込めそうになるのを見て慌てて天蓬は手を出し、それを受け取った。書かれているのは住所と携帯電話の番号、メールアドレスだ。アドレスがデフォルトの、ランダムのアルファベットのままなのが彼らしい。
「いいえ、教えてくれないのかなーと思ってました」
 そう冗談めかして言うと、彼は少しだけ苦笑して「ならそう言えばいい」と言った。
「こちらから連絡しようかと思ったが、電話が壊れた時にアドレス帳のデータも飛んでしまってな」
「あ、なるほど」
 携帯電話を使い慣れると、アドレス帳も全て携帯電話任せにして他にメモを取っておかないことが多くなる。自分も今度暇があったらアドレス帳のデータを他に保存しておこうと思いながら、達筆な文字で書かれた住所を眺めた。
「……結構うちに近いですね」
 実際近いとは言いがたいが、前までは駅四つ分くらいあった距離が二つ分くらいには縮まっている。
「そうだったか?」
 そういえば昔から訪ねるのは天蓬の方で、彼を家に招いたことはなかった。きっと彼は自分の家を知らないのだ。
「そうですよ。今度よかったらどうぞ。弟と二人ですけど」
「ああ」
「また遊びに行っていいですか?」
「……私が休暇の時なら、自由に来るといい」
 そっけなく、それでも許可をくれる彼に思わず笑みが滲む。そんな大人の包容力に、ここ最近気張っていた神経がゆっくりと弛緩していくような気がした。椅子の背凭れに体を預けて、小さく息を吐く。
 そんな風にしているうちに、顎に何かあたる感触を感じて思わず肩を跳ね上げる。我に返って顔を上げてみると、敖潤の白い指が天蓬の顎をつい、と持ち上げていた。彼の鋭い視線の前に晒されて、少し戸惑ってしまう。
「先輩……?」
「無理はするな」
「……」
「顔色が良くない。今日も本を借りて帰ろうとしているのだろうが、夜更かしはするな。お前はすぐに自分の世界に入り込む。それと食事の不摂生も頂けんな、折角弟が料理上手だというなら規則正しく食事を摂れ」
 そう言ったきり、敖潤は手を引っ込めてその手をコーヒーカップに伸ばした。その指の動きを辿りながら、思わず肩から力が抜けるのを感じた。やはり昔から彼には敵わない。反抗期に差しかかった八戒との関係に悩んでいた頃も、成績について悩んでいた頃も、どうしても彼にはばれてしまった。顔色が良くない、なんて、今朝の八戒だって気付かなかったはずだ。昨日の晩だって寝過ぎるほどに眠ったのだ。
「今度は何について悩んでいるのか知らないが」
「先輩」
「何だ」
「せんぱい……」
 そう言った後、どう話していいのか解らなくなってしまって、思わず両手に顔を埋める。その奥でカチャン、と小さな陶器のぶつかる音がした。手から顔を離して彼を見てみれば、ただでも白い彼の顔が更に白くなったような気色だった。青褪めている、と言うに相応しい。
「先輩?」
「な……何か……悪いことを言っただろうか」
 彼は珍しくつっかえつっかえにそんなことを言った。一体何を言っているのだろう、と自分の付近を見渡してみる。ああ、何ということはない、彼は自分が泣き出したものと勘違いしたようだ。泣きたい気分であるのは相変わらずであるが。
「泣いてませんよ」
「そ、そうか……」
「泣きたい気分ですが」
「!」
 分かりにくいようで本当に解りやすい、優しい人だ。天蓬を凝視する、その赤い目を見つめ返して、薄らと微笑んだ。無性に誰かに甘えたい気分だったのだ。しかしその穏やかな時間も、すぐに過ぎてしまう。暫く心配そうに天蓬を見つめていた彼は、段々と腕時計へ視線を滑らせるようになった。
