シルバーのデスクの上で、細く長い指が規則的にリズムを刻む。黒縁の眼鏡のレンズの内側で、密度の濃い睫毛に縁取られた白い瞼が閉じられている。その瞼は、響いてきた大きな足音に、神経質そうにピクリと動いた。そしてその足音が段々と自分に近付いてくるのに、頬杖を突いていた腕を下ろし目を開いて、スツールに腰掛けたまま部屋の入り口を振り返った。暫く待っているとふと足音が止み、ドアからひょこっと快活そうな少年が顔を出した。情けない顔をする彼を安心させるように笑って手招きしてやると、少年は「失礼します」と覇気のない声で言って部屋に入ってきた。体操着や手は泥に汚れ、同じく汚れた膝からは豪快に血が流れていた。流れた血が靴下まで流れ、赤黒く痛々しい染みを作っている。思わず苦笑すると、少年はますます情けない顔になった。
「天ちゃ〜ん……手当てして〜」
「おや……これはまた派手にやりましたね。さ、そこに座って下さい」
 そう言い置いて天蓬は立ち上がった。そしてローテーブルに置かれた、消毒された鑷子とアルコール綿の入った瓶を手にして、スツールをキャスターで引き摺って彼の座る長椅子へと近付いた。そしてそれに跨るように座り、片手で瓶を開けると鑷子で脱脂綿を取り出した。それをそのまま傷に近づけようとして、一度流れた血を拭おうと手を伸ばしてティッシュペーパーを取った。
「今の時間は体育でしたか。サッカーかな、楽しそうですね」
「うん、キーパーと接触して転んだ……」
「こんなに血が出ても泣かないで、悟空はえらいですね」
 そう微笑んで言うと少年は頬をかっと赤くして、拗ねたように頬を膨れさせてみせた。子供扱いするなと言わんばかりだが、その幼い容姿や仕草を見ているとつい、弟のようなものを見ている気分にさせられるのだった。それでついつい子供扱いに似た……甘やかしをしてしまうのだけれど。しかし彼自身はそれが気に食わないらしい。丁度、一人前の扱いをして欲しがる年頃だろうか。
「子供扱いしないでってば! ……あ、あのさ天ちゃん」
「何ですか」
「今日の放課後、また部活のコーチして欲しいんだけど。今日監督いないから練習出来ないんだ」
「ん、どうかなぁ……もしかしたら剣道部の方に行かなきゃならないかもしれないので今は何とも」
 視線を傷口に向けたままそう返す天蓬に、悟空はがっかりしたように肩を落とした。汚れた脛を拭き終えて顔を上げた天蓬は、そんな悟空を見て小さく笑った。そしてそのティッシュペーパーを捨てるために立ち上がり、そっとその項垂れた頭を撫でる。ごみ箱にそれを捨ててから、デスクに戻って隅に置かれたキャメルの皮製の手帳を開いた。指先で日付を辿り、辿り着いた今日の欄。早朝の職員会議以外には何も書かれていない。手帳を閉じ、デスクに戻してから、落ち込んだように俯いている悟空を振り返った。
「悟空」
「何?」
「放課後、今の所は空いてるんですけど、練習見に行ってもいいですか」
 そう言うと途端にぱあっと顔を明るくする彼に、つくづく自分が甘いことを実感した。喜んで動き出しそうなその脚を掴み、宥めるように腿をぺんぺん叩く。するとそれで動きは静かになったものの、悟空は堪え切れないように小さく笑った。
 そもそも天蓬は剣道部にはあまり行きたくなかった。剣道は好きだ、幼い頃から大学までずっとやっていた。それに指導を乞う部員たちも素直で可愛い。しかし元々天蓬がこの学校に来る前から顧問兼指導者としてやってきていた教師がいい顔をしないのだ。ぽっと出の若者に部員の人気を取られたのが気に食わないということらしい。薄々感付いていたが、そのことを部員からこっそり知らされてからはますます足を運び辛い状況となっていたのだ。職場内の人間関係は面倒臭い。なるべく拗らせたいものではなかった。
「よかった、皆喜ぶよ!」
「えー、僕は指導者じゃないですから、いても面白くないですよ」
「天ちゃんは上手いよ、監督なんかよりずっと上手いって! 去年だって天ちゃんのおかげでいいところまで行ったんだし」
 彼はバスケットボール部に所属している。数年前に廃部になっていたそれを去年、一年生の有志が集まって再創部したのだった。しかし生憎学校にはバスケットに詳しい教師がおらず、創部のために暇な教師から名前を借りているだけの状態だった。その教師というのももうすぐ定年退職を迎える老教師である。とてもではないが指導など出来ない。そこで、ある切っ掛けから天蓬が時折コーチをすることになったのである。といっても、天蓬はそれまでバスケットボールの指導などしたことはなかった。
「いやいや。僕は指導能力がないんです」
 そう言って、消毒した傷口に当てたガーゼをテープで留めた。そして軽くその上を叩くと、彼はオーバーなリアクションをして唇を尖らせてみせた。しかし彼の顔は明らかに緩んでいて、苦笑するばかりである。そんな彼を腕組みして眺めていた天蓬は、ちらりと顔を上げて目にした壁掛け時計に目を見開いた。そして彼の意識を時計へ引き付ける。
「こらこら、早く行かなきゃ楽しい体育の時間が終わっちゃいますよ」
「うわっ! じゃあ行くね、放課後迎えに来るから」
「ああ、いいですよ。直接行きますから。第二体育館でよかったですね」
「うん、じゃあ後でね!」
 元気に手を振り、彼は廊下を走って行く。その足音がすっかり聞こえなくなるまで見送って、天蓬は息を一つ吐いた。そして瓶を片付け、使った鑷子を使用済みのスタンドに立ててから、スツールをデスクの前へ戻した。そして再びそれに座り、デスクに両肘を突いて目を瞑った。室内は静かだ。開けられた窓からは、少年達の歓声やホイッスルの音が響いてくる。それに少し心が浮き立つのを感じながらゆるゆると息を吐いて、瞼を静かに開く。目の前の大きな窓から差し込む光に目を眇め、光に輝く新緑に目を細めた。澄んだ空気を一杯に吸い込んで、少しだけデスクに伏せて目を閉じてみた。五月の穏やかな緑風の吹く季節、授業中のこの静かな時間が好きだった。
