夜のプールがパシャン、と水音を立てる。ドアを開け放ったままの倉庫の中で用具の点検をしていた天蓬は顔を上げ、夜間照明に照らされた、凪いだ水面を見つめた。その真ん中を綺麗なフォームで真っ直ぐに進んでゆく姿を見つめ、小さく息を吐く。そして再び視線を倉庫へと戻し、点検を再開した。その口元には小さな笑みが浮かべられていた。

「オーバーワークです、そろそろやめたらどうですか。キャプテン」
 パシャン、と水音がして、緩やかに揺れる水面から勢いよく黒いスイミングキャップが顔を出した。縁にしゃがみ込んで下を見ていた天蓬は、起こった水飛沫が顔に掛かり、僅かに顔を顰める。しかしそれにもお構いなしで、男はゴーグルを上げた。現れた目はその図体に見合わずどこか小さな子供のようで笑ってしまう。
「あれ、今何時」
「もう八時も近いです。そろそろ警備員にどやされるのでさっさとシャワー浴びてくれませんか」
「泳ぎ足んねえ」
「子供みたいなことを言わないで」
 鼻の下まで水に浸かって息を吐き水をぶくぶくさせている姿は情けなくてとても他の部員に見せられたものではない。大会中に見せるあの勇姿は、その場限りのものらしい。しゃがみ込んで膝を抱えるように自分を見下ろす天蓬に、彼――――部長でありキャプテンの捲簾はきまり悪そうに視線を逸らした。
「……点検は」
「とっくに終わりました。後はあなたをプールから引っ張り上げてシャワー室に押し込めるだけです」
 そうわざと小さな棘を含めて返事をすると、彼はまたも鼻の下まで水に浸かり、何か訴えるようにじっと天蓬を見上げてくる。
「何でしょう」
「あと一回だけ」
「……」
「お願い」
 餌をじっとお座りで待つ犬のような目で見上げられて思わずうっと言葉に詰まる。きっと自分が強固に駄目だと言えば渋々彼はプールから上がるだろう。しかし。
「すぐに上がって下さいよ」
「了解! あ、計って」
 結局絆されてしまうのは自分だ。そういえば一年前も、こうして絆されたのではなかったか。意気揚々とスタート位置につき、ゴーグルを着ける彼の後ろ姿を見て、天蓬は自己嫌悪にも似た感情に溜息を吐いた。それは二年になってすぐの頃、丁度去年の今頃の話だ。



++++



「どうしても駄目か」
「駄目ですね」
 それはもう何度も繰り返された問答だった。しかしそれでも短髪の少年は諦めることなくその言葉を繰り返す。そして長髪の少年もまたそれをばっさりと切り捨てる。
「大体、男にマネージャーを依頼するとはどういう魂胆で」
「マネージャーは女だって誰が決めたんだ」
「それはそうですけど、親しくもない僕にそんなことを頼むのは、些かおかしいんじゃないかと」
 そう答えながら長髪の少年――――天蓬は机の上の学級日誌に視線を落としてその上にシャープペンシルを滑らせている。その指を見つめながら、天蓬の前の席に勝手に陣取った他クラスの彼――――捲簾は唇を尖らせた。如何にも不満そうだが、それに天蓬が目をやることはない。ひたすら彼の視線は学級日誌の文面に落とされ、捲簾のことなど全く意識していないようだ。しかし話しかけると確かに的確な返事がくる。夕焼けの教室の中で二人きり向かい合った(視線は合わされることはない)少年たちは沈黙した。
「女子はさ、駄目んなったんだよ」
「ほう」
 そう話を切り出すと、今まで何の興味も持たなかった彼は視線は上げないまでも僅かに興味を持ったかのような返事をしてきた。
「今はもう引退したキャプテンとマネージャーが出来ちゃって、そんで部内でごたごたが起こって」
「単に部内恋愛禁止にすればいいことじゃないですか」
「守ると思うか」
「思いませんけど」
