その人は綺麗な人だった。まずは見た目に惚れて、そしてすぐに見た目通りの性格ではなさそうだということにがっかりした。しかしそのうち、見た目では測れない強さや優しさに気付いて、深みに嵌った。本当に難儀な性格をしているな、と悪友に言われたが全くだ。
その人はこの春、兄と結婚をする。
兄というのも本当のところは従兄だ。妾腹である悟浄と本妻である義母との関係がうまくいかず、精神を病んだ義母がとうとう悟浄を手に掛けようとしたために、二人は引き離されることになった。居場所も知らされていない。あちらも悟浄がどこに住んでいるかは知らないだろう。ずっとずっと遠くにいるとしか聞かされていないし、それ以上詮索するつもりもなかった。それから後のことは子供の頭には難しく、展開が速すぎて断片的にしか思い出せない。とにかく頭に残っているのは顔も見たことがなかった親戚だという人間たちの口論する声。悟浄をどの家が引き取るか。自分は関わりがないだとか、お前の家の方が近しいからそっちが引き取れだとか、人を物のように擦り付け合うのを隣の部屋で小さく蹲ったまま聞いていた。しかし次の日目覚めた時には見たことのない部屋で、温かくてふかふかのベッドに横になっていた。そしていつの間にか、まだ高校生の従兄に引き取られることになっていた。彼の親は最後までそれを渋っていたが、自分たちが一切関与しないことを約束するならば、と家に引き取ることを決めたということだった。あれからもう十年が経つが、そのせいで彼は家からほぼ縁を切られたも同然で、あれから幾度も実家に帰っていない。それが今でも悟浄の胸の中の蟠りとなっていたが、それを躊躇いがちに話題に出す度、彼はそれを杞憂だと笑うのだった。強くて優しい、大人の男になっていた。
兄は優しい。幸せになって欲しいと思う。だからこれでいいのだけれど。
「悟浄? 何ぼんやりしてるんですか?」
ぼんやりとテーブルに肘を突いていた悟浄は、眼前に近づけられた顔に思わず身体を退いた。視界一杯に映るその顔に不覚にも鼓動が速くなる。眼鏡越しに不思議そうに瞬く眸がおかしな表情をする悟浄をしかと映していた。
「あ、ああ……別に、何でもない」
「おかわりいりますか?」
空になった自分のコーヒーカップを持ち上げてそう言う彼女に自分のカップを手渡して、彼女がキッチンへと入っていく後ろ姿を眺めて溜息を深く吐いた。あれはもう人のものだ。どうにもならない。今まで気苦労をかけた兄が幸せになるのだから自分が笑って祝福出来なくてどうするのだ。そうは思っても身体がついていかなかった。ぐったりとテーブルに伏しているうちに、キッチンからコーヒーの香りを漂わせた彼女が帰ってきた。身体を起こしてカップを受け取り、深い茶色をした水面に映る、ひどい表情をした自分に思わず笑った。
「さっきからどうしたんですか、落ち込んだり笑ったり」
「いーや、これから引越しで電気とか水道とか、手続きが色々面倒だなと思って」
悟浄はこの春でこの家を引き払って一人暮らしを始める。だからこそこの春彼らが結婚をするのだ。
一年半ほど前、兄は一度彼女にプロポーズをして断られていた。プロポーズするまで秒読みだろうということは予想していたし、絶対それに彼女が首を振ることはないだろうと思っていたため、それを聞いた時には心底驚いた。そして何度訊いても、その理由を教えてくれない兄に疑念を持っていた。しかし粘り強く訊き続けること一週間、やっと根負けした兄は本当の理由を口にした。彼女が、悟浄がひとり立ちするまでは結婚出来ないと言ったこと。家族というものに飢えた幼少期を過ごした悟浄に少しでも長く『家族』と暮らしていて欲しいから、大学、少なくとも高校を出るまではこのままの状態でいたいと願ったことを話してくれた。それを話せば悟浄が気にすることを知っていたから黙っていたのだろうが、あまりに水臭いと思った。その後、何度悟浄が直接、自分のことは気にしないで欲しいと言いに行っても、根が頑固な彼女は梃子でも動くことはなかった。そしてぐずぐずしているうちに一年半の時が経ち、先週高校の卒業式も済んだ。来週はとうとうこの家を出て一人暮らしを始め、入れ違いに彼女がここに住み始めることになる。
