ああなんて心がずんと重く空の青さがこんなにも白々しい朝だろう。天蓬はこれ以上ないほど気分の悪い朝を迎えていた。朝、むっくりと起き出してみれば、リビングには堂々と弟の恋人がいた。ソファを一人で占領している。あわよくばソファでもう一眠り、と考えていた天蓬はその光景に眉を跳ね上げる。朝日の差し込む明るいリビングが、煙草の副流煙でいっぱい。癌の素でいっぱい。天蓬の蛙の灰皿は、自分のものとは銘柄の違う煙草の吸いがらでいっぱい。ああなんて可哀想な蛙さん。そんな風に思い、頭を掻きながら天蓬は一言も発することなく、自室のベッドの中へリターンしようとした。が。
「あ、天蓬! おはようございます」
 しかし、背中に掛けられた明るい弟の声に引き留められ、有無を言わさずにダイニングテーブルに着かされたのだった。そして今、何故か弟と並んで、弟の恋人と向かい合って朝食の席に着いている。どうしてまた、こんなに自然に三人で朝食を摂っているのかさっぱり分からない。弟はとても機嫌が良さそうだ。何でだ。向かい側の彼の恋人――天蓬にとっての友人も、そう機嫌が悪そうでもない。何だかそのほのぼのした雰囲気に居心地の悪さを感じて、首を僅かに傾げつつ、天蓬はとりあえず三蔵に話しかけてみることにした。
「……泊まってたんですか、三蔵」
「靴があっただろうが」
「あー、酔って帰ってきたので気付きませんでした」
 昨日は悟浄と出掛け、彼の家で一旦休んだ後、日暮れ頃からもう一度街に呑みに出掛けた。そして出会った共通の友人たちと散々飲み明かして、その中の誰かにドアの前まで送ってもらったはずだ。そのままふらふらと玄関に上がり、真っ直ぐに自分の部屋に入って寝てしまったため、それが何時のことか、リビングに誰がいたか、玄関に誰の靴があったかなどはさっぱり覚えていない。元からあまり酔わない体質の天蓬だが、諸々の事情もあって羽目を外してしまい、珍しく酔っ払ってしまったのだった。記憶はないけれど脱いだり周りにキスをしたりしていなければいいのだが。
「でも、酔っててよかったです」
「何?」
「だって、お隣の部屋から八戒のえっちな声でも聞こえてきたらいくら僕でも素面じゃ寝られませんよ」
 味噌汁を飲もうとしていた隣の弟が噎せ、目の前でお茶を口に含んでいた三蔵が思いきり噴き出した。
「掛かったじゃないですか!」
 お行儀が悪い! とむくれながら唇を尖らせ、布巾で顔を拭く天蓬に、三蔵は同じく布巾で顔を拭きながら噛みついた。
「朝食の席で何言ってんだ手前は!」
「今更純情ぶってんじゃないですよ! シーツ汚したなら八戒にばっかり押し付けないでたまには自分で洗いなさい!」
「おーまーえーはー!」
「何ですか」
「口を慎め!」
「はあ、それを言えた口ですか!」
「……ちょ、ちょちょちょっと!」
 打てば響くような言葉の応酬にうっかりぼうっと見入っていた八戒は、今にも取っ組み合いになりそうな雰囲気に慌てて割って入った。実はこんなことも日常茶飯事なのだ。昔からこうして簡単なことでぶつかってばかりだが、数分も経てば二人ともすっかり忘れたように普通に会話している。そんな二人を微笑ましく、そして少し羨ましく思うのは、今も昔も同じだ。
「止めんな八戒!」
「何言ってるんですか止めて下さいっ!」
 今にも天蓬の胸倉に掴みかかりそうな三蔵に、立ち上がって八戒は制止した。三蔵は大好きだが、行き過ぎている自覚があるほどに八戒はブラコンだった。たとえ三蔵といえども天蓬に手をあげるようなことがあれば、黙って見ているわけにはいかない。一方天蓬は三蔵に当たってスッキリしたのか、さっぱりした顔をして熱い茶に口をつけている。
