白雪のような肌を持つ姫だった。絹糸の髪、琥珀の眸と艶紅の唇の、繊細な細工の成された人形のような姫だった。
決して微笑まない姫だった。どんな高価な装飾物に囲まれても、どんなに愉快な芸を前にしても、いつも悲しげに俯いている姫だった。
王に、酷く歪んだ愛で愛でられた姫だった。そしてその王を誰より嫌った姫だった。
美しく、聡明で、孤独な姫。ただ静かに座っているだけで生きているのか死んでいるのか。失うものなど何もなかった。いつも一人、外界から隔離された部屋で本に目を落とす。時折羨望の宿る眸で外を眺め、そんな己を叱咤するように背を向ける。そんな姫だった。
初めてその顔を見たのは、月の美しい晩のこと。既に誰も住まっていないと言われていた、宮殿の片隅の緑に囲まれた小さな建物、その白いバルコニーに佇む天女を見つけたのである。物憂げな表情をしていたその人は自分の存在に気付き、すぐに雲隠れしようとした。ぼんやりとその姿に見惚れていた自分は慌てて、その去っていく背中に声を掛けた。それが始まりだった。そこから全てが始まっていたのだ。その瞬間に全てが決まっていた。何物にも代えられぬたった一つの恋も、自らの死や末路までも、全てはその瞬間に動き始めていた。
四度目の逢瀬で、初めてその人は呼び掛けに応じてバルコニーから降りて来た。白い薄絹を纏ったその人は、妙に現実感を伴わぬ不思議な存在として目に映った。そしてその人が、噂に聞く“王の人形”だと知る。それは、娘でありながら身も心も好きに弄ばれているという歳若い姫君だった。月下に佇むその姿は魔の使いにすら思えた。人間を誘惑する魔は、誰もが惑うような酷く美しい姿をしているという。しかし事実は、人形でも何でもなく、感情も持ち合わせた一人の見目の美しい人間だった。容姿はまるで王には似つかない。その理由については、その後彼の口から静かに聞かせられることになる。
「おかしなことだと思いませんか」
「何が」
「男なのに、こんな格好をさせられていること」
目を見開いた自分に、『彼』は楽しそうに、しかしどこか淋しげに微笑んだ。そんな彼を見つめながら、それほど驚いていない自分に驚いていた。特に男性的なわけではない。しかし、目立って女性的な面があるとも思っていなかったからだ。男性的な面と女性的な面を少しずつ持ち合わせているような不思議な印象だった。それもきっと彼にとっては屈辱的なことなのだろう。
そして彼がこの建物に一人住まわせられている経緯を聞いた。数年前に起こったクーデターの際に両親を失い、住んでいた町も壊滅に追いやられたこと、その後焼け落ちた町を彷徨っていたところを軍に捕らえられ、ここまで攫われて来たこと。そして、男でありながら『娘』として生活させられていること。彼はその以後のことは口にしなかった。しかし、それと自分が噂で聞いた話を組み合わせれば、この建物の中で何が行われているかは想像するに易かった。暴君と悪名高い王には相応しい、最悪の所業だった。彼は全て諦めている、と口にした。彼の歳はまだ十八だと言った。攫われて来たのは一体幾つの時だろう。クーデターが起こったのが六年前。彼が十一、二の頃だ。未来を諦めるには早すぎる。しかし、ここまで堕とされてしまった彼にそれを告げることは出来なかった。
それから幾度となく夜毎の逢瀬を交わした。しかし週に一度だけ、決してその建物に近付いてはならない日を教えられた。その日、その建物の中で何が行われているのか、分かっていてもどうすることも出来ず、その晩を祈る想いで過ごすことしか出来なかった。ああ彼がどうか傷付かぬよう。どうかどうか彼が痛みを感じずに済むように。涙を流さず済むように。