 やりたい遊びたい盛りの高校男児が恋愛禁止などと言われて真面目に守るとは思えない。それはもう自分を含めても。
「で、男でなければならないのは分かりました。だけど、僕とあなたはつい先週初めて話をした間柄だと思うんですが」
「そうだねえ」
「お友達に頼んだらどうですか」
 天蓬の返事はにべもない。まあ確かにそれは尤もなことだ。捲簾だとてそのくらいは分かっている。だけどどうしてもこの男を口説き落としてみたかったのだ。それこそ、マネージャーなどというのは口実でしかない。今男のマネージャーを急募しているのも事実なのだが。
「どうせなら美人がいいじゃん」
 しかしうっかり漏らしてしまった言葉に、天蓬の顔は如何にも不快そうに歪んだ。不穏な空気が漂い始めたことに、さすがの捲簾も少したじろぐ。天蓬の、シャープペンシルを握る手に明らかに力が籠もっている。そんなにしたら折れる。
「男なら、マッチョだろうが不細工だろうが同じでしょう」
「マッチョは嫌だな」
 うっかりまた本音を漏らしてしまい、天蓬の物凄い目に睨まれる。その迫力に思わず少し怯みながらも、怖いもの知らずの捲簾はそれでもまだ食い下がった。
「なーあ、頼むってば」
「嫌です、顔で選ばれたなんて聞いたら尚更」
 そして天蓬は再び日誌に視線を落とし始めた。何とか折られることを免れたシャープペンシルが元気に紙の上を滑る。堂々巡りだな、と僅かに溜息をつきながら捲簾はまた、彼の細く長い指を見つめた。
「お前、部活入ってないの」
「入ってませんよ」
「放課後は遊んでばっかりか」
「バイトです」
 その言葉に少しだけ意外に思って顔を上げると、彼もその視線に気付いたのか顔を上げて少しだけ笑った。それに思わず見惚れたことに気付いたのはもう少し経ってからだった。
「片親なんで」
「あ……」
 何か口にし辛い事情でもあったのだろうか、と捲簾は小さく謝る。しかし彼は捲簾の恐縮したような様子にまた笑って、顔を上げることもなく、日誌を書き続けたまま口を開いた。
「そんな不幸な事情じゃありませんよ。片親なのは事実ですけど、父の稼ぎも良い方ですしお金には困ってません」
「じゃあ」
 何で、と訊ねると、彼は少しだけ日誌を書く手を止めて不思議そうに捲簾を見上げた。
「理由なんてありませんよ。ただ無駄に遊ぶくらいなら、金になることをしようと思っただけです」
「つまんなくねぇ、青春の短い時間をだな」
「有効に使っているつもりですが」
 頭が良いようで本当に馬鹿な奴だな、と心の中で思ったが、口に出したら今度こそ二度と口を利いてもらえなくなる、と捲簾は口を開くのをすんでで思い留まった。
「有効に使わなくたっていいんだよ、楽しけりゃ」
「マネージャーのお仕事が楽しいとは思えませんけどね」
 そう来たか、と苦笑する。天蓬は極当然のことを言ったまでだ、という顔をしている。
「やり甲斐あるぞ」
「それは人によるでしょう。他を当たってもらえませんか。今日もこの後バイトなんです」
 そう言って天蓬はパタンと日誌を閉じた。そしてペンをしまってバッグと日誌を持ち、立ち上がる。そして彼は、そのままの捲簾を残して一人、夕闇の迫ってくる教室を歩いて出て行った。廊下を、床とゴムのソールが擦れる音が響いている。それを聞きながら暫くそのままの格好でいた捲簾は、もう誰もいない彼の席を見下ろして、大きく息を吐いた。
「つれねー」
 しかし捲簾の口元は僅かに笑っていた。一日で落ちてくるなどと彼自身思っていない。なかなか落ちない相手ほど燃えるものだ。そんなことを考えていると知れたらそれこそ大問題だが。それから二週間ほど、捲簾と天蓬の無言の追いかけっこ(一方的)が始まったのだった。



++++