 その時、ふと天蓬は身体を起こし、目を細めた。基本的に自分に害をなす気配には敏い。それは非常に巧妙に隠されたもので、きっと大分前からあったものだろう。それに今の今まで全く気付かなかった自分の失態に顔を顰め、立ち上がる。ぐるりと部屋中に顔を廻らせると、外に面したガラス戸の向こうにゆらりと揺れる白い煙が目に付いて、苦々しげに唇を噛んだ。先程まであれほど気配を隠していたというのに、今はその姿の在処を示すかのようにわざとらしく煙を棚引かせている。からかっているのだ。
 子供染みた行為と知りながら、天蓬はわざとサンダルの音を大きく立てながら戸に歩み寄り、ぴしゃりと閉じてしまった。次いでに鍵も掛けてしまおうと手を伸ばした瞬間、慌てたように大きな手がガラス戸を叩き、そのまま閉じてあった戸を押し開けた。空いた隙間からは土で汚れたスニーカーがその間をこじ開けるように突っ込まれ、床掃除の手間を増やされた天蓬の心はますます曇った。腹いせに強くその足先を踏ん付けてやると、それを批難するように戸は大きく音を立てて全開にされた。そして先程の気配の元は、人好きのする笑顔と共に現れたのだった。その人指し指と中指には煙草が挟まれていて、その香りが鼻先を擽ると共に天蓬の機嫌は更に急降下した。しかしこれは、先程までの不機嫌とは種類が違うものである。
 今時の学校はどこも校内全面禁煙だ。よって、元はチェーンスモーカーである天蓬も、勤務中は禁煙を余儀なくされていた。そうして何とか禁断症状と戦いながら自分が禁煙している中で、そうして無造作にすぱすぱと吸われては堪らない。
「それを消しなさい」
「あんたも出てきて吸えばいいのに」
「今は二年生の体育の時間ですから、必ず一人二人は生徒が来るんですよ」
 生徒に見つかると面倒だ。大抵の生徒は笑い混じりにからかってくるだけで、天蓬は唇の前に人差し指を立ててチョコレートの一つでもやれば黙っていてくれる。しかし、中には無駄に正義感の強い、面倒な生徒もいるものだ。教職としてそれは歓迎すべきことであろうが、一人の人としてあまり好くことの出来ない人種でもある。腕組みをして苦い顔をする天蓬を、開いた戸を隔てて外に立って眺めていた男は、最後に一度美味そうに煙を吸い込んだ後、地面でぐりぐりと先を潰してから吸殻を携帯灰皿に突っ込んだ。
「さて、これで中に入れて貰ってもいいかな」
 先程男を『人好きのする』と評したが、天蓬にしてみれば底の見えない、得体の知れない黒い男としか思えない。よって先程の評価は生徒諸君の、この男に対する評価だ。男は捲簾という名で、この春この高校に着任したばかりである。担当教科はというと、その大きな図体と屈強な体つきからは想像出来ぬ、『美術』であった。最初はどの教師もその教科と目の前の男とを比較しておかしな顔をしたものだった。しかし、その男の腕前は天蓬も知ったるところである。何度か彼が放課後過ごしている美術室を訪れたことがある。授業外でも彼は自らの趣味で絵を描いた。風景画であったり、静物画、人物画。コンクールでも幾度となく入選しているらしく、それなりにその世界の人には名を知られているらしい。しかし、どちらにしても絵画に大して興味のない天蓬には関係のないことだった。一目見て、生きる世界も、人間としての種類も全く違うと感じたからだ。
「……あなたが汚したその床をきちんと掃除してくれるなら構いませんよ」
 そう素っ気なく言って天蓬は彼に背を向けた。そして先程と同じようにデスクの前のスツールに腰掛ける。暫く唖然として立ち尽くしていた彼は、小さく肩を竦めてから靴を脱ぎ、戸の外にそれを揃えてから室内へと入り込んだ。そして部屋の隅に据え付けられた用具入れを開け、箒を取り出して、土の散った床を掃き始めた。大きなその男がちまちまと小さな箒まで駆使してサンに入り込んだ土を除去しようとしている姿は何だかおかしくもあった。丸められた大きな背中がちょっとした哀愁を感じさせなくも……ない。
 そんな姿を眺めながら、天蓬はデスクの抽斗を開けた。煙草が吸えなくなると校内が淋しくなるのか何なのか、口に何か入れていないと落ち着かなくなった。何か入れていれば吸わずにいても大丈夫、というわけではないがそれが紛れるのは確かだ。ミント味の板ガムを取り出して、それを口に運ぶ。ガムくらいならば生徒がもし訪れてきても、目を盗んで出すことが出来るからだ。しかし本人の思惑とは別の場所で、殆どの生徒や教師には、天蓬のデスクの抽斗がお菓子だらけだということは知れ渡っているのである。それは天蓬本人は全く知らぬことだ。
 バタン、という音に天蓬は顔を上げた。丁度彼が用具入れに箒を仕舞い、戸を閉めたところだった。そして振り返った彼は、口をもごもごと動かしている天蓬を見て噴き出した。笑われたことに戸惑って、一瞬天蓬は口の動きを止めた。
「知ってるか、あんた。そのせいであんた、甘党だと思われてるって」
「……思われてるって、誰に」
 子供っぽいと言われたようできまり悪くて、ついつっけんどんな返答になってしまう。しかし彼は気を悪くしたようでもなく、小さく喉を鳴らして笑った。
「生徒にも、先生方にもだよ。やけに周りが甘いものくれると思ったことないか」
 彼の言葉に同意するのは何となく納得がいかなかったが、確かに心当たりはある。出張のお土産のお菓子は、一人一個であっても自分だけは何故か二つ貰える。調理実習の日は夕飯の準備が必要ないほどに贈物を貰う。おかしいとは思っていたそれらに、答えは呆気なく与えられた。つまり抽斗の中の菓子類の存在も公然の秘密となっていたということか。
「ただでもあんたは人気があるからな」
「へえ」
