暖かい春の日だった。こんな日はどうせならばオープンテラスでのんびり本を読みつつ、ティーカップを傾けたいものである。
 天蓬は目の前に置かれたティーカップを両手で包み、口元に運んで一口飲んだ。こくり、とそのすっかり冷めてしまった生温く甘い液体を嚥下する。そして殊更ゆっくりとした仕草でカップをソーサーに戻した。かちん、とカップとソーサーがぶつかる小さな音が耳に届く。そんな風にゆっくりと動作をする内に、その悪い夢から覚めてしまわないだろうかと思ったのだ。現実主義の天蓬らしからぬ発想である。しかしそんな発想に縋りでもしないと打開できない状況に陥っていたのだった。しかし事態は全く変わらない。悪化の一途である。前方から天蓬に向けて発されている、到底無視出来そうにない強い視線に溜息を吐く。その視線が、この場から逃げようとする自分の身体を椅子に縛りつけていた。店内に流れる馬鹿らしい歌詞のポップスにやつ当たりしたくなる。何が愛だ恋だ。惚れたのはれたの鬱陶しい。舌足らずな英語の発音にますます苛立ちながら、天蓬はソーサーに置かれたティースプーンを指先で突付いた。一瞬、聞こえなかった振りをしようかと考えた。しかし聞き返せばきっと同じ言葉が返ってくるだけだと瞬時に判断し、開き掛けた口を閉じて下唇を噛んだ。
 顔を上げて、その精悍な顔立ちをした男を真正面から見つめた。整った顔をしているのは勿論、意思の強さを感じさせる切れ長の眸が、天蓬が現実から逃げることを許さなかった。
「……考え直」
「さない。もう何週間も十分考え尽くしたからな」
 意を決して口を開いた天蓬の言葉尻を攫ってにべもなく切り捨てた、目の前に座る短い黒髪の男は、確かに少し目の下に隈が出ているようにも見える。ただ普段から夜遊びばかりしている男だから、それがどんな理由での寝不足かは一概に判断は出来ないのだけれど。その如何にも寝足りなそうなギンギンした目をしている彼は、それで無精髭を生やしてサングラスでも掛けていれば誰も近寄れないようなデンジャラスなオーラを巻き散らしていただろう。確実に前科二犯の風体である。お陰で今も二人は微妙な視線を周りから集めていた。一体周りから僕等はどんな関係に見えているのだろう。ただの友人関係に見えないことは間違いなかった。自分が傍観者だったら確実に何かの取引か、アンダーグラウンドな関係かと思うに違いない。しかも周りにいるのはそういった噂話の好きそうな女ばかりだった。肩身が狭い。
 男は天蓬の親友だった。それも中学から続く腐れ縁である。いい加減腐敗して切れてしまうのではないかと思っているのだが、この頃では腐って余計にねばついて離れないような気もしてきている。腐臭漂うこの関係がこのままだらだらとあと何年、何十年続くのだろうと考えていた矢先に、この男はとんだ行動を犯した。次の瞬間、期限が来週までのレポートについて彼に意見を求めようとしていた天蓬は、耳から入ってきたその音声の情報とその場の呑気すぎる雰囲気、頭の悪いポップス、次に自分が言おうとしていたことが全て混じって一瞬では処理し切れず数秒間動きを止めた。
「……あのねぇ、捲簾」
 親友の名前は捲簾という。ガキ大将をそのまま大きくして少し野性味を足したような男だ。それが世の女性には堪らないらしい。天蓬にとっては違う意味で堪らない。中学高校そして現在の大学に至るまで、どこどこの誰と喧嘩をしただの、子どもを助けて自分が怪我しただの、そういうことがある度に重い腰を上げて保護者代わりに病院や交番へ彼を迎えに行かせられた。彼女というのは実に楽な立場だ。彼が調子のいい時だけ付き合っていられる。自分の場合、いつも尻拭いばかりさせられている。尻拭いまで全部彼女がやればいい、と思っているのだが、何かがあればすぐ天蓬の携帯電話には捲簾からの着信が入った。「俺の家から保険証取って来て」、「ちょっと俺の身元証明しに来て」など、何にしても彼と付き合っていて何もいいことはなかった。誰が友人に保険証を持ってこいだなんて頼むのか。そんな自分に、今更どの面下げて好きだの付き合えだの言うことが出来るのか。分からない。彼が、何を考えているのか分からなくて何故か怖くなってくる。
