静かに木を見上げていた。白く、少し褪せたようにも見える薄紅色は雨に打たれ、薄く弱々しい花弁を容赦なく打ち付ける。その水滴は自らの眼鏡のレンズをも打ち付けて、視界を段々とぼやけさせていった。頭の先から足までずぶ濡れの体が何となく重い。緩く息を吐く。息は震えていた。それを落ち着けるように再び静かに息を吐く。そして、もう一度重たい灰色の雲に覆われた空を見上げた。
 ふと、その視界を半透明の膜が覆う。ゆっくりと顔を下ろし、振り返る。差し出されたビニル製の傘は雨粒を受け止め、天蓬と空とを隔てているようだった。それが何ともなく嫌で、その傘から逃れるように雨曝しを選ぶ。しかしそれを許さなかった傘の主は、天蓬の腕を引いて無理矢理傘の下へと引き入れた。ぐっしょり濡れた黒い軍服越しに強い手に掴まれて、そこから熱が駆け上って来るような気がした。思わず身震いをすると、彼は顔を顰めて天蓬の頬に手を当てた。熱い掌に、ぞわりと嫌悪に似た感情を覚えた。さり気なくその手から逃れるような仕草を見せた天蓬に、男は一瞬はっと目を瞠り、そして俯いた。
「……何、やってるんだ」
「花見ですよ」
「雨の中で、傘も差さずに、こんなに冷たくなってか」
 容赦なく責め立ててくる男――――捲簾に天蓬は小さく嘆息し、一瞥をくれてから再び桜の木を見上げた。その昏い眸の色と暗然とした面持ちは、また何かおかしなことを考えている証拠だ。眼鏡のレンズは雨粒に濡れ、その視界を遮っているだろうに。幾らも花など見えてはいないくせに。一体何を見ているのだ。彼は花を見ているようで、花を見ているのではない。花を透かして、遠い何かを見つめている。
「花見です」
 雨粒に濡れたレンズを拭うこともせず、天蓬はそう再び呟いて静かに木を見上げている。その目に映るのはどんな世界だろうか。差し伸べる手の一つもない、絶望の淵だろうか。そうしてたった一人、深淵を覗き込んでいる。
「あなたには関係のないことでしょう」
 視線もくれずに天蓬が低く告げたのはそれ以上ない、冷たい拒絶の言葉だ。一瞬苦しげに顔を歪めた捲簾は、それでも一歩も引かずに天蓬の頭上に傘を差し掛けたままでいた。ぱらぱらとビニルの表面に雨粒が落ち、不規則な音を立てる。喧しい。いっそこの空間から音を無くしてしまいたい、と捲簾は思った。そうすれば、彼の言いたいことが、微かな雨音の合間を縫って少しでも聴こえてくるような気がするのに、雨音が、自分の鼓動の音が邪魔をして、何も聴こえない。
「……お前は、何を求めてる」
 震えそうな声で訊ねる。傘を持つ自分の手が微かに震えている。こんなのは自分らしくない。その時、雨粒に濡れていた彼の紅い唇が徐にひくりと動き、そっと小さな声で言葉を紡ぎ出した。その小さな声は雨音をさっと遠ざけるように真っ直ぐに届いた。
「絶対的な存在を」
 不変と言われる天界でも、実際何も変わらぬものなど有り得ない。桜の花も日々散り続けている。それらの不変と呼ばれるものたちは、消滅しては再生することを止むことなく繰り返しているだけである。人の心も移りゆく。金属は錆びる。本は焼けていく。自分の精神構造は日毎に複雑を極め、自分でもその底が見えなくなっていく。一旦覗き込んだら戻ってこられなくなりそうな深淵で、一人ぼっちで当てもなく立ち尽くしていた。時が移れば失ってしまう熱なら必要ない。一夜限りの愛も、気紛れの甘さも必要ない。同情ならば尚更。
 そうして全てを拒絶し突っぱねてしまう彼を、捲簾は静かに見つめていた。その紅い唇から漏れる息が白く染まっている。濡れた黒髪からは水滴がぱたぱたと、既にずぶ濡れになっている軍服へと落ちる。彼はいつからここに立ち続けていたのだろう。すっかり心も身体も、芯から凍え切ってしまっているだろうに。
「変わらず、自分の中で価値を持ち続けるものが欲しいか」
「ええ」
「俺にそれは与えられないか」
 じっと木を見上げていた彼は、暫く動かなかった。自分の言葉は彼に届かなかっただろうか、とその間に諦めを持った。しかし、ふと捲簾が俯いた瞬間彼は顔を下ろした。そして少しだけ顔を横に向け、こちらにそっと目を向ける。その目には全く感情が浮かんでおらず、只の硝子玉が自分を映しているようだった。
「……あなたは常に変わり続けます。あなたには無理だ」
「変わらないものもある」
「――――何」
