天蓬は大きな家の前にいた。何年も前から馴染みの家ではあるが、ここ最近訪れることのなかったその家は相変わらず大きく豪奢だ。特に煌びやかというわけではないのだけれど、細部にまで凝った日本家屋はまるで大きな寺のようだ。どこかの古都にタイムスリップした気分にさせられるその大きな木の門を見上げて、表札に目をやり、一度大きく息を吐いてからその横にある唯一現代風な呼び鈴のボタンを押した。その返答は、存外すぐに来た。しかし予想していた、落ち着いた家政婦の声ではない。スピーカーから聴こえる賑やかな声とドタバタという足音にきょとんとしていた天蓬は、ゆっくりと頬を綻ばせる。そうしているとすぐに門の奥から足音が聞こえてきた。そして少々乱暴にその木の門は開かれた。そしてその奥から小さくて茶色い毛のものが天蓬に向かって飛びついてくる。
「天ちゃんっ!」
 飛びついてきたその生き物は、嬉しそうに天蓬の身体に顔を擦り寄せた。それを天蓬もまた微笑ましく見下ろす。そして少しだけのその髪の毛を撫でてやると、その生き物はにこにこ笑って天蓬を見上げた。
「久しぶりですね、悟空」
「うん、本当だ! 俺が高校に入ったきり会ってなかったもん」
 少年は悟空という。六つ年下のその少年は、天蓬が高校一年で三蔵の家に初めて招かれたその日から、天蓬の何が気に入ったのか実によく懐いてきた。そう、彼は三蔵の弟だ。但し義理の。彼の父がどこかから引き取ってきた子らしい。あまり幸せな生い立ちとも言い難いのだろうが、彼がとても幸せそうなのでそれはいいことにしておく。存外に心持ちのしっかりした子なのだ。時折情緒不安定になる彼の兄よりも、却って冷静で動じないタイプなのかもしれない。
「そろそろ八戒が試験期間に入るので、当分僕がお相手することになりました」
「本当に?! やった!」
 制服の黒いパンツに上はTシャツの少年は身体全体で喜びを表す。そんな素直な様子に笑いを誘われながら、天蓬は彼を門の中へ促した。門を閉めることも忘れて中に入っていく少年に代わって天蓬はその門を閉めて、ゆっくりと少年の後ろを追った。飛び石が延々と続く。ここが都内の一等地だというのが信じられないと言うより信じたくない。見渡せばさわさわと揺れる緑に灯篭や水鉢がある。住む世界が違うとここに来る度感じるものだ。
 家の中に招かれると、やはり中も寺の中のような木造の立派な家だ。しかし二階に上がってしまうとそこは子供のための部屋が並んでおり、フローリングで出来ている部屋があったりする。
「天ちゃん、アイスコーヒーと冷たいお茶、どっちがいい? 今裕子さん買い物行ってていないんだ」
 裕子さん、というのはこの家に長年勤めている通いの家政婦だ。気がよくて優しい彼女は料理も上手く、何度かご馳走になった。
「じゃあ、アイスコーヒーを頂けますか?」
「分かった! じゃあ先に部屋に行ってて!」
 天蓬が頷くと、悟空はくるりと後ろを向いて台所の方へと走って行った。その後ろ姿を見送ってから、天蓬はゆっくりと階段を昇り始めた。二階に上がって右の突き当たりの部屋が悟空の部屋だ。小さな頃からずっと変わらない。小さな頃は寝るときは兄の部屋だったと聞くが流石に今は違うだろう。あの強面が実は弟に甘いなんて誰が信じるだろうと天蓬はひとり笑って、その部屋のドアノブに手を掛けた。
 中は流石高校男児らしく、雑然としている。天蓬の部屋の汚さとはまた一風違う。天蓬が散らかすのは基本的に本で、ゴミはきちんと、とまではいかないもののごみ箱に捨てている。ただ彼の部屋は菓子の空袋や店の袋、服やら漫画がそこら中に散らばっている。なかなかワイルドな部屋だ。
「あーっ!」
 後ろから大きな声がしたのに天蓬が振り返ると、手に盆を持った少年が慌てたように部屋に入ってきて、誤魔化すように笑い始めた。
