川縁に立ち尽くす男一人。軍靴で砂利を踏みしめてしゃがみ込み、手近にあったごつごつした黒曜石を拾い上げ、暫く掌の上で転がした。そしてそれをそっと川に投げ込む。深くまで沈み込む音と共に、ぱしゃん、と軽い水音が立って、川面にゆらりゆらりと波紋が広がっていった。その波紋がすっかり消えてしまうまでじっとしゃがみ込んで川を眺めていた男は、背後から砂利を踏む足音が聞こえて来るのに気付いてゆっくりと立ち上がった。
「……天狼(てんろう)」
「御無沙汰しておりました、元帥閣下」
 青みがかった銀の髪色が暗闇の中で星々に照らされて一際輝く。生真面目そうな面差しの中で、深い蒼の眸が静かに天蓬を映している。それを見つめ返して微笑む天蓬に、彼は再び一歩近付いて徐に地に片膝をついた。そしてそっと差し出される白い手を恭しく取り、僅かに触れるだけの口付けをした。たった数秒のことだというのに、時が止まったかと思われるほど永遠と思える時間だった。
 天狼星の化身である彼と天蓬が初めて出会ったのは、天蓬のふとした気紛れからだった。同僚である恋人と仲違いをし、部屋にいたくなかった天蓬が思い付きでこの川を訪れた時のこと。基本的には、下界が夏の頃にしか立ち寄らない川だった。星祭りの一切を任されているためだ。下界が冬であるその時期には川に用はないのである。先程と同じように川縁にしゃがみ込み、俯いていた天蓬を慰めるようにちらちらと星の光を輝かせてくれた。そして夏には出会うことのない彼は、静かに、少し恥ずかしげに姿を現したのだった。
 天蓬がすっと手を引くのと同時に青年――――天狼は立ち上がる。緩く吹き付けて来る風に彼の前髪が揺らめいて、きらきらと輝いた。それを楽しそうに眺めながら天蓬はそっとその前髪に手を伸ばす。一瞬驚いたように目を瞠り、そして少し恥ずかしげに顔を伏せる彼にくすりと笑った。冷たくて、少し硬質な髪に指を絡ませてみる。
「綺麗ですね」
「……綺麗だなどと」
 自分より遥かに背の高い男が頬を薄く染めて口篭る姿は、何だか大きな子供のようでもある。手に取った彼の髪は、掌の上でちらちらと光を散らす。字面通り、星の欠片を掴んでいるのである。淡い蒼の光を手に、少し不思議な気分になった。
「下界は冬ですね。そろそろ逢えるのではないかと思って、来てみたんです」
 そう言って天蓬が手を離すと、彼は色付いた顔を前髪で隠すように首を振るった。その大きな体格に見合わぬ照れ屋なところがおかしくて、ついついいつもからかってしまうのである。少し背伸びをして彼の頭を撫でる。
「天狼、下界の様子はどうです?」
 その時、天蓬の声質が僅かに固くなったのを敏感に感じ取ったのか、天狼ははっと顔を上げた。そしてその整った鼻梁を僅かに歪めて緩く首を振った。その様子に天蓬は少しだけ落胆する。
「迷走していると言うのか……天災は続発し、妖獣は何処からともなく現れては次々に人里を潰して行きます。何か、只ならぬものを感じます」
 天蓬がふと顔を顰めたのを目敏く見つけ、天狼は更に言い募った。
「星達が近頃よくざわめくのです、何か、起こってはならない……何かが起こるのではないかと」
 硝子越しに天狼の顔を静かに見つめていた天蓬は、そっと溜息を吐いた。いずれ彼も知ることだ。しかし、最後まで彼には知らないままでいて欲しかった気もする。自分でもよく分からないそれを首を振って振り払った。確かに、起こってはならないことだ。少なくとも、この変化を好まぬ天界では。しかしこれは、起こるべくして起こる事態でもある。彼はきっと悲しむだろう。だから黙っていたかった。
 何も知らずに安穏とした生活を続けていることは幸福でもあり、残酷でもある。
「僕はきっと、もうあなたとこうして逢うことはないでしょう」
 覚悟していた言葉だったのか、天狼は思ったほどには驚かなかった。しかしふっと悲しげに目を伏せる。風に揺られた髪の先から青白い星の光が零れ、同色の睫毛が光を弾いた。
「あなたは、どこへ行くのですか」
「行けるところなら、どこまででも」
 はっきりと言い切る天蓬を静かに見つめていた天狼は、自分が何を言っても彼はきかないだろうとその白い面に諦めの色を浮かべた。
「私に、口出しの出来る問題ではありませんね」
 すっかり拗ねてしまったような口調に小さく笑って、しかしその怒りも尤もだと反省した。今まで幾度となく顔を合わせてきたのにそのことについて一切匂わせることはなかった。彼に火の粉が掛かることを避けたかったからだ。犠牲は最小限、自分と馬鹿な上司一人に留めたい。何も話さないことが最初で最後の彼への裏切りとしても、それを遂行するつもりでいた。それなのに自分は今ここにいる。
 凪いでいた川面が俄かに揺れ始め、深い水の色をしていた水面が俄かに紅く色付き始めた。驚いた天蓬が顔を上げるも、天狼は何事もなかったかのようにその揺れる水面を見下ろしている。諦念の浮かぶ蒼の眸が、紅く染まった水面を映し出した。
「下界でまた騒乱が起こっているのです」
 静かなその声に、天蓬も倣って水面を見つめる。その紅がまるで下界で流れた血のようで、ぞっとした。それを日々見つめ続けている天狼は、いつも心を痛めているのだろう。もう、戸惑っている時間はないということだ。一刻も早く止めなければならない。