 デスクに頬杖をつき、懐疑心の滲む声を出す天蓬に、男はそれでも小さく笑っただけだった。その余裕たっぷりの、大人の男の笑みが気に入らない。それは彼が初めてこの部屋に訪れた日からそうだった。その日、天蓬は面倒がって新任式を欠席した。どうせ然して自分との関わりなどないからだ。教諭は教諭でも自分は養護教諭であって、一日二日全く言葉を交わさないことのある教師も多い。追々顔を合わせた時にでも挨拶しておけばいい、と、生徒の訪れない保健室でのんびりベッドに横になっていた。なのに彼は愚かにも書類で指を切り、保健室を訪れた。そして迂闊にも深く寝入ってしまった自分を発見したのだった。
 その、温度すら感じる熱視線から逃れるように顔を逸らして、天蓬は何となく火照っている気がする首筋を掌で擦った。
「ところで、何しに来たんですか。今、授業は」
「二コマ目と三コマ目は空いてる」
「ああそうですか、でも僕は空いてる時間なんてないんです。そのまま入り口からお帰りを」
 そう言うと、彼はにっこりと笑った。そしてぱたぱたと軽く手を振って見せた。
「いいよ、そのまま座って仕事してて」
「は……」
 そう言った彼は再びガラス戸へと歩み寄り、しゃがみ込んで外へと手を伸ばした。引っ張り出されたのは見覚えのある青い表紙の大きなスケッチブックだ。反射的に天蓬は身を退き、脛を強かにデスクの足にぶつける。しかしそんな痛みも気にならないほどの危機を感じていた。「大袈裟だなぁ」と彼は呟いて、大股で天蓬の方へと近付いてくる。その乱暴な足音が近付いてくるのに、天蓬は性懲りもなく後退りして今度は反対側の脛をぶつけた。
「ま、またあなたはそういう……」
「黙って座ってるだけでいいのに」
「肖像権の侵害です!」
 デスクに置かれていた封筒で顔を彼から隠す天蓬に、彼は少し困った顔をして笑い、デスクの上にその大きなスケッチブックを立てて見せた。天蓬は思わずそれを何か恐ろしいものでも見るような目で見た。その、只の厚紙が綴られただけの物体が恐ろしくて堪らない。
 彼は天蓬に黙って座っていることを望んだ。絵を描こうとしているのだ。無論、天蓬をモデルにして。迫る男に逃げる自分。そのループは幾度となく繰り返されていた。新年度が始まって一週間経った頃からそれは続いている。
「何がそんなにヤなの」
「……昔から写真だとか、そういう自分の姿を残すものが大嫌いなんです」
「何でだよ、今は今しかないのに」
 似たようなことを親だったか教師だったかに言われたことを思い出して、天蓬の表情は自然と苦くなった。それを見咎めた彼は、その大きな身体を屈めて天蓬の顔を覗き込んでくる。その純粋すぎていっそ胡散臭い眸を見つめていると無性に腹立たしくて、その頭を封筒の角で叩いてやった。大袈裟に痛がって不満を漏らす男を横目に、思わず溜息が漏れた。
 愛想は元々あまりない子供だった。実の親すら内心少し気味悪がっていたのを知っている。しかし小学校高学年頃になると、常ににこにこしている方が何かと楽なことに気付いた。親は、あの子は明るく元気になったと喜んだ。周りからは可愛がられるようになった。それまでうまくいかなかったことはそれなり、スムーズに事が進むようになった。そして愛想は必要不可欠な技術であることをやっと知るのである。可愛げは幾らでも作ることが出来るのだ。そう自負していた。
「常ににこにこしてろって言ってるわけじゃねえのに」
 指が震え、手にしていた封筒を取り落とした。それを見た彼は、身体を屈めて封筒を拾い、手渡してくれた。それを何とか平静を装って受け取る。自分が彼を不快に思うのはこれが原因だった。突然、急に自分の内側を見透かしたような言葉を何気なく口にする。不快は不快でも、恐怖に近いそれだ。相手に自分の全てを知られているような不快感と恐怖が入り交じって、それが彼に対する苦手意識に繋がっているのである。その眸に自分が映ることが嫌だった。
「どうした」
「……いいえ」
 目を逸らそうとしてもその眸は執拗に天蓬を追った。きっと目を合わせるまでそれを止めないだろうと踏んで、天蓬は根負けしたように溜息を吐く。そして覚悟を決めてじろりと睨み上げると、満足したように彼は表情を緩めた。そしてその大きな掌で押し付けるように天蓬の頭を撫でた。その手がふと額に触れて、その温かさに一瞬怯んでしまう。一瞬顔を歪めた天蓬の反応をどう思ったのか、またどうも思わなかったのか、彼はデスクの上のスケッチブックを脇に抱えた。そして再びガラス戸の方へと向かい、外に並べてあったスニーカーを持って戻ってきた。
「じゃ、今は諦めるわ。また昼にな」
 そう、如何にも好青年らしい笑顔で言い、彼は存外あっさりと部屋の入り口から出ていった。彼の気配が段々と遠ざかっていって、彼が残したほんの僅かな煙草の香りだけが部屋にある。それも、窓から吹き込んでカーテンを巻き上げる風が全て攫っていってしまった。
 男は天蓬に興味を持っていた。理由は聞いても答えない。明確な答えも示さぬまま、いつも含みのある笑みを浮かべて、子供にするように頭を撫でるばかりだ。年齢は彼の方が一つ上だが、子供の頃と違って大人になってからの一歳差など大した問題ではない。しかし彼のその行為は自分の中の幼い部分をいたずらに刺激した。子供扱いをされて怒る子供のように、苛立ちを生むのである。腹立たしくなるのは実際自分の中に未熟な部分があるからだと分かっている。だから尚更腹が立つのだ。そして、自分の全てを見透かしていて、自分の弱い部分を、未熟な部分を知られているようで恐ろしくなる。あの男の前で余裕など欠片もなかった。しかし余裕のない姿など決して見せられない。そのことが、図太く出来ているはずの自分の神経を容易く摩耗させていった。


「あーあー……またそういう食事ばっかりしやがって」