(あれは、絆されたというよりもしつこさに負けた結果……)
 休み時間、放課後、廊下で出会う度に逃げ回る羽目になった二週間。そしてそれにも我慢が限界で、ある日天蓬はキレた。あの時、『ああもう分かりました、やればいいんでしょう』と怒鳴った瞬間の、輝かんばかりの全開の笑顔には一瞬怒りも忘れて呆れてしまった。そして同時に酷く後悔をした。しかし、時は既に遅かった。すぐに部室に引っ張って行かれ、部のジャージを渡され、何が何だか分からぬままに仕事を覚えて、本気なのか冗談なのか図りかねる先輩からのセクハラに対応する術を身につけた。そして今年の春、入部して二年目に入った。とはいえ、捲簾たち三年が引退すると同時に自分も引退だ。だからこれも、今年の夏の終わりまでのこと。少しだけ淋しさを感じるのはそれだけこの仕事と部に愛着が湧いたということだろう。キャプテンである彼は最後のこの夏、個人とリレー両方で全国を目指している。だからこの春から懸命に練習をしているのだ。しかしこれではオーバーワークだ。ジャージの上下を着ている天蓬でも少し肌寒く感じるこの気温の中で水に入っていたがる彼の気持ちが分からない。捲り上げたジャージの裾から覗く膝下が寒い。上のジャージのファスナーを一番上まで上げ、立てた襟の中に顎を埋めて肩を竦めた。
 こんな寒い中、遅くまで彼に付き合ってしまう自分も自分だ。しかし真剣な顔で泳ぎ続けるその横顔を見ればそんなことどうでもよくなってしまう。そんな乙女のような思考を持ち合わせていたことに余計に寒気が襲う。ただただ静かな辺りには、時折遠くから聞こえる車の音と、彼の立てる水音しかしない。力強いストロークで前に進んでゆく姿には、いつものだらけた様子など微塵も見られないのに。
(いつもああしてたらカッコいいのに)
 そんなことを言ったら調子に乗るから、絶対に言わないが。向こう側の壁でターンして来た彼が、こちらの壁で再びターンし、今度は平泳ぎで進んでゆく。その姿と右手の中にあるストップウォッチを見比べて溜息を吐く。大分調子がいいようだ。疲れれば疲れただけハイになる男だから、多分今も相当疲労しているはず。なのにやめろと言い通せなかったのは自分のミスだ。そんなことをぼうっと思っている内に、再び壁を蹴ってターンした彼がクロールで戻ってくる。最も彼の得意とするそれは、一番彼が活き活きして見えた。ぐんぐんとこちら側の壁に近づいてくる彼を見つめながら、ボタンを押すタイミングを計る。そして、彼の手が少し乱暴に壁を叩くと同時にストップのボタンを押した。ピッ、と小さな音が静かなプールに、水音に紛れながら響いた。格段に速くなっているタイムに目を細める。
「……っ、どうだ」
 肩で息をしながらゴーグルを上げ、捲簾は天蓬を見上げた。天蓬は再びしゃがみ込んで、画面を彼に向かって見せた。
「上々ですね。でも、そろそろ休まないと明日からの練習に響きます……それに、あんまり身体冷やしてお腹壊しても知りませんよ」
 矢継ぎ早にそう言うと、彼はうっと言葉に詰まったような顔をして唇を尖らせた。純粋に心配しての言葉だったのだが、彼は自分の腹の弱さをからかわれたと思ったらしい。
「悪かったな、虚弱な腸で」
「自覚があるのなら、早く上がって暖かくして下さい。ほら」
 そう言って飛び込み台の上にタオルを置く。すぐに彼が上がってそれを手にするのだと思っていた天蓬は、水音一つしない状況に目を瞬かせた。
「捲簾?」
 水に浸かったままの彼は、剥ぎ取るようにキャップとゴーグルを外してプールサイドに放り投げた。そして飛び込み台の横にしゃがみ込んで自分を見下ろしている天蓬の近くへと水中を歩いてきた。
「もう一年経つんだな」
「僕のことですか」