 先程自分を拒絶した腕を、再び掴んで引き寄せる。少し驚いたように瞠られた眸に少しだけ色が戻っていることに安堵しつつ、蒼白なその冷たい頬に指を滑らせた。彼が怯えたように顔を一瞬歪め、後退ろうとするのを許さずに掴んだ腕を一気に力を入れて引き寄せる。元々少しふらついていた彼は簡単にバランスを崩して寄り掛かってきた。それでもすぐに、力の入らない腕で捲簾から逃れようとするのを歯痒い思いで見下ろしながら、雨に濡れた髪に頬を寄せる。雨の日の、土の匂いがした。






 そして下界に訪れた爛漫たる春。
 一面にたっぷりと降り積もった桜の花弁。その中、何故か小さな山が出来ており、それが急にもぞりと動いた。黒い軍靴で花弁を無粋にも乱暴に踏みつけその小山に歩み寄った男は、ゆっくりとその横へとしゃがみ込んだ。そしてグローブに包まれた手で、その小山の上をそっと撫でるように払う。すると淡紅色の花弁が周りに舞い、小山の中から艶のある黒髪が顔を出した。それを見て小さく笑い、再び山を崩し続ける。次第に白い頬が顔を出し、伏せられた白い瞼、周りの花弁より一際濃い紅の唇が現れた。まるで人形のような、美しい造作の顔が花弁に囲まれている様は半ば恐ろしくも思える。焼かれぬまま埋葬された死人のようだ。
「花弁の中で窒息死、っていうのは、あんまり美しくねえんじゃねえの」
「……血塗れで死ぬより、幾らかまともかと思いましたけど」
 まるで螺子の切れた人形のようにぴたりと動かなかった天蓬は、声を掛けるとそれに呼応するように白い瞼を動かして、ゆっくりと瞼を押し上げた。濃い睫毛がゆっくりと持ち上がって現れた榛の眸は、頭上からの木洩れ日を映し込んで深い琥珀のような色合いになる。その眸は自分の横に跪いた男を見上げ、面白がるようにすっと細められた。
「御伽噺みたいですね」
「少なくとも、御伽噺のお姫様は軍服は着てねえと思うがな」
 そう言っていたずらに彼の胸元を指先で突付くと、その琥珀は一瞬虚を衝かれたように瞬き、そして自分の姿を見下ろして残念そうに唇を尖らせた。そんな少し子供染みた行動を眺めていた捲簾は、小さく喉の奥で低く笑う。時折彼が自分の前だけで見せる幼い行動が好きだった。それが、冗談めかすことでしか表現出来ない彼の甘えだと分かっていたから尚更。桜の花弁の上に散る彼の黒髪を指先で梳いて、身体を屈めて剥き出しになった白い額に口付ける。顎の辺りに彼の眼鏡のフレームが当たって、小さく音を立てた。ゆっくり彼から離れながらその顔に目をやると、丁度彼も目を開いたところだった。拗ねたように唇を突き出す彼に笑い、白い額に舞い落ちた花弁を指先で払ってやった。
「拗ねるな」
「……拗ねるようなこと、しないでくれませんか」
 素直だな、と心の中で少し驚きつつ、その顔を覗き込む。しかしその珍しさも手伝って何故か少し、彼が淋しそうに見えたものだからそれ以上冗談は言えなくなってしまう。再び身体を屈めて、今度はその紅く艶を持つ唇に自分のそれを軽く重ねた。そしてそれに流されるように彼はそっと瞼を伏せた。それを見て、自分も静かに目を閉じる。視覚は閉ざされ、感じるものは桜の微かな香りと、彼の熱と柔らかさだけになる。一層彼を近く深く感じるような気がした。柔らかく閉じられたままの唇をそっと割って、軽く舌を絡ませる。彼は大人しく腕を下ろしたまま、一切抗わなかった。軍人でありながらこの状態はあまりに無防備過ぎる。今この時何者かに襲い掛かられたらどうするのだろうか。まあ彼ならば剃刀ぐらいは常にどこかに仕込んでありそうだが。そう考えればいつ彼に寝首を掻かれてもおかしくはない、と小さく笑う。しかし生憎、その危険さもひっくるめて彼のことを欲していた。
 その形良い唇の柔らかさを十分堪能してから、最後に軽くその唇を吸って顔を離した。軽く漏れた濡れた音が、一面桜色の幻想的な光景にそぐわぬ、やけに淫靡な音として耳に響いた。目を伏せていた彼は、捲簾の離れていく気配にゆっくりと瞼を押し上げる。そして、一層紅く染まり濡れた唇から細く息を吐いた。そのどことなく淫靡な光景を静かに眺めていると、何故か急に再びそれに触れたくなって、捲簾は再び触れるだけの口付けをした。今度は目を閉じる間もなく目を開いたままだった彼は、夢見心地のままゆっくりと瞬きをした。
「……何か」
「いや、急にしたくなった」
 その言葉に小さく笑った天蓬は、そこかしこで盛られては困ります、と憎まれ口を叩いた後、紅い舌で濡れた唇をいたずらっぽく舐めてみせた。質が悪いとしか言い様がない。目に焼き付いた光景はきっと暫く捲簾の記憶の中から消えることはないだろう。そして如何なる時もそれが頭を過ぎるに違いない。後にも先にも自分をこんな風にする男など存在し得ない。絶対的な存在だった。