悟浄のために、幸せになることを先送りにした二人を祝わないだなんて出来るはずがない。掌の中で温くなったコーヒーを少しだけ口に含んだ。むかむかしていた胸は、コーヒーを嚥下することによって余計にひりひりし始めた。
「……んで、もう届けは出してきたわけ」
「いいえまだ……来週かな。受理されたら、とうとう僕と悟浄も姉弟ですね。街で一緒に歩いてるのを見られた時に言い訳出来ます」
そんなことを、そんな風に綺麗に笑って言うのが質が悪いというのだ。
思えば、始めて出会ったその日には既に彼女は人のものだった。手が届く人ではなかった。なのに今こんなにも彼女は近くにいて、ひょっとしたら手が届くのではないかという錯覚に襲われる。しかしもし手を伸ばしてみて、届かなかった時のことを思うと怖くて、手を伸ばしてみることすら出来ずにいる。兄を裏切りたくもなかった。彼女に軽蔑されたくもなかった。
「時々、僕が捲簾じゃない他のカッコイイ人と歩いてたのを見たーって言われるんです」
格好良くなんてない。彼女に惚れて貰えない格好良さなら必要なかった。今になって、コーヒーの苦さが舌に伝わってきて、彼女に見られないように顔を顰めた。
結婚式はしないということだった。彼女は身寄りがない。兄は家族と彼女を会わせるつもりはないということだった。実質、二人の結婚を祝う身内は悟浄しかいなかった。こっそり誰にも報せず、写真だけ取って簡単に終わらせると話していた。お前も来い、と言われていたが、彼女が純白を身に纏うのを見て、まともに祝福の言葉を言える自信がなかったためにその誘いを断った。本来ならば、自分が行って、二人を祝うのが一番いい。分かっていた。しかしそれが出来ないことも分かっていた。
『あなたが悟浄君ですか。はじめまして』
少し身体を屈めてそう言った彼女はその頃まだ制服を着ていて、二人はまだ可愛らしいカップルだった。小さな自分の頭を撫でて、綺麗に笑ったその時に味わったのがきっと初恋というやつだった。初恋と初失恋とを同時に体験した夏。それから十年の時が経って、幾つも恋をして失恋をしても、未だに自分は割り切れずにいる。
何かあって兄が家を空けるたびに一人暮らしをしていた彼女のところに預けられた。自慢じゃないがあの頃彼女と一緒に寝る回数は、彼女の恋人である兄よりも多かっただろうと思う。一緒に食事をして一緒に寝て、いつも本当の弟のように可愛がってもらっていた。そしてこれから本当に弟になろうとしている。
「淋しくなったらいつでも帰ってきていいんですからね」
「新婚さんの邪魔するほどヤボじゃねーよ」
冗談めかして言った本音だったけれど、彼女はそのまま、冗談として受け取ったようだった。それでいい。彼女にとって自分は、昔からの恋人の弟で、これからは義理の弟になる男。それ以上の関係にはならない代わりに、彼らの関係が切れない限りは自分と彼女の関係も切れることはない。とうとう身内になってしまった。一生、この距離を保ったままつかず離れず過ごしていくことになる。
「……兄貴、遅えな」
「そうですね、ごみ袋とガムテープ買いに行っただけなのに」