「まず、僕は男です。あなたの大好きな女の身体は持ってません。余計なものも付いてるし、胸だってないですよ」
「知ってるっつの、何度も一緒に風呂入っただろ」
「わざとらしい発言は控えて下さい、修学旅行の話でしょう。……それに、僕は天蓬です」
「それこそ今更じゃねぇか」
「……もういい加減にして下さい、何の恨みがあってこんなこと。いつからこんな陰湿な嫌がらせを覚えたんです」
 中学の入学式で出会って早々に喧嘩を始めた二人だから、言い争いにも年季が入っている。加えて天蓬はかなりの短気だ。しかし今回ばかりは捲簾も喧嘩をする気など全くなかったらしく、ぱちぱちと子供のように目を瞬かせた。その図体の割に時々行動が子供っぽいのである。そんな仕草にやる気を削がれて、むすりと顔を顰めた天蓬は、再びカップを持ち上げて中に残っている液体を一気に飲み干した。不味い。もうこの店に来るのはやめよう。紅茶は不味いし、音楽はうるさい。それに加えて妙な想い出まで出来てしまった。カチン、とわざと音を立ててカップをソーサーに叩きつけるように置く。そして臆することなく、正面の男の目を睨めつけた。
「お断りします」
 そう口にするので精一杯だった。人とあまり深く付き合わない自分が気を許したごく少数の中の、特に憎からず思っていた相手に、こんな嫌がらせをされるまでに嫌われていたという事実が重かった。

 一人の男が、自分の正面で優雅にティーカップを持ち上げている。その細い指が白い陶器の把手に絡むのが少しエロチックでもある。初めて出会った頃は冗談ではなく本気で少女と見紛うような容姿をしていた彼は、今ではすっかり男の風貌になっていた。それでも自分のような男臭い男とは大分異なる、中性的と称していい容姿だった。ただあの頃は確かに、その凶暴な性格を除けば“学生服を着た美少女”だったことは間違いない。声変わりもしておらず、骨格も筋肉もまだ未成熟だった。指折り数えれば彼と出会ってもう十回目の春をつい最近迎えたばかりだ。友人何人かと共に、数週間前に花見という名の飲み会に行ったのが記憶に新しい。
 中学の入学式の日に知り合って即日喧嘩をして、それでも三年間の内に大分仲良くなった。しかし三年の進路決定の時期に丁度喧嘩をして暫く疎遠になった。それまでお互いの進学先を話し合うこともなかったため、結局彼の進学先を聞くことはなかった。それでもきっと学年首席の彼と自分が同じ高校に入ることなどないのだろうと見当は付いており、少し淋しく思っていた。しかし何の因果か、高校の入学式では数年前のデジャブを見ているかのような光景が再現されていた。で、また入学式の日に喧嘩をした。……と、そんな腐って匂い立ちそうな縁がここまで続いてきたこと自体が謎だった。両手両足の指で足りないほど殴り合いもしているし、仲違いなんて何度したかも分からない。ただお互いがお互いを裏切ったことだけは一度もなくて、だからきっと対極にあるような自分たちでも続いてきたのだろうと思う。
 だとしたらこの行為は、自分から彼への初めての裏切りということになるのだろうか。
 その花見を終えた頃からずっと捲簾は悩んでいた。同性間の恋情についてだ。実際、その辺にごろごろ転がっている感情だということは知っている。実際友人にそのタイプの人間もいる。捲簾自身は違ったけれど傍にいて何か悪いことがある友人でもなかったし、特に偏見があるわけでもなかった。が、自分がその渦中に入り込むとしたら全く話は別だった。ふと目を瞑って再び目を開いたら今までとは全く別の場所にいた、というくらいのショックだった。今まで何とも思っていなかった女の子がある日を境にきらきら輝いて見えたり、という漫画のような展開が現実にないわけではない。しかしそれが男に適用された場合一体どうしたらいいものか分からないのだ。易々と受け入れてもらえるだなんて思っていない。怒るのも無理はない。殴られてもしようがない。しかし嘘や冗談だとは思って欲しくなかった。それが、捲簾がここ何週間か寝不足になりながらも考えた結論だった。そう、寝不足なのだ。酷く眠い。その上レポートやアルバイトも重なって、ここ数日は何をして何を食べていたかの記憶が殆どない。下手をすれば何も食べていないのではないだろうかとも思う。その割に、辺りから匂うケーキや菓子の匂いを嗅ぐだけで嘔吐いてしまいそうだった。目の前の男もレアチーズなんとか、というものを注文していた。奴は甘辛両党なのだ。