「お前以外じゃその気にならない身体になっちまってんだ。そのくらい勘弁してもらわないと」
「それって僕のせいですか」
「勿論」
 当然のように言い切る捲簾に笑って、彼は桜の花弁の中で少しくすぐったそうに身動ぎした。吹いた風が降り積もった花弁の表面を撫でて、ひらひらと宙を舞わせている。温い風が頬を撫でていくのに目を細めていた捲簾は、じっと静かに自分を見上げている眸に気付いて視線を落とした。そっと、彼の身体の両脇に肘を突き、鼻先が触れ合うほどに顔を近付ける。彼が小さく息を呑んだ。瞠られた彼の眸は自分の身体で光を遮られ、深い深い珈琲のような色味になる。
「お前のせいだよ」
「……今妙に興奮しているのも、ですか」
「そういうこと」
 上体を少しだけ彼の身体に押し付けると、天蓬は少しだけ目を見開き、そして少し怒ったような顔をした。それを無視し、少し赤らんだ滑らかな頬をゆっくり下へと乾いた唇の表面で辿る。彼はくすぐったそうに目を細めた。頬骨の辺りから顎にかけて、顎から首、そして鎖骨に至るところまで来ると、流石に彼は制止をかけた。鎖骨の上の皮膚を歯で軽く食むと、ピンと額を人差し指で弾かれる。呆気に取られて額を押さえた捲簾に、彼は静かに笑ってみせた。
「いけません」
「どうしてだ」
 ついつい不満な声が出てしまう。自分でもしまったと思ったが、予想通り彼は小さく声を出して笑った。そして、桜に埋もれていた指先をゆっくりと持ち上げて、自分に覆い被さってくる捲簾の眉間の辺りを、皺を伸ばすように人差し指で擦った。そんなに不機嫌そうな顔をしていただろうか。
「美人な桜の前で、醜態を晒したくはないでしょう」
「……醜態なんかじゃ、ねえだろ」
 それどころか、これ以上ない媚態だ。またいつかに頭に焼き付いていたその艶姿がふと頭を過ぎって堪らない気分になる。抵抗を覚悟の上で、彼の上着に手を掛け、大きく前を開いた。しかし思ったほどの抵抗はなく、彼は捲簾の動向を興味深げに見守っているようだった。口振りほど嫌がっていないことを悟った捲簾は、強引に彼の両脚を割り開き、閉じてしまわないように自分の身体を押し込んだ。そして軍服の上着を前を開き、中の白いアンダーシャツを一気に首の下まで捲り上げる。肌理細かな肌は普段あまり日に当たらないために仄白い。薄い身体だが腹部にはしなやかな筋肉がついている。滑らかな肌に唇を寄せると、ひくりとその筋肉が動く。唇をつけたまま視線で彼を仰ぎ見ると、僅かに目元を紅くした彼は肘を地に突いて少し上体を起こし、戸惑ったような視線で捲簾を見つめていた。
「……本気で?」
「本気だ」
 こんなこと、冗談ですることではない。そもそも自分が本気になった時点で天蓬には止めようがないだろう。止める方法は一つだ。
 腹部から胸へ掛けてゆっくりと唇を滑らせる。そして、空気に触れたせいかシャツで擦れたせいか、つんと立ち上がっている乳首を唇で軽く啄ばんだ。随分と綺麗な色をしている。唇で軽く挟み、先端を舌先でいたずらに突付く。びくんと一際大きく震えた彼の脚が上に積もっていた花弁を蹴り上げ、宙に花弁が舞った。震える彼の膝に手を載せて、宥めるように撫でる。
「いや……やめ、なさい」
 その声に顔を上げると、漸く余裕の消え始めた表情をした彼が焦りの浮かぶ眸でじっと捲簾を睨み付けている。その言葉と強気な目の裏に、今にも快感に負けて崩れそうな本音があるのを見透かして捲簾は静かに笑った。その微笑みに、彼の強気な眸に怯えに似たものが過ぎる。それを見て、無駄に驚かせて悪いことをしたと身体を起こす。そして彼を落ち着かせるようにその頬に軽く口付けた。
「じゃあ言って。さっきみたいに舐められるのがイイのか……こうやって指で弄られるのがイイのか」
「ッあ……ん、ぅ……」
 指先で少し湿った乳首の先を摘み、少しだけ力を込める。途端にいつも憎まれ口ばかり叩く唇から高い嬌声が上がった。爪の先で弾くように軽く先端を引っ掻く度、ひっきりなしに押し殺した甘い声が零れる。目は固く閉じられ、その度にびくんと震える身体を支えながら、耳元に届くその声を心楽しい気分で聴く。舌で、指先で散々嬲られた左の乳首は、右側に比べて紅くぷくんと熟れたように膨れていた。
 ふと思い立って一旦一切の愛撫を止めてみる。目を瞑って快感を甘受していた彼は突然捲簾の気配が離れたことにそろそろと目を開いた。
