パタン、とドアが閉まる音を聞いて、八戒はぱちりと目を開いた。そしてその後に続く、外から施錠される音を聞いて、ゆっくりとベッドから起き上がる。キシ、とベッドが軋んだ。カーテンの隙間から眩しい光が差し込んでいる。今日も晴れだ。ベッドサイドに置かれた置時計の針は、もう既に九時近くを差していた。今日は日曜で、人と会う用があるためバイトも入れていない。珍しく寝過ごしたせいで、天蓬にきちんと朝ご飯を作ってあげられなかった。きっと何も食べずに出ていったのだろう。
「……天蓬」
 元気かな、と一人で呟く。結局天蓬はにこにこと笑ったまま何も話してくれなかった。自分は天蓬になら何でも話せる気がするのに、天蓬はそうではないのかと思うと淋しい。本当に彼が自分を愛してくれているのを知っていて、そんな風に思う自分がいるのが余計に憎らしい。欲張りな自分に嫌気が差す。自分は、誰より彼が幸せになることを望んでいるのに、彼はそれが自分の幸せだと言って何事でも八戒を優先させるのだ。それが歯痒くて堪らないのである。
 八戒はベッドから出て、部屋のカーテンを開ける。もう既に高く上がった太陽が目を刺すようだ。着ていたスウェットを脱ぎ、細身のジーンズに足を通す。そしてシャツを脱ぎ、グレーのカットソーを頭から被りながら、脱いだシャツとスウェットを手に部屋を出た。
 テーブルの上にはメモが置かれていた。天蓬の筆跡である。スープを作り置きしてあるから朝食はきちんと摂ること、帰りは少し遅くなるので先に夕食を摂っておくことなどが書いてあった。一人ぼっちだと食事を面倒臭がってしまう八戒のためだ。確か今日は友人の悟浄と会う約束をしていると言っていた。悟浄と言うのは天蓬の高校からの友人で今でも仲が良い、少し軽いが気のいい男だ。そのまま台所に足を運ぶと、コンロの上に小さなスープ鍋が置いてあり、とろとろに柔らかく煮込まれたキャベツとトマトのスープが入っていた。まだほんのりと温かい。微かにコンソメの匂いがして、起き抜けの空腹を刺激した。隣のフライパンには、玉子が二つとベーコンが置いてある。それをぼんやりと見ながら頭の中でメニューを組み立てた。そして結局ベーコンエッグを焼き、スープを温め直してパンを二枚焼いて朝食にすることにした。
 食事を終えて食器をシンクに運ぶと、時計が九時半を差していた。今日は八戒は八戒で人と会う約束があった。というか、そのために気をきかせて態々出不精の天蓬が休日に外出しているのだ。相手は、八戒の恋人。元々は天蓬の友人で家に度々訪れていた人だ。太陽の色をぎゅっと集めたようなその綺麗な人に、八戒はずっと憧れていた。だけどその人には好きな人がいて、片想いなのは重ね重ね承知していたが、それでもずっと好きだった。一生報われることなどないと思っていた恋情が彼の人に知れ、受け入れてもらってから数年。今でもまだ少しだけ彼の隣にいるのには躊躇いがあった。あの太陽のような綺麗な人の元で、自分など霞んで消えてしまいそうな不安に襲われるからだった。
 皿を洗ってから風呂場に向かい、二人分の溜まった洗濯物を一気に洗濯機に入れて回す。その音を聞きながらベランダの戸を開け、晴れた日の朝の風を頬に受けてぼんやりとしていた。そして、部屋の中に高いチャイムの音が鳴り響くのを聞いて、小さく顔を綻ばせた。インターフォンを取ると、少し不機嫌そうな声で名前が告げられる。それだけで嬉しくてどうしようもない気持ちになりながら八戒は玄関に向かった。チェーンロックを鍵を解除してドアを押し開けると、向こうにいた彼が少しだけ表情を緩めてくれる。
「……おはようございます、三蔵さん」
「ああ」
 そうぶっきらぼうに返答した彼を家に招き入れると、彼は少しだけ八戒の頭を撫でてから靴を脱ぎ始めた。撫でられた頭を押さえながら顔を赤くして俯く八戒に少しおかしそうな顔をする。
「どうした」
「何か、夢みたいで」
「……お前な。俺とお前が付き合い始めてもう三年だ。いい加減現実として捉えろ」
