「もう九年経ちましたか」
「ああ、早いな。お前も昔はあんなに可愛かったのにな。それこそ、女の子みたいに」
「反吐が出る」
 形の良い薄紅の唇から吐き出された穏やかでない言葉に小さく笑った捲簾は、天蓬のシャツの肩に舞い下りた花弁を指先で払った。その花弁が足元へ舞い落ちるのを眺めていた天蓬は、それが自分の靴の先に落ちたのを見て口元を緩めた。彼が動くと、手にしているビニール袋が揺れてカサリと音がした。
「一升瓶、重いです」
「そうだな。じゃあ代わりにこっちのビール持つか」
 そう言って自分が両手に持ったずっしりと大量の缶ビールの入った袋を指してみせると、天蓬はがっかりしたように小さく肩を竦めて先に歩き出した。その背中を暫く笑って見ていた捲簾は、そのまま彼が歩いていってしまうのを見て慌ててその後ろを追った。足元に纏わりつく桜の花弁を蹴り上げるようにして彼に追いつくと、ちらりと視線をくれた彼は目をすっと細めた。買い出しに使われたのが余程気に食わなかったらしく先程から機嫌が悪いのだ。しかし仲間内で天蓬は基本的に甘やかされている。愛されていると言うべきか。だから誰も天蓬を重労働である買い出しに行かせようとなどするはずがない。そんな中、今天蓬が一升瓶を抱えて歩いているのは、買い出しの係にさせられた捲簾が無理矢理引っ張って来たからである。むすっと一升瓶を抱きしめるようにして口を尖らせた天蓬は、恨みがましげに捲簾を見つめている。しかし、ちらりと目を捲簾の手元に向けた天蓬はぽつりと呟いた。
「……重いですか」
「いいや。平気……心配してくれてありがとうなぁ」
「心配なんてしてないですよ。その袋があなたの手に食い込んでるのが気持ち悪いだけですよ」
「……あらどうも」
 見てみれば自分の両掌には引っ張られて細くなったビニール袋の取っ手が食い込んで、赤い線になっている。確かに気持ち悪い。しかし彼がそれを気にしてくれたのが何だかくすぐったくてついつい笑ってしまう。
「何、ニヤニヤしてるんですか……スケベ」
「おいおいスケベって……否定はしないけど、もっと美しい言い方があるだろうよ」
「何ですかそれ」
「教えて欲しい?」
 そう茶化すような口調で言うと、ぱっと目を見開いた天蓬は小さく噴き出して笑った。暫くくすくす笑うその表情から、何となく目を離すことが出来なかった。こんなに綺麗に笑う男だっただろうか。そもそも、男が綺麗とは一体どういうことだ。桜の下で微笑んで美しいのは女性だけだ。特に、美人の。立ち止まり、片手のビニール袋を地面に降ろして目を擦る。するとそれに気付いた天蓬は笑いを収めて立ち止まり、捲簾を振り返った。起こった風に黒髪を攫われ、彼の髪にくっついていた桜の花弁が離れて飛んでいく。そして頬に掛かっていた癖のない髪がさらりと肩に流れた。
「……捲簾?」
 緩く笑みを湛えた口元についふっと目を奪われ、慌てて俯く。胸が奇妙なほどに高鳴っているのが分かった。何となく顔を上げられずにいると、暫くしてゆっくりと天蓬の足が近付いて来るのが視界に映った。そして徐に視界の中にすっと彼の顔が入ってきた。
「っ、わ!」
 身体を屈めて捲簾の顔を覗き込み、不思議そうに目を瞬かせていた彼は、そんな捲簾の反応に気分を害したように顔を顰めた。しかしそれでも捲簾のおかしな様子は気になるのか、不機嫌な顔をしながらも顎をしゃくって捲簾の方を指してみせた。そしてぽつりと呟く。
「どこか痛むんですか」
「あ、いや別に……」
 誤魔化してみせる捲簾に納得しなかったのか、天蓬はぞんざいに捲簾の手を掴んで掌を眺め始めた。手が痛いのかと思ったらしい。少し冷えた指が掌の上を滑る。ぞくりと二の腕が粟立った。そして、天蓬の眸が、僅かな隠し切れない心配そうな色を浮かべて捲簾を見上げた。一際大きく胸が高鳴るのが分かった。
「捲簾……?」