「……すまない、そろそろ昼休みが終わる」
「あ……」
 自分と違って彼は社会人なのだ。もう会社に戻らなければならないのだろう。長い時間引き留めてしまったことを謝ると、彼はゆっくり首を振った。そして立ち上がり、テーブルに置かれていた伝票を手にした。そのまま歩いていってしまいそうな彼を慌てて引き止める。
「あ、僕が払います」
「学生に払わせるわけにはいかんだろう」
「でも……」
「いらなく遠慮するんじゃない。……何かあったら、連絡して来い。十時過ぎなら出られる」
 そう言って彼は座ったままの天蓬の頭を二、三度撫でてから身を翻した。会計に向かうその後ろ姿を、撫で回されて乱れたままの髪で見つめていた天蓬は、彼がドアを押して喫茶店を出て行く頃になってから、ぱたぱたと乱れた髪を直した。いけない、きっと顔が赤くなっているだろう。あの人は自分を一体何歳だと思っているのだ。
(敵わない)
 テーブルに置かれた、綺麗な字の並ぶ紙ナプキンを見下ろして天蓬は溜息を吐いた。



「……出ねえし」
 悟浄はそう言って舌打ちをし、携帯電話をパチンと閉じた。そして照りつける日差しを避けるように、近くのコンビニの影へと隠れる。じりじりと肌が焼け付くようだ。まだ夏にもならないというのにどうなっているのだろう、この天気。肌に滲む汗を拭いつつ、再び携帯電話に視線を向けた。先週の今の時間なら、確か彼は暇そうにぶらぶらしていたはずだ。
「……やっぱアポなしじゃ面会不可、ってことか?」
 顔を上げれば、綺麗に整えられた並木道がある。それを辿って五十メートルほど進むと、悟浄が会いに来た男の通っている大学がある。小奇麗で洒落たデザインの校舎が立ち並んでいる。ここに通う四年の男に用があった。
「……うおーい、てんぽー」
 半端に首を突っ込んでしまった恋愛事情に、見て見ぬ振りも出来なくなった人のいい悟浄はこうして、ある意味被害者でもある当事者に会いに来たのだ。しかし携帯電話の電源は切られており、校門付近を張ってみたところで出入りする学生の中にあの綺麗な顔をした男はいない。
(喫茶店でも入るかな……メール入れてあるし)
 流石にこの暑さの中で待ち続けるのはきつい。この先の校門付近に小さな喫茶店があったのを思い出して、悟浄は影から一歩日向へと足を踏み出した。日差しが刺すようだった。
 その喫茶店は、入ると見た目よりも割と広かった。レトロなドアが、開けるとなかなか懐かしいベルを鳴らす。そんな音を聴きながら店内に入ると、涼しい空気が頬を撫でた。店内を見渡す悟浄に、店の奥から自分よりも幼そうな少女がメニューを持って歩いてきた。
「お一人様ですか?」
「あ、はい」
 人好きのしそうな朗らかな笑顔を向けられて悟浄は頷く。前を行く少女について店内を奥へ歩いて行く。
「……悟浄?」
 横を見ずに歩いていた悟浄は、急に横から声をかけられて、行き過ぎた分を取り戻すため後ろへ二歩歩いた。
「あれ、八戒」
「久しぶりですねぇ、どうしたんですか?」
 後ろから悟浄が付いてこないことに気付き、少女が戻ってくる。そして二人が知り合いと見たのか「相席になさいますか?」と訪ねてきた。それに悟浄が頷き、八戒の向かい側に座ると、にっこりと笑ってメニューを置いた。
「あ、じゃあアイスコーヒー一つ」
「かしこまりました」
 メニューを引き取り、頭を下げてから少女は戻っていった。その後ろ姿を見ていた悟浄は正面から八戒に声を掛けられて顔を戻した。
「今日はどうしたんですか? こんなところまで」
「あ? ああ、ちょっと天蓬に用があってさ。お前は……って、三蔵か」