 そうか、もう三年になるんだ、とその言葉を聞きながら思う。そういえばあれは彼が高校を卒業する頃だった。もしも高校を卒業して大学が別になり、天蓬が彼と疎遠になってしまったらもう、自分と彼の接点はゼロになる。そう思い、どうせもう会えなくなるならと告白したのがその頃だ。何の奇跡か彼にも好きだと言ってもらえて、こうして付き合いが続いている。その後天蓬と三蔵は同じ大学へ進学するのだと聞かされた時には顔を真っ赤にしてしまったくらいだった。
「……はい」
 照れたように笑う八戒に少し眩しそうな顔をして、三蔵は家に上がった。
 コーヒーを淹れて、今日のために作っておいた茶菓子を出す。ソファに並んで座りながら、三蔵はどこかきょろきょろしているようだった。
「……あいつはどうした?」
「あ、天蓬ですか? 今日は悟浄とお出かけだそうです」
 八戒が口にしたのはそれだけだったが、彼もその意図には気付いたのだろう。不愉快げにその秀麗な顔を顰めた。
「変に気ィ遣いやがって……」
 フォローも出来ずに八戒が苦笑すると、三蔵もそれ以上何も言えないのかコーヒーを啜り始めた。休日の午前に相応しく穏やかで心地のいい時間だ。今日は三蔵に家まで迎えに来てもらい、それからどこかに出掛けるつもりだったから別に家に天蓬がいても構わなかったのだ。だがそれも“八戒のために少しでも二人の時間を増やす”という妙な使命感に駆られている天蓬の前では塵と同じ。何よりも八戒の幸せを最優先事項としている兄の耳には何を言っても届かなかったようだ。
 嬉しい。嬉しいのだが、二人でしんとした家の中にいるとどうしても気まずくなってしまうのだ。嫌なわけではない。
「え……と、三蔵さん。今日はどこに行くんでしたっけ?」
「お前の参考書選びに行くんだろうが」
「あ、そっか」
「……寝惚けてんのか?」
 三蔵も兄の天蓬もとても頭がいい。彼らの母校である進学校に通っている八戒も決して悪い方ではないのだが、彼らと比べてしまうとどうしても自信を失ってしまうのだ。自分が入学する頃には彼らは卒業してしまうけれど、それでも出来たら彼らと同じ大学に行きたいと思っている八戒は懸命に勉強をしているのだった。予備校に行ったりする金はない。ただ、どんな講師よりも有能な兄がいるから平気なのだ。
 コーヒーを飲んでいた三蔵は、空になったカップをソーサーに戻して脇に置いていた上着を取った。
「……行くぞ、あんまり日が高くなると暑い」
「あ、はい。あ、やっぱり待って下さい、カップ水に浸けておいてもらえますか? あとお洗濯物干してから行きたいし、それから今日の夕飯のメニューも考えてからじゃなきゃ……」
「……分かったから落ち着け。転ぶぞ」
 慌しく走り回る八戒の後ろ姿を見ながら三蔵は苦笑する。洗濯物を干す彼の後ろ姿から、視線を空へスライドさせた。
 今日も一日好い天気になりそうだ。




「ま、振ったら友達でもいらんねぇって決まったわけでもねえし。そんなに深く悩むこともないんじゃねぇの?」
「あなた、当事者じゃないからそんな風に簡単に言えるんですよ」
「ちげーねぇな」
 喫茶店を出た後、ふらりと近くにあるショップに立ち寄った二人は見るともなく陳列された服を眺めながら先程の話の続きをしていた。しかしさっきから悟浄は服を物色しながら手に取り、天蓬の身体に宛がってばかりである。
「……あなた、自分の服選んだらどうですか」
「いやあ、お前見てると自分を後回しにしたくなっちゃうのよ」
「わけがわかりません」
「これなんかどうよ」
「無駄金使う余裕はないんです。今年八戒卒業年次でお金かかるし、大学入学で諸経費が」
 それからまたブツブツと家計について話し始めた天蓬に、聞く耳持たない悟浄はシャツの棚を物色しながら空返事をした。
「はいはい」
「聞いてませんね」
「聞いてませんよ。お前、前から言ってるけどもう少し自分の娯楽のことも考えたら?」
「考えてますよ」
「どうせ本だろ」
「本以上の娯楽がありますか。あああなたにとっては女か賭博ですか」