「実際身も心もラブラブなんでしょう? だったらそんな怖い顔しなくっていいじゃないですか」
「お前にデリカシーってもんはねぇのか」
「あなたの口からそんな言葉を聞くとは思いませんでしたが……まあそうですね、相手によるって言うか」
 つまるところ、あなたに気を遣う必要なんてないでしょう、というニュアンスの言葉に、三蔵は頬をひくつかせた。
 高校で出会い親しくなった彼は、自分に怯えたりヘコヘコしたり、又はやっかみで突っかかってきたりしない珍しい男だった。綺麗で大人しげなその容姿に反する男らしさも、理解不能な言動で周りを翻弄する奔放さとも、どれも正直嫌いではない。好ましくすらある。が、しかしこうもふてぶてしいと腹立たしいことに変わりはなかった。特に今のように何故突っかかられるのか理由が分からないのなら尚更だ。
「僕だってあなたたちのお付き合いを応援してるんですから」
「応援してる奴の言うことかそれは」
「うちでヤりたいって仰るんでしたら快く僕は家を空けますし、ゴムが見当たらないっていうならあげますし。応援してるじゃないですか」
「……お前の言うことは昔からよく分からん」
 セックスのことばっかりじゃねえか、と頭を押さえて苦々しげに言う三蔵に、天蓬はまるで邪気のない柔らかな笑顔で応えた。それだけを見れば本当に美人なので、うっかり流されてしまいそうになる。こめかみを指で押し揉みながら、三蔵は据わった目を天蓬に向けた。
「ところで、昨日はどうしてそんなに泥酔するまで呑んだ?」
「……」
 しかしその笑顔の人は、その言葉を聞いた途端表情を消して、湯のみを両手で包みこむようにして黙り込んでしまった。それに三蔵は一瞬戸惑い、そして彼の隣に座っている八戒が何かもの言いたげな顔をしているのを見て、口を噤んだのだった。
「……酔わなきゃ、寝られなさそうだったもので」
「フン、そんな軟弱な神経してないだろうが」
「僕も一昨日くらいまでそう思ってましたけど、本当は結構打たれ弱かったみたいです」
 ヘラリ、と天蓬が笑う。何と返していいのか分からずに口ごもると、天蓬はどこか苦しそうにまた、笑った。
「……天蓬?」
「ああお気になさらず。僕、先に出ますから……八戒」
「え? あ、はい」
「今日、遅くなります。先に食べてて下さい。戸締り、しっかりするんですよ」
 にっこり微笑んだまま、天蓬はごちそうさま、と告げて箸を置いた。ゆっくりと椅子から立ち上がり、欠伸をして頭を掻きながらダイニングを後にする。テーブルに残った茶碗や皿の中身は殆ど減ってはいなかった。




 しまったしまった。
 二人をダイニングに残して部屋に戻った天蓬は、内心冷や汗をかいていた。あの場で何を話すつもりだと言うのだ。天蓬は高校の頃から三蔵に対してなかなか嘘の吐けないところがあったため、つい誘導に従って話してしまうところだった。ベッドに腰を下ろし、息を吐く。朝食もまともに口を通らなかった。数時間後にあの男に接近しなければならないと思うと胃の辺りから何かせり上がってきそうなのだ。
 何となく八戒には知られたくなかった。しかし三蔵になら、とは思わなくもない。だが、二人がああいった関係になってからは、三蔵と二人で会話をするという時間はほとんど取れない状況にあった。それは八戒への気遣いと遠慮であり、何となく三蔵が遠い存在に見えるようになったせいでもある。三蔵が、八戒と二人でいるだけで自分の友人であった三蔵とは別人に見えてしまう。そんな光景を数回目撃してから、不思議と彼から遠のく形になっていたのだ。そういえば、まともに向かい合って話をしたのも久しぶりだった。