「どうかしました?」
「ちょ、ちょっと後ろ見てて!」
 そう慌てたように言われて天蓬が素直に後ろを向くと、背後からドタバタと音がし始めた。ひょっとしたらエロ本でも出したままでいたのだろうか、と天蓬は変なところで少年の成長を実感した。一頻り大騒ぎしてやっと物音が止み始めた頃、背後から恐る恐るといった風に声が掛けられた。
「……て、天ちゃん、何にも見てない?」
「何も見てないですよ?」
「う、嘘だっ!」
「やだなぁ、じゃあ僕が何を見たか、教えてくれますか?」
「う……」
 素直な少年をからかうのは面白いが、流石にデリケートな問題だしこの辺で止めておこう、と天蓬は話を切り出した。
「それはそうと、そろそろそっちを向きたいんですけど……もういいですか?」
「あ、う、うん!」
 ゆっくりと振り返ると、頬を僅かに赤くした少年が不安そうに天蓬の顔を窺っていたので、もう一度重ねて「本当に何も見てませんよ」と告げた。いつまでも子供だと思っているのは大間違いらしい。変わらない変わらないと思っていても、やっぱり人は変わるものだ。

「……わ、わかんない……」
「じゃあ、もう一度簡単な方からやってみましょうね。じゃあ、例題19“x+mx+2m−3=0が重解をもつように定数mの値を定めよ”。さっきのはこれの応用です、これが出来れば、そっちもちょちょいのちょいですよ」
 悟空はお世辞にも頭のいい子ではない。教える方も一苦労だ。そもそも悟空の家庭教師は天蓬が三蔵の父に頼まれていたものだった。ただ八戒の三蔵への想いを知った天蓬が色々理由をこじつけて八戒に替えてもらったのである。しかし八戒はまだ高校生だからテストの期間などの場合こうして天蓬が代わっているのだが、今年はまだそういうことがなかったのだ。
 唸りながら数式と向き合う悟空を見つめながら、アイスコーヒーのグラスを傾ける。結露が手首を伝って落ち、膝を濡らした。どうせすぐ乾くだろう。暑い日だ。
「出来た……と思う」
「どれどれ……うん、あってますね。次は“そのときの解を求めよ”」
「解……?」
「ここまで終わったら少し休憩にしましょうね」
 その言葉に俄然やる気を取り戻した悟空は、早速ノートと睨めっこをし始めた。
 実際天蓬も疲れていた。今日は構内で気の休まる暇がなかったのだ。いつどこからあの男が現れるものかと正直、ビクビクしていた。そんなの自分らしくない、とは思っても、怖いものは怖い。誰しも分からないものは怖いのだ。
 真意の見えない男。どんな顔をしていいのか分からない自分。逃げ場のない構内。
 分からないのはあの男のことばかりではない。自分の気持ちも図りかねている。これから一体どうしたいのか、ビジョンが全く思い浮かばないのだ。このままずっとあの男と会わずにいられるなんて思ってなどいないのについ逃げてしまう。
 どうして、今まで通りではいられないのだろう。あの男は、この関係を何だと思っていたのか。

「……天ちゃん?」
「……ああ、すみません。ぼうっとしてました」
 急に少年に声を掛けられて、天蓬はへらりと笑顔を浮かべて悟空のノートを覗き込んだ。
「うん、あってます。ただちゃんと“x=”は付けて下さいね」
「何か天ちゃん、顔色悪い……もしかして具合悪いのか?」
 この少年は、頭がそう良くない代わりと言ってはなんだが、とても人の感情の機微に聡い。それはもう、こちらが困ってしまうくらいに。そしてその真っ直ぐな目が、嘘を吐くのを許さない。
「……ええ、少しだけ寝不足なんですよ」
「何で? 何か悲しいことでもあったのか?」
 寝不足の理由が悲しいこと、とは何とも彼らしい。まあ確かに……あれも悲しいことと言えなくもないのだけれど。
「平気ですよ」
「……天ちゃんって、悲しいことがあると笑うんだな」