「……同じ、“天”の字を持つものとして約束して頂けませんか」
 ぽつりと呟くように言った天蓬に、天狼ははっと顔を上げた。暫く俯いたままでいた天蓬は、ゆっくりと顔を上げて天狼をじっと見上げた。
「僕がこの天界から堕とされようとも、魂ごと消え去ろうとも、変わりなくいつまでも“天”から下界を見守ってくれますよう」
 ザザ、と風が吹いて、穏やかな川面が乱される。紅く染まっていた水面は、段々と元の色へと還っていく。小さな戦乱の芽は潰しても潰しても増殖を続ける。それは天狼もよく分かっていた。天からいつも、彼ら天界軍が戦っている様を見つめていた。そしてそれが遅すぎることも、手が全く足りていないということも知っていた。
 川縁にしゃがみ込む姿を見たのが始まりだった。その美しい人は榛色の眸に物憂げな色を浮かべて、小さな石を川に放り投げていた。自分が星色を煌かせてみせると、その少し傷付いたような顔を上げて、子供のように微笑んでくれた。
「……私は、いつまでもこの地からあなたの行く末を見守っております」
 今までもずっとそうしてきた。これからも、たとえ彼が何処へ行こうとも。そして、これからも。
 真剣に言ったつもりが、彼はその言葉に小さく笑ってゆるゆると首を振った。そして少し痛いような表情をして俯く。
「僕のことはいいんです、だから……」
「私には見守ることしか出来ないのです。あなたの恋人のように、最期を共にすることも叶わない。だから、これだけはお許し下さい」
 自分はここから離れられない。ただ遠く、この地から彼の姿を見守ることしか出来ない。
「あなたの喜びの日も、あなたが冷たい雨に打たれる日も、いつも私はあなたを見守っています」
 瞠られた榛の眸が僅かに揺れて、自分の姿を映し込む。
「お慕いしておりました。あなたが私を知る、ずっと前から」
 一歩天狼が踏み出すと、足元の石がじゃり、と音を立てる。戸惑ったように見上げて来る天蓬の頬に触れる。いつもこの人はからかうように自分に触れてきた。自分から彼に触れるのは初めてだった。温かい、肌理の細かい頬を掌で包み込んで、少し開いたままの紅の唇に軽く自分の唇を触れさせる。それだけの熱で溶けてしまいそうな気分になった。
 天蓬に背を向け、天狼は川縁から一歩川の中へと足を踏み出した。その足先が川面に触れた途端、天狼の身体は蒼い星の光となって霧散する。自らが形を失う瞬間に、天蓬が一度自分の名前を呼んだ気がした。