 昼の、最も混雑する時間を過ぎて、生徒の姿も疎らになった学食。そのガラス越しに中庭に面した特等席で、黙っていると話しかけてくる生徒避けに周りに書類を並べて目を通す振りをしながら、くるくるとフォークにパスタを巻き付けていた天蓬は、背後から浴びせ掛けられた言葉に動きを止めた。唯一このポーズが通用しない男、その人であった。恐る恐る振り返ると、片手にトレーを載せてにっこりと笑う捲簾が立っていた。反射的に逃げるべく立ち上がろうとするのと同時に、物凄い力で肩を下に押さえ付けられ、再び椅子へと押し戻された。抗ったところで彼の力に敵わないことは承知の上だったので、天蓬は渋々椅子に座り直した。
 その様子に満足したように天蓬の正面の椅子を引いた彼は、テーブルにトレーを置いた。彼の好みは基本的に和食だ。ほぼ日替わりで魚と肉とを選んでいるようである。そんなことが分かってしまうほど、天蓬は毎日同じ目に遭っていた。逃げようと近くのコンビニでお握りを買って持ってきてみれば、何故か彼も弁当を持ってきていたりするから恐ろしい。ちなみに今日は焼き魚のA定食だ。小鉢二品付き。
「ほら、野菜も食え」
 そう言って彼は、自分のトレーに載っていた小鉢の片方を天蓬の前に置いた。芥子菜のお浸しだ。対して、天蓬の口にしているのはペペロンチーノ一皿だけである(早く食事を済ませるために定食ものではなく一皿のものを選ぶ癖がある)。野菜を摂らねばならないことは自覚していたので天蓬はその厚意を素直に受け取ることにして、小鉢を自分の方へ引き寄せた。しかしすぐさま白衣のポケットに手を入れて財布を取り出す。そして中から百円玉を出して、彼の前に静かに置いた。小鉢はどれでも一種百円なのである。暫く天蓬の顔と、テーブルの上の百円玉を交互に見つめていた彼は、次第に面白くなさそうに顔を顰めた。呆れているようでもある。その硬貨を掌の上で転がしながら、彼はわざとらしく溜息を吐いた。
「あんたはどうしてそう可愛くないかな……」
「あなたから無償で物を貰うことが、可愛げですか。貢ぐのなら女性にしたらいいじゃありませんか」
「そういう発言も可愛くないねえ……可愛いけど」
 怪訝な顔をする天蓬をよそに、彼は行儀よく手を合わせていただきますと言った後、箸箱を開けた。そして早速食事を始めてしまう。取り残された天蓬は、半分ほどになったパスタの皿を見下ろして溜息を吐いた。
「で、部活はいつ終わんの」
「え? ああ……って、あなたいつから聞いてたんです」
 彼にそれを教えた覚えはないと思い、そう訊ねると、彼は丁度口に物を含んでいたところだったので返事は得られなかった。それは、午前中悟空が保健室を訪れた時のことだ。部活を見る約束をしたのはあの時である。そしてその後すぐふらりと彼が現れたのだ。だからその少し前から彼があの場所にいたとしてもおかしくはない。聞かれてまずい話でもないのだが、立ち聞きという行為を咎めたくなるのは普通の心理だろう。結局笑うだけで返事をしなかった彼をそれ以上追求するのは止めにして、溜息を吐いた。
「七時半から、八時くらいですね」
「じゃあ俺も後から行く」
 それは暗に泊まっていけとの誘いだった。天蓬の家はこの学校からかなり遠い。引っ越しを何度も考えたのだが、家にある大量の蔵書のこと、物件のことや手続きを考えると面倒になって、結局その遠い家から毎日頑張って通っていた。対して彼の家はというと、とても近かった。前の学校にいた頃から同じ家らしく、当時は現在の天蓬のように毎朝難儀して通っていたという話だった。彼の住むアパートは広い。いつからか自然と、時間が遅くなったり飲みに出掛けたりした日には、ちょくちょく彼の家へ泊めてもらうようになっていた。女の匂いは不思議と感じられない。しかし殺風景という様子でもない。綺麗に片付けられ、しかし生活感は感じられる居心地の良い空間だった。その居心地の良さについつい引き寄せられ、幾度となくふらりと立ち寄ってしまうのである。彼の家のリビングにある、柔らかいソファが恋しい、というのもある。
「……それはどうも」
 素っ気ない天蓬の返事を了承の意と捉えたのか、彼は満足そうに笑った。天蓬はそれに目をやることもなく、フォークの先に芥子菜を刺した。そして天蓬がそれを咀嚼するのを静かに見つめていた彼は、唐突に口を開いた。
「あんたって子供好き?」
「いいえ、別に」
 養護教諭を目指したのは、親へのささやかな反抗だった。中学に入学した頃から、半強制的に父と同じ医師になるよう言い含められていた。自分もそのつもりでいた。だから高校の進路希望をぎりぎりで変更したのは、単なる気紛れだったかもしれない。医学に興味がなかったわけではない。医師という職業に魅力を感じなかったわけではない。自分でも本当のところはよく分からないのだ。しかし医学と全く関係のない職業を選べなかったのは、きっとそれまで育ててもらったという負い目があったからだろう。
 今でこそ子供と接することも楽しいと思うが、それまでは子供が好きか嫌いかなど考えたこともなかったのだ。対してこの男はといえば、子供の扱いが大層巧そうである。生徒たちのする話からもそれが窺えた。同時に女の扱いも巧いようである。
「あなたは、好きそうですね」
「まあな」
 彼が自分に接する際にどこか子供扱いしているように感じられるのはそのせいかもしれない。
「隅っこで一人ぼっちでぽつんとしてるようなの見ると放っておけないんだよなあ、わざと捻たようなこと言う奴とか」
「ほー、それは素晴らしい心掛けですねえ」
 見上げた志である。自ら率先して面倒な子供に係わっていくだなんてことは自分には出来そうにない芸当だ。彼の少し俯いた表情を眺めながら、水の入ったグラスを揺らしつつそう言うと、彼は少し驚いたように目を瞬かせた。そして小さく笑った。穏やかな視線の前に晒され、どうしていいのか分からなくなって天蓬は少し俯いてグラスに口を付けた。これではまるで子供のようだと分かってもどうしようもなく、グラスの水を飲み干すまで顔を上げられないままだった。