 その声で、その顔で、名前を呼ばれる度、胸が押し付けられるように苦しくなった。



+++



 逃げてばかりでは敵の内情は分からない。なるほど八戒の言うこともよく分かる。彼と接さずは考えようもない。
 とにかく考えよう。彼を彼として、恋人と思えるのか。そして答えを出さなければ。そうでなければ自分も彼も、前には進めない。

「おはようございます、捲簾」
「……おは、よう」
 まるで化け物でも見たような顔ですねぇと笑いながら、天蓬はすっと長椅子に座っていた捲簾の隣に腰掛けた。そして何事もなかったかのようにノートを開き、バッグから筆記用具を引っ張り出している。そんな姿を呆気に取られて見つめながら、捲簾は頭が痛むのを感じた。つい昨日まで逃げて逃げて逃げ切っていたというのにこのフランクさは一体何なのだろう。いや、逃げている方が普通なのだ。男である自分に告白された男としては……そちらの方が妥当である。それなのにこの、まるで吹っ切れてしまったかのような態度は、俄かに捲簾の神経に触れた。自分を放って、勝手に終わりにされてしまったようで。
「……天蓬」
「はい、何ですか?」
「お前、どういうつもりだ?」
 ペンを手にした手首を掴んで軽く力を込める。一瞬怯んだように腕を引きかけた彼は、驚いたように顔を上げて捲簾を見つめた。そして静かに目を緩めて、自分の手首を掴み上げる捲簾の手の上に、逆の手を置いた。それを見下ろした彼は、ゆっくりと睫毛を上下させてから静かに捲簾を見上げる。その瞬き一つで世界が静まったような不思議な感覚に囚われながらその目を見つめ返した。
「時間を下さい。まだ本当に、何も分からないままなんです。……もし、もうあなたが待ち草臥れたのならば、別ですが」
 つまり捲簾の気が余所へ移ったのならば、という要領の言葉に思わずかっとなりかけた自分を抑えて、低く息を吐き、天蓬の手首から手を離した。彼の細い手首は薄っすらと赤味を帯びている。それを軽く擦って、彼は静かに微笑んだ。
「だからね、暫く普通でお願いします。普通で」
「……は?」
「ほら、話もまともに出来ないんじゃ考えようがないでしょう。だから、いつも通りで」
 一瞬こいつはこのまま誤魔化していつも通りの生活にシフトする気ではないかと疑念が湧いた。しかし彼はそんな卑怯な真似をする男ではない、と考え直して、緩く首を縦に振った。そして段々と世界に音が戻って来る。周りの喧騒に自分たちの声が紛れていくのを感じて、やっと緩く息を吐いた。軽く頭を掻いてから、彼に再び向き直る。
「分かった」
「そこでちょっと、レポート見せて欲しいんですけど」
「……」
「ちょっとだけ!」
 そうして、二人の友人としての仮の生活が始まった。周りの誰も違和感を抱き得ない、完璧な姿だった。誰も気付かない。それが演技の掛け合いなだけだと。その笑顔が作り物であると唯一気付ける自分がその原因なのだ。いっそもう振られたいと思ってしまいそうだった。そうすればこんな苛立ちもう感じずに済むのに。悟浄の言う通り、確かにらしくない。相手を前にしてこうやって思わず引いてしまうことも、逃げたい気分になってしまうことも。何もかも自分らしくなくて嫌になる。
「そういえば、この前貸した本、そろそろ返して頂きたいんですけど」
「あ、悪い。持って来てねぇや。じゃあ……」
 言葉を紡ごうとした唇はそのまま固まる。天蓬の眸が不思議そうに瞬いてじっと捲簾を見上げている。その強い視線を受け続けるのが辛くて、視線を僅かに下にずらした。
「あ……明日、持って来る。悪いな」
「ええ、構いませんよ」
 家まで来い、とも気軽に言えない。係わるのが怖い。もう十年も気の置けない仲を続けて来たというのに、どうして今こんなことになってしまったのだろう。少し戸惑ったように笑って言う捲簾を黙って見ていた天蓬は、少し淋しげに微笑んだ。