そして何度もの夜を越えて、初めて触れることを許された。誰も触れたことのない新雪のようなその頬に触れた瞬間、思わず指先が震えた。そしてふと、泣き出したいような気分に駆られた。その時は、それがどんな感情によるものだったのかは分からなかった。ただひたすらに、抱きしめてしまいそうな衝動を必死に堪えて手を引いたことだけを覚えている。柔らかく、体温もあった。そして衝動的に一度だけ唇を合わせた。ものの数秒のことだった。濡れたような光を持つ琥珀の眸が驚いたように自分を見上げ、その視線を受けて感触を思い出しては苦しいような感情に苛まれた。じくじくと鈍い痛みは心を苛み、甘い感傷へと変わる。迷ったが、思い切って好きだと伝えた。彼は嬉しそうに、少し恥ずかしげに微笑んでくれた。それだけで十分だった。愛していると伝えてみようか考えた。しかし、その言葉の重さに彼が潰れてしまいそうに思えて、その言葉は呑み込むしかなかった。
彼は本を読むのが好きだった。宮殿の書庫に置き切れなくなった本を運び入れてあるのか、建物の中には古い本が沢山あるのだという。日中は本を読んだり、小さな庭に出て転寝をしたりするのだと。退屈に違いない。本だって、いつかは読み終えてしまう。常春のこの国は季節の移り変わりもなく、庭の景色も変わることがない。いつまでも変わらぬ景色を見つめて、読み飽きた本のページを繰る生活とは一体どんな心地がするだろう。
「退屈だろう」
「ええ。でも、危険を冒すのにはもう懲りました」
何度も逃亡を試みてその度に痛い目に遭いました、と彼は明るく言った。しかし、相手があの王だと思えばきっと笑っていられるような生半可な“痛い目”ではあるまい。こんな生活に甘んじてでも受けたくないような屈辱や痛みを味わったのだろう。
一度だけ腕につけられた傷痕を見せてくれた。服の袖から覗く細い腕に真っ直ぐ伸びた、少し引き攣れた傷痕だった。その痕をそっと指でなぞろうとすると、彼は一瞬怯えたように腕を引こうとした。その様子を見て一瞬躊躇ったものの、それを振り切って傷痕に触れる。
「醜いでしょう」
「醜いのはこんなことをしたあの男だ」
反論の隙を与えずそう返すと、驚いたように彼は目を見開いた。そして、少しだけ悲しげに笑った。
ある日、噂で“王の人形”は“天蓬”という名前なのだと聞いた。その晩、本人に確かめてみると、彼は少しだけ辛そうな表情を浮かべて、その名前は嫌いなのだと言い、笑った。どうせ使うものは王しかいない、自分を呼び寄せる時に使う記号なのだと。彼の苦悩は十分分かっていたが、折角の美しい名前を勿体ないと思った。一度そう伝えてみた。少し驚いたような顔をした彼は、それでも少しだけ嬉しそうに微笑んでくれた。この世のものとも思われぬ花が花開いたようだった。それから彼はその名を呼ぶことを許してくれた。
白い肌に、自分を真っ直ぐに見つめて来る眸に、何度も抱いてしまいたい衝動が湧き上がった。しかしもし痕跡が少しでも残って、それを王に勘付かれたら二度と彼と会うことは出来なくなるだろう。そして彼は今まで以上に手酷く抱かれるだろう。彼をそんな状態に陥れることだけは出来なかった。時折、夜着の隙間から覗く彼の肌に痣や包帯が見え隠れするのを知っていた。自ずと、彼がどんな酷い行為を受けているかが分かり、歯痒くなる。その頃は国内も、酷薄な暴君である現在の王に統治され、恐怖政治で非常に殺伐とした状勢になっていた。昔のような穏やかな国は、彼が両親と共に幸せに暮らしていた国は、もうどこにもない。
「逃げたいと、思わないのか。こんな窮屈な場所から」
「逃げたら、あなたに会えなくなってしまいますから」
思わずくらりとして、隣に座る薄い身体を抱き締めた。確かに実体が温かさを伴ってそこにあるのに、夢の中にでもいるような気分になるのが不思議だった。目覚めたらいつも通り、自室のベッドの上で横になっているのではないだろうかと不安に駆られて止まなかった。どこからか甘い梔子の香りがした。いつまでも夜が明けなければいいのに、と思った。明けぬ夜などあるはずがないのに。
あの男は週に一度、従者を二人連れてこの小さな建物を訪れる。そして出入り口をその二人に固めさせ、欲望にぎらついた目でこちらにじりじりと近付いて来るのである。抵抗するのにも疲れた。抵抗すれば傷が多くなるだけだと流石に学習した。週に一度こうして我慢をすれば後の六日間はゆったりと過ごすことが出来る。食料は昼間の内に従者たちが運んでくることになっている。幾度か、その従者に襲われそうになったこともある。しかし、次に王が訪れた際にそのことをさり気なく告げ口したら、その従者は次の日からぱったりと姿を消した。何て便利な、と笑った。そして何て残酷なことをしているのだろう、と思った。しかし当然の報いだとも思った。敷地内から出ることも許されず、この男に弄ばれ続けている自分に、更に無体を強いようなどと考える愚か者など消えればいい、と本気で思っていた。自分はもう性根が腐ってしまっている。今更解放されたところで行くあてはない。どうせ、ここから出されても行く場所もなく野垂れ死ぬだけだと、そんな風に考えていた。