(淋しいのかも)
 幼い頃から彼を守るためだけに生きてきた。庇護される立場であった彼は成長し、誰より大切な人を見つけて、笑顔で自分に背を向ける。それが淋しいせいだ。きっと。いずれ八戒は自分との二人暮らしから三蔵との二人暮らしにシフトするだろう。その時は笑って送り出してやりたい。自分の我儘で彼の未来が断たれるようなことがあってはならないのだ。
 ぼんやりした気分の中で、目をぐるりと部屋中に巡らせる。その目がテーブルの端に置かれた銀の写真立てに留まって、天蓬は苦笑した。この歳になって、と思わなくもない。いくら部屋を荒らしても汚くしてもそれだけは常にテーブルの隅にある。笑う父と母の顔。中央には幼い自分と更に幼い八戒の姿。父は写真が嫌いで、四人の顔がきちんと映っているのはその写真くらいだったのだ。あの頃のネガは残っていない。現像されているのはこれ一枚のみ。八戒も持っていないそれを、天蓬はずっと大事にしていた。
 八戒は殆ど父と母の記憶がないという。それもそう、彼が小学に入学してすぐ逝ってしまった二人だから。
(……今年で、十一年)
 当時天蓬は小学五年生だった。天蓬はその写真立てを手に取り、上に僅かに載った埃を指で拭った。中にはぎこちない笑顔の父と、本当に楽しそうな母と自分、そして八戒がそのまま残っていた。
(お父さん)
 歳をとれば次第に父さん、親父へと自然に呼称が変わっていっただろう。しかし天蓬の中の父の記憶は九歳で止まっていて、それは父さんでも親父でもなく、やはり“お父さん”でしかなかった。
 八戒の容姿は、時々ドキリするほどに、父によく似ていた。どちらかといえばお母さん子だった八戒に対して、お父さん子だった天蓬は、時折浮かぶ大人びた八戒の表情にヒヤリとさせられていた。そして無意識に彼に父を重ねてしまって罪悪感に苛まれるのだ。そして、それに八戒が気付いていることも知っている。それを八戒が嫌がっているのも。だから、なるべく天蓬は父の話題を出すことを控えていた。毎年、この時期以外は。
(あと、一ヶ月くらいか)
 十一年前、飛行機が墜落した日まで。
 本でいっぱいになったテーブルの上に、写真立てを戻す。笑う父と母の顔を見つめて、天蓬はしばらくそうして座っていた。




「……で、何?」
 平日の朝っぱらから、と、不機嫌そうに赤い目が細められる。それは単に朝早いからという理由ではない。二日酔いである。くらくらする頭に、込み上げる吐き気、余計に朝日が眩しく感じる。そんな朝に街のファストフード店、しかも目の前には暑苦しい男。それで上機嫌でいろと言うのは拷問だ。目の前の男は、ワリィ、と意外にも殊勝に頭を下げた。しかも挙動が不審である。どこか落ち着かない様子に苛々する。呼び出しておいて何だそれは、と悟浄は顔を顰めた。
「……あのなぁ、最近お前性格悪過ぎやしねぇか? 変に意地の悪い男はモテねぇぜ」
 すぐ隣が禁煙席である喫煙席で、悟浄は思いっ切り煙草の煙を吐いた。悪いことはしていない。いつも嫌味なほどにふてぶてしい友人、目の前の男――捲簾はそんな風に不機嫌丸出しの悟浄に苦笑した。
「まあそう言うなって……」
「お前から電話がなきゃ午後までゆっくり寝てられたんですケド?」
 目を眇めて凄む悟浄に全く怯むことのない捲簾はそのままヘラリと笑う。天蓬とはまた違う意味で扱い辛い。溜息を吐いた悟浄は、とりあえず用件を言え、と奢りのコーヒーに手を伸ばした。このくらいの奢り、奪われた数時間の睡眠に比べればちょっとのものである。
「あのさ、お前昨日……」
