「お前は夏休みにまで熱心だなぁ。感心感心」
「……あなたが呼び出したんじゃないですかっ」
 そうでなければこんな場所にいない、とその綺麗な顔を歪めて怒る少年に、捲簾は苦笑いをして手を伸ばした。その艶のある少々長い髪を撫でると、少し納得のいかないような顔をしていた彼は、それでもそれ以上文句を言うのはやめた。夏休みの職員室は、二人以外誰もいない。他の教員は部活や用事に出ていて、ただひたすら広い室内では扇風機が回されていた。外からは野球部の声が聞こえてくる。本当に暑い。用が済んだらとっととこんな暑い場所は出てしまいたい。それに対して目の前で不機嫌そうな表情を隠そうともしないこの少年は、暑さなど微塵も感じさせない涼しい表情をしていた。それでもその白い額に僅かに浮かんだ汗に、彼の不快さを推し量って小さく笑った。彼の不機嫌はその不快さのおかげで三割増しだろう。黒い制服のズボンは見た目にも暑苦しい。白い半袖のワイシャツの袖口が扇風機で起こった風に揺れている。
「僕はもう生徒会は引退したんです。いい加減に現役員だけで運営していって貰わなければ困ります」
「不甲斐無い後輩たちだよな本当に、なあ」
 夏休み後に控えた学校祭のために夏休み中も生徒会役員は出ずっぱりだった。三年の先輩はさっさと引退しており、新メンバーを主体とした初めての大きな行事に全員浮き足立っていた。夏休みも半ばだというのに、企画の半分も進まない。最初のうちは意気込んでいた生徒たちもそろそろ弱音を吐き始めた。このままでは今年の学校祭が危うい。そのため急遽応援を呼ぶことになった。とはいえ引退した三年生は揃いも揃って上級の大学を目指す受験生だ。この少年も例に洩れない。だというのにこうして今ここに呼ばれているのはそれなりの理由がある。
「アドバイスなんて、顧問のあなたがするべきです。どうして受験生の僕がこの炎天下をこうして歩いてこなきゃならないんですか」
「まあそう怒んなよ、帰りはちゃんと車で送ってやるって」
「教師が生徒を車に乗せるのはあまりよくないと聞きましたが」
「今更だろ」
 そう笑って言って、椅子から立ち上がる。今までの重圧を批難するようにその古い椅子は軋んだ音を立てた。生徒会にはもう一人の教師がついていて、今日の自分は特に学校に用はない。なのにわざわざ冷房も掛かっていない学校に足を運んだのは、勿論この少年が応援に呼ばれると聞いたからだ。テーブルの上に上げられた携帯電話や財布をバッグに詰め込み、椅子をデスクの中に押し込んだ。
「お利口に手伝いに来てくれたしな、ご褒美に何か奢ってやるよ」
 彼はまだ訝しげだ。そしてうんざりしたように深く溜息を吐いた。肩を叩くと、それでも彼は大人しく先に職員室を出ていった。その後ろ姿を暫く眺めていた捲簾は、デスクの横に付けられたフックから車のキーを取り、扇風機のスイッチを切ってからその後を追うべく職員室を後にした。

「何をくれるかと思えばこれですか」
 そう毒気付いた少年の赤い舌がちろりと伸びて、その着色料満載の物体の表面を舐める。それを眺めていた捲簾は、少年の鋭い視線に晒されて曖昧に笑う。そして自らも手にしていた小さなビニールの封を切って中から棒についた空色の物体を取り出した。冷たいそれに舌を這わせると、夏を思わせるソーダの香料が漂った。
 木陰に彼を待たせて、学生の頃に世話になった近くの駄菓子屋に顔を出した。そして買ってきたアイスを彼に差し出した時の顔は見物だった。アイスと捲簾の顔とを二回交互に見比べ、本当に嫌そうに顔を顰めたのだった。しかし文句をぶつぶつ言いながらも大人しくそれを口にしているのはやはり暑さには抗えないからか。
「夏にはいいだろ、それともソフトクリームの方が良かったか」
 車で学校を出、そのまま帰るのだと思っていたのか、捲簾がいつもと違う方向に曲がるのを見て彼は慌てたように声を上げた。しかしそれには返事をせず、不満そうに眉根を寄せて自分を睨む彼を無視して訪れたのは街を一望出来る高台だ。木が繁っていて程好く風もある心地のいい場所だ。転落防止のための木の柵に腕をかけて、アイスの端に歯を立てる。じわりと冷たいものが口に広がった。