「……」
「いつも、悲しい分だけ笑ってるのは、何で?」
 父と母を喪ってから泣く暇などなく、全力疾走でここまで来た。泣いただけ体力を消耗するのも体液を減らすのも惜しかった。
「……おかしいですね」
「うん」
「どんな時に泣いていいのか、分からないんですよ」
「悲しい時に泣いたらいいんじゃないの?」
 悲しい時は、いつも先に八戒が泣いた。そうしたら天蓬は泣いてなどいられなかった。共に泣いていては何も話は進まない。泣くのは彼だけでよかった。自分には守らなければならないものがあった。父に代わって、母に代わって庇護しなければならないものがあった。
「でも、泣いても何も変わらないでしょう?」
「うん……でも少しだけ楽になると思う」
 それが分からない。泣いてどうして楽になれるのだろうか。
「泣いたら皆心配するじゃないですか」
「するよ! だって、どうしてそんなに悲しいのか気になるから」
「興味ですか?」
「うーん……でも、天ちゃんの悲しいのを、俺がどうにか出来るかも知れない、って思うから、聞きたい」
「……悟空は優しい子ですね」
「優しくないよ。天ちゃんに本当の笑顔で笑って欲しいだけ」
「……」
「だから、泣きたくなったらいつでも呼んでいいよ、俺のこと」
 そう言って悟空はにこりと笑って天蓬の顔を覗き込んだ。以前弟が悟空のことを“タラシ”と称していた。確かにこれは成長したら、幾多の女を泣かせそうだ。いっそ恥ずかしくなるような台詞をさらりと言ってのけて、にこにこと笑っている少年の顔を見つめ返して、天蓬は脱力したように笑った。
「なんだか、口説かれてる気分ですねぇ」
 そう冗談めかして言ってみたら、ぴしりと固まった少年は、その後口をぱくぱくさせて真っ赤になった。



「おや三蔵、お帰りなさい〜」
 今日も今日とて、久しぶりに悟空の家の夕飯をご馳走になっていた。尋常ではない量の大皿を前に、何の躊躇いもなくそれを掻き込んでいく悟空は見ていて清々しい。
「……今日だったか、そういえば」
「ええ」
「しかし何でお前が飯を食ってるんだ」
「自分で作ったもの食べたっていいじゃないですか、けちー」
「あ?」
「裕子さんが、子どもが熱出して保育園に迎えに行かなきゃいけなくなったんだ。そしたら天ちゃんがご飯作ってくれるってことになって」
 頬に米粒をつけるというなかなか懐かしいことをやってくれている悟空がそう説明するのに、三蔵は聞いているのかいないのか、上着を脱ぎながら鍋を覗き込んでいる。
「……毒でも入ってねぇだろうな」
「悟空ー、鍋に残ってるシチュー全部食べていいですよ」
「マジで?!」
「駄目だ」
「なんだよ三蔵、けちー」
 ぶうぶう悟空が文句を言うのにも耳を貸さず、三蔵はダイニングの椅子に腰掛けた。
「八戒はいいのか?」
「八戒は今日は友達と勉強会で、外で食べるそうですから」
 そう言ってから天蓬は椅子から立ち上がり、シチュー鍋を火に掛けた。この暑い季節では日持ちしないから、悟空のように食べきってくれる人がいると楽だ。お玉で鍋の中を掻き回しながら天蓬は背後の兄弟を振り返った。会話はないのだろうかと思えば、割と今日あったことなどを話したりしていて仲睦まじい。ある種、不思議な光景だ。
「天蓬」
「はい?」
「食事が終わったら俺の部屋に寄ってから帰れ」
「……はあ」
 何だろう。内心“ブラコンか”と思っていたのがバレたのだろうか、と天蓬は漠然と思い、曖昧に頷いた。



「あれ……捲簾さんじゃないですか?」
 八戒は友人とレストランで勉強がてら食事を摂っていた。友人たちはその後先に帰ったものの、八戒は少し勉強をしてから帰ろう、と図書館に寄ったのだ。そして、勉強も気になったが、兄に薦められて読んでみたかった小説の存在を思い出して、館内を歩いていた。