 ぽちゃん、ぽちゃん、と小さな物体が水底に沈んでいく音がする。
 川縁にしゃがみ込んだ天蓬は、ひたすらに川辺の石を川の中へと放り込んでいた。こうしていれば、再び天狼が姿を現してくれるような気がして。そうしていつまでも、川辺にしゃがみ込み、川の中を覗き込んでいた。
 星の一つも瞬かない、静かな夜だった。



+++



「あー……さみぃ、眠いし」
「もう、この食材だって大半はあなたのお腹に入るんですからもう少し頑張って下さいよ」
「はいはい、よろしくたのんます」
 ジープが風邪を引いてしまい、徒歩で買い出しに出掛けることになった八戒は、荷物持ちに悟浄を引っ張り起こしてこうして雪道を歩いている。昨日の晩に降り積もったらしい雪を踏みしめ、一歩一歩家へと向かう。ぶつぶつ言いつつも悟浄は八戒が歩きやすいように一歩先を歩いてくれる。有り難くその後ろを歩きつつ、ついと空を見上げて息を吐いた。冬の陽が落ちるのは早いものだ。星々の輝き始める空を見上げていると自然に歩くのが遅くなっていたらしく、不審に思ったのか少し先を歩いていた悟浄が立ち止まって振り返った。
「おーい、八戒ー」
「あ、すみません」
 広がっていた距離を縮めて悟浄の後ろに付くと、悟浄は八戒が何を見ていたのか気になるようで、先程の八戒のように空を見上げている。鼻の頭を赤くした大きな男が子供のように空を見上げているのは何だかおかしい。
「どうしたんですか」
「いや、お前が何を見てたのかと思ってさ」
「星ですよ。やっぱり冬は星が綺麗に見えるなあと思って」
 そう八戒が言うと、悟浄は再び空を見上げた。そしてふと、数え切れないほどの星の中の一つを指差した。
「あれ、すげえ光ってんな。何かちょっと青いし」
「ああ、あれはおおいぬ座っていう星座のアルファ星です。アルファ星っていうのは星座の中で一番明るいもののことをいうんですけど」
「ふーん……何て言うの、あの星」
 そうぶっきらぼうに訊いてきた悟浄に、八戒は口を開きかけて、一度閉じた。そして再び口を開く。
「……『天狼星』っていうんですよ」
「ふーん、聞いたことねえや」
「あ……『シリウス』って言ったら聞いたことがあるかも」
 それなら知ってる、と納得する悟浄を見つめながら、八戒は少し不思議な気分に囚われていた。本当は、悟浄もすぐに分かるように『シリウス』と教えようとしていたのに、ふと口を突いた名前は『天狼星』だった。何故自分が態々言い換えたのか分からない。
 白い息を吐きながら、八戒は空を見上げた。天狼星。その冷たい色の光がどこか温かく感じた。この感覚は何だろう。
「……綺麗ですね」
 思わず口を突いた言葉に、隣に立っていた悟浄は少し驚いたようだった。しかし同じように空を見上げ、暫くしてから静かに頷く。
 天狼星が、それに呼応するようにちらちらと瞬いたような気がした。










天界自体どこにあるか分からないので、天体の見える季節のことは…日本基準です。
この分だと天蓬は牽牛(アルタイル)とかとも仲良しです。           2007/03/26