「まあ、もうこの歳で一人でこんなの食う機会ねえしなぁ」
「だからってどうして僕まで……」
 そう言いながらも溶ける先からぺろぺろと舐める姿は可愛らしい。大きさはというと百七十を優に越えているのだが。それでも、冷たさで染まった赤い唇や舌は鑑賞するに値する。そうしてアイスの先を齧りながら彼の様子を眺めていると、居心地悪そうに彼は眉根を寄せてこちらを軽く睨みつけてきた。そしてこちらの方を顎でしゃくってみせる。何だろう、と思っていると、暫くそのままこちらを見ていた彼は諦めたように口を開いた。
「アイス、垂れてます」
「お、やべ」
 ぼんやり彼に見惚れているうちに、手にしていたアイスはぐずぐずになって溶けかかっていた。溶けた甘い汁が手首まで垂れている。それ以上垂れるのを止めるために舌で舐め上げ、更に溶けて垂れてしまいそうな部分をさっさと齧ってしまった。そしてふと、顔を上げると、彼がアイスを舐めるのも止めてこちらを見ているのに気付いた。その深い珈琲のような色を湛えた眸がじっとこちらを見つめていたが、捲簾がそのことに気付くとすぐにふいと逸らされてしまった。薄らと赤く染まり、汗の滲んだ横顔を見つめていた捲簾は、またアイスが溶けてしまいそうになって慌てて残りの固まりを口に入れた。こめかみの辺りがじくじくと痛む。高台から見下ろす街はジオラマそのものだ。自分の住むアパートはどの辺りだろうと視線を巡らせながら、アイスの棒に齧り付いた。
「あ」
「ん、どうした」
 ふっと現実に引き戻されて顔を上げた捲簾は、彼の突き出しているアイスの棒を見て目を見開いた。
「あたりです」
「おお、すげえ」
 木の棒に描かれた『あたり』の文字が何だか懐かしい。そう思いながら口に咥えていた自分の棒を無造作に取り出して目をやった。
「お」

 車を停めてきた駐車場に戻るべく長階段を降りながら、二人は本日二本目のアイスを齧っていた。蝉の声が耳鳴りのように鳴り響く。
「二人で同時に当たるなんてすげえな。いいことありそう」
「お腹壊したりしたらあなたのせいですから。それに、アイス二本で解柔されたりしませんからね。実際あなたがお金出したのは一本分ですし。それにしたって百円以下ですし! そもそも何故今日僕を呼び出したのか考えれば考えるだけ疑問が湧くんですがっ!」
 畳み掛けるように不平不満を口にする少年に笑って、崩れ掛けたアイスの角を口に入れた。
「分かってるって……それじゃ今夜のディナーにご招待、及びその後勉強の直接指導でどうだ」
「あなた、担当美術じゃないですか」
「高校数学くらいはまだ覚えてらぁ。よければ、当分泊まるか」
 軽く告げるが、返事はすぐに戻ってこなかった。それどころか隣を歩いていた彼の姿がすぐ隣に見えなくて、捲簾は足を止めて振り返った。 すると、階段の三段上で立ち止まったままの少年が、驚いたように目を瞠っていた。そしてすぐにその表情を鋭くして、足音も荒く階段を降りてきた。
「最初からそれが目的だったんでしょう、この淫行教師」
「淫行って……まだキスしかしてないのに」
「大体あなたはケジメの付け方がおかしいんですよ! 卒業するまでセックスは駄目とか言うくらいならそもそも生徒に手なんて出さなきゃいいじゃ……っ」
 慌てて彼の肩を掴む。幾ら人がいないとはいえこんな場所で大声で話す内容ではない。それが分かったのか、彼もそれきり口を噤んでアイスの角を口にした。しゃりしゃりと涼やかな音がする。その少し拗ねたような横顔を見て、思わず笑みが洩れた。
「来る? どうせ休み中碌なもん食ってねえんだろ。うちにくれば毎日三食人間の飯が出るぞ」
「……行く」
 アイスの棒を咥えた彼は、顔は俯けたままぼそりとそう呟いた。咥えた棒を動かしながら視線を彷徨わせる彼に向かって手を伸ばしてみた。ほんの悪戯のつもりだったのだけれど、差し出された手を見つめて彼は戸惑ったように視線を上げた。
「繋ぐ?」
 残りの階段はもう僅かだ。彼がこちらに向かって手を差し出すことはなかったけれど、拒否しないのは彼の許可だ。そのまま身体の横に下ろされた彼の左手を握って、ゆっくりと階段を下る。
 がり、とアイスの棒を齧れば口の中に木の味が広がって、少しだけ顔を顰めた。