「賭博ってね……もっと軽くギャンブルって言えよ。賭麻雀なんてやったら逮捕だっつの」
「一回捕まって塀の中で頭丸めてらっしゃいな」
「おまー!」
「面会には行ってあげますよ」
 酷い、と一人ごちながらも目でいくつかの服を物色していた悟浄は、それら三枚ほどのカットソーを選んでカウンターへと歩いて行く。気に入ったものでも見つかったのだろうと天蓬が別の棚を眺めていると、会計を済ませた悟浄がゆっくりとこちらに向かって歩いてきていた。じゃあ次はどこに、と聞こうと口を開きかけたのだが、目の前にショップバッグを押し付けられて唇を固まらせた。
「……何でしょう?」
「ん、プレゼント?」
 質問に疑問形で返さないで下さい、と唇を尖らせる天蓬にそのまま袋を持たせた悟浄は何だか楽しそうだ。
「また春物の服がなくて困るだろ」
「あなたに貢がれるほど落ちてませんよ」
 天蓬はそう言って視線を鋭くする。しかし別段気にした様子もなく悟浄は歩き出した。店のドアを通過して外に出る。日差しが段々高くなってきているようだ。暖かい。
「お前に着せてみてぇなあと思った服を自費で買って、来週着てこいって言って渡す。おかしいことじゃねぇだろ?」
「……金回りが良くて羨ましいことです」
「や、だからモデルをもう一回」
「だめです」
「……駄目ですか」
「だめです」
 しょぼん、と赤い頭を垂れる姿は犬のようで愛嬌がなくもない。実際バイト代や何やらも殆ど衣服にはかけられないので嬉しくないかと言われれば、そうではないのだけれど。しかし彼はすぐに背を伸ばして、笑って天蓬を振り返った。
「ま、いいや。そのうちその気にさせてやるし」
「……楽しみにしてます」
 子供のように笑う彼を少し眩しいような思いで見上げ、そう言うと、また彼は笑って天蓬の頭を撫でた。その手を打ち払ってにっこりと微笑み、ショップバッグを腕に抱いて陽射しの下へ歩き出した。

「ところで今日八戒は?」
「三蔵といちゃいちゃ」
「ああ、そっか」
 街をうろうろするのも良かったが、折角の休日なのに人波に揉まれることになるのだろうということに気付いて辟易し、街を抜けて悟浄の家で休むことになった。うろうろと青葉の茂る街路樹の遊歩道を歩く。近くの運動公園では親子連れが楽しそうだ。隣の天蓬はと言えば、寝ていないせいで眠いのか一人で欠伸をしている。まあ確かに、急に親友に恋情を打ち明けられて、悩み眠れなくなる気持ちが分からないわけではない。
「……っていうか、お前は全然同性愛に偏見とかないのね。あ、そりゃそうか」
「知ってるくせに」
「まーね。あのときゃあんまりお前がさらっと言うから逆に冷静になっちまったぜ」
 ぼそり、とそうひとりごちると、天蓬は何も考えていないような呑気な笑顔でほやほやと笑った。頭に花でも咲いていそうだ。こういう笑顔の時、基本的に彼は本当に何も考えていない。


 確か高校一年の頃だっただろうか。昼休みに二人でぼけーっとしている三蔵と天蓬(同じクラスだった)を見かけて話しかけたのだ。
『どうしたのよ? 二人して魂抜けたみてぇな顔して』
『二人でアグレッシブな女子たちに辟易していたところです』
『あ、成程……』
 揃ってモテる二人は積極的な女子たちにアプローチをかけられまくっていた。悟浄や捲簾のようにアプローチをかけられればすぐに乗るようなタイプではないところも彼女たちの心をくすぐるらしい。しかし行き過ぎた愛情表現は時に攻撃と同じ。特に天蓬は日々の何重ものアルバイトで不眠不休状態なのだ。以前授業中に目を開けたまま寝ていたらしい(三蔵によると)。
『よくもあんな力があるもんだ……』
『最早才能ですよね』
 げっそりとなってしまっている天蓬がそう言うのに苦笑して空いた席に腰掛ける。
『奴等メールアドレスまで仕入れやがった』
『僕なんか住所と家の電話番号が漏れました。どこから漏洩したんでしょう……』
『スパイか』
『スパイですね』
 誰もこれが同級生の女子たちについての会話だとは思うまい。
『お前、売ってるんじゃねぇだろうな』
『オイオイオイ! 何で疑いの目が俺に?!』