「やー、あんときゃ苦労したなぁと思って。最後の辺りはもう躍起になってた」
 でしょうね、と返して、膝を抱く腕に力を込める。
「あなたがそれほどまでに僕に固執した理由が分からなかったので」
「だから逃げたのか」
「そうですよ」
「じゃあ、マネージャーになるのは別に嫌じゃなかったってことか」
「途中から、半ば諦めてはいました」
 そう言うと、何だよーと彼は頭を抱えた。ぱしゃん、と水面が波打ち、波紋が広がる。
「だったらもっと早く言えよ」
「それはあなたこそ、ですよ」
「言えるか」
「そうですよね」
 彼の浅黒い肌が僅かに赤い。それを見てくすくす笑うと、彼はきまり悪そうに天蓬を睨みつけて、顔を冷やすように一度プールに潜り、再び浮かび上がってきた。そして水に濡れた犬のようにぶるぶると身体を震わせて水飛沫を飛ばす。水が掛かって顔を顰め、天蓬は顔についた飛沫を指で拭いながら拳で彼の額を小突く。
「あなたは悪い人ですね」
「あ?」
「あなたに騙されて、一年もこうして過ごしてしまいました」
 そう言う天蓬に、前髪から水を滴らせながら捲簾は目を瞬かせた。
「俺、何か騙したっけ」
「騙されっぱなしです。この詐欺師」
「は、あ、ちょっと待て」
 そのまま立ち上がりプールから離れていきそうな天蓬に焦り、捲簾は咄嗟に手を伸ばして天蓬の足を掴んだ。その冷たさに一瞬身体を震わせた。この分では身体も冷え切っているだろう。体調の自主管理も出来ないエースに溜息を吐く。
「……冷たいです」
「あ、ワリ」
 天蓬が唇を尖らすと彼はすぐに手を引っ込めた。そんな様子を眺めながら、今度はプールサイドに膝をつき、座り込んだ。
「な、俺が何を騙したって」
「もういいです、忘れて下さい」
「気になるっつーの……」
 不満げに顔を顰めた捲簾は、飛び込み台に手をかけて天蓬を見上げてくる。そうするとますます主人の機嫌を窺う犬のような風合いを濃くする。思わずくすりと笑うと、彼は右眉を跳ね上げてむっとした顔をする。そして突然ざばっ、という水音が起こったことに天蓬は目を瞬かせる。しかし次の瞬間には冷えた手に後頭部を押さえつけられ、冷たい唇を押し付けられた。ふわ、と塩素の匂いが鼻につく。
 水の浮力で左腕をプールの縁にかけ、伸び上がっていた彼は、天蓬の驚いたような顔に満足したのか、頭を押さえる手を離し、再びプールの底へ足をつける。それを黙って見つめていた天蓬は、暫くしてから小さく呟いた。
「……塩素臭いですねぇ」
「色気ねぇなお前は」
 今さっき口付けられた、冷たさの移った自分の唇を押さえる。今ではもうすっかり慣れてしまったプールの、そして彼の匂いがする。
「ありませんよ、そんなもの」
 ゆっくり腕を伸ばして、水に濡れてすっかり下がってしまったいつもはつんつんと立っている彼の黒髪を撫でる。濡れた犬はこんな風だろうか、と心の中で思ったのを知ってか知らずか、彼はきょとんとした顔をした。……そして次第にどこか悪戯を思い付いたガキのような顔をして、天蓬を見上げた。
「天蓬」
「はい……っ!?」
 返事をしかけた瞬間がくりと身体がバランスを崩し、慌てて体勢を立て直そうとするも、伸ばしていた腕を強い力で引かれて思わずぎゅっと目を瞑った。次の瞬間に襲い来る衝撃を覚悟して。
 大きな水音を感じた次に、酷く冷たい全くの無音空間に晒される。僅かに水を切るような音がして、ゆるゆると目を薄く開くと青とも黒ともつかない闇が広がっていた。慌てて顎を逸らして上を見る。その時、掴まれていた腕を再び引かれて、無理矢理に水面へと浮上させられた。光が近付いてくる。
「……っ、馬鹿ですかあなたは!」
 浮上して開口一番そう怒鳴られて、捲簾はきょとんとした顔をした。何の悪気もなさそうな顔で。しかし悪気がなければあの場面で腕を引いたりするものか。
