好きになってなんて言わないから、この実らない恋を早く摘み取って。
 早く。
 早く。

 八戒は昔から綺麗な男の子だった。他人目には全く分からないが、彼は父親似で兄は母親似であるらしい。ただ、彼は出来過ぎた兄に反抗するように少しひん曲がった時期があった。曲がり方が尋常ではなかったのだが、それもまあ、あんな全てを兼ね備えたような兄がいたらと思えば致し方ないと……同情出来なくもない。兄への劣等感に苛まれて、それでも兄を嫌うことなど出来ずに迷い続けた彼が、初恋の相手の想い人がその兄だったと気付いた時の衝撃は、計り知れないだろう。
 そしてその罪な八戒の“初恋の相手”、三蔵という男だが、捲簾が彼を苦手になったのは高校一年の秋頃からだったろうか。最初の頃は何ということもなかった。口が悪いくらいならば何も気にしない。慣れている。可愛げがないのも別にいい。別に男友達に可愛げなんて普通求めないだろう。――――それが急に、苦手意識を持つようになったのは。
『……三蔵さんってね、昔天蓬のこと好きだったんですよ』
 知っていた。一番近くからそれを見ていた。最初はそれこそ“何となく”のレベルで、彼が天蓬を見る視線が他と違うことに気付いたくらいだった。それが確信に変わる頃、どうしてか三蔵から一歩引くようになってしまっていた。何故かは自分でも分かっていなかった。苦手なものに理由はない、というのが理由だと思っていた。別に三蔵が男を好きだから引いた、というのでもない。自分はそういう性癖ではないけれど差別をする気持ちもなかった。そういう性癖の友人も持っていたけれど、その友人へはそういう苦手意識はなかった。では、三蔵の何が自分を遠ざけたというのだろうか。それが今でも分からなかった。
 三蔵が八戒と付き合い始めたのが、高校の卒業式の前後だっただろうか。それを自分は、どこか嬉しそうな天蓬から聞かされたのだ。天蓬は何よりあの弟を大事に思っていて、彼が心を全て許して曝け出せる相手が出来たことが嬉しいのだ、と言っていた。
 三蔵はいつ、叶わぬ恋心を捨てたのだろう、とその時にふと考えた。受け入れられるか突っぱねられるかの五分五分の賭けをするか、心を押さえ込んで一生の友情を選ぶのか、という二択だ。そしてつい最近まで、自分は同じことで悩んでいた。そして自分は三蔵とは逆に、前者を選んだ。しかし受け入れられる五分の可能性を信じているわけではない。彼はきっと今どうやって断ったものかと悩んでいるに違いない。そんな風に悩ませてしまったことは申し訳なく思う。しかしそれも、最後の我儘だと思って、我慢してもらうほかなかった。


「……さんぞー、天ちゃん帰ったのか?」
 三蔵がコーヒーを淹れようと一階に降りると、リビングの前でどこか挙動不審にうろうろしていた悟空が階段から下りてくる三蔵を認めて駆け寄ってきた。そして不安げに三蔵を見上げてくる。悟空の髪が濡れていた。大方天蓬は彼が丁度風呂に入っていた時に帰ったのだろう。その茶色の髪の先から水滴が、首から提げたタオルに落ちていくのを見つめて、三蔵は溜息を吐いた。
「ああ。……宿題の範囲は後で電話するとよ」
 あの沈黙の後、ゆっくりとベッドから起き上がった彼は、悟空の数学のテキストをテーブルに置きながらそう言って帰っていった。自分は一度も振り返らなかった。何としても口を割ろうとしないあの強情張りに何と声をかけていいのか分からなかったからだ。その彼は、ドアを開けてから一瞬戸惑ったように動きを止め、その後ゆっくりとドアを閉めて出ていったのだ。
 悟空から離れて台所へと入る。隅に収納されたコーヒーメーカーを引っ張り出していると、台所の入り口から悟空が顔を出す。
「……なあ、三蔵」
「何だ」
 コーヒーメーカーでドリップを始める。ぽた、ぽた、と黒い液体が落ちていくのを眺めながら訊き返すと、悟空の僅かに沈んだ声が耳に届いて、思わず三蔵は振り返った。少年の顔は沈んでいて、口は憮然としたように歪んでいる。天真爛漫な彼としては、珍しい。
「天ちゃん、何か悩んでるんだ」
「……だろうな」
 同調する言葉を口にした三蔵に、悟空は弾かれたように顔を上げた。
「三蔵は何でか、知ってるのか?」
「知らねぇよ。……あいつは何も言わねぇからな」