 想像通り、目の前の男は考え直せと言い出した。が、その言葉に割り込んでそれは無理だと告げる。自分自身何度考え直したか知れないのにまだ考え直さなくてはならないなんてとんでもない。
 すると次はその男は、しょうがない子どもを相手にするかのように語調を緩めて話しかけてきた。諭すような口調で、さっさと諦めろと言わんばかりに。しかしここは男の矜持で引き下がるわけにはいかなかった。

「第一あなた今彼女いるでしょう、あの下品な茶髪の」
 そう言う彼の俯いた顔を見つめていると、つい笑いが洩れた。確かに、見た目は清廉としか言いようのない男の言うことだから説得力がある。癖のない濃茶の髪に白い肌は、なろうと思ってなれるものではない。
「下品ってね……まあ、な。いたけど別れた」
 驚いたように目を見開いた彼に向かって言葉を続けた。
「二週間前」
「どうして」
「別に好きじゃなかったことに気付いたから」
 そう軽い口調で続けると、彼は如何にも嫌そうに顔を顰めて、捲簾を軽蔑したような目で見た。慣れているその視線は、彼から受けるというだけで心に僅かな痛みを残していった。その目から逃れるようにふっと俯くと、彼もまた少しその目を緩めて再びカップに手を伸ばした。ざわざわと賑わっている店内で、それでも彼の一挙一動、起こす物音は一つ一つが頭に直接働きかけてくるかのようだった。
「泣いてた」
「さぞかし取り乱したでしょうね。化粧とかもぼろぼろにしちゃって」
「うん。目の周りマスカラ取れて黒かった」
「あなた多分その子の友人たちに一斉に恨まれましたよ」
 そのくらいの覚悟はしている。その日の夜に一気にメールが回って、自分はその仲間内で最低な男に分類されただろう。そして絶対にあの男とは付き合わぬようにと触れ書きが回っただろう。しかし今はそんなことはどうでも良かった。もうそんな女たちに軽い気持ちで手を出す気分にはならなかった。だからこそ、別れたのだ。今、自分が欲しいのは一つだけだ。
「その前日までそんな素振り見せなかったんでしょう」
「ん?」
「喪失感に泣いたんですよ、その子は」
 その言葉の真意を問うように目を見開いてみると、彼は手にしていたカップをソーサーに戻してから近くにあった捲簾のライターに手を伸ばした。そして反対の手をポケットに伸ばし煙草を取り出して一本咥え、その先に火を着けた。用済みになったライターをテーブルを滑らせて捲簾に返し、その手で灰皿を引き寄せた。
「男をアクセサリーか何かだと思っている。意識しているか、無意識かは知りませんが」
「なるほど」
「あなたは彼女にとって割と見栄えのする、周りに自慢出来るアクセサリーだった」
「うん」
「で、急にそれが手の内からなくなったんで、癇癪を起こした」
「お見事」
 軽く手を打ってみせると彼は嫌そうに眉根を寄せて、煙を吐き出した。そして指先に挟んだ煙草を灰皿の縁にぶつけて灰を落とす。その一連の動作を黙って見ていた捲簾もまた返されたライターを手に取り、テーブルに置いたままになっていた天蓬のアークのケースから一本抜き取った。彼は眉を顰めたもののそれを取り返そうとするでもなく、捲簾を一睨みしただけだった。
「あなたも薄々気付いてたんでしょうに」
「そういうタイプの女だったって?」
 それが分からぬほどに馬鹿ではない。ク、と喉を鳴らして笑うと、彼は不思議そうに首を傾げた。
 今までは何もかも面倒だったのだ。告白を断るのも、別れるための文句を考えるのも、そんな彼女に文句を言うのも、注意をするのも。だからだらだらと付き合いばかり長くなっていた。決して相性がよかったとも思わない。仲がいいカップルと周知されていたけれど、自分ではよく分からなかった。きっかけがあればもっと早くに終わりが来ていたのだろう。来る者拒まずとはよく言ったものである。