 そう言われて、目の前の少年は僅かに頬を染めたが、その後嬉しそうに一度頷いた。そんな風な顔をされたら、逆にこちらが恥ずかしくなるというものだ。
「あと二十分もあるんですけど……つい早く来ちゃって。悟浄は、天蓬と約束を?」
「いんや、約束なし。この時間なら多分暇してるだろうなぁと思ったんだけど……いねぇんだこれが」
 ぱたぱたと手を振って、悟浄はポケットから携帯電話を取り出した。返事は来ていない。まだ電源を入れていないのか、それとも入れられない場所にいるのか。いずれにしても今日会うのは無理かもしれない。運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけて、溜息を吐いた。
「らしくないですねぇ、悟浄。最近の天蓬みたい」
「え?」
「何か悩みがあるみたいで。いずれ話してくれるって言ってるんですけど、いつになるのかなぁ」
 八戒はそう言って、自分のコーヒーカップを持ち上げた。視線は窓から外の校門に向けられている。悟浄は口の中で舌を転がした。
(やっぱ、悩んでるかー……当たり前か。そりゃあそうだよなぁ)
 天蓬の喩えではないが、自分だって男友達から急にそんなことを言われたら数日間塞ぎ込むくらいには悩むだろう。それが失いたくないほどに親しい友人であればあるほど。天蓬が捲簾を嫌いではないのは確かだ。ただ、友人から恋人に変わるのはそう簡単なものではない。男女間であっても悩むことを、男同士でしようとしているのだから困難が付き纏うのは致し方ない。
「大丈夫ですか? 悟浄」
「あー……? 大丈夫大丈夫、俺はね」
 奴等はかなりやばいけど。そんな風に心の中で思いながら、大きく息を吐いた。その後ろから、カランカラン、と先程聴いたベルの音が聴こえて来る。目の前の八戒の顔がぱあっと明るくなるのを見て、悟浄は背筋が寒くなる思いがした。恐らく、この背後から感じる、やけに懐かしい――殺意じみた気配は、奴だ。その、奴の恋人との待ち合わせの場に、居合わせてしまったということは。
「……ゴキ」
 正式名称すら言わない辺り、相当怒っている。錆付いたように動きの鈍い首を回して後ろを向くと、腕組みをしたブロンドの男が、迫力のありすぎる強面でこちらを睨んでいた。
(男の嫉妬ほど見苦しいものはないねぇ……)
 そんなことを口にしたら明日にはここは殺人現場としてワイドショーで紹介されることになる。それはあの少女にも申し訳ないので、悟浄は一応黙っておくことにした。
「三蔵さん」
 しかし恋人に名前を呼ばれるとその恐ろしい顔がふわりと緩むのが堪らなく……堪らなく気持ち悪い。しかし八戒にはそう思えないらしく、そんな恋人の笑顔に嬉しそうな顔をしている。中てられた、というに相応しい状況に、悟浄は再び大きく溜息を吐いた。
 八戒が内側に寄り、その隣へ三蔵が座る。正面にいる悟浄は居辛くて堪らない。逃げてしまおうか。
「そんなに悟浄を睨まないで下さいよ」
「何でこいつがここにいるんだ?」
「天蓬を探していたらしいですけど」
 そう言う八戒に、三蔵は片眉を上げ、その後悟浄に向かって訝しげな顔をした。
「約束したのか?」
「や、してないけど……」
「天蓬なら図書館の喫茶店で見かけた。男と一緒だったな」
「男……?」
「あれは確か……」
 何かを思い出すように目を細める三蔵を、期待を込めて見つめる。捲簾だったり、しないだろうか。
「高校の時の……」
 高校の時、というのは間違ってはいないが、わざわざ捲簾に“高校の時の”などとつけることはないだろう。だとしたら、捲簾じゃなければ一体誰と一緒なのか。まあ友達と一緒でも全くおかしいことはないのだが。