 芽を出した恋は波のように胸に打ち寄せて息を吐く暇(いとま)もない。『いつも通り』という仮面を被った一日を過ごして、笑顔で彼に手を振った。告白などしていなかったらきっと今でもずっと続いていたはずの穏やかな日々だ。そして同じく笑顔で手を上げてみせた彼の笑顔が、見慣れたもののはずなのに全く別人のそれのように思えて、一瞬怖くなった。ヘルメットの中で低く息を吐いて、緩く首を振る。そして赤から青に変わった信号に従って、ハンドルを握り締めた。流れていく色とりどりの光が僅かに目を痛ませる。
『もう九年経ちましたか』
 桜の下でそう呟いた彼。思えば、本当に呆気ない話だった。普通の笑って騒げるようのタイプの友人たちとは少し違って、夜まで街で遊ぶようなタイプではない。なのに傍にいないと無性に気に掛かってしまう。傍にいて一番自分らしい自分でいられた気がした。長く友人としている中で、時々心を過ぎるその感覚に違和感を感じなかったわけではない。
 そして、そのまま九年が経った。九年前の桜の下で見た、華奢な身体をした未成熟な少女のようだった彼はもういない。強い眸と端正な容貌はそのままに、それでも彼は男になっていった。九年の歳月は二人の姿形を変え、周りの風景と取り巻く人々を変えていった。それでも、二人の距離だけは変えることがなかったのに。
 そうして長い間、ゆっくりと培って来たはずの絆は脆くも崩れた。そして二人はその崩れ去ってしまった絆を隠すように仮面をつけている。いつも通り、何の変わりもないように周りに見せるように。そうして自分たち自身をも誤魔化すために。
(……くそが)
 後悔するななんて無理を言うな。今だって昔のままいられるのならリセットしてしまいたいなんて女々しいことを考えているというのに。
 顔をぎゅっと顰める。もやもやした気分に頭を掻き毟りたい衝動に駆られながら、そのままバイクで夜の街を走り抜ける。
 雨が、強くなってきた。




「天ちゃん、何かちょっと元気になったみたい」
「え?」
 今日は英語のテキストを目の前にしていた悟空は、隣に座る天蓬の顔をちらりと見上げてそう言った。とりあえず家庭教師としてテキストを指先で叩き、勉強を促してから、慌ててテキストに向き直った悟空にそっと訊ねてみた。すると、今度は顔を上げないままで悟空は小さく笑った。そしてペンをテキストに滑らせながら言葉を選ぶようにして口を開いた。
「おや、どうしてそう思うんですか?」
「うーん、何となく! 先週は何か迷ってるみたいな感じだったけど、今は何か出口が見つかったみたいな、感じ?」
 悟空はそのまま下を向いていたせいで、天蓬は驚いたように目を瞠ったのには気付かなかったようである。何と聡い子供であろうか。これは学んで身につく能力ではない。いつもこの子供にははっとさせられる、と小さく笑いながら、湯気を立てるマグカップを持ち上げた。今日は雨だ。このところ暖かかった反動のように、底冷えのする日である。そういえば今朝ニュース番組で梅雨入りの話をしていたのを思い出す。温かいコーヒーは、身体の端まで染み渡り思わず深い溜息が漏れた。そして、天蓬に言われた場所まで問題を解き終えた悟空は、主人に褒めてもらいたがる仔犬のようにぱっと顔を上げた。
「出来た!」
「はい、採点しましょうね」
 悟空からテキストを受け取り、赤ペンを持って採点を始める。やはり、感情の機微への聡さと頭脳は別物らしい。五割はバツで占められたテキストを見て、悟空はがくりと肩を落として項垂れてしまった。そんな彼の頭を天蓬は慰めるように軽く撫でる。
「いいように考えましょう、半分バツってことは、もう半分はマルなんですから。バツになった場所を少しずつ理解していけば、もっとマルが増えますよ。テストまでまだありますから頑張りましょう」
「……分かった。頑張る」