そんなある日に、彼の人に出会った。呼びかけられても暫くは不信感もあり応じることをしなかった。それでも彼は毎夜ここへ訪れた。そしてそんな夜を重ねるごとに彼に導かれ下へ降りるようになり、言葉を交わし、少しだけ触れ合うようにもなった。王に隠れての密やかな逢瀬だった。危険を冒してまで何故彼が自分に会いにきてくれるのかは分からなかったが、どうしてか彼の訪れを待つ時間は心が躍った。用事があって彼が訪れない夜は淋しかった。人目を盗むようにして訪れる彼は、いつも優しく自分を呼んで両腕で抱きしめてくれた。彼は自分が、週に一度この建物の中で何をしているのか知っているはずなのに。
自分の噂がどんな風に宮殿の者たちに伝わっているか知っている。王の娘でありながら別邸に隔離され、好きに身体を弄ばれていると。そして透けるような白い肌で、白雪の姫と呼ばれていることを。誰も知らない。王の娘でもない。女ですらない。白い肌は建物から出してもらえないせいだ。国民も従者たちも、そんなこと、誰も知らない。白雪の君ともてはやされるその美姫が、クーデターの混乱に乗じて国から攫われて来た男児だなどと誰が信じるだろうか。
父も母も反乱軍の攻撃に巻き込まれて亡くなった。そして絶望の中、廃虚と化した街を一人で彷徨っていた際に数人の軍人たちに囲まれ、捕らえられた。その時は何も分からなかった。ただ単純に殺されるのだろうと考えていた。しかし連れ帰られた先で見たものは、死よりも受け入れ難い事実だった。豪華絢爛な女物の衣服。何も知らずに『王の娘』へと接する従者たち。見たこともないような豪勢な食卓に、自らの足元に傅く沢山の軍人たち。そして自分が攫われたのだと気付くのにそう時間は掛からなかった。髭面の王は最初は優しかった。しかし自分は娘ではないと喚こうとすれば手を上げられ、部屋の中に軟禁された。行為を拒否しようとしても力尽くで押さえつけられた。命を絶つことも許されない。逃げることも。これは悲劇だった。徐々に表情を失っていく天蓬に、従者たちが付けた徒名は白雪。綿雪を削り取ったような白い面は日を増す毎に翳りを増していった。そしていつからか、宮殿から敷地の端に建てられた小さな建物に住まわせられるようになった。その理由は、王と一部の従者しか知らないこと。週に一度、月の輝く頃に訪れる男は舐めるように天蓬の身体を眺め回し、そして手を伸ばしてくる。いい加減慣れたことだった。
「ああ……お前はいつ見ても美しい、どこもかしこも……」
男のざらついた手の平が太腿の内側をゆるゆると撫でていく。ぞっとする感覚に思わず息を呑みそうになったのをすんでで堪えた。確かな寒気と嫌悪を感じたが、懸命に奥歯を噛み締めて堪える。彼の身体は歳の割に元気だ。その割に技術は高いとは言い難い。そのため、ただ乱暴に突き上げられる行為に快感を見出すのにも一苦労だった。しかし自分が達さなければ、そしてそれを言葉で嬲らなければ彼は満足しない。彼が満足しなければそれだけ自分の身体に負担が掛かる。彼の前ではいつも彼好みの淫らな変態でいなければならない。だからいつも、激痛の中に潜む小さな快感を何とか頭の中で増幅させるのに必死だった。いつも汚れていくシーツに縋りつき、奥歯を噛み締めて、早く、どうか早くこの夜が明けるようにと願うばかりだった。