『どうやらどこかから情報が売られているらしいんですよ。それでもしかしてって思って』
『いくらなんでもダチのこと売ったりするかよ!』
 信じたのか信じないのか天蓬は微妙な顔をしていたけれど(ちなみに三蔵は全く信じていない顔をしていた)。
『けど、女の子からスキスキ言われて嬉しくねーの? お前らはさ』
『ない』
 即返事をしたのは勿論三蔵だ。悟浄もそれはほぼ予測していたので特に驚くこともない。
『僕も別にー……ですかね』
『ったく、お前ら揃ってホモかっつーの!』
『んなわけあるかこのエロ河童!』
『んだとこのハゲ予備軍が!』
『ハゲてねえ! そっちこそその見苦しい赤い髪毟ってやろうか!』
『強ち間違いでもないかもですねぇ……』
『あ……?』
 悟浄と三蔵の言い争いに乗じてぽつりと呟かれた言葉に、思わず二人は動きを止めて天蓬を凝視した。
『あの……天蓬さん?』
『いえいえ。口が滑っただけです』
『おい、気になんだろーが!』
 そう言って食って掛かる悟浄と、そこまでしないまでもやはり気になるような顔をしている三蔵に、天蓬は暫く目を瞬かせた後、頬杖をついたまま言った。
『両刀なんですよ。何となくね。どっちでもいいんです。男でも女でも。どっちでもよくて、どっちにも特に興味はない』
 そう言った後、二人の驚く顔を面白そうに眺めていた天蓬は暫くしてからぽつんと“軽蔑しました?”と呟いた。しかし今更そんなことで嫌いになれるほど二人とも器用でもなければ単純でもなく、そして馬鹿でもなかった。


「でも、捲簾は全く対象外ってこと、だろ?」
「そういうことです」
 そうだ、そういう奴等だった。所謂犬猿の仲だ。英語だと犬と猫らしいが、まさしくそんな感じだ。図体の大きい黒犬と目つきのキツイ黒猫が顔を突き合わせて毎日喧嘩をしている感じだった。その癖、片方が体調を崩したとなると落ち着きがなくなる。仲がとても良くてとても悪いのだ。
「そんな関係なんですよ」
 ゆったりとした速度で歩きながら、やわらかな声色でそう話す。少し俯きがちで顔はよく見えない。
「そんなのが急に恋情に変わるわけないでしょう」
 そんな風に、何の感情も見えない笑顔で彼が言う。その時何となく彼の本音が滲み出てきたような気がした。彼は捲簾の本気を信じていないわけではなくて、信じたくないのだと。
「冗談じゃないって、もう気付いてんだろ?」
「……冗談だったらどれだけいいか」
 やっと顔を上げた天蓬は、脱力したようにふにゃふにゃした笑顔を見せた。見ているこっちまで脱力しそうである。
「女好きのあの人が、ですよ。笑っちゃいますよねぇ」
「笑えねぇなぁ」
「笑って下さいよ、もう。……あーあ、何でまた僕なんですか。三蔵辺りに告ってブン殴られれば目も覚めるでしょうに」
「そりゃねーだろ。あいつ三蔵のこと苦手らしいし」
「何でまた」
「苦手って思う気持ちに理由はねぇのよ。……ってか、何考えてンのか分かんねーんだって」
「それじゃあ僕は分かりやすい奴だと思われてるんでしょうねぇ。心外だなぁ」
 それとも、僕がバイだから簡単に受け入れると思ったんでしょうか。そう呟く、疲労した声音からは昨日から今日まで一日で相当悩んだのだろうということが窺えた。
「とりあえず、もう一回会って話した方がいいって」
「……あなた、僕の代わりに説得してくれません?」
「は?」
「軽い気持ちでそんな風なこと言ったら後悔するぞーとか、言って」
「無理だな」
「何でですか」
「もし冗談じゃないとしたら、多分あっちも相当悩んだと思うから」
 そう言うと天蓬は目を瞠り、そのままむっすりと唇を尖らせ前を向いた。多分彼も何度か考えたことなのだろう。
「……分かってますよ、そんなこと」
 こつん、と彼の爪先が道端の小石を蹴った。




 三蔵が選んでくれた参考書を買い、近くにあったいい雰囲気の喫茶店に入る。未だに三蔵と並んでいるところを見られると緊張する八戒がぎくしゃくしている間に、三蔵がオーダーを済ませてしまった。