「……名前忘れた」
「……。ったく、役に立たねぇなこのハゲ!」
「あんだとこのゴキブリ!」
「二人ともやめて下さいこんなところで!」
 抑えた、それでも鋭い声で八戒に制されて二人揃って口を噤む。ずっと年下だというのに、その口元に湛えられた笑みが恐ろしい。恋人であるはずの三蔵ですら、視線を逸らしてばつの悪そうな顔をしている。
「で、その男の人って、高校の時の何なんですか?」
 もう教えるつもりはなかったはずの三蔵は、純粋な目で八戒に尋ねられ、一度悟浄を睨みつけてから静かに口を開いた。
「……一年の時の、生徒会長だ。天蓬と仲が良かった」
「え? 何で?」
 思わず訊いてしまった悟浄に、三蔵は「知るか」と吐き捨てた。フン、と鼻から息を吐いた三蔵はもう何を訊いても答えてくれなさそうだ。諦めた悟浄は、視線で八戒に謝意を伝え、席を立つ。
「んじゃ、こっからは恋人同士の時間ってことで」
「悟浄!」
「そんじゃまたなー」
 そう言って二人に背を向け、会計へ向かう。そしてすぐにドアを引いて外へ出た。相変わらずに日差しが肌を刺し、目を眇めながら通りへ出る。太陽の日差しが並木道の木の葉に弾かれて輝いている。
(……面倒にならなきゃいいけどねぇ)
 思い返すのは数年前の彼と、件の生徒会長の姿だ。無愛想で厳しい銀髪の生徒会長に、飼い主の足元に仔犬が懐くように近づいて行く友人の姿が何度も見られた高校一年の頃。信じられない、と皆が口々に漏らしていたものだった。それは勿論悟浄と捲簾もである。特に捲簾は彼との折り合いが悪く、生活態度の面で何度も彼と衝突していた。
(面倒になら……ならないはずないような気がしてきた)
 どうしてこうもあの男は面倒を引き寄せるんだ、と捲簾に対してか天蓬に対してか毒づいた悟浄は、日差しで暑くなった髪の毛を何度か描き毟った。


 十数分前の三蔵は、腕時計を時折眺めながら歩いていた。約束まではあと二十分ほどある。しかし待ち合わせ相手の彼は、「今来たばかりです」と言いながら、いつも約束の三十分前にはその場に立って待っているような人だ。前、寒い時期に外で待ち合わせた時には鼻の頭を真っ赤にして立ち尽くしている彼を見て罪悪感を感じたものだ。だから三蔵は、彼との待ち合わせはなるべく屋内に、そして自分も約束の時間より少し早く着くようにしているのだった。今日もこの分なら十分前には着きそうだ。
 そう思いながら、日差しの強いアスファルトの道を歩く。照り返しが厳しいな、と思いながら、如何にも涼しそうな建物の中を見た。
(……?)
 その建物の中に、見知った姿を見かけて三蔵はふと立ち止まる。その建物は図書館、その一階に入っている喫茶店だ。窓辺の席に座っている彼は、正面に向かって何か話しかけている。
(誰だ?)
 正面にいる男は、三蔵の知る限りでは彼の友人ではない。三蔵の知らない彼の友人、という可能性もあるのだが、少し気になって目を凝らす。その目に映ったのは、どこかで見覚えのある男だった。
(……あいつ……高校の時の……)
 生徒会長だ。厳しく無愛想で有名だった。三蔵は話したことがないが、よく彼が話しているのを見かけたものだ。三蔵は納得して待ち合わせの場所へ向かって再び歩き始める。
 目に残る彼の顔が、昨日自分が見たような沈んだ顔ではなかったことに、安堵と言葉にならないやり切れなさを感じながら。










竜王と天蓬がやたらとラブってる!まずい!(話の方向性が)敖天も好きなんです。       2006/8/15