「いい子ですね。じゃあ……前の試験から全教科点数が上がったら、御褒美にしましょう」
「ホントに!?」
「ええ。三蔵には内緒ですよ」
 天蓬が悪戯っぽく笑って人差し指を唇に当ててみせると、悟空は目を爛々と輝かせて嬉しそうに頷いた。その嬉しそうな顔を見ていると、彼が自分の弟より二歳下であることがまるで信じられなくなる。自分の弟が特に大人びているのではない。彼の姿形や仕草が何となく幼いのである。腕を捲り直して、誤答の部分を再び考え直し始める彼を見つめて、天蓬は再びカップに口をつけた。
「……ねぇ、悟空」
「何?」
「僕、……先週そんなにおかしな様子でしたか」
「うん」
 顔を上げることもなくあっさりと言ってのけた悟空に、思わず天蓬は目を瞬かせてその姿をまじまじと見つめてしまった。すると、返事をしない天蓬をおかしく思ったのか、悟空が不思議そうに顔を上げた。そして少し訝しげに首を傾げる。
「どうしたの?」
「変でしたか、そんなに」
「うん」
 再び間を置かず、率直に返された言葉に、返す言葉を失って天蓬は押し黙った。そんな天蓬を静かに見つめていた悟空は、ペンをテキストの上に置いてその手をカップに伸ばした。中には甘いカフェオレが入っている。それを一口飲んだ悟空は、少し濡れた口元を袖で拭ってからぼそりと呟いた。
「ちょっと固い顔しててさ、何か怖がってるみたいな感じだった。だからきっと何か悲しいことがあったんだろうなって思って」
「そう……ですか」
「うん。だけど、ちょっと元気になった感じがする」
 光に透けて金色に見える眸が少し細まって、優しく天蓬を映した。この眸はいつも嘘を吐くことを許さない。冷たいでもない、いっそ熱すぎる目は自分には時折痛みとして伝わった。長く見つめ返すのが辛くて、ふっと俯いた。
「……また少し辛いんです」
「うん、でも、ちょっとは答えが見えたんだろ?」
「ええ。まだどうなるかは分からないけど、やってみます」
 要点には触れない会話。しかし悟空は深く踏み込むことはなく、天蓬もそれ以上話そうとはしない。それでも悟空は天蓬の答えに力強く笑って、再びカップに手を伸ばした。それを一気に傾けて、空になったカップをテーブルに置いた悟空は満足げに息を吐いた。そして少し照れたように笑う。
「天ちゃんは笑ってるのが一番きれいだ」
 一瞬言葉を失った天蓬は、無意識に顔が赤くなるのを感じて頬を袖で擦る。そして、それが何故なのかも分からぬように首を捻る悟空を見て何とも言えない脱力感に襲われたのだった。がくりとテーブルに凭れる天蓬をじっと見ていた悟空は、暫く天井を見上げたり首を傾げたり腕を組んだりと忙しない。そして漸く何かに思い当たったように、目をぱっと見開いた。一瞬その目に淋しさが過ぎったが、天蓬はそれを見ることはなかった。それが二人にとって良いことだったのか悪いことだったのかは、分からない。
「あ……そっか、天ちゃん、好きな人がいるんだ」
「は?」
「三蔵と付き合う前の八戒もそんな感じだったもん」
「え、ちょっと、それは」
 一人で完結しつつある悟空に慌てて天蓬が顔を上げると、その瞬間に突然悟空はすっくと立ち上がった。そして空になった自分と天蓬のカップを持ち上げる。
「お代わり持って来るよ」
 天蓬の言葉を遮るようにそう言った悟空はカップを両手に、ドアを空けて部屋を出ていった。呆然とドアの閉まる音を聞いていた天蓬は、彼が階下へ下りていく音に溜息を吐いて髪を掻き毟った。眼鏡を少し乱暴に外してテーブルに放り投げる。その暴挙を批難するように高い音を立てた眼鏡には目もくれず、じっと自分の指先を見つめた。微かに震えているのが不愉快で、指を掌に握り込む。
「……好きな人」
 恋愛事で悩んでいるのは確かだ。しかし自分に好きな人がいるわけではない、断じて。
 好きなんかじゃないはずだ。
(ならばどうしてすぐに断れない?)