「昼間は天蓬さんとおデート、晩は天蓬さんと街の端から端までの飲み屋を制覇してましたー、以上」
 それはそれは大層な額になったはずなのだが、途中で出会った天蓬のシンパたちがちょこちょこ奢ってくれたりしたので、そのお相伴に与った悟浄もまた、あまり財布の中身に傷を付けずに済んだのだった。
 それを聞いた瞬間、ぴくりと眉を跳ね上げる捲簾に少し愉快なものを感じながら、冷め掛かったコーヒーを口にする。何が聞きたいのか、もぞもぞと両手を擦り合わせている正面の男に正直苛々した。いつもはもっと、竹を割ったような明朗な男なのに。
「あの、だな」
「お前、本気なの?」
 何か話し出そうとする捲簾の言葉尻を奪って、悟浄はカップに口をつけたまま視線を上げた。驚いたように目を見開く彼と目が合い、軽く肩を竦める。話を始めるまで待ってやるのが筋だろうが、今の状態では気長に待ってやれそうになかった。昨日の天蓬の話からもう大体相談の内容は見えている。
「冗談なら、止めてやんな。あいつがそんなに強くないの、お前だって知ってんだろ」
 中学から、高校から、彼の強いところも、酷く脆く危ういところも見てきている二人だから分かることだ。悟浄の言葉に彼の指先が軽く震えたのを見て、悟浄はそれから視線を逸らすように煙草に手を伸ばした。こういう雰囲気は苦手だ。その指はその内ぎゅっと握り締められ、手の甲に薄く血管が浮き出る。
「冗談じゃない」
「……そ。まあ、本気だからイイってワケでもないけどな」
 現に彼はあんなに悩んでいる。酒に強い彼が帰る頃にはすっかり悪酔いしてへべれけになっていた。
「……何て、言ってた」
 いつもと違って頼りない、情けないと言ってもいいような風情でそう問われて、悟浄は溜息を吐きながら返した。どこまで話していいものか悩んでいたのだ。当人以外踏み込んではならない領域というものがある。
「そんなの信じられねぇって、そんなことを延々と」
 恋愛対象にはならない、とかそういうことも言っていた気もするが、そこは伏せる。自分の告げていいことではない。捲簾は大きな溜息を吐いて、テーブルの上で組んだ両手に顔を伏せた。どうやらやはりこちらも相当悩んだらしい。よくよく見ればかなり顔色も悪いようだ。
「……軽蔑しねぇの?」
 顔を伏せたままそんなことを言う、いつもの強靭さが全く見られない捲簾に、悟浄は眉を顰めた。どうも調子が狂う。
「軽蔑はしねぇよ。馬鹿にはするけどな」
「……あそ」
「らしくねぇ。そんな性急なやり方」
 いつもの捲簾なら、いくら男相手とはいえもう少しスマートな方法をとれるはずだ。
「待つ余裕なんて持てない」
「は?」
「……だから、いつもみたいに余裕持って、周りからゆっくり囲って攻めていくような悠長な方法が取れねぇんだよ」
 捲簾や悟浄にとってのそれは一種のゲームだった。最初は何の気もない女の子に近付きゆっくり絆して、周りを囲って段々と陥落させていく質の悪いゲームだ。何ひとつとして手順を間違うことは出来ないそれは、天蓬には応用出来なかったのだ。
 ゆっくりと顔を上げた捲簾は疲れた顔をしてコーヒーを口にする。そしてその苦味に顔を顰めたようだった。そんな彼の方に自分の分のスティックシュガーとミルクを投げてやりながら、悟浄は再び煙草に火をつけた。煙を吸い込みながら、そういえば、と悟浄は顔を上げる。
「……吸わねぇの? お前」
 そう問うと、いつもなら有り得ない量の砂糖とミルクをコーヒーに入れながら渋い顔をしていた捲簾は、顔を上げた。
「別に……何か吸う気になんなくて」