 そう、昔から何も言わない。余計なことばかり口が回るのに、重要なことばかり黙っている。
 最初は単に美人だと思った。そして次に何て図太い神経を持っているのか、と思った。常に強気で堂々としていて物怖じすることがない。それが基本の彼だった。しかし数ヶ月と付き合うようになって、そんな彼が時折何か壁に当たる度に刹那的に影を見せることが気になるようになった。……たったそれだけのことで彼に“落ちた”だなんて、ずっと認めたくないと思っていた。
「辛くないはず、ないのにな」
 悟空が拗ねたようにそう言う。天蓬が自分に何も話してくれないことに拗ねているのだろう。三蔵はそれから目を逸らして、コーヒーメーカーに視線を移した。黒い液体が半分ほどまで溜まっている。その黒さが、彼の髪の色を髣髴させた。ポケットから煙草とライターを取り出す。一本取り出して口に咥え、火を着けた。吐き出した煙が視界を白くする。そして頭に思い浮かんだ、何もかも覆い隠すような無理をした笑顔に胸糞が悪くなり、それに向かって煙を吹き掛けるように息を吐いた。
 辛くないはずない。そうだろう、天蓬。
「……髪を拭け。さっさと寝ろ」
「ま、まだ八時だっつの!」
「宿題もまだなんだろう」
「……う、わ、分かったよ!」
 言葉で軽くあしらって悟空を部屋に戻す。バタバタと彼が騒がしく階段を駆け昇っていく音を聞きながら、三蔵はダイニングの椅子に腰掛けた。血は少しも繋がっていないというのに変なところだけ似てしまって困ったものだ。
 まだ黒い雫は落ちてきていたが、そのままサーバーを取り外してカップに注いだ。ふわりと熱い湯気が立ち昇る。カップを両手で包み込み、じっとその湯気を見つめた。音はリビングの振り子時計のゆったりとした音しかしない。
 あの日彼への想いを封じようと決めたことは、間違いじゃなかったはずだ。危険な賭けをするよりも、長く続く友情を選んだのは臆病からじゃないはず。後悔なんてもってのほか。そのはずだ。男の友人の部屋に来て警戒心を持つ人間の方がどうかしているだろう。ただ、あれの場合はひどすぎた。そう簡単に周りに気を許さないくせに、気を許した途端あれだ。相手は自分に何一つ危害を加えるはずがないと信じてかかっているようなそんな雰囲気すらする。そんな彼に、“心苦しい”と感じてしまうのは、何か自分に疚しい思いでもあるせいだろうか。
(何だ、疚しいって……)
 自分には八戒がいて、後悔もしていないし毎日満ち足りている。あんなズボラで猪突猛進型で手が掛かる男と違って、料理も洗濯も掃除も得意なのだ。それに……と次の文句を考えかけて、三蔵はふと我に返り、両手の中にあるコーヒーカップを見つめた。どこかその文句が、とってつけたようになってしまったようでばつが悪くなったのだ。
 黒い液体の水面に、苦虫を噛んだような自分の仏頂面が映っている。
 台所の小さな窓からは沢山の星が見えた。


 その頃当事者の天蓬は、人も疎らな住宅街の道路を歩いていた。ぼうっとする。漸く眠くなって来たようだ。家に帰ったらシャワーを浴びてさっさとベッドに入ってしまおう。余計な事を思い出さないうちに。
 天蓬は器用なようで非常に不器用だった。思い出したくない、思い出したくないと思うことに限って、頭を巡って離れなくなってしまうのだ。いっそ記憶が部分的に消せればいいのに、とすら思う。楽しい記憶はどうしてか劣化して、消え去っていくのに、苦しい記憶だけはいつまでも鮮明に、綺麗なまま残ってしまう。それが辛くて辛くて仕方がない。
(お父さん)
 小さな頃から神経が過敏で、度々調子を悪くしてしまう天蓬を慰めたのは父親の大きな手だった。それが優しく髪を撫で、背中を擦るのを感じるだけで幾らか楽になったものだった。そうして父に依存して生きてきたため、突然傍から消えた大きな父性に、不足を感じているのだ。男でも女でもいい、と思うようになったのは、そのせいなのかも知れない。自分を支える、強い腕を欲したせいだ。
 外灯の下を通ると、羽虫が飛んでいて鬱陶しい。首を振りそれをかわして歩を進める。もう今更何を悩んだって遅いのだ。