 そして目指した棚の前で、見知った大きな背中を見つけたのだった。黒いパンツに黒いTシャツ、という黒ずくめな辺り、暑苦しいと思わなくもないのだが、確かに彼に一番似合うのは黒だった。
「……八戒か」
 彼は殊の外驚いたように目を見開いて、咄嗟に愛想笑いを浮かべた。兄の親友である、捲簾だ。その態度がどうも彼らしくない、と不審に思ったものの、一応八戒も笑って頭を下げた。
「どうしたんですか? 捲簾さんが図書館なんて」
 このアウトドア系の男には似合わないことこの上ない。それに、彼が一人であることに更に不思議に思った。
「天蓬は、一緒じゃ?」
「……ない、な。一人だ。お前こそ三蔵は?」
「いえ、僕は友達と勉強会した帰りなので……あ」
 そう言って彼の方を向いた瞬間、彼の顔の脇の辺りに、探していた本の背表紙が見えた。それを見て、八戒と背後の本棚を見比べた捲簾は少しだけ棚の前から退いて棚を指差した。
「探し物か?」
「あ、はい。借りたいなぁと思ってて……」
 もうすぐ試験期間ではあるけれど、一日くらいの息抜きは許されるだろう。八戒はそれを借りて帰ろう、とその本を棚から抜いた。そしてそのまま踵を返しそうになったが、彼のことが不思議に思えてきてもう一度彼を見た。
「何か探し物なんですか?」
「いや……ただの暇潰しだ。帰るのか?」
「え? あ、はい」
「送ってく」
 如何せんこの男は自分を子供扱いしていると思う。彼の親友である兄よりも背が高く、尚且つ自分と同じくらいの背があるというのにどうしてそんな言葉が出てくるのかいまいちよく分からない。まあ、これも暇潰しの一環なんだろう、と思い、八戒は曖昧に頷いた。
 いつもはバイクをこよなく愛する彼は、今日は珍しく自転車らしかった。徒歩の八戒に合わせて今は押して歩いている。嫌いじゃない。寧ろ好ましくすら感じる男だというのに何故か今日ばかりは居心地が悪かった。そう、何だか彼の様子がおかしいのだ。おかしいといえば、一昨日から兄もどこかおかしかった。“捲簾をどう思う”なんて聞いてきたりして。
(ひょっとして、天蓬と喧嘩したとかでしょうかね)
 そう考えると一昨日の兄のおかしな様子も合点がいく。どう話を切り出したものか、と暫し逡巡した後八戒はおずおずと口を開いた。
「あの、……もしかして天蓬と何かあったんですか?」
 彼は一見とても分かり易いようでいて、本当は一切周りに感情を気取られないようにしている人間だった。それは勿論八戒の前でも。そんな彼は、八戒の言葉に僅かながら反応を返した。反応を窺う八戒から少し逃れるように顔を逸らしていた彼は、次第に諦めたように唸りながら俯いた。そして一度頭を振って、ばつの悪そうな顔で八戒を見た。
「……何か言ってた? あいつ」
「え? いえ……ちょっと一昨日からぼうっとしてる感じだったので」
 本当は天蓬が捲簾について八戒に訊ねたこととか、色々他にもあったのだけれど、他人が口を出すことではあるまい。そう思って八戒は当たり障りのない部分だけを口にした。決して嘘は吐いていないのだから。
「……そっか」
 捲簾はほっとしたような残念そうなような、微妙な表情を浮かべて、それでも八戒を安心させるように笑った。彼は兄とタイプは全く違う癖に根本がよく似ていた。とにかく、どうしていいか分からなくなると笑うところとか。それはお互い様の癖に彼らはお互いのそれがとても嫌いらしかった。自分も同じなのに、といつも同じようなことで諍いを起こす兄と彼を見ては八戒は笑っていたものだった。そして彼等はこのままのスタンスで十年も二十年も一緒にいるんだろうと思っていた。



「何なんですかー三蔵、僕そろそろ帰りたいんですがねぇ」