「……前から思っていたんですが」
 そう言ってちらりと目で彼を見上げると、丁度食事を終えて箸を下ろしていた彼は、続きを促すように天蓬を見つめた。
「お付き合いされてる方、いらっしゃらないんですか」
「いないね。今のところ」
 そうだろうとは思っていたが、やはり意外だ。彼は同僚と飲みに出掛けたり、天蓬を家に誘ったり、恋人と会っているであろう時間があまりに少ない。だからきっとそうなのだろうとは思っていたが、恋人がいない期間など一日と空かなさそうな彼を前にするとやはり不思議な気分になる。一人どころか、二人いたって驚かないのに。聞けば、前の学校に勤務していた時にはいたらしい。が、あまり構ってやれなくなって別れたという。誠実といえば誠実だが、素っ気ないといえば素っ気ない。
「構ってあげられないほど忙しいですか。僕を強引に連れ帰ったりする暇はあるのに」
 そこまで言って、自分の発した言葉のニュアンスが少しおかしいことに気付いた。これではまるで二人の間に何かがあるかのようだ、決して間違ったことは言っていないが。しかし彼はそんな言葉など全く気に留めなかったように言葉を返した。
「まあ、言い訳だよな。構ってやれない、というよりかは、構うのに疲れたってだけだ。面倒になったってのもあるけど」
「面倒」
「同僚だったから」
 職場内恋愛、とはいっても職員室で育まれる愛というのは何だか教育上宜しくない匂いがする。思わず天蓬が顔を引き攣らせたのに気付いたのか、彼は誤魔化すようにへらへらと笑った。
「相手の女が生徒に結婚の話とか、思わせぶりなこと勝手に話したせいでちょっと噂になってな。勿論俺の名前は伏せてだけど。不誠実かも知れねえけど俺はそんなこと全然考えてなかったし」
 彼はその時のことを思い出したように顔を顰め、不愉快そうにがりがりと頭を掻いた。
「相手の女性は結婚を前提にしたお付き合いだと思ってたってことですか」
「いや。そうじゃないことは相手も分かってたと思うけど、焦ってたんだろうとは思う。俺より年上だったし」
 勝手に結婚話を吹聴されて彼が可哀想だと思わなくもない。しかしそこまで惚れていてあっさりと切り捨てられた女性への同情も禁じ得なかった。別れ話は相当縺れただろう。そこへ図ったように訪れた異動は偶然にしても皮肉である。こうして彼の苦い表情を見ていると、多少の後悔や心痛はあるらしい。皿に残ったパスタをフォークの先で絡め取りながら、天蓬は視線を落とした。
「未練も何にもなかったことに、自分が一番驚いたけどな」
 独り言のようなその呟きは聞かなかったことにして、天蓬は最後の一口を口に入れた。


 初夏とはいえ、運動の後は汗を掻く。シャツの裾を引っ張り上げて顔の汗を拭っていると、体育館の入り口からふと黒い影が現れたのに気付いた。そして顔を上げて壁に掛けられた時計を見る。七時半を少し過ぎている。用具を片付け、シャワーと着替えをさせて八時といったところか。息を深く吐いてから首に提げていたホイッスルを咥えて長めに吹いた。銘々シュート練習に励んでいた部員達はその場にボールを残して天蓬の前に素早く整列する。一瞬で確認出来るほどの人数しかいない部員を目で確認して、口を開いた。
「今日の練習はこれで終了します。各自使ったボールを磨いて片付けてから着替えて下さい。ビブスは色別に分けてしまうこと。戸締まりをしたいのでなるべく八時までに帰り支度を済ませて体育館を出て下さい。以上」
 体育館に体育会系の挨拶が響き、やっと一日が終わったと実感する。生徒達が用具を片付けに戻っていくのを見送ってから、自分も着替えようと体育館の入り口に向かう。黙って壁に寄り掛かっていた男は天蓬の方へと歩いてきて、持っていたタオルを天蓬の頭に被せた。どうやら自分のものではないようだ。
「汗掻くと思ったらタオルくらい持って行けよ、腹出してシャツで拭いてないで」
 どうやら先程シャツの裾で拭いていたのを見ていたらしい。彼は割とそういうことに関して母親のようにうるさい。小言に耳を塞いで、天蓬は黙って校舎へと続く渡り廊下を進んだ。外はもう暗く、遠くは街のネオンが喧しい。
「今日は遅かったですね」
「ああ……コンクールが近いから」
 最近彼は今度のコンクールに向けて毎放課後創作に励んでいる。ぎりぎりまで天蓬に迫って交渉を続けていたが、そろそろ時期が訪れたために渋々テーマを切り替えたらしい。シャツの首元に黒っぽい絵の具の染みが見えた。彼が絵を描く時にだけ使うそのシャツは、色々な染みが付いていて、何だか子供の落書きのようで少し面白かった。
 彼はいつも美術室独特の、少し懐かしい絵の具の匂いがする。その指先はいつも水や絵の具を扱うせいでかさつき、爪の間に取り切れない絵の具が残っていた。半歩前を歩く彼は、ぶつぶつと創作の愚痴を零しながら首を回している。
「今回は駄目だな」
「入選は難しいですか」
「そんなレベルじゃない。出品したら恥だ」
 彼は基本的に優しいが、自分の作品に対する時の言葉は酷く厳しい。その厳しさには少し驚いてしまう。煮詰まっているのだろうか。美術に造詣の深くない自分が適当なことを言って慰めることも出来ず、天蓬は何とか言葉を探って視線を巡らせた。しかし適切な言葉は出て来ない。何より、適当なことを言ってはならないという気がしていたのだ。手持ち無沙汰で、無意識に唇を舌で湿らせた。
「……まあ、今夜はゆっくり休んだらいいですよ。なんなら僕は自宅に帰っても」
「付き合うよな」
「はあ」