 その頃、八戒もまた家の近くのコンビニで捲簾と別れてから買い物をしていた。朝に飲む牛乳を買い忘れたのに気付いたのだ。牛乳や序でのガムなどをレジで会計してから、家へ向かう。天蓬はまだ帰っていないだろうか。手に食い込むビニール袋を逆の手に持ち替えながらマンションを見上げた。自分の家の窓の辺りがぼやりと明るい。電気が点いている。
(もう帰ってるんだ……)
 そう思うと、すぐにその笑顔が見たくなって、八戒は足を速めた。このまま彼が寝てしまったら明日にならないと会えない。明日も早く彼が家を出たら、明日の夜、明後日。どちらにしても早く彼の顔が見たかった。彼はまだ悩んでいるだろうか。泣きはしないだろう。強い振りをするのが巧い人だから。だけど少しは頼って欲しいのだ。全てを背負い込むのをやめて、その重さを少しだけでもいいから分けて欲しい。自分はもう高校三年で、いつまでも守らなければならない存在ではないのだと分かって欲しい。
 エレベーターのボタンを押して、少しの時間も惜しいというようにランプが下りてくるのを見つめた。

「……天蓬!」
「おや八戒、どうしたんですか? そんなに急いじゃって……」
 八戒が急いで家に帰り、慌てて靴を脱いでリビングへと向かうと、濡れた髪をタオルで乱暴に拭いながら煙草を吸っている天蓬がいた。驚いたように彼は煙草をテーブルの上の灰皿に押し付けてから八戒に向き直った。ふにゃ、と自分に向けられる柔らかい笑顔に、張り詰めていた心が弛緩していくようで思わず力が抜けて、テーブルに寄り掛かってしまう。すると彼は目を見開いてこちらに近づいてきた。
「八戒、具合が悪いんですか? 頭? お腹?」
 心配げに自分の顔を覗き込んでくる、自分よりも僅かに背の低い兄に思わず笑ってしまうと、彼はきょとんとして目を瞬かせた。
「大丈夫です、どこも痛くないですよ」
「そうですか……?」
「はい」
 笑ってそう言うと、彼はまだ少し不安そうだったものの漸く引き下がった。
「コーヒーでも淹れますね。あ、ご飯はどうしました?」
「三蔵のうちで食べてきました。家政婦さんがいなくて僕が作る羽目になっちゃいましたよ」
 そう言って笑いながら天蓬はリビングのソファに身体を埋めた。相変わらず乱暴にがしがしと髪を拭いている。後で注意しなくては。買ってきた牛乳を冷蔵庫にしまいながら、彼の様子を窺った。何か考え込んでいる様子はない。
「そういえば悟空も成長しましたねぇ」
「天蓬、何ヶ月かぶりでしたもんね」
「すっかり大人になっちゃって……男の子だから当たり前だけどびっくりしちゃいました」
 そんな風に、本当にびっくりしたと言うように言う天蓬に、くすくすと八戒は笑った。きっとエロ本か何かのことだろう。そういえば自分が行った時にも出しっ放しにしてあったことがあった。八戒がどうしたものかと戸惑っている中、隠そうとすることもなく「友達が置いてったんだ。あげるって」とあっけらかんと言うものだから逆に拍子抜けしてしまった覚えがある。
「必死に隠そうとするからおかしくって、ついからかっちゃいました」
 その言葉に目を瞠る。そしてすぐにまた笑った。悟空が天蓬を好きなことくらい何年も前からの事実だ。流石に好きな人に見られるのは恥ずかしかっただろう。焦って本を隠そうとする悟空の顔を思い浮かべるとおかしくて、何だか少し可哀想でもあるのだった。
 コーヒーカップを二つ手にして、八戒はリビングに戻る。そして首からタオルを提げてだらりとしている天蓬の前に片方のカップを置いた。
「ありがとうございます」
 天蓬は笑っている。少なくとも、昨日一昨日の余裕のない顔はしていない。しかしそれは悩みを解決したからではなく、痛みに慣れて感情を隠すことが出来るようになったからだ。大好きな兄とはいえ、その揺るぐことのない鉄壁は憎い。さっきからどうしようか、と悩んでいた言葉が頭を巡る。揺さぶりを掛けてみようと思ったのだ。彼の表情に変化が訪れるかどうかの。
 八戒は唇を舌で湿らせた。理由もなく緊張している。開いた口から震えた声が漏れないように、慎重に声を出した。
「あのね、今日図書館で捲簾さんに会いました」
「……」
 表情は変わらない。しかし一瞬だけ彼が怯んだ気配がした。申し訳なく思いながらも心は歓喜に湧いた。多分今一番振られたくない話題だったに違いない。すぐに言葉を返さずに曖昧に笑っているのがいい証拠だ。