「紅茶でよかったか」
「あ、はい!」
 高校の友達に会ったりしたら何て説明したらいいだろう、とぼんやり考えているときに声を掛けられて思わず肩を揺らす。どうやらそんな考えもお見通しらしい三蔵は、呆れた顔をして溜息を吐いた。
「普通に兄貴の友達だって言えばいいだろうが」
「あ、その、いざとなったら噛んじゃいそうで」
「何だそりゃ……」
 そんな風に言いながらも彼の表情が穏やかで優しいのが嬉しい。向かい側の席から彼を見つめていると、アルバイトだろうか、若い女性がにこやかにカップを運んできた。三蔵はこの辺りでは珍しい容姿をしているだろうに彼女はじろじろと不躾な視線を向けることもない。感じのいい店だな、と八戒は笑顔でカップを置いてくれる彼女に微笑み返した。伝票を置いて彼女が去っていくと、三蔵は明らかに機嫌が悪くなった。
「ど、どうしたんですか……? 三蔵」
「無闇に笑いかけんな」
「はい?」
「減る」
 そんな風に真顔で言うものだから思わず吹き出してしまいそうになって、三蔵に睨みつけられる。そんなことも嬉しい。
 笑いを収めながらゆっくりと視線を硝子越しの外を眺めた。窓際のこの席からは、道路の向かい側のフラワーショップが見える。春の花々が咲き誇り、活き活きと太陽の下で輝いている。
「……どうした?」
 じっと花を眺めていた八戒に、三蔵は紅茶のカップを戻しながら訊ねる。その声で我に返ったように八戒は取り繕ったような笑顔を浮かべた。そして三蔵には嘘が吐けないのだと思い出し、少し躊躇いがちにそのフラワーショップを指差した。
「ほら、あの店先……」
「……? カーネーションのことか?」
 八戒の指差す先には、ふわふわとピンクの塊がこんもりと盛られたような花が咲いている。
「来月、命日なんですよね」
「……」
「父さんと、母さん」
 ピンクのカーネーションを見つめたまま、そう呟く。
「お墓に供える花もちゃんと買うんですけど、天蓬がね、墓参りに行く前に必ずカーネーションを買うんです」
「……」
「理由は、訊いたことないんですけど」
 八戒と天蓬の両親、悟能と花喃は八戒が小学一年生になったばかりの六月、航空機事故で死んだ。そんな幼い頃のことだから、物心はついていたようでついてはおらず、正直、二人についての詳しい記憶はあまりないのだ。しかし墜落現場に訪れた日、何が悲しいのかも分からなくなるほどに泣いたことを覚えている。そして、天蓬が一滴も涙を零さなかったことも。そのまま天蓬までどこかに消えてしまいそうで怖くて、彼の手を少しも離すことが出来なかったことも。
「もう、十一年になるんです」
 八戒はほとんど記憶がないだけまだいい。しかし当時小学五年生で丁度多感な時期だった天蓬はどうだっただろうか。彼は八戒の前で辛そうな顔をすることは決してなかったから。
「今年は一緒に行けるかなぁ……」
 天蓬今年は忙しいかもしれないなぁ、と独り言のように呟くと、その話をじっと聞いていた三蔵はゆったりとカップを持ち上げながら落ち着いて言った。
「俺と行くか」
「え?」
「挨拶にな」
「……」
 すると先程までのしんみりとした雰囲気はどこへ行ったのか、驚くほど顔を赤くした八戒のせいで一気にそわそわした雰囲気へと変わってしまったのだった。




「明日、憂鬱だなぁ……」
 もうすぐ家に着く、という頃になっても天蓬は唇を尖らせて拗ねたようにそんなことを言う。確かに顔も合わせづらいだろう。だけどきっとそれは相手も一緒だ。……いや、あの男のことだから呑気に挨拶してくる可能性もないとは言えないが。
「もう、何であなたは同じ大学じゃないんですか」
「は?! ヤツ当たりじゃん! ……て、俺が同じ大学だったらどうするつもりだったのよ」
「盾にする」
「……全く根本的解決になってませんけど」
「何で悟浄のくせに正しいこと言うんですかもう!」
「言いがかりじゃねぇか!」
 何が二人の友人の間を狂わせたのか、その元凶が憎くて仕方のない悟浄である。












2006/5/6