夕暮れが近い。校門から校舎へと向かうアスファルトに長く伸びた自分の影を見つめて、肩に食い込む思いスポーツバッグを地面に下ろした。門の横に背中を預けて、ずるずると背中を合わせたまましゃがみ込む。待ち人は未だ来たらず。しかしあの男は絶対に来ると確信していた。来なければ、来る方に賭けた自分の読み違いだ。ポケットから出した携帯電話にライトを点ければ、時刻はもうすぐ七時を迎えるところだった。グラウンド整備のため部活は早い時間に切り上げられたので、チームメイトはさっさと帰ってしまった。部活を終えてから一時間弱、それから捲簾はずっとこうして一人、ここに立っていた。長い間焦がれ続けた存在を手に入れる日が来たのだからこんなこと苦でもない。あと一時間も待たされたとしてもきっと自分は彼を笑顔で迎えられるだろう。
 至高の存在でありながら程度の低い場所に甘んじる彼を、どうしてもそのままにしておけなかった。相手が昔馴染みだとか知ったことではないが、勝ちたいのならそんな情は切り捨てるべきだと、彼はそれが分からないほど甘い男ではないと思っていた。彼ならば確実に甲子園出場が射程圏内にあるというのに、このまま高校の三年間を弱小高校で腐らせておいてはならない。今までの高校での公式試合の通算打率は三割五分、貧弱に見えてランナーとの接触にも耐える打たれ強さと強肩を持つ。そして特筆すべきはその類稀な頭脳とゲームメイクのセンスだ。彼がいたから何とか彼らはトーナメントでも上位に食い込んでいたのだ。彼のいない東高など敵ではない。取るに足らないその他大勢のうちの一つだった。その高校から核を取り出してしまうことに少々残酷さを感じないわけではなかった。太陽の色をした髪を持つあの投手に申し訳なく思う気がないでもなかった。しかし、あの才能をこのまま終息させてしまうわけにはいかなかった。
 ぼんやりと赤く染まったアスファルトを眺めていると、その真っ赤な地面にすっと、縦長い影が横から割り込んできた。顔を上げずに口元を緩め、そのまま立ち上がった。影の根元へと視線を向ければ、思った通りの男が、感情を窺わせない表情のまま立っていた。