「ぁ……」
 困ったように天蓬が視線を上げる。甘えたように上目で捲簾の様子を窺う、都合の悪くなった時の彼の癖だった。今まで散々他の男で試して、大概のことならそれで回避出来てしまうと学習したからだろう。しかしその“甘え”がなかなか捲簾には通用しないことも学んでいるはずである。そして幾度となく失敗し、却って大変な目に遭ったこともまだ記憶の中に残っているはずでもある。
「甘えても、駄目」
 笑いながらその視線を軽く突っぱねると、彼は落胆したように眉根を寄せ、恥ずかしげに目を伏せた。淡紅に染まった頬を面白がるように、その返事を待って静かに見つめる。ふと、ちらりと捲簾の様子を窺うように瞼が少し上げられる。そしてじっと捲簾が自分の様子を窺っていることに気付いて、少し怒ったような顔をしてみせた。それでも反論する言葉が思いつかなかったのか、開いたままだった唇を悔しげに噛む。意地悪く自分の次の手を見守っている捲簾を、暫く救い所を求めるように見つめていた彼は、諦めたように目を伏せた。
 迷いが振り切れない様子の彼を見て、捲簾は小さく溜息を吐く。そしてそっと今まで放置されていた左の乳首に唇を寄せた。突然息が掛かったせいか、天蓬は弾かれたように目を開いて顔を上げる。それにも構わず、舌を広げて全体をゆるゆると舐め上げると、段々と硬くなり始めていた先端が舌に引っ掛かった。僅かに捲簾が笑ったのに気付いたのか、びくりと震えて逃げを打つ腰に手を当てて引き寄せる。そしてぷっくりと立ち上がった乳首の先端を抉るように尖らせた舌先で舐め、その間に空いたもう片方も指先で嬲る。いたずらにその先端をちゅうっと吸ってやると、甲高い声と共にかくんと彼の身体が仰け反った。露わになった白い喉元に、思わず噛み付きたい衝動が生まれる。その時横髪が流れて、真っ赤に染まった耳朶が顔を出した。
「っあ……! や、いけませ」
「何がいけない?」
 彼が何を言いたいのかは分かっていたが、敢えて分からない振りをして訊ねる。そのわざとらしさが彼にも伝わったのか、頬を紅くした彼が悔しげな目で捲簾を睨み付けてくる。しかし度々苦しげに吐き出される熱い息が、その虚勢の脆さを表していた。唇を胸に押し当てていると鼓動の音すら響いてきそうである。憎まれ口を叩く余裕もなくなってきた様子の彼はゆるゆると緩く頭を振るばかりである。捲簾の身体を押し込まれ、閉じられなくなっている両脚の間では、放って置かれ、すっかり勃ち上がった熱が存在を主張していた。黒い布地が押し上げられているその光景と、目の前で頬を紅くして涙目で自分を見つめてくるその清潔な容姿のギャップにくらりとした。白く平らな胸の上では紅く濡れた突起が、彼の胸が上下するのに合わせて震えている。この男からはまるで自分を麻痺させる何かが出ているかのようだ。すぐにでも彼の衣服を剥いてむしゃぶりついてしまいそうな衝動を抑え、息を吐く。決して、傷付けたいわけでもなければ虐めたいわけでもないのだ。
 天蓬のベルトに手を掛けて手早く金具を外す。そしてゆっくりと彼を焦らすようにファスナーを静かに下した。ゆっくり金具の下りていく音が静かに響いて、焦れたように彼は脚を少し動かす。顔を上げることなく捲簾は小さく笑い、再び窘めるように膝頭をそっと撫でた。すると、それだけの刺激を快感と受け取ったのか、天蓬は小さく息を呑んだ。小刻みに身体が震えている。わざとなのか、無自覚なのか、頼りなさげな眸が揺れている。
「……けん、れ」
「びしょびしょだな。服まで濡れたら困るし……脱ぐ?」
 指先で下着の濡れた染みを軽く押す。困り果てたような顔でゆるゆると頭を振った天蓬は、降参を示すように大きく息を吐いた。
「も、いいから……」
「どうする? 脱ぐ?」
 殊更優しい口調で、しかし話を逸らすのを許さないよう訊ねると、一瞬泣きそうに顔を歪めた天蓬は少し躊躇った後、瞼を伏せ、小さく頷いた。そして軍靴を脱がせ、彼のすらりとした脚のラインを撫でるようにしながらゆっくりと下着ごとパンツを下ろす。決して虐めたいわけではない。しかし強情で気位の高い彼を少しからかってみたくなることがあるのは事実だった。そうしていると徐々に開き直ってきたのか、天蓬の視線に毅さが戻ってくる。そうでなければ彼ではない。それこそ彼が簡単に屈したりすることなど、たとえ手負いであっても病であっても有り得ない。彼ならたとえ死に際であっても、意地を張り続けるに違いない。しかしそんな彼が、強い快感によってひとときだけ甘く乱れ屈するのが酷く美しかった。