 ふと頭を男の顔が過ぎる。ぐっと胸が押し付けられるような気分になって、探るように自分の胸の辺りを撫でてみた。痛みに似た締め付けられるような心地に何故か不安を煽られる。胸を過ぎったのは恐怖だ。今まで自分が彼に覚える感情は安堵や、それに付随する優しい感情のはずだったのに。今はどうしてかこんなにも苦しい。
 これは何だ。この痛い感情は一体何者だ。
 今日の彼の様子を思い出す。いつも朗らかな笑顔が作り物であることに気付いて愕然とした。自分といて彼が無理をしているということだ。いつもなら引っ張ってでも家に招かれるような場面で、彼は一瞬視線を逸らした後にその選択肢を無理矢理避けた。それに思ったよりショックを受けているらしい自分が嫌だった。彼が自分をなるべく遠ざけようとするのは当然だ。そして今日までずっと逃げ回って彼を避けていたのは自分だ。なのに自分を棚に上げて何を考えているのだろう。
 情けなく、惨めな気分になってゆるゆると顔を上げる。カーテンを閉め忘れた窓の外は真っ暗闇で、その表面に暗い顔をした自分が映っていた。らしくないことばかりで嫌になる。外では、ぴしぴしと雨粒がガラスの窓を強く打ち続けていた。
 考えなければならないことがたくさんある。腹の底で蟠った思いが腐り始めて痛みを訴え始める。
(捲簾)
 どうすれば、どこまでいけば自分の気持ちが分かる。


「……あ、ちょっとすみません」
 いつものように喫茶店の隅の席で問題集を広げていた八戒は、ポケットに入れていた携帯電話がバイブレーターで振動するのを感じて、向かい側に座っている友人に断ってからポケットに手を入れた。取り出した携帯電話を開いて誰からの着信かを確認すると、通話ボタンを押し声を潜めて対応した。
「はい、もしもし? 天蓬、どうかしました?」
 兄の天蓬は滅多なことでは電話を掛けて来ることはない。何か用件があっても急ぎの用でなければ大抵メールで済ませている。ということは何か重大な出来事でもあったのだろうかと少し顔を引き締める。天蓬はどうやら外にいるらしく、背後からはざわざわと人の声や車の音が聞こえてくる。
『僕、今日帰りません。戸締まりちゃんとして寝て下さいね』
「え、ちょっと……! 天蓬!?」
 それきり、呆気なく切れてしまった電話に慌てて掛け直してみる。しかし天蓬の携帯電話の電源は、既に切られた後だった。呆然と自分の携帯電話を見つめていた八戒は、驚いたような友人の視線に愛想笑いを返してとりあえず通話を切った。そして、履歴を見つめて不安な気分に駆られた。何があったのだろうか。何か、悪いことがあったわけではないだろうか。




 それから三十分後。しとどに濡れて、ちょこんとフローリングの床に正座した天蓬がいた。初めて訪れた家に思わずきょろきょろしてしまう。シンプルな家具で占められたリビングを見渡しながら周りの家具や絨毯を濡らさないようにじっとしていた天蓬は、背後のドアを開けてリビングへ入って来た敖潤を見上げた。彼は相変わらずの無表情のままで手にはタオルを数枚持っている。それを渡してくれるのかと思いきや、彼は天蓬の腕を引いて立ち上がらせ、自分が入ってきたばかりのドアを指差した。
「風呂に入ってこい。着替えは用意しておいた」
「……はぁい」
 持って来たタオルは、天蓬が座っていた場所を拭くために持って来たらしい。背中を軽く押されて、のろのろと電気がついたままのバスルームへ向かう。洗面台の脇には白いタオル地のバスローブが置かれている。生真面目で潔癖の気がある彼らしく、辺りは随分と綺麗に整頓されていた。濡れて肌に張り付く衣服を何とか脱ぎ、浴室へ足を踏み入れた。隅々まで掃除が行き届き、黴一つ見えない。自分の家とは違ったボディソープやシャンプーに戸惑いながらも髪を洗い、身体も洗って浴室を出た。
 三十分前八戒に電話をした後、彼に教えてもらった住所を辿ってこのマンションへと辿り着いた。彼が在宅だという保証もなかったし、ひょっとしたら来客があって、自分は入れてもらえないかもしれなかった。しかしもしそうだったら帰ろう、と軽く考えて、天蓬は万全のセキュリティの張り巡らされたマンションのエントランスへと足を踏み入れた。傘はない。勿論頭の上から足の先までずぶ濡れだった。
 突然の天蓬の来訪に少し驚いたようだった彼は、それでもすぐにロックを解除してくれた。そしてドアの前に立った天蓬を見て、今度は驚きに呆れの混じったような顔をして頭に手を当てた。しかし彼は溜息一つ吐いた後、すぐに濡れ鼠状態の天蓬を家へと上げてくれたのだった。そして今こうしてバスルームを借りて、着替えまで借りている。
「……先輩? お借りしましたよー」
