夕焼けがきれいだ、なんて、足を止めて空を見上げながら思ったのはいつが最後だろう。

「何やってんだお前」
「空が、」
「はぁ」
「赤いです」
 そう言ったら彼はなんだそりゃ、と言って笑った。馬鹿にされている気がしなくもない。しかし天蓬は面倒なので黙って空を見上げたままいた。途中、持っていたヘルメットを視線もやらずに彼へ押し付ける。その間もどんどん空は変わっていく。微かな音が近付いてくるのに首を廻らせると、後ろの彼が「お」と声を上げた。
「天蓬、ほら飛行機雲」
「……」
 低い音と共に、空に浮かんだ飛行機が白いラインを描いて茜空を二分していく。それに続いてもう一機の飛行機がそのラインに寄り添うように二本目のラインを残していく。シュプールにも似たその二本の飛行機雲を見上げた。それを何か考え込むような顔でじっと見つめていた彼は、ふと思い付いたようにぱっと口を開いた。
「ちょっと昔のこと思い出したり」
 思わぬ言葉に思わず口ごもりそうになって、咄嗟に天蓬は不機嫌な顔を作って見せた。すると彼は大袈裟なくらい目を大きく見開いて一歩引いてみせる。
「何でそういう方向に行くんですか」
「冗談だって。そうだったら俺と一緒だなぁと思っただけ」
 よくもぬけぬけとそういうことを。これは昔から恥ずかしい男だ。それが男相手に言うにはおかしい言葉だと何故分からない。……と、当時は思っていたものだが十分当時から自分は彼の射程圏内に入っていたらしい、なるほど、それならおかしくはない。そう認めたくはなかったのだけれど。再会から二月ほどが過ぎた。時間が過ぎて、変わらぬものなどないはずなのにこの男は本当に何も変わっていないのではないかと思わせる。しかし体格も、顔立ちも、あの頃のまだ未熟な少年の頃のものとは全く違う。無駄に立派な成長を遂げたあの少年は、こうして今も変わらぬ笑顔で隣に立っていた。こんな風に感傷的なことを考えてしまうのは、故郷の夕焼けのせいに違いない。今日は彼の母に夕食に呼ばれているのだった。
「こんな感傷的なの、僕らしくないんですが」
「いいんじゃねぇの、たまには」
「湿っぽくて嫌じゃないですか。男の癖にイジイジ過去に執着するなんて」
「……お前って見た目に反して漢だよな」
「見た目に反してません」
 むっと眉根を寄せてみせると、彼は肩を竦めて顔を逸らした。
「昔は日が暮れるまで遊んだ仲なのに」
 日が暮れても尚遊び続けて家に帰らず、彼の母親に二人で物凄い勢いで叱られたのも今となってはいい……別によくもないが、大事な思い出だ。二人とも家は特に貧乏ではなかったけれど、ゆとりのある家でもなかった。それが何となく分かっていたから、二人とも高価な玩具を強請ることはなく、いつも身体一つで遊んでいた。その頃はそれで何の不足もなかった。スポーツの道具なら学校にあるし、ボールすら買えないほど貧乏な家でもなかった。
「お前、今でもサッカーとか出来る?」
「出来ませんよ、それにあの頃のはサッカーというよりただの球蹴りでしたよ」
「球蹴りだから蹴球なんだけど……まあいいや」
「今更誘わないで下さいよ、もう十年近くやってないんですから」
「さあね」
 この前、授業中教室から校庭を見下ろした時、グラウンドで生徒よりも張り切ってボールを蹴っていたいい歳をした子供を見た。大人げないったら、と思いながらも、それが彼らしくて好感が持てるのも事実。それで彼が生徒に慕われているのも事実だ。自分には大きな子供にしか見えないけれど。
「……しかも可愛くない」
「何の話」
「いえ」
 可愛かったらいいってわけじゃない。寧ろ可愛かったら逆に腹が立ちそうだ。このでかい図体で可愛くないからこそいいのだ、と思うことにしておいて、天蓬は歩き出した。それにならって彼も隣に並んで歩いてくる。アスファルトに二つの長い影が並んでいる。
「影と同じくらい背が欲しいってよく思ったよな」
「そうですね、実際そんなにあったら気持ち悪いっていうのに」
 今でこそ背の高い二人だが、小学校の頃はかなり伸び悩んだ。いつも天蓬が前から四番目、彼は七番目。周りがぐんぐん伸びていく中だったので二人ともプライドゆえに口には出さなかったがかなり焦っていた。しかし中学校に入って、天蓬も彼も、少しずつ背が伸びるようになっていった。天蓬が静かに日本を発ったのは、丁度その頃だった。
「あのチビが今これですからね」
「そりゃ俺の台詞だ。……お前はあの頃の方が可愛かったな」
「うわ、厭らしいですね、あんな小さい頃から僕をそんな目で」
「冗談、冗談だから」
 大袈裟に引いてみせる天蓬に、彼は少し焦ったように最前の言葉を撤回した。彼の母の営む定食屋は彼の実家から歩いて十分ほどだ。バイクを置くような場所がないため、いつも家にバイクを置いてから、歩いて向かうことになっているのである。
「そろそろ紫陽花の季節ですかね」
「そうだな、……雨が続くのは勘弁だけどなぁ」
「いいじゃないですか、雨。僕嫌いじゃないですよ」