 貶め汚すことが目的ではない。咲かせることこそが目的だ。
 後ろに肘をついたままだった天蓬は、少しぼんやりとした目でゆっくりと上体を起こす。そして片腕を後ろについて身体を支えながら危なげな仕草で右手を捲簾の脚の間へと伸ばした。黒のグローブに包まれた指先がそっと、確かめるように捲簾の張り詰めたパンツのファスナーの縫い目を突付く。慌てて捲簾がその手首を掴むと、その焦ったような様子に天蓬は小さく笑った。その笑い方が子供のように無邪気で、何だか少し苦しい気分にさせられた。
「かたい、ですね」
「まだまだ若いからな」
 そうわざと茶化すように答えると、天蓬はまたくすぐったそうに笑った。それに曖昧に笑い返している捲簾に気付いたのか、一瞬訝しげに眉を寄せる。しかし彼はそれに気付かなかったかのように再び静かに笑って、突然自分の右手のグローブの甲を歯で噛んだ。突然のことに呆気に取られる捲簾の前でそのままグローブから手を抜き、首を振ってそのままグローブを花弁の降り積もった上に落とした。そして白くほっそりとした手を前に伸ばす。戸惑ったまま反応出来ずにいる捲簾におかしそうに笑って、指先を捲簾の頭の上に伸ばしてぱっとその髪の毛を払った。はらりと目の前を花弁が舞い落ちた。花弁が風に揺られ、ゆっくりと頬を掠って足元の沢山の花弁の中に紛れてゆく。
 両腕を伸ばして、力一杯目の前の身体を抱きしめる。一瞬天蓬が痛がって嫌がるだろうかと躊躇したが、離れ難い体温にそれも出来なくなってしまう。掌で細い背中を擦って白い首筋に噛り付いた。すると、首元でもぞもぞと身動ぎをし始めた彼は、軽く捲簾の胸を叩いた。そして緩い力で身体を押し退ける。それにしたがって大人しく捲簾が腕を離すと、そっぽを向いて顔を俯けた彼は息を浅くしていた。その様子に一瞬不安を覚えたが、小さくなるようにゆっくりと身体に引き寄せられた彼の白い脚が、小さく震えていることに気付いてすぐに原因を導き出した。
 両手を天蓬の両膝の上に載せ、脚を左右に割り開こうとしてみる。それに一瞬肩を揺らした彼は抵抗を見せ、一層強く自分の両膝を抱き寄せる。捲簾が思わず笑うと、彼はむっと薄っすら赤い顔を顰めて、ぷいと顔を逸らしてしまった。しかしその拗ね方が幼くて、油断するとまた笑ってしまいそうだった。膝頭をいたずらに爪の先で擽るように撫でると、ばっと赤くした顔を上げて強く睨み付けてきた。まるで周囲を警戒した猫が毛を逆立てているようである。
「そのままだと辛いだろ」
「……放っておいて下さい」
「いいの?」
 それはそれで面白そうだ、と内心考えていると、苦い顔をしていた天蓬は悔しそうな目をして恨みがましげに捲簾を見上げてくる。たまに優位に立つのも心楽しいものである。暫く自分の膝を抱えてじっとしていた彼は、楽しそうに自分の様子を窺っている捲簾を見上げ、おずおずと口を開いた。
「……本気で?」
「ああ」
 身体を屈めて、彼が抱き寄せた白い膝頭に軽く口付ける。そして少しだけ抵抗の弱まった膝をそっと割り開いた。白い内腿の間で震える陰茎を愛しく思いながら見つめ、彼の顔を見上げる。下唇を噛み締め、そっぽを向いた彼は態と捲簾の方を見ないようにしているようだった。それが面白くなくて、軽く指先でじわりと濡れ始めた先端を弾く。弾かれたように頼りなさげな顔を上げた天蓬は、待ち構えていた捲簾と目を合わせることになり、苦々しげに顔を顰めた。それも白い頬を薄っすらと染めているようでは力がない。彼の手は地面の上で強く握り締められ、積もった花弁の絨毯を掻き乱しては軽い花弁を辺りに舞わせていた。
 白く平らな胸の上を弄(まさぐ)り、ぷくんと膨れた乳首を指先で転がしながら捲簾は、苦々しげにじっと自分を見つめてくる天蓬の目を片手で塞いだ。そして物言いたげに小さく動いた唇に自分の唇を寄せた。天蓬はすぐに自分の視界を塞ぐ手から逃れようともがいたため、すぐに手を離した。
「……けん、れん……やめ」
 それでも天蓬の言葉など耳に入らない。下がりかけていた天蓬のシャツをもう一度首元までたくし上げて、その裾を天蓬の口元に運んだ。その意図が分からないかのように天蓬は、困惑したように目を瞬かせた。
「汚れるからちょっと噛んでて」