「おお、そんなに怒るな」
「怒るなじゃないですよ!」
 着ていたジャージ共々すっかりずぶ濡れだ。しかも掛けていたはずの眼鏡が見当たらない。
「眼鏡がどこかにいっちゃったじゃないですか」
「眼鏡? ああ……待ってろ、探してくっから」
 そう言うと彼は息を吸い込み、一気に水中に潜っていった。一人残された天蓬は、頬に張り付く濡れた髪の毛を取りながら溜息を吐いた。こうなってしまえば自分もシャワーを浴びたり着替えをしたりしなければなるまい。面倒にも程がある。あの男は前からいつも自分の単調な日々に変化を作ろうとする。自分自身では単調な日々で十分なのだ。誰も、変えてくれなどとは頼んでいない。しかし今の状態ではもう、それも言い訳に過ぎないだろう。
(だから、あなたは僕を騙してるって言うんですよ)
 捲簾の、真夏の太陽のようにカラリとした性格が、自分の真冬の月のような冷たさに符合しない。そんな風に思っている内に、先程より少し離れた場所から飛沫が上がる。姿を現した彼は、またぶるぶると頭を振ってから、天蓬の眼鏡を掲げてみせながら近づいてきた。
「あったあったー」
 持ってきたそれを、捲簾はプールサイドに置かれたタオルの上に置き、軽く水気を取っている。それを見ながら、帰ったら綺麗にしなくては、と天蓬は今それを掛けることを諦めた。
「……何かさ」
「何ですか」
 水の重みで下がっていきそうなジャージを引き上げながら、天蓬は捲簾に返事をする。プールサイドの方を見ているせいで彼の表情は窺うことが出来ない。
「あと何ヶ月かしかないんだーって、最近やっと考えたんだよなぁ」
「遅くないですか」
「俺も遅さにびっくりした」
 そう言って彼は振り返った。笑っていた。
「もう少し早くお前のこと誘えてればよかったなぁ」
「一年の頃は女子のマネージャーがいたんでしょうに」
「そりゃそうなんだけど。……短かったなぁ」
 まだ帰りたくない、とごねる子供のような様子に、思わず笑ってしまう。そして、それは自分も同じか、と自分に向けて苦笑する。
「さびしいですか」
「うん」
「僕もです」
 ぱしゃん、と水音が立って、彼の顔から笑顔が消える。小さな波紋が広がっては、消えてゆく。
 冷たい腕に掻き抱かれて肩の下まで冷たい水に浸されて、身体の末端から凍てついていきそうなのに、どうしようもなく身体の芯が熱かった。まるで風邪を引いたときのような状態に少し身震いをして、剥き出しの彼の肩に額を預ける。濡れた髪が頬に冷たいのだが、それも気にならない。触れている部分だけがだんだん熱を帯びてきて温かかった。
「もう少し、このままでいたい」
 それは今の状態のことなのかどうなのか、訊き返す気分にもなれなくて、冷たく引き締まった肩に更にぐい、と額を押し付けた。すると不意に頭の両側を両手で掴まれ、無理矢理に押さえ込まれて強引に口付けられる。彼らしくないことだった。冷たい唇に何度も唇を食まれ、冷えた舌が滑りこんでくるのを目を瞑って受け入れる。次第に冷たかった唇が温かい柔らかさを孕み、掛かる吐息にも熱が籠もる。鼻先をくすぐる薬品の匂いにも構わず、強く抱き締められ嬲られるままでいた。
 ちゅ、と微かな濡れた音を立てて、彼の顔が離れていく気配がした。ゆっくりと瞼を押し上げると、少し興奮で上気したような彼の顔が近くにあって、その余裕のない表情に少しだけ笑った。すると彼はますます焦ったような顔をして、少しだけ顔を逸らした。
「何ですか」
「そういう顔、すんな。煽るな」
「全く、青いなあ」