しかし今は少し違った。目を伏せれば、その稚拙な愛撫からも自然に快感を追うことが出来る。身体を滑る指先を、この男ではなくあの人だと思えばいい。あの人だったらどんな風に触れるだろうと思うだけで、背筋に甘い痺れが走った。それは、この男を使った自慰でしかなかった。あの人はこんな身体に興味など示さないだろう。きっともっと美しく愛らしい女性を好むはず。そう思えば小さな罪悪感が芽を出して天蓬の心を苛んだ。それでも想像するのは自由だと自分に言い聞かせる。指の感触も、舌の感触も、荒い息使いも、目を瞑ってしまえば瞼の裏で相手は好きに挿げ替えられた。醜く、最低の行為だ。自分自身が醜くて吐き気がした。
ふと、一体自分とこの男とどちらがより醜いだろうと気になって、目を開いて自分の腿にしゃぶりつく男の顔を見下ろしてみた。とても愚かで、何故か少しだけ可哀想な気がした。自分などに固執して大罪を犯した、馬鹿な男。自分を手に入れるために、自分の生まれた町を態と壊滅させ、罪もない父と母、優しかった町人たちを殺した敵(かたき)。
この男は、この身体が彼を想って熱く濡れることを、知らない。
ある晩を境に、彼はバルコニーに現われなくなった。体調でも崩しているのだろうか、と思いながらも嫌な予感を拭いきれずにいた。そんな朝、突然王の側近に呼び出された。王から直々に話があると。自分のような一介の猟師に一体何の話があるのだろうと考えた時に、思い至ったことは一つだけだった。ああ、ばれたのだと思った。しかし心は妙に静かで、このまま死ぬなら仕方がないと覚悟を決めた。十分、贅沢な時間を過ごした。どうせなら最後に一度だけあの顔を太陽の下で見てみたいと思ったが、そこまでの贅沢は言うまい。
簡単に自室の整理をして、謁見の間へと向かった。しかしそこで話された内容はまるで予想とは違うものだった。王は怪我で伏せっているという。そしてその怪我を負わせたのが別邸に隔離された白雪だというのだ。自分に課せられた任務は、森の奥へ白雪を連れて行き、猟銃で殺すこと。さもなくばお前をも殺すと脅しをかけられたところまでは覚えているが、それ以後の会話は覚えていない。気が付くと自室のテーブルの前で呆然と立ち尽くしていた。この夜が明けたら彼を連れて森の中へ行って、彼の無防備な背中を撃つ。何度も。そうして証拠に内臓でも引き摺り出して皮袋に詰め、持ち帰ればいい。事切れた彼の眼球でも抉り出して持ち帰ればいいのだろうか。
(馬鹿な)
そんなことが出来るはずがなかった。すっかり外は暗い。黒く染まった窓に映った自分は泣いていた。ぱたぱたと雫が零れて、頬を、服を濡らしていく。自分が何か悪いことをしたのか。彼が何か悪いことをしたのか。明けぬ夜があればいい。この夜がいつまでも続けばいい。次に日が昇ったら死にに行かねばならぬ姫を闇の中に閉じ込めて欲しい。もし殺せたとして、そのまま自分は生きていくのか。そんな大きな咎を背負って生きられるのだろうか。しかしそれこそ机上の空論だった。そもそも殺せるはずがない。長年あの箱庭の中で過ごして来た彼は、きっと久しぶりの外界に喜ぶだろう。そんな姿を見て、銃口を向けられるはずがない。もし向けた銃口に彼が気付いたら。どんな顔をするだろう。裏切られたと思うだろうか。絶望した顔をするだろうか。軽蔑の眼差しを向けるだろうか。その目を向けられることが怖かった。
それでも夜明けは訪れる。
ブーツの紐を何度も念入りに結び直す。そして猟銃を携えていつもの建物へと向かった。日の高い内に彼に会いに行くのは初めてだった。建物の前に辿り着くと、玄関の前で天蓬が従者二人に囲まれているのが見えた。従者たちは自分が到着したのに気付いて顔を上げ、少し悲しげに目を伏せた。そしてその時、従者たちの中にも彼を憎からず想っている者たちがいるのだということを失念していたのに気付いた。彼らも、二度と天蓬がここに帰って来ることはないということを知っているのだ。天蓬は顔を上げ、こちらに向かって歩いて来た。名残惜しげにする二人に目配せをして、彼を連れて敷地を出た。空は抜けるような青空だった。彼は、突然下りた外出許可に訝しげな顔をしていた。当然だ。まさか、自ら殺されるために鳥篭を出るのだなどと、考えもしないのだろう。