 リビングへと戻って来た天蓬は、見える範囲内に彼がいないことに気付いてきょろきょろと辺りを見渡した。しかしすぐにカウンター越しのキッチンから水音がするのに気付いて、足を運ぶ。キッチンの中で彼はコーヒーメーカーの前に立っていた。そして、天蓬が現れたのに気付いて顔を上げ、僅かに表情を緩めた。
「きちんと髪を拭かないか……ソファに座っていろ」
「はい」
 タオルで頭を拭きながら大人しくソファに座っていると、キッチンの電気を消して出てきた敖潤は、両手に白いカップを持っていた。ふわりと深いコーヒーの香りがして、少しだけ目を細める。彼は隣の一人掛けのソファに座り、片方のカップを天蓬の前に置いた。
「雨は強くなっているようだな」
「ええ、シャワーみたいでした」
 呑気な様子でそう言う天蓬に、敖潤は咎めるような目をした。
「何をまた考え込んでいる」
 出されたコーヒーに息を吹きかけていた天蓬は、その言葉に一瞬上目遣いで敖潤の様子を窺ってから、再び俯いて熱いコーヒーを一口啜った。思った以上に熱く、舌がひりひりするのを感じながら緩く息を吐いた。
「……ちょっと、予想外の指摘をされて動転してました」
「指摘……?」
「このところ、僕の様子がおかしかったんですって。で、その原因が恋だっていうんですよ。それでびっくりしちゃって」
 そう呟くように言った天蓬に、彼は驚いたように少しだけ目を見開く。そしてそれを誤魔化すようにコーヒーカップに口をつけた。静かな家だ。自分が少し足を動かした音がやけに大きく響いた。
「先輩、誰かとお付き合いしたことあります? ありますよね。誰かを好きになった時ってどういう風に分かるんですか?」
「は……? それなら、お前の方が詳しいんじゃないのか……その、色事に関しては」
 それはそうなのだが。きっと彼より自分の方が付き合った人数は多かろうということは何となく分かっている。しかし、恋愛をした数、といったらどうだろう。人を愛して、人に愛された経験というのは。
「相手に告白されて付き合って、何となく自分も相手のことが好きなんだろうなぁって思ってた経験はあるんです。だけど、どうしても別れたくないとか、ずっと傍にいたいとかそんな風に思ったことはないんです」
 酷いことを言っている自覚はある。隣でじっと天蓬を見ている彼も、驚いたように目を瞠っていた。自分から誰かに焦がれたり、愛したことがない。適当な考えで相手の真摯な想いを冒涜して、酷い人間だと分かっている。
「この人が好きだって、分かったことがないんです」
 可愛いと、大切だと思うことはある。しかしそれは恋愛でなくてもあることだ。恋愛小説をたまに読むことがある。しかし、全く共感出来た試しがない。『泣きたくなるほど』だとか、『死ぬほど』だとか、恋愛とはそんなに辛いものなのだろうか。
 暫く戸惑ったように組んだ自分の手を見下ろしていた敖潤は、ややあって言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「……本当に好きになる相手が現れたら、分かるんじゃないのか」
「だから、それがどんななのか知りたいんです」
 この口振りからすると、彼は知っているのだ。その感情を。
「味わってみないと分からん、そんなもの」
 素っ気ないその返事につまらない気分になって、天蓬は俯いた。きっと悟浄も捲簾も、そして八戒も知っている感情が自分にだけ分からない。焦りに似た思いが天蓬を歯痒くさせる。早く大人になりたがる子供のような気分だった。
「それは、苦しいですか」
「ああ」
「悲しいですか」
「たまにな」
「痛いですか」
「ああ」
「楽しいものですか」
 その問いかけに一瞬彼は口を噤み、小さく微笑んだ。
「ああ」
 そんな風に言われると、否が応でも知りたくなる。知的好奇心に意地も加わって、どうしてもそれを経験してみたくなる。
「だが、それが叶わなければ苦しいだけだぞ」
「……相手が、自分に振り向かなければってことですか?」
「ああ。苦しくて、悲しくて、痛いばかりだ」
 そして、その言葉に妙に実感が篭っていることに気付く。きっと今、彼はその感情を経験している最中なのかもしれない。誰かに苦しい恋をして、その感情に囚われている。
「それでも、構わないと思ってはいるが」
「え?」
「それでもいいと思えるくらいでなければ、そんな感情にはならない」
 難しい。数式なんて目じゃないくらいに難しい。
「……それで、お前は恋をしているのか」
「え? いや、そんなことは……」
 現在捲簾に感じる感情とそれは別物のはずだ。あんなの辛くて苦しいだけだ。胸は押し潰されるように痛くて、何かが怖くて堪らない。
(……おや?)