 顔は笑っているが、相当苛立っているのが目に見えた。天蓬に気を使わせまいとして笑っているのがよく分かる。しかし、いつもならそういう日には天蓬を無理に家へ呼び寄せようとはしないのだ。何を考えているのだろうと一瞬勘繰りかけた。しかしそれ以上詮索をする気にはなれずに、教員用のロッカールームのドアを開けた。手探りで電気を点けて、一番奥の自分に割り当てられたロッカーに鍵を差し込んで開ける。汗を掻いてまた着替えるのは面倒だが、この格好で帰るわけにも行くまい。トレーニングウェアの上着を脱いでロッカーからワイシャツを出していると、彼は天蓬を追い越してロッカールームの奥の窓を開けている。シャツを脱ぎながらその動きを目で追っていると、彼は何とポケットから煙草のパッケージを取り出した。そして何気ない仕草でその一本を咥えて火を付ける。唖然としてその様子を見つめていた天蓬は、ふと我に返って軽く舌打ちをした。
「……捲簾」
「まあ、目瞑ってよ」
 へらへらと歯を出して笑って見せる彼に脱力した。しかし自分だって吸いたいのである。かれこれ何時間我慢しているだろう。昼休みに吸ったきりだから、もう七時間近い拷問だ。よく堪え忍んだものだ。しかし最近ではぎりぎりまで我慢した後に吸うことが快感になりつつある。これではまるで変態だが、そうでもしなければこの環境にはいられない。汗で湿った感のある不快な素肌に無理矢理アンダーシャツを着て、ワイシャツを羽織った。どうせ彼の家に行けばすぐに風呂に入れる。ボタンをもたもたした仕草で留めていると、煙草の煙を窓辺でくゆらせていた彼がゆっくりと近付いてきた。そして咥え煙草のままさっさと天蓬の手を除けさせて器用にボタンを留めていく。それを静かに見ていた天蓬に、彼はちらりと視線を上げた。そして口角を軽く笑みの形に歪めた。
「吸いたい?」
「それはもう」
 勿論、と天蓬が返すと、笑顔と共に静かに彼の手が伸びてきた。その長く節張った指は天蓬の顎を捉え、親指は下唇を軽く押さえて唇を押し開く。そして出来た上唇との隙間に、今まで彼の吸っていた煙草のフィルターを押し込まれて目を瞬かせた。軽く煙を吸い込むと、頭がふとぐらりと揺れるような感覚に襲われて俄かに強烈な吐き気がした。煙草が取り去られた後もその不快感は何故か尾を引き、煙草が再び彼の唇に戻る段に至っては、その不快感は表情にも出ていたらしかった。
「美味くなかった?」
「……何か、頭がぐらぐらします」
「何だ、その勢いで禁煙出来るんじゃねえの」
 まさか、と思った。今までどんな時でも煙草に不快感を感じたことなどない。ひたりと彼の大きな手が額に当てられ、それだけの衝撃でそのまま背後に倒れてしまいそうだと思った。その手は気遣わしげに天蓬の頭を撫でた後、離れていった。
「汗冷やしたんじゃないのか。早く戸締まりして帰るぞ」
 荷物をとってくる、とロッカールームを後にする男の後ろ姿を暫く呆然と見つめていた天蓬は、その足音が聞こえなくなる頃になってやっと我に返り、大きく舌打ちをした。頭を支配するぼんやりとした痛みは残ったままだ。
 スポーツバッグを肩から提げロッカールームを出て、鍵を閉めた頃、廊下の向こうから足音が近づいてきた。鍵をポケットに仕舞ってその足音を待たずに体育館へ向かって歩き出した。暫くしてその足音は速くなり、歩く自分へ向かって距離を詰めてきた。そして近付いてきた彼は天蓬の隣に並んだ。そしてどこか不審そうに天蓬の顔を覗き込み、それでも自分の方を向かない天蓬に呆れたように溜息を吐いた。そして何かを天蓬の腕に押し付けてくる。暫く無視していたものの彼がそれを止めないので、顔は見ずに何かを押し付けられている腕を見下ろした。彼の手の中には黒いボディの携帯電話があった。
「携帯、忘れてただろ」
「ああ……」
 無愛想にそれを受け取ると、捲簾は面白くなさげにまた、溜息を吐いた。そしてわざと天蓬に聞かせるように恨み節を呟く。
「煙草の味が気に食わなかっただけでそこまで臍曲げるか」
「何ですって」
「いいえ」
 一応いつも同じ銘柄のものを吸ってはいるが、他の銘柄のものが吸えないわけではない。実際、自分の煙草を切らした時にこっそり彼の煙草を一本拝借したこともある。好みの味ではなかったが、気分が悪くなることなどなかった。だから、ただ違う煙草を吸っただけでこんなに気分が悪くなることなど有り得ない。彼が自分に一服盛ったりしない限り。しかしそれはあまりに非現実的な考えだ。何を思って彼がわざわざ自分にそんなことをするのだ。きっと今日は自分の具合が悪いだけ。さっさと寝よう。
「やっぱり家に帰ろうかな……」
「は」
 しかし彼から逃れて家に帰るのも億劫で、結局は彼に流されてしまうのだろうという予感はあった。そしてそれが十中八九現実になるであろうことも。肩に食い込むバッグのベルトをずらしながら、腹の底から溜息を吐いた。体育館の入り口から、制服に着替えた生徒たちが次々に出てくる。挨拶をして帰ってゆく彼らを見送ってから、電気を落とし、施錠をした。



 彼の住むアパートは学校から徒歩で向かえるほど近くにある。新しくはないが、女性の喜びそうな少々可愛らしいデザインをした、男一人住まいには多少広めの間取りの家である。居間に寝室、他に一部屋がある。その部屋は、昔描いた絵や画材などに溢れた小さなアトリエのような部屋だ。その部屋には独特な絵の具の匂いや古い紙の匂いが満ちていて、小さな頃に迷い込んだ大きな古い図書館を思い出させた。時間が緩やかに流れるその部屋が好きで、彼の家を訪れるたびに何度か出入りをしていた。
「好きにしてて……ってもうしてるか」
「お構いなく」
 週一回は訪れる家だ。いい加減身体も慣れてしまっている。重たいバッグを乱雑に床に下ろし、ネクタイを緩めて早速ソファに懐く。そんな天蓬を笑って見ていた彼は、着替えるためか、隣にある自分の部屋へ入っていった。彼の気配がしなくなって、暫くじっとソファに転がっていた天蓬は、その気配を探して顔を上げた。隣の部屋から微かに物音がする。そして漸く動き出した天蓬は、床に置いたままになっているビニール袋の中身を物色した。とにかく酒類が入っている。相当な量だが、二人で呑めば一晩でさっぱり消えてしまう量だった。着替えを済ませて居間に戻ってきた捲簾は、シャツとスウェットというラフな姿になっていた。そしていつも通りつまみの類でも作るのだろう、そのままキッチンへと入っていく。それを見送ってから、天蓬はネクタイを抜き取って床に落とした。