それも、悟浄の引っ越し作業のために使うものだった。ガムテープが切れたために今は一時中断しているところだった。もうすぐ兄が帰ってくる。そうしたら彼女も、自分からふらりと離れて彼の方に行くだろう。そんな風に思考が下向きになっていくのを断ち切るように、玄関の方からドアの開く音がした。途端にぴくり、と上げられた彼女の顔が華やぐのを見てしまった。落ち込むなんてものではない。口は可愛くないけれど、本当に彼女が兄のことを好きなのだと無意識に思い知らされたようで、無造作に頭を掻く。
足音がビニール袋の擦れる音と共に廊下を歩いて近づいてきて、部屋に踏み込んだ。がさりとビニール袋を下ろす音がする。
「ほれ、ガムテープとごみ袋。お前の携帯電話、洗面台に置きっ放しだろ、何か点滅してたぞ」
「え、嘘……ちょっと見てきます」
自分の周りに携帯電話がないことを確認して、彼女は廊下をぱたぱた歩いていった。その足音が遠ざかるのを聞きながら、漸く悟浄は顔を上げた。余程おかしな表情をしていたのか、兄は驚いたようにぽかんとしている。
「どうかしたのか」
「別に、別れを惜しんでただけ」
「何やってんだお前は……家にか」
「俺の初恋ってやつにさ」
それまでからかうように笑っていた兄は、その言葉にゆっくりと笑みを消した。戸惑っている顔だ。そんな顔をさせたいわけじゃない。今が一番幸せな時期だというのに、自分のことでその幸せに影を落としてほしくない。彼らのことだから、悟浄の様子によっては結婚も引越しもなかったことにしかねない。その空気が居た堪れなくて、悟浄はその場を誤魔化すように適当に笑った。
「大丈夫。いずれ忘れるさ」
「……ごめんな、悟浄」
「何で謝んだよ、おかしいだろ。何か謝らなきゃなんねえことでもしたのかよ」
そんな子供の八つ当たりも受け止めて、彼は静かにこちらを見つめていた。そして暫く口を閉ざしていた彼は、がさ、とビニール袋の中身が倒れたことで音を立てたのを合図にしたように、一度瞼を伏せて、再び目を開いた。
「あいつだけは、お前にはやれない。だから謝ってる」
分かっている。だからこうしてこの場から動けずにいた。それにしてもこの場面で謝るとは、何を考えているのだろう。牽制か。そんな風に言われたら、只でさえ臆病な自分は絶対に手を出すことが出来なくなると、分かっているからか。優しい男だと思っていたが、恋が絡めば狡くもなるのだろう。彼女は、優しい兄がそこまでしてでも手放したくないものだからに他ならない。
暫くそうして二人は黙りこくっていた。その後ろから再び足音が近づいてきて、携帯電話を手にした彼女が戻ってくる。途端に兄の表情は緩んで、張り詰めた空気はふっと和らいだ。
「引越の準備はちょっと中断して、これからご飯食べに行きませんか、珍しく金蝉が御馳走してくれるって」
「あー行ってこい行ってこい」
追い払うように手を振ると、きょとんとした目をした彼女は小さく首を傾げた。
「悟浄も行くでしょう?」
「何でだよ。結婚のお祝いでの食事だろ。俺関係ねえじゃん」
「どうせお店じゃなくて金蝉ちのお屋敷ですから一人増えたってどうってことないですよ。この際ですからたらふく食べてきましょうよ」
「……太ってドレス入らなくなっても知らねえぞ」
「全くだよ」
呆れたように言う婚約者と、畳みかけてくるその弟を交互に見た彼女は気分を害したように唇を尖らせた。
「ほっといて下さい! もう、変なところばっかり似て」
(全くだよ)
そう思ったら、何も考えずに自然に笑えた。彼女のふくれっ面をからかう兄の姿を見ても、苦しい思いになることはなかった。
春は恋の季節である。さっさと可愛い女の子を見つけて、とっくに思い出に変わってしまった古い恋など忘れてしまおう。そうしたらきっと心から笑って、新婚夫婦をからかってやれるだろう。
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