 食事が終わった後、三蔵は皿洗いを悟空に押し付けて天蓬の腕を引いて二階へと上がっていった。抗うのも面倒で大人しくそれに従い三蔵の部屋に入れられた天蓬は、何も言い出そうとせずに脱ぎ捨てた上着を片付けている三蔵に憮然とした顔をした。ぶうぶうと文句を垂れてばかりの天蓬に、上着をハンガーに掛けていた三蔵は呆れたような視線を向けた。その視線を心外だと思ったか、拗ねたような顔をした天蓬はそのままベッドに座り込んでころりと横になった。
「あー眠い、このまま僕を放っておいたらここで寝ますからね。朝まで爆睡ですよ」
「構わん」
「あーそう……って、え?」
「但し、その睡眠不足が何から来ているのかを正直に話したら、だ」
 煙草臭い枕に顔を埋めていた天蓬は、枕カバーの中で顔を顰めた。しまった。あの地獄耳が昨日の朝の失敗を聞き逃してくれるはずがなかったのだ。こうなったら彼は自分が白状するまでこの部屋から出してくれないだろう。最終手段は部屋で大騒ぎして悟空が心配して助けに来てくれるのを待つ、といったところか。……三蔵と悟空がグルでなければ。あの少年は根本は優しいが、食べ物で釣られると弱いのだ。
 天蓬は枕に顔を埋めたまま暫く考えた。三蔵はそこから動く気配がない。
「……いいじゃないですか、僕が何で眠れないかなんて」
「よかねぇよ」
「やだなぁ三蔵ったら、僕のことそんなに心配してくれてるんですか」
 やっとゆっくりベッドから身を起こす。三蔵は憮然とした顔をしていた。そんな顔をされたって、不機嫌になりたいのはこっちの方だ。むっとした顔をして、もう一度天蓬はシーツに頬を寄せた。
「平気ですよ、心配しないで下さい」
「してねぇよ」
「なら尚更構わないで下さいって」
 前までこんなにしつこい男じゃなかったなぁ、と天蓬は飽き飽きしながら三蔵の言葉に対応した。すると彼もまた、痺れを切らしたように天蓬の寝そべるベッドの縁に少し乱暴に腰掛けた。
「悟浄には言ったんだな」
「……悟浄が話したんですか」
 裏切り者、と天蓬はシーツに顔を押し付けたまま毒づく。彼はそんな風に人の悩みを簡単に人に漏らすような男ではないと信頼していたけれど、買い被り過ぎていたようだ。
「いや、聞いてねぇ」
 心の中で悟浄に謝罪して、少しだけ身動ぎした。替え立てらしいシーツが気持ち良かった。
「昨日は夜中まで奴と一緒だったんだろう」
「ええまあ……でもそれどこで」
 知ったんですか、と訊きながら天蓬は少し身体を起こして三蔵を見上げた。横に座り腕を組んでいた彼はフン、と鼻を鳴らした。
「お前のシンパが同席したと自慢していた」
「自慢出来ることなんですかー」
「らしいな」
「奢ってくれて尚且つ言い寄らないって約束するならいつでも同席して差し上げるのに」
「風俗みてぇなこと言ってんじゃねぇ」
 そんなこと言って、あなたそれじゃ風俗行ったことあるみたいですよ。なんて言ってみたかったが、今は自分の分が悪い。下手を打って彼を刺激したくないので、天蓬はその衝動を堪えて口を噤んだ。そしてむくり、とベッドから起き上がって枕を引き寄せる。
「……何でそんなに知りたいんですか。興味? やだなぁもう、さんぞーの悪趣味」
 その冗談めかした言葉の後に広がった沈黙に、怪訝な顔をして三蔵の様子を窺ってみると、彼は非常に不細工な顔をしてこっちを見ていた。言葉にするなら「ウゼー」といったところか。
「……可愛い冗談じゃないですか」
「どこが可愛いんだ、どこが」
「八戒にそっくりのこの顔が」
「……」
 そう言ってにこにこと自分の顔を指差してみると、彼が思った通りに言葉を詰まらせるのが面白い。このまま煙に撒けないだろうか、と甘いことを考えてみるが、相手が三蔵ではそう簡単には行くまい。結構執念深い男なのだ。しかし天蓬とてそれにすぐに負けてしまうほどに単純なわけではない。それどころか三蔵の執念深さすら敵わない話術を持っていると自負している。とことんしらを切り続けよう、と天蓬は枕を抱き寄せた。それに、そろそろ帰らなくては。