 そのまま引き下がらずにシャツを唇に押し付けると、天蓬は促されるままにその裾を躊躇いがちに噛んだ。そして捲簾はすぐに手を離し、身体を屈める。自らのシャツの裾を噛み、最前の自分の言葉を少しずつ飲み込みながら夢でも見ているかのような目で自分を見つめてくる天蓬を一度目だけで仰ぎ、再び顔を伏せる。そして小さく震え、熱を帯び濡れた先端に舌を這わせた。根元を手で押さえ、尖らせた舌先で先端の割れ目を軽く抉ると、白い腿が怯えたように震えた。宥めるように掌で皮膚の薄い内腿を撫でるとその小さな震えはますます増し、天蓬の手は制止しようとするかのように捲簾の髪を掴んだ。しかしその手には力はなく、捲簾のことを引き剥がそうとするでもなく、弱くその髪を掴んでいるだけだった。思ったほどの抵抗がないのに安堵して、天を仰いだそれを口腔に迎え入れる。とろりと溢れ出した先走りが口の中に溢れ、口内に含みきれなくなったそれを飲み込むように一度二度、じゅう、と吸い上げる。くぐもった、鼻に掛かった甘い声が耳に楽しく、口内で舌を蠢かせて苛め、彼を更に追い立てた。
「ん、んぅぅ……う、ん」
 一旦彼を解放して顔を上げると、天蓬は声を堪えるように自らのシャツの裾を噛みしめ、潤んだ眸で捲簾を見下ろしていた。ずり下がった眼鏡が辛うじて鼻先に引っ掛かっている。手を伸ばしてそっと眼鏡を押し上げてやり、涙で少し滲んだ目頭を親指で軽く拭ってやる。暫くぼんやりした目をしていた天蓬は、徐々に羞恥が戻ってきたのか身体を捩り始めた。白い頬から目元が薄っすらと赤く色付いて、もう少し焦らして苛めたい気分にさせられる。
 その時ふと、たくし上げられたシャツの下から覗く、赤く色付いた熟れた突起が目に付いた。それから彼の先走りで濡れたままだった自分の掌を見つめた。そして捲簾は、徐にその掌を彼の平らな胸に擦り付けた。ツンと硬くなった乳首がぬるぬると掌に擦れる感覚にぞくりとする。それを何度も繰り返していると、捲簾の掌が触れる度に彼の身体はびくんと震えるようになった。自らの体液で濡れ 、てらてらと光る乳首を勃ち上がらせ、とろんとした目をする姿は淫猥で、堪らない光景だ。
「ん、んン……ッ!」
 ふるふると身体を震わせた天蓬は、くぐもった声を漏らしながら身体を捩じらせた。視界に入ってしまう光景を見たくないというようにきつく目を閉じ顔を逸らす天蓬を笑いながら見つめる。本人は見たくなくとも、捲簾の目の前には綺麗で厭らしい光景が広がっていた。軍服の上着は乱れ、肩からずり下がり両腕を封じる枷になっている。露わになった下肢はだらしなく開かれ、胸から下肢までは体液で濡れそぼっている。その周りを囲むのは、幾重にも降り積もった淡い色の桜。幻想的で、ぞっとするほど淫靡で、夢と現実との区別も付かない。
「お前は……もう」
「ん、ん……?」
 天蓬の咥えたシャツを小さく引っ張る。暫く不思議そうに目を瞬かせていた彼は、捲簾が「もういいよ」と告げるとおずおずと布から口を離した。漸く口を解放された天蓬は、少し訝るような目をして捲簾を見上げている。
「……何、ですか?」
「声、聴きたいなと思って」
 そう素っ気無く言ってから、再び身体を屈めた。そして先程から中途半端なまま放って置かれていた陰茎を口に咥えた。一瞬にして彼の身体が強張り、喉からは鋭く息を呑む音が聞こえた。
「あ、……ぅあ……! ッ、い、あぁ……」
 彼の甘い声を堪能しつつ、ゆるゆるとそれを舐め上げながらグローブを外した。そして、前の刺激に気を取られて浅い呼吸を繰り返している彼の奥まった窄まりに指を伸ばした。軽くその縁を突付くと、蕩けきった表情をしていた彼は、驚いたように目を見開いた。それには構わず、口での愛撫に徹しながら窄まりの襞を指でなぞっていると、徐々にその窄まりはひくつき始めた。
「横になれ」
「え…………ぁ、あッ!」
 静かに天蓬の身体を背後に押し倒す。衝撃は花弁に吸収されて、辺りには花弁が俄かに舞い上がった。そして天蓬が動転してまだ抵抗出来ずにいる間に、彼の両膝が胸に付くほどに脚を持ち上げた。そこまできて、天蓬は自分が酷くはしたない格好をさせられていることに大きく抵抗を始めた。彼の力は並ではない。しかし捲簾の力はそれを上回っていた。蹴りを繰り出そうとする脚を片手で押さえ付け、彼に見せ付けるように震える陰茎を下から大きく舐め上げる。途端に彼の抵抗は弱くなった。次々に打ち寄せる快感をやり過ごすのに精一杯になってしまうからだ。はあっと息を吐きながら天蓬はきつく閉じていた目を薄く開いた。薄く開かれた目にいっぱいに涙が浮かんでいて、目尻に溜まって今にも零れ落ちそうになっている。何だか少しだけ可哀想な気がして、汚れていない側の手を伸ばして天蓬の額を撫でる。天蓬は静かに瞬きをした。溜まっていた涙は横に零れ、一枚の花弁がその雫をそっと受け止めた。
