あなたは風のような人ですね、と言われた。
 お前は上官をフーテン呼ばわりすんのかい、と欠伸混じりに漏らせば、先の言葉を口にした男は捲簾のそんな反応に驚いた様に目を丸くした。この生真面目な部下は皮肉屋の割に純粋だ。いつもそれが愉快で少しからかいたくなってしまうのだが、あまり苛めては彼の敬愛する上官に怒られてしまう。嘘だよ、と言えば彼は僅かに安堵の表情を見せたが、すぐにそれを此方に見せまいとするように表情を消した。寄り掛かっていた背凭れがキシ、と音を立てる。
「あなたはとても生きるのが上手い、と申し上げただけです」
「口八丁手八丁ってな。それなり、悪い事もする。綺麗なままで生きるにはな、綺麗で頑丈な匣が必要なわけ」
「大将にだって“綺麗で頑丈な匣”があったじゃありませんか」
 彼の口から何の悪気もなく漏れた言葉に目を細めた。その匣の中こそ自分には生き辛かったのである。匣の中には何でも揃っていた。栄光の過去も、光に満ちた未来も全てが揃い、全てが約束された場所。この天界自体がその匣に似たようなものなのに、さらに窮屈な人形の家に押し込められるのは耐え難い事だったのである。未練はない。驚くほどに感傷の感じられない自分の冷たさに愕然として、しかしそれでも戻りたいとは思わない。
 自分はここにいるべき存在ではないと幼い頃から気付いていた。しかし匣を出ても何かしらの影響が付きまとった。家名の力が常に捲簾の背後にあった。今この瞬間も。生まれたその時から、捲簾は自分一人の力では生きていけないように出来ていた。だからなのかも知れない。生を受けたその時から必要に迫られていたから、人との関わりを得意としたのかも知れない。
「其処は俺のいるべき場所じゃなかった。そんだけ」
「……元帥もそのくらいの柔軟さをお持ちであればよかったのに」
 書架の資料に一冊一冊目を通しながらぽつりと彼が溢した言葉に、捲簾は記憶の海から引き上げられた。そして少し拗ねたようにも見える横顔に少しは話を聞いてやってもいい気分になる。その一言で、彼が言いたいのは先日下界での遠征中に負傷し現在も臥せっている司令官の話だと知れた。
「大将は風のように障害をかわしてゆくことが出来る。しかしあの人は全てに真正面からぶつかっていく事しか知らないのです。己れに嘘が吐けない。正直と言えば耳障りが良いですが、良い事ばかりではありません」
 彼は常にあの上官を気に掛けている。正直で、馬鹿みたいに直情的。彼ほどの熱血漢はいなかろうに常に冷静ぶって、自分を冷血だと思い込んでいる彼を、多分彼以上に理解している。ぱたん、と本を閉じて、彼はらしくもなくその本をぐいぐいと強引に本の隙間に押し込んだ。冷静だった語気も少し強くなる。書架に押し当てた拳に脈が浮き立っている。
「ああいう生き方は最も生き辛いのです。ただの我儘に見えるかも知れない。傲慢に見えるかも知れない。そう思った者たちは次々に第一小隊を後にしました。……本当なら、隊員たった十四名を束ねる様な小さな場所に収まる様な小さな人ではない」
「……十四人ぽっちって言うけどな、此処はあいつが自ら望んだ場所だと思うが」
 書架からゆっくりと捲簾に向き直った彼は、真っ直ぐに此方を見た。いつもぴんと背筋の伸びた、姿勢のいい男だ。彼が向日葵ならば宛らあの男――天蓬は太陽なのだろう。否、天蓬が太陽たるから彼が向日葵であるのだろうか。彼が聞いたらきっと、太陽なんて柄じゃないと笑うだろう。しかし太陽はそれぞれの空にあるのである。彼は紛う事なく、そのたった十四名の、かけがえのない太陽だった。
「それは勿論、光栄な事だと思っています。今までも、これからもずっと」
「全く、お前等の忠誠心には舌を巻くよ。あんな……自分しか信じられないような態度の男によくこれだけ長く付き従えた」
 つい悪い癖が出た。彼の前で天蓬を批判すると、面白いほどに反応するのが楽しくてついからかってしまうのである。思った通り彼は眦を吊り上げて捲簾を睨め付け、しかし何も口にする事はなかった。お前の思惑は分かっているぞ、という事か。そろそろ彼で遊ぶのも潮時か、と背凭れに体重を預けて息を吐く。
「大将がそんな事、塵ほども思っていない事は十分分かっています。だからたとえ嘘でもそういう事を口にされるのはお控え下さいませんか。大将への敬意が揺らぎます」
(おっと、予想外)