 その返答に、一瞬その赤い目を瞠って、悟浄は呆れた顔をした。本当に変なところで似ている二人だ。だからこそ、捲簾は天蓬に惹かれたのだろうか。そもそも、どうして急に。こんな、彼等が知り合って十回目という節目の春に。
「どこか好きなのよ、天蓬の」
「わかんね」
「……そんなんじゃ天蓬も信じらんねぇワケだわ」
「違ぇよ。小一時間語り続けてもいいなら言うけど」
「……辞退します。一言じゃとてもじゃないけど言い尽くせないってコトね」
「俺だって何週間か散々考えたんだ。さっきのお前みたいにあいつに訊かれたら何て答えりゃいいんだって思って」
「そりゃそうだ。で、訊かれたの?」
「頭ごなしに考え直せって言われてばっかりでそこまで踏み込まれなかった」
「そりゃお気の毒。……で、どうすんの」
「あっちが振ってくるの、待つ」
「……マジでらしくねぇ」
「だけど引く気はない。冗談で終わらす気もない」
「応援は?」
「そんなもん要ら……」
「要らないなら俺は天蓬側についてお前があいつに近寄るの阻止するけど」
「イジメか」
「まぁなぁ、俺だって友人の恋愛成就に協力するのは吝かでないワケよ」
「……」
「しかしあっちの友人も結構大切だし。だから優しい俺様はどちらか先に応援をお願いしてきた方に協力しよう、とこう言ってんの」
「お前が悪魔に見えるよ」
「何を。天使の間違いだろうがよ」
「んな邪悪な天使がいるか」
「んで、どうなのよ」
「……OKをもらう協力なら要らない。ただ、返事をもらう協力なら、欲しい」
「……おし。交渉成立?」
「何の交渉だよ」
「男同士のお約束」
「あれも男だぞ」
「だけどありゃ明らかに人種が違うだろ」
「まあな」
「あーあ、女だったらお前なんかにやらねぇでさっさとナンパしてたのになー」
「女だったとしてナンパで落ちるような女か? アレが」
「……ない、な」
「だろ」

 やっと捲簾にいつもの笑顔が戻り始めたのを見て、悟浄は息を吐いて背凭れに身体を預けた。しかし、あちらに何も言わずに勝手にこっちに協力することを決めるのは、天蓬に対しての裏切りだろうか。そんな風に考えていると、捲簾は苦笑しながら呟くように言った。
「あいつに恨まれちまうな、お前」
「……うーん、ま、いいんじゃない?」
 曖昧に笑う悟浄に、捲簾は少し考え込むような顔をした。結局のところ、天蓬が何かアクションを起こさない限りこの騒動が収まることはないのだ。捲簾は一歩も引かないと断言している。ならば諦めさせたいのなら天蓬が一言きっぱりと断ればいいだけだ。むしろ捲簾の様子を見ていると、振られて当然、受け入れられる可能性はゼロの予定らしい。これでは天蓬の悩み損だ。
 この捲簾のあっさりした態度は振られた時のための予防線なのだろうか。それとも、振られてもそれほど気にしないという、その程度の想いなのか。もしも後者だったらあまりに天蓬が不憫だ。軽く笑う捲簾の顔を軽く睨み上げて、悟浄は頬杖をついた。
「……お前、覚悟あんの?」
「え?」
「親友なんだろ。……冗談じゃないにしても、軽い気持ちで壊していい関係じゃない」
「……」
「振られた後、元には戻れなくなるんだぞ」
 天蓬を躊躇わせる要因がそれだった。たとえ見かけ上は昔の関係の戻れても、ぎこちなくなるのは仕方がない。今までのような気の置けない関係には、戻れなくなる。それが嫌で、天蓬は力一杯突っぱねられないのだ。
 悟浄は指でコーヒーカップの縁をなぞる。周りの友人関係が壊れていく。たった二人の友人の関係が変わるだけなのに、それが痛い。捲簾の指がテーブル上のトレイに引っ掛かって小さな音を立てる。開けられたミルクの小さなカップがトレイの上で転がった。