「ようこそ、西高へ」

 そう声を掛ければ、少し下を向いていた視線はゆっくりと持ち上げられ、逆光の元でその男の黒い眸には赤黒い夕日に照らされた自分の顔が映った。その眸が僅かに不愉快そうにすっと眇められる。その表情に逆に笑いかけてみせると、彼は少し苦しげに顔を歪めて俯いた。肩に食い込むスポーツバッグのベルトを握る手に力が込められているのが目にも分かる。
「早速帰りたくなっちゃったか」
「裏切り者に帰る場所は、ありません」
「へえ、裏切り者。じゃあその手引きをした悪の根源が、俺ってわけだ」
 全くその通りですよ、と潜めた声で言って、少し下がった眼鏡をブリッジに指をかけて押し上げた彼は苦々しげに口元を歪めて笑った。彼の中の後悔はまだ消えていない。今、彼に帰ってもいいと告げればそのまま身を翻して走り去ってしまうのではないだろうかと思えてしまった。しかしそれを許すわけにはいかない捲簾は追い詰められた彼に更に追い討ちを掛けた。
「あんたは甲子園でも上位を狙える才能がある。最高のチームメイトの揃ったうちでなら優勝も夢の話じゃない」
「それは……ありがたいことですね」
 俯いたままの彼はそう呟いて、唇をきつく噛んだ。彼の中の未練はまだ完全に消えてはいない。彼がどうしてそこまであの投手に執着するのかが全く解せなかった。制球力は確かに極上だが、その程度の制球力なら自分にもある。加えて自分ならば球威もあり、体力だってある。あの男と二人並べられて彼が迷うということが悔しかった。一体自分のどこが彼に負けているのか。
「本当は分かってるんだろう。あの投手はお前がいなけりゃ只の非力でスタミナのない選手だ。お前はそれを捨ててきた」
「……さて、何を言わせたいのやら」
「あんたは明日から、東高の捕手じゃなく西高の捕手になるんだ。本当にその覚悟が本当にあるのか知りたい」
 俯いていた視線がゆっくりと捲簾を見上げた。その黒い眸は光すら見つけられないほど深い闇だった。
「……何と言ったらあなたは納得するんですか。金蝉よりもあなたの方がずっと素晴らしい投手だと言えば、満足ですか」
 口振りもあからさまだが、その表情には嫌悪感が溢れていて彼の心情は口にしていることと正反対なのだろうということが窺い知れた。彼の中の順位に変動はない。むしろ、引き離されたことで更にあの男が神聖化するのだろうということが想像するに易かった。夕日で陰影のついたその端整な容貌はますます迫力を増す。途端に鋭くなった、彼を取り巻く空気に身体の表面が刺されるようだった。試合で、強いバッターと対峙した時のような緊張感だ。しかしこれが味方になるならそれほど心強いものはない。捕手としての彼にも、一人の男としての彼にも興味があった。一度しっかり二人で話をして見たいと前々から思っていたが、何度学校を訪れてもまともに顔すら合わせて貰えなかった。彼の目に映る相手はただ一人だったからだ。
 金蝉、と呼ばれていたその投手。投手としての彼を妬ましいとは思わない。自分が妬むほどの才能ではない。しかし恵まれ切っていた一人の男として、彼が妬ましくはあった。
「分かったよ、俺が悪かった。俺があいつよりも上だってことはこれから嫌と言うほど分からせる」
 彼はプライドが高い。ここまで来て退くことが出来るようなタイプではないだろう。今は嫌々だとしてもそれを利用するほかない。時間は十分にある。
「それが出来るとでも」
「自信がなければスカウトしたりしないだろ。どうせ帰る場所がないならここに早く馴染んだ方がいい、勝ち続ければ勝ち続けるだけ長い付き合いになるんだからな……もしあんたの中では初戦で負ける予定であるなら話は別だが」
 そう言い、地面に下ろしていたバッグを持ち上げた。そして彼に背を向けて校舎の方へと足を進める。しかし後ろの彼の気配が動かないことに気付いてゆっくりと振り返った。彼は少し複雑そうな表情でじっとこちらを見つめている。
「職員室に案内する。少しでもやる気があんなら来な」
「やる気がなければ帰っていいんですか?」
「ああ、帰ればいい。たとえ才能があってもそれを意図的に封じるような馬鹿なら必要ないからな」
 咄嗟の賭けだった。しかし彼はすぐに視線を鋭くしてきつく捲簾を睨み付けた。夕日が目に沁みて目を細める。狭くなった視界の中、赤い光の中に立ち尽くした男の目に、今までなかった光が灯った気がした。
「……僕は、自分の力でどこまで行けるのか試してみたくてここに来ました。負けるつもりで来るはずがないでしょう」
「……試す?」
 一瞬言葉に詰まったようだった彼は、ふと俯いて言葉を探すように視線を廻らせた。
「金蝉の力を引き出す役としてではなく、僕の捕手としての力がどこまで全国で通用するのか試したい。そのためには金蝉では力不足だ。……でもあの制球力のまま一試合完投出来るくらいスタミナを保てればあなたなんて敵ではないんですよ、彼は」
 自分自身が幼馴染を貶めてしまったことに気付いたのか、彼は取り繕うように滔々と話し始めた。放っておけばいつまでも話していそうな元旦那自慢に捲簾はわざとらしく溜息を吐いてみせて頭の後ろで手を組んだ。彼は少し決まり悪げに口を尖らせて、そんな捲簾の様子を窺うように見つめている。そういう表情をするだけで、マウンドで見る、マスク越しの研ぎ澄まされた表情や触れなば切れんという空気は鳴りを潜めた。まるでただの高校生だ。実際そうなのだけれど、一度あの表情と対峙し空気に囲まれると彼を見る目が変わってしまうのである。捲簾は去年も一昨年も甲子園に出場したがあれほどまでのプレッシャーを与えてくる相手は見つからなかった。ならば味方にせず、敵のままでいた方が対戦できる可能性が増える。それでも彼に近付いてみたかった。あの男に向けられるような穏やかな視線が、自分にも向けられないだろうかといつからか願っていた。
「……へーへー、もういいよ幼馴染自慢は。そのうち、お前の口からそんな風に俺の自慢が出てくるようにしてやるから」
「嫌ですよ、そんなの」
 ふい、と彼は顔を逸らして、それでもこちらに近付くように一歩足を踏み出す。それだけのことが酷く嬉しくて、彼がゆっくりと足を運ぶのを暫く眺めていた。彼と自分の距離が僅か一メートルほどに詰まると、彼は流石に胡散臭げに眉根を寄せた。毎日練習が終わっては東高に通い詰めては勧誘を続けた。いつも顔を逸らされて、逃げられてばかりで彼が自分の方へ向かってくることがおかしいくらいに珍しかった。その黒目がちの目がじ、と捲簾を見据えて、不思議そうに瞬く。
「何ですか、気色の悪い」
 そう言って溜息を吐き、彼は捲簾の肩を小突いて先を促した。それに促されて再び校舎へと向かって足を進める。真正面に向かって長い二つの影が伸びていた。チームメイトとして初めて肩を並べた瞬間だった。
 東のチームメイトたちからの反発は少なくなかっただろう。彼の言った通り、裏切り者だと思った部員もいただろう。そしてそう思っても無理はない状況だ。それでも彼は引き留めようとする友人を振り切ってきたのだろう。ならば彼が少なくとも後悔はしないように全力を尽くさねばならない。自分にとっても彼にとっても最後の夏だ。
「あんたは、程度の低い場所に留まっている器じゃない」
「……買い被り過ぎです、僕は、甲子園の土を踏んだ経験もないんですよ」
「進路選択を誤っただけだろ、まだやり直しは利く……まだ今年の夏がある」
 彼に欲がない、というわけではないだろうと思う。しかしあの幼馴染を立てるためにずっとその欲を抑圧していたのだ。上に行きたい、もっと勝ち進みたいという欲を。あれほど傍にいたなら彼の幼馴染も気付かないわけがない。気付いていても、どうしようもなかったのだろう。勝ちたいのは誰しも同じ、ただその欲求に力が追いつくかどうかの差は大きい。彼はその欲求に見合った、十分な才能を秘めている。自分以外にも狙っている学校関係者はいたはずだ。それでも彼は揺るがなかった。幼馴染のため、揺るぐわけにはいかなかったのだ。
「あんたは勝てる男だ。俺なら、あんたの力を周りに証明出来るだけの力がある。あんたが求める通りの球を投げてやれる」
 彼の眸が揺れた。そしてそれを隠すようにすぐに俯いてしまう。風に煽られて黒い髪の先がさらりと揺られている。
「絶対に俺に惚れさせてやる、あの男の球が霞んで見えるくらいにな」