天蓬が王に怪我をさせたのは二週間前。それからは今日の計画を知られぬために、従者たちは何事もなかったかのように彼に接していたらしい。怪我をさせたとは、何故、どうやって。どうして、あの王の逆鱗に触れるようなことをわざわざしたのだ。今までそうやって静かに王の陰に隠れて難を逃れて暮らしてきたのではなかったのだろうか。どうして今なのか。彼が王に陵辱されることに目を瞑ってでも、穏やかな日々が続けばと願っていたのに。そう思い掛けて、何て酷いことをと自己嫌悪に陥った。そのことが彼にとってどれだけ苦痛かどうかなんて自分には分かりもしないのに。
会話は続かなかった。自分の罪悪感が重く圧し掛かって口を開くことを躊躇わせていた。どんなに言い訳を重ねても自分が彼を裏切り殺すことになるのは事実だった。猟銃を掴む手が震えた。天蓬は物珍しげに木々を眺めながら少し後ろを歩いて来る。やっと鳥篭から出られた美しい鳥をこれから狩るのだ。その羽根をもいで二度と飛べなくする。そしてふと、先程まで後ろを歩いていた彼が立ち止まったのに気付いた。立ち止まり、振り返って声を掛ける。
「天蓬?」
「あの鳥は何ですか」
「……あれは、メジロ」
天蓬の指さした木の枝には、小鳥が何羽もぎゅうぎゅうになって止まっている。おもちゃの人形のような愛らしい光景だ。天蓬がその姿に少しだけ顔を綻ばせるのを見て、ふと冷静になった。先程から、“殺すこと”を前提に物事を考えていた自分が恐ろしくなった。愛した相手を殺すことをこんなにも冷静に。そう考えた途端、じわりと自分の目に涙が浮かぶのに気付いた。いけない、おかしく思われると袖口で目を擦る。そして天蓬が振り向く前に慌てて腕を下ろした。彼は本当に嬉しそうに微笑んでいた。
「あっちにも行ってみていいですか」
拒否など出来るはずもなく、あっちこっちと珍しいものを見に行きたがる天蓬に付き合った。珍しい色の鳥を眺めたり、小川に手を浸してみたり、花を観察したりと彼の好奇心には終わりがなかった。黒の絹糸が風に靡いて、木洩れ日を弾いた。頬に掛かったそれを白い指先が掻き上げる様を、泣きたい気分で見つめていた。このままずっとこうしていたい。あの暴君の目の届かないところで二人きりで暮らしていられたらいいのに。花々の咲き誇る中に座り込んでいた天蓬が顔を上げた。今までに見られなかった、太陽の下での笑顔だった。これが見られたら自分はどうなってもいいのではなかったのだろうか。
「天蓬……あのな!」
「もう少し待って下さい」
「え」
彼の笑顔は揺るがなかった。
「もう少ししたら覚悟が出来るので」
そう言って、暫く彼は俯いた。彼は何を言っているのだろう。何の覚悟? そんな綺麗な、穏やかな笑顔で何を言う? 笑顔のまま引き攣った自分を、天蓬は見ることはなかった。風が吹いて花々を揺らしていく。膝が震えて、頽れてしまいそうだった。
俯いていた彼が、徐に草むらの中に置かれていた猟銃を手に取る。そして銃身を掴み、グリップの方をこちらに向けて差し出して来た。唐突なことに戸惑いながらもそのグリップを掴むと、彼は穏やかに微笑んでその銃口を自らの喉に押し当てた。丁度、自分が彼の首に銃を突き付けている格好になっていることに気付き、慌てて銃を引こうとした。しかし彼の力は存外強く、銃は微動だにしない。
「何を……!」
自らの喉元に銃口を突き付けた彼は、いつも通りだ。今自分の手元が狂えばこの瞬間に死ぬかもしれない人間のする表情ではない。満たされた、幸せそうな表情だった。それはとても綺麗で、しかしぞっとするほどに浮世離れしていた。暫く静かに自分を見上げていたその琥珀は楽しそうにきらめいて細められた。そして紅い唇が小さく動いて、密やかな声を紡ぐ。
「あなたと過ごした間だけ、人間として生きられた気がします」
そんな顔をして、どうしてそんなことを。
「殺して下さい、僕を」
「どうして」
「どうしても何も……王の命(めい)なのでしょう。それくらい、分からないほど無知ではありません。僕があの男に傷を負わせたから」
聡明な彼が、このことに気付かないはずがなかったのだ。ならば彼は殺されるつもりで森に付いて来たのか。自分に裏切られると知っていて黙って後ろについてきたのか。グリップを握る手が震えて止まらない。しかし黒光りする重厚な銃身を掴む彼の白く細い指先は震えることも緩められることもなかった。