 彼の言葉の意図する意味に思い至って、天蓬は思いきり嫌そうに顔を顰めた。そしてさっさとプールサイドの梯子へ向かい、プールから上がってしまう。濡れた衣服は思う以上に重い。下がずり落ちないように掴みながら上がり、くるりと振り返ってプールの中の捲簾を見下ろした。
「先にシャワーに行きます。十二分に下半身を冷やしてから来て下さいね」
 そうにっこりと告げると、彼はまた鼻の下まで水に浸かって、不承不承といった風に頷いた。否定しろ、と言いたかったが黙っておいた。
 ぱたぱたと髪の毛から水が滴り、頬に落ちて冷たい。見上げてくる視線からどうしてか目を逸らしたくなくて、濡れて張り付く上着を掴みながら彼の視線を真正面から受け止めた。しかしその視線がやはり熱く強すぎて、冷たい自分は目を逸らしてしまう。
「天蓬」
 シャワー室に向かおうとプールに背を向けた天蓬は、静かな声で呼び止められて立ち止まる。ゆっくりと振り返った先で、彼が波紋を作ることもなくじっと水の中に立ち尽くしている。
「ありがとうな」
 短い労わりの言葉に、何だかむず痒いような居心地の悪さを感じた。感謝されるのはどうしても慣れられない。
「何一つ感謝されるようなことはしてませんよ。僕は自分の意志でここにいます」
 つっけんどんにそう返すと、彼は声を出さずに笑ってまた同じ言葉を繰り返した。
「でもやっぱり、ありがとう」
 それを聞くともなく、天蓬はプールに背を向け、歩き出す。そして密かに唇を噛んだ。妙な感情が湧きあがって、何だか泣けそうだった。
 あなたの熱で、溶けて消えてしまったらどうしてくれるんですか。



++++



 ぷかり、プールの上に浮かんで空を見上げる。満天の星空に三日月も浮かんでいる。綺麗だ。あいつにも見せてやればよかった、と今になって思った。ゆるりと息を吐くと、そのまま沈み込んでしまいそうで慌てて息を吸い込んだ。吸いこんだ空気は塩素の匂いがした。それはもう自分の一部となった匂いで、それに包まれていることで自分がプールと一体化したような気分になれるのだった。
 天蓬と過ごした部活の時間は、もう一年だ。あと数ヶ月を残すのみ。きっと大学も別になる。今までのように毎日顔を合わせることもないだろう。ここ一年の間で当たり前になってしまった、部誌を書く俯いた顔、タオルを抱えて走り回る姿、真剣に部員の泳ぐフォームを見つめる目。そのどれもが今の自分の一部で、欠けていくことが怖い。
(そんなこと言ったら、幻滅されるって……)
 彼があんなつっけんどんなことを言いつつも、スイマーとしての自分にある程度の理想を持っているのは何となく分かっていた。それが心地よくもあり、だからそれを壊したくなかった。試合前にらしくもなく緊張することも、止めたいと思うことがあることも彼は知っているけれど。
(いつも泳いだ先にお前がいて欲しい、なんて言ったら)
 ゆっくりと目を瞑る。そんなじゃ駄目だ。今まではそうして一人で試合に挑んでいたはずだ。出来ていたはず。
「終わりたくない」
 口に出してみてから、そんな感傷的なことを思うようになってしまった自分に笑った。そしてざぶんとプールに潜り、勢いよく顔を出す。いつものようにぶるぶると頭を振って、プールの真ん中で星空を見上げた。










パラレル祭第二弾。実は離島パラレルは第一弾だったのです。とりあえず、ときめきをつぎ込んでみました。キャプテンとマネージャー。ないない。
とりあえず上下ジャージで裾は膝まで捲り上げ、上はきっちり上までファスナーを閉めた格好の天蓬(クリップボードとホイッスル、ストップウォッチを標準装備)を頭に思い浮かべていただけると幸い。可愛いと思いませんか?思いませんか。         2006/09/20
BGM*スキマスイッチ 「ガラナ」