 そして練習試合の前日、ミーティング後に天蓬にも新しいユニフォームが配布された。ミーティングルームでサイズを確かめるため、東のユニフォームではない新しいユニフォームの袖に腕を通した彼が何だかあまり見慣れなかった。サイズを確認している監督の前に大人しく立っている天蓬を横の椅子に座って脚を組んだまま眺めながら、部誌にペンを滑らせていた。その時、袖を摘んだり丈を確認されたりしながらじっと口を噤んでいた彼が、ふと静かに口を開いた。
「監督、お願いがあります。捲簾……いえ、主将にも」
 その言葉に捲簾もまたペンを止めて顔を上げた。先の言葉を促すように目を見開いた監督に向かって、天蓬は躊躇うこともなく願いを口にした。レンズ越しの黒い眸はじっと監督の目を見据えている。その目の色と光には不思議な力があった。
「明日の試合の先発を任せて欲しいんです」
 今度は驚いたように目を見開いた監督は、意見を求めるようにその視線を捲簾に向けた。それを見て、天蓬の視線もまた捲簾に向かって注がれる。ペンを指先に挟んだままくるくると回していた捲簾は、その目の光に呑まれないようにしながら彼の真意を問うことにした。先発はまだ発表されていない。しかし恐らく明日の試合は、まだ捲簾と天蓬の間で調整が済んでいないことから、以前の捕手と捲簾とのバッテリーで間違いないとされていた。それをわざわざ、自分に替えて欲しいと願うのは何故か。
「……ほお? それでどうする」
「もしも明日負けたら、僕は引退するまでずっと控えで構わない」
「尻尾巻いて東に帰るつもりか」
「馬鹿な。……明日負けたら、引退までずっと控えで構わないと言っているんですよ。この学校で控えのまま高校生活を終える覚悟があります。南高程度相手の練習試合でも勝ち星を上げられずに、今まで頑張ってここでポジションを守っていた捕手に場所を譲っていただくわけにはいきません」
「それは、自棄になっているのかそれとも、……余程の自信があるのか?」
 今まで監督に顔を向けていた天蓬は、ゆっくりとその整った無表情を捲簾に向けた。すっと細められた目が捲簾を見据え、捉えた。この目だ。試合の時だけ見せる、恐怖すら覚える呑まれてしまいそうな眸。それを咄嗟に避けて捲簾は手元の部誌に視線を落とした。
「寝惚けてるんですか? 南高など、僕の敵ではありません。あなた方が僕を追い出すために、わざと手抜きをしなければの話ですが」
 その、反論せずにはいられない言葉に咄嗟に顔を上げる。するとしてやったりというように彼はゆったりと微笑んだ。嵌められたことに気付いて捲簾が詰まらなさそうに顔を顰めると、彼は笑みを悪戯そうにして軽く瞼を伏せた。
「……そんなことはさせない。初めの日に言ったの忘れたか? 絶対に俺に惚れさせるってな」
「やってみせて下さいよ、あなたにどこまで僕の要求に応えることが出来るのか」
 強気に笑うその目には、初めて校門をくぐった時の荒んだ色や孤独は見えない。
 お前の居場所はここだ。分かるだろう。









転校してきました。あらすじ(か?)は7月23日の日記をご覧ください。

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転校したら公式戦に一年出られないのルールをすっかり忘れておりました。あほすぎる……。
今この矛盾をどううまく繋ぎ合わせるか言い訳を考えておりますが、結局思い付かなかったら書きなおしかorz
この世界では転校後三ヶ月くらいで公式戦出られるってことにしといて下さい、すみません……。