 ふっと胸の中に矛盾がちらついた。何だか妙な胸騒ぎがする。気付いてはいけないことのような気がした。考えない方がいいような気がした。しかし一旦頭を掠めてしまった可能性を考えずにはいられず、天蓬は俯いた。いや、本当は悟空から指摘された時点で薄々感付いていたのだ。なのに認められなくて気付かない振りをして、敖潤なら否定してくれるかもしれないと思い、ここへやってきた。しかし、彼は目を逸らすことを許さなかった。それどころか、さらにその感情を今、直視させられている。直視してその本質に気付くのが怖かった。
 あの痛い感情は、敖潤の言う恋愛感情によく似ていた。なくしたくない、終わりにしたくないと思えば思うほど深みに嵌まる。
 いや、この状態は疑似体験に他ならない。きっとまた錯覚だ。これを恋愛感情と早合点してはきっとまた傷つける。
(どうしろと)
 俯いて考え込む天蓬を静かに見つめていた敖潤は、両手に包み込んでいたカップをテーブルに下ろして大きく息を吐いてみせた。そして気になって顔を上げた天蓬に向かってテラスの方を指差してみせる。
「今日はどうする、泊まっていくか。それとも弟が心配するから帰るか」
 そう訊かれて、ソファからゆっくり立ち上がった。そしてテラスのガラス戸に掛けられたカーテンを少しだけ開けてみた。外は強い雨だ。ぴしぴしと水滴が窓を叩き、空気を冷やしていく。
「どうやってここに来た」
「歩いて……ですけど」
 第一、天蓬は傘を持っていない。ずぶ濡れになって帰って、家でまたシャワーを浴びて着替えるという手もあるが、その時ふっと頭に弟の顔が過ぎってその選択肢はすぐに消えた。
(帰りませんって言った手前……)
 ひょっとしたら家には三蔵がいるかもしれない。余計な心配や迷惑は掛けられなかった。頼ることと依存は違う。これからは何か困ったことがあったらきちんと八戒に相談するつもりではいるが、余計なことで彼に負担を掛けてしまうのは本意ではない。一瞬迷ったものの、カーテンを閉め直した後、敖潤の方を振り返って頭を下げた。
「すみません、一晩だけ泊めて頂けますか」
「……分かった」
 殆ど迷いもなく頷いた彼に、ほっと溜息を吐いて再び「ありがとうございます」と頭を下げた。その声のあまりの覇気の無さに我がことながら不安になってくる。全てから逃げてしまいたい気分になった。それでありながら全てを失くしてしまいたくないと思っている。
 じっとカーテンを掴んだまま黙りこくっていた天蓬は、ふと我に返ると目の前に大きな陰があるのに気付いた。慌てて顔を上げようとすると、それを押し留めるように頭の上に手が乗せられる。
「今まで知らなかった世界を見ることは、恐怖に似ているかも分からん」
「……先輩?」
「だが、それはお前にとっての無駄にはならないだろう」
 そうとだけ言って、彼は天蓬の頭から手を放し、背を向けてリビングを出ていった。きっと寝床の準備でもしてくれるのだろう。
 リビングのドアが閉まり、広い空間にぽつんと立ち尽くした天蓬は、両手でカーテンに縋り付いて俯いた。










天蓬が「恋とはどんなものかしら」状態。       2007/03/22