「死ぬ前に、あなたにもう一度会えるならそれでもいいかと思いました」
泣きたい。かと思えば、笑い出したい気分にもなった。皮肉な喜劇のようだ。どうしてこんなことに。
「これまでの命だったのです」
「止めろ」
「人差し指を少し動かすだけですよ」
「止めてくれ」
「泣かないで。……優しいですね」
「黙れ!」
彼の手から一気に銃身を抜き取り、銃を遠くへと投げ捨てた。茂みに重い物が落ちる音がして、永遠とも思える沈黙が広がった。
腕の中の彼が驚いたように身体を強張らせた。長身の割に細身なのはあの建物に閉じ込められて筋力が落ちているせいだろうか。薄い背中に両腕を回して強く抱き寄せた。さわさわと風が草花を揺らしていく。草の青臭さに混じって彼の匂いが香った。
殺さない。殺すことなど出来はしないと悟った。彼を殺すことは己の命を絶つこと以上に難しく苦しいこと。初めて、自らの死でなく“他人の死”に恐怖を覚えた。それは足が竦んで震えて、泣き出してしまいそうなほどの恐怖だった。
「逃げろ。二度と城下に来るんじゃない」
「え」
「逃げて、二度と会えないほど遠くまで行くんだ。王は……俺がどうにか誤魔化す」
驚いたように彼の両腕が自分の胸を押しやった。そして信じられないというような目でこちらを見つめて来る。
「何を……」
「代わりに獣の内臓でも持って帰る」
「そんなもの、見る人が見ればすぐに分かってしまいます! そんなことになったらあなたが」
「目晦ましにはなるだろう」
あの王がそんなに生易しい相手ではないことくらいは分かっていた。もしもばれたら、その時には死をも覚悟していた。昨日、一度は諦めた命だ。彼のためにどんな末路を辿ろうとも苦ではない。彼が、どんな場所でも生きていてくれたらそれで構わない。ただ我儘を言うならば、記憶の片隅にでも自分を留めておいてくれたなら、と思いもする。しかし彼にとっては嫌な記憶にしかなり得ないだろう。
腕の中の体温が名残惜しかった。しかし、刻々と時間は迫ってくる。日暮れまでには森を出なければならない。それに彼も真っ暗になってしまえば森の中で身動きが取れなくなってしまうだろう。ならば、もう行かねばならない時間だ。
「日が暮れてしまう前にもっと奥へ行け。そうすれば実のなる木や、泉がある。そこで夜を明かすといい」
「でも」
「もう時間がない。立て」
両腕で細い身体を引き剥がしてから勢い良く立ち上がり、草むらに隠れている猟銃を拾い上げて、もう片方の手で天蓬の腕を引いて立ち上がらせる。そしてそのままその手を離そうとした。しかしその手は彼の冷たい手に引き止められて止まった。ゆっくりと顔を上げて視線を合わせる。厳しい目だった。しかし取り残されるのを嫌がる子供のようでもあった。
「いけません」
彼の言葉尻が震えていた。いっそ握り返してしまいたいのを何とか振り切って、自分の手から彼の手を引き剥がして下ろさせた。何となく目を合わせられないまま、顔を背ける。日が段々と落ち初めて、草むらの上に二人の影が長く伸びている。
「もう行かないと」
「どうして、こんなことをするんですか」
少し責めているようにも聞こえる口調で問われて、曖昧に笑うことしか出来なかった。どうして、と言われて、どう答えていいのかなんて分かりはしない。自分の中でも答えはしっかりとした言葉になってはいないのだ。小さく笑って顔を上げた。きっと情けない笑い顔になっているだろう。しかしそれを気にする余裕もなかった。ゆっくりと手を伸ばしてそっと彼の黒髪を梳くと、さらりと零れた絹糸が艶やかに夕日の紅色を滑らせて頬に流れて落ちていった。白い頬に赤い光が伸びて、頬が僅かに紅潮して見えた。
我ながら卑怯だ。こんなことをすれば、確実に彼の中に自分の名前が残る。それは確実な痛みを伴い、一生治らない傷口になるだろう。その傷口はいつまでも彼を責め苛んで、血を流し続けることになる。
「愛してるから」
何気ない口調で口にした言葉は、ストンと心の曖昧なままだった箇所に収まった。案外簡単な言葉で説明が付いてしまったような気がする。目の前の天蓬の眸が大きく見開かれた。明るい琥珀に夕焼けが映り込んで美しい色を作り出していた。