「お前の蔵書にカビが湧く」
「あ、それは困る」
 腕組みしながらそういう天蓬に、彼はほら、と言って肩を竦めてみせた。彼は外で遊びたがる子供のように雨を疎む。しかし理由はというと彼曰く、洗濯物が乾きにくいとか食べ物が腐りやすくなるとかそういった類の主夫的発想だ。結婚すれば、大層気の利くいい夫になるに違いないのにこの男、何を好き好んで自分を選んだのだろうか。自ら茨道に突っ込んでいく宿命でもあるのか。
 自分には勿体ないなんて、そういう自分には有り得なかったような思いすら湧き上がる相手に、腹が立って仕方がなかった。
「おばさん、元気ですか」
「電話で声聴いただろうが。あの怒鳴り声聴けば分かんだろ」
「あなたって、お店継がないんですか」
「継がないよ」
「どうして」
「お袋は、自分で始めた店だから自分が店に立っていられなくなったら閉めるって言ってるし。だからわざわざ俺が嫁貰って家に入る必要はねーの。孫なら兄貴の子供がもういるし……だから」
 ぱちん、と大きく瞬きして 隣を歩く彼を見上げる。すると彼はニヤリと笑って右手で天蓬の頭を乱暴に撫でた。
「変なこと考えなくていい」
「何のことですか」
「いーえ」
 そう言って最後に頭を二度、ぽんぽんと叩いてから彼の手は去っていった。それがどうも、子供扱いをされたようで面白くない。脛でも蹴飛ばしてやろうかと思ったが、何となく思い留まって、やめた。
 夕日はますます低くなって、紅を濃くして影を長くしていく。
「本当は、何も考えたくないですよ」
「うん?」
「来週の中間考査の問題作りまだ終わってないとか、早速落ち零れそうなあの子をどうしようとか、読みかけの本読む時間をどうやって作るかとか、明日の朝ご飯とか溜まってる洗濯物とかあなたのこととか」
「……おいおいおい……俺は溜まった洗濯物と一緒くたにされてんのか」
「僕じゃ手に負えないっていう次元で、一緒です」
 息の続く限り一息に続けて、天蓬は溜息混じりに呟いた。手に負えない。まさしくそうだ。もう余計なことなんて何も考えたくないのに嫌な可能性ばかりが頭を過ぎって止まらない。こんな懐かしい空気の中に晒されると、あの頃に帰りたくなってしまう。感傷的になるのは、こんな場所にいるからだ。
「……やっぱ、」
「何ですか」
「頭いい奴って何考えてんのか分かんねぇな」
 その言葉に訝しげな視線を送る天蓬に、彼は少し疲れたように笑ってもう一度ぐりぐりと天蓬の頭を撫でた。痛い。
「難しく考えなきゃいいんだって」
「癖なんです」
「だよなぁ……癖って直るもんじゃねぇんだよなぁ」
 そう言って自分のことのように彼は頭を抱える。その横顔を見ていると、もうそんなことどうでもいいように思えてくるから不思議だった。つんつんと上向いた彼の黒髪を少し摘んで引っ張ってみる。すると物凄く恨みがましい目で見下ろされた。
「お前ね、俺が誰のことで悩んでると」
「僕?」
「そうだよ!」
「あなたが悩んでくれるなら、いいかなって思って」
 怒られるかな、と思って口にした言葉だったのだが、思ったような怒声は耳に届かず、天蓬は目を瞬かせながら横を歩く男を見上げる。背後から差し込む夕日で少しだけ目を眇めた。
「……分かった」
「え?」
「俺がお前の分まで悩んで、それで済むならそれでいい」
 恥ずかしいことばかり言って、子供みたいで、馬鹿で真っ直ぐで、そして嫌味なほどに格好良い男だった。だから手に負えない。夕日で眩しいせいなのか、彼の顔を見上げられなくて視線を落とす。どう返していいのか頭が回らない。何故か唇が乾くようで、舌でそれを潤しつつふいと目を逸らした。そして左腕を掴まれて思わず顔を上げる。随分とあの頃から変わってしまった男らしい風貌が憎い。黒い眸に夕日が映って、目の奥に暗い炎が宿っているようだった。それを見た途端、その手を振り払おうとする気力が、ふっと消えた。
「だからもう、消えるんじゃねぇぞ」
(逃がす気なんて更々ないくせに)
 逃げられる、わけがない。
「消える気なんて、ありませんよ」



++++



「なー天蓬」
「何ですか?」
「今日うち泊まってかねぇ?」
「……うち……っていうと、ご実家の方ですか」
「そう、たまには童心に返って。お袋も喜ぶし」
「あなたは年がら年中童心でしょう」
「はは、言えてら……、……あのな天蓬」
「ほんのお茶目な冗談じゃないですか」
 殆ど夕日が沈み、家々の間から僅かに赤い光が漏れている。そして並び立った家には徐々に温かい明かりが灯り始める。羽虫の群がる街灯の下を通り抜け、美味しそうな匂いのする家の前を通り過ぎ、二つの影が歩いていく。
「久しぶりに卒業アルバムとか開いてみる?」
「うわ、やめてくださいそれは」
 昔二人、よく遊んだ丘の上に、夕日が沈む。











今日見た夕焼けと飛行機雲がすごく綺麗だったので。水泳部パラレルの方でやればよかったかな……。       2006/10/05