 脚を押さえ込みながら勃ち上がった熱を口に含み、そこから零れて流れ落ちた体液を絡めて後ろの窄まりを指で犯す。くち、ぷちゅ、と粘着質な音が途切れることなく響き、時折堪えきれないように漏れる天蓬の甘い声と重なり合って更に興奮を煽る。
「あ、っ、……ん、うぅ……」
 目だけで天蓬の顔を窺ってみれば、彼は上着の袖を必死に噛んで声を噛み殺していた。それが面白くなくて、後孔に含ませていた指をぐいと深くに押し入れる。窄まりは驚いたようにきゅっと指を締め付け、その反応に捲簾は小さく笑った。
「ちょっ……ッあ、だめです、って……!」
 指を引き抜こうすると、惜しむようにきゅうきゅう締め付けを感じる。それを無視して一気に指を引き抜くと、一際高い声が上がった。批難する視線を感じて苦笑しつつもさっさと自分のベルトを外し、ファスナーを下げる。屹立したそれを窪みに宛がうと、その視線の力はふっと弱まった。頭を起こして、気丈な眸に僅かの不安を浮かべて自分の方を見つめてくる天蓬に気付いて、すぐにも押し入りたい衝動を抑えながら腕を伸ばした。掌で額を撫で、指先で髪の毛を梳く。そして頬を撫でながらゆるゆると手を下ろし、顎の下を擽るように撫でてから手を離した。
「そんな顔、すんな」
「……何……?」
「泣きそうな顔してる」
 天蓬は、不思議そうに首を傾げた。無意識なのだ。突付いたら泣き出してしまいそうなこの表情は。しかしその表情は、窪みに軽く勃ち上がった熱を押し付けると、現実に引き戻されたようにはっとしたものになった。しかし、また軽く押し付けたり擦り付けたりを繰り返していると、徐々にその表情はとろりと艶を帯びてくる。細められた目がじわりと滲んだ。
「は、ぁ……、ん、ぁ、あぅぅ……」
 ゆっくりと、少しずつ挿入すると鼻に掛かった甘い声が思わずといったように零れ出る。その響きに心楽しく耳を傾けながら、僅かに挿入していた陰茎をすぐに抜き出す。すると突然の刺激に怯えたように後孔は窄まり、捲簾の動きを阻んだ。その反応に思わずにやりと笑うと、天蓬はそれを見咎めたように、苛烈な眸で悔しげに捲簾を睨み付けた。
「あ、……遊ぶのもいい加減にして下さい……!」
「遊んでねえよ。……こっちも結構必死」
 下腹部で息づく彼の熱に手を沿えると、その峻烈さはふと弱まった。先端の割れ目を親指の腹で撫で、茎を弄りながら、腰を進めていく。じれったい快感に、天蓬は苦しそうに顔を歪めた。それは自分も同じだ。出来ることなら乱暴に突き入れてしまいたいところだ。それを堪えて、じりじりと進める。そして、やっと根元まで入り込んだ。荒い呼吸を繰り返す天蓬を辛抱強く宥める。
「っ、は……あっ、……ッ、あぁ……ぅ」
「平気か……?」
「は……全然……っ」
 天蓬の手は微かに震えながらも捲簾の上着の胸をしっかりと掴んでいる。辺りに散らばった彼の黒髪は、すっかり桜の花弁に埋もれてしまっていた。額の上には、花弁が一枚くっついている。
 その彼の余裕の口振りは、捲簾が軽く腰を揺らすだけで途端に途絶えた。声を堪えるため唇が噛み締められるからだ。噛み締められて唇は赤く色付き、濡れて艶を帯びる。自然、吸い寄せられるように唇を重ねた。覆い被さり、身体を重ね合わせるようにして深くその唇を貪った。鼻先を、花の芳香が通り抜けていく。普段ならもう少し堪えて、余裕振っていられるはずだった。唇を重ね合わせたまま腰を緩く突き上げると、彼の喉の奥で小さな悲鳴が蟠り、くぐもった音となって耳に響いた。
「ぅ……んんっ、んうぅ……」
 初めはただ苦痛を訴えるようだったそのうめきに、甘い響きが混じるようになった。それを確認して唇を解放すると、空気を求めて彼の胸は苦しげに喘ぐ。ひくひくと震える胸に口付けると、弾かれたように彼は顔を上げた。いつもさらさらとした肌は汗ばみ、しっとりとしていた。胸の上に唇を滑らせ、赤く尖った突起に辿り着く。唇でそれを挟み込み、舌先で先端を舐めると、刺激を受ける度に細い姿態はびくんと波立った。
「……っ……ぁ、もう……いい加減に……ッ!」
「いい加減って、どのくらい?」
「はっ……?」
 怪訝そうに声を漏らす天蓬の意識が自分から逸れぬよう、再び軽く突き上げる。体内にある熱を否応無しに思い出させられたように、天蓬は鋭く高い声を上げてしまってから僅かに苦しそうに目を伏せた。そして苦しげに息を吐きながらゆるゆると頭を振る。