 いつものように、こっそりと彼の“アトリエ”へ足を踏み入れる。いつも通りの少し懐かしいような匂いに目を細めた。物が多く置かれているせいで手狭に感じるその部屋には、本が積まれた机が一つに椅子が一つ、そして突き当たりにはベッドが一つだけ置かれていた。それがどんな用途で存在しているのかは何となく分かっていたため近寄り難く、暫く逡巡した後、部屋の中央近くに置かれた椅子に静かに腰を下ろした。
 彼が昔に描いた絵をこっそり勝手に見たことがある。人物画は、殆どが女性をモデルにしたものだった。そこに置かれたベッドに横たわった、裸体の女性だ。その後行為に至ったのだろうか、とそこまで考えるのは穿ち過ぎだろうが、何だかその瞬間少しだけ幻滅に似た思いを覚えたのも確かだった。ヌードだとしてもそれは芸術の一つである。それでも、自分がある程度の理想を持っていた芸術家としての彼が、一瞬像を歪めた気がしたのだ。自分勝手なことである。勝手に理想を持って神聖化して、それを歪ませられたからといって勝手に失望するのだから彼も堪ったものではないだろう。
(それでも、……何か嫌だ。気持ちが悪い)
 勝手だと言われても構わない。寧ろそれが妥当だろう。男としての彼が幾ら女性と関係を持とうが興味はないのだ。
 それでもどうか、と思ってしまうのは何故か。
 椅子に深く腰掛け、脚を組んでじっと白いシーツの掛けられたベッドを見つめた。しかし、いつ見てもそのシーツが乱された様子はない。一体いつ、使っているのだろう。ひょっとしたら、昨日かもしれない。そう思うと、居心地のいいはずのその部屋は急に自分に牙を剥き、呼吸を苦しくさせ始める。部屋を出ようか。それでもまだこうして座っていたいような気がして、まるでその椅子に身体を縛りつけられているような気分になった。
「おい」
 突然背後から声を掛けられた。その途端、呪縛が解けたように身体が楽になる。存外驚かなかった自分に内心驚きつつ、ゆっくりと振り返る。開かれたドアを背に、腕組みをした彼が少し困ったように笑ってこちらを見ていた。
「あんた、この部屋好きだなあ」
「……ええ、まあ」
 曖昧に言葉尻を濁して、天蓬は椅子から立ち上がった。そのまま彼も居間へ戻っていくのだろうと思ったが、天蓬が戸口に向かっても彼はそこから動く気配がない。訝って天蓬が僅かに不審げな顔をすると、彼は部屋の奥を指差した。その先を振り返って見ると、それは部屋の隅に乱雑に立てて並べられた沢山の古びたカンバスだった。
「あんたさ、この前勝手に昔の絵見ただろ」
「ええ。別に隠してたつもりなかったですけどね」
「だろうな、あんたがこっそり見るならもっと上手くやるだろうと思ったよ」
 そう言って笑った彼は、そのまま部屋の奥へと入っていった。そしてしゃがみ込み、乱雑に立てられたままのカンバスを手当たり次第に引っ張り出してはそれを見て顔を顰めている。何を思って彼はその絵を再び見るのだろう。その絵に封じ込められた過去の女たちを惜しんでいるのか、純粋に昔の自分の絵の腕前を評価しているのか。
「ひでえなこれは」
 彼が無造作に、しかし堂々と引っ張り出したその絵はタイミングがいいのか悪いのか、女性の絵だった。唸りながらそれを眺めている彼の後ろで天蓬は気付かれないように溜息を吐く。落胆に似たような感情が襲ってきて、何だかやりきれない気分になったのだ。
 天蓬は彼を置いて早足にその部屋を出た。そして先に居間に戻り、冷蔵庫から缶ビールを引っ張り出してプルトップを押し上げた。缶の蓋が開く音が響いた後に続いて、廊下から重い足音が居間に向かって近付いてきた。呆れ顔の彼がひょっこり顔を出して、僅かに窘めるような目をする。
「ホント勝手だよな……」
「僕のこのペースが気に入らないなら、呼ばなきゃいいじゃないですか」
 そう言って、缶を手にしたままソファに身体を埋める。ちびちびと缶の中身を口にしながら彼を見上げていると、暫く呆れたような顔をしていた彼はその後、また笑った。何故笑う、と一度聞いてみたかった。何故常日頃から面倒臭いだの扱い辛いだの言っている自分をこんなに振り回すのか、聞いてみたかった。どんな答えが返って来るのか皆目見当が付かない。全く分からないことと言うのは興味深くもあり、恐怖の対象でもあった。聞いてしまえばどうということもない答えが返って来るかもしれないのに。
 彼に関しては分からないことがあまりにも多すぎた。普段から開けっ広げで何も隠すところがないようにも思えるのに、彼の本質はまるで見えて来ないままだ。オープンであるがゆえに深入りしにくい。その快活さで周囲に見えない壁を作っている。それは周りとの諍いを起こさないための盾でもある。彼が何を考えて自分に誘いを掛けるのか、何故自分をモデルに選ぶのか。もしもモデルになったとしたら、あの絵の中の幾多の女性たちのように、呆気なく過去の人間にされてしまうのだろうか。
 皿や小鉢が次々に目の前のローテーブルに運ばれて来る。それをどこか遠いものを見るように眺めながら、両手で缶を包み込みながら息を吐いた。無理に答えを求めようとすれば疲れる。しかし答えを求めるのを忘れた振りをして生活していればいつか無理が生じてしまうだろう。いつか訊いてみなければ解決しないに違いない。どんな言葉を使って彼に訊ねたらいいだろう、と考えた。しかし直接的な言葉を使うのは躊躇われて、結局濁した言葉で彼に行間を読んで貰うほかなかった。
「……今も、ああいうことなさってるんですか」