 とうに彼には気付かれていたらしい。気付いていたのに毎回ああして怒っていたのは、たとえ嘘でも許せなかったからだとは見上げたものだ。時々彼を始めとした古参の部類には拍手を送りたくなるくらいである。音がしないように小さく、彼の背中に向かって手を打った。
 次のバインダーを手に取った彼は、目当てのものを見つけたのかぱらぱらと捲った後にそのファイルを持ったまま捲簾の座る執務机の前まで進んできた。元々は捲簾が頼んだ資料探しだ。少し身を乗り出して必要なページを開いたファイルを此方に差し出した彼は、少し疲れたような顔をして息を吐いた。そしてその目が真っ直ぐに捲簾を射抜く。きちんと目を合わせて話をする者は基本的に好感が持てるものだ。しかし此処までぎっと見詰められると話をするどころではない。
「……“自分しか信じられない”と仰いましたか」
 そう言ってから漸く彼は体を起こす。やっと彼のプレッシャーから逃れられて捲簾は溜めていた息を腹の奥から吐き出した。
「そうとも言えるかも知れません。しかし、私はこう考えています。あの人は何があっても自分を最後まで信じ切る事が出来るのだと。自分の力を疑うことなく、最後まで自分自身の味方でいられる。この世界で軍人として存在して、それが決して容易な事ではないと心底思い知りました」
 戦場の極限状態で、自分を見失う事は決して珍しい事ではない。そんな中で“自称”惨めで弱くて小さい男はいつだって自らの力を疑う事はなかった。だからこそ、砂塵吹き荒れる戦場にその男の凛とした背中が見えるだけで誰もが勝機を疑わずにいられたのである。勝利は我等にありと、愚直なまでに真っ直ぐな背中が最後まで語っていたから。
「あの方の本質は何も変わってはいないのだと思います。却って、変わったのは私達の方なんでしょう。以前の私達にはあなたのように元帥の隣に躍り出る勇気がなかった。まだ、彼に、その覚悟が追いついていなかったから」
「覚悟って?」
 少しだけ彼は瞼を伏せた。そして押し殺した声で小さく呟く。
「この天界の、崩壊を見届ける覚悟です」
 匣より出でて、匣を壊す。自分こそが一族の疫病神なのかも知れない。しかしあんな太陽の光の届かない場所に大切に仕舞われ続けるのはどうしても出来なかった。耐えられなかった。自分も向日葵だったのかも知れない。光り差す場所を目指して我武者羅に此処まで走って来た。光は誰の上にも降り注ぐ。彼にとっての太陽は一体誰なのだろう。彼の空にはどんな太陽が昇っているのだろうか。否、太陽などなかったのかも知れない。生れ落ちたその時から自分を守る匣も傘も持たぬ彼は、ただ只管に光差さぬ闇の中を走り抜けて来たのかも知れなかった。
「私達にとって元帥は、我々の先を指し示す光でした」
 ふと心を読まれたかのような言葉を返されて、捲簾は顔を上げた。彼は笑っているような、痛いような顔をして手持ち無沙汰に手の甲に出来た瘡蓋を爪で弄っていた。指に残る傷一つさえ、彼にとっては誇りであり、勲章なのだろう。天蓬と共に戦う事が出来た証。
「けれどあの方には先を導く光など一点もなかった。いつだって、一人で、何でもないような顔をして一寸先も見えないような闇に向かって止まる事なく走り続けていました。決して誰一人……先にいかせるまいと」
 先に、行かせるまい、逝かせるまいと肩肘を張って、一人、闇の中で。
「なあ」
「はい」
「俺じゃ、あいつの光にはなれないか」
 いつも風のようにふらふらしてばかり。彼方へ行って此方へ行って。言われた通りだ。時に情に流されて彼や部下を蔑ろにし地位を擲った事さえある。そんな時でも彼は「お人好しが過ぎる」と怒って、しかし笑ってくれた。これから先、自分がまたそんな事をしないとは言い切れない。また、彼に割を食わせる事がないとは誓えなかった。そんな自分が彼の灯火となる事が出来るのか。揺るがぬ彼の道標たり得るのか。
「あなたは光になんてなれませんよ」
 間を持たせる事もなくはっきりと、冷徹な声でそう言い放った彼は、珍しい事に深い深い溜息を吐いて頭をがりがりと掻き毟った。言われた否定の言葉よりもその事が驚異で、目を瞠る。上官の前で未だ嘗てこんな姿を見せた事はなかった彼は、少し自嘲気味に口元を上げて目を伏せ、ぽつりぽつりと重く呟き出した。
「……けど、きっと元帥には分かるのです。たとえ光なくとも、大将の存在が傍にある事が」
 それだけできっとまたあの方は走り出せるのです。
「あなたはあの方の、風ですから」
 少しだけ悔しそうに呟いた声は、窓の外の風の音に紛れて消えた。








ネタ帳より。      2009/11/11