最後に何か気の利いた言葉でも、と考えた。しかし唇は震えて、言葉は何も思い浮かべることが出来なかった。これ以上ここにいては決心が揺らぎそうで、思い切って彼に背を向けて歩き出した。背後の彼が一歩足を踏み出した気配を察して歩調を速める。足に引っ掛かってくる草花を蹴る勢いで歩く。ふと、頭上の木々が揺れた気がして顔を上げる。夕焼け空の中、小鳥が巣へと向かって飛び立っていくところだった。先程天蓬が嬉しそうに指差したメジロだった。
ずっと鳥篭に閉じ込められていた美しい小鳥を、森に解き放ったのだ。元気に生きてくれるだろうか。それとも。どちらにしても自分はそれを見届けることは出来ない。報いは受けるつもりだった。森の終わりに近付いて、町の光が目に付くようになってきた。ふと、足を止めて森を振り返ってみた。夕闇がもうすぐ森を全て覆い隠してしまうだろう。
これが最後だった。どうせなら、もう一度キスしてくればよかった、と後悔した。
+++++
ゆっくりと目を開いた先にいたのは、金髪に強い光のアメシストの眸を持つ青年だった。見覚えがあるような、と思いながらも思い出せず戸惑っているうちに、わらわらと小人が泣きついてきて一気に考えは遠くへ飛んでいってしまった。随分長い間眠り続けていたらしい。その自分がやっと目覚めたことに取り乱していた小人たちが落ち着くのを待って、天蓬は青年に向かって問い掛けた。そしてややあって返って来た言葉にやっと記憶の抽斗が見つかる。幼い頃に一度だけ晩餐会で見たことのある、隣国の王子だった。
「どうしてあなたが、ここに」
「……そこのチビどもに無理矢理連れて来られた。お前が倒れたまま目覚めないとな」
チビと呼ばれて怒った小人たちが王子に向かっていこうとするのを引き留めつつ、天蓬は立ち上がった。そして改めて自分の横たわっていた棺桶を見下ろしてぞっとした。もしも王子が通り掛からなかったらこのまま棺桶の中で死んでいたのだろうか。死ぬことへの恐怖などないはずだったのに、いざ突きつけられた現実に身震いした。生への執着がうまれ始めているのには薄々気が付いていた。あの後、彼の後を追うことも出来たのに自分は森の奥へと逃げた。彼の優しさに甘えて一つの命を見捨てたのだ。
小人たちを適当にあしらっていた王子は、俯いて棺桶を見下ろしたまま動かない天蓬に眉を動かした。
「どうかしたのか」
「国は、どうなっていますか」
「何ら変わらん。領土を拡大しようと今は息を潜めているだけかも知れんが」
国のことはどうでもよかった。彼がどうしているのかが知りたかった。しかし、隣国の王子である彼が、一猟師がどうなったかなどと知るはずがない。きっと殺すにしても、周りに気付かれぬよう内密に行われるに違いない。
「僕の噂は流れていますか」
そして思わず僕と言ってしまったことに気付いたが、今更撤回する気にもならなかった。ばれても仕方がない。一瞬驚いたように目を瞠った彼は、それでもそれについて言及することなく緩く首を振った。
「全く。……しかし、逆に全く噂が流れないことに対して訝る者もいる。姫はもう王に殺されてしまったのではないかとな」
「……そうですか」
そう天蓬が答えたきり、彼は口を開かなくなった。さわさわと草が風に煽られる音だけが辺りに響いていた。二人の間に漂う只ならぬ空気に、気を利かせたのか何なのか、小人たちはいつの間にかどこかへ消えていった。といっても、その辺りで聞き耳を立てているような気がするが。ちらりと上目で王子の様子を窺ってみる。草を食む馬の背を撫でていた彼は、その視線に気付いて訝しげに振り返った。
「訊かないんですね、何も」
「……聞いて欲しいなら言えばいい。進んで話そうとしないことを訊くつもりはない」
見た目の冷ややかさそのものの素気なさに少しだけ唇を尖らせる。彼の言うことは何も間違っていない。しかし意地の悪いことを言う王子だった。この様子だときっと未だに色恋の一つもしたことがないのだろうなと思いつつ、天蓬は小さく溜息を吐いて俯いた。何だかんだ言っても彼の言う通り、聞いて欲しいだけだった。