「知ってた」
「ふうん」
「女と付き合うって、そんなモンだと思ってたよ」
 咥え煙草でそう呟く捲簾を暫く黙って見つめていた彼は、指先に煙草を移して小さく気が抜けたように笑って、煙を吐いた。再び指先で煙草を軽く叩きながら灰を落とした彼は、その煙草の先を見つめながら少しだけ目を細めた。
「かわいそうな人」
「俺が?」
「馬鹿な。その女の子がですよ」



「絶対?」
「願い下げです」
 可愛らしい皿に盛られた小さな丸く白いケーキが、天蓬の持つスプーンで崩される。そして乱暴に抉られたその一欠けは無造作に彼の赤い唇の間に運ばれる。しかし彼の顔はすぐに顰められて、二度とスプーンを口に運ぼうとはしなかった。小振りな金のスプーンがカシン、と皿に軽く触れて音を立てた。つまらなさそうに口をへの字に曲げた彼は口の中に残った味を流すようにカップを傾ける。
「美味しい?」
「二度と来ません、こんな店」
「女の子には好評なんだけどな」
「大方味覚障害でも起こしてるんでしょう。食えたもんじゃない」
 相当苛立っているのだろう、幸い店員には聞かれていないようだがかなり酷いことを堂々と口にしている。それほど不味いケーキと紅茶なんてそうそう出るものではないだろう。気になったのでとりあえず捲簾も注文をしてみた。紅茶は飲まないのでコーヒーにした。天蓬は注文をしている最中も面白くなさげな顔でそっぽを向いていた。何をしても様になる男だ。そしてウェイトレスが去っていくのを確認してから、小さく息を吐いてカップに手を伸ばした。
「可愛い子でしたね」
「……お前、それ本音じゃないだろ。大体殆ど見てなかったじゃねえか」
「ええ。嘘です」
 天蓬の審美眼はかなり厳しい。彼の歴代の彼女を思い出して見ても、そう簡単に手を出して落ちるようなレベルの女はいなかった。美人で頭も良く、見るからに優しそうで聡明な彼女。そんな彼女たちにしてもほぼ天蓬は執着を見せなかった。あまりの無関心ぶりに気を引こうと態と他の男に接してみせる女もいたのに、天蓬はそれが全く見えていないかのような態度を取り続けた。その無関心さとは裏腹に天蓬は普段はとても優しいのだという。それ以上ないほど紳士的に接してくれる。だから愛を疑うことも出来ずに彼女たちは困惑したのである。質の悪い、本当に嫌な男である。
 しかしもし。もし彼が、どうしても手放したくない、どうしても手に入れたいと思うような相手が、現れたとしたら。

「……ああいう子に、言ったらどうですか」
「何を?」
「好きになっちゃったって」
「だって、好きになってないし」
「僕だって同じでしょう」
「は?」
「質の悪い冗談はよして下さい。僕の反応を窺ってこういうことをしているんだとしたら僕はあなたを心底軽蔑しますよ」
 ばっさりと切り捨てた天蓬の言葉を後に、二人の間は沈黙する。間に流れ込んだのは相変わらず呑気に愛をまつり上げるラブソングだった。元から好きではないが、こういう歌がこんなにも白々しく聞こえる場面はそうそうない。そんな気まずい沈黙の中、先程とは違うウェイトレスが二人の席の横に現れた。トレーにコーヒーカップとケーキ皿を載せている。それを殊更丁寧にテーブルに並べながらウェイトレスはさり気なく捲簾を観察しているようだった。大方さっきの女の子が裏で仲間内に話したのだろう。普段なら即ナンパに走りそうなものだが、今日の捲簾は遊びモードはオフらしく、ウェイトレスの存在にも構わず眠そうな目を擦りながらコーヒーを口にしている。
 ウェイトレスはついでに天蓬のことも窺っているようだった。間柄を詮索されているのかもしれない。昔ならともかく、今は女と間違われることもないから、ただの友達同士だと正しく理解してもらえると嬉しいのだが。伝票をテーブルの端に置いて小さく頭を下げたウェイトレスの顔を見上げてみる。肩より少し長い栗毛色の髪が店内の照明の光を弾いている。割と美人の部類に入るだろうか。捲簾のストライクゾーンにもばっちり入るだろうに勿体ない、と思いながら、天蓬は彼女に向かって愛想笑いを浮かべ会釈をした。そのウェイトレスが足早に去っていくのを見届けた後、捲簾はどこか憮然とした顔で、据わった目を天蓬に向けた。不味いケーキの味を紅茶で押し流そうとしていた天蓬はぱちぱちと目を瞬かせる。