 短い沈黙が流れた後、彼はゆっくりと微笑みながら、コーヒーカップを持ち上げて口をつけた。
「……何か、言ってました? あの人」
 ああどうしてこんなに似ているんだろう、と思わず場違いにも笑ってしまいそうになった。その気配が滲み出たのか、天蓬は少しばつが悪そうに視線を逸らして、コーヒーをちびちびと口に運んでいる。
「寧ろ僕が“どうしたんですか?”って訊いちゃいました」
「え?」
「天蓬が最近どこかおかしいのは、捲簾さんと喧嘩したからかなって思って」
 目の前の兄の眼が見開かれる。大きな黒目が八戒を映している。そのまま、反論も、仮面をつける暇すら与えなければいい。何でもないなんて、もう言わせるつもりはなかった。
「何があったんですか? 天蓬」
 戸惑ったような顔をしたままの彼の髪から、水がぱたぱたと滴り落ちて服を濡らす。それを見て、八戒はゆっくりと立ち上がってソファに座る彼の後ろに回った。そして不思議そうな顔をする彼からタオルを抜き取って頭に被せてしまう。そしてゆっくりと髪から水分を吸いとるように頭を拭いていく。
「もう、乱暴に拭いちゃだめですよ」
「そんな、女の子じゃないんですから」
 タオルの下からくすくすと笑う声が聞こえる。
「あんまり乱暴にしたら、若ハゲになっちゃいますよ?」
「頭皮に刺激を与えるのも大事かなぁと」
 ポンと放ればすぐに返ってくる言葉に、八戒もくすりと笑う。このままでなんていられないのに、ずっとこのままいたいと思ってしまう。
「……ねぇ八戒?」
「はい?」
「もうちょっと、待ってくださいね」
 一瞬何のことだろうと戸惑って、次の瞬間、八戒は大きく息を吐いた。
「今勢いに任せて話したら、あることないこと本音から嘘まで何でも言っちゃいそうなんです。だから、もう少し話を纏める時間をください」
 それは少し淋しかった。本当は、あることないこと本音も嘘も、言いたいことを何でも言って欲しかった。だけど彼が、自分と同じでプライドの高い人だと解っていた。自分だったら、悩みに悩んで話も纏まらない中で誰かに相談なんて出来ない。そう考えれば、自然と彼がどんな風に考えていて、“待ってください”と言っているのかが分かる気がした。
「……分かりました」
 そう殊更優しい声音で言えば、視線の下の彼が少しだけほっとしたような気配がした。この人が珍しく、緊張していたのだろうか。そう思ったら、彼がどうしようもなく愛しかった。タオルを髪に被せたまま、八戒は後ろから天蓬の首に抱き付いた。自然とタオルを被った頭に頬を寄せる形になり、共用しているシャンプーの匂いがした。
「……八戒?」
 戸惑ったように彼は後ろを向こうとするのだが、抱き付かれた格好ではそれもままならないらしい。それを見て八戒はくすくす笑った。
「どうかしたんですか……?」
「何でもないですよ」
「はあ……」
 腕はそのまま、それでも顔を彼の頭から離すと、彼は首を捻って八戒を見上げてきた。そしてころころとおかしそうに笑う。
「何だか今日は僕も八戒もおかしいですね」
 そう、今日の自分は何かおかしいのだ。そういうことにしておいて。
 自分を見上げてくる天蓬の額にちゅ、と触れるだけのキスをする。彼はぱちぱちと瞬きをして、それでも何が何だか分からないような顔をして、答えを求めるように八戒を見上げてきた。



『で、どうよ? 首尾は』
「上々」
『え?!』
「……の、はんたーい」
『……小学生かよ! ったく、人が折角こう心配して電話してるっつーに……で、じゃあやっぱ逃げたんだ、あいつ』
「ああ、完璧なまでにな」
 八戒とコンビニで別れてから、捲簾は一人で家路に就いた。いつもなら自炊する夕飯も、台所に立つのが面倒で結局近所のコンビニで弁当を買って帰ることになったのだった。温められた弁当の妙な温かさを感じながら家のドアを開けると、その直後に家の固定電話のコール音が鳴り響き始めたのだ。誰からかと慌てて靴を脱いで受話器を取ってみれば、友人の間の抜けた声。
 電話を床に引っ張り下ろして、そのまま床に胡坐をかく。受話器を肩と頬に挟んで上着から腕を抜き、友人――悟浄の話に耳を傾けた。
『……結構、辛くね?』
「辛いよ。自分史上最高に」