「だから、言えなかった」
「……」
「あいつ悩むだろうって。で、悩んだ挙句にどうやって断ろうかってまた悩むだろうって知ってた。だから何週間も悩んで、言えなかった」
「それでも、言いたいって思ったのか?」
 そう言うと捲簾は少し困ったように笑って、視線をカップに落とす。如何にも甘そうなそれを見下ろして、捲簾は首を傾けて自嘲するように薄く、笑った。その両手は強く握り締められたまま。
「このまま親友でいるのは辛いと思った」
「……」
「このままいれば、いずれあいつに恋人が出来た時……もし女だったら結婚式とか呼ばれたりして。男だったとしたらいつか街で鉢合わせするかも知れないし。どちらにしても、あいつが誰かの隣で幸せそうに笑うのを、祝福して笑ってやらなきゃならなくなる。……そういうの考えたら、いっそ親友でもない方が楽だってな。もしそうなっても、おめでとうなんて絶対に言えねぇって分かったんだ」
 そう言ってから捲簾はテーブル脇の紙ナプキンを一枚取り、指先を拭った。そしてそれを丸めてトレイの端に置く。そんな動作をじっと目で辿りながら、悟浄は内心驚いていた。そこまで考えていると思わなかったのだ。
 好きだという気持ちを押し殺して親友のままでいる。それを知らない天蓬には恋人が出来て、捲簾にいずれそれを紹介するだろう。男であれ女であれ、その恋人の隣で幸せそうに微笑む彼を、親友として祝福して、“おめでとう”と言葉を送る。酷なことだ。その相手を好きであれば好きであるだけ辛いだろう。それを考えて、捲簾はそれは出来ないと分かったのだ。
「……正直、そこまで考えてると思わなかった」
「失礼だなお前」
「……あいつに言えば? それ」
「重いと思われるのがオチだ」
 苦笑して、頭を掻く。目の下の隈が少し残っている。寝ていないのか。天蓬よりも何倍も何倍も悩んだに違いない。
「お前、健気過ぎて気色悪いぞ。そういう悩みは可愛い子がするからイイんだって」
「……言うな、自分でもそう思ってんだ」
 恨めしげに悟浄を睨んでくる顔はほぼ前科持ちのそれだ。とりあえず寝てその人相の悪さを直してから考えろと言いたくなる。
「……とりあえず、寝ろ」
「無理だ。大学だし」
「もしかして、天蓬も?」
「多分。……あいつが俺を避けてサボらなければ」
 数秒間二人で固まる。そう、奴が捲簾を避けるという可能性がなくもないのだ。流石に部外者の悟浄は大学のことにまで手を出すことは出来ない。天蓬がそこまで子供染みていないことを願う他ないのだが。しかし悟浄が同じ大学だったら盾にする、とまで言っていた男のことだ、何をするかは予測出来ない。
「……ああ、でも俺も会うの嫌かも」
「何今更女々しいこと言ってんだお前は! そもそも自分のせいだっつうに」
「俺のせいじゃねぇよ」
「誰のせいだよ」
「俺を好きにさせたあいつのせい」
 真顔で惚気るな。しかもまだ付き合ってもない相手で。っていうか俺って超不憫、などと思いながら、悟浄はすっかり冷めたコーヒーを飲み干した。不味い。誰が本当に悪いのか、勿論自分は悪くない。
「天蓬も罪だねぇ」
 彼は被害者なのか原因なのかをはかりかねて、悟浄は眉根を寄せた。エライ問題に首を突っ込んでしまった。

「暫くあの過剰なスキンシップはお預けだな」
「たりめぇだ」
「あ?」
「だって……触ったらいろいろバレちゃうでしょーが」
「……そんなだから天蓬も信じたくないんだと、思うぜ?」











三蔵+天蓬は金毛の猫と黒猫のイメージ(そのままだ)。38はイヤミにラブラブ。捲兄は無駄に思考が乙女。     2006/5/25