「それじゃあ、話したら聞いてくれるんですね」
『姫』にされた経緯、そしてこの森へと来た経緯を話し終えた天蓬はすっきりとした顔で伸びをした。逆に話を聞いた王子は元から面白くなさげな表情をますます固くして何か思案し始めた。蓋のされた空の棺桶に腰掛けた天蓬は、手持ち無沙汰になって素足をぶらつかせながらその固い横顔を眺めていた。
「お前は、その猟師に会いに行くつもりなのか」
「可能なら」
「あの王に叛いたのだ。……その男、無事でいるかは分からない」
「それでも」
会いたかった。自分でも、あの無情な王に掛かって彼がまだ生かされているとは思っていない。生きて再び会えるとは夢を見ても思えなかった。あの笑顔を見られれば何よりよかったが、叶わないのならせめてその墓前に参りたい。そして、そのまま死んでしまいたかった。
たった一つの恋だった。たった一人、自分を人として愛してくれた。何も与えることの出来ない自分を大切にしてくれた。そして自分を逃がすために自ら死を選んだ。愚かな人。しかし不器用なほどのそれが愛おしかった。何度も抱きしめて、言葉を素直に受け取れない自分に好きだと何度も囁いてくれた。そんな彼に、一度も愛していると伝えられなかった。たった一度だけのキスをした晩をよく覚えている。彼は少し緊張していた。熱くて、少しだけ苦かった。そうして、少し固い声でもう一度、好きだと言ってくれた。あのまま死んでしまえるほどに嬉しかったのだ。それなのに。彼は死んだろうか。ならば彼と一緒に城に帰って、一緒に殺されてしまえばよかったのかも知れない。いや、自分が城に帰って、彼の命乞いをすればよかったのだろうか。どちらにしても、もう遅い。
「会いたいのです。……たとえあの人が亡骸になっていたとしても」
王子の紫の眸に真っ直ぐ射抜かれる。しかし天蓬は臆することなく王子を見つめ返した。二人の間を吹き抜けた風に、王子が先に目を伏せる。そして諦めたように首を振るった。さらりと風に倣って長い金の絹糸が揺れ、光を弾いた。優しい人だ。天蓬の態度に、そしてこれから天蓬を待っているであろう末路を、まるで自分のもののように考えて傷付いている。きっと彼は善き王になり国を繁栄させるだろう。きっとあの国のようにはならない。
静かに天蓬を見つめていた王子は、ゆるゆると首を振って溜息を吐いた。呆れているのだろうか。
「お前が良いなら、そうするといい。しかし、相応の覚悟は要るぞ。その男を見つける前にお前が見つかったら、終わりだ」
覚悟などあの夜に既に決まっていた。闇の中に浮かぶ光を湛えた毅き眸に、きっとこれが最初で最後だと悟っていた。だからいいのだ。他に命を懸けられるものなどない。何でもいい、この命が何か意味を持ったものであると思いたかった。
全てを諦めてバルコニーに立ったあの晩、本当はあそこから飛び降りて死んでしまおうと思っていた。その夜、偶然にも彼が現れたのである。少しだけ話をしただけだったが、また会いたいと言ってくれた。初めて、他人から身体以外のものを求められた日だった。その夜毎の逢瀬を重ねて今自分は生きている。この命はあの晩、自分があのバルコニーから投げ捨てたもの。そして彼が大切に掬い上げてくれたものだ。他の誰のものでもない、彼のもの。ただの記号でしかなかった自分の名前を美しいと言って、優しく自分を呼んでくれた。そして最後に、愛していると言ってくれた。
彼の素気ない言葉の中に切実な気遣いが籠もっていることが少しくすぐったくて、不安げな顔をする彼を見上げて笑って見せた。
「……ええ。それでも僕は、行かなくちゃ」
不安げな顔をしていた彼は、天蓬が笑うのを見て少しだけ表情を緩めた。そして小さく笑って俯く。彼が少し足を動かすと、足元の草花が揺れて、かさりと音を立てた。
「変わったな」
「はい?」
「……いいや」
最前の言葉を聞き逃して首を傾げた天蓬に、彼は首を振る。馬の尾がゆっくりと春の風に揺られていった。
Janne Da Arc -- 月光花 2007/02/26
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