「……もう少ししたらお暇しますね」
 八戒の顔を思い出したら、何だか急にこの部屋にいることが落ち着かなくなった。特に何があるわけでもないのに、家に帰ってあの笑顔と向き合ったら罪悪感に苛まれそうな心地だ。居辛い。実際三蔵との間に何かがあるなんて有り得ない話なのだけれど。
「……白状する気はないんだな」
「残念ながら」
 抱き寄せた枕越しに、後ろを向いた三蔵を見つめる。表情は窺えなかった。


「……で、今日はあいつどうしたの?」
「今日は家庭教師の日だから……そのまま家に帰ったか、まだ三蔵さんの家だと思います」
 そのまま帰っていたらもしかしたら捲簾と一緒かも、なんて思っていたのだけれどどうやら見当違いだったようだ。家庭教師の日は家で夕飯をご馳走になってから帰って来ることも少なくない。あの家の家政婦は料理が上手いのだ。
「仲良いよなぁ、あいつらは……」
 捲簾が少し呆れたような口調で言う。八戒は、やはり他人目――しかも十年来の友人――にも、そんな風に見えるのだ、と妙に感心した。感心した振りをして、気を紛らわしたのかもしれない。
「お前としちゃ、ちょっと複雑じゃねぇの?」
 聡い男は、そう言って笑った。八戒は、その微笑が何の種類のものか図りかねて、曖昧に笑い返した。そして脳裏に兄と、恋人の姿を描いてみる。黒と金の対比が、性格の対比にも繋がっていて、どうしてあんなに仲が良くなったのか不思議なくらいの二人だった。
「……三蔵さんってね、昔天蓬のこと好きだったんですよ」
 知ってました? と笑いながら問いかけると、彼は一瞬逡巡したようだったがすぐに、何となくは、と苦笑して返してきた。ああやっぱり皆知っていたんだ、と八戒も笑った。何も知らないのは、兄だけだ。
 三蔵と兄が高校の頃。出会ってすぐに、好きになってしまったのだけれど、それと同時に知ったのは残酷な事実だった。寧ろ気付かない方が難しいような感情の方向と流れ。なのに兄は気付かなかった。人から寄せられる好意に疎いわけではない(寧ろ聡い方であると言える)。なのに三蔵の気持ちに気付かなかったのは、二人にとって幸運だったのか、不運だったのか。
 兄が妬ましくて妬ましくて仕方がないのに、それ以上に愛しくて愛しくて仕方がなかった。どんなことがあっても気丈な顔をして自分を守ってきてくれた兄。綺麗事と笑われようが、彼のために恋を諦めることなど容易かった。……ただ、当の兄は三蔵のことを何とも思ってはいなかったのだった。それこそ、ただの一友人としてしか。友人もそう何人も作らない人だから、友人であるだけいいのかも知れない。
「結局言わなかったよ、あいつは」
 捲簾はそう言いながら、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。兄と同じで大概ヘビースモーカーだ。
 彼は天蓬に何も言うことはなかった。友人であることを選んだのだ。
「まあ……気にするこたねぇよ、今はお前一筋なんだろう」
「……今だって、どこに鳶がいるかわかりませんよ」
 隣の男のつま先が、石を蹴った。蹴り上げられた石が近くの電柱にぶつかって音を立てる。その音に驚いて横を見上げると、彼は咥え煙草のまま思案顔をしている。
「……鳶、ねぇ」
 ふわり、と煙草の煙が鼻を突く。紫煙の向こうでどこか苦しげに顔を歪めた男を見つめて、電柱の光の下で八戒は二度、瞬きをした。











大穴で空天。子どもの真っ直ぐな言葉にオッサンドキーン!っていうのが好きです。でもここの天蓬はオッサンじゃないや。       2006/7/27