「ああいうことって」
 覚悟をして告げた言葉に、彼は不思議そうに目を瞬かせる。先程の部屋を指差してみせると、聡い彼は早速それに思い至ったように「ああ」と声を漏らして笑い、戸惑ったように軽く頭を掻いた。あまり胸を張れることではないという自覚があるのだろう。
「今は、ないわ。そういう時間もないし、あれは単なる趣味だから」
「趣味……?」
「別にあの絵に描かれてる人全員と付き合ったわけじゃないし……言っておくが、行為に至ってもないからな」
 純粋に驚いた。するとそれがやはり表情に表れていたのか、捲簾は如何にも心外という顔をして再び頭を掻いた。少し怒っているようにも見えて、天蓬は戸惑うしかない。全く以って、その通りだと信じて疑わなかったからだ。それを突然違うと言われても、何しろ急なことで頭が付いていかないのである。
「どうもあんたが胡散臭そうな顔で俺のこと見てると思ったら……」
「いや、だってあなたのことだから当然そういうものだとばかり」
「あんたの中の俺って、どんだけ下半身が緩いんだ」
「若くて結構なんじゃないかと」
「嘘くせえ」
 怒ったように顔を顰めていた彼は、漸く表情を緩めてつまみに手を伸ばした。それを見て天蓬はほっと息を吐く。どうも、とんだ誤解をしていたようだった。彼のことだから当然あの絵は戦歴のようなもので、既に全員お手つきだとばかり思っていたのである。今になって考えると証拠もないことをそう決め付けていたことは侮辱に他ならない。なけなしの良心が痛み、小さく「すみませんでした」と口にする。驚いたように目を瞠った彼は、再び少し怒った顔をしてみせた後、笑った。いつの間にか蟠りは解けていて、その呆気なさに取り残される。
「……どうして今は、しないんですか」
 彼が面倒になったのは、恋人同士の関係のはずだ。身体関係すら結ばないただの絵描きとモデルの関係ならば面倒な問題などないだろうに、と思ってしまう。ふと、誘導尋問のようだと思った。としたら自分は一体彼に何と言わせたい? ビールの缶を傾けていた彼は、その質問に目を二、三度瞬かせた後、少しだけ目を細めて笑った。それはいつもの快活で温かいそれとは温度が違った。陽だまりのような心地の良い温かさと言うよりは、じりじりと焼かれるように熱い。
「今はあんたが欲しいから」
 僅かに薄い唇から吐き出された言葉に、思わず身体が震えそうだった。怖いのではない。寒いのでもない。彼の深く黒い眸に呆然とした自分の顔が映っている。認められなかった。こんなのは、自分のペースではない。人のペースに巻き込まれることなんて、有り得ない。
 じり、と天蓬は座ったまま後退った。彼はそれを追い詰めるでもなく静かに自分のグラスを傾けている。その余裕に、焦っているのが自分だけのようでむっとして、膝を引き寄せて抱えた。両手に力を込めると、包み込んでいたアルミ缶が音を立てて凹んだ。その音にぱっと顔を上げた彼は、手にしていたグラスを静かにテーブルに置いた。そして面白がるような目で天蓬を見上げてくる。自分の最も苦手とするその目だった。視線を合わせていられなくて自然と目を逸らすと、視界の横で彼が小さく笑った。
「何ですか」
「何か、怯えてるみたいだなあと思って」
「へえ、誰かですか」
 余裕ぶって見せれば見せるだけ逆に自分の余裕のなさが露呈する気がする。苦い思いで唇を噛み、顔を逸らすと、暫く沈黙していた彼はゆっくりと立ち上がった。その気配に思わず身体が固くなるのが分かってますます苦々しい思いが満ちる。立ち上がった彼はそのまま天蓬の座るソファに近付いてきた。天蓬の縮こまっている端とは逆の端に重みが掛かって、僅かにソファが沈み込んだ。
 何なのだろう。一体これからどうなってしまうんだ。
 右足の足首を捕らえられる。体温の高い彼の掌がぐるりと一周してしまうことに顔を顰めた。彼の気配が濃厚になってくる。逃げなければと思うと同時に、それを留めようとする感情がどこかに存在した。どちらの感情に従っていいのか分からずどうにも出来ずにいると、掌の中で変形していた缶を彼の手に攫われる。彼は酷く変形したそれに口を付け、一度傾けた。そして露わになった喉元が一度動いて、缶に残っていた液体を全て嚥下してしまった。それを呆然と見つめる中で、彼は空になった缶をテーブルに置いた。天蓬の足首はその強い手に捕らえられたままで、身動きのとりようもない。それでも、本気で抗う気があれば蹴り飛ばすなり何なり。逃げられたのだ。しかし自分は、その事実には気付かない振りをして目を逸らす。
(意図なんてない、ただの興味だ)
 それは嘘ではなかった。純粋に、彼が一体これからどうするつもりなのか知りたい、興味があった。しかしただそれだけで、本能の報せる危険を無視するなんて馬鹿げている。そもそもが昔から、危険に手を出すのが好きな子供だった。非常に聡く、そんなことをしたらどうなってしまうか分かっていても手を出さずにいられない。愚かな冒険心が人一倍旺盛だった。
 自分の顎を捉えた彼の指先は乾いてかさついていて、微かに画材の匂いがした。今までにないほど接近したその男と自分とには圧倒的な差があった。それを認めた瞬間、逃げなければという信号はぷつりと途切れた。逃げても仕方がない気がした。どうせなら、この全く底の見えない男の、出来るだけ奥深くまで知ってみたいと思った。たとえ取り返しの付かないことになろうとも構わない。そんな事態になったらなったで愚かな自分は後悔をするのだろうと分かっていたが。
 彼の乾いた唇が頬を滑って、ゆっくりと唇に辿り着く。間近に彼の強い眸があったので、何となく圧されるようにして目を瞑った。視界を閉ざすと、より一層、彼の匂いや温度が強く伝わってくるような気がした。触覚は過敏になり、舌のざらつき一つ、リアルに感じられる。
 ぴり、と痺れが走った。






2007/06/07