「……何ですか?」
「今の子、好みだった?」
「何で」
「笑いかけてたじゃん」
「僕が笑うのって珍しいですか」
「全然」
「じゃあ何で」
「……や、別に。さっきの子、顔真っ赤にしてたぜ」
「あなたが好みだったんでしょう」
「や、絶対違うって」
 何故かいつまでも食い下がってくる捲簾に片眉を上げながらも、捲簾の前に置かれたケーキに手を伸ばして角をスプーンで掬った。
「あ、おい」
「……マズ」
「じゃあ食うな、人の取ってまで」
 そう言って捲簾は少しだけ顔を顰めた。その表情がいつもの捲簾で、少しだけ天蓬は安堵した。そんな天蓬をちらりと窺った捲簾は、スプーンでカップをかき回しながらぼそりと呟いた。
「冗談じゃねぇからな」
 その低い声に、スプーンを摘む指先が震えた。心の底を見透かされる感覚に、不快感よりも恐怖が勝った。目を合わせるのが怖くてそのまま、彼の胸元を見つめたまま、次の言葉を待った。目を見てしまえば、きっと逸らせない。逸らせぬままいたらきっと、全てを読まれてしまう。彼の真っ直ぐな目はいつも自分には強すぎて、後ろ暗いこと、隠し事、全て彼の前で隠しきれたことがなかった。
「軽蔑してくれて構わない。だけど冗談にして流すのだけは勘弁してくれ」
 逃げ道は閉ざされた。単純な旋律と露骨な歌詞のポップスが頭に流れ込んでくる。なのにちっとも歌詞が理解出来ない。口に広がる妙な甘さも、目の前の彼が付けているのであろう、香水も頭に情報が伝わらない。全身が麻痺したように、感覚が分からなかった。
 お願い、逃げさせて。
 紅茶の味が、妙に苦くて甘かった。






 気が付けば、一人で立っていた。店を出てから一体どうやってここまでやってきたのか分からない。腕にはいつも行く書店の紙袋。スーパーの袋からは長葱が一本生えていた。そして顔を上げてみれば目の前には弟と二人で暮らしているマンションのドアがある。表札とドアとを二度交互に見て、がさりと足元にスーパーの袋を下ろした。そしてポケットを探り、キーホルダーもついていない家の鍵を取り出す。鍵穴にそれを入れて回すと、ガチン、と音を立ててドアが開いた。袋を持ち上げドアを開けて家の中に入り、再び施錠する。受験生である弟は休日も返上で講習を受けている。帰りは遅くなることだろう。折角だから夕飯は作っておこうと思いながら、腕時計を見る。時刻はもう四時近い。あの男と話をしていたのは午前中だったはずだ。それがこの時間まで、一体どこをうろうろしていたのだろう。ダイニングテーブルの上に袋を下ろして、よろよろと椅子に腰を下ろす。テーブルに突っ伏して溜息を一つ。
(どうなってるんだ)
 足が地に着いていないような浮遊感が襲い、突然の強い吐き気が押し寄せた。慌てて口を手で覆って立ち上がりトイレに向かうが、そのうちその吐き気は収まってしまい、そのまま洗面台の鏡の前に立った。酷い顔色をしている。こんな顔色のままでいたらきっと帰ってきた弟に心配を掛けてしまうだろう。一時間くらいなら平気だろうか、と思いながら腕時計を確認する。一時間しっかりと寝て、少しはまともな顔に戻さなければならない。鏡の中の、蒼白い顔をした憎らしい男を少し睨みつけてから洗面所を出た。
 リビングに戻り、ソファに向かう。畳まれたブランケットを広げてクッションを枕にし、ソファに身体を横たえた。見上げた白い天井はカンバスのようで、何か嫌なことを考えそうになりぎゅっと目を瞑る。こめかみの辺りを強く押さえてじっとしていると、その衝動も少しずつ収まってくる。それと同時に訪れた穏やかな眠気が、意識をゆったりとした波の狭間に攫っていく。
 目が覚めて今日のことが夢ならいい、とは使い古された気休めである。しかし今の天蓬には、それ以外に縋るものはなかった。









2006/4/24(2007/12/02・改稿)