 脱いだ上着を奥のソファに放り投げて、横にあるチェストに寄り掛かった。何をするのもだるかったが、腕を伸ばして靴下を脱ぐ。
「お前、今家?」
『や、まだ事務所。だけど次の打ち合わせが八時半からでさ、暇だから』
「俺も、何でこういう日に限ってバイトが入ってねぇんだろ……」
 仕事が忙しければ忙しいだけ仕事に忙殺されて悩みを忘れることが出来る。にも関わらず、今日に限ってバイトがなかった。チェストの上を見上げて時計を確認すれば時計は八時を差そうとしていた。手を伸ばしてコンビニの袋を引き寄せ、中から弁当とペットボトル飲料を取り出す。袋から出した割り箸を口に咥えてパキンと割った。
『何? これから飯?』
「ん」
『自炊する元気も出ねーってか。重症だな』
「……まあな」
 プラスチックの蓋を開けて、適当に唐揚げに箸を突き刺す。脂っこいのは承知の上だ。
「らしくねぇことばっかりだよ」
 こんな風に床に座って友人に愚痴りながらコンビニ弁当を食べるとか、そこらに服を脱ぎ散らかすとか、今までやったことのないことばかりだ。図書館で後ろから八戒に声を掛けられて、らしくもなく驚いてしまったこととか。
「今日八戒に会った」
『へえ?』
「天蓬と何かあったのかって訊かれた。……まああれは、喧嘩でもしたのか、って感じのニュアンスだったけど」
『ホント頭のいい兄弟だよなぁ。無駄に』
 本当はそう訊かれた時にも、薄暗い中で見る八戒のその目が天蓬のそれに見えて、自分を責めているような気がしたのだ。
「……俺の選択は間違ってたのかもな」
 三蔵のように、全て押し殺して好い友人でいるべきだったのかも知れない。そうすれば、三蔵に八戒が現れたようにいずれ自分にも自然に収まる相手が見つかったのかも知れない。そうすれば天蓬も悩まず済んだし、自分も―――。
『……おい。黙ってそこにいろよ』
「あ?」
『今から殴りに行くから』
「は?!」
 明らかに怒気の篭った悟浄の声に、受話器を見つめて目を瞬かせる。その間にも低く抑えられた彼の声が受話器から漏れ出てくる。
『昨日』
「え?」
『覚悟あんのかって、訊いたよな?』
 捲簾はゆっくりと目を見開く。それは昨日の、ファストフード店でのこと。今まで築き上げた友情も何もかもふいにする覚悟があるのかと悟浄は捲簾に訊いたのだ。全てを捨てて少しの可能性に掛ける危険を冒す覚悟があるのかと。
「……悪ィ」
 これでは、覚悟など何も出来ていなかったようだ。今更なのに過去の選択を後悔して、今更なのに喪い掛けている友情に追い縋っている。何もかも、覚悟済みのことのはずだったのに。殊勝に謝罪をすると、受話器の向こうの悟浄は憮然として鼻から息を吐いた。
『後悔すんなら端からやるなっつーの。……まあそれでもやっちゃうのがニンゲンなんだろうけど』
「返事がないのがごめんなさいの代わり、って気もするんだけどな。けど、やっぱり断られるならきっぱり言われた方が後腐れないし」
『ご尤も。まあ、めでたく振られたら一晩呑み交わそうぜ』
 そう言って電話の向こうの友人は笑った。思わずこっちも笑ってしまう。
「全ッ然めでたくねぇの……」
『お前さ』
「あん?」
『追いかける側の気持ちを、今頃んなって身をもって知ってるんだろ』
 捲簾は箸を咥えたまま固まった。今までは、女を誘って、陥落させることばかり繰り返して女を追ってばかりいたけれど、それでも精神的には追う立場ではなかった。自信もあって余裕も十分にあり、追いかける側の不安や痛み、苦しさも何一つ知らなかった。
『イヤミな奴だよなぁ、今まで追いかける側になったことがねぇ、なんて』
「……んなこと、ねぇと思うけど」
『痛いだろ、追う側ってのは』
 それをここ一ヶ月ほどで、痛いほどに感じた。不安と振り向かれない淋しさと痛さ。
「……痛えな、これは」
 知らなくても生きられたかも知れない。けれど、知ってよかった、と思えればそれで幾らか痛みも薄れよう。
 彼から与えられた痛みと思えば、それも少しは愛おしく思えようか。












飢えのせいでとうとう八天の自給自足に出ました。
ボーカルアルバムの八戒独白のシナリオ(お蔵入り)を見てたんですが、花喃は八戒より天蓬寄りな感じですよね。    2006/7/31