「そういう意味じゃ……っ」
 言葉尻は突然の風に攫われて、舞い上げられた花弁が周りでさらさらと音を立てる。話すことを忘れたようにただ目を瞠っていた天蓬は、風が止むと同時に夢から醒めたようにぱちぱち目を瞬かせた。そしてどこか悪戯っぽく笑って、捲簾の腕をちょんと小さく掴んだ。
「……何だか、悪いことしてるみたいですね」
「悪いことの方が楽しいだろ。楽しいし、気持ち良い」
 打てば響くように返った捲簾の返事に、天蓬は一瞬虚を衝かれたように目を瞬かせ、そして目を細めて声もなく笑った。薄っすら紅潮した頬に纏わり付く桜を指先で払い、そのままその掌を彼の頬に滑らせた。彼に覆い被さるようにして、胸を密着させて顔を近づける。
「気持ち良いことは、嫌いか?」
 悪には相応の魅力がある。天蓬は全ての悪を憎んで、善を気取る質ではない。それなりの欲望も持ち合わせていた。するりと両手を捲簾の首に回し、天蓬は静かに、圧倒されるほどに艶やかに微笑んだ。仕掛けた側のはずの捲簾の目が強く瞠られる。
「……気持ち良いことは、好きですよ」
 その少し掠れた甘い声は心を、身体を麻痺させた。動きは麻痺させられたようにぼんやりしておぼつかないのに、五感は異常なまでに研ぎ澄まされている。彼の、少し鼻に掛かった苦しげな吐息が頬に掛かる。捲簾の首の後ろに回された天蓬の手が何かに耐えるように握り締められる。見れば、余裕振っているようでいて彼の目は潤み、笑みは僅かに引き攣っているようにも見えた。彼の窄まりを押し広げ、中に息づいている熱を前後に蠢かせると、その余裕の仮面は一瞬にして消えた。眉は何かを堪えるように寄せられ垂れ下がり、いつも可愛げのない言葉ばかり紡ぐ赤い唇からは甘い声ばかりが漏れる。
「あ、っ……ん、ぁあああッ! ……! や、だめで、す……ぁ」
 内側を抉るように突き上げ、溢れる甘い声を口内に封じ込めた。舌を絡めて吸い上げながら、更に追い上げる。しがみ付いた彼の手の爪が僅かに首に食い込み、僅かな痛みを残していった。しかしそんな痛みも逆に興奮を助長する。どうせならば傷が残ればいい。そのまま消えなければいい、と思った。仰け反って露わになった天蓬の喉元に噛み付いて跡を残す。薄っすらと浮かび上がってくる赤い噛み跡に舌を這わせると、ビクンと身体を硬くした天蓬が一際高い声を上げた。彼の放ったどろりとした液体が二人の身体の間でぱたぱたと散った。
 絶頂の余韻に無防備な姿のまま身体を震わせる彼を、覆い被さるようにして静かに抱き締めた。そのまま暫く身体を震わせていた天蓬は徐々に落ち着いてくると、戸惑ったように捲簾の腕の中で身動ぎし、躊躇いがちに捲簾の名を呼んだ。






 大の字になって、空を見上げていた。青空を埋め尽くすように桜の花弁が舞い、時折それは顔に向かって舞い落ちてくる。それを鬱陶しげに払いながら、天蓬は耳を澄ましていた。花弁と花弁が擦れ合う小さな軽い音ばかりが耳に届く中、重い音が微かな振動と共に近付いてくるのに気付いた。近付いてくるその気配を感じながら、緩く目を伏せる。視界を閉ざしていても、その濃厚な気配はまるで肌を刺すようだった。段々と大きくなりながら近付いてきたその音は、ふっと天蓬の上に影が掛かると同時にぴたりと止まった。目を開けた先にいるのは、愛すべき愚か者だ。目を細めてそれを見上げる。桜色しか目に入らぬ空間の中で、唯一の漆黒がそこにある。
 天蓬は、無意識に腕を伸ばした。一瞬、驚いたように目を瞠った彼は困ったように、それでもどこか嬉しそうに笑い、グローブに包まれた手を差し出してくれた。その手を掴んだ天蓬は、それに掴まって起き上がるでもなく、自分の指を彼の指に絡めた。グローブから出た彼の指先は、硬くかさついている。それが、数々の傷痕が、彼が今まで経てきたものが半可なものではないことを示している。鮮やかなまでの強烈な黒。決して自分に叛かぬ眸。叛かない、というのも確かなことではない。しかしこれが彼への報酬だった。彼が自分にとって絶対的な価値のあるものであり続ける代わり、自分は彼に信頼を傾け続けること。
「……満足?」
「……ええ」
 彼の指先が天蓬の指先を軽く摘む。かさついたそれは天蓬へ小さな疼痛を残した。これから何度、この痛みと出逢えるだろう。
 下界の春は、もうすぐ終わる。










桜ネタが思い付かず、とうとう花弁に埋もれてみました。       2007/04/29